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プログラム P-9 2010年版(平成22年編)

10.10.31 Athens Classic Marathon

10.07.02−03 Lapland 100K
10.04.25−05.01 Australian 250K
10.06.05. Spitsbergen Marathon
10.02.27 Sequoia 50K
09・12・19−10・01.04 Patagonia走り旅



皆さんの家「豊心庵」
平成22年12月14日掲載

10.10.31 Athens Classic Marathon


朝7時に食堂に集まることになっていた。僕は食べ方が遅いので、6時半頃から食べだし、皆が来る頃には食事は終えていた。ジュース、パン、セリアル、ゆで卵、ハム、チーズの簡単な食事の後、コーヒーも飲んだ。ユックリと歯も磨いて、出発を待つ。レースの朝はゆとりがあった方が良い。

昨夜はレースのスタート地点の町MarathonのEuro Homeと称するモーテルに7-8人の仲間と泊まって居た。アメリカのモーテルの部屋も可也広いが、其れより更に広くベッドが3つある大きな部屋に一人泊まる。どのベッドに寝ようか贅沢な悩みも出て来る。これらの予約は友達のDrossosとTessieが全て行って呉れていた。其の上宿泊代の49Euroも受け取ろうとしない。

スタート地点までは6-7キロあり、其処までは宿の車で送ってもらう。会場の近くになると、ランナーで満員のバスで道路は渋滞している。主としてアテネ市内の3箇所から大会当局が出しているバスだ。1万人以上の人間を限られた時間で搬送するのは大変なことなのだ。会場から300メートルほどの所で車を降り、歩いて行く。途中で大きい透明なプラスチック袋を渡される。体の保温用である。会場からは軽快な音楽が聞えて来る。余り中まで行かず、空いている草地ので、最終的な出走準備をする。今まで着ていた物は当局が用意した袋に入れ、袋に自分の番号を貼り付け、其の当該番号の表示がしてあるトラックに預ける。この段階で仲間とは別れる。各々番号により、スタートブロックが異なるからだ。

時間にゆとりがあるので最後尾まで行ってみる。スタート地点は白の大理石が敷詰められた立派な路面で、出走方向に下がっている。途中にデジタルの表示計があり、気温13.5度、湿度67%と出ている。雲ひとつ無い晴天だ。日中気温が上がれば湿度は下がるので、走る条件としてはそれ程悪くは成らないと思う。風は微風で袋を被っていれば寒くは無い。緩やかな坂の頂上には石のアーチがある。其の奥につい最近公開されたピカピカに輝くオブジェがある。台座は黒の大理石、オブジェはステンレス製のようだ。一対の螺旋状をしており、空に舞い上がる躍動感を感じる。“Hermesの精神”(また魂)と呼ばれる作品で、New Yorkを活躍の拠点としている日本人の作品である。ペルシャの襲撃をこの地Marathonで撃退し、伝令の使者がアテネに戦勝の報を齎し、そのまま息絶えたとされる話しは紀元前490年の昔である。其の時から今年は2500年に当たり、MarathonやAthensの人々に取っては特別な節目の年である。その記念事業の一つとしてこうした作品がこの地に建立されたのは意義が深い。今年のマラソンは特別な行事とし、記念のメダルも発行され参加者も例年の倍以上となり、その半数以上が外国からのランナーと言う。参加費は80Euro、之にはT-shirt、完走メダル、大会日を含む6日間の市内交通無料カード、博物館の割引などを含む。この他、2500年記念大会メダル(10Euro,寄付10Euro)合計100Euroをカード支払いとしている。

僕は何年も前から11月ごろこのマラソンがあることを知っており、何時か走って見たいと思って居た。8月初めにTessieに今年アテネを走って見たいとメールを出したら、もう受付は終ったと返事が来た。終ったのではしょうがない。来年でも良いやと思った。2-3日経つとまたメールが届いた。主催者と話しをし、空きを見つけたので是非応募しろとの事だった。走るなら2500年の記念レースを走れと言う。即刻Internetで手続きをすると、程なく番号が届く。1518という若い番号なので驚く。僕は何と運の良い男なのであろうか。

出走のブロックは厳正に管理されており、整然としている。自分の番号の所に入り、出走を待つ。ヘリコプターが上空に2機舞い、スタートの時間となる。空には紙吹雪や、沢山の風船がまいあがっている。午前9時最初の1000番までが出て、その2分後僕らのブロックが走りだす。多分3000番までのスタートだ。全体は7ブロックに分かれており、12000人余りの最後尾がスタートラインを跨ぐのは15以上掛かることになる。この時間差スタートにより、スタート時の混雑は全く感じない。実に整然と走り出せる。走路の幅も十分だ。

走り出すと暫くは緩い下りとなる。その後ほぼ真っ直ぐな道が4キロ地点まで続く。路面の整備は良く(最後まで実に良かった)、正にマラソン道路だ。2004年のアテネオリンピックのマラソンはこのコースを使ったのであろう。片側2車線の道路を一杯に使っての走路で、分離帯を挟んで対向車線は大会の緊急車両用に使えるようにしている。この日一日この道路はランナーのものだ。走路が広く時間差出走のお陰で、蛇行して走る人も少ない。スタート直後に踵への接触が一度あったのみで、後は人と触れ合うこと無く走れた。

汗をかき出したので、3キロ地点で袋を脱ぐ。袋は回収しなくても時が来れば自然に戻る素材だというが、路傍の人が片付けて呉れることを期待する。

4キロの先で左に折れ、迂回路を走り、6キロ辺りで最初の道の延長線上に戻る。道は再び平らな直線となりMarathonの町に入っていく。多くの人たちが応援に出ており、Bravo! Bravo!の大声援が絶えない。老若男女、子供も犬も総出の応援だ。給水は5キロ毎にある。

10キロ地点でボトルの水を受け取り、飲んだ残りを頭から被る。60分丁度位で走っている。下りの部分があり、穏やかな追い風なので上出来とは言えないが、先ずますと考える。チップによる計時は5,10,20,30、Finishの夫々の地点で行う。

距離表示はキロごとにある。15キロから先の給水所には水、スポーツ飲料の他、バナナ、チョコレート、チューブ入りのエネルギー補給食が置いてある。僕は途中でバナナ2−3切れ、チョコレート1枚、チューブ3本、合計5−600キロカロリーの補給で十分であった。

マラソン市はアテネの西に位置し、走り出して5キロから15キロまではほぼMarathon Beachに平行に走るが海は見えない。雑駁に言えば走り出すと15キロまでは南西に進み、その後10キロほどはやや蛇行しながら西に向かい、其の先10キロほどは北西その先はほぼ西に向かって走る。変形したUの字のコースと言える。中間点を通過したのは143分後であった様に思う。汗は出ているが、蒸発もしているので、気には成らない。時折吹く風は心地良い。

20キロ辺りからは緩やかな上りが37キロの先まで続き、30メートルほど上る。日本では之は坂とは言わないかもしれない。其の先はFinishまでは下って行く。直角や鋭角に曲がることも少なく、全体に走り易いコースと思う。

周りに色々な人が走っており、これを見るのも楽しみだ。2000年前もの衣装を付け、裸足で走る人、当時の戦士の兜、マント、盾、剣等を持って走る5-6人の集団もいる。これらの仮想姿の参加者には一際高い歓声が上がる。仮にこれらの装束がプラスチックス製の軽いものであっても、余計な物には相違なく、余程の走力が無ければ完走は出来ない。 この集団は僕のFinish後ほど無く一団でレースを終えている。驚くべき体力だ。

ヨーロッパ各国からは勿論、南米の人も多く見かけた。南アの人も何人か走っていた。Faroe Islandsと描かれた旗の付いたシャツを着て走っている人も居た。デンマークの自治領の北大西洋の諸島だ。僕が着ているBig Surのシャツを見て、自分は其処の出身だと声を掛けてきた女性もいた。是ほど諸外国からの参加者の多い中で、日本人の姿は終ぞ見ることが無かった。殆どの海外の大きなレースには幾つか旅行社のツアーグループを必ず見かけたのであるが、今年は如何したのであろうか? それに何時もは国単位の大集団で動いている韓国からの参加者も見ることは無かった。東洋からは中国から参加者2-3人、比較的良く見かけたのは香港からのランナーであった。

ギリシャの自治体の境界は分かり難い。其れらしい表示が無いのだ。只30キロを過ぎるとアテネの町に入って来たような気がする。人家が密集し出し、沿道の声援も一段と大きく成って来たのだ。走力の無い割には前方からスタートしたお陰で30キロ当たりまではボロボロ抜かれてきた。この辺りからは均衡が取れて来たのであろうか、余り抜いていく人も居なくなった。周りには走力の釣り合った沢山の仲間が走っているのだ。暫くすると徐々に他のランナーを抜くことになる。後から出てここまで懸命に走って来たランナーには疲れが出ても不思議では無い。歩き出している人も見かける。

 

40キロの近くに来るとスポンサーの銀行の大アーチを頻繁に見ることになる。沿道からは鈴なりの人が大声で声援を送ってくる。やがて大きな木が茂る公園に入って来る。Finishは近いのだ。出来るだけ影のある所を走り、Finish地点のPanathenaikon競技場に向かう。何度か来たことのある競技場だが、走ってここに入るのは初めてだ。競技場に入る前に道路を横切る段差が幾つかあり、用心して通過する。競技場に入ると黒いアンツーカーの上を走る。150メートルほど先がFinish地点だ。デジタルの時計は4時間台が出ている。5時間半を目標にしていたので上出来だ。


Finishの後コーナーを回り走る側と反対側の直線コースを外に向かってユックリと歩く。1896年近代オリンピック元年の競技場として作られた白い大理石の立派な競技場である。実に重厚感のある建築物だ。最近の競技場とはグランドの設計が異なる。古代オリンピックが行われたOlympiaの競技場と同じく、コーナー部の径が小さく直線部が長く出来ている。高速で走る人にとってはコーナー部は非常に走り難いはずだ。ドウナツ状に閉じた構造ではなく、長手方向の1方は外に向かって開いているU字形をなしている。歴史的には極めて貴重な建築遺産であろう。現在のStadiumは1895年建造のもので、当時は8万人を収容していたが、現在は4万5千人としている。元々此処は紀元前6世紀から競技場だった所であり、紀元前140年には5万人収容の競技場があった所だ。

観客席には多く家族や、走り終えた人たちが後から入って来るランナーを見ながら寛いでいる。競技場を出るとメダルと飲み物を渡して呉れる。其の後、チップを返却して、Drossosの家に向かう。彼等との約束では僕は遅いので競技場で彼等とは会わずに直接バスで家に向かうことしていたのだ。

バスを乗り継いで一時間ほど後に家に戻りつくと、約束の場所に鍵が無い。仕方が無いので、荷物を玄関前に置き、海まで散歩に出かける。2時間ほど歩いて戻った時はスッカリ暗くなって居り、彼等も戻っていた。彼等は僕がFinishした時競技場で見ており、写真も撮っていた。

シャワーを浴びた後、After Race Partyに行く。レストランには20人程の人が集まり、夕食と歓談をする。何時も一緒に練習をしたり、レースを走ったりする仲間だそうだ。半分ぐらいは前にも会ったことがある人であった。Partyは2時間程で終ったが、ギリシャ人は日本人の様には酒は飲まないのだ。全く飲まない人も居り、ビールもワインもホンのたしなむ程度であった。酒の神バッカスのいるギリシャで人々が余り酒を飲まないのは奇異と思えた。それにしても日本人は酒を飲み過ぎる様だ。之は日本人が魚を沢山食べるからであろうか。英語ではDrink like fishと言うそうだ。又食べ残しの食べ物は全て廃棄するらしい。Doggy Bagで持ち帰る習慣は無いらしく、この点は日本と良く似ている。


レースの前後

10月27日昼前にタイ航空便はBangkokを目指して成田を後にした。Bangkokではやや長い待ち合わせ時間があったが、之は安い切符の為止むを得ない。Bangkokまでは何便もあるので、もう少し高い切符であれば、8時間も待つ必要は無い。待ち時間を利用して、LoungeでInternetを利用したり、シャワーを浴びる。アテネにむけての便は日が変わった夜中の1時前であった。どちらの便もほぼ満員であった。機は予定通り日が昇りだして間もない空港に降り立った。早朝のアテネの入管手続きはいったって簡単、時間は殆ど掛からない。通関もほぼ素通りだ。出口にでて、マラソン当局のカウンターに向かう。これは前もってメールで確認していたのだが、レースの参加者には市内交通の無料カードを其処で渡して呉れる。カウンターには3-4人の係りが居て、番号を確認してカードを渡して呉れる。中の一人が、レースの前日の24時を境に冬時間となるので忘れずに一時間遅らせる

様にと注意してくれた。夏冬の時間差が無い国に住む人には年2回この様な操作をするは厄介に思える。実は1991年Chicagoを走った時この為に偉い目にあっている。暗い内にスタート地点に着いたが、誰も居ない。寒いので、近くのレストランに入り暖をとる。訊いて見ると今日から冬時間で昨日より一時間遅くなっているのだという。ほど無く人々が集まりだし、レースの雰囲気が出て来て、一安心したことを思い出ず。

表にでて空港バスでDrossos/Tessieの家に向かう。バスは20分ほどの間隔で運行されており、彼等の家の傍の停車場までは25分ほどで付く。家に着いたのは8時過ぎで、彼等はまだ家に居た。今日は独立記念日の祝日で、仕事はしないのだという。先ず一眠りさせて貰うことにする。

2時間ほどで起き、Drossosと走りに行く。車で2-3分の所に正規のグランドがあり、自由に使うことが出来る。誰も居ないトッラクで2人は40分程走り、切り上げる。彼等の住む近くにはこの他にも少なくとももう一つの立派な競技場がある。羨ましい限りだ。 

僕が最後にギリシャに来たのは5年前である。Tessieはその後日本で会ったが、Drossosとは其の時以来の再開である。5年間に起こった色々出来事を話し合う。Drossosも59歳になっており、ソロソロ定年後の準備をする時期に成っているのだ。医者である彼は私生活に於いても万事が超糞真面目なのである。走りに関しても種々の文献を読み、理論的な面からも追求している。何年か前からヨガを初め、今では毎日ビデオを見ながら行っていると言う。体の柔軟性やバランスを図るには良い方法に違いないが、毎日の日課として行うのには余程の根性が必要だ。僕などは体が硬くなってきているのは分かるが、最近ではストレッチングさえも殆どしなくなった。する気力が無くなっているのだ。

又彼は食事にも気を使っている。“Eat to Live”と言う本を持ち出し、之には本当に良いことが書いてあると言った。必要にして十分な食事を取り、それ以上は取らないようにしているのだ。之には余程の精神力が必用であろうが、2-3日一緒に食事をしていると良く守っていると思う。

僕も何年も前から人間には食の面から大別すると2種類に分かれると思って来た。生きる為に食う人と、食う為に生きる人である。前者は生きる為、何かをしたい為に食う人であり、後者は食うことが生きている目的であり、食う為、より旨いものを食う為に、生き続ける種族である。日本のテレビを見ていると、後者の方が圧倒的に多いと思われる。料理番組、グルメ番組、飲食業紹介番組の何と多いことか。

走る人に取ってはこの差異は容易に理解できると思う。長距離走をする場合、必ず食物や水分の摂取が必要となる。この場合ドンナ物を取るのであろうか?走りを大事にしている人は真に走りに必要な物を必要なだけ口に入れ、それ以外のものは断固排除する筈である。不必要な物の摂取は目的とする行為の阻害要因と成るからである。勿論味や口当たりは大事であるが、本当に究極の状態であればこれらに優先するのは目的行為に対して体が要求する物質の取り込みであろう。味や口当たりは二の次になるのだ。生きる為の、目的とする行為を完成させる為の物質の体内取り込みをするのだ。

午後4時ごろ地下鉄の駅まで送ってもらい、Acropolis 博物館に行く。Acropolisの駅の直ぐ傍に今年開館したばかりの博物館がある。主としてAcropolisの彫像などを展示しており、7時半まで開いている。通常入場料は5Euro。

驚くほど沢山の彫像や、装飾品、テラコッタ製の壷や器、青銅の武具などが展示されている。ビデオ映像による解説コーナーもあり、モット時間を掛けて見たかったが、閉館時間前に帰路につく。

翌29日は皆で市中心部のZappionに番号を取りに行く。Drossosの運転で彼の友人Christoro夫妻に家に行き、そこで彼等の少し大きな車に乗り換え、地下鉄の駅まで行く。

Acropolisで乗り換え、Syntagumaで降りる。周りには国会議事堂を始め幾つかの公共施設がある。Marathonのフィニシュ地点のPanathenaikon Stadiumも其の一つである。

1888年に建てられたZappionまで歩いて行く。この建物は色々な公共行事に使われており、相当広い中に多くのレースやスポーツ店が連なっている。多くの人が訪れて居り、Drossosは多くのランナーから次々に話し掛けられ、中々先に進まない。

ゼッケンと計時チップを貰い、参加賞のT-shirtも貰う。色々なブースが有るが、Nagano Marathonと表示が出ている所には誰も居ないので、お前が其処で案内訳をしろと冗談にいうものが居り、そこのスタッフに成りすまし、写真をとる。暫くすると3-4人の本物のスタッフが遣って来て、出店の用意を慌しく行っていた。先ほど空港に着いたばかりだという。御苦労なことだ。

この後Plakaのレストラン街に行き、大きなレストランでスブラキの夕食を食べて家に戻る。

30日朝Christoroが娘の為に新規開店したばかりのLottoの店にDrossosと一緒にいく。サッカー籤の店で、ヨーロッパでは人気の娯楽である。組織は大きく地域一店の独占契約を結んでいる。住宅街の一角にある店は真新しく、まだ客は多くはなかった。客はボールペンで籤の数字を塗りつぶし、5分毎に変るテレビの数字に一喜一憂していた。

そこでDrossosと分かれ市内に向かうが、余り時間は無い。1時過ぎには皆でMarathonに向かうからだ。大急ぎでOmonia広場まで行き、辺りをうろついた後引き返す。帰りは電車に乗ったが、これはバスより遅く時間が掛かった。バスに乗り換え家に戻ると直ぐにMarathonに向けて出発する。Tessieの小さなSuzukiに乗ってChristroの家で彼等を広い、前にDrossosとChristro、後部に僕と、Tessie、Christroの奥さんを乗せ、又先を目指す。 

途中まで高速道路を走り、左手に白い山が見える頃、一般道に下りる。山が白いのは大理石採掘の後だとChristroが言う。AcropolisのPantheonなどの建築はその山の大理石で出来ているという。2000年―2500年も前機械の無い時代に大量の重量物を長距離搬送した人間の行為にはただただ驚嘆するばかりだ。遠くから石を運び、建造物を作ったのは此処だけではない。GizaのPyramidやIncaの遺跡も皆人力で石を運搬し、高い所に押し上げ建造物を作ったのだ。

4時ごろのMarathonの町に付き、Checkinの後皆でMarathon Beachに散歩に出かける。波静かなエーゲ海は静かだ。特に今は観光客も少なく、ひっそりとしている。別の車で来ていた仲間も加わり、ユックリと浜辺を歩く。之がギリシャ人の散歩時の歩き方のであろうか? 兎に角遅いのだ。余りにも遅いので、僕は時々石に腰を降ろしたり、小石を眺めて彼等との歩調を合わせる。ギリシャにはアリストテレスの起した逍遙派の哲学があるが、彼等が歩いたのはこの速度であったのであろうか?思索に適した速さなのだろうか?

 

砂浜は広くは無いが、夏には賑わうという。波が静かなので泳ぐには適しているようだ。砂浜の小石はどれも大理石が丸くなったもので、白色が多いが、茶色、黒、紫がかったものもある。どの二つも同じものでは無い。狭い浜辺には砂浜間近までレストランが並んでおり、食事を楽しんでいる人も見かける。浜に自然に生えたのであろうか、何本かのナツメヤシの木があり、やや乾燥した実が付いていた。食べると甘い。誰かが、こんな塩分の多い砂浜にこの木があるのは珍しいと言っていた。

ホテルに帰ると見知らぬ人から声を掛けられる。歳は僕と同じぐらいであろうか、自分は日本―ギリシャ小泉八雲会のメンバーで、あらゆる文化活動を通じて、日本―ギリシャの友好親善に努めて居る者だという。今回も現在11月14日まで松江で開催中の“小泉八雲に捧げる造形美術展”の為、日本に行き彼の孫の凡にも会って来たという。この催しはLaficadio Hearnが来日して今年で120年になるのを記念して行われている。ギリシャでもアテネのAmerican Collegeの中にHearnの銅像の除幕式があり、日本―ギリシャ両国で記念行事が行われているそうだ。

僕は八雲は知っているが、孫の凡のことは全く分からないので、この人は八雲に関しては僕より知っているなと思った。又Marathonの出発地点に今年立てられた“The Spirit of Hermes”の像の作者との交流に関しても話をした。この点に於いても彼の方が僕の知らない日本を知っているのだ。又ここに建っているMarathon博物館に何か展示品を持っていないかとも言った。

僕は博物館に相応しいものは持っていないので、出来ることがあるか良く考えて見ると応えた。名刺を貰っているので何れ返答するつもりだ。

又ホテルのOwnerも話しかけて来た。船乗りで日本に何度も来たことがある男で、このホテルはアテネオリンピックの年開業し、毎年日本の競艇チームが強化合宿を此処に泊まって行うという。又此処を訪れた日本の車椅子のランナーの写真のコピーを呉れた。色々な人から歓迎され、友好関係が増進することは良いことだ。

この後皆で夕食を食べ就眠する。

レースの翌日DrossosはPiraeusの病院に8時に出かける。病院までは一時間余りかかるが、其の途中、Drossosは自分は憂鬱気味なのだという。経済的にも家庭的にも不満はないが、2週間に1回は人の死を見ていると如何しても、明るい気分には成れないのだという。欝の気分を晴らす唯一の方法が走りだという。走って居る時は暫し、気がまぎれるのだ。医者の仕事も楽なものではないのだ。

彼は集中治療室の主任で、現在患者の一人はTessieの父親で、こん睡状態でいる。彼是5ヶ月になるが、快復の見込みは無いという。僕が行っても何の慰みにも成らないが、知らない人では無いので行くことにする。丘を登り病院に近づくと、Drossosはある建物を指し、あそこに自分の96歳になる母が居る老人ホームがあると指差した。病院勤務の時は毎日散歩に連れ出すそうだ。96歳で町を少しでも歩けることが出来れば幸せと言うべきだ。

前にも来たことがあるが、大きなヨットハバーを見下ろす丘の上のGiannio病院である。特別な上着を着て、集中治療室に入る。12床あるベッドは満杯だ。ほぼ中央に居るTessieの父親の方を揺すると僅かに薄目を開ける。之が唯一の反応だという。皮膚に濃い赤紫の斑点が彼方此方にあり、何かと訊くと薬剤による血液の凝固の痕だという。

何日か勤務をして居ないので、当直医を全部集め会議をするらしい。2人の女医を含め9人の医者が一室に集まり、写真を撮らせて貰い病院を後にする。

空港に向かうまでには2時間ほどあるので、町を見て回る。此処はアテネの東にあるギリシャ最大の港町だ。大きな観光船が何隻も停泊している。乗船ゲートは10ぐらいあり、中は繋がって居り、桟橋沿いに歩くことが出来る。Ferryも沢山あり、乗船開始の船もある。車の動きが忙しい所もある。

港を暫く見た後、市場街を見て回る。街角では今が旬の栗や胡桃を売っている。常設の店では魚、肉、野菜果物が陳列されて居り、種類は豊富だ。

空港行きのバスには正午過ぎに乗り込む。空港までは約1時間半かかり、其の大半は海岸沿いに海を見ながら走る。アテネの町を通り過ぎ、今朝来た道とは反対方向に走り続け、1時間ほどでDrossoe家の傍の停車場を通過すると、30分弱で空港に着く。

16時の飛行機でBangkokに向かい、2時間弱の乗り継ぎ時間で成田には当地時間の16時に付く。両地間の時差8時間を足し引きした16時間がアテネ成田間の乗り継ぎ時間も含めた旅行時間となる。

今回の総費用は航空運賃135000円、とお土産代を入れて15万円程度であった。現地に友人が居ることによって、貴重な体験が出来たことに感謝したい。


2500年記念大会

之はマラソンが2500年延々とスポーツとして存続したことではない。紀元前480年から第一回近代オリンピックが開かれた1896年まではマラソンの競技は全く無かったのではないか?初回オリンピックをアテネ開催が決まり、之に花を添えるギリシャ的なスポーツはマラソンだとする意向が固まり、実施されるようになる。言ってみれば競技としてのマラソンの歴史は僅か100年余りということに成る。Athens Classic Marathonも今回で28回を数えるに過ぎない。

スポーツしてMarathonの起源はMarathonでの戦闘であった事は間違いないようである。ただ戦勝を伝えた使者の名前、Pheidippidesは伝説の域を出ないようである。戦勝の前に同一人物が240キロ西南にあるSpartaに援軍を求める使者として走ったという話も残って居り、之がSpartathlon Raceの原点になっている。2500年以上の昔の話で確たる歴史的な証拠が無いのは寧ろ当たり前なのかも知れなり。何れにせよ、戦争の遺産として人々を結びつけるスポーツマラソンが誕生したことは喜ばしいことであろう。

最初に使者の走ったMarathon−Athensの距離は約40キロであり、第一回近代オリンピックマラソンの距離は40キロであったという。現在の42.195Kmになったのは1908年のLondon大会のコースWinsor城前を通ったことにより26マイル385ヤードと言う半端な数字となり、之をメートル方で換算したのが42.195Kmでこれも当然ながら半端な数字である。之が一般的に定着したのは1924年のParis大会であったという。

今回のレースはMarathonを基点としているが、2500年前の当時の道は当然消えており、大部分はその後に出来た道路をコースとしているものと考えられる。距離の足りない分はMaraathonの町での迂回路で補正している訳だ。 


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皆さんの家「豊心庵」
平成22年9月22日掲載

10.07.02−03 Lapland 100K
10.07.23・大森


 7月2日10時頃Tomasの別荘からSkellefteaaのバス乗り場まで送ってもらう。自治体が運営するバスが日に何便かあり、結構辺鄙な所でも何とか行けるのがSwedenである。切符はカードで買え、2000円ほどであった。大型のバスには4-5人しか乗って居ないのもSweden的である。何回もこの道を通っているが、今回変わったことは、途中で大きなトナカイの群れに出会ったことだ。バスは彼等が路上から去るの待って動き出す。2時間余りで目的地のMalaaの町に着く。ここから以西、以北はLaplandである。Adakには此処から乗り継ぎが必要で、待ち時間は一時間余りである。

天気は良く、小さな町の中心部に多くの人が集まっている。広場に柵を回らし、中心部には沢山のタイヤを敷詰めた走行路が用意されて居る。如何やら何かのレースが行われるようだ。広場の真ん中に立つ建物を回ると、ヘルメットを被った子供達が夫々のゴーカートに乗っているのが見える。間も無く轟音と共にレースが始まる。年齢別や距離別の競技が行われているが、車の運転をしない僕には面白さが分からない。暫く見てから、昼食を取り、バス乗り場に戻る。

Adak行きのバスの乗客は更に少なく、たったの2人である。40分ほどでAdakに着く。バスを降り、会場まで500メートル余り歩く。昨年より廃校となった小学校の駐車場には既に何台かの車が来ている。何年か前からドイツから来ているニコラスのCamping Carも所定の位置に停まっている。彼は僕と同じ歳で、身体障害の奥さんの世話をしながら毎年このレースに来ている。

