平成16年5月12日開設
 桜井茂峰の部屋 
MC3-20

fc2web

桜井茂峰=花爺さんのホームページ

プログラム

富士登山競走(五合目)“こだわりの32回目緩走”
八海山登山二人旅「153才」の道中記
走歴30周年・メガ200回、走行7万キロの歩み
2005秋田リゾートカップ100キロチャレンジマラソン雨中走記
暑中お見舞い申し上げます
富士登山妻と二人旅「142歳」



22年8月2日

こんにちは、毎度情報有難うございます。
 
今年は、特に暑いですね、加齢と共にまともに走れなくなり、
半分は気侭に散歩気分で歩いたり、走ったりの状態です。
 
元気な内は富士山を登ろうと・・・今年も参加しましたが、
制限時間(3時間半)には遠く及ばず4時間09分20秒で
ゴールしました。(最終は、あと二人いたようでした)
 
今回は、五合目コース参加の最高齢者と言う事で、一週間前に
毎日新聞、山梨の記者から出張訪問取材を受けました。


富士登山競走(五合目) “こだわりの32回目緩走”





   


今年も富士山5合目から涼しい便りを戴きました。(雲峰)


このページのTOPに戻る


19年11月12日

八海山登山二人旅「153才」の道中記


10月21日(日)私達の故郷、八海山「標高1776m」に二人で登山する。妻が二年越しに登って見たいと言っていたことが実現した。当日朝6時半頃、手作りの弁当を持参し車で出発した。子供の頃、小学校の遠足で麓の神社まで行った記憶はあるが、登った経験はなく登山の参考地図を頼りに現地に到着する。

当初、ロープウェーで四合目まで行く予定だったが、妻が折角だから自分の足で山道を登りたいということで、上り専用の屏風道コースに入る。妻は道端のキノコ「スギタケ」を見つけ、取りながらノンビリ楽しんでいる。やがて急坂に差し掛かり岩場は鎖に捕まっての登りになる。妻が先行しており、もう引き返す事も出来ず覚悟を決めて上っているようだ。下から付いて行くが脚を踏み外して落ちてこなければよいがとハラハラである。

 
 


岩場は適宜に爪先が掛かる個所があるので見つけて片足を掛け、片手は岩場の窪みに、他の手は鎖に捕まり、グイと体を持ち上げて慎重に登る。上るに連つれ狭い岩場の尾根で両脇は絶壁、腹這えで下を見ず何とか上った時は、正直怖かった。先行の妻も懸命に上ったと思うが凄い力があるんだなーと改めて感心した。

七〜八合目当りから周囲の紅葉が素晴らしく、遥か頂上を望むがまだまだ程遠いと一歩、一歩と進む。やがて千本檜小屋の鉄塔が見えた時はホットした。漸く到着、避難小屋の看板位置で二人の写真を撮る。小屋で話し声が聞こえるので尋ね、下山ルートと所要時間を聞き、休む間もなく下山に入る。リフトの運行は5時までのようで、とても時間には間に合わず最後まで自分達の足で集落まで下るしかないと覚悟を決める。

妻が四合目のリフト近くまで先行するが、次第に暗くなり歩く道も見え難くなって心細く、水溜りや道板がある個所は、お互いに声を掛け合って進む。この日は天気に恵まれて、6時頃には暗くなっても月明かりが林の合間から行く道を照らしてくれて二人を助けてくれた。


前日は八海山 大火渡祭(毎年10月20日開催)が行われ、麓の神社では、信者の「裸足の火渡り行事」が行われている。そして山頂「八ッ峰」に大神が祭られおり、信者は山頂をめざす。私達が下る何箇所かにご神体があり、真新しい信者の祭りごとの跡があった。通りすがりに私達を見守って下さいと手を合わせる。

