菅原 強
EPー1

2度目のトランス・ヨーロッパ・フットレース2009 EP−2

fc2web

平成15年10月8日

64日間完走記


 「トランスヨーロッパ・フットレース2003」はリスボン(ポルトガル)からモスクワ(ロシア)まで、欧州大陸5,036km64日間連続全く休養日無しで走破する国際レースだ。44名のランナーがリスボンのベレンの塔を419日にスタート、ポルトガル→スペイン→フランス→ベルギー→ドイツ→ポーランド→ベラルーシ→ロシアと8ヶ国を移動して621日にモスクワ市内の戦勝記念公園に到着した。全ステージを完走したのは22名(車椅子ランナー1名含む)であった。日本からは10名が参加うち5名が全ステージ完走したが、私は幸いその5名の中に入ることが出来たが、なぜ私ごときスピードもスタミナも実績も全く無い59歳のおじさんランナーがこのような過酷なレースを完走出来たのだろうか?

走り始めたきっかけは40才代前半の男の厄年、通勤電車の吊革につかまっても一駅と持たず腰が痛くなる。これは絶対どこか骨の異常が発生したに違いないと思わせる痛さであった。病院に行き診てもらったが異常なし。先生の診断は簡単明瞭「40過ぎて筋肉が衰え骨に負担がかかったのでしょう。腹筋・背筋など筋肉を鍛える運動をするように。走ることもいいですね。」と言われた。当時は会社の仕事も忙しく自分がやらねば誰がやるとの意気込みで時間外や泊り込みも日常的にこなしており、当然気分転換と称しての酒場通いも多く体重も70kg近く、寝ている時に鼻血を出すこともしばしばで思えば不健康な生活であった。会社の同僚がランナーズを購入していたが、この当時の印象はなんで走ることだけのために月刊誌があるのだろうと不思議に思った記憶がある。昼休みに汗かきながら走ることを、なんて無駄なことをしているのかという風にしか感じていなかった。走り始めてはみたものの、電柱1本おきに走り歩きで数10メートルしか続かない。情けないがこれが現実。それでも何日か続けていたら少しずつ距離が伸びていくのがわかり嬉しくなっていく。最初のレースは3.5kmの会社健保の増健マラソン、それから10km20kmと3年間は最長でハーフまでの大会に何度か参加するようになった。思い出深いのは1988年の坂戸チャリティマラソンへ会社の同僚数名と参加、若いみんなにひけを取らずに走れて気分よくゴール、その後のビールの美味かったこと。この辺から病みつきになり休日毎に近隣の大会に参加するようになっていった。

初フルは1991年のつくばマラソン。目標にしていたサブ4を達成して気分良くこの年にはホノルルまで出かけていった。参加して気に入ったのがクロスカントリー等高原や山林で適度な高低差と景色が良いところを走れる大会だった。初ウルトラは1992年の福島市で開催されたパノラママラソン(67km)で高低差1,550mの磐梯吾妻スカイラインを一気に巡る雄大なコース。今も磐梯吾妻スカイラインウルトラマラソン(70km)として続いているお薦めのレースだ。このレースに参加したことがそれからのウルトラへののめり込みやジャーニーラン大好きに繋がったように思っている。初ステージランは1996年夏、塩の道(秋葉街道+北国街道)ジャーニーラン6日間405km。この南アルプスを遥かに望みながら旧道を探索する初めての経験が強烈な印象を受ける楽しい旅であったことから、以来ジャーニーラン(走り旅)の虜になり年末年始の東海道五十三次遠足の常連メンバーとなってしまった。ヨーロッパへは東海道の友人の多くがランアクロスアメリカ2002に参加したことが刺激となっていたことと、今回参加しないときっと後で後悔するだろうなあと思い参加を決めた。

参加を決意した20028月、このままでは(今の練習状態では)完走は出来ないだろうと考え、練習に通勤ランを取り入れさらに土日に長距離をこなすことで走行距離が飛躍的に伸び、2003年3月までの8ヶ月間の月間平均が593kmと自分でも予想外の練習をこなすことが出来た。より大きな目的を持つことが自分を奮起させるものだと実感できた8ヶ月であった。体重は56`減り55`まで下がって、ひさしぶりに会う友人からはやせ過ぎではと心配されるほどであった。練習はまずまずとして進まないのが旅の準備。海外旅行経験はホノルルとサイパン、済州島の3回だけ、長期滞在はもちろん皆無でなにをどう準備すればよいのか全くわからない。そこでRAAの経験者や日本のコーディネーター井上明宏さん達と連絡をとり色々と教えていただいて何とか準備を進めることができた。