実は公共機関で此処まで来たのは今回が初めてである。今年もStockholmから来るSeanとShellefteaaで合流し、Rentacarで来る予定であったが、間際に成って彼の父親が病気になり、レースを断念する旨連絡が入っていた。僕は正規のスタートより4時間早い18時の出走であるが、16時前にはレース手続きも終え、十分余裕がある時間に到着出来て幸いであった。

出走の準備も出来、学校の前で日向ぼっこしていると、SixtenとAnnaがオートバイで応援に遣って来た。殆ど毎年Leopoldやその家族は来てくれていた、Sixtenが来たのは初めてであった。Leopoldはこの夏Hellenの住むFranceに行っておりAdakには行けないと行って来ていた。Franceでローラースキーや自転車を楽しむそうだ。

学校の前では出発前のセレモニーが行われているが、言葉が良く分からないので面白くない。写真を撮っている人も居たが、一人だけ仕切りにビデオカメラを僕の方に向けて居た男が居た。如何やら髭を生やした珍獣に興味があるようだ。

18時早出組みの出発で、30人エントリーと成っている。正規のスタートには50人がエントリーしている。ニコラスは先頭の3人グループで元気に走っている。僕は5−6番当たりを走る。勿論この辺りの順位は参考にもならない。走っている人の最終目標が必ずしも100キロではないからだ。マラソンの距離で止める人、其の外60,80キロ近辺にも正規の記録を認める距離があり、又、体調により、途中棄権は任意の地点で出来るからだ。最終的に分かったことはこの時間に出て100キロを完走したのは5-6名であった。ニコラスは一位、僕は二位なので長老の部では悪くは無い。

Sixten達は20キロ辺りまで追走をし、写真を撮り、帰って行った。毎年誰かがこうして応援に来てくれるのは有り難いことだ。彼等と別れる少し前に4-50頭程のトナカイの群に会う。レース中此れほど大きな群に出会ったのは今回が初めてである。

6キロ辺りから走路は新しく砂利を敷いたばかり砂利道で、砂や小石が靴に入り、走り難い。半月版保護の為の特性ソールは土踏まずが高くなっており、其処に小石が挟まり10キロ辺りでは早くも肉刺が出来た様だ。痛い所があれば100キロ完走は覚束無いと思い、面倒でも頻繁に砂の除去をすることにする。凡そ5キロ毎にあるエードでは椅子に腰を降ろし、靴を脱いだり、場合によっては靴下も脱いで小石の除去に完璧を期す。其の間に無数の蚊に刺され、時間は掛かるはのマイナス面は多いが、完走の為には必要は行為だと諦める。実は今回砂漠を走る時に使った覆いを持って来ていたが、走る前に装着するのを忘れてしまったのだ。簡単軽量で可也役に立つので残念である。

大自然の中のコースであるが、何回も走っており、又コース表示もいいので、迷う心配はない。それに今年は絶えず誰かが前に見える。30キロ当たりで2メートルを超える様な大男が歩いて追い抜いて行く。此方は走って居るのに歩く人の方が早いのだ。屈辱の思いはするが、此れが現実だ。其の後からは走ったり歩いたりする人が来て、追い抜いて行く。只この2人は100キロを走らずに消えている。

マラソンの距離は5時間半近く掛かって通過する。陽は其の前に沈んでいるが、黄昏の時間が続いている。陽が沈むと寒くなってくる。上はランシャツ、下は7分のタイツでは寒くなってくる。向かい風となっており、益々寒い。通りかかった大会関係車を止め、自分の荷物を積んでいる車を呼んで呉れるよう頼むと、其の荷物ならこの車にあるという。直ぐにウィンドブレーカーを出し,着ることが出来た。こんな運の良いこともあるのだ。ゼッケンは見えなくなっているが、別にその後問題になることは無かった。エードでの番号の確認はスタッフが顔を覚えているので、此方がゼッケンを見せようとすると、其の必要はないという。何回も走っているので、向こうでは覚えているのだ。

元気の良いランナー2人に追い抜かれるが、この2人は90キロ過ぎで速度が落ち、Finishには僕の方が先に着いた。結局Finishに僕の前に着いたのは終始先行したニコラスだけであった。長いレースは途中で故障を起さず走ることが重要なのだ。

50キロを過ぎると砂利道は適当に固まっており、靴に砂が入ることが少なくなる。其れでも腰を降ろせる所では砂利を取り出し、肉刺の悪化を防ぐ。58キロの手前からは再び舗装道路になる。60キロ辺りで4時間遅れでスタートした先頭ランナーが追い抜いて行く。順調に走れば8時間を切っての完走と思われる。暫く経ってから2番目のランナーが追い抜いて行った。1位2位は略確定の十分な時間差があったと思うが、結果は逆転していた。如何に終盤の余力が大切かが分かる。

64キロ地点にあるSlagnaesの町はこのレースコースの中では最大の町である。と言っても人口は1000人程度ではなかろうか? もう太陽は出ているが朝3時半の町はひっそりとしている。エードでブルーベリージュースを飲み、バナナ、パンを食べてAdakに向かう。

先ほど走って来たSweden中央部を縦断する幹線道路E45のガードを潜るとAdakの町は略南東に一直線の方向にある。残る距離は35キロである。向かい風であり、Windbreakerを着ていて丁度良い感じで走れる。

そろそろ疲れも出て来て、5キロ毎にある距離表示までが遠くに感じられる。正規のスタートしたランナーに頻繁に抜かれるようになる。見通しの良い所もあり、可也先を行くランナーも見える。時折擦れ違う車は短く警笛を鳴らして応援をして呉れる。

85キロ当たりに来ると、前方に去って行かないランナーが2人見える。僅かずつではあるが、人影は確かに大きくなって来る。何時間か前に追い抜いて行った2人の若いランナーに違いない。此方も疲れているのでドンドンと差が詰まることは無いが、終に90キロを超えた所で追い付く。追い越しながら話しを聞くと、100キロは長く膝に力が入らずこれ以上早く前進は出来ないという。十分時間はあるので諦めずに前に進めばFinish出来ると言って、先を急ぐ。

後5キロに地点でFinish時間を想定してみると、15時間を切ることは可能なようだ。40分ある。キロ8分は一寸キツイが、何とかなる様な気がする。雑念を払って只管に前に進む。Adakの町に入ると、残りは2キロ余りとなる。少し速度を落とすと大分楽ではあるが、15時間以内の完走をするには落とせない。何とか最後の緩やかな坂も走り続けFinishに辿り着く。辛うじて15時間を切る事が出来た。此れが僕の70代初めてのレースである。

シャワーを浴びマッサージをして貰う。男女2名のマッサージ師が居り、体格の良い女のマッサージ師が懇ろに時間を掛け揉んでくれた。その後は学校の廊下でごろ寝をする。夕方6時の表彰式までは何もすることは無い。

表彰式の前に食堂で飯を食う。サラダにトナカイの煮込んだものを好きなだけ食う。僕はトナカイの肉は若干の癖はあるが美味しいと思う。何人かの顔見知りの人達と話もする。ドイツやオランダから来ている人も多い。北欧4国は勿論,10指のぼる国からのランナーが来ている。ドイツの男女のランナーは昨年Norway北部で4日間同じ所に居たねと話し描けて来た。結構良く覚えているものなのだ。僕の方ではヨーロッパ人は全く同じ様に思え、全く印象には残っていない。表彰の後は当局にHitchhikeの相棒を探してもらい、Skellefteaaに戻る。Carlと言うShellefteaa郊外に住む、年配のランナーで、10時出発でマラソンを走っている。

無事昨日バス停Tomasと落ち合い、今年のLapland 100キロは終わった。

 

このレースを走るための僕は6月28日にBangkokに向かった。この時期ヨーロッパに行くには、日本やヨーロッパの航空会社の運賃は高いからだ。多少時間が掛かっても、ドウセ年寄り他に何も遣ることはない。時間はあるが金は余りない種族はその特性を生かした生活をするのが良い。長い時間も旅の一部と考えればいいのだ。

航路や航空会社を選ぶ場合色々考慮する要点がある。安全性を最重要視する人も多いが、僕はもう大半の人生を送っており、余り生命には執着はない。一番重視するのは価格である。次ぎに大事なのはマイルの付き方であろう。同じエコノミーであっても、券種とかBooking Classと言われる複数の価格の切符が売られている。航空会社によってはマイルの全く付かない券もあるので注意しなければならない。ヨーロッパやアメリカ往復の場合、マイルが100%付くのか全く付かない券なのかにより、3万程度の正味での価値の差がある事を考慮しなければならない。買値が3万円安くても全体的には高く付く可能性もあり、またその逆の場合もあるので、他の要件も加味して慎重に選ぶ必要がある。次ぎに大事なのかルート及び、乗り継ぎ時間である。場合に拠っては途中で一泊する必要が出てくる。そこで観光の予定がある人に取っては、これは好都合であろうが、乗り継ぎの都合上だけの一泊の場合、話しは別であろう。更に機内サービスの良し悪しであろう。食事、飲み物、娯楽番組、乗務員の態度、機内の状態等であろう。

Thai Airには殆ど毎年利用するがサービスは良く、何時も殆ど満席である。満席になると僕には恩恵が回ってくる。世の中何故か金持ちより貧乏人が多く、飛行機の席は安い所から埋まって行く。エコノミー席は満席でもビジネスや一等はガラガラの場合は多いのだ。

航空会社は営業上出来るだけ、席を埋めようとする。エコノミーの席数をより多く売って少しでも収入を多くすることに勤める。エコノミーの券を持って居ても席に座れない人が当然出てくる。会社はこの座れない人にお願いして、ビジネスクラスの席に座って頂くのである。Up Gradeと言われるものだ。席を空け、単に空気を運ぶよりはこの方が良いのだ。

このUp Gradeは籤引きで決める訳では無い。顧客管理は徹底しており、マイルの会員の情報はどの会社も略完璧に把握しておる。頻繁に利用している顧客から優先してこのUp Gradeを行って居るのである。僕は通常最も低廉な切符を買っているので、本来は飛行機の最後尾の席が割り当てられる筈である。飛行を利用する機会が多いので、殆どの場合Business Classの直ぐ後部にある  Economy PlusとかExtraと言うやや座席の間隔が広い席に座る。此れは乗り降りや出入りに便利な席だ。今回は成田で乗る時にBangkokからStockholmまではBusiness Classであることが決まって居り、その搭乗券を貰っていた。

Bangkok空港に着いたのは夜の10時頃であった。Stockholmへの便は日が変わってからなので、LoungeでInternet等をして過ごす。また、何年か前から持っているThai通貨が10000円分ほど残っているので、此れを全部処分する為にお土産を買う。Annaの娘、    Tomasの孫に当たるJulieにはThai版Barbie人形をかう。残りでチョコレートを2箱買うと外貨は無くなった。今年は此れで二つの外貨を整理出来た。未だ残っている外貨は20ヶ国分位あり、此れからは機会があればこれらは其の都度使い切ってしまいたい。引き出しのゴミとはしたくない。

Stockholm便はやや遅れたが、気にすることは無い。其処からShellefteaaへの便には十分過ぎるほどの時間をとってある。ThaiはSweden人に人気のResort地で、数年前のインド洋津波の際の犠牲者は3000人近かった様に記憶している。この為この航路の機材はBoe―ing 747である。Stock―  holmにこの機材で乗り込んでいるのはThai Air以外には無い様に思う。Business Classは2階全部で32席あるが乗っているのは20人程度あった。後で足を延ばす為にEconomy Classの通路を一回りしたが、1席も空いている所は無かった。

EconomyとBusinessの最大の差異は席の大きさであろう。幅及び前後の長さが大きくユッタリと出来ている。乗った機材は古く、席は水平まで倒れないが、最近の機材では完全に水平になるものもある。次ぎに食事と飲み物である。テーブルクロス、ナプキン、食器等はそこそこのレストラン並みで、料理も其れなりのものが出てくる。飲み物はEconomyよりはグレードの高いものが用意されており、選択枝も多い。そのほか、サービスの迅速性、娯楽機材や番組が優れていることであろう。

これらの差異は金額換算すると,いか程になるのか? 航空会社のそろばん勘定と利用客の価値判定は様々であろう。Bangkok−Stockhomは成田―ヨーロッパと略同じ10時間を越える飛行時間となる。通常この区間のBusinessとEconomyの価格差は10万円を超える。一時間当たり1万円余計な出費となるのである。

僕は好んで野原や砂漠で寝る男であり、美食に拘りを持たないので、この出費を是としない。UAのカードを持っており、UA便に限れば、国際線は10回、ある程度以上の券種のEconomyを買えば、自動的にBusinessに乗れ、又国内線であれば事前申し込みにより略無制限に一等に乗られるが、この特権を行使することはあまりない。

何回か成田でUAの搭乗手続きの際、15000-20000万円その場で支払えばBusinessで行けますと言われた事があったが、何れも断っている。尚、この会員優遇は知人にも適用可能である。御希望の方は事前にゆとりを持って御連絡頂ければ、手続きを致します。新婚旅行で格好を付けたいとか、親に旅行をプレゼントした方などには利用価値はあると思う。

Stockholmには29日朝7時ごろに付く。乗り継ぎは夕方なので時間はある。空港のShuttle BusでJumbo Hostelに行く。SAS Radisson Hotelは道路を挟んで反対側にある。Boeing 747のエンジン等は取り払ってあるが、足回りや胴体はそのままで、内部を改装して3-4人の個室を20余り用意してある。部屋の中も見せてもらったが中々快適そうだ。空港からの無料バスも頻繁に出ており、機会があれば是非泊まってみたいものだ。Hostelling Internationalのメンバーでもあり、Internetで予約可能だ。

Swedenはこの時期天気さえ良ければ快適である。空気は清々しく、荷物を背負って歩くと薄っすらと汗をかく。暇潰しの為,脇道の標識に従って人家の無い方に向かって歩く。

 

 

車の少ない立派な舗装道路で道の両側は森林で、路肩には綺麗な花が咲き誇っている。何種類もの花が咲いており、見事だ。写真を撮りながらあるく。太陽の位置からすると南に向かって進んでいる。標識にはRosersbergへ8キロとある。Swedenの道路標識は驚くほど良く出来ていて、道に迷うことは殆ど無い。昔からある道らしく、路傍には一里塚がある。Swedenの古い距離表示はSweden Mileであり、これは10キロに相当する。此れでは表示距離としては長すぎるのであろうか、其の4分の1、詰まり2.5キロ毎に、石で出来た一里塚が整数と分数で表示されている。Rosersbergがドンナ所なのか何の予備知識もない。ただ退屈凌ぎに歩いているので、そこがドンナ所であってもいいのだ。往復16キロ、ユックリ歩けば結構な時間が掛かる筈だ。空港とは飛行機の離発着の為の土地だけあれば足りるものではない。飛行場の周りには其の何倍もの土地が必要のようだ。Stockholmの空港や其の周辺も既に何十年にもわたり、拡張や改造をしてきている。道路の右左では空港に関連する施設の増設が行なわれていた。Swedenの良い所は土地が広大で、用地の確保が容易なことであろう。

 

途中の集落を通るが、明るい日差しの中で眠ったように静かで、人影を見ることはなかった。綺麗な花が咲く庭の広い家が15ほどある小さな集落だ。空港とStockholmを結ぶ高速列車の線路や、車の多い道路の傍に出る。何か雰囲気が変わった様な気がする。列車の跨線橋の向こうには教会が見え、その左前方には町が見える。如何やらあれがRosersbergのようだ。更に歩き、町の入り口まで行き標識を確め戻りだす。町は交通量が多く面白く無さそうなのだ。教会の前には白と青の花が広大な範囲に咲いている。日本には非生産的な花に此れほどの土地を使う余裕はない。貧富の差は色々の尺度で測られるのだ。

SAS Radissonまで戻り、そこからバスで空港に引き返す。このバスは5つある空港ターミナル、駐車場、税関、若干のホテルを回り、無料である。国内線の待合室は空いており、椅子に長々を横に成って眠る。夜行便なので眠いのだ。

Shellefteaaの空港にはTomasを除く家族が迎えに出ていた。6歳になったJulieは何故か僕に懐いている。手を引いて車に案内してくれる。この冬に行った時は、僕の顔だと言って髭を描き、目は何処かピカソを思わせるデフォルメされた絵を描いて呉れた面白い子だ。

Tomasの海辺の家に着いたのは8時ごろであった。兎に角まだ眠いので、食事は取らずに、眠らして貰う。話しは明日でも出来る。

翌日から丸3日、この家の居候だ。其の間、天気が良ければ、自転車や徒歩で、海岸線に沿って散策を楽しむ。自転車で1時間ほど離れたKennyの家にも行って見たが、彼は仕事中で不在、Hel―lenとお茶を飲み帰って着た。TomasはRobertsforsで仕事をしており、2日目の夕方から此方に遣って来た。彼は後一週間働いたら夏休みだという。

彼の別荘はバルト海の入江に面して立てられている。市の中心街までは来るまで20分ほど掛かる入り組んだ海岸線には点々と別荘の集落があり、対岸にも点々と見える。敷地は広く、其の中に2-3年前に新設した保温性の高い本格住宅と昔ながらの別荘の建物が他に3棟建っている。僕が何時も泊まるのは其の中の一つで、以前はAnnaが専用に使っていた。周りには似たりよったりの別荘が20件ほどある。

別荘地であるので、各々通常の生活は他の場所でしており、特に冬場は殆ど此処で生活する人は居ない。冬場は略無人の地域となり、此れまでは何の問題も無かった。所が今年の冬複数の家に泥棒が入り、電化製品、台所用品、置物など大量のものが持ち去られたという。Tomasの家も例外ではなく、除雪機、や電化製品などが綺麗になくなっていたという。今までには無かったことで、国際的な窃盗団が大型車両で乗り付け、国境を越えて逃亡し、窃盗品の需要のある旧共産圏で売り捌いて居る様だという。

Swedenは此れまでは安全な国であったが、今後は事情が変わるのであろうか?どうも世の中、何処桃住み難く成っている様だ。

ある日、隣の別荘からUlfが遣って来た。Tomasの従兄弟で、我々が最初にVindel河畔駅伝競走を走った時に助っ人として走った男だ。日本には興味があり、何れ行きたいと言っている。村上春樹の走りの本は面白いと言って本を持って来た。Sweden語版である。僕は内容を知らないので、何れその内に読むことにしたいという。この本に関して聞くのは此れが初めてではないが、中々暇は無いものだ。

Tomas家の今の主人公はJulieである。生活は彼女を中心に回っているのだ。時間の余裕があるSwedenでは子供を急かせる事は少ない様だ。夏休みの別荘での生活で

あり、普段とは若干異なるかもしれないが、Julieが食事中四六時中何か話しているが、彼女が終るまで話しの相手になっているのだ。僕の様に食べるのが遅い人間には丁度良いが、普通の日本人では間が持たないであろう。

食事が終ると外に遊びに行き、水辺や広い庭の中で近所の子供たちを遊び回り、兎に角じっとしていることの無い、活発な子だ。未だ身を切るように冷たいバルト海の水にも日に何回か入る。小さい時からこの様に厳しい自然の中で育つ事が心身共に逞しく自立した大人を作るに違いない。勿論回りの大人は必要な注意は払う。水に入ったら、其の都度着替えをさせ、過度の体温低下は避けるのである。

兎に角子供の成長を見るのは楽しみだ。会う度ごとに、大きく成長し、分別も付いてくる。Julieは後7−8年で僕の背丈を超えるまでに成る筈だ。其のごろ僕はどうなっているやら。

レースの翌朝5時半Tomasに空港まで送ってもらう。彼はそのままRobertsforsの事務所に向かう。車中僕の姿がテレビで何回か放送されて居たと話してくれた。ビデオを撮っていた男はテレビ局の人であったようだ。空港でも受付でテレビに出ていたねと言われた。僕はドンナ流れの中の映像か全く知る由も無い。又訊いてみる程の関心も無い


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皆さんの家「豊心庵」
平成22年9月22日掲載

2010.04.25−05.01 Australian 250K




過酷レース、参加競技者の重い対価  ダニエル マーサー

キンバーレーで開催中の世界で最も過酷なレースの一つに於いて、困難な条件が続き、競技者を苦しめている。

開始の翌日、250キロ、1週間のレース主催者Racing The Planetの主催者は倒れる競技者の為点滴液の緊急補給を余儀なくされた。古参ランナーの大森敏生は転倒頭部の傷により病院に収容された。

69歳の日本人はクナナラからエルクエトロに向かうレースの3日目の最初の段階で岩場で転倒、前頭部に数針の縫合が必要だった。

彼は最寄のチェックポイントまでの短距離を歩き、救急車でクナナラ病院に移され、昨夜はそこで経過か観察となった。

大森氏はマラソン、ウルトラマラソンを含め140回近く、またレーシングザプラネットは3回完走している。

彼の転倒が疲労又は脱水症の影響なのかは不明であるが、キンバレーの暑さと湿度はレース主催者の頭痛の種となったことは間違いない。

40人ほどの競技者は完走が見込めず、また前例のないほど多くの需要のため、レース2日目にして予備の点滴剤の補充が必要となった。

(訳:大森、小生に関しては事実でない部分も有るが、記事に忠実な訳とした。紙はThe West Australian、4月28日掲載、Netではthewest.com.auで確認出来るようです。)


 オーストラリアは1大陸を一国で占める唯一の国である。幾つかの州に分かれて居り、Western Australiaはその一つだ。ここが今回のレースの舞台であるが、之だけではまだ漠としている。何しろ、この州は面積では世界最大の州なのだ。大きさを自慢にするテキサスの実に4倍近い面積があり、人口密度は0.75/Km2.

西オーストラリア州の9地方の一つKimberley 地方は日本の国土より15%ほど大きい。南緯10度近辺のこの辺りは乾燥熱帯である。日本の10月に相当するこの時期でも気温は40度を越えることがあり湿度も高い。大会当局の日程より1日早い4月22日午後集合地のKununurra(カナナラと発音されている)に着いた時も強烈な太陽の下、ムッとする暑さで、直ぐに汗が吹き出てきた。ホテル入りの後,堪らずプールに飛び込む。

今回このレースに参加する事にしたのは、オーストラリアの東側には何回か行っているが、Perthのある西オーストラリアには行ったことが無く、行って見たいと長らく思って居たからだ。其処には一昨年ゴビを歩いた時、一週間同じテントで生活したPrendeville4兄弟と彼等の友達のBillyが住んで居る事も大きな理由の一つだ。レースの前は彼等一人Jamieの家を根城にPerth近辺の観光をし、レースに必要な食料の調達もすることが出来る。Perthから聞いたこともないKunururraに行く飛行機や宿の手配などもJamieを通して行っており、大船に乗った積もりで現地入り出来たことは幸いだった。持つべき物は良き友である。

もう一つの参加理由は走りの仲間に会う為だ。何人のアメリカやイタリアのランナー、南極で一緒に走ったオーストリアのChristianなどだ。

22日はKimberley Grandに泊まったが、23日は其処の予約が取れて居らず、1キロほど離れた  Country ClubにJamieの長男Jeremyと其の連れのKattieを残して全員が移る。荷物は24日にGrandで装備点検があるので、皆Jeremyの部屋に置いて出でる。部屋は大きいが、Prendi−ville御一行様、10人分の荷物は半端な量では無い。倉庫の中で寝るようなものであろうが、それでも野外のテントで寝るより増しだと思ってもらう他無い。

夕方Country Clubには日本からの参加者も集まり、食事を済ませ早めに就眠する。

24日、200人近くのランナーの装備の点検は時間が掛かる。割り当てられたテント番号の若い方から点検が始まり、我々の点検が終わったのは昼過ぎであった。最後に装備の重量を測ると10キロを若干超えていた。今回は寒さの心配は無く、寝袋や衣類は極力押さえることが出来たが、食料はやや多めに入れたことより、それ以下には出来なかった。之に水を入れると、出発時の総重量は13キロほどになる。

その後レースの注意事項など説明がある。毒蛇に噛まれた際は、その場に留まり用意した包帯で止血し、動かないで次のランナーの到来を待つことや、コース上で大をもようした時の紙の処置などの説明があった。

暫くしてCamp地に向かう。バスで一時間半ほど走った所がCamp地だ。この間民家は一軒もない。只管疎らに潅木が生えた枯れ草の原野をバスは走った。

Camp地には馬蹄形状にテントが張られて居り、反時計回りに番号が振られている。Prendiville一族とその友達のテントは21−23まであり、比較的入り口近く便利な場所にある。Jamie、Garry,Bil―lyの3人はゴビからの知り合いであり、それにもう一人のオーストラリア人Jim,Denmark 人2人、と我々日本人2人が今回同じテントで寝食を共にすることになる。

今夕と明朝までは比較的好きな物を食することが出来る。夕食には鰯、朝食にはマグロの缶詰を夫々用意した。それ以降は完全に脱水した食料を持ち運び食することになる。味や香り、食感などを云々する余裕はない。インスタントラーメンなども踏み潰し、米粒状にして持ち運ぶ。麺などと呼べる物では無い物を食べることになる。嵩と重さは小さい方が良いのだ。正に生きて走る為に食う生活となる。食う為に生きている人から見れば、およそこれ程狂った生活はないであろう。

お湯を注いで、食べ頃になるとHeadlampを消して、もくもく胃に流し込む。見ていて食欲が湧く代物では無いのだ。食事が済むと暫し焚き火の傍で星を見上げたりした後、眠りに付く。Sleeping Matからは地熱が伝わって来て、暑い。通常砂漠では陽が落ちると極端に気温が下がるが、ここは余り下がらない。周りに若干の植物が生えていることによるのであろう。マットの上に寝袋を敷き其の上にシャツ一枚で寝ていても額には汗が滲み出る。東京の真夏の暑さに似ている。虫除けスプレーを使えば蚊の心配が無いのが幸いだ。

25日6時半にレースの説明が行われる。何箇所かの渡河、コース上に生えてる棘のある植物の注意事項である。この日はAustralia及べNew Zealandの祝日にあたるANZAC Dayである。第一次世界大戦中のAustralia及びNew Zealandの連合軍の戦没者の追悼の日である。黙祷、Australia国家斉唱後、レースは7時に始まった。

気温は朝から30度を超えているようで、湿度も高い。今年は未だ本格的な暑さの中で走ったことが無く、水分の取り過ぎによる胃の変調を起こさない様に何時にも増してユックリと歩くことにする。身体に過度の負荷を掛け、短時間に大量の発汗を避けるにはこれ以外に無い。それに外部冷却だ。ただ湿度が高い場合は余り外部冷却の効果は期待できない。障害を避けるためには、ユックリ進む意外に無いのだ。

スタート後暫くは幅2−3メートルの凸凹道を歩く。やがて潅木が疎らに生え、その下には刈れた腰ほどの草の生えている原野に入る。先に行った人たちが作った、草がなぎ倒された凸凹の道を進む。コース上には影の出来るような大木はなく、陽に晒されての前進が続く。此れが熱帯サバンナだ。極乾燥に強い木が疎らに生え、その下に草が生えている。

草の背丈は膝ぐらいの所もあり、肩を超える所もある。此れは降雨量の差と、地面の保水力により決まるであろう。乾燥に強い木にBoabの木がある。アフリカでBaobabと呼んでいる木に姿が良く似ている。樹高4-5メートルからしたが極端に太く、徳利のような格好になり、其の上から枝分かれしている。ホテルではこの木の幹の下から60cmほどの所に蛇口が付けてあり、捻ると勢い良く水が出てきた。徳利状の幹は水瓶の役目をしているのだ。

今日の距離はほぼマラソンと同じだ。出発時には2リットル強の水を持ってきている。ほぼ10キロ毎に水の補給は出来るが、どの補給点でも水を満タンにして置く必要がある。補給所間の移動には3時間を予定しており、この暑さの中では最低2リットルは必要なのだ。エード間で水を飲み切り、エードで更に十分に飲み、満タン補給の繰り返しである。

