平成15年4月5日開設
  
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プログラム P-8 2009年版 (平成21年編)

09.11.01 NYC Marathon

09.08.08−17 Inca Trail Marathon
09.07.07−12 Kilimanjaro登山
09・06・26−7 Lapland 100 K



皆さんの家「豊心庵」
平成21年11月12日掲載

09.11.01 NYC Marathon
09.11.09・大森


 このマラソンが気に入って居る何人かの友人の影響で、僕も何回か参加応募をしたが、籤運は良くなかった。今回漸く参加OKの連絡を受け取ったのは7月中旬であった。NYを走るなら、自分の家に泊まれてとLoriからの誘いもあった。彼女とは2006年10月サハラ砂漠のレースで出会い、その後もアタカマ、ゴビ砂漠のレースで会っている。ボランティアーとして参加している医者である。今回もNYC Marathonにも医者としてFinish地点のテントで医療活動の奉仕をする事になっている。昨年結婚した相手のHughも同じテントでスタッフとして働く事になっている。スタッフの仕事はランナーより長時間に及ぶ。

朝7時に3人連れ立って家をでて、Lori夫妻はCentral Parkの医療テント向かい、僕は反対側のBroadwayに向かう。彼女たちの住んで居るアパートはこのマラソン参加には打って付けの場所にある。西82番通りのColumbusAmsterdam通りの間にあり、Central Parkまでは300m、NY自然史博物館までは400m程である。建物は1930年の完成の6階建てである。砂岩作りの落ち着いた感じの小さな建物には10世帯が住んでいる。

Broadway 81番通から@の地下鉄に乗る。日曜日のこの時間乗っているのはレースに向かう連中が大半である。乗り換えなしでSouth Ferryまで20分ほどで着く。地下鉄を降り、流れに混じってFerry乗り場に向かう。沢山の人が入場を待っている。程なく乗船のゲートが開く。Staten Island行きのFerryは大きく1000人位は乗れるようだ。全員が乗っても未だ空席はあった。20分ほどで到着し、其処からがバスでスタート地点に向かう。

3回に分けて走り出すが、一回に出て行くランナーの数は15000人を超え、之だけでも最大級のレースに相当する。スタート地点のFort Wadsworthは広大である。上空にはヘリや小型飛行機が何機か飛んでいる。

空は臼曇で肌寒い感じがする。雨の可能性は10%というが、気温10度近辺で雨にあえば、可也寒い事が予想され、上下とも長い物を着、ウィンドブレーカーと簡易雨具を着る。最終的な準備の後荷物を預けに行く。UPS(United Parcel Service)の黒茶色の大きなトラックが並んでおり、自分の番号の車両を探し預ける。トラック一台には1000人分の荷物が積まれる。スタート地点の前の集合場所に行く。大変な混雑である。前の出走に間に合わなくて焦っている人も居る。走路に出るのに時間が掛かり、多くの男女が高い塀を乗り越えている。出走前の混乱は大きな大会には付き物だ。チップを付けたレースなので少々遅れてスタートしても体勢には影響ないと思うのだが、皆早く出たくて、興奮している。高い対価を払って海外から着ているので、早く走らせろと息巻いている人も居る。走路に入る柵の辺りには沢山の着物が投げ捨てられている。物を粗末にするアメリカの驕りがここにも見られる。

此処の大会のChipは変わっている。薄い紙状の物に記録媒体が塗布されて居て、極めて軽量だ。日本のRunnersが代理店をして、年々維持会費を巻き上げているオランダ製のYellow Chip等は早く無くなった方が良い。

漸く遠くの方で号砲が聞こえ少しずつ進み出す。正直の所何処がスタートラインなのか分からず走り出していた。Chipの場合通常計時マットを踏む事により、計時が始まる。今回の計時方式は若干異なり、マットでは無く何か鉄製の物のように思えた。若干高くなっており、幅は50cm程であることがその後分かった。思い出してみると、スタート地点にもその様な物はあった。其処を通過した時の時間は号砲がなって6分後であったと記憶している。5キロごとのSplit time、中間点の通貨時間、Finish Timeは当日の内に分かるように成っていた。

スタート地点は既に橋の袂であり、登り勾配と成っている。上下6車線の高速道路を一杯に使って走るので、スタート地点以降は余り人込みを感じることなく走れる。人は余り気に成らないが、足元には気を付けなければ成らない。30000人以上が既に通り過ぎており、彼等の捨てて行った衣類やボトルの量は半端な量では無いのだ。ランナーはモット公道を走っているのだとの自覚を持つべきではないだろうか?湾の最狭小部に掛かるVerrazano-Narrows Bridgeの水面上に来ると左手からの風が冷たい。雨除けの合羽を着ていたのは正解であった。水面上にある橋の長さはほぼ1マイル、1.6キロである。高い橋の上からはNew York湾に浮かんでいる船舶が左右に見える。正面はBrooklynで、遠く左奥にはManhattanのビル群が見える。渡り切るとBrooklynである。NY市は5つの独立地域から成り立っており、レースは1976年の7回大会以降これら全ての地域を回るコースで行われて来た。この内Brooklyn内のコースは11.5マイル、マンハッタンは10.5マイル、Staten Island1.5マイル、Queens2マイル、Bronx1マイル強となっている。高層ビル群が立ち並ぶLower Manhattanはコースには入っていない。

スタートから橋を渡り切るまでは殆ど観客の姿が見えない。Brooklynに入ると大勢の人が道の両側で盛んに応援してくれる。橋を渡って1.5キロほど走路が複雑に曲がっており、狭い。此処は2手に別れ別の道を走らせる事により、混雑を避ける工夫が成されている。4番大通りに出ると、分離帯を挟み上下4車線の広い道を走る。道もほぼ真っ直ぐで、列の先の方は何キロも彼方に見える。距離表示は1マイルごとと5キロおきにある。空もやや明るくなり、薄っすらと汗をかく様になる。合羽とWindbreakerを脱いで腰に巻き付けて走る。長丁場なので備えは必要なのだ。

沿道は大声での声援やら、生演奏やらで大変な賑わいである。各地域には夫々の特色があり、色々な人種が夫々個性ある町の雰囲気を作り出している。気が付くことは教会が地域の中核となっている点である。其処には特に多くの人々が集まって応援やら音楽の演奏をしていた。10キロは63分程で通過する。8マイル地点で道は右に折れ、Bedford通りに入る。木立の多い住宅街となり、独特な衣装を纏ったユダヤ人の姿が目に付く。彼等も又彼等の宗教施設Synagogueを中心に集まっている。間もなく川に掛かる小さな橋を渡り、Queensに入る。この橋が中間地点である。橋は都合5つ渡るが、小さな橋は跳ね橋と成って居り、船舶の航行の為定期的に中央部が立ち上がる構造となっている。軽量化のため、この部分は鋼製の網目構造になっており、其のままでは走り難い。この部分にはマットが敷かれて、この不都合の解消を図っている。20キロまでの10キロは70分を超え、中間地点は2時間23分で通過する。15分ほど走り、次の大きな橋Queensboro Bridgeを渡ってManhattanに入る。建設後今年で丁度100年になる大きく立派な橋である。橋の上からはManhattanの摩天楼群が左手前方に見える。橋詰を左に曲がりManhattanに入った所は、1番街大通りとCentral Parkの南の端に当たる59通りの交差点である。此処から北に向かって走る。6車線の大通りが5キロ近く続き、緩やかな起伏があるので遠くを走るランナーの姿を見ることが出来る。残す距離は16キロを切っているが、長い列になる事は無く、道一杯に沢山ランナーが走るさまは壮観である。時間別出走であり、同じ様な走力のランナーの集団なので何時までも団子の状態が保たれるのである。途中スポンジが出ている所があったので、汗を拭く。

周りに走っているのは圧倒的に女性が多い。色々な国の人が走っている。日本人の姿も何人か見た。旅行社の団体で来ている様だ。車椅子人、その他の障害を持ったランナーも伴走者の手厚い援助を受けながら走っていた。中には更に早い時間にスタートした人も居るようだ。給水所はほぼ3キロ毎にあるが、この天候では全部立ち寄る必要はない。給水所は道の両側にあり、多くの所では手渡してくれる。容器はスポーツ飲料メーカーの紙コップでリサイクル可能との触れ込みであるが、路上はグシャグシャになったコップが散乱している。リサイクルはパルプ状にしてから行うので、足で踏みつけるのも省エネ的観点から良いのかもしれないが、果たしてその様な観点から路上でパルプを作っているのであろうか?視覚的には決して美しくは見えない。適当なゴミ入れの設置とランナーのマナー改善により、モット美しく走れることを考えるべきであろう。

30キロ手前には唯一エネルギーの補給場所がある。小さな袋に入った練り物である。4つほど手に取り、歩きながら飲み込む。朝飯からは5時間が経っているので、腹は減っている。東ハーレムを通り、ハーレム川に掛かる橋を渡り、Bonxに入る。ここは道も曲がっており、道路の凸凹も多く走り難い。幸いにもこの地区の距離は短く、再び別の橋を渡り大きく左に曲がって又Manhattanに入る。残る距離は5マイル、8キロ余りである。30キロまでの10キロは75分を掛けて居るので、余裕は残っている。後は全力で走るだけだ。少し早く走るだけで、面白いほど周りの人が後ろに下がっていく。5番街、通称Museum Avenueに入り、2キロほど走り、90通りで右に入り、Central Park内を2キロ余り走る。公園の南の外れで、再び公道、59通りを走る。残す距離は1.5キロと成る。Central Parkの南西の外れで再び公園に入る。残す距離は500メートル程で若干起伏はあるが、全力で走る。最後の10キロは67分で走ることが出来た。Finishの前300メートル辺りからは両側に観客用の特別席が用意されている。有料なのであろう。両側からの声援の中多くランナーがFinishに飛び込む。4時間50分ほどで走れた様だ。メダルを掛けて貰い、水と食料の入った袋を受け取る。バナナ、林檎、ベーグル、スポーツ飲料等が入っている。保温用のアルミ箔も巻いてもらう。食べながら、飲みながら流れに乗って、荷物のあるトラックを探す。番号が付いて居るので直ぐに分かり、荷物も手際よく出して呉れた。荷扱いは慣れて居るのだ。其のまま更に進むとLoriの居る医療テントがある。立ち寄って中に入ろうとすると、医療の必要のない人は入れられ無いと断られる。Loriに鍵を預かって貰っているので如何しても会う必要があることを説明して、テントに入る。中はてんてこ舞いの急がしさだ。600人余りの面倒を見たという。それでもLoriは外に出てきて、亭主のHughが一緒の写真を撮ってくれた。鍵を受け取り、先にアパートに向かう。Central Park内もランナーでごった返しているが、公園西大通りや自然史博物館の北側の通りも交通を遮断し、ランナーや其の家族の落ち合い場所としていた。市の行政も巻き込んだ大掛かりなレースなのだ。シャワーを浴び、後夕食を済ませ、早めにお休みとする。彼等の帰りは遅く成るようである。

後でInternetを見て分かったことであるが、43745人が完走している。参加者の面では大レースと言えよう。第一回大会の1970年の完走者が55人であったことを考えれば、急速な規模の拡大と言える。之はNYInfra整備が整っていること、アメリカ人の何でも一番思考があって可能となったのであろう。参加費はNY Road Runners138、その他が171、外国人は231ドルと極めて高い。単に走るだけで之だけ掛かるのである。当初の参加費1ドルは遠い昔の話となっている。イヴェントの予算は当初は1000ドル、今回は22800万ドルと成っている。実の228,000倍の増加となっている。

僕は話の種にこのレースを走ってみたが、二度と走る気は起こらない。モット小さな顔の見える大会が好きなのだ。

レースの前後

3017時ごろ成田を立つ。Washington DCで乗り換え、NY/JFKには其の日の18時半ごろ到着。ShuttleLoriのアパートに着いたのは9時を過ぎて居た。

翌日は受付け場所の35番通りまで歩いて往復する。他も回ったので10キロ以上の距離であろう。アパートの近所で赤ワインを買って帰る。40ドル程のもので、お土産の代わりだ。其の晩はLori夫妻をGreenwich Villageのレストランに招待の申し入れをしていた。アパートに着いて、大変な事に気が付く。ワインを買った以降クレジットカードを紛失したのである。

店に電話を掛け、其処には無いことを確認する。Visaに電話掛けカードの不能化と再発行の手続きを取る。アメリカのVisaの対応は良く、日本の発行会社がOKすれば2日程で届ける事が可能と言う。何回かVisaの発行元とも電話連絡を取り、最終的には113日のCharlestonのホテルで受け取る手筈の確認が取れた。中2日という早い対応であった。

しかし、招待はしているもののレストランで支払う金は持ち合わせていない。コンナに格好の悪いことは滅多に無い。Loriに取り敢えず立て替え払いを頼む。

この日はHalloweenと言う奇妙な行事がある日だ。ケルト民族の文化とキリスト教の其れとが合体したものだと言うが、我々には分かり難い。仮想衣装を纏い町を練り歩き、家々にはグロテスクな飾りつけをする行事だ。オレンジ色のカボチャを刳り貫き、ローソクを灯したり、子供たちが箱は缶をもち家々を回り菓子などを貰う日でもある。同じ仮想行列でもカーニヴァルは陽気であるが、Halloweenはグロテスクで陰気臭い。NYではGreenwichの行列が最も有名で、毎年沢山の人が繰り出すという。食事の序に之も見ようと言うのが今夜の趣向である。