やがてリフト終点の館が見え、下り道が有る筈だと探しに行く。照明が点いているので尋ねたが人影はなく別の下山道の大崎口を見つけて下る事とした。大崎口は麓の八海山神社からの上り口なので、道のりを間違えなく下れば必ず集落に着けると思い、これからは自分が先導して妻を気遣え慎重に下る。

町の明りがチラチラ見えるが未だ程遠く、辺りは真っ暗で足元が見えず遅遅として進まない。妻は下りに入ってから足腰に大分疲労を覚え遅れが目立つ。急坂での二人は、「居座り下り」、此れは腹這えの反対で下りる。尻持ちを突いて両手足を使って下りるので足元が見え、負担が少なく楽である。漸く小屋が見えてホットするが無人小屋だった。(時間は9時を回っていた)

下り道を探すが、暗く草が覆い繁り見つからない。無理をしないで今日はこの小屋「霊泉小屋」に泊ろうと二人で決める。幸い扉が開いたので先ずはゆっくり飲食する。室内を見ると毛布が4〜5枚掛かっており、地元の方が遭難救助隊として使っている小屋だった。外にはトイレもあり、毛布を借用して寝る事とし、夜明けを待って下山することとした。毛布に包まるも二人とも足の裏が冷たくなかなか寝付かない。最後は肌を触れ合って寝た。妻は疲れもあり直ぐ寝た様子だが、自分は熟睡出来ず夜が明けてしまった。

やがて明るくなり、下り道が無い筈はないと探すと、繁みから見る曲がり道が解り下山に入る。霊泉小屋の道標では大崎口入口までの行程2キロ弱とあったが、最後の下山で怪我でもしたら・・・と慎重に下ったので3時間近く掛かった。漸く八海山神社に辿り付き参拝し、大崎村に入るが、出発した駐車場までは相当な距離があり、歩くには大分時間が掛かるので、神社の社務所お尋ねてタクシーを手配して貰い自分達の車まで戻る。

帰路、湯沢駅構内の温泉に浸り、疲れた体をゆっくり癒し、夕刻6時過ぎ無事帰宅した。当初、日帰り予定が軽薄で山小屋泊りになった事を反省すれば、@出発時間が遅かった、A夜間走行の準備(電灯)が無かったことである。然し70才を過ぎた二人が、お互いに子供の頃、朝な夕なに眺めていた故郷に近い八海山に上り、素晴らしい紅葉を眺める事が出来たことは、健康を感謝すると共に忘れられない思い出となった。

八海山登山道中通過計測記録(H19.10.21〜22)

ポイント

二合目

三合目

四合目

五合目

七合目ノゾキ松 

八合目

九合目千本槍小屋 

八合目薬師岳

三合目霊泉小屋泊

二合目22日朝

一合目

時間

10.34

11.27

12.12

1.07

1.34

3.40

4.25

4.37

10.30

7.47

9.05

メモ

屏風道
コースより登る

標識で写真を撮る

急坂登りに入る

中腹位の個所

紅葉が素晴らしい

頂上は見えるが

十合目展望

下山コースに入る

寝て6時起床

大崎口コース

村が見えた



このページのTOPに戻る


19年3月9日

走歴30周年・メガ200回、走行7万キロの歩み


 S52.1月(49才)より継続して走り始める。目的は肥満解消だった。走ることは素人なので、練習日記を作り、その都度記録「走行距離、時間、体重、脈拍(前後)、感想」を記載し、体重が元に戻るまで続けていこうと決めた。最初は、500m位で息が切れてしまい、歩いて2k、3kと繋ぎ、目的の多摩湖(4キロ)まで行くことが出来た。堤防の上で一休み、朝日を浴びて心地よい汗をかいた爽快感は、今でも記憶に残る。次第に走ることが面白くなり、多摩湖往復(8k)が出来、次は下貯水池一周(13k)、その次は上貯水池(20k)と距離を延ばして走行できるようになった。