2番目のチェックポイントに向かう間に二つの渡河がある。幅の広い所は10メートルほどある。靴を脱いで裸足で渡る。膝ほどの深さで、流れは緩やかである。水は生ぬるいが、暑い身には気持ちが良い。帽子とシャツを濡らし、対岸で靴を履き直す。

コースは時として車の通った跡のある道路となる。車に行き逢えば埃の心配があるが、幸い車に来なかった。この辺りの地形は殆ど平坦で、上り下りは気に成らないが兎に角暑い。

エードに着いた時は正午少し前であったが、テントの日陰で水を飲みながら、スポーツ用スナック、ナッツ、乾肉などを食べて昼食とする。

次のチェックポイントに向かうが、景色が変わる訳ではない。単調なコースだ。殆ど枯れている足元の草は膝ぐらいの高さの所もあり、肩を超える様な所もある。草の多い所はストックは邪魔になる。片手に持ち替えて草との抵抗を減らして進む。草の生えて居る地面は岩石の所もあり、塩を含む土が固まった所もある。いずれにしても凸凹でトテモ歩き難い。時折、背中の水袋からチューブを介して水を飲むが、これで緑茶を入れれば頃合の温度であろうが、水としては旨いとは言えない。

チェックポイントを出て暫く進むとコースを間違えてことに気付き、直ぐ引き返し、本来のコースに入る。Jamieの家族に出会う。3人の息子とKattieの5人が前後しながら遣ってくる。子供たちは初参加で全てに戸惑っているようだ。肉刺と捻挫に悩む者が殆どだ。特にPatは脱水症状が酷く、すれ違った時はJamieが付き添って僅かな木陰を探して寝ていた。顔色は蒼白で、可也酷いようだ。

途中3箇所渡河があるが、どれも4−5メートルの川であった。仕舞には靴の履き変えが面倒に成り、其のまま渡った。如何もこれが,肉刺の発生を促進したようだ。次第に両足裏の全部が痛くなってくる。明らかに肉刺の発生であるが、対処方は無く歩き続ける。こんなに早く肉刺が出来るようでは完走はトテモ無理との思いが出てくる。

又ある渡河の前では下生えが鬱そうしてとしており、Stockを小脇に抱えて進んだが、川に着いた時には一本しかなく、慌てて戻る。途中後から来るランナーに聞いてみるがその様な物は落ちて居なかったという。Patが休んでいる所まで戻ったが見付からない。諦めて又川まで戻ると、其処に2本のStockが並んでいた。如何も落とした場所は紛失に気付いた所の極傍であったようだ。

最後のエードを出ると、直ぐに凸凹の車道に出る。後10キロであるが、この10キロが非常に遠く感じられる。陽は傾きだし、やがて落ちて行く。緯度の低い地域では日が落ちるとアット言う間に暗闇が訪れる。前を行く人がHeadlampを付け出しているのが見える。僕は面倒くさいので其の侭進む。Camp地には路面が全く見えなくなる前に着ける筈だとの思いからだ。

Campには6時少し前に着いた。11時間弱を要した事になる。この時点で明日はレースから脱落することを決意する。初日に肉刺が出来るようでは到底250キロは不可能だ。

水を3本、4.5Lを貰いテントに向かう。

夕食は冷凍乾燥のLamb料理を食う。少量のお湯を入れ10分程待てば、そこそこの味となる。後は2本の水をシャツに包み枕として寝るだけだ。テントに帰って来た仲間は皆脱水症状を呈しており、吐き気や気分の悪さを訴えていた。幸いに僕はその面では問題が無かった。速度を調整することにより、胃腸を壊すほど短時間に大量の水を飲む必要が無い状態が維持できた為だと思う。

寝る前に肉刺の処置の為Medical Tentを訪れる。対応してくれたのは日系4世の山崎医師であった。以前に3度会っている医師のBrandeeを通して彼とは既に面通しは出来ている。母国語は当然英語であるが、血筋的には雑じり気のない生粋の日本人である事から日本語で対応に勤め、モット日本語を勉強したいと話していた。好感の持てる30そこそこの医師であった。

翌日の出発は昨日より早く6時である。温度が上がらない内に距離を稼ぐのが賢明との大会当局の配慮からであろう。彼方此方の不調を訴えながらも、僕を含む6人を除いては皆次のCampを目指し出て行った。残った6人も車に分乗してCamp地に向かい、一時間余り凸凹道を走り到着する。途中の景色は昨日と大差なく、起伏は緩やかだ。

今日の距離は40キロ弱で、早い人は昼前にCampに着く筈だ。Camp地はほぼ平らな所で、塩を含む赤色の土と小石の土地に膝より低い草が疎らに生えている。放牧に使っている土地であろうか、乾燥した牛の糞が彼方此方にある。そんな中に直径2cmにも満たない小さな花が彼方此方に咲いている。花弁の外側は紫がかったピンク、花の中心部は真っ白でトテモ綺麗だ。カメラが壊れて仕舞ったことは何とも残念だ。空には雲が多く、場所によっては黒い雲で、雨が降っている様である。

やがてテントが立ち出すので手伝う。これらの作業はサハラ、アタカマ、ゴビのレースでは殆どが現地雇いの人たちが遣っていたものだ。此処オーストラリア、特に西オーストラリアでは事情が異なり、この様な仕事をする人を探すのは不可能だと言う。辛うじて雇い入れた若干の人たちはこの辺を旅している若者たちであった。このため足りないスタッフ要員にはいつも以上に負担が掛かっている。テントは折り畳み式で比較的容易に設置できるが、此れとて30以上となると大変な作業量となる。暑い中皆良く働いている。テントが出来上がると、僕と同じ様に脱落したデンマーク人は自分のテントでごろ寝をする。他に遣ることは無いのだ。

其の内に早いランナーが走って来、次々とCampに入って来る。段々人が増え賑やかになる頃、大粒の雨がパラパラと降り出し、次の瞬間風も強くなり、土砂降りとなる。テントは細い紐である程度は固定してあるが、十分な強さは無い。多くのテントが飛ばされ潰れる。僕らのテントはデンマーク人のMartinと僕が抑えて居たので何とか現状を維持できた。雨は30分ほどで止んだが、幾つもテントが潰れているのでそれらの再設置にまた時間を取られる。

雨の量は可也多く、彼方此方に水溜りが出来ており、当初の位置に建てられないテントも幾つかあった。塩分を含む土は水によりその性情を大きく変える。一度この土に水が浸みこむと非常に軟らかい泥状に成り、其の上を歩くのは困難になる。この様な所が乾くと足跡がついたまま非常に硬い岩石状になる。この様な土地は濡れて居ても乾いていてもトテモ歩き難くなる。此れは実際に歩いてみないと、実感が湧かないと思う。幸い其の後雨の襲来は無く、大半の人が帰ってくる頃にはテントな何とか安眠できる場所となっていた。

27日、レース3日目も6時の出発である。昨日一日休養しているので元気で出かける。Campを出て暫くは車の通れる凸凹道を進み、その後潅木と下生えの中を歩く。足元は相変わらず凸凹で歩き難い。下生えは主としてSpi−nifexと呼ばれるイネ科の多年草で種子の禾は鋭い棘となって彼方此方に刺さり厄介である。

2時間半程歩き、漸く景色に変化が出てくる。左手に尾根が走り、全体に下りとなっている。谷には小川が流れて居るようだ。走路はその右岸である。赤い岩石が3段に成っている。

走路は真ん中の岩石とその下の岩石であり、僕は全体が下っているので、やや狭いと思ったが下の段の走路を選んだ。此れが間違いの元であった。レースであるので当然先を急いでいる。岩場を通過始める瞬間背負っていたSleep―ing Matが山側の岩に当たり、其の反動でバランスを失い左の谷側に23メートル落ちて仕舞ったのである。幸いなことは小さな潅木が途中にあり、其れを掴むことにより、下まで落ち無かったことだ。左側の手、顔面、腰から落ちた様だ。体勢を立て直し、走路に戻り、進もうと思ったが、次々に現場に到着したランナーが動かずに静かにするよう皆が勧める。僕が最初に心配したのは両手であった。此れらは見ることも出来、痛い。手が使えないとStockは役に立たなく、レースに支障が出るからだ。顔面に傷が付いたのは勿論分かったが痛みはそれ程でもなく、小さな切り傷ぐらいであろうし、23分すれば血餅ができる筈だと思ったのだ。狭い場所に次々に集まるランナーは心配そうに見ており、レースの最中にも拘わらず、立ち去ろうとしない。一人が布を取り出し目の上の頭皮を抑えだした。其の時初めて其処に大きな怪我を負ったことに気付いた。僕は彼等に先を急ぐように何回も促した。其の内彼等も連絡が重要なことに気付き、チェックポイントを目指し、立ち去り出だした。間もなく、レースに参加している医師が遣って来て、毒蛇対処用に配られた包帯を止血用に巻きだした。それでも出血は止まらないようだ。その内にJamieが遣ってきた。彼も医者である。2人がかりで、更に出血部を強く巻き締めた。辛うじて右目だけは何とか見えるように包帯を巻かれた姿はエジプトのミイラ同然であろう。その様な状態でリュックを枕に、右手の岩影で暫し休む。止血の為必要な時間なのであろう。その後立ち上がり、付き添われながらチェックポイント向かって歩き出す。リュックも持って行くというが、無理なので置いて行けと言われ、従う。片目で凸凹道を歩くのは中々大変だ。やがて湿地に出る。靴を濡らさないように、気を付けて進む。チェックポイントのテントが見える頃、山崎医師が受け入れのため登って来て、合流して下りだす。急な岩肌を用心して降り、川を横切る。チェックポイントでは対岸の岩の上にあり、其処からは今の川が滝として流れ落ちた滝壺が見える。緑の中の赤い岩から落ちる綺麗な水の滝壺では何人か泳いでいる。秘境のプールで僕も泳ぎたいが、今はそれ所ではない。折角景色が変化しだし、此れからが面白いのであろうが、此処で病院行きとは情けない。

テントの床シートの上に寝かされ、直ぐに点滴が始まる。先の伝令の連絡で医療の手配は出来ていたのだ。血圧や体温の測定もする。34.2度との声が聞こえる。医者たちは体温低下を防ぐ為に、手持ちのシートやスタッフの衣類を何枚か掛けて呉れては居た。外気温は35度を超えている筈であり、それでも体温は下がるのであろうか?ヘリコプターでの救出の話が出るが、手配は付かない様だ。此れとて何機もあるわけは無いのだ。

事故当初より付き添っていたBillyや其の後駆けつけたJamieは暫く様子を見守った後、レースを続ける為去って行った。転倒直後に駆けつけた医師のFrankは専門は麻酔医であるという。自分はレースを諦めているので、お前が病院に着くまで一緒に居てやると言って、決してレースに戻ることはなかった。其の間も出血は止まることが無かった。点滴をすることにより、体内の液量が増え、血液の粘度も下がり止血し難く成ったのであろうか。長袖のシャツを着ていたが、点滴などの器具を付けており、脱ぐことは無理なので、Frankが縦横に挟みで切って剥ぎ取る。1年半前のMain州Portland Marathonのシャツで初めて着たものであるが,いたし方無い。点滴を受けながら30分ほども横になっていたであろうか?其の間中ランナーが立ち寄っては心配げに僕を見て、給水を受け立ち去っていった。幾つかの報道関係者が間近まで来て、僕の顔ほどある大きなレンズのカメラで撮影をしていたが、挨拶や声を交わすことは無かった。僕は彼等にとっては無機物なのであろう。

やがて車で病院に向かう。スタッフのシャツを羽織り、車まで100メートルのどの不整地を歩く。医師二人が前後に点滴などの用具を持って、一緒に歩く。車はPickup Truckで、後部座席は3人掛けである。真ん中に僕を乗せ、彼等が左右のドアから乗り込む。彼等の膝に頭と下腿を乗せ、横になる。多少窮屈であるが止むを得ない。彼等とて大変な災害だ。商売とは言え窮屈な思いをし、血だらけ男の面倒を見なければならないのだ。点滴のPackは車の天井付近に何とか固定してある。暫く凸凹道を走ると、反対方向から来た車と出会い、乗り換える。今度の車はVanで、此れには2人の女医が乗っていた。大会当局の主任医のBrandeeと韓国系米人の女医Dr.Hahnである。Brandeeの運転で病院向かう。

更に暫く走ると救急車に出会い、乗り換える。設備の整った車であり、乗り換えも楽に出来、やや硬いがベッドに寝かされた。救急医療チームと大会関係の医者4人も乗り込みKununurraの病院に向かう。この様な大袈裟な医師団の面倒を受けたのは生まれて初めてだ。医者の一人が、血液型を訊くので、Oであるが、+かーかは分からないと答える。

病院に着くまでは3時間近く掛かっている。病院の手術用のベッドに寝かされ、履いていたタイツなども全部脱がされ、生まれたままの姿にされる。勿論覆いの布などは掛けられている。

やや重いが、温かいマットも掛けられている。頭部の止血用包帯も取られる。看護婦が体を拭いたり、頭髪を切ったりしているが、勿論は見ることは出来ない。なすがままの状態である。間に合わせの着物も作っているようである。体の上下の布を止め合わせ手足、首が出ていれば病人の着物としては十分だ。同時に点滴なども新たに始まっている。血液型の確定と、輸血量の決定の為採血もしたのであろう。2リットルの輸血が必要だと声が聞こえてくる。

その内に怪我をした右目上の頭皮にチクチクと何回か痛み感じる。麻酔を遣っているのであろう。やがて、ゴツゴツと衝撃を感じる。頭皮の縫合が始まったのだ。外科医の仕事は力仕事である。及び腰で出来る様な仕事とは思えない。一気に力を入れ肉や皮を縫い合わせて行く。僕は友達の手術に立ち会った時、其のことを実感した。続いて目の下の縫合もする。合わせて20針位の縫合であろうか? 

手術の後、外科医は輸血を2リットル済ませれば、明日中には退院出来るといった。レースの最後の日は51日、其れまでには45日あるので、距離も10キロほどなので、最後だけでもコースを歩きたいと言うと、良かろうという。自分も今年8度目のコムラッズを走るとも言っていた。好感の持てる50前後の医者であった。手術の後は包帯を巻くことも無く、頭部の縫合跡には粘着テープを張っただけのようだ。目の下は縫い合わせただけであった。腫れ上がって右目は完全に閉じた状態が続いている。

手術室から病室に移される。大きさは10畳ほどあり、トイレも付いた個室だ。点滴や輸血の管が左右の手の甲に付いており、トイレの使用は出来ないので、ベッドの傍の尿瓶を使うようにとのことであった。

当日の食事に付いては確かなことは記憶していないが、昼食は何か間に合わせの物を食べたような気がする。僕は急患であるから、用意していないのは当たり前だ。夜からは正規の病人食が出た。看護婦は病院の食事は旨い物ではないですよと言っていたが、此れは日本の病院でも同じだ。栄養のバランスは良いのであろうが、野菜などは歯応えの無いほどに火を通したものであった。

輸血の間中点滴も続く。輸血は500CCの容器入りのもので、此れが終わるのに56時間掛かる。その他心臓モニターが付けられており、常時遠隔観察をしている様だ。夕方になり、やや傷口が痛くなったので、看護婦に言うと鎮痛剤を2錠渡された。後は2時間ごとに看護婦が血圧と熱を測りに遣って来た。若い看護婦で非常に親切で、何か用があれば頭上のボタンを押すように言うが、何も不都合はないので、呼ぶ必要は無かった。

輸血は真夜中まで続いた。医者が明日午前中には退院出来ると言っていたので、僕は3本目の輸血が完了したものと思って眠りに付いた。

翌朝7時には輸血が始まる。看護婦はこれが終わればシャワーを浴びても良いと言い、パジャマも置いていって呉れた。汗をかいて4日近くもシャワーは浴びていないので、有難い。プラスチックのフィルムで間に合わせの防水幕を作って貰い、シャワーを浴びる。シャワー室には鏡があり、此処で初めて自分の今の姿にお目にかかる。頭は虎刈りなどと言う物では無い。左側の大部分は5cm程ぼさぼさ延びており、右前頭部は長さが不揃いな段違い刈りである。此れを美しいNew Hair   Styleと見る人は皆無であろう。元々外見は余り気にしないが、此の侭人前に出るには些か気が引ける按配である。日本の病院であれば、もっと外見に気を使い、見てくれの良い刈り込みをするのではなかろうかと思うがどうであろうか?

シャワーは天井に付いており、手にとって局所的に散水することが出来ないのが残念である。しかし、贅沢を言っている場合では無い。走っている仲間は僕の何倍も汗をかいているが、シャワーが浴びられるのは後23日待たなければ成らないのだ。

サッパリとした気分で昼食と取ることが出来た。病院の飯は、朝はパン2切れ、オートミール、コーヒーで極簡単である。昼と夕食に関しては各々2種類のメニューから選択が出来、賄いの女性が朝食の後好みを訊いて回っていた。僕は夕方までは退院する予定なので、昼のみラム料理を注文した。

昨日の医師が回診に来る。輸血前のHb値は7と低かったが、退院時には9まで回復が見込めるという。輸血完了後採血をし、測定してみると言う。(翌日の測定値では11となっており、予想以上の快復であると言っていた。) 

朝食が済んで間も無く、大会当局の女医のHahnが様子を見に来た。お土産だと言って沢山の飲み物やお菓子などを持って来てくれた。病人がこんなに食えるわけねーだろう。俺を何日ここに置いて置く積もりだと言いたい程の量であるが、有難く頂く。残ればレースに戻った時、仲間に渡せばいいのだ。彼女が言うには此処にはもう一人入院しているという。捻挫と肉刺の感染で歩ける状態ではないそうだ。僕は改めて夕方には退院してレースに復帰するので、誰か迎えのものを向ける様にと伝えるが、彼女は確約をせずに帰っていった。

最後の輸血は夕方には終わったが、迎えの者は来ることが無かった。止む無く、余分に作ったという間に合わせの夕食を食べ、もう一晩病院に留まることなる。入院している男の所に行ってみる。向こうは直ぐに僕を認めて、挨拶をして来た。多くの西洋人の中、髭を生やした日本人は僕しか居ないので覚えやすいのだ。ややあって、僕の方でも彼が    Perthから同じ飛行機で来たことを思い出した。名前はTim Brownだという。

足の状態はどうだと訊くと、感染が酷く上腿まで上がって来ており、松葉杖なしには歩け無い状態なので、レースは完全に諦めたと言う。ただし、閉会式には参加してからPerthに戻るという。

その後2日間誰も迎えに来なかった。Timに訊いても連絡方法が無いと言う。お手上げの状態だ。病院ではこれ以上何も遣ることが無く、実に退屈である。遣ることと言えば、病院の外にでて辺りを一回りする事位だ。此れとて、病院のパジャマを着て、借りた子供用サンダルではマトモニ歩けない。

翌31日午前中にDr.Hahnが迎えに来る。僕は今日のCamp地に行くつもりで居たが、連れて行かれたのはEmma Gorgeと言うResort施設であった。ここはレース最終日に皆が泊まり、閉会式をする場所でもあるが、今から此処にいてもしょうがない。Timはここに留まらざるを得ないので、Checkinする。僕は夕方にはCamp地に行くつもりで居るので、彼のBungalowに荷物を置いてもらう。

此処には小さなプールもあり、多くの既にレースを諦めた連中が集まっていた。其の内、初日スタートの前、最年少参加者として紹介された女性の父のMarkという男が娘と一緒に写真を撮って呉れと言うので応じる。娘の名はKimberleyといい19歳だ。親子3人でこのレースに出たが、今回全員がレース放棄をしている。南アのJohannesburgから来ている。彼等に誘われてEmma Gorgeに行く。施設から小川沿いに2キロほど岩場を登って行く。川の水は澄んでおり、そのままで飲料となる。途中には沢山の波模様の付いた岩が見られる。昔海底であった証拠である。漣の模様は大小様々で実に美しい。僕のカメラはレースの前に壊れ使い物ならない。彼等に頼んで写真を撮ってもらうが、結局メールアドレスを交換していないので、写真の転送は永久に期待できない。

渓谷の行き止まりは高さ100メートルほどの絶壁と成っており、其の上部から水が糸状に流れ落ちている。滝壺は100 x 50メートルほどの楕円形に成っている。10人ほどの人が思い思いに泳いでいる。僕も泳いで見るが、水温は適温でこれ以上上等のプールは無いと思われる。暫く泳いで帰路に付く。

大会関係者が時々立ち寄って行くが、誰も僕をCamp地に連れて行って呉れる者は居ない。僕の意思に反した何らかの力が働いているに違いない。自力で行くしか無いと覚悟を決める。明日の朝までにCamp地に着いていなければ、最後の区間を歩くことは出来ない。暗くなってから、荷物を背負って、荒野の中へ向かって歩き出す。Champ地は半径15キロ以内の何処かにあるに違いないとの想定に基づく、宛のない探査行である。Headlampの明かりを頼りに道路に沿って3時間ほど歩く。車は30分に一台ぐらいしか出会わない。

道の端に腰を降ろし、一休みしているとVanが泊まる。中から降りて来たのは黒一色の服装をした大きな男と、2人の30前後の女性であった。男が話しかけてくる。自分は警察で名前はDunと名乗り、この時間に一人で何をして居るのだと訊く。RaceのCamp地を探して歩いていると応える。場所は分かっているかと云うので、全く分からないがそう遠くは無い筈だと応える。この原野の中で覚束無い情報で歩き回るのは危険なので、車に乗れという。何が危険なのだと切り返す。放牧中の雄牛が突っかけてくることもあり、この先15キロも行くと鰐の居る所もあるという。強制は出来ないが兎に角車に乗り、Emma Gorgeまで戻れて云う。彼は大会の警備の為派遣されている様で、大会当局には連絡を取って遣るとも言うので、車に乗り、振り出しに戻る。

9時を過ぎた頃であろうか、レースを取り仕切っているSamが迎えに来て、やっとCamp地に辿り着く。自分のテントに着くと、皆今までの疲れてぐっすりと寝込んでいる。空いている場所を探し、眠りかけていると、又起こされた。最高責任者のMary、Brandee,山崎医師などが来ており、此処に留まることは感染の恐れが高いので又Emma Gorgeに戻れという。医者が何人も揃って、感染問題を云々されれば、反論しても無駄であろう。他の人の迷惑も考え、静かにテントを去る。主催者としては問題を最小限に抑えたい気持ちは理解出来る。其れであるならば、モット以前に感染の危険性を僕に納得させて置く必要があり、其の時間も十分にあったのだ。

僕の怪我に対する認識は当初より余り重大とは思っていない。打撲や切り傷で当初より大した痛みも無く、事故直後にはレースを続ける気に成っていた。確かに2リットルの輸血が必要な外傷は軽傷ではないであろう。唯、担当医の意見は最終日はレースコースを歩くことは十分可能としており、大会当局医者の何人かもこのことを聞いており、其の時僕の明確な意向も伝えてあった。怪我や輸血による自覚できる体力、気力の衰えは無く、早くレースに復帰したい気持ちは当然ではなかろうか?大会当局者の意見では僕は病人であり、自分の荷物を運ぶことはしては成らず、単独で帰国は無理なので家族に迎えに来て貰えと言うことであった。保険は十分に掛けてあるので、家族の出迎えは必要があれば、受け入れるが、必要がないと断った。呼ばれた家族も此れとしてやることも無く、短時間の間に長距離を旅し、何も見もせずトンボ帰りでは面白くなかろう。

Emma Gorgeに戻ると、もう宿泊の受付は締まっており、Maryが余分に予約している小屋で泊まることになった。最終区間を歩くことは出来ないが、ゴール地点で皆に会えるように迎えの車を向けると言って、皆はCamp地に帰っていった。

51日、レースの最終日だ。迎えの車に乗ってレースのFinish地点に向かう。この地は昨日僕が確たる情報もなく歩いて目指した地点と大きく間違っては居なかった。幹線砂利道を昨日警察に拾われた地点から5キロほど先に進み、小さな看板が出ている若干細い道を左に曲がり、2キロほど先にあるOasisであった。宿泊施設とレストランなどがある観光施設だ。

Emma Gorgeに収容仕切れなかったStaffなどはここに泊まっていた。Kateの姿を見かけ、近寄って話をする。彼女とは2006年サハラのレースで会ったきりで、その後は時折メールの遣り取りがあった。今回もこのレースに僕が参加するのを知り、自分はStaffとして参加すると言って来ていたが、今日まで会うことは無く、何かあったのではと思っていた。Icelandの火山爆発により、飛行機が遅れ、オーストラリア入りが遅れたのと、僕が3日目からレースを離れていたのでレースの最終日に漸く再開が出来た訳であった。

偶々、彼女が新しい帽子を買い、古いのと二つ持っていたので、古いのを借りる。帽子が無ければこの日差しでは堪らない。血だらけになった僕の帽子は捨ててしまい、サングラスは壊れて、これも始末していた。

今日の距離は5キロという。今回は川越が多く、肉刺から細菌が入り、多くの人が感染によりレースを断念している。最後の日にこれ以上負傷者を増やさない為に、川越を避けたコースを選定したのだ。出走は三波に分けて行い、最初のランナーが元気にFinishに向かってくる。このランナーが総合優勝者でも、また一番元気なランナーでもない。彼は最初にスタートしたグループの中では間違いなく最も早く元気なランナーに過ぎない。又、途中はキセルをしており、偶々この区間では一番無傷であったのかも知れない。何れにしても、1週間のレースの後に先頭でFinish出来ることは幸せな事である。

一週間レースの後の余力の差は大きい。5キロを20分前半で走れる人も居れば、2時間近く掛かる者も居る。厳しい自然環境の中を200キロ余り踏破後の身体状況は各人により、大きく異なるのだ。早く走れる人には其れなりの喜びはあろうが、普段の歩きの速度の半分で遅々とした歩みの果てにFinish地点に到達する人の感慨の方が大きく後まで残るのではあるまいか?