Loriが予約したレストランに着いたのは、カード紛失の後始末に予定以上の時間が掛かり、予定時間を過ぎていた。6差路の角に立つ2階の席からは町の雰囲気が見て取れる。ワインを飲みながら3コースの食事を取る。イタリア料理の店で中々洗練された料理が出た。食事中激しい雨が降り出す。仮装行列も之では台無しであろう。

食事を終える頃には雨は上がり、行列を見に行く。道一杯に色々な仮想衣装を纏った行列が通り過ぎる。子供も沢山居る。仮想はヨーロッパ伝統の幽霊、怪物、魔女、ゾンビ等気味の悪いものが多い。これらの衣装も相当の金を掛けて誂えて居るのであろう。数時間まえある美容院の前を通り掛かると、この日の為に特別な髪型にしている人たちを多く見かけた。

暫く行列を見た後、地下鉄に乗り、帰り足に付く。電車の中は仮想行列に参加した其のまま姿の人で一杯だ。この日だけは無礼講で、特別な日なのであろう。駅や車内で写真を撮っていると、突然カメラが動かなくなった。電源を入れても画面は真っ黒なのだ。以前からソフト的な問題が出ていたが、これで完全に使えなくなったことになる。デジタル機器は意外な脆弱さを持っているのだ。来る前にもノートパソコンが同じような状態と成り、メーカーと遣り取りをし、未解決のまま出てきた。こちらの方が被害は大きい。膨大な量の蓄積データが全く取り出せない可能性があるからだ。

111日、レースの日であり、之は既に延べた通りである。

翌日は自由行動の日だ。空もほぼ快晴の気持ちのいい朝となった。Central Parkに行ってみる。Finish地点辺りのゴミなどはスッカリ片付けられている。只柵やテント等はまだ撤去の最中であった。Finishの手前の観覧席やFinishのアーチも手付かずの状態で、26時間以上掛けて辿り着いたと言う杖を突いた御婦人がInterview を受けて居た。勿論何人かのサポーターの援助を受けながらのFinishである。NYC Marathonはこの様な所が他には無い特色であろう。Finishに向かう意思がある者の為には何時までもFinishは開けて置くのであろう。公園内は紅葉が始まっている。この辺りの紅葉は赤と言うよりは黄色が多い。特に銀杏の黄色が鮮やかだ。元々中国の原産であるが、人為的に移植され、今では彼方此方で見られるように成っている。その後訪れた、CharlestonCharlotteにも街路樹が見られ沢山の実が落ちていたが、実は見向きもされない様だ。食する習慣が無いのであろう。

その後はLower Manhattanに向かう。Union Squareの傍のスポーツ店に寄って見る。Trail Race用の靴は此方の方が開発が進んで居るようだ。文無しの状態なので見るだけであった。時間があるので、NYC Hallの中を見ようとするが、館内は見学が出来ない様だ。西洋の市庁舎は殆どが出入り自由であるので、異な感じがした。中華街が近いので、食事を其処で済ませる。スープ付きで4品程の昼食は5ドルと安く、量も多く、金欠症には打って付けの食事であった。

ウロウロと長い間歩き回ったお陰で、Loriが夜勤に出かける6時前にはアパートに帰り着くことが出来なかった。アパートに帰って鍵を開けようとするが開かない。鍵は上下二つ付いており、どちらも掛けてあれば預かってある鍵一つでは入ることが出来ない。階段に腰を降ろし、暫し考える。Hughが居ることに成っていたが、彼も何処かに出かけた様だ。

このまま此処で待って居るのも、退屈だ。いっその事Loriの病院に行った方が良いと思う様になる。公園の東側のMt.Sinai.Hospitalと聞いており、Loriは公園を横切って歩いて通っていると言って居たのを思い出し,行ってみる気になったのだ。NYの病院を見ておくのも悪くないであろう。

途中他人に尋ねながら病院に向かう。5番大通りを北に向かい、100通りの手前にある大病院だ。受付でLoriの名前を告げるが、居場所が分かるまで15分ほど掛かった。受付の男は名簿を調べ、暫く彼方此方に電話して、ヤットLoriが緊急病棟に詰めていること突き止める。別棟に行き長い廊下を歩き、ヤット辿りつく。大勢の患者の中を医療関係者が忙しそうに行き来している。処置室だけでも一度に100人程が横になれるベッドなどが置いてある。其の横が普段彼女が勤めている小児科病棟だ。此処にも沢山の人が待っていた。夜の8時を回って居るのに、外来患者の多いことに驚き、訳を聞くと勤めを終えから病院に来る人も多いので、夜も遣っているのだという。施設があれば、後は医者が居れば24時間でも治療は可能であろう。日本の場合は医者も施設も十分とは言えないのでは無いか?結局Loriが自宅に電話をし、Hughの在宅を確認したので、鍵の問題は解決した。

113日、7時にアパートを出てLaGuadia空港に向かう。地下鉄とバスを乗り継ぎ1時間ほどで付く。Loriは夜勤から2時ごろ帰っており、僕が出る時は起きていた。現金も少なく、カードは最終的に受け取り使って見るまでは、安心できない。最悪は帰国するまでカードは使えない可能性もある。安全のためにLoriから100ドル借りて分かれる。

NYからWashington DCに飛び、乗り換えてサウスカロライナのCharlestonに向かう。アメリカには何回も来ているが、其の都度寄り道をする事にしている。何時の間にか合衆国の全ての州を回って見たいと思う様にも成っている。既に30州は回っているので、早晩回り切る事に成ろう。

アメリカはロッキーやアパラチアの山岳部を除けは非常に平坦な土地である。今回飛んだ大陸東岸も殆ど平らである。特にCharlestonの辺りは堆積地で非常に平らな事が機上より見て取れる。この事は二つの事から分かる。一つは海岸または川岸の家からは航海可能な水辺迄出る為の非常に長い桟橋が沢山見られることであり、もう一つは海岸を航行する船舶の航跡が白色ではなく茶色を帯びて居ることだ。海が遠浅な為、海底の泥をスクリューが巻き上げて居るからだ。全体には緑であるが、浜辺には砂紋では無く,複雑な泥紋が出来ている。流れが平らが故に最早川には粒径の大きな砂を動かす力は無く、細かい泥の洲を長年に渡って作り続けた結果、今のこの奇妙な地形になったのであろう。

Charleston International Airportは空軍の飛行場に間借りをしている様な物だ。沢山の大型輸送機が停まっていた。飛行場で町までの交通手段について聞く。バスは一時間に一本しかないが、運よく15分程で来ることになって居るので利用することにする。外に出ると快晴で、気温湿度ともに快適である。バスの老人料金は半額の70円程度である。Shuttleを利用すると15ドルだと言っていた。40分ほどで町の中心部に着く。其処からバスの乗り継ぎもあるが、15分程で歩くことが出来ることが分かっているので歩く。何れにせよ今日の宿は一泊25ドルの安宿でCheckin17時と成って居るので、早く行っても何の役にも立たない。

案の定着いた時は早過ぎ、Hostelの中には入ること出来なかった。暫く入り口のベランダに座り待っていると、泊まりっている客が扉を開けて中に入れて呉れた。間もなく受付の時間となり、先ずカードが届いているかと尋ねる。感知していないとの返答であった。早速またVisaに電話はする。配達を担当したDHLは今朝9時前に受け取りのサインをした書類を持って居り、確かに配達したとの事であった。再度窓口の女にこの件を話すが、誰のサインが入った書類なのかを確かめて呉れという。逆に此方は朝の当直は誰だったのかを聞きだす。結局其の日は拉致が開かず、翌日になってやっとカードを手にすること出来た。Hostel内での連絡不良で、丸一日受付の机の中でカードは休息をしていたのだ。カードは手にしてもこれで安心する訳には行かない。本当に使える事を確認しなければ、単なるプラスチックの欠片に過ぎない。サインで使える確認と、暗証番号でも使える事を余計な物を買って確かめ、ヤット安心が出来た。之でLoriからも借金も返せる。 

其の日はCharlestonの町の中を歩き回る。地図を見るとこの町はNYに地形が良く似ている。町の中心部である半島はManhattanと同じ様に東西とも川が流れ、南は深い湾に面している。川の東にはBrooklynに相当する地形があり、南西にはStaten Islandに相当する島もある。勿論人口や町の大きさはNYの比ではない。水に囲まれ緑豊かな落ちついた町だ。

宿は町の繁華街まで10分ほどの半島の西側にあり、橋の掛かるAshley川までは300m程である。橋を渡り対岸を目指すが、橋の中央で引き返す。川幅は500m程、対岸には目ぼしいものが無い様な気がした。橋の上からは両岸に可也の幅に渡ってやや黄色味を帯びた背丈の低いイネ科の草が見える。水は灰色に濁っている。橋桁傍で杭を打ち込む作業をしていたので、暫し見入る。船から大きなクレーンを使い、錘を杭の頭に落下させて打ち込んでいたが、一回の落下で2−3m程打ち込まれていた。川底が軟らかい堆積層である証拠だ。

先ずこの半島を反時計周りに180度程周り、その後中心部の繁華街を回ることにする。出来るだけ川に近い道を歩く。町並みは綺麗で、街路樹の手入れも好く出来ている。途中の岸辺では釣りを楽しむ人々を見かける。途中で道を間違え、中心部近くまで行ってしまった。気が付いた所はCannon Parkであり、何処にCannonがあるのかを聞くが此処には無いと言う。名前の由来は何なのであろうか?

再び川岸を歩く。沢山のヨットやモーターボートが係留されて居る。正午近くなって居り、日差しは強く、街路樹の日陰も小さい。沿岸警備隊の基地を通り過ぎ、更に歩くと、大きな公園に着く。此処は日陰が多く、一息つける。 島の先端であり、此処には沢山の大砲が並べられていた。White Point Gardenと銘が出ていたが、NYBattery Parkに相当する所だ。遠浅の湾があり波が穏やかなこの地は襲撃上陸には良い所で、其の為防衛基地や大砲の備えが必要だったのだ。

半島の先端を回り、東側を北上する。こちら側の川はCooperであり、幅も広い。この点はNYとは正反対である。此方の方が町として先に開けた所であろうか、小さな路地が多い。

立派に整備されたWaterfront Parkがあり、Cruise船の桟橋もある。其の先にはコンテナクレーンが何機か立っている。対岸には空母が浮かび、艦載機もハッキリと見える。Charlestonは良港なのであろう。

岸辺を離れ町の中心部に向かう。観光客を乗せた馬車を見かける。町の中にもそれ程高層の建物は無い。一番高いのが教会の尖塔である。古い町なので、教会は沢山あり、観光の目玉と成っている。アメリカで一番古い郵便局がこの町にあると宿で誰かが言っていたので、中に入って訊いてみる。200年昔から業務をしていると、係りの女性は言っていたが、一番古いことは否定した。Internetで調べると最古の郵便局はNew Hampshireにある様だ。1806年からの継続営業と言うので、Charlestonの物も其れとほぼ同じ歴史を持つものと思われる。

南北に通る道路にKing通りがある。此処は何キロにもわたり、立派な店が並んでいる。小さな町なので、4時ごろにはほぼ見たい所は見尽くした。Cooper川に架かる橋を渡り対岸まで行って見る。長大な橋で、下は大きな船が通れる。川の上流には更に多くのコンテナークレーンが見える。橋の長さは3キロを超える。歩いている人、走る人、ローラーブレードや自転車に乗っている人々が行き来している。車道とは完全に分離されているので、走りのコースとして利用している人は多いようだ。往復して宿に帰った時はスッカリ暗くなっていた。

Internetで明日と明後日の宿の手配をする。明日行くノースカロライナのCharlotteは適当な物が探せないので諦め、あちらに着いてから探すことにする。明後日はCharlestonの空港の傍のホテルの予約をする。早い便なので、市内の宿ではタクシーを利用しなければばならず、時間的にも好ましくない。

115Greyhound BusCharlotteに向かう日だ。切符は日本で予約して居たが、券は乗り場で一時間前に受け取ることに成っていたので、6時に市内から其方に向かう。空港の手前にあり、バスを乗り換える必要があると言われているが、Internetの地図検索では歩ける距離である。バスの乗り換え時間を考えると、歩いた方が早い。道を尋ねながら停車場に付くと、未だ開いていなかった。20分ほど待つと男が遣って来て、中に入り、切符を貰う。帰りは明日夜10頃の予定であるが、飛行場まではどうやって出るのだと訊いてみる。タクシーで行けばいいが、此処に停まって居なければ、呼んでやるという。パキスタンから数年前に移住して来たと男は言った。其の前は日本の某大手電機メーカーから家電を輸入して、日本にも何回か来た事があるとも言っていた。

Greyhoundには何回が乗った事があるが、其の停車場は前近代的である。単なる乗り継ぎの場所であり、何時間も待ち合わせ時間がある場合があるが、客の快適性などは全く考慮されていない作りと成っている。バスは1020分遅れるのは当たり前だ。地方のバス会社とも提携し、全国ほぼ何処でも安価に行ける取り得だけで存続しているのであろう。この辺りではSoutheastern Stageと提携している。僕の乗ったバスもこの会社のものであった。定刻845分のバスが発車したのは9時過ぎであった。

2時間余り走り、Columbiaに着く。此処も町の中心がから離れた不便な所だが、目的地のCharlotte行きのバスが来るまでは4時間近くある。7キロほどの荷物を担いで町の中心地まで歩く。此処は州都であり、サウスカロライナでは最大の都市だ。州の庁舎がほぼ町の真ん中の岡の上に立っている。