基礎体力づくり・・・走れるようになったといっても既に50才、長く続けるには基礎体力を作る事が肝心と、勤労者体力づくり教室に通う。S52.9月は、昭島の多摩スポーツ館で、翌年は東京体育館、次の年は、夢の島体育館と、仕事が終ってから通った。“石の上にも3年”と続けて解った事は、「人間の体は、鍛えれば、それなりに自分の体が答えてくれる」と体験で理解出来た。

職場の走る仲間と・・・当時は輪番勤務(4輪番)、20才も違う若い陸上部仲間とよく走った。大手町では皇居、代々木では織田フィールド、中野、田町、銀座ではビルの周辺道路のコースを決めて、昼休み、夕方にも暇を見付けてよく走った。雨で走れない日は、ビルの階段トレーニング(10階位の階段を往復)をした。職場の同年齢の同僚に「桜井さん・・・そんなに走るエネルギーがあるんなら、もっと外に使ったらどうかね・・・」などと冗談に言われたこともあった。とにかく、走ることが面白くなり、春、秋の駅伝、合宿とレース(主に千葉サンスポ、青梅等)などで仲間とよく走った。

ウオーキング・競歩で持久力を・・・トラック&ロードレースで、5〜20キロと重ねる内に、自分の体は長距離向きだと悟り、持久力を付けて、何れフルマラソンを走りたいと思うようになった。それには先ず長い距離を歩いて自信をつけようと、歩く大会に参加した。“新宿〜青梅43キロかち歩き大会”、「10k・50キロ競歩」、故郷のナイトウオーク大会(福島、只見〜60里越え新潟、広神60キロ)などに参加する。当時の記録を見ると、新宿〜青梅43キロは、6時間30〜40分前後で4回完歩(絶対に走らない)、50キロ競歩は、猛暑の中、皇居周回をひたすら10回重ねて6時間34分で完歩しており、今思うと、結構早いタイムだった。又、集大成として60才の時、ハーフトライアスロンに挑戦した。走友の自転車店でバイクを買え、自宅から前日、自転車に乗って出発、鎌倉街道〜町田街道〜藤沢と抜けて湘南海岸へ、一泊して翌日は本番で(スイム1.5k、バイク90k、ラン21k)所要時間は、8時間3分だった。終ってから横浜の妹宅で泊まり、翌日は、また自転車で鶴見川沿えに上京して我が家に帰る旅だった。3日間で200キロの行程、懐かしい思い出だった。

ロードからフルマラソンの道へ・・・フルマラソンでサブスリーを記録するには、原点の5000mで20分を切る実力がなければ成し得ない。自分は、20分の壁が破れず、15k〜30Kレースの長距離志向となり、青梅30Kを2時間30分(キロ平均5分ペース)で走る目標を立てて練習する。当時のフルマラソンは、勝田が新人の登龍門としてチャレンジする人が多く、自分は、51才の新人の意気込みで初フル(1980年)に挑戦する。目標タイムは3時間半だったが、後5キロから思うように走れず、フルマラソンの厳しさを味わった。でも、時が経つと、苦しかった事は忘れて又、フルを走りたくなり、現在まで続いている。

S62.4月(59才)走行距離累計3万キロに・・・大手町ビル勤務時代、皇居を走っている頃、グローバル協会の橋本さんと知り合い入会し、走り始めた頃からの走行距離を報告し、継続して行った。最初の目標は日本縦断3000キロだった。次の目標は1万キロで4年後達成、次の2万キロが3年後、次も3年後に3万キロに到達し、グローバルが提唱する“地球一周4万キロ”に近づいた。走り始めてから10年目で3万キロ(1年平均3000キロ)を記録した。その節目には、トロヒー(3個)を頂き走った証しとして、入賞メダルより大切な宝物である。