兄弟、親子で参加しStaffも含め一族の参加者が10名を数えるPrediville一家の面々も次々に入ってくる。Finishのアーチを潜り大きな完走のメダルを掛けてもらうどの顔も皆良い顔と成っている。完走の後はビールや清涼飲料を飲み、ピザ等を思いのままに食べ、仲間同士木陰で団欒をする至福の時だ。予想以上の走りが出来たと喜ぶ、Jack,Rafaero、Renzo,今回完走できなかったUmberto等とも暫し話をする。AustriaのChristianにはレース前にはあったが、Finish地点に来なかった。何が起こったのだろうか? 彼は取材班も付いて来た期待のランナーなのに。

暫く落ち着いた後、Prendiville一族に加わり記念写真に納まる。其の後は夜に閉会式のあるEmma Gorgeまでバスで移動する。閉会式はStaffや家族なども含め、300名近い宴会となり、野外にもテーブルを設置して行われた。食事はBuffet Styleで好みの物を選ぶことが出来る。飲み物はPrediville家の長男のPaterと次男のGaryが所有する150年余りの歴史を持つオーストラリアでも有数のWinery Sandalford産のものが出る。Brandeeなどは僕は病人なので飲酒は不可としているが、同じ医者であるJamieはドンドン飲めという。僕は自己責任で勧められるまま飲むことにした。Prediville一族にPerthから来た連中が加わった大きな集団に囲まれ、Wineもたっぷりと飲んだ。

レース中のヴィデオの放映や、レース概要の話があった。今回特に特徴的であった事は高温であったことに加え、渡河が多かったことであったという。其の通りであろう。兎に角暑く、肉刺が初日から出来た。暑さの為、熱中症に掛かった人は想定を超え、用意した点滴剤が足りなくなり、ヘリコプターでの補給が必要となったという。

上位入賞者やBest Sportsman賞の表彰も行われた。Best Sportsman賞にはJamieが選ばれ本当に良かったと思う。選考の理由はレースも省みず、負傷者(僕のこと)を助けた事による。其れであれば僕に病院まで付き添ったFrankがモット相応しいが、彼は別な理由で完走が出来なかったので選考外になったものと思う。僕の考えではJamieには人としてSportsmanとして、レースを通してモットも偉大な事を成し遂げたと思える。今回初めてこの様なレースに参加した彼の3人の息子を全部完走に導いたことだ。僕が彼等に会う時は、Jamieは何時も家族の内で一番最後のランナーに付き添い、必要があれば休ませたり、介護をしたりしていた。直ぐ上の兄弟Garyが言うにはJamieは人の面倒を実に良くみる男だ。其の通りだと思う。中々厳しい競技の中で出来ることではない。彼自身も極限に近く疲労しているからである。一族の完走者の中で時間的には彼が一番悪い事からもこのことが窺える。

兎に角レースは終わった。僕はコース全体の5分の1しか走破しておらず、楽しみにしていた雄大な自然を見ることは出来なかったのは残念である。しかし、事故のお陰で、今までに無い素晴らしいものを見た様な気がする。其れは人の心の美しさである。

見ず知らずの赤の他人が怪我をしているのを見て、その場を通ったランナー達は全員足を止め、何か出来ることがあればしようとしたことである。怪我は軽微であると思っているので、はっきりとレースを続行することを告げたが、動かずに居るように皆で静止、岩陰に横たわるようにといい、止血に勤めて呉れた。何人もの人は僕が車で病院に向かうまで、見送ってくれた。命を大切にする気持ちは全ての人の心にはあるのだ。

2日Bloome経由でPerthに向かう。空港に向かうバスの乗り降り、空港内での移動や搭乗の際には自己誘引一時的身体障害症候群を呈する人の姿が目に付く。僕は5分の1しか走っていないので、若干の外傷を残して、特に身体的な異常は無い。

家に帰り着くと、早速Jamieが脚立を持ち出し、葡萄棚のあるベランダの塀に上り、弦の剪定を始める。何をするのか訊いて見ると、今晩のパーテーのため飾りつけをするのだという。足は肉刺だらけで脚立に登るのも大変であろうに、塀一杯に電飾線を這わせToshioの字を模る。今日は僕の最後の晩に成るので豚の丸焼きで送別会をする事になっており、プロパン炊きのグリルには串刺しの豚が既に焼き上がりつつある。もう一つのグリルには牛、羊、鳥などを焼く準備も出来ている。一体どんなパーテーになるのだろうか?

広いダイニングキッチンの壁の一面には横に広い大きな旗の様な物が張られており、其の中にレースに参加した一族の写真と名前がレース中の背景と共に描かれている。僕の写真も2枚入っている。怪我をして歩いている姿、スタート前の無傷のものである。

日が暮れかかる頃、人々が集まり出す。広いダイニングキッチンには色々なワイン、ビールなどが用意され、サラダ、オードブル、パンの準備も出来ている。来客は来た順に好みの物を摘み飲み始める。此れが此方のパーテーの始まりだ。

集まって来た人たちはPrendiville一族だけでも40人ほどにはなろうか。Jamieは8人の兄弟の3番目で、又3人の姉妹が居る。皆健全で今日は全部集まるという。大半はPerth付近に住んでいるが、Sydney,Singapore,Hongkongに住んでいる兄弟も居り、レースの序にこうして皆が集まる機会にしているのであろう。配偶者、何人かの子供も加えると大変な数になる。86に成る父親も来ている。それに走り仲間も加わると大変な数になる。

ほぼ全員が集まった頃、豚をグリルから外し、大きなテーブルに載せ、串を引き抜き、Carvingが始まる。思い思いに皿に盛って、食べ始める。椅子も若干あるが大半は立食である。特に誰か挨拶や演説をするわけでは無く、何人かの話の輪を作り、談笑し、食べ、飲んで居る内に時は流れる。

父親のPatと話をする。子供たちの成長には満足して居る様である。家内は10年前に亡くしたが余り寂しいことは無いと言う。こうして近くに住んでいる子供たちには頻繁に会うことが出来、明日からはSydoneyに住む息子の所で暫く過ごすと言う。孫は曾孫も含めると34人居るという。

フランスからの移民で、彼は2世で彼の代からPerthの住むようになったという。Wineを手がけたのもその影響があったのであろう。食べ物は人を幸せにする物だともとも言う。子供の家のパーテーに行く時には何時もDessertは自分で作って持って来るのだと言い、今回も大量のチョコレートケーキを持ってきていた。

Wendyが記念に持って帰るようにと新聞を渡してくれた。427日と28日付けのもので、最初のものには最高齢参加者として小さな写真が付いている。翌日のものは可也大きな写真が載っており、“レースの代償”の見出しの付いた記事が載っている。写真はどちらもカラーである。この様に自分の知らない所で、Newsに成っていることを   Wendyは教えて呉れた。

沢山食べ、沢山飲み、皆満腹で満足になり、帰りだす。其の後に残った皿やグラスの類は半端な量では無い。祭りもパーテーも準備と後片付けが大変なのだ。大きな流しにそれらを運び、予洗し、皿洗機に入れるのを手伝う。一回では片付かず、明朝また残りは始末しなければならない。

53日、今日からJamieは仕事を始めるため、早く出かける。9時ごろ彼の息子に連れられて、彼のクリニックに行く。抜糸の為である。待合室には56人が居り、テレビでお前のことを見たが大丈夫かと皆が話しかけてくる。この通り大丈夫だと傷口を見せ、今日はJamieに糸を抜いて貰い、少し軽くなって午後の飛行機で日本に帰るのだという。其の程度で済んで良かったな、テレビを見た時にはどうなるのかと思った、などなど話しかけてくる。Newsの当事者と直接話しをするのは珍しいのであろう。

抜糸は直ぐに終わるが、金は要らないと言う。保険は十分掛けてあるので、遠慮なく取ってくれと言うが只でいいと云う。全く困ったものだ。家に戻ると間も無く、Billieが迎えに来た。今日空港まで送る役は彼が昨日引き受けていた。

Jamieの家はPerthの北北西にあり、若干Freemantleに近い。空港はPerthの南東にあり、Perthの町を回りこむように行くことになる。距離にすれば40キロ程、1時間程で着く。車中で日本に来る予定があれば何時でも連絡をする様にと伝える。オーストラリアの真夏に日本でスキーをすることが彼等の夢の筈だ。土地の広い彼の地と此方では考え方も異なっており、何かと参考になることは多い筈だ。

空港に着くと彼には車を降りずに帰ってもらう。午後からは授業があり、忙しいのが分かって居るからだ。

今回はJamieを始め彼の一族や友人に我が生涯最高の歓待を受け、非常に感謝している。何故あれ程までに歓待してくれたのか、僕の理解の範囲を超える。僕は幸せ者なのであろう。彼等が日本に来る場合は出来るだけのことはしてやりたいものだ。

今回の旅の費用は飛行機代、国際線Narita−Perth往復、13万円、国内線10万円、レース参加費30万円、現地観光費5万円、お土産2万円(Jamie/Carrol)、宿泊代(2泊、2.5万円)、食事費2万円など60万円ほどであろう。なお、年間を通してDemmarkの保険会社に支払っている事故補償無制限の保険料2万円は別勘定である。

 

レースの前

日本を出たのは4月の15日であった。レースの前にPerthの辺りの観光をしておきたかったからである。

Jamieとはメールを交わし、Perthからレースの集結地までの国内線の手配もしてもらっていた。

正午前に成田をSingapore Airの大型機Airbus 380でSingaporeに向かい、夕方6時前に着く。約一時間の待ち合わせの予定であったが、やや遅れ、Perthに着いたのは日が変わってからであった。予定では15日中に着くはずであり、入国管理などの時間を考えその夜はYouth Hostelに泊まるべくその旨Jamieにメールを出したが、何回もそれでも迎えにでるから自分の所に泊まれてと言って来たので、予約を取り消し、厄介にニ成ることにしていた。到着の出口を出て、Jamieを探すが見付からず、電話連絡をしたが通話は出来なかった。仕方が無いので、案内の人に聞いて当初のYouth Hostelに向かうことにする。

Hostelに着いたのは真夜中の2時近くであり、泊まれるかと訊くと、一人だけならOKだという。

翌朝簡単朝食を済ませ、8時位にJamieに電話をする。昨夜は会えなくて申し訳ないと言い、直ぐ迎えに行くからという。20分ほどでVanがHostelの前に着いた。Jamieが降りて来て、昨日はPlastic Boardにお前の名前を書いて待っていたが合えなかったと大きなボードを見せてくれる。家内のCarrolだといって、助手席の女性を紹介してくれ、彼の家に向かう。

家に着くと玄関を入り直ぐ右手の10畳ほどの部屋を専用に使うようにと案内してくれる。部屋の壁には大きな日の丸が貼り付けてあるに驚き、訳を訊いて見ると、Carrolが通販で最近買っておいたのだという。レースに持って行き、帰りには日本に持ち帰れという。本気で歓迎している気持ちが伝わってくる。

真ん中に廊下があり、相対する左手はまだ学生の末息子の部屋で、其の奥は広いDining Kitchenに成っている。其の奥に応接間、夫婦の寝室がある大きな平屋建ての家だ。

共働きで面倒は見られないので、滞在中は冷蔵庫の中の物を適当に食えとも言う。欧米の家ではこの様な家族は多いく、僕は其の方が都合良い。全て適当に遣れば、餓死することは無い。

一休みした後、JamieがPerthや其の近郊を案内してくれる。Perthの眺めの良い所に立ち寄り観光をする。PerthはSwan川が大きく膨らみ湖の様になった周りに広がる美しい都市だ。オーストラリアでSwanと言えば黒鳥である。水辺には彼らの群れが長閑に泳いでいた。

町の中心地は川の南岸に広がり、高層ビルが建っている。丘の上から見るとビル群と川岸の間には巨大なソーセージの様な建物が見える。Perth Convention Centerだそうだ。

昨日泊まったHostelは中心街にあり、直ぐ傍にPerth駅がある。商店街も近く便利な所であったことが分かる。

Perth郊外の住宅地は殆どが平屋である。どの家も、中央緑地帯のある広い車道に歩道の付いた総幅員50メートル以上の道に面し整然と立てられている。土地にゆとりのある証拠だ。

夕方は3人でGaryの家に行く。GaryはJamieの直ぐ上の兄で、ゴビを走っている。家は石作りで入り口には立派な石の噴水がある。中に入ると奥行きが深く、Jamieの家の2倍もありそうな家だ。父親も来ており、紹介してもらう。奥さんはWendyといい、Croquetの名手で今は現役としてではなく、後進の育成に励んでいると言う。

Garyは良く来てくれたと嬉しそうに言い、今日は特別のWineを飲もうと言ってビンを持ってくる。自分はワインを作っているが此れが初めて自分の家名を入れたPrendivilleワインの一本目だと言って開ける。今後年間500ケースの限定生産をし、ビンには通しの番号を振るのだと言う。僕は幸運な男だ。初めと言うのは兎に角歴史上一回しかない。それにしてもGaryの心配りも心憎いではないか?第一本目の試飲は別に今日でなくても良かったのだ。態々僕の到来を待ち、父のPatも呼んで、新しいワインを味わうことにしたのだ。

其の後近くの中華料理屋で夕食をとる。此処には自分たちのワインを持っていく。オーストラリアではBYO

(Bring Your Own)と表示されている店は珍しくなく、飲み物は持ち込みが出来る。ここでも話が弾む。Garyに訊いて見ると、Wineを手がけるようになったのは彼の代になってからであり、長兄のPat(父と同名、又Jamieの息子の一人もPatで、西洋ではこの様な命名は普通。この他殆ど人が綽名を持ち、これは動物の名前が多い。JamieはCrabs, BillieはBent Beakなどと呼ばれる。これはオーストラリアの原住民の影響ではなかろうか?)と共同でこの辺りでは一番古くまた大きいWinery、Sandalford、を買収したのだという。主製品はSandalfordのブランド売っていくが、特に選りすぐった手摘みの葡萄で特別に作ったものはPrendivilleのBrand名で今年から売り出すという。

御馳走にばかり成っていられないので、此処の支払いは14000円を皆に代わってする。一人2000円強で大した額ではない。

車で家に戻り、就眠。オーストラリアでは少しぐらいの飲酒では平気で運転するようだ。道路は広く、車も少ないので、事故は少ないのであろう。

翌土曜日は、近所の喫茶店でサンドウィチを食べ、コーヒーを飲んで、King‘s Parkに3人で出かける。    Perthの北北西にある幅2キロ、長さ4キロほどの自然公園で、市民憩いの場と成っている。公園の南側にはSwan川が湖のように広がっている。水面には軽飛行機の競技用に色々な誘導塔が立って居り、週末には飛行機の曲乗りが行われ、公園の芝生には此れを見る人で埋まっている。土地にゆとりの無い国では望むべくも無い、週末の過ごしかたが此処にはあるのだ。

僕らの目的は公園内を歩きまわることにあり、早足で汗をかきながら歩く。鬱蒼としたユーカリの森もあり、その他この地特有の草木の生える公園は壮大である。起伏も結構あり、走りや歩きには打って付けの場所だ。

珍しいのはGrass Treeと言う木だ。葉はイネ科そっくりで、膝ぐらいの高さになるまでは草とそっくりであるが、実は木なのである。成長するにつれ、木質部は上に伸び、又太くなる。木質部の上部から出る葉は其れだけを見ればイネ科の草其のものだ。オーストラリアには火に強い植物が多く、これも其の一つである。森林の再生を促すため、此処では15年に一度は山焼きをすると言う。焼かれたGrass Treeは真っ黒になり、両手を伸ばして立っている黒人さながらに見える。このため、昔はBlack Boyとこの木は呼ばれていたが、今では差別用語と見做され、この呼び名は消えたのだという。

2時間ほど歩き、一旦川の水面近くまでおり、Perthの市街に向かい、その後左に向きを変え、又上りだし、   King‘s Parkの駐車場に戻る。一旦家に戻り、急いでシャワーを浴びた後、長兄の出ると言うPoloの試合を見に出かける。

試合は2時からであるが、間に合いそうにない。場所はパース空港の更に東にあり、一時間以上かかって着いた時には試合は始まっていた。広大な会場の入り口近くにはイタリア、ドイツなどの高級スポーツカーの展示があり、金持ちの集まる雰囲気が溢れている。

大きなテントのある招待席に案内されワインをすすめられる。ChampaignはFrance産であるが、後は全部自家生産のものがふんだんに並べられている。

 Poloの試合を見るのは始めてである。ルールも分からない。ただ見ていると非常にスピード感がある人馬一体となったスポーツである。1チーム4人のチームプレーで、小さな木の玉を馬上から木槌で叩き、自陣に早く持ち込むと得点になるようだ。試合は7分間行われ、休憩を挟み何回か行われる。馬は其の都度新しい馬に代える。正に貴族のスポーツだ。休憩の間は飲んだり食べたり、社交の時間だ

テント内には大きなソファーも用意されており、優雅な雰囲気がある。Garyも父親も来ておる。家族でこの年中行事を楽しんでいるようだ。

Poloの起源は中央アジアの騎馬族に始まり、紀元前600年当時のPersia(現イラン)とTurkoman(トルクメニスタン)の試合の記録があるという。近代スポーツとしてこれを発展させたのは大英帝国だ。 

夕食は電車の駅のあるClairmountまで歩き、駅前のItalian Restaurantで御馳走になる。駅前の一等地にある大きなレストランはPrendiville一族が経営しているという。その後早めに就眠する。

18日、日曜日、Wendyが迎えに来て、FreemantleのNorth Portまで送って呉れる。この事は前回会った時に決めておいた。今日はPerth市民の保養地でもあり、又世界各地から観光客が来る、     Rottnest島に行くことにしていた。Garyは支配人に電話をして置くので、島に着いたら是非自分のホテルに立ち寄り昼食をするようにという。ホテルは船着場から程なく、島唯一のホテルなので迷わず行けるとも言っていた。

港で往復の乗船券を買う。60オーストラリアドル、5000円弱か?島までは20キロで直ぐに付く。船着場の右左に砂浜が広がり、古い要塞の跡も見える。斜め左に見えるのがHotel Rottnestであろうと見当を付け、歩き出す。場所を確めた後、直ぐ傍の自転車屋に行き、自転車を借りる。ギヤー付きの物は高いので、無段の物を120ドルで借りる。簡単な地図とHelmetも付いている。島は高い所でも200メートル程と思われ、無段の自転車でも行ける筈だと嵩を括る。

出来る限り海岸線に沿って、時計回りに1周するつもりだ。石灰岩の島で、全体に浜の色は白く、濃紺のインド洋との対比が美しい。通年の島の気候は温暖で雨量は少ないので、巨木はなく、地肌が出ている所も多い。

地図で見ると、北東南西に長い複雑な形状の島で、長手方向には15キロ弱、幅も最大地点で6キロほどの様だ。海岸線を回っても40キロ程度ではなかろうか? 走り出すと間も無く鉄道に行き当たる。観光用の列車で、10キロほど先の丘の砲台まで続いているのだ。鉄道は飛行場の横に沿って延びている。ある程度の起伏のある道で、ダートの部分もある。バスも時折通るが、自転車の人が多く、時には歩いている人もいる。子供連れの人も多い。ほぼ半周したあたりの展望台で一休みする。高台にあり、海にも降りていける。木陰のベンチの辺りは暗くなって居り、家族連れが休んでいる。よく見るとベンチの下には動物が23匹動いている。明暗の差が大きすぎると、どちらを見ても瞬間的に良く見えないことがある。陰の中に入りよく見ると、兎ほどの鼠に似た動物が足元におり、子供たちが触っても逃げようとしない。これがRottnest島の命名の元になった動物、カンガルーの仲間だ。小型のカンガルーで顔の特徴は鼠そっくりだ。オランダ人が1696年にこの島に始めて上陸し、鼠巣島(Rott=Rat,Nest=nest)と名づけたのだ。島はその後、要塞、監獄、軍事施設などとして使われ、観光地となったのは戦後である。この動物は島の彼方此方に居るらしく、港の傍の公園でも見かけた。

所々に展望台があり、自転車を降り眺めてみる。打ち寄せる白い波,鬩ぎ合う岩、其の向こうには何匹かのイルカが海面を飛んだりしている。時期によっては鯨も見られるのではなかろうかと思う。彼方此方の小さな浜では泳いでいる人もいる。季節的には日本の10月末に相当する。緯度的には宮崎市とほぼ同じであるが、大陸の西に特有な温暖な気候で、降雨量も少ないのであろう。3時間ほどで一周し、更に地図に出ている北部の湖が連なる所に行って見る。非常に浅い湖が幾つか広がっているが生き物は見られない。乾季には完全に干上がって仕舞うのであろうか?

島を一周して、適当に起伏があり、景色も良く、車は少ないので、マラソンの舞台に相応しいと思った。後で調べるとマラソン大会もあり、また大陸側から島への個人及び団体リレー水泳大会もある事が分かった。

ホテルのフロントに行くと、支配人が待っていたよという。先ず昼飯を食べてくれと、カードを渡して呉れる。此れで全ての飲食は決済出来るので、好きなものを存分に選んで欲しいという。海の見える大きなレストランに座り、ペッパロニピザと水を頼む。

ユックリと食べながら、海を見る。海との間には木張りの床があり、そこで飲食をしている人たちも多い、右手の方ではパーテーを遣っているようだ。其の向こうに砂浜があり、其の先にホテル専用の船着場がある。イルカも時折見える。ほぼ正面には20キロの海を隔ててPerthの中心街のビル群が見える。ホテルそのものは大きく無いが、ユッタリとした雰囲気がある。

食事が終わり、カードを返しに行くと、支配人がホテルを案内してくれる。元々は総督の別荘で150年以上前に建てられた物をGaryが買取り、ホテルとして使い出したと言う。大部分の改装は終わり、又別棟も建て営業しているが、一番古い部分の改装は現在進行中だという。石造りの2階部分で、建物の中心部分で見晴らしは良い。此処はGaryの専用の空間で工事は急がないという。可也広い空間に寝室、書斎、応接間、事務室など作る予定で、ほぼ2階の大部分を金稼ぎの為ではなく、私用に使うと言うのだ。Garyは気が向いた時に専用の船を桟橋に横付けし、何日か滞在する筈だともいう。ゆとりとはこういうものなのであろう。 

ホテルを後に出航までにやや時間があるので、傍にある土産物屋を見ながら桟橋に向かう。Freemantleの港に戻ると、Carrolが来ている筈であるが見当たらない。同じ船に乗ってきた連中は皆去ってしまい、港の建物の内外には若干の要員が居るだけだ。今日の営業は終わったのだろうか? 風が吹くと寒いので、建物の中の陽の当たる所で暫く待つと、Carrolが探しに来た。

19日7時過ぎ、Clairmountの駅に行く。自動販売機で券を買おうとしたが、カードでは買えない。現金5ドルを入れ、2.4ドルの券を買うとするが、券も出なければ紙幣も戻らない。現地の人に聞いてみるが、処置なしだ。未だ機械は多様な対応は出来ないのであろう。結局、持ち合わせた、コイン相当分を入れPerth行きの切符を手に入れる。

電車はPerth−Freemantle間を結構頻繁に走っており、便利である。朝早く空いており、25分余りでPerth駅に付く。この辺りは一度来ているので、方向感覚は出来ている。迷わず、8時少し前に旅行社のバスの停車場に行き、Print outした予約券を出し、バスにのる。Pinnaclesまで往復560キロの一日コースで25000円だ。

大型のバスに30人ほどが乗っており、外国人も多い。出発すると大きなカジノの傍を通り、スワン川を渡り北に向かう。潅木の生えた乾いた土地や羊の放牧をした平野を延々と走る。途中観光動物園により、コアラやウォンバットを見る。これらは他でも見ているので、余り興味はない。

又車が走り出す。途中の町で食事をし、更に北に向かうと、景色が変わってくる。丘陵地帯となり、黄色や純白に近い地肌が見えてくる。海底隆起の大陸ゆえ、石灰岩が主要素であり、白が基本なのであろう。黄色や赤みを帯びた岩石は鉄などの他の成分の影響であろう。Pinnaclesには2時過ぎに付く。入り口から暫くは整備されて小道が続くが、其の先はほぼ自由に歩けるように成っている。可也広大な範囲に筒状の奇岩が立って居り、大きさも姿も実に様々である。大きなものは34メートルの高さで、底部も大きい。小さなものは膝より低く小さい。岩の色は黄色が主で、濃淡があり、中には黒ずんだものもある。何故この様な奇石群が出来たについては2−3の説があり、特定出来ていない。ハッキリしていることは海底隆起後の地上での風化の産物であることだ。理屈は抜きにし、大小様々の奇岩の存在と、その広範囲な分布に驚異の念が沸く。長年に渡る地球の変化、造形力は計り知れないものがある。奇岩群の先のほうには純白な岡の頂が見えるが、其処まで回れる時間はない。黄色と白の岩の小片を持ち帰る。

 

Pinnaclesを後に、帰りは海岸寄りの道を走り、白い砂丘に立ち寄る。此処で暫く砂滑りをする。Snowboardに腰を降ろし、急な砂丘を滑り降りるのだ。斜度は45度以上であろうが、滑る距離は20メートルほどで余り面白くない。乗って来たバスは4輪駆動で、急な斜面も物ともしない。砂丘の中を縦横に乗り回した後、日没間近にPerthに向かう。もう少しユックリPinnaclesの辺りの砂漠を歩いて見たいものだ。

今回の旅ではWave Rockなど自然の造形を見たく、適当なツアーを探したが、23日の内に催行されるものは無かった。

夕食はGaryの家に招待され、皆で行く。毎日ワインを浴びるほど飲み、御馳走にあり付けるのは此れが生まれて初めてだ。今日はWendyの指揮で、雇いのCheifが作った鮭のムニエルにアスパラガスの料理であった。長老のPatも来ており、彼は86歳でも自分で車を運転して遣ってくる。何時も食事の招待を受けた時は自分で作った  Dessertを持って来るのだという。元気な老人に会うのは楽しい。

20日、レース前の日数も少なくなった。Freemantleの市内の観光に歩いて行く。往復40キロほどなので、朝早く出かける。途中までは徒歩や車で通っているので道に迷うことはない。川と海に面した街に行き着く為に直線的な道は無く、可也の回り道がある事が行って見て分かった。Rottenest島に行った時の港の傍まで行き、その後川沿いに3キロほど逆の方向に渡り橋を渡らなければFreemantleの街には入れない。

Freemantleの街はPerthより古く、教会、裁判所、監獄など石の建築物が残っている落ち着いた町だ。街の規模は小さく一時間ほどで目ぼしい所は見て回れる。

天気はPerthに来て以来何時も良く、時に暑いこともあるが、概ね快適だ。帰りは橋を渡った所で、先ほど来た左の方に曲がらず、ほぼ一直線に延びている鉄道と並行する道路を進むことにする。行き止まりの道であれば引き返せば良いのだ。幸いなことに道は続いていた。無事陽が落ちる前に帰着する。

夕食はCarrolがLambのスチューを作ってくれ、アボガドと野菜のサラダと共に食べた。今日もワインを飲んだのは言うがなもない。

21日、レースの必要品を揃える日だ。オーストリアは食料品の持込には厳しい制限がある。病原菌や害虫の蔓延を防ぐためだ。この為、レース中一週間の食料の殆どは此方に来てから調達する旨Jamieには伝えて置いた。干し肉、ナッツ類、乾燥果物を買う予定だ。それに蚊やその他の害虫予防の塗布剤は此方で買った方が良いと思っていた。

Jamieの子供3人とJaremyの将来の伴侶(?)のKattie等は装備も整ってないものがあるので、沢山の店を回らなければ成らない。車に分乗して最初に市場に行く。此処でナッツや干葡萄等を調達。次ぎにPerthの中心街のスポーツ用品店を何軒か回り、装備、虫避け剤、携行食品などを揃える。最後にスーパーに行き、干し肉、や粉ミルクを買う。途中で昼食を取り、2時ごろ帰る。其れからが又、各々準備が大変だ。装備の中には其の侭では使えないものあり、夫々の要求により、改造したり、取り付けたり、大変である。

僕はほぼ用意は出来ているので、海岸に出て走ってみる。Jamieの家から西に5キロほど走るとインド洋にでる。浜沿いにサイクリング道路が整備されており、気持ちよく走れる。Freemantle港のContainer   Craneの見える南の方向に走る。薄暗くなって戻ると、皆まだ準備に忙しい。シャワーを浴び、冷蔵庫の中から好きなものを取り出し、勝手に食べて寝てしまう。 

此れ以降は最初からまた読めばよい。

 

医療費

 5月19日付で請求書が送付されて来た。早速Scannerでコピーを取り、保険会社に送ると、支払い手続きは一切するとの返事が返ってくる。後此方ですることは航空券の写しを送るだけだ。

請求の内容は詳細には分からないが、4月27-29日の日付毎に金額が書いてあり、合計は約4500オーストラリアドルであり、別に救急車代として400ドルであった。あちらでは救急車は民間の会社が運営しているのだ。

円価では40万円強と成ろう。旅先での事故や病気は高く付く。最悪の場合を想定して保険は掛けて置いた方が良い。この金額が安いか高いかの判断は僕には出来ない。今までに外傷で縫ったことも無く、輸血も初めてだからだ。