銀行があるので、Loriに借金を返すCheckを用意して貰う為に立ち寄る。大手都市銀行であるが、この銀行の口座が無ければ、Checkは切れないので、郵便局に行く様にと言われる。郵便局に行くと現金を持って来ればチェックは用意出来ると言うので、先ほどの銀行に戻りATM300ドルを引き出し、局に戻る。300ドルの名義人指定の銀行渡り小切手を切って貰い手数料1ドル、封筒切手代約1ドルを払い、送ることにする。普通便で良いと言う。Loriはこの便を119日(月)に受け取ったのであろうか、此方の10日その旨メールが入っていた。

送金の手続きの後は町の古い住宅街を見て回る。木造の大きな家が何軒か残って居り,なかなか壮観である。その昔、奴隷制を背景に南部が経済力を持って居た時代の産物なのであろう。

バスが走り出すと緩やかに波を打つような地形の中を走る。幅広い道の両側には緑の森が延々と続く。幹の黒い松が大半であるが、落葉樹の葉も未だ青い。一時間半ほどでCharlotteに着く。巨大な高層ビルが何10棟か建つ不思議な町だ。早速は宿を探すが、何処も空き室は無く、満杯だという。マリオット系3軒、Hilton系2軒、Ritz Carltonも回ったが同じであった。暗くなって居り、腹も減って居るので、先ず腹越しらいをしてからと、Hooterというレストランに入る。若いCheer Girl姿の接客係が注文を取りに来る。可也大きな店で如何もレストランと言うよりはSport Barの様な感じであった。

飯を食って落ち着いてから又宿探しをする。その他も2−3回ったが何処も同じ結果であり、何処か止まれそうな所は無いかと言うと2−3紹介してくれた。一軒目は駄目であったが、2軒目の中心街から少し離れたBlake Hotelは空きがあった。此方には安いの高いのとの選択権は無いので、素泊まり190ドルで泊まることにする。部屋は大きく、巨大なベッドがあった。此方で言うKing size bedだ。Mammoth sizeと言うべき大きさだ。

翌日も天気は良い。町を歩くが、何とも生活臭がなく、面白みのない町だ。巨大なビルが何棟建設中だ。この様な町はアメリカには他にもある。Washington DCHoustonなどだ。小さな店や八百屋などが無い町だ。新興の町らしく古い教会などはビルの谷間で窒息しそうに佇んでいる。遊覧バスが市内を走っているがそのコースは全長3キロ程度で面白くも無い。少し中心街を離れると、道幅も広く、街路樹も整った住宅街あり、此方の方が未だ面白さがある。やや古い時代のレンガ作りの団地風の住宅がある。歩道が何処も立派で安心して歩ける。

バスは大幅に遅れ5時近くになってColumbiaに向けて走る。Columbiaで1時間半待って、Charlestonに向かう。暗い中を走り、途中2箇所に停まり、Charlestonに着いたのは10時近くになっていた。早速昨朝の男にタクシーを呼んでもらい、予約していた空港ホテルに向かう。

その後は全て順調で予定通り、8日の18時前に家に着くことが出来た。



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皆さんの家「豊心庵」
平成21年10月15日掲載

09.08.08−17 Inca Trail Marathon
09.09.24・大森


 知り合いの何人かのランナーが既に走っており、2−3年前から走りたいと思って居たが、今年実現した。レースの主催者とメールの遣り取りが始まったのは昨年の暮れであった。対応は良く、好感が持てた。2−3月になると原、千田、石原の諸氏も同道することになり、手配に入る。レースの期間は題記の通りであるが、現地集合で高額(2550USD)の参加費を払い込む事でもあるので、ゆとりを持って現地入りをすることにする。之は高地順応の為にも有利に働く。主催者にはこの他Lima-Cusco間のPeru内の運賃(300USD)、前後余計に泊まる宿泊費などを含め3077ドルを6月初めまでに支払った。この他にNarita-Limaの航空運賃(20万円弱)、ナスカの地上絵を見るためのOption Tourに440ドルが必要であった。合計すると56万弱である。この他の出費は現地で若干の飲食費とお土産代である。之が8月4日日本を離れて、19日夜Limaを飛び立つまでの総費用だ。滞在日数から見ると、一般的なツアーと比べると高いが、これらのツアーでは先ず通らないルートを通り、同じ観光地でも違った角度から見ることを出来るので、比較は困難である。僕は勿論この程度は払う値打ちのある旅であったと考えている。この他僕はアメリカに数日居たので、それが加わる。ナンヤカンヤで70万程度か?

8月4日午後、カナダのトロントに向かう。乗り継ぎは翌日の午後なので、空港が終夜開いていなければ、泊まる必要がある。到着後確かめると、夜は閉めるというので、シャトルサービスの付いているホテルを予約し、車が来るのをまつ。4人一室で120ドル、一人30ドルは安い。外国では料金は一室単位で考えているので、1人で泊まっても100ドルほどにはなる。

着いて見ると部屋には2つのキングサイズのベッドがある。Single Bed4つを想定して居たが、これは此方の勝手な思い込みで、確かめないのが悪いのだ。Comradesに行った時にも、この様なことはあった。一晩だけなので、千田氏と同じベッドで寝る。石原氏は寝袋で、床に寝るので、原氏が王様のベッドに一人寝となる。

翌日午後2時の便でLimaに向かい夜の9時ごろに付く。其の時間でもLimaの空港は超満員である。現地の女性が迎えに出ており、明日のCuscoへの便の手続きを済ませ、空港に隣接するホテルに案内してくれたのは日が変わった頃であった。

翌朝Cuscoに飛び、そこから市内のホテルには主催者側で案内してくれた。回教の影響を受けたスペイン風の立派な建物だ。中にはアーチの回廊があり、花を飾った噴水の中庭がある。入口には何時も制服を着たホテルの従業員が立っていた。

一旦Twinの部屋に収まり、後は終日自由行動である。各々勝手に彼方此方見て廻る。CuscoInca帝国の首都であり、スペインの制圧で町の姿は大きく変わっているが、町全体が世界遺産に成っている。何処を見ても目新しいものばかりで、暫くは楽しめそうだ。

ホテル其の物の作りも面白い。小石を敷き詰めた庭も石の都の面影を偲ばせる。外に出ると、歩道も車道も石作りだ。歩道は15センチ程の正方形の石が敷き詰められており、其の表面には滑り止めの幾つかの凹みが付いている。石の表面は黒光りを放っている。車道の石には凹みが無く、色は灰色がかっている。主要な道路は似たりよったりの作りである。

細い路地の道の表面も殆ど全て石で覆われている。昔のCuscoは道路も家も全て石で出来ていたのだ。1533年Fransisco Pizarroが原住民の軍隊を率い、Cuscoを征圧した。原住民の征圧の為に原住民同士の戦いをさせたのである。読み書きの出来ない彼は部下を通し、“この町は今までの見た中で、最大で最も素晴らしく、、、、、美しく、素晴らしい建築があり、スペインであっても、、、”と国王に書簡を送ったという。

その後宣教師達が乗り込み、キリスト教化を推し進めた。この為必要だったのは、先ず教会の建設であり、スペイン風の教会がIncaの建物を壊し、その石で作られていった。Incaの石組みは非常に素晴らしく堅固なもので、トテモ土台や基礎の部分までを破壊するのは大変であり、又その必要が無かった。彼らが遣った事はIncaの石造の基礎をそのまま生かし、其の上にIncaの上物の石を使い、スペイン風の教会や住宅などを作っていった。勿論これらの建設には原住民を当たらせたのは云うまでもない。

ヨーロッパの帝国主義の展開には一定の共通したものがある。先ず国王の後ろ盾を得て軍人、其の多くは無頼漢、が軍事力で征圧をする。宣教師や一攫千金を狙う野望家が其れに続く。神の力はどうしても不可欠であった。之には少なくとも2つの理由が在る。領土の統治には原住民を従がわせる必要がある。異なった価値観を認めたままでの統治は困難である。異なった神を信じられたのでは統治が困難である。徹底的に原住民の従来の宗教を否定し、駆逐する必要がある。この為には、先ず彼らの神殿を破壊すし、その石を利用してキリストの殿堂を建て、原住民の教化を図る。これが例外なく、汝の敵を愛せよと説くキリスト教の遣った事なのだ。原住民の言語や其の他の生活習慣も悉く否定し無ければ統治は難しい。征圧,制圧とは被圧民の生活を全面的に否定破壊する行為なのだ。

 剃刀の刃一枚の隙間の無いと言われる精巧な石組みの上に作られたスペイン風の町並を見ながら歩くと、この様な考えが実感出来るのでる。広島の原爆ドームと同様に、人類が過去に行った行為の証しとして、其の物的証拠としてここは世界遺産として保護されて居ると考えている。

 Incaに関してはまだまだ謎と何故が多い。“星の王子様”で知られるSaint Exuperyもこの事に付いて触れている。飛行士で仏領サハラ等での不時者、南米の初期航空郵便事業の経験から多くの著述を残している。仏語の勉強をしていた遠い昔のことで、定かなことは覚えて居ないが、彼も空から見たIncaの遺跡を見て、何故何の為にこの様な壮大な建造物を作ったのか、指導者と民衆の関係などの疑問を投げかけている。何が彼等を駆り立てたのか?解けない謎は永遠に残るかもしれない。兎に角石組みは精巧なのだ。ガイドは神の神殿であり、完全無欠な物を目指したのだという。如何に神の為とは言え、如何してあれ程の精度をもって巨石を加工し、組上げる事が出来たのであろうか。一つ一つが丸で機械で削ったように精緻に加工され積み上げられている。それで居て、表面は手作りの柔らかさがある。建築物と言うよりは芸術品だ。苦役を強いられ、嫌々ながら作った物とも思えない。若し建設従事者の心が其処に無ければ、これ程完璧な石組みは出来ない筈だ。見えない所で手抜きがあれば、地震多発地帯であるので、崩壊が起こっている筈だ。クスコの石垣は数百年を経ても動いた形跡が無いのだ。

石の加工はより硬い石で行っていた時代である。又作業にあったのは農閑期の農民であり、通年建設が行われて居た訳ではない。それにInca帝国の存続は100年足らずであったことを考えると、あれ程多くの構造物の建設が如何して可能であったのか? 等々疑問は残る。

 建設に当たっては多くの犠牲者が出たことは想像に難くない。彼等は支配者や神の為に犠牲になることを,それ程厭わなかったのかもしれない。宗教が生活の中で今より大きな位置を占め、死んでも又直ぐに生まれ変わると心から信じ込んで居れば,死に対する恐怖は我々程大きくなかったであろう。ただ再来しても又苦役の繰り返しがあるとは考えなかったのであろう?何が彼等の喜びであったのだろうか? ???は切が無い。

 現在の表通りの建物は道路に面する側にはアーチ状の回廊が回っており、二階には木製の張り出しベランダが付いている。落ち着いた感じのする町である。

 次の日も自由時間である。町の中の美術館や博物館を見て歩く。規模は小さく、それ程目を引く物は無かった。説明がスペイン語で内容が把握出来ないことも原因の一つだ。市場にも行ってみる。手織りの布や、其れを加工したもの、編み物などが数多く並んでいる。赤系統の派手な色の物が多い。

町を歩いている人々の衣装や顔を表情も面白い。余りジロジロ見るわけには行かないが、それと無く眺めて観察する。面白いというのは、我々が見慣れているものからは異なっているからだ。我々も彼等も自分の衣装や格好が面白いとか可笑しいとは思っていない。先ず顔や体つきが異なる。400年の間に混血が進み、血の混じって居ない人は皆無に近い状態に成っていると聞く。一般的に男女ともズングリムックリで顔は丸顔、色は浅黒。現地の血の濃い人の平均身長は我々より10cm程度は低いのではなかろうか?日本人に似た所もある。髪は黒色直毛、目の色も似ている。顔も我々とソックリな人も珍しくない。

町の中を歩いている男の服装はあまり変わったところはないが、女性は変わった服装をしている人を度々見かける。何処と無く現地色のスカートに上着を着、殆ど例外なく帽子被り、現地の手織りの風呂敷を背負って歩いている。風呂敷の中には行商の商品などを入れているようであり、又子供を背負っている場合もある。子供はあちらでは風呂敷に入れて背負うのである。之は後で分かった事である。

被っている帽子は鍔付きの物が多いが、天辺が丸いもの、平らな物色々である。背の低い女性がスカートを履き、頭に帽子をちょこんと載せ、風呂敷を背負って2−3人連れ立って歩いている姿は町の中でも長閑に見える。決して早歩きもしないようだ。同じような格好をした子供を連れている場合もある。アルパカやその子供連れて観光客に写真を撮らせて、生業を立てている者もいる。路上に座り込んで、商品を広げて、編み物をしたり、簡単な機で布を織っている姿も見受ける。彼らは皆勤勉なのであろう。

レストランにも立ち寄り、どんなメニューでどの位するか、営業時間、生演奏や踊りがあるかどうかを予備調査した。評判の店は3−4軒あったので全部廻った。変わった料理は2つあった。アルパカとモルモット(Guinea Pig)の料理だ。僕は兎に角初めてのもの、自分にとって新しいものは何でも遣って見たいのだ。食って見なければ、旨いか不味いかは判らないからだ。食わず嫌いで居る必要はない。