60才、半年のブランクからフル百へ入会・・・現役は56才で勇退、休む事なく関連会社で働く。会社では、当時の仲間とも交流を続けて走り、現在に至っているが、60才の時、仕事の切り替えで忙しく、走れない状態が半年位続いた事があった。フルは、それまで3時間半前後で20回完走の実績があるので、少しぐらい休んでも平気だと、軽く考えていた。61歳の元旦フルで、久し振りに走ったが、後半歩く始末で、5時間近く掛かってしまった。このまま続くと駄目になると思い、フル百楽走会に入会する。(当時は、入会資格がフル20回完走だった)その時は、フル百回などは夢の又夢で、仲間に加われば刺激を受けて、元のような走りになりたいと必死だった。以後、暫く4時間台が続いたが、フルを継続する内に、再度3時間台で走れるようになった。

ウルトラマラソン&山岳レースの魅力に・・・フル百入会後は、夏季でもフルを走り年間回数の倍増してきた。かねてから、フルの倍以上の100キロを走り切れば、その又、倍の200キロもある故郷(新潟)へも、自分の脚で行けるのでは・・・と思いが馳せる。64才の時、それなりに事前練習を重ねて9月の秋田100キロにエントリーし、初完走することが出来た。その体験が、1年後の第1回日本山岳耐久「24H」レース(71.5K)と繋ぎ、完走する。この大会は、奥多摩の23の山々を24時間制限で、夜間にわたり駆け巡る過酷なレースで、完走した時の感動は格別なものがあった。第1回の結果で、60才1位、最高齢で2冠の受賞を受けたのがキッカケとなり、以後、7回連続完走、最高齢5回の受賞となった。又、夏場の暑い季節は、富士登山競走(5合目)、奥武蔵(5回)、夜叉が池、富士五湖、サロマ、えちごくびき野・・と50キロ以上のウルトラマラソンなどに、はまってしまった。これら、ウルトラ・山岳マラソンの中で、特に長距離だった第1回カモシカマラソン(秩父〜長野小諸113キロ「24時間」大会は、山越えして千曲川沿いに夜間走行するコースで、忘れられない想いでとなった。今日まで、ウルトラ22回完走を機に、フルマラソン178回を加えて、メガマラソン200回完走としました。

ケガ・病気のアクシデント・・・山岳マラソンが好きで、毎年、近間のみたけ山山岳マラソン(15K)に参加しているが、何年か前、走行途中で木の根っこに足を引っ掛け転倒、右手薬指を骨折、自分で応急措置したが、手当てが遅れたせいもあり、回復したが関節が若干、曲がったままである。又、走り始めてから数年後、年1回の定期検診では、心臓肥大、不整脈あり、の要注意の診断を受けていたが、走る人にはよくあることだと、あまり気にせず経過したが、73歳春の定期検診で、不整脈悪化の診断を受け、循環器専門の病院(関東逓信病院)で暫く検診を受ける。その内、24時間の心電図検査で異常

(脈拍停止状態が続いた)が出た。(自分では自覚症状なし)不整脈は、薬では治り難いので手術を勧められ、入院して手術を受け成功した。然し脈拍の機能は不安定で、今後、走り続けるならペースメーカー植え込みが安全だと言われ、ペースメーカーを植え込みする事にした。2週間の入院手術で退院後は、歩きから徐々に馴らし、3ヶ月後から走れるようになった。手術は、百パーセント成功の答えは無いので不安だったが、今では、安心して走れるので良かったと思っている。

72才5月、東村山〜新潟へ遠足マラソン(235キロ)・・・かねて念願だった故郷への走行が、地元走友のサポートを得て実行することが出来た。これを機に、自分のマラソン記録を主に、ホームページを立ち上げる。関心のある方は、下記のアドレスに訪問頂ければ幸いです。

 30周年は、長くて短かったようなマラソン人生ですが、今でも元気に走り続けられる事は、多くの走友仲間と家族のサポートのお陰と感謝しています。100才までとは言わないが、生涯、元気で走り続けたいと念願しております。