それにしても僕は運の良い男だ。転んだ場所に直ぐ医者が来なければ、モット多量の出血を起こし、命の危険があった筈だ。又顔は打ち付けた所がもう5ミリ上であったら、目に障害が残る可能性もあった。

 (やや時間が掛かったが、保険金はレース前の歯の不具合の治療費も含めて、全額振り込むとの通知を受け取っている。) 



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皆さんの家「豊心庵」
平成22年6月27日掲載

10.06.05. Spitsbergen Marathon
10.06.22.大森


 朝起きると天気は上々である。此処に来て7日目であるが、青空の見えることもあったが、殆どは曇りで、毎日小雪が降る日が続いていた。レースの日にこんな上天気になることは全く期待して居なかったので、嬉しい。同じ所に居て夜も昼もない生活をしていると、曜日などは如何でも良くなる。日曜日と思って何時もより一時間遅く8時に食堂に行くと、多くの人が既に食事の最中であった。実は土曜日であり、7時から食堂は開いていたのだ。

この一週間毎日同じものを食べている。此れが本当の定食というものであろう。それでも色々品数は豊富だ。ジュース2種類、パンは5-6種類、セリアル4種類、ゆで卵、ごちゃ混ぜ卵焼き、ハムは4種類、チーズはNorway特産の山羊チーズを含め3種類、Norwayでは良く出てくる鯖ケッチャプの缶詰、鰊酢漬け2種類、北欧風チューブ入りタラコ、酢漬けは赤カブと胡瓜、野菜は胡瓜、トマト、ピーマン、ヨーグルト2種類、果物はオレンジにスイカ、ジャム3種類、蜂蜜、クッキー2種類、それにコーヒーと紅茶、牛乳は代用品で、脱脂白色飲料と呼ぶべきものだ。

僕が気に入って居るのは鮭や鰊の加工品と、山羊のチーズでこの甘みが何とも美味しい。スイカは径が20cmほどの物であったが、甘く美味しかった。

一時間半後には走り出すので、控えめに食べ部屋で横になり、今日の衣装を考える。気温は上がっても5度は超えないので、手袋や防寒帽は必要だ。それに上下共長い物が2枚は必要だ。此れでも風が吹けば寒くなるは間違いない。其れにしとて3枚も着て走るのはどうかと思うので、上下2枚で走ることにする。ゼッケンは昨日の内に貰ってあるので、シャツに付け、9時半に石原氏と共に宿を出る。出走地点は緩やか下りを歩いていけば10分ほどで着く。用意は出来ているので、スタートまで体育館の中で待つ。参加者は我々より皆若く、約60人中60歳以上は3人しか居なかったことが後で分かる。

スタート地点は町の体育施設の広場からである。小さな大会なので、静かなスターとなる。昨日貰ったコース図を見ると、既に我々は滞在中少なくても1回は歩いている所なので、ほぼ道に迷う心配は無い。広場を出ると宿の方に500メートルほど戻り、手前で右に曲がり町の真ん中を流れる川に掛かる橋を渡り其の先で更に右に曲がり、谷に沿ってダートの道を下ってゆく。

此処で走っている場所や地形の理解を容易にする為に、Spitsbergenの概要を述べたい。この地名を知っている人も多いと思う。我々の時代は中学か高校の時、石炭の産地として社会科の教科書に出ていた。今は炭鉱は殆ど閉山しており、資源の産出としての重要性は無いので学校では教えないのかもしれない。

Spitsbergenとは北欧語で尖った山を意味し、その名の通り、氷河に削られた岩肌が剥き出しの険しい岩石の山が連なる島である。島は北緯77の南から80度の北まで広がり、南北に長い複雑な形状をしている。島の周りには名前のある島だけでも他に10余りがあり、これらを含めた群島はSvalbardと呼ばれている。1920年のSvalbard条約の締結によりNorwayの統治となっている。ザット見ると、これら島の広さは九州よりは小さく、四国ぐらいであろう。この中でもSpitsbergenは最大の島で、南北450キロ、東西の幅の広い所は220キロを超える。入り組んだFjordが多いため、その海岸線は4000キロ近くになる。尚現在定住地域は何箇所かあるが、それらの結ぶ道路は無い。

さて、Spitsbergen Marathonの舞台は勿論Spitsbergenなのであるが、此れでは漠としている。北海道マラソンが実は札幌という更に小さな地域で行われており、其のコースを理解するには札幌の町を知ることだ。

我々の走っているのはSpitsbergenの首都とも言うべき、Longyearbyenの町であり、ほぼ島の中央に位置する。町名の起こりは米人実業家Longyearが1906年此処の炭鉱を所有操業したことによる。ByenはByの異型で北欧語では集落を意味する。

 

 走っている所は氷河の削り取った川底の左岸に近い所であり、左側は傾斜のキツイ絶壁に成っている。氷河が削った断面はU字形をしているのを思い出して欲しい。岩の頂上や傾斜の窪みには雪が残っている。中腹には炭鉱の跡が見え、石炭を運び出す為に作ったケーブルカーの塔が延々と続く。全て木製であるが、100年経っても殆ど痛んでいない。驚嘆するのはこの様な急傾斜の場所に木製の塔を立てた技術と、それが未だに現状を留めて居る事だ。岩肌を見るとほぼ水平に隆起した水成岩の島であることが分かる。炭層はほぼ同じ高さにあり、其の掘り出し口がほぼ1キロごとに水平な位置にある。炭層は氷河に削られた際場所により剥き出しになり、石炭が地表で彼方此方で見られ古くから鯨を取っていた人たちはこの島の石炭の存在を知っていた。資源として本格採掘が始まったのは20世紀に入ってからであった。

右手を見ると、7-800メートルの反対側の氷河の跡の川岸が見える。こちら側にもほぼ左岸と等高線上に炭鉱や搬送用の塔が見える。石炭は同じ時代に出来たので、炭層は同じ高さにあるのであろう。前方にはLongyear―byenの町が広がる。其の更に先には海が見える。氷河が作った海だ。今走っている所ももう少し深く削られて居れば海になっていた筈だ。

みぎに曲がり橋をわたり、直ぐに左折し街の中を下って行く。町の幹線道路なので舗装である。右手にホテルと大きく黒茶色の奇妙な建物が見えてくる。大学と博物館が入っている建物だ。其の先で右に曲がり、海に平行した平坦な道を走る。暫く行くと街の外れで、此処まで3キロ強だ。路面に1キロごとの表示と分岐には矢印や人が居るので安心して走れる。

少し走って行くとAdvent Fjordの奥となり海は終わり、陸の湿地となる。左手に犬小屋が見えてくる。観光用の橇犬が何十匹もいる。金網で出来ており、犬はこれがいいのであろうか。其の直ぐ先は水鳥の営巣地で沢山の鳥が卵を抱いてじっとしていた。其の先のもう一つ犬小屋があり、喧しい泣き声をあげている。鳥の営巣地に人間の営業活動が入り込んだのであろうか。鳥達は他に行き場が無いのだろうか?

 

更に行くと道は再びダートとなる。熊に注意の表示もでている。左手には又炭鉱の遺構が延々と続いている。其の手前は湖と成っている。道路はダートであるが道幅は20メートルほどある。今は石炭をこの道路を使い港に運んでいると言うが、余り運搬車には出会わない。この辺りで、全てのランナーに抜かれ、ビリとなる。やがて折り返す。今までは快適に走っていたが、逆風となるとやや寒い。しかし、陽が差しており、これ以上寒くなることは無かろうと気には成らない。9キロ地点で給水所による。ドンナ物があるのかを知る必要もある。水、スポーツドリンク、バナナ、オレンジ、チョコレート、クッキーなどあり、何とか成りそうだ。

マラソンはハーフのコースを2周するので、コースの運営は容易であろう。給水も5キロ、9キロ、14キロ、19キロ、Start/Finishにあるので十分だ。

博物館の建物で左折する。左側には増設中のホテル、新設中の文化センター等大きな建物が多いが、右側は石の多い河原だ。トナカイが2頭草を食んでいる。彼等は素晴らしい動物だ。極寒のツンドラ地帯は草も背丈が20cmに達しない。まして今は青い物など無い。疎らに生えた昨年来の枯れ草や苔を食い、厳寒の地で生命を維持しているのだ。見事な生命力という他ない。ここは寒帯の砂漠、寒く降雨量は年間200−300mmなので草も大きくなれないのだ。

やや上り、右折川に掛かる一番下の橋をわたる。此れで町の橋は全部渡ったことになる。砂利道を下流に向かって走るが、やや上りとなりその後下って、発電所の横にでる。石炭抱きの小さな発電所であるが、この町では其の煙突は大きな目印であり、其処からの煙を見ると風の状況も掴める。

走路は舗装となっており、空港に通じる道だ。海と平行し、右手は海、右手の一段と高くなった岩の上には石炭搬送の塔が前方に延びている。何処を見ても炭鉱の遺構が見える島で、教科書に載った理由も窺える。

小さな港を通り過ぎる。此処には小さな貨物船も時折見かけるが、今日は見当たらない。今は観光の町と成っている人口2000人余りの町の港の荷扱い量は大したものではないようだ。その1キロ先ほどに石炭積み出しの港が大きく海に突出ている。全体が黒色の中大きなクレーンが2基空を突いる。更に其の先には蒲鉾型をした空港の建物が見える。

14キロの給水所を通過する。折り返しは空港駐車場外れで15.5キロ地点だ。走って行くと直ぐ前を走っている女性2人が折り返してて来た。1キロほどの差がついているが、余り気にしない。空港駐車場下の浜辺にもトナカイが3匹居る。折り返して16キロを過ぎると、右に折れ砂利道に入る。この道も既に何回か通っている。先ほどの町から空港への道とほぼ平行で20メートルほど高い位置にある。暫く行くと先ほど下から見た石炭搬送ケーブルカー設備を上から見て走ることになる。この搬送装置で先ほどの港まで石炭を運んでいたのであろうが、今は港までは繋がって居ない。ここではほぼ完全な姿で残って居り、石炭を入れる鉄製の箱もケーブルにぶら下って連なる。中には箱が逆さに成っている物もあり、荷降ろし地点で箱を逆さにして内容物を落下させる機構を備えて居たことが分かる。塔こそ木製であるが、機械化は相当進んでいたようだ。

徐々に上りとなり、ケーブルカーは発電所の裏まで続く。其処には中継地点と思われる施設がある。先ほど見た谷の両側からの石炭は此処で合流させ、一つの搬送経路で港に運んだと思われる。可也大きな鉄製の建物が残っている。

登り切った所が19キロの給水所だ。水を飲み、チョコレートを食べて走り出す。ここからも町全体が見え、ゴールの施設が見える。Longyearbyenの町は氷河の跡にあることは先に述べた。町の中心の川を3キロも遡って行けば、其処は氷河の先端で年々後退しているという。走っている方向には未だ氷河があるのだ。スタート地点に戻り、2周目に入る。2時間40分を超えている。最後の2-3キロは先頭ランナーが追い越して行くかも知れないと思ったが、それ程早い人は居なかった。

コースは単調にならない様考えて作っているのであろうが、21キロの内7キロほどは折り返しの部分であり、往復同じ所を通る。2周目は其の繰り返しなので、景観の面からは同じである。異なるのは気象条件や本人の心身の状態であろう。今回は天気も安定していたの、2周目も此れとて変わったことは無かった。7時間は覚悟していたが、5時間半を切ってFinishが出来、目的は完遂。

完走時には小さなメダルを呉れる。大会当局かれ出るものは此れだけである。記録証は用紙を渡されるだけで、後は自分でInternetを調べて書き込めという。体育館の中で、給水と給食をして宿に向かう。Showerの設備もあるが、宿は近いので其の侭帰った。

 

その他レース情報

今回で16回となる大会で、Internetで情報を出しているが、十分ではなく、問い合わせに対する対応も良くない。唯実際のレース当日の運営は非常に良い。

制限時間は9時間。天候や積雪条件によってはこの程度必要なこともあるためか?

エードやコース表示、レースの安全面は良い。この辺りでは白熊の危険があるのでライフルを持った要員が要所に居り、数名が銃を持って不整地走行車で巡回している。実際にどの程度の危険確立なのか分からないが、遭遇したら命は無いので、万全を期してのことであろう。

参加費は400NOK,約6000円、当日払いが出来る。カード可。

女性の参加者も多い。フル、に加えハーフ、10キロなども行われ、10キロは子供や地元の人たちが多く、参加人数から見たらこちらの方が主といえる。

僕の知る限りでは陸上では最北のマラソンである。極点で行われるIce Maratonは此処からの Charter便を使い行われる。

このレース知ったのはJosteinを通してであった。彼は何年か前にここを走っており、その後もSwedenの友人が走っている。昨年も参加しようをしたが、当局との連絡が思うように取れず断念した。

 

レースの前後

このマラソンに参加するには先ず足の確保が先決である。3月の中InternetでLongyearbyenへの便を探す。北欧は6-7月の運賃が極端に高くなる。先ずOsloまでSASの安いのを押さえた、これはMile―ageが25%しか付かない。Longyearbyenまでの通しの切符はこの業者では扱えないと言うので、別途SASで直接Net手配する。Osloまでの往復12万円、Oslo−Longyearbyenは4万円であった。但し出発日は5月28日と早い。レースに参加するだけであれば、6月に入ってから出かけても十分間に合う。唯この場合、運賃は万の単位で増えるので現地に早く行ってウロウロしようと考えた。

足の手配が付けば、宿である。厳寒の地で野宿は出来ない。先ずOsloで2泊、帰り1泊するため、Youth Hostelを予約する。此れは切符を分けて買ったため、便の遅れが出て乗り継ぎが出来ない場合の、切符買い直しの危険を回避する為に必要なのだ。Osloは何回も行っているが、同行の石原氏は初めてなので丸1日の観光は最低必要と考えた。Longyearbyenでの宿泊は5月30日から6月5日までの7泊の予約もInternetで行った。Spitsbergen GuesthouseはTwinの部屋で2万弱する。他にもホテルはあるが、何処も更に高い。物価は高いことは聞いていたが、何もかも必需品は全て遠隔地より運ぶことを考えれば止むを得ないのであろう。これらの払い込みも事前に済ませる。

5月28日成田で石原氏と落ち合う。便は2時間遅れるが、その間Loungeで待つ。

SASも経営状況が厳しいのであろう。色々試行錯誤し、利益の確保に努めているようだ。酒類は昔は自由であったが、一時2杯までとしていた時代があった。今回は食前、食中、食後は無料で、その他の時間は有料としていた。

順調に飛びCopenhagenで乗り換え、Osloには夕方付く。Hostelからの案内のバスを探し乗り込む。支払いはカードで180NOK(1NOK=14,5JPY),一時間ほどで、目的のバス停に付き、指示通りの道を辿ると岡の上にHostelが見える。周りは新緑が美しい。この時期午後の9時ごろでも太陽は出ている。

部屋は4人部屋で、先客が一人居る。綺麗で大きさも十分な部屋だ。委細か舞わず兎に角寝る。

翌日確りと朝食を取って、Osloの中心街へ向かう。4キロ程だというので、昨日乗ったバスの路線に沿って歩いて行く。道は直線ではないが、角々で街路の表示を見て行けば迷うこことは無い。Osloの中心街と其の先の海が見えてくる。尚下って行くと、見覚えのある教会が見える。覚えている人も居ると思うが1997年にSt.Olav‘sLoppetを走った時の我々のホテルはこの傍で出入りに便利であった。教会は傾斜地に立って居り、教会と一体となっている建物の下側は土産物屋などの店舗と成っている。此処までくれば地図なしでも歩ける。

教会の両側には広い通りがあり、此れを登って行くと国会、玄関横にイブセンの王の立つ国立劇場などがある。国会から先は真ん中に広い公園を配した道路となっており、其の先に王宮が見える。天気は良く、今盛りと成っている色々の色のリラの匂いが漂ってくる。左手にはギリシャ様式の大学の建物がある。

王宮の周りのリラは見事だ。王宮には衛兵が居り、其の裏側は広大な公園が広がる。池には水鳥に餌を遣る親子連れがいる。光の中で絵になる光景だ。公園を通り抜け、更に上に上がってゆく。道は直線ではないが、大体の方向を目指して行けば、夥しい程の石の彫像で出来た塔の建つ丘がある。其処を目指して歩く。行く途中の右左には高級住宅が立ち並ぶ。

この公園も広い。巨大彫像石塔の他に青銅などのもの沢山ある。彫像はどれも人体より大きく、人の様々な表情を表している。見て居ても飽きないほど様々な表情だ。空が暗くなり、大粒の雨が降り出す。屋根のある建物は無く、大きな木の陰で雨宿りをする。一過性の雨で其の後はまた晴れて来る。

同じ道を戻り、国会周辺に来ると大道芸人が沢山居る。土曜日の午後、子供連れも多く、通りは賑やかだ。この混雑の中で石原氏と逸れる。僕は宿に帰ることが出来るが、彼は道を覚えているかどうか心配になる。教会の一角で腰を降ろして待つ。教会の中にでは何か芸人の一座が集まっている。大型バスを止め、像やその他の動物の縫い包みもある。何かイヴェントがあるようだ。暫く待つが会えないので、教会をユックリと一周する。それでも会えないので、諦めて要塞の方に歩き出す。そこで、彼が前方から遣って来た。やれやれである。Osloは何十キロも入り込んだフィヨルドの奥にあり、海からの襲来に対し要塞を築いたのである。其処は広い公園となっており、建物も残って居り、大砲が海に向かって並んでいる。直ぐ傍には巨大な観光船が停泊しており、新たに入ってくる船も見える。この時期船旅は盛んなようだ。

4本マストの大きな帆船が見えるので行ってみる。古いロシアの観光船であった。其処からは此れまで見たことのない白い巨大な建築物が見えるので行ってみる。オペラハウスである。ほぼ完成しているようだ。白亜の石の建物が海に向かって立って居り、Sydoneyのオペラハウスの向こうを張った様なものだ。

其処から中央駅は近い。駅に立ち寄り、市庁舎に向かう。二つの塔を持つ直線的な建物は良く目立つが,此れまで中に入ったことは無かったので入ってみる。欧米の市庁舎は日本と比べると開放的だ。出来る限り、市民に公開している。入ってみると大きなホールがある。Stockholmの市庁舎ホールより大きいかもしれない。石作りの見事なホールで天井は高い。上の階には幾つかの広間があり、議事堂も公開している。市庁舎の大分は行事の為の施設で、執務は二つの塔の建物で行われているようだ。庁舎の直ぐ前は道路を隔てて広場があり、子供向けの演劇を遣っていた。広場の先は遊覧船の船着場となっており、Stockholmの市庁舎と立地は似ている。観光は此れで終わり歩いて戻る。Hostelに戻る前に明朝空港行きのバス乗り場を確認して置く。

30日朝7時過ぎのバスに乗る。オスロからトロムソ経由でLongyearbyenに向かう。Tromsoでは一旦飛行機を居り、同じ飛行機で飛ぶ。

目的地の空港からはバスが出ており、ホテルの前まで50NOK、これは現金で以前から持っていたノルウェー通貨で払う。車窓からの眺めは如何にも寒々しい。それほど高くない山の頂は皆白く、谷間にはバスの走る道路の端まで雪が残っている。海は流氷が一杯である。炭鉱の遺構の跡が随所に見られる屹立した岩肌は人を寄せ付けない厳しさがある。

ホテルには4時ごろ着き、受付を済ませる。鍵を渡され別棟に行けと言われる。昔、鉱夫の宿舎として使われていた建物で、各々建物に番号が付いている。我々の建物は1であり、一番下に建っている。最初に立てられたものであろう。部屋は一階の突き当たり角部屋で二面に窓があり良い部屋だ。一方の窓からは町の全貌と海が見え、眺めは良い。広さは十分で、机や椅子も付いているが、テレビはなくラジオだけだ。ベッドの長さは十分以上あるが、幅は狭い。洗面所は付いているが、トイレとシャワーは廊下を隔てた直ぐ前にある。此処で一週間泊まることなり、別にこれということは無いので町には出ず、先ず寝る。外は明るい。

翌日からレース前日の6月4日までは遣ることは何も決まっていない。来る前にInternetで色々調べたが手頃な観光催行は見付からず、現地入りしてから探すことにしていた。ホテルのフロントでカタログを貰い、調べると化石発掘ツアーと船で行くフィヨルドの鳥の営巣地巡りのツアーがあることがわかり申し込む。どちらも半日のツアーで、合わせて2万円弱である。やや高いと思うが、此処まで来たら此処でしか出来ないことは遣って置くべきだ。

これらのツアーの前に自分たちで歩き回ることが先ず初めだ。世界の中の小さな一点、今自分が居る場所がドンナ位置なのかを知ることは大事である。ホテルで手に入る地図は小さく詳しいことは分からない。それでも次のことが分かる。

Longyearbyenの町は南西から北東に向かって流れるLongyearbyen川にそって出来た町である。この川の3キロ上流は今でも氷河だ。川はほぼ直角にAdvent Fjordに注ぎ込む。このフィヨルドの奥は町から1キロ南東に行った所で、其の先は湿地帯と成っている。Fjordは北西に5-7キロ先で、ほぼ直角に更に大きなIce Fjordに繋がる。従ってLongyearbyenの町は大きなIce Fjordとはほぼ平行といえる。位置的にはIce Fjordのほぼ中間の南東側にある。島全体から見てもほぼ中央と考えて良い。さて、Spitsbergenは氷河活動の影響で今の姿を成したことには触れたが、更に整理をして見たい。

Longyearbyen川の上流は今でも氷河が残る。氷河が解け去る過程で残していったのが今の姿で、U字谷の幅は1キロ弱で深さは500メートルほどであろうか?もう少し深く抉られていれば此処も当然海と成っていた所である。

Advent Fjordの幅は地図上2.5から4キロと思われる。湾の長さは約10キロだ。深さは水面下で分からないが相当の深さがある筈だ。Ice Fjordは更に大きい。幅は30キロを超えている所が殆どで、長さは100キロを超える。川と同じ様に、大氷河に小さな氷河が流れ込み、海洋に繋がり、氷河の後退に伴いその河床に海水が入り込んだ所がFjordと成り、複雑な景観を作り上げたのである。Ice Fjordは島の南西がら北西に走り、其の先端部はほぼ島の中心部に至る。其の上は氷河の山となり一段と高い岩石地帯と成っている。しかし、其処から北に数キロも下ると島で最長の氷河がほぼ真北に延びている。島の中央で陸が繋がっているのは15キロほどであろう。もう少し氷河期が長く氷河の厚みがあったら、島は二つになっていたかもしれない。これらの変化は勿論気の遠くなるほど年月の産物ではあるが、それにしても地球には自らの姿を変えていく驚くほどのエネルギーが残っているのだ。

海を隔てて360度山が見えるが、これらの山は皆陸続きである。

ホテルの案内書には町を離れる時には銃を持って歩く様にと注意が書かれている、我々は丸腰で銃の用意は無い、扱い方も知らないので、緊急の際には持っていても役に立つとは思えない。町でも鉄砲やピストルは売っているので、此処では我々でも買えるのかもしれない。滞在中実際に銃を持って外出していた人は1人しか見ていない。前に述べた犬小屋の辺りを子供用牽引車を自転車で引いて走行していた人が居た。子供のことも考え安全策をとっているのであろう。

殆どの所は地肌が出ているので、白熊はこんな所には来ないだろう勝手に決め込んで歩き回ることにする。遭遇した場合は運が悪いと諦める他ない。行く場所はその日思い立つ方向に行く。

ある時はFjordの奥の方に行って見る。幅3キロ以上の湿地が遠くまで続く。殆ど平らであるが徐々には登っていっているのだ。ダートではあるが道幅は20メートルほどもあり、良く整備が成されており、時折車が通る。何処を見ても珍しい景観なので写真を撮る。右手の山には今は使って居ない石炭の搬送送致の遺構が延々と広がる。奥の山の雪の中にはパラボラアンテナの様な物が見えるが,確としたことは分からない。

暫く行くと建物が見えて来た。風の吹流しも見える。看板を見るとAlaska University,Tromso University の共同の施設で、オーロラの研究所であることが分かる。その時はだれも居なかった。傍に小さな飛行場がある。舗装はされていないが、小型の飛行機なら問題は無いのであろう。向い方向から自転車で来て、写真を撮っている女性が居るので立ち寄って訊いてみる。向こうに見える塔は何かと。オーロラの観測アンテナだと教えて呉れた。彼女はデンマーク人で、ここでガイドをしているといった。銃は持っていなかった。熊遭遇の確立は高くないのであろう。見通しは良いので、見つけたら自転車で逃げられる点、我々よりは有利だ。我々の走力では熊には勝てない。遭遇すれば一巻の終わりだ。其処から先に行っても変わった物は無さそうなので引き返した。

 

反対方向にある飛行場の方にも行って見た。石炭の搬送装置の塔が延々と続く上のダートの道である。飛行場や石炭の積み出し港も見える。飛行場の手前で左に折れ、山の上に連なる道の方向を目指す。登って行くと、コンクリートの小さな建物が見え、其の入り口にSvalbard Global Seed Vaultの看板が見える。建物の傍に行ってみると、間口3メートル程の建物で奥行きは深く、岩石の中に広がって居る様だ。庫内に車は入れるようだ。入り口の左側にコンテナーがあり、此処に電源や装置の制御装置が収められているのであろうか、時折換気扇の回る音がしていた。この建物の正面真下には飛行場、其の向こうには海を隔てて山が見える。

後で調べてみると、Norway政府が約10億円を負担し建設し、世界中の農作物の種を無料で保管する施設であることが分かった。運用は2008年より始まり、運営費はNorway政府とBill Gatesやヨーロッパの有志国が主な出資をして居る財団が負担することになっている。天災人災を通して種の保存をするのが狙いで、此処はその立地条件を備えているのだ。先ず地震の可能性が極めて低く、山の傾斜の標高130メートルの岩盤の中の保管庫は気温が安定しているからだ。保管庫温度はー18度で制御されている。此処に150万種あると言われる世界の全ての農業用種子を各500粒ずつ保管しようと言う遠大が計画なのだ。 

更に登って行くと大きな建物と塔が見える。暫く進むと我々の行きたいと思って居た道は行き止まりとなっている。其の先にはNASA等の衛星のアンテナ施設があり立ち入り禁止なのである。右に折れ建物の方に行く。建物は炭鉱の跡でそのままに成っている。Fjordに面する崖の中腹にあり、其処から横に炭層があったのであろう。建物は炭鉱の入り口、事務所などを兼ねていたようだ。掘り出した石炭はコンベイヤーで搭状のタンクに落とし、そのHopperからトラックに積んで港に運んだのであろう。此処にはケーブル搬送装置は無いので、比較的新しい炭鉱なのであろう。建物の屋根はトタンで、周りにはモーター等鉄製の装置も残っているが、余り錆びても居ない。海が近いのに錆びは少ない。この辺の海水は塩分濃度が低いのだろうか?