滞在中に是非これらは食って見たい。明日からは食事は主催者の手配となるので、此方の選択権は狭まると思い、仲間は乗り気ではなかったが、アルパカの出る店で夕食をした。何とも不思議な肉だ。殆ど癖が無いのだ。噛み心地は牛や羊の肉に近いが、臭みや特有の味が無いのだ。我々の食っている肉は夫々に目を瞑って食っても分かる、特有の食感、味、臭いがあるが、アルパカの肉は其れが無いのだ。只の肉であり、特に美味しい風味もなく、また不味いものでもない。脂肪は殆どなく、特に硬くも無い。実に不思議な肉だ。その後マリネも含め、色々な調理のアルパカを食ったが、最初の印象は変わらない。

8月8日。今日から団体の公式行事が始まる。Cuscoを中心とした観光名所を廻る2週間有効な入場券を持ち市内の観光をする。40人の大集団で、二手に分かれガイドについて廻る。大聖堂、Qorikancha(太陽の神殿、黄金宮殿)St. Domingo修道院は中に入って見る。

之からは随所に現地の地名などを使う事にする。現地にこれから行く人の参考に成ると考えるからだ。慣れない言葉は目で追うだけでも骨が居れ、発音などはトテモ出来そうも無い文字が続くが、厭わずに一つの絡まりとして捕らえて欲しい。

大聖堂は広場に面して立っている。中にはキリスト教の宗教画や彫刻がある。ガイドは、“キリスト教もこちらに来ると変容し、ヨーロッパのものとは若干異なるものになる”と、具体的に実物を見ながら説明する。例えば聖母マリアの色を浅黒く描いた絵、最後の晩餐の皿の上にはこちらの御馳走であるモルモットの丸焼きが描かれたものを指す。聖母マリアはヨーロッパより肉感的に描かれているのもその一つだという。またスカートの裾を広く描き、スカートの部分が山の形に描かれている。これらの絵はIncaの画家たちが模倣して描いたもので、彼らの好みや、征服者の分からない様に自分たちの主義主張なども入れ込んでいた。

元々Incaの宗教は太陽神を頂点にした多神教であった。山や水も信仰の対象であった。マリアのスカートは山を表しているという。マリアの前で長く座っている現地人を見て制圧者は熱心な改宗者だと喜んでいたという。本当は彼らの神、山に祈っていたのだという。こうした面従腹背の隠し絵的な物は他にも多くあるという。物理的に支配されても、心の中までも支配されまいとするのが人の常なのである。暴力や強制での支配が長続きしないのはこの為である。冷戦後の東欧の分裂が何よりの証拠だ。終わってしまった事は取り返しはつかないが、チベットや新疆ウイグル自治区などの中国の強制支配は早急に止めさせなければならない。

St. Domingo Monasteryは17世紀に海外進出に功労があったドミニカン派の修道院として、Incaの最も聖なる太陽神殿を破壊し、その礎石の上に神殿の石を使い建てられたもので、その後の何回かの地震で元の形は部分的にしか残っていない。一方太陽の神殿の床面やその下の礎石は現在でも原型のままであり、ずれも殆ど無い。その石組みは極めて精巧である。石同士がお互いに噛み合う細工が施され相対的な動きを防いで居るからである。神殿は日の出の方向に丸みを帯びた構造になっており、床、壁面には全部金が張られ、大きな太陽神象は無垢の金であったと言う。征服者達もその豪華さに度肝を抜いたという。

 ガイドの話したCuscoの概要は次の様なものである。Cusco、又はその元の名QusquInca帝国の首都であった。Incaとはこの帝国を作ったQuechua族の言葉では”王、又は皇帝“を意味した。Incaはまた太陽を意味するIntiと語源が同じという。王は太陽神の化身として,統治に当たったのであろう。神を語ることは何処の世でも常套手段であったのだ。多くの人を無償徴用するには神を語るのが最も手っ取り早いからである。日本でも極最近神を語った人が居たことを思い起こす人も多いと思う。現人神である。

侵略当時のスペイン人がIncaと言う言葉を聞き、この帝国をIncaと呼ぶようになったのであり、Quechua語ではTawantinsuyuが正式国名であった。今では学者でもない限り、この言葉を使うことはないであろう。僕もこの国の其の時代の文化を論ずる時、Incaという言葉をつかうことにする。

最盛期には国の支配は北はコロンビア、南はチリまで(4000Km)と、広範な地域に及んぶ多民族、多言語国家であった。国の起こりは13世紀であるが、Cuscoが帝国の首都となったのは1438年でスペインの制圧の1533年まで続いた。この地域にQuecha族が支配する前にも、この地域には石、焼き物、織物などに優れた文化を持って部族が住んでいた。Incaの文化はそれらを継承しており、それらInca以前の遺跡も沢山ある。ただ帝国形成後100年足らずの間に作られて石造建造物は量質ともに驚きに値する。

ガイドの話を聞いていると、日本では鎌倉から室町時代後期に当たる時代の、アンデスの生活は部族単位で生活して居たように想像出来る。従って、Quecha族が覇権を握る前の抗争は、此方のの〇〇家とXX家の間の同族間のものではなく、言葉も文化も異なる部族間のものであった。

多くの堅固な要塞を備えていたIncaは何故簡単に170名弱、馬も30等以下のスペインの軍隊にあっさりと制圧されたのか?幾つかの見方があるという。其の一つがパニックによる敗走である。アンデスには馬は居なかった。馬に乗り、疾風の如く移動するスペインの武将を見て、もともと神に関して迷信の強い彼等は見たことの無い双頭の神が現れたと想うのは極自然では無いか?其れに火器がある。大砲は一門であったと言うが、この火花と轟音には肝を潰したであろう。雷神の襲来だ。神との戦いには勝ち目が無いと考えるのは当然だ。

其の2は、スペインが乗り込んで来た時には大国は内部崩壊を起こしつつあった。水、食料の不足、内部対立、病気の蔓延、などにより、国が疲弊していた。

其の3は、ヨーロッパから入って来た病原菌に侵され、抵抗力の無い彼等の人口が急速に減少した。縦横に張り巡らされたInca道が伝染病の急速な蔓延を助長したという。特に天然痘の蔓延は酷い状態であったらしい。

ドレもありそうな原因であるが、どの一つでもなく、幾つか原因で、Inca帝国は終焉を迎えたのであろう。何れにしても文献は無いので、真相の解明は困難であろう。Incaの記録法は縄によるもので、長短、結び目の位置、色を記号として使って居たが、解読は進んで居ない様だ。

ガイド付きの市内見学は早く終リ、走りの予定もない。また勝手に歩き回る。街の全貌を見ようと高台のキリストの像を目指して歩く。僕は実の所山羊が高い所に登ることを馬鹿だからとは思っていない。彼らは利口だから登るのである。高所からは見通しが利き、外敵の接近を早く察知でき、生存の可能性が高くなる。彼らは馬鹿でないので、周りの一番高い所に立ちたがるのである。人間もこれに近い理由で高い所が好きなのだ。山の麓からはその裏側は見えないが、頂上からは360度の眺望が得られる。より広い範囲の全体像が掴めるのである。我々の遠い祖先にとっては,このことは今より遥かに重要な意味を持って居たに違いない。狭い範囲に限定されずに、より広い範囲の中から選択出来ることが生存の確率を高めることを知っていたのである。アフリカに発生した人類が、南米まで達したのは決して闇雲に移動してきたのではないであろう。高所から見通しを立て、水と緑の豊かな地へと移って行ったに違いない。

町の全体像を見ようと登っていく。地図も持たずに感覚だけを頼りに歩く。昔の歩き方と同じだ。最初は頂上が見えても、途中で見えなくなることは多い。その時は感に頼って登っていくしか無い。急な車道を登っていくと、大きな看板のある、遺跡がある。その向こう側にキリストの像がある。回り込んで来てしまっており、こちらから行くことは出来ない。遺跡は明日訪れ事になっているものに違いない。

ここからは町は見えない。戻り足に付くと直ぐ、山から4頭のアルパカが下りて来た。珍しいもの(こちらではチットモ珍しくは無い)に会えたと急いで写真をとる。直ぐにアルパカの持ち主の婦人が子供連れで現れた。アルパカの飼い主で、群れを連れて、また車道から別の小道に入っていった。写真を何枚か撮ったが好意的な笑顔を見せてくれた。

下って暫く行くと、左手に谷間を登って行く道がある。方向的にはキリスト像の方だと思い、陽が傾いて来ているが、登りだす。20分ほどで像が見えてくる。

標高は富士山頂に近い岡の上から町をみる。夕日を浴びて町の全景が見える。反対側の山の斜面にはViva El CuscoCusco万歳)の文字や、町の旗が刻んである。これからも彼方此方で同じような文字を山肌に見るようになる。どの様にして、文字を描いているのかは確認していないが、恐らくナスカの地上絵と同じように、表面の小石を取り除いてその下のより明るい色地肌との対比を利用しているのであろう。雨が少なく、風の弱い所ではその様な小石と、地肌の色合いや位置関係は長期に残るのであろう。

Cusco(標高3400m)は南緯13度で熱帯にあるが、高度が高いので気温が20度を大きく超えず、氷点下に成る事もないので住み良い場所なのであろう。年間の降雨量も600ミリある。CuscoQuechua語では臍を意味するという。山に囲まれた盆地の町、帝国の要の臍と考えて居たのであろう。町の形は円形では無く、東西に長く、東側に下っている。明日は東の郊外の遺跡に行くことになっている。

8月9日、バスで東に向かって暫く走る。途中の町にパンの町があり、そこで止まる。Cuscoで食べるパンの殆どがここで生産されるといい、ガイドがパンを買い皆で味見をする。

辺りにはバイクを改造した三輪のタクシーが数台止まっており、また日干し煉瓦を作っていた。捏ねた土に草をそのまま入れて、型に入れ成型、そのまま天日で乾かす。大きさは我々が見慣れている物の数倍ある。

 Puca Pucaraの遺跡を見て回る。Incaの前の時代に造られたという。Quechua族がここを乗っ取った時は既に廃墟であったという。傷のある人骨が見付かっておらず、虱の大発生ににより、先住民はどこかに移住してしまって居たとの説もあるという。岡の中腹にある遺跡で、全体に茶褐色の深成岩で作られており、市内の遺跡より粗雑に出来ておる。また風化も進んでいる。ただ町として、要塞として、規模は大きく、可也の広がりを持っている。当時の居住部の内部の様子も残っている。石の床や壁に漆喰を塗っていたのである。これらの区画には保護の為屋根が掛けられている。木造の小屋であるが、木組や金具での接合ではなく、部材のユーカリの丸太同士の接合部を紐で結んだ構造体となっている。我国でも茅葺屋根の家屋では屋根部にこうした接合方式を取っているが、それより下の構造部では見たことが無い。何と縄の代わりに、毛の付いたまま干したラマの皮を細くきった物が紐として使われている。建物の強度は接合部に大きく左右されるので、伸びや緩みは無い方がいい。一般的に確りと結ぶには相当の熟練が要り、特に柔軟性に欠ける紐の場合中々旨くいかないものだ。建設時には多分ラマの皮をまだ柔軟性のある半乾き状態で使うのでは無いだろうとか。乾燥する時に収縮し、締め付けがよりきつくなり、構造体の強度と剛性が確保出来るのではないかと思う。

漆喰の原料は近くの山のもので、遠くに白く其の跡が見えた。城壁があり通路は真っ直ぐに通っている。全体に碁盤目状の要塞だ。乾燥した土地で唯一生えて居るのは赤い花のようなものを付けた木のみで、之が彼方此方に見られて。ガイドに聞いてみると赤いのは胡椒の実であるといい、表面の皮を剥くと黒い胡椒が出てきた。

 次にTambomachayに向かう。途中に一つの遺跡がある。Kenkoであろう。元々これらの遺構はCuscoの防衛の前線であったという。お互いに見通せる位置にあり、敵の来襲を察知し、伝達をしていたのである。これらを結ぶ道が所謂Inca道であり、4万キロに及ぶという。Tamboymachayの遺跡は素晴らしい。皇女の沐浴場とも呼ばれる聖地である。元々Incaに取り、水は貴重品であり、信仰の対象でもなった。広大な斜面に整然とした石組みが広がり、水は垂直にまた所によっては緩やかに導かれ600年を経った今も枯れることなく流れている。皇帝が使ったという部屋もあり、石組みも整然と立派である。バスの駐車場には2−3メートルの木に小さなラッパ状の花が咲いており、ガイドに聞くとPeruの国花、Kantutaだという。花の色は赤、黄、紫など数色ある。

午後は昨日行って中には入らなかった遺跡、Sacsayhuman(Sexy womanと聞こえる)に行く。巨大な石の要塞遺構である。大きなものは数十トンもあると言う。大半は直ぐ傍にある石である。採掘されずに残っているもの多くあるが、遠くから運んで来た石もあるという。この地域の石組みは5メートルほどの高さのものが、三層作られている。どれも直線ではなく、ジグザグに成っており、敵の襲来を困難にしていた。ここも精巧に作られえ居る。人力だけで、巨石をこれ程精巧に組んだ技は驚嘆に値する。遺跡内からはCuscoの町がみえる。

 近くの特産品の店に立ち寄る。アルパカの織物などが沢山ある。外には何匹かのアルパカが居り、繋いでは居ないが、首には羊毛かアルパカの毛糸で作った縄が付いている。草が置いてあり、それを食べているので、何処かに行ってしまうことは無いようだ。