HPアドレス;http://members.jcom.home.ne.jp/sige-sakurai/


このページのTOPに戻る


17年10月4日

2005秋田リゾートカップ100キロチャレンジマラソン雨中走記


 喜寿を記念して4回目の秋田へ

 
9月24日(土)新幹線特急「こまち」で、地元走友の高木氏、神奈川在住の妹(64歳)と出発する。秋田は7年振りで前回は、第10回記念大会で70歳の区切りと思い参加したが、61Kでリタイヤとなり、もう100キロは自分には無理だと解かった。今回は、開催日が誕生日と喜寿が重なり、長寿に感謝の参加とした。東京は雨だったが東北は晴れで、稲穂が垂れる田園風景と遠くの山並みを眺めながら秋田に着く。前夜祭では、最高齢チャレンジ賞を受賞、会場の皆様に祝福される。

 
花街道一路、北緯40度に向かって兄妹(141歳)が雨中走

 宿では温泉に寛ぎ、9時に寝て3時半に起床の予定で床につく。目が覚めたら外は暗いが雨模様、暑さには苦手だが、雨はむしろ風が無かれば歓迎で、カッパ着用の身支度で傘を差してスタート会場へ。妹とは先ず50k関門のクリヤが目標、その後は北緯40度を潜れれば満足だと、各エイドのタイムテーブルを設定してスタートする。(キロ8分前後のペースで50kまでの所要時間が6時間半予定)

 夫々自分のペースで行こうと別々のスタートだが、暫くして合流し10K程並走したが間もなく妹に放され、
兄は、おいてきぼりになった。この妹とは13歳違いで、自分は14歳で上京したので子供の時の記憶は無い。当時の農家は長男以外は口減らしで家を出て働くのが普通で、お互い別れ離れとなったが、自分がマラソンを始めた頃の千葉サンスポで出会い、彼女は兄に刺激されて走るようになった。各地の大会では、お互い示し合わせていないが、偶然の出会いがよくある。自分は無口の方だが妹はよく喋るタイプで、クラブの仲間には兄の自慢話しに花を咲かしているようだ。

 
夫々の出会い、思いでゴールを目指す

 20K前後からボツボツ歩いたり立ち止まって屈伸している若者を見かける。若さだけでは長距離は持たない。ゼッケン777番の方と出会い声をかける。(自分は77歳なので交換して貰いたいくらいだと・・)その方は、昨年はペースを失敗しゴール出来なかったので、今回はキロ8分弱の平均ペースを保ってゴールするんだと。(後で妹から聞いた話だが、この方と一緒になり第3関門「64、4K」が見える手前で制限時間切れ「9時間」となり、収容車に乗せられた。目前の北緯40度のアーチを潜りたいと言ったが駄目だった。)

 その後の出会いは山形市の60才代の方、可愛い孫を不測の交通事故で亡くし、それが元で長男夫婦も家を出てしまった。マラソンどころではなくなったが、ようやくこの大会で走れるようになったなどなど・・・その後前後して走ったり歩いたりの連続となり、後方からお経を唱えながら走っている声が聞こえて来たが、孫の供養しながらの行脚だろうか。自分は60Kの手前、妹は64K手前で時間切れ(スタート後9時間で第3関門通過出来ず)で
収容車に乗る。

 
雨の中、沿道の声援、励ましを受けながら

 雨降りが続いたが、風がなく、さして気にならない。道路脇の花、田園、霞みの掛かった山並みなど眺めながらの走行で目を和ませてくれる。村の中心部に通りかかると老若男女が並んで手差し伸べて声援してくれ、タッチで答えて元気を貰う。山間に差し掛かると寒さも加わり農家の庭先で「寒いのにご苦労さん・・風邪を引かんでくらっしゃれ・・」と暖かい眼差しが。時には、ランシャツを見て、「東村山頑張れ」と声がかかる。又、前後に誰も見えなくなった坂の上では、“おじさん年は幾つだね・・”今日77になったよー、と答えると「ホー」と驚きの声があった。