Spitsbergenには1946年以前の人工物は動かしては成らないとの法律がある。過去の歴史を保存する目的からである。人間が関与したと思われる施設から100メートル以内の人工物はレンガの一片、ボルト一本でも動かすと罪に問われるのだ。

最も設備を全て撤去し更地に近い現状快復を義務づけても、実現は経済的には困難であろう。撤去には建設と同じほどの費用が掛かるはずだ。処理をする設備は無く、全て島から持ち出して他で処理する必要があるからだ。

この廃坑の周りには大きなボタ山があり海に迫っている。十分に製品として通用しそうな大きな石炭の塊も沢山転がっている。数人の若者が不整地走行車で遣って来て、行き止まりを確認して戻っていった。我々も引き返す。帰りは空港バスが通る舗装道路を通る。道路の端にも沢山の石炭の欠片が転がっている。又石炭搬送ケーブルカーの塔の下は搬送中にこぼれた石炭の後が黒々と続いている。正に石炭の島だったのだ。

化石探索ツアーの日はガイドが8時にホテルまで迎えに来る。客は我々2人だ。シェパードを連れ、ライフルを持っている。自分はSweden人でEricと名乗る。Svalbard条約締結国の国民は自由に此処に住めることに成っている様だ。我々も日本が当初批准のの14カ国の中の一つであるので、定住権があると思う。

銃の必要性に関して問うと、一応の決まりもあり、2-3年前現実に事故が起こったと言いい、右手の山の頂を指す。あそこで夏に女性が白熊の犠牲になったという。熊は逸れ熊で体重は80キロと痩せていたという。正に食わなければ餓死の直前であったのであろう。我々の宿は町の一番上にあり、車で300メートルも行けば其の先は雪で車では行けない。我々は運動靴なので、雪上を歩く格好ではなく。出来るだけ雪の硬い所を選んで先に進むが、時折膝まで潜り込む。靴に雪が入り溶け出すと冷たい。難儀しながら登って行く。其の前に一人で上った所まで来ると金網の大きな施設がある。Ericがあれは犬小屋だといい、上下二つの出入り口が付いているのは、雪の無い時は下の出入り口を使い、雪が深い時は上の出入り口を使うのだと説明して呉れた。最初に見た時は、高さがあり、入り口が上下にあり、鳥小屋でもなさそうだし、何なかのと思っていたが此れで納得。更に登って行く。其の先にも炭鉱の出入り口であった木造の小屋状のものがあった。急な坂を上り切ると、雪と氷堆積が散らばる比較的平らな所に出る。更に登って行くと氷河の先端にでるという。我々の格好では氷河までは無理だ。せめてブーツは持って来るべきであった。

 

ここに化石があるのだという。大きな石に沢山の木の葉や枝が化石になったものもあるが、此れは対象外だ。搬送が出来ないのだ。小さいものを探す。この辺りにある石は泥岩のようであり、その昔泥状の土に木の葉や枝が落ち其の侭化石に成ったものと思われる。従って層状の泥岩を割ってみると、其の裏側にも化石が見られるものも多くある。木の葉は薄く、何処を割っても化石として見られる可能性はあるのだ。木の葉は種類も大きさも様々で、多様な樹木がその昔は茂って居り、その結果石炭まで出来たのである。今はこの島には5センチほどになる柳ともう一つの木が自生しているだけであることを考えると、100万年を超える時の経過は地上に大きな変化を齎すことが改めて分かる。1000万年ではモット大きな変化が起こる。Svalbardは現在北東に移動中で、このまま此処に住み続ければ、5000万年後には極点に達するとの予想が出え居る。

一時間も化石を探していると、沢山の化石が見付かる。重いもので沢山持って帰れる訳でも無いので、引き上げることにする。Ericが持ってきたコーヒーを飲み、クッキーを食べて、引き返す。Longyearbyenの全貌が見える。靴は濡れ足は冷たくなって居るので急いで引き返す。 宿に戻り靴をHeaterの傍に置いて乾くようにする。

次の日は終日雪が降り、外に出る気に成れない。テレビのある娯楽室でテレビを見たり、本を読んだりして過ごす。テレビはBBCやCNNなども入り、世界の動きが分かる。鳩山が止め菅が次期首相になることもこの地の果てでも瞬時に分かるのだ。50人ほど収容できるこの建物に泊まっているのは我々2人で、正に貸切の状態だ。Kitchinも付いて居り、適当に調理も出来る。宿にはこの様な建物が13棟ある。5-600人収容可能だ施設だ。

雪が小止みに成った時、窓から町の方を見る。そそり立つ絶壁が末広がりに続く底の部分が町だ。どちら側の岩肌にはほぼ水平な線が走っており、水成岩が水平に浮上して来たことが分かる。褶曲している岩肌は2-3キロに渡り見ることは無い。長年に渡り地盤が安定していたのであろう。

ある日は町の中も歩いてみる。スポーツ用品店,お土産屋、スーパーなどである。店は日本と同じ位の時間に開き、スーパーを除き5時ごろには閉めてしまう。スポーツ用品店等で靴を見るが、思ったほど高くない。税金を掛けて居ない為だ。消費税は25%でこれがあるかないかで、買値に大きな差が出る。他に無いものもあった。携行食品だ。一般的にはこれらは、冷凍乾燥させたものが多いが、Norway産のものは冷凍乾燥真空パックである。こうする事により、重量だけでなく嵩の小さい食品としているのだ。価格もここで買う限りでは一食1000円前後と高くない。この発想はNorwayが歴史的に多くの探検家を排出し、今でも嵩重量ともに小さな携行食品の需要がある為では無いかと思う。

スーパーでは殆どの物が買える。此処も無税であるので、生鮮食品を除きそれ程高くは無い。専用の売り場では酒類も売っており、税抜きのWineをかう。宿で飲む為だ。毛皮を取り扱っている店に行く。幾種類のアザラシの毛皮や、トナカイ、白熊、北極狐の毛皮を沢山展示している。

店員にアザラシの毛皮を日本に持ち込めるか聴くと、OKだという。AmericaとAustraliaは駄目だと言っていた。畳一畳程の物を一枚買う。値段は1万円強で此れを安いと思うか高いと思うかは各人夫々であろう。僕は今までこんな物を売っているのは見たことが無いので、又此れは正しくこの地の産物なので買うことにしたのだ。参考までに1メートル程もある純白の北極狐の一匹ものは3万円ほどであった。留め金を付ければ首に巻ける見事なものである。

博物館も回る。Svalbard博物館は海の近くの大きな建物の中にある。Svalbardの動植物(剥製)、捕鯨、炭鉱など島の発展の歴史が分かる様に展示されており、入場料は60NOK。Airship博物館にも行ってみる。Spitsbergenは極点まで1300キロ、当時北極に最も近い定住地であったことから、多くの探検家が此処から飛行船に乗り極点を目指したのである。中には飛行船の実物は無いが、Norway,  America,

Italia等3機の飛行船の計器、装備や探検家の衣類、探検録、手紙などが展示されている。此処も入場料は同じだ。入り口の前に一畳ほどの木の葉の化石があり、此れは見事だ。更に其の前の広場には炭鉱内で使われてトロッコなどが展示されている。最後は宿の直ぐ傍にあるGalleri Svalbardである。現代作家による絵画や工芸品の展示があり、何人かの作家の工房があり、絵の制作、手芸品などを何人かが行っていた。入場料は此処も60NOK.

町を歩いていると建築中の建物が多く、観光都市として益々大きくなるようだ。炭鉱が廃坑になり、1990年には1000人を大幅に割り込んだが、2007年には2000人を越え、今は更に増えているようだ。一般の家も近代的なものが多く、外装の色彩も鮮やかだ。多くはプレハブであろうか、同じものが並んで立てられている。此処の建築は変わっている。Nord Kappに行った時Honingsvaagで見たものと同じだ。基礎の工法が全く違うのだ。此れは地下が永久凍土であることによる。新築の現場を見ると、地下に木杭を打ち込み其の上に必要強度の修正材を水平に乗せ、其の上に建築をするのだ。出来上がった建物を見ると、どれも人の背の高さまでには透かしの板を打ちつけ、基礎の部分を隠すようにしている。下部を隠した高床式建築とも言えよう。人間生活の熱を地下に出来るだけ伝え無い工夫なのだ。

Longyearbyenの町を歩いて先ず気が付くことは、この建物の下部構造と、道路に沿って走る配管群の連なりあろう。人が生きて行く為に必要なのは先ず水だ。それにこの寒冷地では熱源である。詰まり、上下水配管、暖房用の高温低温配管、2組計4本の配管が必要なるが、永久凍土の土地ではこれらを埋設する訳には行かない。何故なら、どの4本の配管も必要上最低零度以上で無ければならず、配管の放熱で凍土を溶かす可能性があるからである。従ってそれら全部は厚い保温材を巻き地上設置とする必要があるのだ。どの配管も保温材を含め直径20cm以上になる。これらの太い配管這わせる為に、先ず地下に杭を打ち込み受けを作る。この受けの上に対にした配管を乗せ、それらを風雪から守る為の覆いを付けると直系50cmを超える大きなものになる。これら2組の配管群が道路に沿って張り巡らされているのである。

ある日の午前中には船で鳥の営巣地を見に行った。此れも宿まで迎えの車が来た。催行者の会社に行き、防寒風防のツナギを着て出かける。港とまでは車で行く。客は我々2人で船には2人が付く。船は10人ほど乗れるもので、200馬力のエンジンが付いていた。外洋からは何十キロも入った入江で波は殆ど無い。船が走り出すと風は冷たい。暫く行くと、流氷群に突き当たる。間を縫って進もうとするが、無理なので、方向を変えて対岸に向かうが、ここでも又流氷に阻まれる。望遠鏡を貸してくれ、覗くとトナカイの小さな群れが見える。小さいとは言え、此処に来て群れを見えるのは始めてである。また、人家の跡や炭鉱の跡も見えた。

結局今日は目的を達するのは無理という結論になり、流氷に碇を固定し、船の上でコーヒーを飲んで帰ることにする。船に乗っていたのは一時間ほどであろうか? 予定では3.5時間のツアーであったが、代金の返却は無い。こんな物なのであろう。運が悪かったと諦める他無い。本格的な観光シーズンはこれからなのであろう。

我々の泊まった宿は川の右岸にあり、Uの立ち上がり部にある。直ぐ上には可也大きな2Bと呼ばれる炭鉱の遺構がある。傾斜は急であり、途中雪もあるが行ってみることにする。雪が凍っている朝を狙って行ったが、其の日は凍結するまで温度が下がらず、雪は軟らかく何度も潜った。水が流れ滑り易い所もある。遺構に近づくとワイヤーや鉄片など炭鉱で使った物の廃品が多くなる。ヤット上り付き一回りする。其の間に何枚かの写真も撮る。遺構の一番上には大規模なコンクリートの壁があるが、これは急傾斜地の雪崩防止柵であったようだ。町の写真を撮り、戻る。

町とは言え周りの大自然の大きさから見れば、荒野の一軒家のようなもので、宿の直ぐ傍雷鳥が居たりする。トナカイは殆ど毎日1-2頭見かける。同じ個体であろうか。此処のトナカイは今まで見たのとは異なる。南にいるものとは違い、胴体に比べ足が短く、顔も尖って居なく、豚に近い顔だ。この地に適応した独特の進化を遂げた亜種なのであろう。彼等は人を恐れる様子は無く、街中を悠然と歩いていることもある。殆ど彼等に会わない日は無い。それに多いのは鳥だ。種類も多く、大小様々だ。営巣の時期で多くは番と成っている。彼等の鳴き声は24時間聞こえる。夜が全く無く、明るさも時間によっては殆ど変わらない。明るさを変える主因は雲である。

 

北緯78度10分のLongyearbyenは4月19日から8月23日までの4ヶ月余り決して日が沈むことは無く、逆に冬場は4ヶ月全く太陽を見ることが出来ない極夜が続く。白夜と極夜の間は太陽が僅かに見えたり、相当長い時間見えたりする移項期間だ。何れにしてもここに来なければ、この時間の移ろいは経験できない。僕はまだ極夜の経験は未だ無い。オーロラが何時でも見られる可能性のあるこの時期の高緯度圏の旅も良いかも知れない。

町には子供の姿が多い。幼稚園は3つもあるのだ。このことと冬季4ヶ月間は太陽の全く出ない暗闇の生活とは関わりがある様な気がする。又炭鉱の衰微により、島の主産業は観光と極地科学研究となった今は其れに従事する若者が多くなっているからであろう。

Spitsbergenの炭鉱の重要性はその炭質なのか、出炭量かは分からない。この辺りのことは吉田さんが御存知かも知れない。知っていたら教えてもらいたものだ。唯先の対戦中もドイツがこの資源の為、島を占領し、アメリカとカナダの軍が此れを奪い返した歴史を見ても、其の重要性は高かったのだ。炭層は厚さ0.5〜1・0mで水平に広がっていたと言う。人が立てる高さでは無く、工夫は匍匐姿勢で採掘をしていた訳で、大変な重労働であったことが想像される。町の中心部には工夫の像が僕の見た限りでは二つあったが、其の中の一つはこの姿勢での作業姿であった。

 今回12日の旅の費用は、飛行機代国際線12万、国内線4万、宿泊費8万、観光費2万、食費1万、計27万円であった。



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皆さんの家「豊心庵」
平成22年3月7日掲載

10.02.27 Sequoia 50K
10.03.05・大森


6時に起床、先ずカーテンを開け、空を見上げる。激しい夜来の雨も治まり、小雨の状態になって居るので、一先ず安心する。

用意していたサンドイッチをコーヒーで流し込む。6時45分Lobbyに向かう。昨夜のうちにホテルを通してタクシーの予約をしておいた。出走地点までは30分を見ているので、遅くても7時にはタクシーに乗って出なければならない。時間になってもタクシーは来ないので、又呼び直してもらう。やや遅れはしたが、タクシーはOaklandの市街を通り抜け、北東の丘を目指して走る。Redwood Regional Parkの西側にあるJoaquin Miller Parkの入口には予定したより早くつくことが出来た。タクシー代は26ドル余りであったが、30ドル払う。空は曇ってはいるが、雨は完全に止んでいた。

舗装道路から小道を下っていくと、草地が開けて広場となっている。其処がStart/Finish地点だ。受付も其処で遣っている。7時半に受付を済ませる。出走は8時と思っていたが、8時半であった。何人ぐらい走るのか訊くと、50キロは130人余りと言う。この他、10,20,30キロの部があるので500人ぐらいのレースの様だ。

受付後出走までの約一時間は皆立って待つ他ない。草地はたっぷり水を吸い、水が浸み上がっているので、腰を降ろす場所は無い。着替えをし、その上にジャンパーを着て待っていると、“大森さんですね?”と声を掛ける男が居るので、吃驚する。日本人に会うことは全く想定していなく、名前まで知っているとは実に驚きなのである。如何して僕だと分かったのかと訊くと、事前にレースの参加者に日本人の参加を知り、仲間からも是非話をして来る様にと頼まれたのだという。Internetでも調べて見たが、色々な所を走っているようなので、話を聞きたいので一緒に走っても良いかと言うので、了承する。

小野と名乗る、年齢41歳の男は13年前からSilicon Valleyに住んでいるという。走りは2−3年前に初め、Silicon Valleyには40−50名の同好の同胞が居り、時には集まって走ったり、同じレースに出たり、飲んだりするのだという。70近い爺が走りに来るというので興味があるらしい。話をして居るうちにStartの時間になり、焦る。上着を脱いで、荷物に入れておかなければ成らない。

着物脱ぎに行っている間に小野さんとは逸れてしまう。号砲がなり、緩やかな上り道を走り出す。30と50キロのスタートは同時だ。30キロはコースを一周して終わるが、50キロの部はこの後20キロのループを回ることになる。昨日の雨でハイキング道は水が流れ泥だらけの状態で走る条件は最悪に近い。上りでは滑り落ち、戻されてしまうこともある。下りは転ばないように速度を抑えて進む。道はV字になっている所が多く、前後左右に滑り足を取られる。転べば泥だらけ、怪我も覚悟をしなければならない。制限時間の9時間は気に成るが、安全第一だ。20分ほど走ると、前が閊え長い行列が出来る。隘路となって居るのであろう。此処で後ろを振り向くが30人ほどの中には小野さんの姿は見えない。元気な若者なので先に行ったのであろう。ユックリと爺の付き合い等は普通では出来ないのだ。暫く待った後、隘路の現場に付く。

 


倒木があり、その下を一人ずつ通り抜けて行かなければ成らない。その後また走れるようになる。尚、倒木はこの先にも1本あった。昨日の雨で急斜面の木が倒れたのだ。

コース図を見てもコースは中々複雑だ。自然の地形の中のコースなので当然だ。只コースマークは実に良く付いており、道に迷う心配は無さそうだ。レースの名の通り、鬱蒼としたRedwoodの中をしばしば通り抜ける。ここのSequoiaはそれ程大きなものでは無く、根元の直径が1メートル以上のものは少ない。ただ樹高は高く、光が地面に達し難いので、根元の辺りは薄暗い。

広葉樹の森の中も走るが、此処は幾らか明るい。黄色い花を一面に付けているのはアカシアであろうか? San FranciscoTokyoと緯度は余り変わらないが、気温は1−2度ほど高いのであろう。咲き出している花の種類は多い。大都会からそう遠くは無く、時折車の音も聞こえるが、空気が何とも美味しい。これは樹高が高く、葉の量も多い、Sequoiaのお陰であろう。コースは折り返しの所もあり、ここでは速度の異なる走者が互いに狭い山道を声を掛け合い擦れ違う。

走り出した時の気温は10度前後であろう。膝までのタイツに上は長袖、その上にウインドブレーカーを着ていたが、之は暫くして脱ぎ腰に巻いて走っている。長丁場なので何時必要になるか分からない。複雑な山の傾斜に沿って走っており、斜面によっては風が強いところもあり、寒くなることもある。やがて霧が出てくる。嫌な予感がするが、霧は1時間ほどで消散する。天気は回復基調にあるようだ。森を通り抜け、丘の上の眺めの良い所にでる。Oakland の町、San Francisco湾、Bay Bridge,その向こうにSan Franciscoの町が見える。霧で霞んではいるが、写真に収めていると、後から走って来たランナーが、お前を写真に撮って遣るから言うので、断らずに撮ってもらう。僕は自分の写真を眺めて、恍惚になる趣味は無いが、好意を断ることもなかろうとカメラを渡す。

2時間半ほど走り、2度目のエードを過ぎた所で小野さんが追い付いて来る。最初のエ―ドで僕の所在を訊き、前に居ることが分かったので追い付いて来たのだという。こういう際には無精ひげの特徴は役に立つ。この後Finishまで5時間近く一緒に走ることになる。30キロは4時間15分程で通過する。後の20キロは4時間かかっても制限時間内であり、完走の見通しが立ってきた。

それにしても走路の条件は悪い。泥で滑りやすく、諸関接に掛かる負荷は相当なものであろう。幸い膝の痛みは出ていない。関接に障害があれば完走は無理であろう。 

エードには、水、ポーツドリンク、コーラの他、果物、ビスケット、ゼリー、パンなどもある。好みのものを取って、歩きながら食べたりする。エードの間隔は適当であったが、ゴール手前のエードまでは何とも長く感じた。走り出してから7時間近く、朝飯からは10時間近く、まともな食事をしていないので、腹が減って一時はどうなることやらと思った。幸い、小野さんがチューブ入りの食料を持って居たので、其れを貰って凌いだ。

最後のエードからFinishまでは何とも短く感じた。完走時間は7.51.53であった。平均1マイルを15分19秒で走った事になる。これらは直後にInternetに掲載される。50キロの完走者は108名、参加総数は130名余りなので、差は不参加か中途棄権を意味するのであろう。完走後はレース名、日付等が入ったコースターとシャツを貰う。その後、スープを飲み、若干の補給をして小野さんの車で電車の駅まで送ってもらい、分かれた。

San Franciscoに戻ったのは17時半ごろであった。Tokyoは翌日28日の10時半の筈であり、菊池さん等も走りの最中に違いない等と思う。天気はどうなのかとも思う。Internetで調べれば分かるが、Youth Hostelに着いた時はその気力が残っていなかった。満足行く走りであることを願うばかりだ。

その他レース情報

このレースの主催はPCTRPacific Coast Trail Runs)はSarahWendellの2人が中心となった団体で2000年からTrail Raceを開催しており、現在では年間30レースを企画している。参加費も安く(50USD)、企画運営も確りしている。場所も色々な所で行っており、異なった自然の中の多様なコースを走れるのは魅力的だ。又制限時間も一応はあるが、其れに拘わらず、走路に居るランナーがFinishするまでは計時をするようだ。今回も最後のFinisherは10時間を越えていた。一年以内にまた何処かを走りたいと思っている。難点は市街地にレースと異なり、Start/Finish地点は交通の不便な所にあることだ。

会場にあったUltrarunning、の3月号には次の様な記事が出ていた。記事の一つのTitleUltra Strength in Japanとあった。2009年の世界のUltra runningの総纏めである。要旨は次の通り。

100キロトップランナーは日本のHideo Nojo(6.36,33、Yubetsu)とYasukazu Miyasato(6.40.43,Torhout,Belgium)である。一方マラソンでは常にトップを占めるKenyaEthiopiaの最高記録は夫々8.37.43と8.17.36と低レベルである。

ItalyBergamoで開かれた24時間世界選手権で日本は男子団体戦で優勝を果たしている。又12月開催の台湾での24時完走では関家良一が年間最長の263,408キロを出し、女子ではトラックで世界記録である254.425キロをMami Kudoが出した。この2人がこの分野での世界の王者である。FranceSergeresでの48時完走でもMami Kudoは385,130キロの世界記録を出し、以前Sumie Inagakiが持っていた記録を更新した。Sparthtalonの優勝は関家(23.46.24)及び女子の1位、2位は日本のInagaki(31.36,32)及びYoshiko Mtsuda(32.23.26)である。Trans Europe Foot Race(4485キロ)の女子の覇者は古山孝子(529時間6分)である。

又同年度のアメリカのUltra run 事情として次の数字が挙がっている。

走路

山道又は主としてダートコース:84.71%

道路または舗装サイクリング道路:10.21%

舗装及びダートコースの組み合わせ:4.95%

人工トラック:0.13%

距離

50キロ:50.72%

50マイル:24.70%

100マイル:8.97%

時間走:6.96%

100キロ:2.533%

その他:6.11%

完走者数:

1980:2890

1985:5800

1990:9300

1998:15500

1999−2006:記録なし

2007:25842

2008:30789

2009:36106

2009年州別完走者数

California:7872

Maryland:1631

Washington:1442

Texas:1346

Utah:1248

Wisconsin:1270

Oregon:110

Colorado:1097

以下省略

上記から推察出来ることは、アメリカではUltra runningの中で占めるTrail Runの比率は極めて高い点である。これはアメリカの広い国土と、景勝の地の山道が整備されて居る事によるものと思われる。西部沿岸3州、Utah,ColoradoなどはRockyの西東にあり、これらの条件が整っているものと思われる。又Californiaの完走者が他に抜きん出て多いことも注目すべきであろう。同州の旗にはCalifornia Republicと書かれており、共和国として独立していれば経済力では世界で7番目の国なのである。但しCaliforniaは日本と同じで財政的には破綻の状態にあり、大きいことは必ずしも良いことでは無い様だ。

レースの前後

そもそも何でこのレースを走るようになったかを述べよう。長い間平地を走って、足も遅くなってくると、元気な内に変わった所を見て置こうと思う気持ちが強くなる。山道や砂漠を走るのもこのためなのである。僕はアメリカでマラソンは昨年のNYで丁度10回走ったことになる。次にアメリカで走るならTrail Runと決めていた。何処を何時走るかも予め決めていたが、中々条件が整わない。日程の都合、体力、資力が噛み合わなければことは成り立たないのだ。2月から3月初めに何処かを走りたいと思い、計画を練った中にSequoiaMalibu(3月7日)が残った。その段階で僕はアメリカのバス旅行に出かけ、Sequoiaは諦めていた。渡米後もInternetで航空券の安いものを探して居たが、偶々有ったので、急遽購入の手配を済ませ、家内に振込みの依頼をし、Sequoiaが現実のものとなった。

Sequoiaはアメリカの巨大杉(Redwoodとも呼ばれ樹皮は赤みを帯びた褐色である)で自然の中では見たことが無かったので、これを見ながら是非走って見たいと思って居た。葉っぱを見ると日本の杉とは異なり,イチイの葉に似ており、イチイモドキとも呼ばれる木だ。

レースの舞台はSan Franciscoの東湾を隔てたOakland市立のJoaquin Miller Parkであり、その東はRedwood Regional Parkという更に広大な公園である。

レースには余裕をもって日本を24日に立つ。その日はSan FranciscoYouth Hostelに泊まる。市庁舎から程近い便利な所にあり、何年か前家内や雲峰さん等と泊まった所である。

次の日早くOaklandに向かい其処からAmtrakを利用してAuburnに向かう。列車に乗ると次の駅でバスに乗り換えろと言われる。車掌は説明もせずに、兎に角降りて待っているバスに乗れと言うのだ。バスはSan Francisco湾の東側を北上し、Barkley,Richimondを経て、MartinezAmtrakの駅に着く。この辺りまで海が繋がっており、大きな船が見える。此処で又列車に乗り込み、州都のSacramentまで行き、又バスに乗り換える。乗換えで大分時間が取られたが、最終目的地のAuburnには予定の2時に着く。

バスを降りるとGlennとが待っていた。半日仕事を休んで爺と付き合うのだから人が良い。GlennTanyaには昨年暮れにPatagoniaの走り旅で遭っている。Glennは不動産会社の管理職、Tanyaは州の水資源開発局に勤める地質学者で,どちらも40を超えているが子供は居ない。所謂DINKY族だ。Glennの車はVMWのスポーツカーだ。起伏の多い街を彼方此方案内してくれ、ゴールドラッシュが始まった頃、Auburnを州都にしようとした経緯を話してくれる。その為に用意したドーム型の立派な建物は今は博物館となっている。

今は余り利用されていない鉄道の駅には、鉄道建設に携わった中国人の工夫の像が立っていた。これら中国人や黒人の労働力が無ければ、今のアメリカの姿は無かったかも知れないと思える。

彼の家に着き、着替えを済ませ走りに出かける。AuburnNevadaRenoまで160キロの起伏が多い町だ。およそアメリカの町でこれ程道が曲がって起伏が多い所は今まで見たことが無い。不思議な町だ。Sacramento辺りまではほぼ平坦であるが、徐々に高度が高くなり、ロッキー山脈に至る中間の町なのだ。

Glennの家も高台にあり、走りのコースは直ぐに山道に入り、谷に向かって下って行く。可也急な下りだ。一気に300メートルほど下り川に至る。American Riverだ。川にでると起伏は小さくなる。この川を堰き止めダムを作る計画が進んだが工事の途中で中止なったと言う。ダムの建設に有利な地形ではあるが、工事進行中に活断層があることが分かり中止したそうだ。懸命な選択であろう。標高は400−500と高くはないが谷は深くアメリカでも1−2の高い橋脚の橋がたっている。

 

川に沿って暫く走る。此処はWestern States 100マイルのコースと成っている。このレースの最終3−4キロを走ることになり、このことは全く予期していなかった。僕は行く場所の予備調査をすることなく、先ず行ってしまう場合が殆どだ。

やがて又山道を登りだし町に戻る。舗装道路入るとオレンジのペンキで靴跡が付いている。Western States 100キロのコース表示である。Finish地点は高校のグランドで学生達が運動に励んでいた。400メートルのトラックがあり、中央は芝生となっている。レースの時は色々なテントが立ち並び、今とは様子は異なるが、Finish後芝生に大の字になるのは最高だとGlennは体験話をする。その後町のスポーツ屋による。Auburnの町は自らを世界耐久レース首都と5−6年前から呼び、売出しを図っているそうだ。何処にでもある自称何々の町である。店の女責任者が之はVintage物だと言い、AuburnCA,Endurance Capital of the Worldと書いてあるT-shirtPresentにやると差し出してくれるので貰う。中に入るとそこそこの品揃えがあり、雑誌なども置いてある。2001年の雑誌の表紙に沖山健司の写真が出ているものもあった。

上りの合計約6000メートル、下りは7000メートルのこの160キロのレースは今年も6月26−27日行われ、37回となる。Ultraの頂点のレースだ。5月の末には試走会も開かれると言う。