 其の後、水の神を祭ってある洞穴を訪れる。大きなものでは無く、抉った石の間を通り抜けて降りて行くと、やや大きな空間があり、大きな石を削った3段の祭壇がある。之はIncaに取っての三界を表していると言う。Incaに取って最上の神は太陽であり、天空界の神である。人の住む地上、と死者の住む地下の三界である。其の各々のシンボルが、コンドル、ピュ−マ、と蛇である。Incaでは蛇は神聖な生き物であり、忌むべきものでは無いという。これはメキシコのマヤ文化にも共通している。祭壇は三界の神に捧げ物供える場所なのだ。

 バスに乗って移動し、止まると、そこから走りが始まる。高地での足馴らしで、約7キロの距離を、市の中心の広場に向けて走る。若干のコースの説明がある。道なりに走ることが、基本だが、注意すべき2−3の場所の話である。これもInca道の一つなのであろうか、狭い道を各々のペースで下っていく。途中登りもあるが概ね下りだ。窪地になった所の右側に別の遺跡があるが、素通りする。辺りにはアルパカもおり、少し離れた畑には豚、牛、ロバなどが入り混じって放し飼いになっている。異なった種類の家畜の放し飼いは日本では余り見る機会が無いが、ここでは之が当たり前だ。

 遺跡を過ぎると短い草の生えた走りやすい道になる。道幅も2メートル以上で、両側には日干し煉瓦の低い塀がある。Cuscoの町も見えてくる。坂がやや急になると両側に大きなユーカリの木が生えている。更に下っていくと車道にでる。直ぐ左手に曲がり、集落を通り、市内の狭い石畳の道路に入っていく。道幅は2メートルで広くはない。行き来する人にも出会うようになる。大聖堂の横を通り、Armas広場に入る。Finishのテープも何もなく、流れ解散的にホテルに向かう。今日の行程にもユトリがあり、その後自由行動となり、明日はCuscoを離れるので、お土産を買ったりする。

夕食はホテルや外のレストランで取り、殆どの場合、演奏や踊りがある。アンデス独特の楽器でクラッシクの演奏や、地元の踊りや曲が披露される。踊りで興味があるのは、奇妙な仮面を被ったものであった。歴史的に他の理由があるかもしれないが、これは制圧者との対立関係が影響したのではと思うのである。検証が必要だ。仮面の使用に寄って、間接的に自分たち本来の主張が出来ると考えたのであろう。

今日で4泊目となるホテルはPicoaga Hotelである。Spainの家名を冠した,四つ星ホテルで、大聖堂や広場に近く、市の博物館と一体となった大きな建物の中ほどにある。中に入ると大小2つの中庭がある、落ち着いた感じのホテルだ。テレビではNHKも見られる。朝食はビュッフェスタイルで、果物、パンの種類も多く、スープ、ジャガイモ料理、ごちゃ混ぜ炒り卵(Scrambled Eggが一般的か?)、ソーセージ、ベーコン、チーズ、ヨーグルト、ジュース、セリアル等先ず先ずであった。卵はこの他にも、頼めば任意の調理をしてくれた。 

昼食や夕食の際は何度かアルパカやモルモットの料理が出た。他にも沢山選択肢があり、それぞれ好きなものを十分に食うことが出来た。このままではメタボになる心配があるほどだ。 

8月10日、バスは昨日通った所を過ぎて更に走る。Incaの聖なる谷、Urubaba川に向かう。高原を走り窓外には雪を抱くUrubamba山脈も見える。天気はうす曇で、気温は快適だ。途中露天の店の並ぶ所で停まる。畑には背の高い豆が植えられており、収穫の終わったものもある。ガイドの話では豆は毒(サポニン)があり、そのままでは食することは出来ず、水に長時間付けて毒抜きをするという。

目的地のChinchero(3750m)に付く。Incaの古い町で、ここにも遺構があるが、訪問の目的は遺跡では無く、機織をしている家族を訪れる事であった。この町は機織で有名だといい、女の人は独特の帽子を被り、また衣装にも特色がある。

バスを降り、坂を暫く上る。2メートル程の路地の端には列になって、白や黄色の小さな丸い紙片のような物が列になって落ちている。こちらの御呪いという。目的の民家に着く。この辺りでは極一般的な農家の様な家である。敷地への入口は狭いが、中には建物で囲まれた空間が広がる。入ると左側の建物の軒にジャガイモが幾種類かむき出しのまま保管されている。芋表面は黒や黄色,色々あり、形も様々である。ジャガイモは日光に当てて置くと、表面が緑色に変色し、苦くなる。毒性も増える。こちらの物は大丈夫なのであろうか?それとも長い付き合いがあるので、解毒出来る体質になっているのであろうか?

建物は居住棟と一体で鈎手状に繋がっている。右手には家畜の柵と小屋があり、豚などがかわれている。これら左右の建物の間を更も入っていくと広場があり、何人かの女性が同じような衣装を纏い、それぞれの仕事をしていた。奥の方には炉があり、土鍋が湯気をあげている。染色用の物であろう。

スカートを履いた女性たちは地べたに直に座り仕事をしている。ここでは青空の下、地に接した生活が普通なのであろう。彼等にとって大地は決して汚らわしく、又汚いものでもないのだ。大地もまた信仰の対象なのである。こちらではトウモロコシから作るアルコール、Chichaを好んで飲むが、飲む場合には先ず大地の神にPaccha Mamaと感謝を言って振りかけ、其の後飲むそうだ

仕事は分業のようである。アルパカまたは羊毛から糸を紡ぐ者、それを撚り合わせて太くする者、染色する者、織る者などである。毛から完成品まで全部ここで作ってしまうのだ。織り上がった物は其のまま身に纏って利用する。縦糸と横糸の組み合わせにより、色々複雑な文様を織り上げる事が可能なのだ。織り上がってから、文様を染めるのでは無く、染色は糸の段階で完了しているのである。機と言っても極簡単な物で5−6枚の扁平な木片で出来ている。縦糸の両端に木片を通し、これを何かに引っ掛け、織る時に適当な張力を縦糸に掛け、特定の縦糸を他の木片で上下させ、其の間に横糸を滑り込ませ、織り上げていく。根気の要る仕事だ。

染色を実際に遣って見せてくれる。染色の原点は草木染である。ある葉っぱを煮出して、其の中に糸を浸すと、其の植物本来の自然の色が出る。次いで、数種類の鉱石を石の上で擦って粉末にし、同じ液に入れると違った色になる。別の粉を入れると又違った色と成る。

同じ草木の煮汁が、異なる鉱物粉末を入れることにより、数種類の色に変わるのは驚きである。之は立派な化学変化で、化学式は知らなくとも彼等は大昔から鉱物が発色に係わる事が分かり、実際に利用していたのだ。染色に塩なども使う。この様な技を昔ながらの土鍋や石臼を使い現在でも踏襲しているのである。物を洗うのも石鹸を使わすに、ある植物を水の中で繊維方向に削ぎ落とし掻き混ぜる白濁の泡溶液となり、実際に原毛を洗って見せて呉れた。生活に必要な物は全て自然の中の物を使っている。そして母なる大地に感謝し、Pacha Mamaを唱える生活を日々送っているのである。そして太陽とともに起き、暗くなれば眠る。これがエコ生活なのだ。我々の毎日の生活は反エコ生活である。欲望とエゴ丸出しの日々なのだ。

説明の途中大変なことに気付く。色の変化を写真に撮ろうとするが、撮れない。メモリーが無いとの表示が出ている。そんな馬鹿な!! と言っても馬鹿な事を実際起こしてしまったのである。記録容量が無くなればそれ以上は撮れない。自明の理である。十二分に残っていると思っていたメモリーが何故なくなって仕舞ったのか?前に撮った画像を消して居なかったからだ。2Gメモリーは約1000枚の写真が撮れるが、NordkappKilimanjaro 850枚余り撮っているのが其のまま残っているのが分かった。僕のカメラは全部を一括して消すか、一枚ずつ消すかしか出来ない。任意に選択した枚数を一括して消すことは出来ない。850枚を一枚ずつ消すのは大変だ。思い切って全部を消す。新たにPeruで新たに撮った150枚は全て失われることになるが、致し方ない。これからの方が滞在が長いので、この先全く撮れ無いより、150枚を失うことほうが良いと思ったからだ。

 一通り見た所で、風呂敷の使い方を見せて呉れた。其の家の2歳の子供を前,横、後ろに背負って見せて呉れた。(前や横に背負うと言うのも可笑しな話だが、他に良い言い方が思いつかない。)

後は買い物の時間である。敷地内は全て開放されているので、其の間僕は居住部に行って見た。入り口を入った所は土間の台所である。天井からは小さな裸電球が一つぶら下がっているだけで、日が落ちれば相当暗くなるはずだ。底が真っ黒になった土鍋が幾つか転がっている。ほぼ全周に低い物置台があり、その下には20−30匹のモルモットが草を食べている。彼等は鼠の仲間なので薄暗く狭い所を好むのだろう。隅には竈があり、火は落ちている。其の中にモルモットが出たり入ったりしている。脳が小さく知能が低い事は幸せな事なのだと思った。彼等は仲間が其の竈で丸焼きにされる姿を見ている筈だが、明日は我が身だとか、竈が如何に恐ろしい所かも全く考えることも無いのだ。狭く暗い竈の中は彼等好みの場所で、天国的な所なのであろう。彼等には死の瞬間まで、否其の瞬間でさえ恐怖心は無いのかもしれない。生きている間が幸せなら良いのかも知れない。

ここでも僕はIncaの生活術の高さに感心する。今まで僕は台所で、これ程大量の食材が生産出来るとは想像さえ出来なかった。台所で出来る物はモヤシ位だと思っていた。草さえあれば、珍味で且つ良質な蛋白源が大量に生産できるのだ。鼠の仲間なので餌は何でもOKであろうし、繁殖力も旺盛で絶えることなく再生産する。しかも、必要な時何時でも新鮮な物を食うことが出来るのだ。捕まえて眉間に一撃を与え、眠らせてから、串に刺し竈の前にかざして置けば、毛は燃え丸焼きのモルモットの出来上がりと成るのだ。何と合理的なことであろうか? これ以上理に適った食の入手方があったら、知りたい物だ。

町では丸焼きの形では見ていないが、ここでは2匹モルモットの姿焼きを見せて貰った。多分我々の多くはモルモットの姿焼きをスンナリと受け入れる人は少ないと思う。だが、何故鮎の姿焼きを優美と感じるのか。偏見でしか無い。この様な事は他にも沢山ある。欧米の大勢は捕鯨に反対だ。彼等の理由は鯨は哺乳類だからと言う。彼等が大量に食している牛や豚は哺乳類では無いと言うのか?他人の食文化に否定的な批判は避ける見識が求められる。

遺構をざっと見てバスに戻り、更に進む。降りた所から歩いて横道に入る。集落を通ると、日干し煉瓦で新築中の家があった。職人が下げ振りで垂直度を見ていた。ガイドが屋根の天辺の飾りを指差し、此方の御呪いだという。家内隆昌の御利益があるそうだ。二頭の土焼きの牛や甕などが付いていた。細い道に入り、上っていくと、下方に遺跡が見え、又斜め前方にも見える。遺跡は彼方此方にあるのだ。どちらも規模は大きくない。降りて行き、下の水神の遺跡の前を通り、車に戻る。ここでも双方の遺跡はお互いに見通しが付く位置にあり、伝達の拠点であったと言う。遺跡の傍には土産の露店が出ている。

更にバスで移動し、停まった所から足慣らしの走りが始まる。距離は選択でき、13キロ弱、8キロ、2キロとある。各々車の停まれる所がスタート地点となる。最初の地点で降りて走り出す。道幅も広いダートの道を暫く走る。周りには草地や畑で、緩やかに下っていく。彼方此方には農作業を休んでいる人が手を振ってくれる。30分も経つと殆どビリになっており、後を追う。民家も殆どない、草むらの中を走っていくと道路に突き当たる。ここが8キロの出発地点であろう。其の先幅の広いダートの道を走る。車が時折埃を立てて通り過ぎる。舗装道路に出るとSalineras de Maras(マラス塩田)500メートルとの表示が出ている。曲がりの多い道を降りて行くと右手に沢山の塩田が見える。標高は3000メートルに近いが、その上流には塩分の濃い温泉が出ている。この塩水を利用しての製塩で、Inca以前から続いている塩田である。可也傾斜のある斜面に広大な棚田が出来ている。谷の斜面全体が真っ白に見えて壮観だ。最後の出発点は塩田の入り口であろう。ここからは後2キロでUrubamba川に沿った緑が見えてくる。塩田からの流れは少ないが、これも間もなく向こうの川に流れ込むのである。橋を渡り、右に曲がって進むとFinishだ。狭い空き地ではあるが、サボテンの黄色な花が咲いて居り寛げる。空は青空で、電線には見たことの無い植物が固まって付いている。余ほど乾燥を好む植物なのであろう。之は驚きだ。砂漠の植物は通常一滴の水も逃すまいと窪地に根を下ろすが、この植物は太陽や風に晒されている電線に纏わりついて生きているのである。電線を中心に横長の束子のように見える。歩いてホテルに向かう。

Yucayの町は川と山に挟まれた小さな町だ。道路を挟んでホテルの反対側は大きな広場があり、子供たちが遊んでいる。ホテルの敷地は広く、サボテン等がよく手入れされている広い空間がある。何棟かの二階建ての建物が建っている。受付や売店、レストラン等の共通の施設は大きな別棟となっている。