 
ゴールでは大太鼓の響き、後夜祭では美酒を

 収容車でのゴールとなったが、街の銭湯まで車の送迎を受け、風呂で寛ぎ、ゴール会場でビール、そばなどのもてなしを受ける。美味いビールを飲みながら、11年前の終了間際の暗いなか、あの大太鼓の響きを聞き、感動のゴールしたことが頭をよぎる。リタイヤ、完走者の交流が続く中、閉会式となり主催者の挨拶から祝酒(爛漫)の鏡開きとなった。枡酒を美味しく頂き無事閉会となった。今回は、疲れ半分、満足度も半分となったが、
次回は50キロで完走したいものだ。(妹のゼッケン番号は、奇しくも11年前の兄の611と同じ番号)


 
↑左 前夜祭で特別賞「最高齢チャレンジ賞」   右 妹と
 


このページのTOPに戻る


16年7月24日

葉書表  葉書裏


 ★ 富士登山連続参加二十七年道は変われど高さ変わらず

 茂峰さんから毎年戴く暑中見舞いは、富士登山競走に参加した五合目からです。五合目の簡易郵便局のスタンプが押されています。上記の歌に添えて、「半世紀前になるが、地下足袋、ゲートル巻きで、六根清浄唱えて登った頃が懐かしい」とあり、今は、中の茶屋まで舗装道路の一本道、馬返しまで車で行ける、馬返しからは所々、階段や石畳が設置され、走りづらくなった。と書かれています。

 葉書は初めから用意して行き、休憩所でビールを飲みながら一言メモを書き、郵便局のスタンプを押し、ポストに入れる訳ですが、何とも奥ゆかしいことで、私も登山競走に参加した折りは見習って真似していました。茂峰さんにはこれから何年も山からの便りをいただきたいものです。(雲峰記)


このページのTOPに戻る


5月12日

富士登山妻と二人旅「142歳」


中の茶屋 平成14年6月24日(月)早朝、5時半自宅を車で出発、中の茶屋駐車、身支度して8時出発する。目的は、妻が4年前、私の登山競走応援で同行し、浅間神社から馬返しまで歩いて応援してくれたことがあり、今回、五合目まで一緒に歩いて往復したいとの希望があり、日帰りで計画し天候のよい日を選んで実現した。

馬返し 中の茶屋の登山案内で、馬返しまで3時間40分とあり、五合目まで約4時間の目標で登る。道のりは馬返しまで4Kあるが、二十数回登っているので頭に刻まれている。天気は予報どおり曇りで暑くなく、寒くなく、風も無く穏やかな日和で、野鳥のさえずりや、道端の草木を観賞しながら、ゆるやかな一本道を登る。

登るにつれ、勾配がつき、汗が出るようになり、妻は厚着をさせられたと文句を言えながら、上着を脱ぎ後について来る。やがて馬返しが見え、9時7分到着。途中、出会う人無し。標高:1450m

一合目 馬返しからは、その昔、馬を引き返したその名のとおり、勾配が急坂となる。昨年と登り道の様子が変わり、流水対策の為の工事か、道幅を広くし、随所に砕石桝を設けており、垂木を組んだ階段も施行されていた。登山者にも気を配った処置と思うが、走るにはチョット抵抗がありそうだ。

登山競走では、ついぞ回りの景色など見る余裕も無く、ただ、ひたすら前者の足跡を追いかけて登るのみで、途中の遺跡など目に留めなかった。今回、歩くことにより、一合目には海抜五千三十五尺の手彫りの石塔がり、神社の館に、昔の絵画などを見ることが出来、新発見だった。標高:1520m

二合目 この辺の登山道は両側が削り取られ、真中を掘って大きな木枠を組み込み、砕石を入れている。又、その前には木枠のみで、上流からの鉄砲水など、此処で一旦留めて、砕石に沁み込ませる算段ではなかろうか。両脇の大木の根っこは、土を抉り取られ、根の先っぽで辛うじて支えている無残な姿を見て、土留めなどで補修してもらいたいと思う。