家に帰り暫く立つとSacramentoからTanyaが帰って来て、皆で夕食に出かける。予約して貰っていたThai料理の店で夕食を済ませる。支払いは一晩の宿料の変わりに僕が払う。

家に戻り、先ずPatagoniaの旅で、僕は最初の100枚ほどの写真をメモリーごと失ってしまったので、彼等の撮った写真から持って行ったUSB Memoryにコピーさせて貰う。

その後Patagoniaの話に暫し興じる。Patagoniaも良かったが、其れよりモット印象的な場所があると彼等が言うので訊いてみる。John Muir Trailだと言う。Yosemiteから入り、Mt.Whitney(アメリカ本土の最高峰、4421m)に登る212Mile 山行で、彼等は10キロ程度の装備で完全野宿8日間で走破したと言う。景色は良いし、人にも日に5−6人しか遭わない旅であった言う。話を聴いている内に僕も歩いて見たくなった。山行なので、準備なしにいきなり行ってしまう訳には行かない。調べて実行が可能であれば1−2年の間に行っておかなければならない。

翌26日は金曜日、彼等二人は勤めに出る。Glennも僕も5時半頃起き、コーヒーにバナナ、ヨーグルトなどで簡単な朝食を済ませ、バス乗り場に向かう。GlennはそのままSacramentoの途中にある職場に向かう。バスでSacramentoまでは1時間ほどで着く。

Tanyaが用意してくれた地図に基き州都の見物をする。バスの着いたAmtrakの駅から州庁舎に向かって歩く途中、鉄筋コンクリト作りではあるが、中国風の立派な建物が何棟か建っている。華僑の存在は何処でも我々が考えるより遥かに大きいのだ。州都だけあって、町並みは整然としている。町の中心には勿論ドームを抱く州庁舎とその広場がある。Washingtonの連邦政府の建物と広場を縮小した物と思えばいい。アメリカでは州、や大きな町の庁舎の建物は殆どが同じ様な建築様式となっている。

朝8時過ぎには庁舎は開いており、簡単な荷物検査を受ければ誰でも中を自由に見て回ることが出来る。1階のほぼ中央に州長(州知事と一般的には言われている)の事務室がある。その重厚な両開きの扉の前の通路には大きなヒグマの像と、国旗と州旗が立っている。Californiaの州旗の中央にはこの熊の絵、その下にCalifornia Republic,左上には星が一つ付いる。Spain次いでMexicoの支配下にあったこの土地の人間が独立を目指して1946年にSonomaに掲げた旗が基に成っている。勿論扉の上の天井に近い壁部には現知事の名前が大書されており、その下にはGovernorと書いてある。

州庁舎はSan Franciscoの市庁舎よりは遥かに小さい。この差は立てた年代の違いよる財政力の差なのであろう。

庁舎から西に大きな通りが通っており、その先に大きな橋が見える。其方に向かって歩く。Sacramento川が流れており、町の起こりはここから始まり、西部劇に出て来るような広い木道が続く。河川を使った交易、その後の鉄道建設により、町が大きくなって行った様だ。100年を越す古い建物や昔の看板を出した店など並んでいる。

町を離れ、川沿いを上流に向かって歩く。幅4メートルほどのサイクリング道で、車は入ってこない。Sacramento川は南西に流れやがてSan Francisco湾に最終的に流れ込む。途中大根の花が咲いているので、食べて見る。やや辛く、サッパリとした味だ。旅行中は野菜不足になるので、少し余分に摘み、袋に入れて置く。2−3日は持つであろう。30分ほど歩くとSacramento市の取水場がある。自由に入れるが、無人である。大きなポンプが8台あり、自動で動いているのであろう。

その先が川の合流点となっている。流れ込んできているのは昨日走ったAmerican Riverだ。川辺では釣りをしている人が何人か居る。何が釣れるのか訊いてみると、Striperだと言う。縞バスだ。海水も上がってくるらしく、時としてチョウザメも釣れるという。多くのカナダオオガンが泳いで居り、アザラシの姿も見えるという。魚は沢山居るようだ。餌は鰯を使っていた。American Riverには橋が掛かっており、Highwayと成っている。片側4車線の橋なので幅は広い。橋の下はHomelessの格好の塒で、彼等の集落が出来ている。アメリカは実に貧富の差が多き国なのだ。暫く歩いて、引き返す。

Amtrakに乗ったのは12時過ぎであった。アメリカの大半の鉄道は未だにジーゼル駆動だ。車両は大きく二階建てで広々と出来ている。自転車置き場も広く取ってあり、何台も持ち込める。大きな車両に10人ほどしか乗って居無く、伽藍とした感じだ。トイレも綺麗だ。売店では暖かい食事も出来、値段も手頃だ。

列車が走り出すと、広大な農地が続く。土地はまっ平らで延々と続く。Davisに近づくと果樹園が多くなり、桜桃の花が散りだしている。果樹園の広さは半端なものではない。小さな町であるが、此処にもUniverssity of Californiaの分校がある。

バスに乗り換えるMartinezの駅に付く前に雨が激しく降り出す。乗り換えの際皆溝鼠となる。バスは1時間半ほどでOakland,Jack London駅に着き、又乗り換え、一つ先のColosium駅で降り、予約していたホテルに向かう。激しい雨の中、途中で雨宿りをしながら30分ほどでホテルに着いた時には雨は小止みとなっていた。ホテルはOakland空港に程近く、窓からは発着の様子が見える。

明日のレースに備えて早めに寝る。

レースの翌日28日は金門橋を目指して歩く。San Franciscoは何回か行ったが未だあの橋は渡り切ったことは無かった。Glennの話によると橋を渡った北側にTrail Runのコースがあり、霧が掛かって居なければ其処からのSan 

Franciscoの眺めは素晴らしいと言う。又Youth Hostelも傍にあり走りには良い環境だとも言う。San Francisco近郊の景勝の地には幾つかのHostelがあり、これらを結ぶRunの旅も悪くないであろう。

市街地から橋の南側に広がる広大な緑地帯Presideoに入ると道は蛇行しだし、極めて分かり難くなる。橋の塔を目指して歩く他ない。ただそうして歩いている内に予期せぬ発見もある。PresideoとはSpain後で要塞、駐屯地を意味し、18世紀後半Spainが築き、Mexico、USAの時代も軍事的な役割を2世紀以上に渡り担って来た所であるが、今は国家管理の公園と成っている。歩いていると、軍の宿舎などの建物を事務所として利用しないかと広告が出ている。施設を破壊せずに他の用途に資するのは賢明なことだ。初めて知ったが此処にも軍人戦死者の広大な国立墓地がある。

赤く塗られた橋を渡りだす。吊橋であり、車が通れば当然揺れる。真ん中の車道を挟み、如何も北に向かって右側が歩行者用、左側が自転車専用と成っているようだ。勿論歩行者の歩いている側にも多少の自転車は通るが、反対側の自転車の交通量は圧倒的に多く、速度も速い。

橋の途中には何箇所も塗装をしている所がある。巨大な鉄鋼構造物であり、潮風から守るには頻繁に塗装を繰り返す必要がある。高所の作業であり、橋は建設当初より、その維持管理方も考慮して作って居るのであろう。それにしても僕の生まれる前にこれ程巨大な構造物を如何して作れたのか不思議である。橋に使われたケーブルの重量は何千トンのオーダーであろう。直径1メートル弱、長さは2キロを超える鋼製ワイヤーだ。其れを海面230メートルまでどうやって持ち上げたのか、素人には想像も付かない。

橋の両側にある見晴台間の距離は3キロ近くあるに違いない。歩いて片道30分はかかる。対岸に着いてSan Francisco側を見ると霧で余りよく見えない。Glennの行ったTrailまでは行く気に成れず引き返す。

帰りは中華街に寄り、食事をする。旧の正月の行事が残っているらしく、町全体が歩行者天国で車は入れない。大変な人込みである。歌謡コンテスト、太鼓の演奏などを遣っている。街角にはトラの人形や兵馬俑なども置いてあり、その前で写真を撮っている人の姿も目に付く。

Hostelには5時近くに帰り、一日が終わる。

3月1日、予約をしていたNapaとSonomaを回るWine Country 

TourのバスがHostelに8時20分に来る。大型のバスであるが、Pickup用のバスで、市内の各ホテルを回り、旅行社のあるFishermen‘s Wharfで全員を降ろす。此処から別のバスに乗り換え、Napa Valleyに向かう。乗客は15人程度で男は5人、他は女性だ。女性が特にWineに興味を持って居る訳では無さそうだ。一般的に観光地に行くと女性客が圧倒的に多い。Napaであった他のTourも矢張り女性が多かった。バスの中はちらほらと言う感じで、運転手は不況のお陰で観光客は半分に減ったと嘆いていた。チップが収入の大きな部分を占める彼等にとっては、15人を運ぶのと、50人を運ぶのでは大きな差が出るのだ。

バスは東側のBay Bridgeを渡り、北に向かう。この橋を渡るのは初めてだ。2−3日前にAurbanやレースの為にSan Francisco湾を往復しているが、其の時は電車で海底トンネルを通っている。この橋はSan Francisco湾に架かる3つの橋の中で最も長い橋で、途中の島を挟んで7キロを越える。これも大戦前に完成している。

途中のMartinez辺りまでは先日と同じHighwayを走りその先北に走りNapaには2時間足らずで着く。途中から葡萄畑が見えてくる。この時期、まだ葉っぱは出ていないので、黒い幹が膝ほどの高さで鉄線に支えられ筋状に延々と並んでいる。ブドウ畑にはこの時期西洋マスターとの黄色い花が一面に咲いており、黄色と黒のコントラストが見事だ。西洋マスタードは何のことは無い、からし菜の種子を潰した物なのだ。

Wineryに着き能書きを聞いた後、3種類ほど葡萄の試飲をする。最初のWineryはイタリア系の家族が4代に渡り経営している小規模なもので、有機農法の認定を受け、質に拘った経営を続けていると言う。農薬や化学肥料は一切使わず、人口灌漑も一切行わず葡萄本来の実を成らせて居ると言う。水を遣らなければ、粒は小粒と成るが味の良い葡萄になるのだという。その通りであろう。試飲の後販売や国内送付の手続きもしてくれる。価格は20−30ドル程度でそれ程高いものではない。僕は買う心算は無いので、葡萄畑に行き、マスタードの花を食べる。からし菜と同じ味がする。

Napaではもう一軒のWineryに寄る。ここは可也の規模の農場だ。葡萄酒の醸造の時期ではないので、タンクや機器の整備をしていた。

Sonomaに向かい、昼食を取る。昼食は各自取るが、運転手が4軒ほど頃合のレストランを紹介してくれた。バスは市庁舎の傍に停まったので、緑地の中にある箱型の小さな市庁舎に行ってみる。庁舎天辺には国旗と州旗がたなびいている。緑地の中にはCali―

fornia州旗が最初に立てられた場所に銅像が建っていた。AmericaとMe―xicoの戦争が始まった1846年のことであり、当時この旗は熊旗と呼ばれていた。此処にアメリカの国旗が立ったのはその2年後のことである。町の中心部には当時からの教会、宿屋、軍の宿舎などが残っている。

葡萄の産地としてはSonomaの方がNapaより大きいが、此処では一軒回っただけであった。どのWineryでも3種類の試飲をした。このWineryは大きく、園内に博物館や世界の雉類を集めて展示もしていた。結婚式場としても時々使われるそうだ。

NapaもSonomaも日本と比べると、土地の広がり、Wineryの規模は格段に大きい。観光地としても人気があり、Orient Expressを真似して、

Sonomaでは観光列車を走らせており、ユックリと走っている間に食事とWineを楽しむことが出来るという。帰りの途中で線路が平行して走っており、反対側から走ってくる列車に出会ったが、中の様子は見えなかった。

帰りは東側の道を通りGolden Gate Bridgeを渡り、5時ごろ

Hostelまで送ってもらった。天気は曇っていたが、雨に降られることも無く先ず先ずの1日であった。料金はチップも入れて65ドル。

San Francisco最後の日となる。今日の予定はMarket通りの南にあるSport用品店に回り、南側から東側のWater Frontを歩くことである。

Outdoor用品の専門店に行ってみる。4月に走るAustraliaの砂漠のレースに備え、携行食品を買って行く為だ。こういう物はアメリカに何かと良いものがある。

GlennがJohn Muir Trailに持っていったという、軽量コンパクトエネルギー食料を探す。卵ほどの大きさで、85グラム、400カロリーの食品だ。一つ3ドル程の物を、4種類、12個買う。買う前に品物の溶解温度を訊くが、誰も確たる答えを持っていない。そんなものなのだ。僕が心配しているのは、砂漠の高温で食べる時にベタベタ、ネバネバすることだ。普通メーカーはこの様な情報は確りと持って作っているが、末端の販売現場まで伝わって居なのかもしれない。その後、軽量テントなどを見る。一般的にスポーツ用品はアメリカの方が遥かに安いものがある。

更に南に歩き、Misson Bayの北側を東に向かって歩く。大きな跳ね橋がある。片開きの橋で、一方には巨大はコンクリートの錘が付いている。補修中であるらしく、片側が僅かに上がったままで、交通は遮断されていた。橋の直ぐ向こうはSan Fran―

cisco Giantsの本拠地、AT&T Parkがある。この球場の東の外れは

San Francisco湾であり、湾にそって北上する。巨大はヨットハーバーがあり、林立するマスト越しにBay Bridgeが見える。この橋の下を潜って暫く行くと沢山の船着場がある。各々船着場には歴史上起こった様々な事件を伝える柱が立っている。中国人が多く着いた桟橋だとか、Jack Londonが出て行ったのはここからだとか、アラスカに鮭漁と,その加工の為には此処から出て行ったとかの説明だ。

Fishermen‘s Wharfまで歩き、其処から南に向きを変え、馬の背の様な峠を越えてHostelに戻り、今日も終わりだ。

今回は天気には恵まれなかったが、之と言う失敗も事件も起こらずほぼ予定通り旅を終えることが出来た。


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皆さんの家「豊心庵」
平成22年2月1日掲載

09・12・19−10・01.04 Patagonia走り旅
10.01.30・大森


 2年前南極に行く為にSantiago からChiliの最南端Punta Arenasへ飛んだ。眼下の氷河の広がりと多くの湖、河川、複雑な地形に驚嘆した。地図で見ても分かるが、Chili南部の海岸線は非常に複雑である。これらは皆氷河が作った地形であり、Norwayの海岸と双璧を成すものであろう。何時の日にかこの辺りを歩いて見たいとは思ったが、其の時期が意外と早く訪れた。 Inca Trail Marathonの主催者のDevyからメールが入ったのは11月の末であった。12月初めからは家内とヨーロッパの旅があるが、帰国後何日かの余裕で参加できる日程なので、早速手続きを取る。

題記日程はロスアンゼルス起点なので、1218日にロスに向かう。19日に出ても乗り継ぎは可能であるが、万が一便が遅れれば、其の先の旅程は続かなく成る。用心の為、1日早く出国することにしたのだ。Santa Monicaのユースホステルを予約しており、空港からは構内シャトルと市バスを乗り継ぎ75セントで行けることは分かっていた。バスに乗ると老人割引で何と25セント(20円強)だ。一時間ほどでHostelに着くが、Checkinの時間前なので、荷物を預けて、町を歩き回る。砂浜が広く良好な海水浴場の町だ。町は整っており、迷わずに歩ける。スポーツ店でTrail Run用の靴を探したが気に入るものは見付からなかった。

早く寝付いたが、11時ごろ話し声が煩いので、静かにするよう注意したが、南米出身の男どもは話を止めない。相部屋なので我慢しろ、とおかしな論を持ち出す。受付に行くと部屋を変えたら如何かと言うので、そうすることにする。代わった部屋は4人部屋で、一人の先客が既に寝ていて、静かだ。シャワーやトイレも付いており、Hostelでは上等の部屋だ。

床に入ると直ぐに、左の首筋から耳に掛けて猛烈に痒くなる。暫く掻いていたがやがて寝付く。

Hostelで簡単な朝食を取り、例の市バスで空港に向かう。搭乗手続きを終え、ゲートの待合室に行くと、其れらしい格好をした人が何人も居る。荷物には主催者が用意したタグを付けている人も居り、明らかに今後何日か行動を共にする人も確認できる。

機体はBoeing 767であったと思うが、横252の席であり、仲間同士で調整の結果僕は最終的には窓側に席に落ち着く。普段は出入りの不便な窓側に座ることは無いが、今回は非常口の席であり、自由に出入り出きるので応じたのである。係りの女性が来て、非常時の協力が出来るかとの確認をするので、了承する。昼過ぎに飛び立ち、只管南下する。

隣は大男で如何やら同じ仲間であるらしいが、Santiagoまでの10時間余り、口を利くことは無かった。Chiliの首都Santiagoでは主催者のDevyやガイドのAberaldoの出迎えに出ていた。4ヶ月振りの再会である。空港税を払い、国内線でPunta Arenasに向かう。

昼ごろにPunta Arenasに着く。此処も懐かしい。丁度2年前の12月初め此処に着き、南極を目指した空港だ。この空港には南極大陸に飛ぶイリュウシン76型ジェットが何時も駐機しているのが、今日は見当たらない。南半球の盛夏の時期、たった6度の大陸の往復をするだけで、その他の時期は此処に待機し続ける飛行機なのだ。南極大陸の着陸条件が整ったので、飛び立って行ったのであろう。

バスで市内のホテルに向かう。10キロ余りの距離であろう。2年前はこの地で9日間南極への離陸を待ったことを思い出す。遣ることも無いので、空港まで徒歩で往復したこともある。

Patagoniaは風の大地と言われており、常時風は強く、樹木は余り高く成れず、風の方向に傾いて立っている。日に何回も雨が降るが、常時風が吹いているので土地は乾いて居る。短い草が生えているだけの放牧地で、見晴らしは良い。右手は南米大陸で左手はマゼラン海峡其の向こうにはフエゴ島が見える。

市の中心部のホテルに着き昼食、其の後は自由港行動である。夜間飛行の長旅で疲れもあり、昼寝をする。夜は歓迎の宴となり、ワインをたっぷりと飲む。グループの総勢は30名程だ。今後は2手に分かれて、行動することになる。我々の走りグループは14人だ。夫婦が3組、若い女性が3名、他は男で、結構女性の参加者が多い。歩き組みの方は男女の比率は逆転している。これら2グループは山小屋に泊まる4日間は別とし、ホテルや食事は同じである。

総じて言えば、走り組みの方が若干余計な所を周り、移動距離は多いが、日によっては同じ距離の場合もある。走り組みはそそくさと走り回り、ホテルに戻って遅い昼食、歩き組みはガイドの説明を聞きながら、途中で弁当を食べて、夕方にはホテルに戻るという具合だ。どちらが、旅を楽しみ、残るものが多いのかは僕には分からない。

ロスを出て3日目に漸く本格的な旅の日程に入る。日本を出て、実に4日目である。南米最南端は日本からは最も遠くにある土地の一つであり、時差は12時間、地球の丁度裏側、距離も21000キロ余り、地球を3分の2回った所にあるのだ。

此処でPatagoniaに付いて、若干の説明をして置きたい。地域的にはコロラド川以南、ほぼ南緯40度から、チリ及びアルゼンチンの最南端までの広大な地域を指す。Laplandと同じように国境を跨ぐ地域で、その面積は日本のほぼ3倍である。これ程の広範は地域の共通性は強風の低温である。名前の由来は、グアナコの皮の靴を履いていた先住民の足跡が大きかったので、其れを見たスペイン人が、Pata()Gon(大きい)とを組み合わせ、Patagon族の土地と呼んだことに拠るという。

今日はバスでの移動、観光の日だ。Punta Arenasの町を離れ、北に向かう。緩やかにうねる、薄茶色の短い草の生えた大地を延々と走る。現地のガイドの話に拠ると、土地の生産性は低く、殆どの所では羊ぐらいしか飼えないという。其の羊も1ヘクタール当たり1頭が限度だという。これがどの程度のことかは大方の方は実感が湧かないと思う。

僕の育った大玉村は村としては大きな方であろうが、其の総耕地面積は80、000haである。一戸辺りの平均耕地面積は1.5ha以下であり、土地の生産性が同じであれば羊は1.5頭しか飼えないことに成る。之では生活は成り立たない。かの地で生活を成り立たせる為には150,000−200,000ha程の土地が必要という。それにしても、この様に広大な土地で、羊を飼うのも大変なことであろう。良好な草を求めての羊の移動、長大な柵の建設及びその維持、兎に角我々日本人の性急な考えでは気の遠くなる様な生活が此処にはあるのだ。

バスの走っている道は勿論ダートだ。猛烈な埃を巻き上げながら走っている。所々で羊の姿も見える。大型の野鳥も居る。何羽かのコンドルも宙を舞っている。途中露天掘りの炭鉱の横を通る。掘っている現場は見えないが、広大な残滓の山をから察すると、可也の規模の様だ。この辺りには石炭の他、低温湿地の産物泥炭も産出すると言う。

間もなく、Otway Soundに付く。マゼランペンギンの営巣地で6000羽が居るという。保護区であり、指定の道に沿って歩かなければ成らない。子育ての時期で、穴の中には其れらしい姿も見える。親たちは代わる代わる餌を捕りに行くのであろうか、海に向かって何羽かが縦隊となって奇妙な歩き方をしている。砂地の草原には、細いペンギンの道が幾筋も続いている。人を恐れる様子も無く、木道の傍で番で陽を浴びながら昼寝をしている。 木道の隙間から顔を出したり、引っ込めたりしているペンギンも居る。長閑なペンギン天国だ。天気も良く、沢山の写真を撮る。

この後更に走り、Punta Natalesの港町で昼食を取る。此処も風は強い。浜辺に大きな彫像があるので、行ってみると、熊に似ている巨獣である。此処には白熊は居ないので、お遊びかと思ったら、ここで発見された絶滅種であるとの説明書きがあった。凍り漬けの良好な状態で発見され、本体はBritish Museumで保存されていると言う。

更に似たような単調な地形を延々と走る。幸いにも道は舗装されている。変化と言えば、時々羊を追うGaucho(Cowboy)の姿を見る。何匹かの犬を連れて、羊の移動に当たっている。水のある条件の良い草地には羊の他、グアナコ、ダチョウより小型の飛べない鳥、Rhea,フラミンゴ、雁の類を見る。人間の影が薄く、野生動物にとっては住みやすい環境なのであろう。

目的地に近くなる頃、空は曇ってくる。舗装の切れた所で、大型のバスを降りる。其処からは小さな車しか入れない道だという。10人乗り程のバンに分乗して、更に進む。暫く行くと狭い橋があり、其処で全員降りる。橋は車幅ギリギリの幅しかない上、強度が足りないので乗ったままでは通過出来ないのだ。朝から500キロ弱移動し、夕方早くLas Torresの山小屋に着く。周りには私設のホテルや宿泊所が何軒あり、Torres del Paine国立公園の一つの入り口となって居るのである。国立公園の名はこの辺りの地名、Paineと塔を表すTorreを組み合わせたものだ。晴れていれば威圧されるほどの花崗岩の搭状の山様が見えるはずだという。

今日は南半球の夏至で日は長い。今年は北半球での夏至はヨーロッパ大陸の最北端で迎え、其の半年後に南アメリカの南端で夏至を迎えることになった。冬至は当然行き会って居ないことになる。陽は未だ高く周りを走ることは出来るが、その気には成らず、ストーブの周りでワインを飲みながら雑談に耽る。30人の集団なので、名前と顔を覚えるのが大変だ。参加者はアメリカ人が圧倒的に多く、カナダ、南アフリカ、オーストラリアと続く。英語圏以外からの参加者は僕一人だ。

山荘は国営であろうか可也規模は大きく、食堂も大きい。この時期でも暖房が必要で、大きな薪ストーブが彼方此方で燃えている。78人用の2段ベッド部屋であるが、5人位で泊まる。ぎりぎり押し込むことはせず、ゆとりを持たせることがこの主催者方針である。多少余計に払っても、其の方が良いのだという。お陰で、旅の間中安眠は確保出来た。

1222日、愈々自分の足で移動する日となったが、天気は雨模様である。それでも予定通り、山頂が良く見える見晴らし台を目指して、Ascencio Valleyを登る。雨具と若干の水を背負って上りだす。氷河水の白く濁った川を遡り、橋を何箇所かで渡る。右岸または左岸はブナ類の自然林で倒木も多い。この辺りに多いブナは幾つかの亜種があり、巨木に成るもの、余り大きくならないもの等、葉の形状も良く見ると若干異なる。一時間半ほど進むと、大小の氷堆石が連なる斜面に出る。傾斜も急に成り出す。やがて雪が降り出す。夏至の翌日である。之を初雪というのであろうか?

