平成14年12月4日開設
  
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2013・ 大村湾一周 ファイナル



平成25年2月22日

2013・ 大村湾一周 ファイナル


闇の中で突然大きな衝撃を受け、跳ね返される様に1段低い車道に転げ落ちた。
一体何が起こったのか?唸りながら立ち上がった。

歩道の傍らに設置された高さ60cm程のコンクリートの花壇。
外灯もない真っ暗な道、走ったまま左手に持った地図を照らしながら、それに気付かずに激突したようだ。

ああ、とんでもない事をした。骨は大丈夫だろうか?痛みよりその事が心配だ。
去年受けた骨密度検査で、骨粗鬆症の疑いがあると診断され、治療を受けている身には、転倒程恐ろしいものは無い。ゆっくり歩いて見る。痛みはあるものの歩けそうだ。

今回がファイナルとなる「大村湾一周ウルトラマラニック」。160kmという距離は、さくら道、琵琶湖、佐渡島に比べたらここ数年夜通しランから遠のいている私にも、まだなんとか走れそうな距離だ。予想タイムを27時間と申告して10時のスタートで申し込む。

2月9日(土)
スタート会場の嬉野温泉「旅館松園」には9時少し前に着く。既に多くのランナーが大広間で待機していた。大阪の知り合いのグループが本コースより遠まわりにはなるが、旧道(長崎街道)を行く為に主催者の許可を得て、9時半にスタートすると言う。  
面白そうなので仲間に入れて貰い付いて行く。
本コースは長崎までは国道34号線が基本だが、旧道はのどかな畑や棚田のあぜ道や民家の庭先を抜けてキリシタンに関する石碑や宿場の名残を見ながら進んだ。

だが暫らくして、このまま付いて行って良いのか?という疑問が湧いてきた。
大会本部からの地図の到着を今か今かと待ち、私は今回自力で走る覚悟で臨むべく、時間をかけて地図を丹念にチェックし、注意箇所を地図上に転写して10km毎に通過予定時間を書き込んで万全の構えでやって来たのに。

千綿宿を過ぎた辺りで一人になった。
40km〜120kmの区間は10kmおきにエイドがあると聞いていたが、実際には16時スタートのランナーを見送ってからエイド班が移動するらしく、40kmと50kmにはエイドは未だ出来てなかったが、この辺りは至る所にコンビニがあるので不自由は無かった。

コースには高速道路やインターが多く、そこを迂回するのが少し気掛かりだったが、明るい時間帯に通過できたのは幸いだった。
多良見インターを過ぎた辺りにガラス張りのショップが見えて、何人かのランナーが中で何やら食べていた。フルーツゼリーで有名な「たらみ」とはこの辺りの地名だった事を知る。入って食べてみたい気もしたが、足を止める気にもなれずにそのまま進む。明るいうちに出来るだけ進んでおきたいと思った。

60kmのエイドでは熱々のおでんを戴く。おにぎりも食べてリュックに点滅ライトを装着する。これから長い夜を徹して走らなければならない。
新日見トンネルを抜けるといよいよ長崎の市街へと下って行く。突然夜空に円盤が飛んだと思ったら気球の様だ。これも「長崎ランタン祭り」の一環だろう。
中国の旧正月に当たる今、祭りが今日からスタートするのだ。眼鏡橋でもイベントがあるようだ。ここからそう遠くは無い筈だが、込み入った道なのでここでコースをそれたら戻るのに苦労するだろう。迷子になるのを恐れて祭り見物は諦めた。

70kmの平和記念公園辺りからは3人の道連れが出来、中間エイドの公民館まで前後して走り一緒に公民館を探した。
地図によるとY字路で右に進むようだが、交差点の名前が乗ってない。
足の進むスピードは落ちているのに地図を見る目はイーブンペースで進んでいる為、感覚に誤差が生じる。Y字路がある度に此処かも知れないと4人で意見交換をした。どちらにしろY字路は右に進むのだから、間違えては無い筈だ。公民館への曲がり角には主催者のS藤さんが待機してランナーを誘導してくれていた。
この寒空にどれだけの長い時間待っていてくれたのだろうか。

公民館に入り温かいお粥を戴く。すっかりリラックスして長い休養を取っている人や、リタイヤしたのか毛布にくるまって寝ている人も居た。暖かくて長居をすると出るのが辛くなるので、20分程でスタートした。
待っていれば一緒に出て行く人もいただろうが、あえて一人で出る事にした。

7km程も進んだ頃だろうか、闇夜の衝突が起こったのは。
打撲の痛みに耐えて暫らくは歩いた。やがて「琴海パーキング3km」の看板が目に留まった。そこまで行けば、このまま走れるか、リタイヤすべきかの判断が付くだろう。

2月10日(日)
幸いな事に痛みは疲労の陰に身を潜め、このままレースを続行する事となった。
琴海パーキングのエイドも寒く、気温は0.8度だと言うが日付も変わり、これからもっと下がるのだろう。