17日からのNazcaOption Tourは別の会社と契約していたが、支払い後の対応は極めて悪く、確認をする為電話を入れる。ヤット連絡が付き、落ち合う場所と時間の確認が出来た。

他に之とて見るところもなさそうなので、連れ立ってホテルから時計回りに歩き出す。ほぼ直角に右に曲がり、細い道を登って行く。道は一直線に続いているが耕作地の外れで又右に曲がり、畦道を歩く。桃の花が咲いている。畑の外れで右に曲がり下りだす。小川を渡り、大きなユーカリの木立の中を通る。日干レンガの塀頂部にはサボテンが生えて居るものある。サボテンの棘が防犯の役に立っているのである。更に下り、ホテルの前面を通る道に突き当たる。余り収穫の無い散歩であった。

811日今日は完全に遊びの日だ。急流下りが主な予定だ。Urubamba川は緩やかな所と急流がある。バスでボート乗り場に乗り付ける。各々、ヘルメット、防水着、救命ジャッケトなどを付けた後、10人乗りほどのゴムボートに乗り込む。ボートには船頭が乗っており、急流でのボートの操作方等を説明してくれる。先ず乗る位置は出来るだけ、ボートの外側。之は効率良く櫂を使うためである。続いて流れの緩やか所で漕ぎ方の練習をする。之はボートの向きを変える為に重要なのである。流れの中で、急に向きを変え無ければならない場合右と左の人が逆に漕げば急角度で曲がること出来る。どちらの側がどう漕ぐかは船頭の指示による。右だけが前や後ろに漕ぐ場合や、双方が一緒に漕いだり、逆に漕いだりする練習をした後、本格的に下りだす。

流れの緩やかな所は周りの景色を見ることが出来る。川は当然谷間を流れており、其の両側には急峻な山が連なっているなっている。山の斜面には何段もの段々畑が広がっている所もある。アンデスの民が生活の為に築きあげて来た石と土で作った食物の揺篭である。

白流の渦巻く所では眺めて居る余裕は無い。船頭の指示に従い、後ろや前に漕いで衝突を避ける。流れが恐ろしい程速い所はなく、指示通りに漕げば石に乗り上げたり、衝突や転覆は避けられる。暫く下ると前方に雪のある綺麗な山が見えてくる。一時間程で川くだりは終わりである。

Ollantayamboの町で昼食を取る。モルモット料理の店で、中には先日行った家庭の台所の情景とそっくりな大きな絵があった。中庭があり、木に奇妙な物が成っているのでガイドに聞くと木トマトだという。形は茄子である。稔ると赤くなるのでトマトの様でもある。味はドンナ物か試していない。滞在中に知らずに食ってしまっている可能性はある。

食事の後町を歩く。石畳の路地には水が滔々と流れている所もあり、また雨水は道の真ん中の溝を流れる様になっていた。元々雨の少ない所ではあるが、排水の備えは確りしているのだ。町の外れには大きな遺跡が広がる。その下の方に行ってみる。水の流れている石組み構造が幾つもなる。水の出る所では何処でもこうして、水を崇め大事にしているのであろう。

次に行ったのはChichaを作る店であった。ガイドが店の前の棒の先に付いているピンク色のプラスチッの袋を差して、これが“Chichaあります“のサインなのだと言った。之は通りの彼方此方で今までも見ており、何だろうかと思っていたが、酒屋の看板だったのである。道路の川よりには闘牛場もある。ガイドによると、此処では牛を殺さないそうだ。本場ヨーロッパの闘牛はある一定の行程に従った牛の殺戮である。之に関してはHemingwayのDeath in the Afternoonに詳しい。之によると、闘牛士も命を落とすことがあるが、牛は必ず闘場で死ぬ運名にある。何故なら、牛は非常に賢明で全ての人との戦いを覚えて居て、2度目には闘牛士の命の危険性が極度に高まるからである。闘牛の牛は一度だけ闘場に現れそこで死ぬ運命にあるのだ。万が一闘場を生きて出られた牛は種牛となり、2度と闘牛はさせない。  

可也広い台所で中年の女性が作り方を説明してくれる。Chichaの原料は全てトウモロコシである。ビールの麦芽に相当するものはトウモロコシのモヤシ状のものだ。発酵の元となるものはChicha其のもので、之は毎回醸造した際必ず一部を残し、次に作る時の種地として使っていると言う。Chichaを作るのに重要なことは2つあるという。全部飲んでしまったり、売ってしまったりせず、必ず一部を残しておくことと、飲む前に大地の神に感謝するため、Paccha Mamaと言いながら、先ず大地に振り掛けることである。出来ているChichaを少しずつ試飲させてくれた。色は薄く黄色みをおび濁っている。味は酸味がキツク美味しいとは思わなかった。アルコール濃度はビールの半分程度である。今では之にフルーツジュースや砂糖を加えて飲むことが多いという。ピンク色をしたものを味わうと飲み口は良いが甘すぎると思った。中庭の4人の現地の男女は大きなプラスチックのコップ(1Lほどであろうか)ピンク色のものを飲んでいた。一杯15円程だ。

乾燥ジャガイモも見せてもらった。見ただけでは石のように見えるが、持ってみると当然ではあるが非常に軽い。殆ど真っ白の物と黒い物2種類であった。常温で15年程保存出来るという。乾燥地とは言え、驚きの保存期間だ。日本にはこれ程長く保存できる常用食品は無いであろう。元々ジャガイモはペルーとボリビアに跨るアンデスの高地(4000−5000メートル)が原産地で、其の種類は70種あるという。トウモロコシはメキシコから南米北部が原産地で、種類は300種近くなると言う。ペルーでも色々なトウモロコシを見、又食べた。白い大粒の物は、日本で家畜用に栽培されているデントコーンの4倍ほどはありそうだ。 

812日、今日の予定もユッタリとしたものだ。バスでChilcaまで行き、そこから走り出す。目的地は10キロ程先のLlactapataCamp地だ。この旅で唯一の野宿である。Urubamba川の右岸を走る。全体的には下りとなる。道は細く周りの草が被さって来ている所もあるが、迷う様な道ではない。途中に何箇所か小さな遺構がある。綺麗な花も咲いており、サボテンも生えている。写真を撮りながら進む。対岸にも同じ様な道があり、人の歩いている姿も見える。

山の傾斜はキツク、切り立った断崖が被さる様に見える。直ぐ下には鉄道が通って居り、時折列車が通過する。その下はUrubamba川の白い流れが見える。

進んでいくと崖が川まで迫って居り、山道が途切れる。200メートル程鉄道のレールの上を歩かざるを得ない。枕木が隠れる程うず高く丸いバラスが敷かれていて走りにくい。この鉄道は英国の技術で敷設され、レールは日本よりも更に狭い。この時、枕木に適する木としてオーストラリアのユーカリが持ち込まれた。アメリカではユーカリは厄介者扱いとなっているが、ここでは重宝されている。

 又山道に上り暫く走り、橋を渡り対岸に着くと今度は川上の方向に走る。途中には今では物だけしか運んでいないのであろうが、ケーブル式の運搬機がある。深い谷の両側の人荷の移動に使ったのであろう。川を離れて少し登ると大きな遺跡が右側に見える。前方には一群のテント、其の後ろには民家が見える。小川を渡って(Camp2550m)に着く。

 Camp地のほぼ真ん中のテントを選んで中に入る。正面には遺跡とその後ろの山が見える。詰めれば4人ぐらいは入るであろうが、2名で使う。荷物は全部中に入れて置く様にとの注意がある。用心に越したことは無いのだ。遣ることも無いので又高い所を目指す。遺跡の段々畑は20段程ある。一段の高さは45メートルで、幅も同じぐらいだ。之は40−50度の傾斜を意味し、全体の標高差は100メートル位になる。上に行くほど傾斜がきつくなり、遺構の外側の瓦礫の山は滑り易いので手を突いて登る。登り切った所で遺構の中に入り、水平に歩けるようになる。何処の遺跡でもそうであるが、上の方には建物が建っている。政が行われて居た所だ。それらに必要のない下の部分は食糧生産のため段々畑として使われていたのだ。一画では足場を組んで修復作業中であったが作業員は居なかった。石にはそれぞれ番号が付けられ、忠実な再現を期しているのであろう。遺跡の中央部には通路があり、ここの下りは楽であった。登りもここならモット楽に登れて筈だ。

 Campに戻ると夫々が持ち寄った物を区分けし、ポーター80余名に行き渡る様に並べて分配が始まっていた。僕も衣類など一抱えほど持っていったが、可也の量が持ち込まれていた。靴屋や衣類などが数点ずつ、各人に籤引きで渡された。古い物も含まれているが、ポーター達は嬉しそうに貰っていた。大半のポーター達の姓はPumaであった。地上の支配者のシンボルを姓に抱いているので。その後部落の子供たちにも、鉛筆などが与えられた。最後に残った物は奪い合いになり、アット言う間に全ては無くなった。

 夕食はガス灯を付けたテントで取った。明日のスタート時間などの確認の後テントに戻る。4時起床、5時出発の組と、一時間遅れの二組に分かれる。僕は遅いので当然早出組である。

 8月13日、いよいよMachu Pichuuに向かう日だ。予定の時間に出発する。晴れ上がった空には上限の月がくっきりと見え、山の輪郭も良く見える。先ず先ずの日だ。T-shirtと短いスパッツの上に上下共長い物を重ねている。背中には水や合羽などの入ったCamel Bag、両手にはストックを持っている。風も弱く、寒くはない。右手に水の流れる谷間を徐々に登って行く。早く行く必要は無い。先にあるゲートは6時開門、其の前に行っても待たなければ成らない。 

 ゲート到着数分後開門、再スタートである。幅1メートルほどの石畳の道は段々傾斜が急になる。ストックの鈍い音を聞きながら登っていく。ストックの使用は石突きが金属で無いものは認められている。金属では石畳の道が痛むことがあるので、禁止しているのである。まだ日の出とは成っておらず、高度も上がっているので、手袋している手が痺れるほど冷たくなる。其れに左手の指が先ほどから攣り出して、何とも心地悪い。時々手を振ったり、閉じたり開いたりするが良くならない。この現象は今回が初めてでは無い。家に居ても時々出る。箸を思うように使えないこともある。其のうちに直るのであるが、何とか随意に止める方法は無いものであろうか?

やがて左前方の稜線が明るく成って来る。山の反対側の斜面は陽光を浴びているであろう。此方側の谷迄陽が差すのは暫く掛かるようだ。それにしても手が冷たい。動き続けるほか無い。陽は右側の斜面を上の方から照らし始め、段々と谷底まで照らすようになる。やがて左手の稜線に太陽が現れヤット陽があたる様になった。登って行く途中にも規模は大きく無いが遺跡がある。

高度も上がってきており、草の長けも短くなってきた。尾根の最高点もそう遠くないようだ。それでも未だ登りが続く。Lluiluchapampaであろう。更に上っていくと漸く稜線の最高点、Warmiwanusqa(4215m、死女の峠を意味するそうだ)に達する。岩の上には疎らに背の低い草が生えているだけだ。

遠くに見える険しい山並みを写真に収め、下りだす。傾斜は厳しく、両側の山も険しい。山道の石畳は凸凹が大きく用心しながら降りていく。20分ほどで最初のエードに辿り着く。水を補給し、長袖を脱ぎ、エードに残して先を急ぐ。

10分ほど進んだ時にエードにカメラを置いて来た事に気付き、引き返す。途中で原さんと出会い、訳を話す。カメラを持って、また引き返す。敷詰めた石は凸凹で歩きにくい。Inca道は傾斜の急な所は不規則な階段状に成っている。場所によっては巨石を刳り貫いて居る所もあり、飽きずに進むことが出来る。其れに、周りには珍しい花が咲いており、其の種類も多い。岩のコケの文様もゆっくりは見ていられないが趣がある。写真を撮りながら先を急ぐ。

又遺跡が見えてくる。規模は小さいが谷間の高台に立っている美しい曲線を持つ遺跡だ。Runkurakayの見張り塔だ。其の横を通り登っていくと、左側にやや低くなったところに幾つかの池がある。周りは短い草が生えていてほぼ平らだ。天井のオアシス、楽園の様に見える。暫く進むとRunkurakay(3760m)に出る。ここからは氷河を抱く険しい山が見える。低い山は薄い雲で隠れているが、雨の心配は無いようだ。

 
 

 峠を越えると緑が濃くなる。こちら側の方が雨量が多いのであろう。道の悪い所もあり用心しながら降りて行くと、写真を撮っている原さんに追いつく。此処からは最後まで前後しながら走るようになる。一部石を抉ったトンネル状の階段を下る。其の先にも階段はあり、急勾配ありの凸凹道を下っていく。左手に川が見えてくる。河床は広いが、水は余り流れていない。其の先の右手には小規模の遺跡がある。この辺りからやや平らになり、道も広くなる。両側には幾種類もの綺麗な花が咲いて居た。腹が減ったので、エードから持って来たサンドイッチ(丸いパンにチーズを挟んだだけの物)を石畳の上に座って、水で流し込む。