妻は、歩きにくいと言って一時、林の中を歩いた。この辺は、空が見えない程の見事な大木があり、苔が生えて自然の年輪の偉大さを感じる。

二合目到着は、9時54分。一息入れる。古い館の跡があり、慶長十七年建立で、御宝浅間神社と記されていた。横手は、チョットした広場で日当たりもよく、黄色い草花が見事だった。まだ寒さは感じられなかった。標高:1700m

三合目 到着が10時36分。三軒茶屋と書かれた鉄製の立て看板は、その昔、三軒の茶屋があったのだろうか、見晴し茶屋の標識は、中には入れないが、その後の建物で、現在に残されたものと思う。此処までは、随所に石畳が40mの坂道に続き、垂木の階段が何十段とあり、結構厳しい登りである。それでも高山植物や小さな草花が目を癒し、楽しませてくれた。

若者二人の男女がTシャツ姿の軽装で、五合目から降りて来たと、元気な声を掛けてくれ、爺、婆に元気を与えてくれた。 標高:1840m、あと500m登れば五合目だ。

 五合目御座石 四合目あたりは、標高2000mとなり肌寒く感じる。酸素も希薄となり息苦しく、登りがきつくなる。通常平地なら20.9%はある酸素が、2000mの高地では16%になるという。いわゆる高山病で、メマイ、ハキケになる人が多いという。鉄のクサリもある四合目付近の難所で、妻が来る左側には石楠花「シャクナゲ」が見られる。

妻は珍しい高山植物を観賞しながら、ゆっくり登っている。漸く五合目御座石に到着。古い建物や石標は、過って富士講の信者たちが、ひたむきに、1歩一歩山頂めざした道が偲ばれる。標高:2250m

  五合目吉田口 五合目の小屋からの道のりは、あまり変わっていない。林の中に石楠花や小さな松の子の木が見られる。時期を変えて登山すれば、又、違った高山植物の生態が見られるのではないだろうか。漸く長い林のトンネルを抜けて、視界がきく道路(五合目休憩所に続く横断道路)にでる。工事中で立派なコンクリート道路である。登山競走の山頂コースは、此処から佐藤小屋を経て、六合目と続く過酷な登りだが、五合目コースは、ゴール間じかでホットするところである。
 この日は、佐藤小屋へ登って小休止。12時到着(所要4時間) 標高:2305mの標識あり

 五合目横断道路の展望 登山競走では、ゴールした後、休憩所へ続く道路際で、着替えの荷物を受け取り、市役所までの輸送バスに乗るが、この日は、時間の余裕もあり、予定どおり休憩所で一休みして下山する事とした。妻は、腹が減ったと、ニギリ飯をたべている内、視界はよくなかったが、写真を撮った。頂上を撮り、雲海で見えないが、可憐な白い草花が、至る所に生えていた。

 下界の写真は、刻一刻と変わる雲海を見ながら撮ったものである。 この日は週明けとあって、登山者は、殆ど無く、歩いている人は車で五合目まで来た観光者のようで、外人が多く、我々、老夫婦登山姿を見て、異様に見えたのではなかろうか。

 1時前に休憩所へ着き昼食。妻は、此処まで来た証拠にと、土産物を買う。

  吉田口より下山 休息後、五合目吉田口より2時頃から下山し、夕方5時、無事に中の茶屋に到着する。下山道では、高山植物をじっくり観察し、馬返しからの長い下り道は、妻の方が、足取りは確かだった。帰路、勝山の温泉(湯の園温泉)まで車を伸ばし、体を癒して帰宅する。

 



このページのTOPに戻る


「雲峰のマラソンの歌」トップページに戻る 峰倶楽部に戻る メンバー紹介に戻る 更新履歴
inserted by FC2 system