レースは毎日午前430分前後に起床し5時頃から朝食をとり、6時スタートと7時スタートの2グループに分かれて走る。私はもちろん全ステージとも遅いランナーグループの6時スタートであった。64ステージの1日平均距離は79kmだが90km以上の日が12日、80km90kmの日が22日もあり最長は99.6kmもあった。(最短は最終日の9.6km)時速6.0kmの制限タイムは私が走ったステージレースの最速値である。(東海道五十三次は時速5.5km程度である。)約10km毎にエイドがあり携帯する荷物は雨具や小さなボトル1本と僅かな非常食程度で良いが、あまり遅くなると夕食にあり付けないことや万一のトラブル発生の恐れもあり、エイドでの補給やトイレ時以外は平均時速7.0km以上で走り続ける毎日であった。コースは道路上にチョークで矢印が表示され、さらは交通標識のポール等にオレンジ色に黒で矢印が印刷してあるステッカーが貼られている。これを見逃さず正しいルートを走らないといけないが、場所によってはかなり長い区間表示が無かったりして不安になってしまうことがしばしばであった。前半の3週間ポルトガル・スペインとフランス前半は天候も体調もまずまずで気分良く走れたが、パリを目前にした22日目に突然左胸に痛みが発生した。以前に三浦マラソンで転倒し肋骨を骨折したことがあり、その部分(?)が疲労でヒビが発生したようだった。途中の薬局でエキスパンドテープを買いテーピングしその日は時間ギリギリでゴール出来た。フランスに入ってからエイドに牛乳が出るようになっていたので、それからの水分補給はもっぱらミルクとしてカルシュームを摂取、夕食に出たピザの空き箱ダンボールで簡易ギブスを作り当てて走った。これが良かったのか痛みがひどくならず10日程でおさまった。続いて右足首が腫れてゴール後のアイシングもあまり効かず辛かったが、時速6.5km程度で走れていたので粘って最下位グループでの走りが10日程続いた。痛い時は「麻痺しろ・無視しろ・気にするな」そしてつらくて弱気になった時は「あせるな・あわてるな・あきらめるな」終盤完走が見えてきた時は「転ぶな・無理するな・怪我するな」と唱えながら走り続けた。つらい時に頼りになったのが物心両面で支えてくれたのが日本人の仲間で、数少ない日本食や医薬品を自分用しか持って来てないのに分けてくれたり、ピンチの場合はそれとなく気遣って声をかけてくれた。また、わざわざ遠い日本から応援に来てくれて朝食用のおにぎりやエイドで日本食を差し入れしてくれた沖山健二さん・関屋良一さん・岩田智さん・馬杉裕子さんやフランス在住の有田せいぎさんと一緒にかけつけてくれた臼田さんご夫妻、皆さまからはとても大きなパワーと共に安堵感というか安らぎをいただきました。応援がこんなに嬉しく支えになるものだとは、異国で長期間つらい経験を過ごしてみなければわからなかったことでした。

他に困ったのは食事が思うように食べられなかったことで、毎朝堅いパンにサラミとチーズでは日本人はパワーが発揮出来ず、後半は日本食が恋しくて恋しくてたまらなかった。泊まりは体育館が殆どでマットを敷いた上に寝袋泊まりで、シャワーも旧い施設が多かったので温水が出れば大喜び、旧共産圏ではトイレを含めかなり不便な思いをした。当日に宿泊場所が変更になったり走行キロ数が数キロ増減するなど、予想を越える出来事も多く戸惑いも多かったが総じて主催者側は良くやってくれたと感謝している。

私が全ステージ完走出来たのは元々スピードが無くユックリしか走れないので、疲労が出てない前半からスロ−ペースで行ったこと。中盤に幾つか故障が発生して最下位でのユックリ走りが続いたが、結果的にこれが疲労を抑え後半に気持ち良く走れることに繋がったこと。つらい時に一緒に走った仲間が励まし助けてくれたこと。そして日本からも含め多くの皆さまからの声援をいただいたからです。超ロングステージレースはユックリ走るにこしたことはないことがわかったのと、雄大なヨーロッパ大陸を横断出来た満足感・達成感が今回の収穫でした。













奥の細道探訪マラニックに戻る JP−1

「雲峰のマラソンの歌」トップページに戻る 感動の手記トップぺージに戻る 更新履歴

inserted by FC2 system