 更に進んでいくと、上の斜面に可也大きな遺跡が見えてくる。10分ほどで遺跡の横にでる。Sayaqmarca(3624m、支配の町、権力の町を意味する)に辿り着く。又下りと成り、一間以上ある立派な石畳が続く。両側の花も続いている。更に行くと岩に生えているコケやシダ類が見事だ。今まで見たことの無い色合いで、大げさかも知れないがこの世の物では無いのではないかと思ったほどだ。此処を走って本当に良かったと思った。抉った石のトンネルを潜った先には走路に迫るような岩石の山が幾つかあり、その岩肌とそこに生える木々姿も非常に美しい。周りの花を眺めながら降りていく。螺旋状の幹をもつ竹も生えている。幹の色は黒に近い紫で綺麗だ。又登りとなる。急な石段を登っていくと3つ目の峠Phuyupatamarca(3541m)にでる。直ぐ下にはPhuyupatamarca(雲上の都市を意味する)の遺跡がが見える。下って遺跡に着くと、エードがある。水を飲み、バナナ、パン等を食べる。食べ物と水を若干持って下りだす。彼方にはUrubambaの渓谷が見える。

 此処の遺跡は大きい。Incaの沐浴場の横を通り、左に回りこんで降りている。沐浴場には今でも石で作った樋を通って水が流れている。所々で停まり、何枚もの写真を撮る。急な斜面面に逆らわすに、又自然の巨石を利用して、曲線の多い石組みで可也大きな町であった事が伺われる。又この遺跡からは更に下のより急な斜面に大きな遺跡が見える。Inca道はIncaの都市や聖地を結ぶ道であり、遺跡があるのは当然だ。急な階段をおり、又トンネルを潜って下りて行く。途中で次に見える遺跡の段数を数えて見た。50段程あり、ほぼ中央に縦の道がある様に見える。最上部には政をしたであろう建物の跡が見える。

 
 

原さんがあれはMachu Picchuでは無いかと言うので、距離からして、Machu Pichuuまでは未だある筈だと返事する。道中には距離の表示は一切無いが、エードの距離は覚えていたので、そう言ったまでである。結局その遺跡の下を通って更に下っていく。ランや其の他の珍しい花の咲く木立の中を5キロ程下るとIntepata(2840m)の表示がある。送電線の鉄塔が立って居り、Machu Pichuuは近いと実感する。此処では道を間違えない様にとの指示を思い出し、右の細い道を入って行く。Winay Waynaに向かう道を選ぶ。暫く下っていくと、何人かのポーター達が待っていた。水の流れるCamp地であった。

 Winay Wayna(永久の若さを意味する)も大きな遺跡である。遺跡の上から下に向かって降りるが、途中如何して降りようか考えてしまう様な傾斜もある。最上部と下の方に建物の跡があり、中断は農地としていた様だ。遺跡の下の道を更に下っていく。此処からIntipunku(2720m太陽の門、Intiは前にも太陽の意である事は述べた。Punkuは門を意味するのであろう)までは5キロ強である事を、思い出し、未だ暫くは楽しめるなと思った。先は見えて居り急ぐことは無い。周りの花を眺めながら下っていく。途中之が太陽の門かも知れない遺構があったが、規模は小さく貧弱であった。

 急な階段の道が現れ其の上に遺構がある。前よりは立派だ。階段の幅に2メートルほどと広い。這うようにして登ると、門があり、何人かが休んでいた。此処で初めてMachu Pichuuとの初対面である。遥か彼方にMachu Picchuの全貌が見える。その左後方にはドームがたのWayna Picchu(2720m)を従えて、輝くばかりの姿だ。写真に収めようとするが、旨く行かない。逆光であり、周りが明るすぎカメラの液晶画面では見えず、何回か撮ったが良く映っているものは殆ど無かった。デジカメには本質的、且つ致命的な欠陥があるのだ。

諦めて下りだす。Machu Picchuとの標高差は約300メートル、距離は2キロ弱であろう。その後も花の写真を撮りながら下っていく。Machu Picchuの写真も更に何枚も撮る。Machu Picchuの町と遺跡を結ぶ幾つかのHairpin Curveもハッキリと見える。

 

 Machu Picchuの最初の石垣の手前には何人かのポーターが立っていた。石垣沿いに更に下っていくと真っ直ぐな道が続き、200メートルほど先に更に人が何人かいる。如何やら其処がFinishの様である。上面が平らな大きな石の乗るとFinishである。レースのFinishとしては気の抜ける様な終わりであった。完走メダルの授与もなく、水すら置いてないFinishであった(之に関しては後に触れる)。44キロ余りを10時半近くかけて走破した事になる。後日Internetで調べると、1位は6.11で女性であった。30名が完走し、最後は12時間15分であった。

 其の後はバス乗り場から各自町のホテルに向かう。Machu Pichuuの観光は明日改めてすることになっている。切符を貰い、案内に従ってバス乗り場に向かう。バスは何台も並んで居り、満席になると直ぐ出発する。道路は観光の為に最近になって作られたが、未舗装だ。道幅は広く、長いHairpinCurveを描きながら降りてゆく。全長8キロと言うが、基点は定かではない。Urubambaの橋を渡ると舗装道路となる。基点は此処か町の中心部かであろう。

 ホテルでシャワーを浴び、腹がへったので向かいのレストランに行きピザを食べてから、一休みする。

 夕食は同じレストランでするが、ビュフェスタイルの食事で特に宴会というものではなかった。

 8月14日,朝の町を歩いてみる。Urubambaの支流の両側に広がる細長い町である。町の幅は2−300メートル程で川の両岸には殆ど垂直の岩石の山が連なり、太陽が出てから谷底の町に陽が当たるまでは暫くかかる。夕方はこの逆と成るはずだ。観光の町で建物の殆どはホテル、レストラン、土産物屋だ。川の両側は工事中の所もあるがよく整備された遊歩道が出来ている。上流に歩いて行くと温泉があるが、入る機会は無かった。木戸口があり、時間を限って営業している。川には細い歩行者用の橋が3本架かっている。真ん中の橋を渡って対岸に行くと、薄暗い電灯の点いた小さな店が軒を連ねる一画がる。実に沢山の店だ。皆ペルーの産物の様だ。織物、編み物、石、化石、宝石、笛などの楽器、昆虫の標本、瓢箪、杖等々である。

 朝食が済むとバスでMachu Pichuuに向かう。バスはUrubamba川を下流に走り、直ぐに左に折れ、ダートの道を登りだす。上から見ると文字通りHairpin Curveで直線の部分が非常に長く、頻繁に左右に曲がりながら登る日本の典型的な道とは異なる。そんな登り方では登れないほど傾斜がきついのだ。Hairpinの頭の所では確かに180度曲がる。其の後は直線的に山肌を登れる角度で走っていって又曲がることを繰り返して高度を上げていく。斜面に垂直にこの道路を見ることが出来れば、HairpinというよりはV字を寝かしたように見えるはずだ。路面には埃が立たないように絶えず散水車が走っている。水は道の途中で自然水を補給していた。この道を横切っている石の山道も毎回見かける。下から車道を横切り、又木立の中に入って行く石の道だ。之もInca道の一つなのだ。この道はほぼ直線に近く、車道より遥かに少ない湾曲をしながら聖地に辿り着くのであろう。車道は9キロ、山道は3キロ今日である。

 最も一般的なMachu Picchuの訪れ方はCuscoから列車でMachu Pichuuの町に入り、其処からバスで来ることであろう。このルートなら、体力の余り無い人でも、高地の経験が無い人でもMachu Picchuを見ることは出来る。もう一つは我々が走ったInca道を歩き上からMachu Pichuuに入る方法である。健常な人であれば、途中のCamp地で2泊または3泊して、途中の景色も楽しみながらMachu Pichuuに入った方がより強烈な印象がのこるのでないかと思う。

着いた時には沢山の観光客が遺跡内の彼方此方に見られた。午前中は2手に別れ、ガイドに付いて見て回る。勿論全部は周り切れないので、主だった所だけだ。

 
 
 

Machu Pichuu(古頂を意味する、別名、失われた都市、之に対し傍の山Wayna Pichuuは新頂と対になっている)が建設されたのは1462年頃とされている。Incaの最盛期であった。建設には3000人程で30年を要したとされる。ただ作業は農閑期の農民が当たり、常時3000人が工事をしていた訳ではない。破壊されずに残ったのはスペインの襲撃の対象と成らなかったからだという。其の前にこの町は廃都と成っており、彼等が侵入した時は注目の対象では無かった。町を諦めた理由は天然痘であったとされる。破壊を免れたMachu Pichuuはその後Yale大学のHiram Bingham(当時講師、後に教授)が1911年に存在を知るまで、余り世の注目を集めることは無く、山の中で400年以上眠っていたのである。Binghamの前にも何人かの人が訪れ、略奪の形跡もあるという。

神を崇め、政をする為にIncaは高い所に町を築いた。ここも其の一つで、建設に必要な石材は回りに十分にある。山自体が石の山のだ。Incaは山の斜面の形状や其処にある巨石を旨く使い、其の上に石組みを築いていった。あちらこちらで自然にある大きな石を彫って通路の階段としているのを見る。石組みの精緻さ、其の広がり、今もって流れ続けている彼等の導水設備の水を見ると、驚異と感動を覚える。Incaに取って最も大切な太陽の神殿は特に素晴らしい。斜めに傾いた巨石の上に作られており、不思議な曲面で作られている。窓が2つ開いている。夏至と冬至の朝日が差し込んで来る方角に付いて居る。これはその土地での一年間に太陽がどの範囲で動くのかを知っていたことになる。Incaは神と仰ぐ太陽を良く知っており、太陽暦で生活していたと言う。農業をする上では最も重要な事の一つで、太陽暦に従って種蒔きの時期などを決めていたのであろう。太陽の神殿は改装中で中には入ることが出来なかったが、一部の開口部から床には祭壇がある事が確かめられた。神殿が建っている下の巨石を刳り貫いた空間があり、ここは陵墓だとされている。入り口には3段の祭壇がある。

神殿から程ない岡の上に日時計がある。大きな石を削り太陽の影で時が分かるようになっている。幾つかの角のある石であるが、東西南北を正確に表す角もあるという。この石は日時計としてだけではなく、野外の祭壇として使われたものだ。此処からの眺めは素晴らしい。

 Incaにとってコンドルの神殿も重要なものであった。地面にある大きな石にコンドルの頭、首の白い羽、胴体が彫られており、その後ろに飛んでいるコンドルの羽の様に見える自然の巨石が立ち上がっている。飛んでいるコンドルの羽に似ている自然石を見つけ、それを其のまま利用する為に、其の前に頭や胴体を彫ったのである。普通のカメラでは全体を撮ることは不可能である。大きすぎるのである。像自体も三つに分かれているので、部分から全体を想像するしかない。

 Incaの建築は屋根を除き、全て石造りである。屋根は木と草で出来ていた。勿論之は皆朽ち果て、今残っているのは石の躯体のみである。一般的な屋根は切妻である。石造の本体には丸太を受ける為の仕掛けが用意されている。石造本体の屋根の傾斜面には丸太を受ける為に穴の開いた石の突起部が付いている。この突起部に丸太を載せ、丸太を突起部の穴と,其れに対になる位置の屋根近くの壁のもう一つの棒状の石の突起部を利用し、縄で縛って屋根の荷重を支える方式を取っている。基本的には日本の茅葺屋根も同じであり、屋根の地組は縄で固定している。この上に更に細い支えになる竹などを結び其の上に草を乗せ屋根としたのである。縛る縄は其れに適する草などで作ったのであろうが、ラマの皮も利用していたに違いない。いずれにしても土地にあるものしか利用できない時代であり、石を初め身近にある材料を上手に使っていたのである。元々雨量が少ない、気温もそう低くはならないので、屋根は簡単なもので良かったのだ。

 一般的には建物の窓は小さな物が一つか2つしかない。窓(約縦40、横30cm)は吹き抜けで、明り取りが主な目的だという。家の内側には窓と同じ位置に、窓と同じ大きさの凹みが幾つか付いており、之は祭壇や収納に使ったのであろうという。また家の内側の手を伸ばすと届く位置にも直径10cm、長さ20cm程の棒状の石が突き出している。之は物を掛けるのに使ったと言う。戸締りは如何していたか? 開口部を木製の扉で縄により固定して居たようであるが、固定する場所が表側にあるのだ。門や入り口の表側の腰ほどの高さの両側の石は角に90度貫通した丸い穴が開いている。穴の直径は5cmほど。

戸口の上框の中央にはやや大きな穴の開いた石の突起がでている。これらの穴に縄を通して扉を棒で固定すれば,確かに戸締りは出来る。でもどう考えても、内側からは戸締りは出来ない。何の為の戸締りなのか?分からない。これも謎だ。あれだけの石の加工は容易ではなく、彼等なりに合理的な理由を持っていた筈だ。

Incaの作業場跡も残っている。臼の様な丸い凹みを地面の石に彫って、そこで物を砕いたり、粉にしていたようだ。この様な場所には屋根を掛けずに、十分な光の中で仕事をしていたようだ。太陽と一緒の生活で、暗くなれば、休息、安息の時としていた。

ある家の一角には小さな一室があり、床に穴が開いている。厠では無いかと言われている。水洗であったのであろうか? 之だけ大きな町であれば、衛生処理はどうしていたのであろうか?