南部Patagoniaは実に不思議な気象現象を持つ。緯度的にはそれ程南ではないのだ。この辺りの緯度は約南緯52度、北半球で言えばLondon辺りの緯度である。Londonでも夏至の翌日雪が降ることがあるのであろうか?同じ緯度でも北半球と比べると、可也寒いのである。之は南極からの寒流フンボルト海流の影響であろう。

視界も悪く成りだす。更に登って行くと早い連中が降りて来て、上に行っても何も見えず、風が強く寒いだけなので、一緒に戻ろうという。見晴らし台で何も見えないのであれば、行く価値は無い。一緒に下りだす。山小屋に戻っても天気は回復せず、小雨が降り続く。又ストーブを囲んでワインパーテーとなる。

今日の移動距離は約17キロである。

1223日。今日からはTorres del Paine国立公園のほぼ中心部にある其の全容を未だ見ていないToirre Sur(南塔、2850m)Torre Central(中央塔、2800m)Torre Norte(北塔、2248m)の周りを反時計回りに走って、4日目にここLas Torresに戻る山行となる。4日間の気候変動に対応出来る装備は全部背負って走ることに成る。雨風、寒さ対策、照明器具(山小屋は夜間照明は一切無い)、及び其の日必要な水や食料などである。僕の場合は約3キロと極力軽量化を図った。衣類は毎日洗い、風で乾かす。天気の悪い日は小屋の天井などに吊るして乾かすことにした。之で何とか辛うじて間に合った。ただし、走ることばかり考えだけで、山小屋での普段着の事は全く考慮外であったので、小屋では寝るまでゴアテックの雨具を着て過ごすことになる。

初日の行程は32キロ、前半は道幅も広く傾斜も緩やかなので、景色を眺めながらルンルン気分で前進する。天気は薄曇で先ず先ずだ。Paine 川の谷沿いに最初はうねっている草地の中を進む。時期によっては放牧をするのであろうか、柵も続く。時としてはブナ林の中を進む。ルピナスが綺麗に続く道も走る。ルピナスは元々ヨーロッパの花で、何年か前のエストニアのタリンマラソンの際、コースの両側の広大な面積に咲き広がっているのを見て驚いたことがある。此方の風土も気に入ったと見え、彼方此方で見かける花と成っている。

各々の走力が異なり、僕は穴から34番目を走ることになり、前後の走者と暫し併走することもある。今日の後半はCanadian GirlShannonであった。後半は比較的平らで白い雛菊が何キロも続くTrailであった。所々に小川が流れて居り、大抵は濡れずに渡れるが、所に寄っては、回り道をしたり、リュックを対岸に放り投げ、身を軽くして飛び超える所もあった。手助けをしたが、Shannonは何故か判断を誤り、2度靴を濡らしてしまった。

そうこうしているうちに、小屋が遠くに見えてくる。Dickson小屋である。其の向こうには湖も見える。この国立公園は氷河が作った山と湖の公園なのである。

小屋に着く前には黄色や橙色の花を付けが、高山植物の花園の中を歩く。この世のものとも思えない美しさだ。ただ、これらの植物が高山植物かどうかは、僕には分からない。何分今回走るコースの最高点でも1000メートル以下なのである。氷河の発生源の標高は高いが、其処で発生した氷川ゆっくりと流下し(年間100−200m、これは氷河に動きとしては非常に早いとされる)、実際に我々が間近にみる氷河は500−1000メートル近辺のものであった。

小屋に着き、暖かい昼食を取り、一息つく。シャワーも浴びることが出来、先ず先ずの設備だ。洗濯をして表に乾すが、雨が降り出し、取り込み、屋内の天井などに掛け直す。

天気は日に何度も変わり、時折姿を現す山々はどれも険しく、中腹は氷河で覆われている。

1224日:今日は距離的には昨日とほぼ同じであるが、コースの条件は今回のツアーの中では最も難しいという。遅いランナー45名は時間を早めて出発する。一時間ほど最後尾を付いていったが、遅すぎるので前に出る。この後途中でAndyに会ったのみで、終日単独行動であった。一人になってブナ林の中を登って行くと、酷い湿地が続く。溝に入らないように慎重に進む。終わったかと思うと又、泥道が続く。幸い靴を汚さず難所を通り過ぎる。3時間ほど歩き、倒木の多いブナ林を抜け、樹高が低くなり地形が変わった辺りで、Andyが追いついてくる。丁度、Perros氷河が落ち込む小さな湖の手前であった。湖にはほぼ同時に着き、Andyに今日の氷当番はお前だから、浮いている氷河の欠片を取って来いと言うと、本当に湖に下りて行き、その後は山小屋まで姿を見なかった。Andyは今回最年少の参加者で、僕の丁度3分の1の年齢だ。

湖を回りこんで、丸石の転がるかっての川原を暫く歩き、やがて又上りだす。暫く登って行くと、雪渓が見えてくる。氷河を抱く両側の山の間の抜け道であり、雪渓を登り又下らなければ成らない。追い風がではあるが、可也強くなったので、石の影で休み風防用にゴアテックを着て、風防手袋をかける。

雪渓は上り下りで2キロ弱であろうか?潜り込んだり、滑ったりして歩き難い。漸く鞍部を過ぎ降り出す。風は相変わらず強く、傾斜で立っているのが恐ろしい程だ。漸く雪の無い所まで下がり、靴の雪を出す為に石の上に腰を降ろし、手袋は尻の下に敷いておく。靴の雪を出し、やや腰を浮かすと手袋が風に舞い飛んで行ってしまった。Gone with the wind

である。行く先は眼下の広大な氷河である。この旅の為に新たに買ったもので、4000円は風で消えたわけである。只一回ではあるが手袋はその役目を果たしたのも事実である。

 下っていくと再び傾斜が急になり、雪のあるところに出る。傾斜がキツク、雪で滑るので、歩いて降りることは出来ない。前に行った人は雪上に身を委ね滑って降りていった様だ。僕もそうすることに決める。長さ30メートルほどのSnow Sliderと思えば良い。そこまで行けば自然に止まる。それにしても其の先も障害物競走の様なコースが続く。倒木を跨ぎ、潜り、小川を渡りあらゆる障害が随所に出てくる。通称Monkey Trailと言われる所だ。

 それにしても真下に見える氷川は雄大である。Grey 氷河で、幅は6キロ半という。長さはどのぐらいなのであろうか? 他の沢からもこの氷河に合流するものも幾つか見える。氷河の左岸を下りだす。何年か前に山火事があった様で、炭化した巨木が彼方此方に見られる。可也広い範囲に渡っている。風の強い所なので、出火すると延焼が速いのであろう。

焼け跡の日向には色々な花が咲いている。特に野生のエンドウの紫が見事だ。

 氷河を上から見下ろすと、非常に複雑な形状をしている。日射による造形だ。所々は見事な青色である。上り下りを繰り返しながら、徐々に下って行くと、氷河の先端部が見えてくる。氷河の終わりである。氷河は此処で崩れ、湖に落ちる。落ちた氷河は氷山となって風により湖を漂う。これらを氷山と呼ぶのは正しいのかどうかは定かではない。他に呼び名があるのかもしれない。考えてみれば、僕は洋上に浮かぶ氷山は見たことが無いのだ。南極には飛行機で行ったので、氷山は見ていない。

 

Grey湖には大小様々な氷河の欠片が湖に浮いている。可也大きな氷山の欠片もあり、これは水面から小山の様に水面から突き出ている。湖はそれ程深くないようだ。自由に浮遊している氷山であれば、水面から出る部分は極めて少ない筈だ。

 湖に沿って更に1キロ余り走り、Grey小屋に着く。

 今日はクリスマスイヴでキリスト教信者に取っては大事な日だ。夕食の前に氷河の氷で、水割りを作って飲む。ウィスキーはDevySantiagoからJonny Walkerの赤を買って来て居た。氷は自前調達ではなく、小屋から分けて貰った物だ。ホテルの直ぐ前の岸辺にも幾つか手頃な大きさの欠片が常時浮いているので、氷の入手はほぼ只で出来る。一抱え20キロもありそうな氷の塊を砕くのに暫し大騒ぎである。使い物なる欠片と、飛び散り床に落ちる氷の量はほぼ同じぐらいだ。何しろ素人の集団が、大きな包丁を鉈の様に振り回して割ろうとしているのだから。暫し、成り行きを見てから、僕が遣ってみる。包丁の先端を氷に垂直に当て、上から柄を叩くとそう苦労しなくても旨く割れるものだ。アイスピックはその様な使い方で氷を割っているのだ。馬鹿と挟みはは使い様というが、包丁も例外ではないのである。

何はともあれ、水晶の様に透き通る、太古の氷で水割りを飲むのは之が2度目である。前回はアイスランド遠征の時であり、其の時は自前で氷を調達したものだ。

この後の夕食の主催は七面鳥であった。

1225日:今日の距離は20キロ足らずである。小屋を出てGrey湖に沿って走る。見通しは良く、コースはなだらかだ。Grey湖の青さは格別だ。氷河の持ち込む微粒子が浮遊しているためだと言う。他の湖の色も独特である。右手に湖、左手に氷河のある険しい山を見ながら走る。起伏も少なく、昨日までのコースと比べると単調だ。特に感心するほど、美しい景色気にも出会わない。

天気の移り変わりは何時もの通りで、雨の容易をし終えた途端に日が差してきたりして、調整が厄介だ。時に強い風が吹き、湖水飛沫が白い幕となって山を駆け上がるのが見えたりする。左手には常に山が見える。山々の周りを一周する訳であるから、それらを全ての角度から見て回ったことになる。見る方向により同じ山でも異なる趣を持ち、異なる山の様に見えたりする。写真を撮ろうとすると、動作が遅くなり、バッテリーの低下表示が点滅仕出す。何とか明日までは持たせたいものだが、そうは行かない状態に成っている。

今日まで3日間走ったコースは、通常の荷物を持った山行であれば中間の山小屋またはキャンプ場で泊まり、倍の時間を掛けて歩くコースなのである。山を走り回るのは亜流であり、大きな荷物を背負ったハイカーには敬意を払う必要がある。時折会う彼等には丁寧に挨拶をする。向こうから声を掛けてくることもあり、暫し立ち話もする。之でいいのだ。

15キロほど進んだ所で、逆回りしている歩きのグループに出会う。欧米人は何事も大げさで、抱きついて来て喜びを表す。

更に進むとやや大きな川があり、川越が必要との話があったが、石伝いに渡り、水に浸かることは無かった。やがて別の湖の浜辺を歩く。Swedenの南極探検家、Nordenskjoldの名を冠した湖である。対岸方向からの風で此方の浜には高い波が押し寄せている。水飛沫も上がっているので、風の合間を見計らって、200メートル程の浜を渡り、難を避けることが出来た。

今日の宿泊はCuerno(角を意味する)であり、その名の通り、角状の山頂を持つCuerno Este(東角、2200m)Cuerno Principal(主角、2600m)Cuerno Norte(北角、2400m)が間近に見える。

山小屋は湖からやや離れた丘の上にあり、直ぐ横を湖に注ぐ渓流が流れている。晴れているので、洗濯物を外の木に掛けて置くと2時間ほどでスッカリ乾いていた。

26日は周回を完了させLas Torresの山小屋に戻る日だ。朝早くコーヒーを飲み、パンを齧って、直ぐに出発である。行程は11キロでLas Torresに着いてから正規の朝食を取ることにしているのだ。

コースは平易であり、程なく目的地に着き、シャワーを浴び、着替えをし、朝食を取る。その後、小型バスに乗って帰路に着く。例の橋を渡った先で大型のバスを待ち、今日の目的地ArgentineEl Calafateに向かう。バスを待っている間に、昼食用に渡されたサンドイッチを食べる。後で分かることだが、如何も之が大勢の下痢を引き起こしたようだ。早い人はその日の内に症状が出、僕は翌日下痢を起こした。直り方も様々でであったが、僕の場合は3日目にはほぼ正常に戻った。

途中で国境を越える訳で、当然出入国の手続きが必要である。時により之に可也の時間が掛かるという。幸い我々がついた時は手続き待ちのバスも無く、直ぐ手続きが出来るようなので、予定していた国境での買い物を諦め、直ぐに手続きに入った。Argentine側に入った所で、バスもArgentineのバスに乗り換え、Chiliのバスは帰って行った。

El Calafateまでは5時間半掛かる。短い草の生えた単調な起伏が続く、PampaまたはSteppesと呼ばれる地形を走る。時折見るのはグアナコ、Rhea,フラミンゴ、羊の群れである。Grey Foxという狐も時々見かける。

Calafateのホテルは町の外れの丘の上に立っていた。其処からは遠くに濃い青色をしたArgentino湖が綺麗に見える。その手前には見事な湿地が広がり、フラミンゴの群れや、鷹の類の鳥が沢山居た。

夕食はバスで町のレストランに行き、食事後同じバスでホテルに戻る。

1227日:観光と移動の日である。バスで長大なArgentino湖に沿ってPerito Moreno 氷河に向かう。世界遺産となっているLos Glaciares 国立公園にあるこの氷河は殆どの氷河が後退している中で、今でも成長している数少ない氷河である。之は年間の積雪量(年間降雨量3000−5000mm)が非常に多いことに起因する。水に直すと世界で三番目に大きな水瓶なるという。

 El Calafate を出た後、一度途中のArgentino湖岸で休憩し、氷河に向かう。途中もう一ヶ所氷河の先端の見える所で車を止め、写真を撮って、氷河の間近まで行く。Argentina

は観光に力を入れており、氷河を見る為の立派な遊歩道を作っている。一回りして帰ってくると約一時間かかる程の遊歩道だ。イグアスの滝に行った時もブラジル側より、アルゼンチン側の遊歩道が整って居たことを思い出す。

 氷河の先端での幅は5キロに及び、湖面から氷河の頂部までは75メートル近くあると言う。この氷河が時々大音響と共に崩落し、アルゼンチン最大の湖、Argentino湖の湖面に水煙を上げる様は実に壮観である。垂直に立っている氷河の先端は綺麗で青みを帯びている。

4500平方キロ(北海道の半分強)の広さのLos Glaciares国立公園を含めチリとの国境には50近くの氷河があり、一大氷河地帯なのである。その規模は南極,グリーンランドに次ぐものだ。公園内には屹立した荘厳なFitz Roy山(3375m)もある。氷河を見た後、其方に向かう。この山の名前の由来はDarwainが乗ったイギリスの調査船の船長、Robert Fitz Royである。イギリスの調査船Beagle 号は水路調査の為、Argentino湖・Viedma湖、更にその奥にある山々に繋がるSanta Cruz川を1934年に遡っているのである。

23年前までは麓の集落El Chaltanまで行くのに、車で5時間以上かかったと言うが、今は舗装化されており、3時間で行ける様になっている。途中川の手前にある一軒宿La Leona立ち寄る。羊の渡河の為に必要な宿泊施設で、Butch CassidySundance Kid(20世紀初頭実際にあった逃亡劇の主人公)等も逃亡の途中で立ち寄ったと言われ由緒ある宿である。トイレ休憩中に消化器の異常を訴える者が何人か出てきた。程度の差はあるが、皆同じ様な症状だ。食中毒のようだ。皆同じものを食べているので、その内に僕にも出るかも知れない。

川を渡り、暫く走ると車は停まる。Fitz Royが綺麗に見えるので写真に収める為だ。之も花崗岩の急峻は山で岩石の色のピンクに近い薄茶色で、神々しさを感じる山だ。その左手にも更に急峻な山が2−3見える。

右手には剥き出しの山、左手には湖を見ながら更に一時間余り走り、El Chaltenに着く。

谷間の町で、数年前までは小さな山村であったが、最近は急速にホテルなどの観光施設が出来て、町は急成長しているそうだ。建設中のホテルが何軒もある。巨大な建物ではなく、大きくても精々100室程度のものだ。豪壮な建築ではなく、例外なくトタン屋根である。

 ホテルの2階の食堂でワインを飲み、下拵えをした後、夕食は近くのレストランに歩いてゆく。アルゼンチンは肉の国で肉料理が大量に出てくる。羊などは丸ごと開いて串に刺し、焚き火で焼き上げる。それを、鉈の様な包丁で豪快に叩き切り,委細かまわず盛り付けて供する。大きな皿で出し、分け合って食べる場合もある。肉の種類は牛、羊、鳥、等が多いが、偶には山羊も出てくる。大盛りの皿は通常半分以上は手付かずで残る。個人盛のステーキは厚さが34センチあり、これも食べきれない。

 寝る前に下痢の症状が出てきた。手持ちの薬を飲んでねる。 

12月28日:バスで更に上流に向かう。20分ほど走ると行き止まりとなり、其処から山道の走行となる。今日の目的はより近くでFitz RoyPincenot Needle等の花崗岩の屹立した山容を見る為である。走行距離は20キロ弱なので昼までにホテルに帰り、昼食も出来る。水と雨具を持って森の中を歩き回る。此処でも倒木が非常に多い。南部パタゴニアでは何処でもそうであるが、樹木はある程度の高さになると、強風の為上の方から枯れてくる。水バランスの関係で自らの巨体を維持できなくなるのであろう。殆ど全体が死んだ状態で、2−3の枝から僅かな葉を出して居る木が多い。生命の鬩ぎ合いが此処にある。

 尾根や流れに沿って進み、Rio Blancoのキャンプ場を通り過ぎ、Los Tres 湖に着く。此処からのFitz RoyPincenotの眺めは素晴らしい。鋭く天を指している山頂では激しい風が吹いているのであろう。雲が頻繁に流れ、山頂が出たり隠れたりする。その下には氷河が見られる。

 1時ごろにはホテルに帰り、冷蔵庫に入っている昼食を暖めて貰い昼食を取る。ワインも飲む。下痢の症状は軽く、2−3日に治まればと思う。昼食後は昼寝だ。体調の悪い時は寝るに限る。

12月29日:Hotelから左側へ登り、Torre湖を目指す。Los Glaciaresの公園は広大で、幾つも山道があり、全部を回るには何ヶ月もかかる程大きい。今日の距離も20キロ弱だ。

行きは全体に登り、帰りはその逆と成る。走りのグループは自由行動で、歩き組みはガイドの案内で昼飯を持って歩いている。その他の観光客も非常に多く、人気の観光地なのであろう。

山を歩いて居て面白いのはある時突然視界が開け、全然別のものが見えてくるからであろう。Torre湖に行く手前にもその様な所がある。山の中の盆地のような所で、殆ど枯れた枝の低木が広範に広がり、その向こうに緑の木の生えた傾斜が広がっている。更にその向こうには薄茶色の険しい山頂が見えている。息を呑むような美しさだ。それにしても、之までよい天気に恵まれた幸運に感謝したい。観光、特に山行は天気が全てだと言える。何も見え無ければ 観光ではない。

急いで、盆地を通り過ぎ、森の中の傾斜を登って行く。やがて、木立が無くなり岩石の大地となる。それを登り終えるとTorre湖だ。あまり大きくは無いが、氷河が流れ込んでおり、此方の岸にも氷山が流れ着いている。勿論湖を隔てた山は氷河の眺めは素晴らしい。写真を撮って引き返す。

同じ道を引き返すので、余り変わったことは無いが、森に入ると何匹かの兎が飛び跳ねていた。登ってくる人々も多く、団体、家族連れも居る。道を譲り、挨拶を交わしながらホテルに戻る。

後はまた食って寝るだけだ。体調はまだ回復していない。 

12月30日:Ushuaiaに飛ぶ日だ。朝早く起き、簡単な朝食を取り、バスに乗り込む。

明け遣らぬEl Chaltenの町を後にする。途中夜明け前にバスが停まり、Fitz Royの見納めをし、写真をとる。再び動き出し、一路El Calafateの空港を目指す。

本土から離れたフエゴ島のUshuaiaまでの飛行時間はほぼ一時間。ホテル到着後、昼食、その後Beagle海峡を遊覧船での観光をする。船は双胴で快速である。300人乗りほどであろう。島に上陸すると英語、スペイン語などガイドの後に付いて回る。鳥の名前は忘れたが大型の海鳥が子連れで歩いていたが、余り人を恐れる気配は示さなかった。ここでは90種の鳥が見られると言う。マニアにとっては之だけでも来る価値があるのではないか?海水は透明で、海草も沢山生えており、豊かな海の感じがした。

 

又船に乗り、遊覧を続ける。鵜が沢山群れ、島全体が糞で白くなった島、やアザラシが群れる島を幾つか見た後、Eclaireurs灯台を回って港に戻った。3時間弱の観光である。

Ushuaiaは南米最南端の町と言われているが、実はモット南にも町はある。ChilePuerto Williamsだ。同じ港町だが、Usuaiaの方が大きいのであろう。緯度は54度程度で、それほど南と言う訳ではない。これは北半球ではIrelandBelfast辺りとほぼ同じであろう。南半球では人の住む陸地の最南端の緯度が、北半球と比べ遥かに低いのである。北半球では北緯80度を超えた所にも町は存在する。

只この辺では良くFin del Mundoと書かれて居るのを見る。地の果て、世界の果てを意味し、観光の歌い文句としているのである。町には{地の果て博物館}もある。

この町のあるFuego島は北海道よりは小さいが、九州よりは遥かに大きく、氷河により複雑な海岸線を持つ島である。島は6割強がチリ領、残りがアルゼンチンに属する。夏場の平均気温が10度、冬場は0度と極端には寒くはならないが、我々の言う様な夏は無い。それでもこの時期色々な花が咲き綺麗だ。

フエゴ島の名前は火に由来する。最初の欧米人がこの島を見た時気が付いたのは立ち上る煙であったと言う。これから火の島と名がついたが、火が無ければ夏でも寒いので、名前は当を得ているようだ。

夕食までに時間が有るので町を歩いてみる。海岸線に沿って街は広がっており、海岸線に平行して雪を抱いた山が広がる。海と山の狭間の町だ。南はBeagle水道に面し、背後は直ぐ山で、町の中心部は幅500メートル長さ1.5キロ程の小さな町だ。町は東の方に伸びて行っており、民家が広がる。

観光客で賑わう町らしく、ホテル、レストラン、土産物屋が多い。街の東側に海軍の基地があるが、小規模である。小さな艦船が5−6隻見られた。民家の庭は公園には色々な色をしたルピナスが見事に咲いていた。

12月31日:朝食後バスで西に走り、Tierra del Fuego国立公園に向かう。今日の走行距離も20キロ弱だ。市街地を抜けると道は未舗装となる。20キロほど走り、バスを降りた所から走り出す。暫くは車道を走るが、非常に狭いレールが平行して走っている。その内に蒸気機関車が此方に向かって走って来た。観光用の列車で、世界最南端の鉄道であろう。直ぐに右手の山道に入り上りだす。ブナ等の森を登って行くと、奇妙なものを見かける。木の瘤に淡い橙色をした、サクランボよりやや大きな丸いものが付いているのである。良く見ると色々な高さに付いている。茸の一種であろう。触ると弾力があり風船の様だ。此方ではIndian Breadと言っているそうだ。これらは今日の走行中随所で見ることになる。コケや羊歯類も見事なものがある。高さ300メートルほどの頂上にでる。此処からはBeagle海峡の眺めが素晴らしい。

同じ道を引き返し、道路を横切り、海岸に向かって下っていく。Beagle 海峡のEnsenada湾に着く。小さな船着場(Puerto Guarani)と郵便局がある。最南端の郵便局で、スタンプを押してくれる。パスポートに押してくれるが、丸々1ページが必要で、費用も2ドル掛かるので止める。

更に海岸線に沿って走る。緑がかった灰色の堆積岩が美しい。干潮の海岸には沢山のムール貝が出ていたが取る人は居ないようだ。海岸は綺麗だ。又黄色い花の一面に咲く所も走る。年の暮れに変わったものを見ながら走れるとは何と幸せな事か?60代最後の大晦日も無事に通過し、後何時間かで新しい年も迎えられそうだ。しみじみと健康の有り難さを味わう。

 

森の道はその後も登り下りながら続が、また道路に出る。暫く道路を走るが、車が来ると埃が酷い。橋を渡るとまた山道となる。暫くフカフカする芝生の上を走ると又森に入る。進んで行く内に道が分からなくなる。暫く藪漕ぎをして道路に出ると、何と先ほど入った所と余り変わらない所に出ている。道路を進んでも良いが、車の埃は避けたい。暫く考えて、無理して先に進まないことに決める。帰りのバスの時間も迫っていたことも有り、昼食の落合場所に向かう。

昼食後町に戻る。小雨が降り出しているが、又町の探索に出かける。他の連中も同じ様なことをしており、所々で出会う。主に土産物屋を見て歩くが、之とて欲しい物は無い。ドウセ買っても2−3年後にはゴミとなることが分かっているからだ。

夕食は中華料理店でビュフェスタイルだ。中華料理店ではあるが、中華料理風らしくない。所謂地元に同化した中華料理店であった。品数は多く、60品位並んでいる。下痢は治まったが、大食は禁物である。少しずつ選んで食べたが、海老と蟹は新鮮で美味しかった。ワインは飲みすぎる程飲んだので、僕はホテルで一休みする事にした。残りの連中は年越しと言う事で朝まで飲むと言っている。2次会の場所を聞いてホテルに戻る。

一眠りして目が覚めた時は11時半であった。早速、予定の場所に行ったが、店自体が閉まっていた。ホテルに戻る途中で年が明けた。船の汽笛が一斉に鳴り出していた。

ホテルに帰ると仲間と会い、会場が別の場所であることが分かり、其方に行ってみる。店は満員、仲間の半分以上はまだ飲んでいた。一時間ほど付き合い、ホテルに戻る。後で聞いた話だと、4時半まで飲んでいたそうである。年に一度位ならいいのであろう。

1月1日:Buenos Airesに昼ごろ着く。飛行時間は3時間半ほどだ。町の中心のオベリスクの傍のホテルにおさまる。午後は自由行動だ。

ホテルの直ぐ傍にはBuenos Aires最大の通り、9de Julio通りある。国の独立記念日を冠した目抜き通りである。立派な街路樹の生えた幅広い中央分離帯の外側には片側6車線の車道、一番外側は広い歩道のある素晴らしい通りだ。 其処の一部に柵が設けられ、柵内ではDakarのレースが行われている。Paris-Dakar レースとドンナ関係なのかは分からないが、大変な人垣が出来ている。時折途轍もないエンジン音が聞こえる。見るとHinoと拓大の幟が幾つか出ている。

Buenos Airesの緯度はほぼ大阪と同じで、この時期可也暑く、湿度も高い。僕が裸に近いラン姿でカメラをもって、レースの進行方向に柵の外側を走っていくと、彼等はレースの方から一斉に振り向き僕の写真を取り出す。僕は珍獣にでも見えるのであろうか?やがてメデアの人間が来て、日本のチームに日本語で応援のメッセージをと言うので、其れらしいことを言って走り去る。ここまで来ると日本人は珍しいようだ。

夜はタンゴのDinner Showである。之はOptionで80ドル払ってある。バスで会場にゆく。Carlos Gardesの名を冠した立派な劇場だ。8時半からと言うことであったが、15分ぐらいから入れてくれ、中央前部のいい席に座ることが出来だ。1000人程入る劇場は未だ我々の他は余り居ない。着席すると飲み物のサービスが始まる。次いで3コースのDinnerが出てくる。前菜、主菜、デザートは夫々好みの物を選ぶことが出来る。ワイン、ビールは飲み放題だ。主采やステーキ、その他の肉があったが、鮭を頼んだ。何れにしろ、その切り身は大きい。ワインを飲みながらのユックリの食事が終わる頃、タンゴショウが始まる。勿論会場は満員と成っている。

幕が開くとオーケストラボックスが最上段にあり、その下が舞台となっている。音楽に乗り、華麗なタンゴの舞が次々に繰り広げられる。一時間余りタンゴを堪能した後ホテルに戻る。

1月2日:徒歩で市内の観光に出かける。現地の案内人が色々説明してくれる。泊まっている宿はほぼ町の中心地に在るので、市内の主な観光地域には歩いていける。先ず“5月広場”に行く。此処は1810年5月25日にスペインからの独立に向けて、蜂起のあったことを記念する広場である。この町の誕生の地とも言われ、広場も周りには大聖堂やピンクの

家と呼ばれる大統領府などがある。大聖堂には独立戦争を勝利に導いた将軍Jose de San Martinが埋葬されており、その霊廟には常時2人の衛兵が今でも見守っている。アルゼンチンの人々が外国からの支配を嫌い、独立の意味合いを如何に尊重しているかが伺える。その後、万博の会場跡や、Peron大統領やその妻Evaの葬られている立派な墓も見学し、ボカ地区の多彩に彩られて町並みも見て回る。

一日や二日では断定的なことは言えないが、概して言えば、Buenos Airesの町は緑豊かで、街路も整然とした町である。16−18世紀のスペイン、フランス、イタリアなど影響を受けて古い建築物も彼方此方に見られ、博物館、劇場等も多く、文化的な町と思える。人々の表情も明るく、機会を作って又来たい町である。

1月3日:朝飯前に一走りすることが昨夜纏まっていた。7−8人が7時にロビーに集まり、東にある大きな緑地を目指して走る。日曜日なので朝食は11時まで取れるので、其れまでに戻れば良いのだ。

20分ほどで緑地に着く。中には2−3のダートのコースがあり、現地の人たちが走っている。10キロのコースを回って帰ることにする。余り手を入れていない自然の原野に道を通しただけのコースで、野生の朝顔が綺麗に咲いていた。湖もあり、左手にラプラタ川の広大な河口も見える。今日も天気は良く、気温も高く、蒸し暑い。ボトルの水を飲みながらユックリと走り、一周した後ホテルに戻る。

シャワーを浴び朝食を取って、荷物を片付ける。今日は日本に帰る日だ。Checkoutは正午であるが、11時ごろ部屋をでて荷物を預ける。

昨日絵画館に行ったが1階だけしか見る時間が無かったので、他の階を見る為に又行くことにする。飛行場には4時にRobbyに集まって行く事に成っている。

Brasilもそうであったが、アルゼンチンでは文化振興の為、博物館や絵画館は無料なのだ。訪れた絵画館には殆どの著名な画家や彫刻家の作品が何点かあり、見る価値は十分にある。アルゼンチンの画家の作品も何室かに展示があった。

他にも二つの博物館を訪れたが、閉館中であった。時間が少しあるので、昨日訪れたPeronの墓がある墓地をもう一度回って、ホテルに戻った。

後はBuenos Aires, LimaLos Angelsと乗り継ぎ順調に帰国した。

今回の旅の費用は、Narita-Los Angelsの航空券125000、Santa Monica宿泊費 5000、Tour 参加費450000、現地空港税、チップ、その他15000、総計595000であった。



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