西海橋のエイドには3人のランナーがそれぞれに入って来て、又それぞれ出て行った。
夜明け少し前、ほんの僅かに東の空が白んで来てライトが無くとも走れる様になった。
ここが西海橋か。毎年強風に悩まされる場所だと聞いたが今年は穏やかだ。
左手には新西海橋の大きなアーチが平行して見える。この辺りは渦潮の起こる場所らしく、今の時期は午前8〜10時頃が大潮の為大いに期待できると案内にあったが、空が白んで来たとはいえ覗いて見たが海はただの暗闇だった。

注意箇所の指方町の交差点を右折すると前方にハウステンボスが見えて来る。
此処はかつて娘がチュウリップ祭りのイベントに参加した事があったので、それを見に来た事がある。オランダ色溢れるパラダイスだ。
ハウステンボス駅前に最後のエイドがあり、エネルギーを補給した後に、大会側の案内にあったハウステンボスのチョコレート祭りを期待して駅の売店に行っては見たが、朝の7時ではまだ売店のシャッターは閉じたままで、チョコレートの影も形もない。せっかくなのでお土産にと思ったが空振りだ。

道はダラダラとした長い上りが続き、夜間の緊張から解放された途端、疲労困憊で走る気力が全くない。誰にも追い付かず、追い付いて来る人も居ない。こんなにのんびり歩いていると言うのに。皆同じように疲れているのだろう。
しばらくすると、やけに元気な足取りで近づいてくるランナーがいた。名前を呼ばれて振り返るとO橋さんだった。確か彼は16時スタートの筈。私より6時間以上遅くスタートしたのに、「後16km位だからね」と言い残し軽々とした足取りで去って行った。その16kmは果てしなく遠い16kmだった。

ようやく江頭の交差点に戻って来た。後は昨日来た道を嬉野温泉まで国道34号線で戻るだけだ。昨日は旧道ののどかな道を来たが、今日は国道を行く。長い上りの俵坂峠は長崎と佐賀の県境だ。
嬉野の街に入り、バスセンターの前を通りゴールの旅館松園には正午過ぎに到着。

嬉野温泉は日本一の美肌の湯だそうで、かけ流しのぬるりとしたお湯は温泉マニアとは言えない私だが、成る程!と感じる良いお湯だった。

17時30分からの懇親会では今回が最後になる事への感謝と共に、継続して欲しいとの要望が多く聞かれた。もし次があるならば、時間を一杯に使い長崎のランタン祭、西海橋の渦潮、ハウステンボスのチョコレート祭など、今回は見逃した所をゆっくり楽しみながら走りたいものだ。

2月11日(月)
朝食後それぞれの時間でランナーは帰路に着く。
私は大阪のチームと一緒のバスで武雄温泉駅に向かう。彼等は博多から新幹線に乗ると言う。
私はアフターレースに「吉野ヶ里歴史公園」を選び、吉野ヶ里公園駅で下車した。

毎年8月の原爆記念日に実施している「広島長崎リレーマラソン」は私達「チーム絆」も今年は4回目の参加を予定している。8月6日の広島に原爆の投下された時刻に黙祷をして、その後リレーで繋ぎ9日の長崎に原爆が投下された時刻までに平和公園にゴールする。このリレーの途中で通るのが、「吉野ヶ里歴史公園」だがリレーの時は此処を通過する時間帯が早い上に、次のリレー場所に移動しなければならない為、中に入れず横目で眺めていた場所だ。

この駅はリレーの中継に使った事はないが、隣駅の神埼駅と良く似た作りをしている。
町のコミュニティホールが併設されていて、まだ新しい造りの駅だ。歴史公園の開業に伴って出来た駅だろうか。北口からは遊歩道がそのまま公園入口まで延びていた。

工業団地の予定地だったと言うこの地は発掘する以前から、多くの土器の破片などが畑等から見つかっていたと言う。古代の遺跡には似つかわしくない様な近代的な建物の入場口を出て田手川を渡ると、其処は弥生時代の入口だ。

X字型に深く掘られた外環壕と呼ばれる防御用の壕と、逆茂木(さかもぎ)と言われる杭の先を尖らせた城柵で敵の侵入を防いでいたという環壕集落。いつの時代にも国を攻めるという行為はあったのだと知らされる。

弥生時代に戻って火起こしや布作り等の体験コーナーもあり、祝日のせいか多くの子供たちが昔の暮らしぶりを体験していた。

北の方角には国を司る重要な施設を配し、南には農業に従事する村があり、北は上位で南が下位という古代中国の考え方に影響を受けて作られたようだ。
北墳丘墓の裏手に回ると入口があり、中に入った途端湿った土の匂いがして、発掘された墓の様子がそのままガラス張りの下に保存されていた。
遺体は甕棺に納めて埋葬され、こうした埋葬方法は佐賀や福岡などでの特徴的な方法の様だ。

寒さも緩み、今日はのどかな散策日和だ。北の方角に見えるあの山波は弥生の時代から変わらずにあったのだろう。卑弥呼も同じ様に眺めていたのだろうか。筋肉痛と打撲のダブルの痛みに煩わされながらも、しばし古代の風に吹かれて卑弥呼を気取ってみた。

帰路は鳥栖に途中下車し、「広島長崎リレーマラソン」の複雑な区間のコースの下見をしてから空港に行く。今回の大村湾はリレーマラソンと重複するコースもあり、場所によってはリレーの時とは別の時間帯に走れた事は最大の収穫だった。


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