石を3段に彫った祭壇は彼方此方にある。野外にもある。生贄の慣行があり、多くの人が犠牲になっていたと言われ、こうした儀式は表の広い場所で行われていた筈である。生まれ変わりを信じていた彼等の生死感は我々の其れとは大きく異なると思うが、矢張り死は怖かったに違いない。薬草などにより、恐怖心を和らげていた形跡もあるという。

遺跡の補修復元も行われている。崩れかかったり、大きくズレている所がある。地震多発地帯であり、ズレは当然起こる。傾斜が急な斜面の建築では、基礎が余ほど確りしていないと崩壊が起こる。今地上に見える石組みとほぼ同量の石で基礎を支えているとガイドは言う。修復現場で、穴の開いている所を見ると、沢山の石が敷詰めてあった。

食量生産の為の畑も必要で、石垣を作り、其の上に土を盛った。土は4−50キロ離れたOllantaytanboから運んで来たという。技術は必要としないが、人力で畑になるほど土を運ぶことは大変なことなのだ。大変なことをしたものだなと思う。

山が信仰の対象であった事は前にも述べた。Machu Pichuuは周りが他の山に囲まれており,全周に色々な形をした山が見える。建設当時、向かいの山の輪郭にほぼ近い石があることに誰かが気付いたに違いない。扁平に近いが巨大は石である。之を起こし台の上に据えた物がある。多少は削ったりして形状は変えたのかもしれない。其の前に立って山をみると、手前の石の輪郭をなぞるように其の向こうに本当の山が見える。我々はただこの場に相応しい珍らしい物だなと思って見るだけであるが、彼等の頭の中にはいつも信仰の対象として山の姿があったに違いない。そうでなければ踏みつけて歩いている石の姿が山の輪郭に似ていると気付かないであろう。信心がこの遺産を残したのだ。

聖地の中には何棟かのラマが草を食んでいた。ガイドに話しによると、ラマ本来生息環境はモット高地だという。2400−2500メートル近辺にあるMachu Pichuuは彼等にとって、低すぎ健康障害がでるという。先ず高地では草が硬く、ラマの歯は自然に磨耗するが、この辺りの草は柔らかいので必要な磨耗が起こらず、歯が伸びて仕舞うので時々削ってやる必要があるという。それに高地と比べると短命になるという。太陽の神殿の傍にはチンチラの仲間の兎が2−3匹草を食っていた。

昼はバス乗り場の近くの大きなレストランで取る。ビュッフェスタイルで、料理の種類は豊富で、飲み物は水、ジュース、コーラ,インカ コーラなどがあった。Inca Colaは黄色の飲み物で、コーラの味がする。当然である。コカの本家は南米なのだ。初期のコカコーラはコカの葉の成分を入れていた。現在は麻薬法や其れに関連するイメージ等も考慮して使ってないという。コカはコカインの原料で、日本には持ち込めないがあちらでは日常の飲料としてコカ茶を飲んでいる。乾燥したコカの葉っぱを茶碗に入れ熱湯を注いで、暫く待って飲む。通常砂糖を入れて飲むようである。高山病の予防にも効果があると言い、沢山飲む様にと勧められた。ホテルのロビーで自由に飲めるようになって居る。特に病み付きになるほど美味しいものとは思わないが、サッパリとし喉越しは良い。

 

其の後は自由行動である。山に登ることにする。人気のある山は当然Wayna Pichuu(2720m)で、ここは1日400人しか登れない。開門と同時に受付をしないと登れないと言われている。其れまでして、登る気はしない。登る山は他にも色々ある。太陽の神殿の窓に向かって右にWayna Picchu、左にMt.Machu Picchuがある。Mt.Machu Picchuはやや遠くにあり、高さも3000メートルを若干超える。此方なら自由に登れる。遺跡の南の外れに上り口の標識があり、道が続いている。下から見ると登れそうも無いほど傾斜はキツイ。行ける所まで行こうと登って行く。道はよく整備されている。登りにくい所は石の階段となっている。上から軽装で降りてくる人が居るので頂上まで行ったかと訊いてみる。行って来たという。其れなら行けそうだと思い更に暫く登る。一時間ほど登ると、樹木が低くなり、岩肌が多く出てくる。山頂に近くなって居るようであるが、登りはそれ程キツクならない。多分螺旋状に登って居るのだ。視界も開けて、山頂が近いことが分かる。頂上に近くなると尾根の天辺を歩いており、両側は目もくらむ角度で落ち込んでいる。

山頂の旗が見えてくる。草葺の小さな小屋も立っている。4−5人の人が、休んでおり、写真に余念の無い人もいる。

 旗は根元の直径20センチ程のユーカリの木を地中に埋めて固定されている。このあたりは風はそれほど強くないようだが、山頂では可也の風が吹く筈だ。余ほど確りと固定してなければ転倒してしまう。Incaの血を引き継ぐ人々は険しい山道を重い長物を持ち上げ、周到に固定しているのであろう。旗は常時はためいており、旗竿は振動していた。山頂には多肉質の珍しい植物や花の綺麗なサボテンが生えていた。写真を撮って下山する。カメラの電池が切れるサインが出始めた。

 Machu Pichuuに降り、再び遺跡内を歩き回る。ガイドは夕方の方が空いており、自由に見られると言っていた。午前中は人が沢山居て、全景を写真に収めることの出来なかった野外の祭壇も撮る事が出来た。電池は愈々底を突いたらしく、時間を置かないとシャッターが切れない状態人って居る。太陽の神殿に来た時に珍しい光景を目にした。神殿の南よりの窓、こちらの冬至の日に陽が差し込む窓にチンチラ一羽が鎮座している。カメラのシャッターを何回か押したが、無駄であった。電池が無ければカメラは動かない。写真は瞬間の勝負である。珍しいチャンスを逃してしまった。カメラの失敗その2である。充電器はCuscoのホテルに置いて来たので、Cuscoに戻るまでは何も撮る事は出来ない。

 8月15日、Cuscoに戻る日だ。Machu Picchuの駅から列車にのる。渡された切符はA5の大きさで普通紙に印刷されている。今まで僕が手にした列車の切符では一番大きい。

LimaCusco間搭乗券は同じような紙のA4であった。これもその種のものとしては最大である。切符には名前、Passport No.行く先、座席番号等が書いてある。面白いのは発車30分前に駅への入場が大書されている事だ。他では見たことが無い。日本でも鉄道開業当時、遅発を防ぐ為に発車時間の前に駅の扉を閉じていたという。同じ様な理由からであろうか?もう一つの理由は乗車の前にPassportの照合があるからであろう。料金は19%の税金も含め38米ドルで、距離約50キロを考えると、安くない。観光客用列車は3種類ある。特等はHiram Bingham、我々の乗ったVistadomeは一等、Backpackerは3等に相当する。この他地元の人たちが乗る列車は別にあるらしい。

列車ほぼ定刻に発車した。2両編成の列車でほぼ満席である。一両に3名の車掌が乗っており、彼等は踊り子の役、ファッションモデルも兼ねるのである。飲み物とスナックのサービスの後、仮面を被った男が単調なメロデーの繰り返し乗って暫く踊る。昔から伝わる地元の踊りで、この後でも見る機会があったがそれ程面白いとは思えなかった。続いて、男女入れ替わってのファッションショウが始まり、アルパカ製品を紹介していた。余り興味は無かったが、何か買った人も居たのかもしれない。

途中擦れ違いのため一箇所で停車し、一時間半ほど掛けてOllantaytamboに着く。バスに乗り換え、Ollantaytamboの遺跡に行く。この町は何回か訪れたが、本格的に遺跡は見ていないので、ガイドに着いて登って行く。レースで足を痛め、松葉杖を使って登っている男もいる。ランナーは頑固なのであろう。自分の足で歩きたいのだ。

 

ここも大きな遺跡である。石の大半はこの山のものであるが、一番上の巨石(H4xW10xD1m,屏風状、40立米、約110トン)は川の対岸の山の中腹から運んで来た石である。直線で2−3キロ先のほぼ同じ高さの所に石切場の後が見える。巨石を山から下ろし、川を超え、また持ち上げて、高い所の石組みに使ったのだ。6枚の巨石が壁状に立って居り、神殿の建築途中では無いかと言われている。少し下がった所で、ガイドが、石組みの欠けている隙間に手を入れ、噛み合わせ面を触れて見ろという。触ると平らでツルツルしている。鏡面仕上げの様だ。之は大きな石を上に乗せ水平に移動させる時相手面との摩擦を少なくする為だという。下の石の上面も当然同同じ様に平滑でなければ成らない。如何してこの様に加工したのか聞くと、恐らく硬い砂と水で磨いたのであろうという。気の遠くなる成るほど時間のかかる作業だ。

向かいの山にはやや小規模な遺跡が点々とある。食糧の貯蔵庫だと言う。より涼しく風通しの良い所で貯蔵する為の知恵だと言う。それにしても、遥か下の畑で作った物を持ち上げて貯蔵し、食べる時には又下ろす労は大きい。余ほど、労を厭わず、働くことの好きな連中が住んで居たに違いない。Incaの民は勤勉であったのだ。其の血は今でも綿々と流れて居る。山間の僅かな土地でも例外なく行き届いた手入れが成されていることを見るとそれが実感できる。ガイドに鼠などの害は無いのかと聞くと、気にする程のことは無いと言っていた。鼠は小さく数も少ないそうだ。それがどの程度なのかは計り知れない。秤の尺度が違うのかもしれない。

更に左側の山の斜面の上方を指し、あそこには人の顔があるという。成るほど巨人の横顔に見える岩がある。此処にも人々の山への関心の深さが伺える。自然の岩に人間が手を加えて今の姿になったとする説もあるそうだ。降りて来て、下の水場に来て、導水樋の説明がある。水は石樋を伝って流れてくるが、ある所で垂直に落ちている場所がある。其の石の垂直面には3段の凸凹が付いて居り、その上流で水の流速が僅かでも変わると、垂直面での流れ方が変わるという。試しに上量の流れに指を入れると、水は石の面を伝って流れる。指の抵抗を受け、流速が一時遅く成った為である。流速が元に戻ると、水は石の垂直面を流れず、放物線を描いて落下する。Incaの人々はこの様な水の性質を知っていたのだと言うのだ。

Cuscoに向かう途中もう一つの町に立ち寄り、其の市場を見ることにしていた。町に着いた時には何か異様な雰囲気となっていた。異様な格好をした人たちが、笛や太鼓の音に合わせて道路一杯になって踊りながら歩いていく。マリアの像を担いで練り歩いている。一向は我々が立ち寄ることになっていた市場を目指している。当初の目的路を達することも無く、Cuscoに向かう。

 

 Cuscoに戻ると、大聖堂の辺りでは同じ様な行進が繰り広げられていた。町が大きいので、祭りの規模も大きく、幾つもの異なる衣装の集団が、次々に大聖堂の横の広場を目指していた。仮面を付けたグループが多く、服装は夫々に工夫を凝らしたものが多かった。男も女も取りつかれた様に踊っていたのが印象に残る。祭りは興奮とエネルギー発散の場なのだ。今日はこの辺りでは特別な日なのであろう。

このレースの行事も愈々終幕となっており、Cuscoも今日が最後となる。夕食の時、初めてレースの表彰式があった。主催者の説明によると、Machu Pichuuは国の管理下にあり、大っぴらにレースが出来ないのだという。Finishのテープも無ければ、完走メダルも無かったは其の為あったという。一定量以上の水のも禁止されて居り、飲料も出せなかったのだ。そんなことは先に説明しておけば良いことではなかったのかと思う。

一人一人に完走証、メダル、T−shirtが渡され、静かに夕食が終わる。特に乾杯なども無く、今までのレースには無い雰囲気で終わった。ガイドやポーターのチップとして一人当たり110ドルこの場で支払うことにする。

8月16日、朝Lima行きの飛行機にのる。飛行場からはバスでホテルに向かう。新たに乗り込んできた女性のガイドが道すがら自分はIncaの末裔であり、其の特徴はズングリムックリの体型だと、面白おかしく話す。この様な体型に成ったのはアンデスの影響だという。高地で酸素が希薄な中で動き回ることにより、肺と心臓が大きくなり、これらを限られた上体内に収めこむには寸胴とならざるを得ない。腰の括れなどの余裕無いのだいう。又急斜面の上り下りには短足が有利なのだとも言う。Limaの気候にも触れる。一年の大半は曇天で重々しい気分となる。これを緩和するために、人々は壁を明るい色で塗っているのだと言う。中々説得力のある説であった。

ホテルに着き、観光に出かける前に時間があるので、浜にでる。ホテルからは5分ほどである。どんよりと曇った空にパラグライダーが何機も飛んでいる。観光用であり、2人が乗っているのが見える。海から吹きつける風が海岸の絶壁に当たり上昇気流となったもの利用しての飛行だ。北西から飛び立ち、南西に向かい、折り返して来て、着地する。着地地点にはParque del Amor(愛の公園)があり、僕の趣味では無いが、大胆に愛し合う巨大な臥像がある。

空港からのバスで話があったが、Limaは何時でも曇っているという。之は南極から流れて来る冷たいフンボルト海流の影響である。熱帯の空気は暖かいが、この海流で冷やされ急激に温度が下がる。この時にある程度の蒸発が起こるが、空気の温度も下がっているのでそれ以上の蒸発は起こらない。このバランスの取れた状態が、海岸地帯の年中曇り空の原因である。曇っては居るが、雨を降らせることは無く、乾燥地帯でもある。日本では考え難い、不思議な現象だ。日本にも影響のあるエルニイニョ現象はこの海流と、オーストラリアとタヒチあたりの気圧変動の相互作用で起こる。

 町のレストランで久しぶりに魚料理に出会う。フライやマリネの鱈に似た魚であった。食事の後歴史地区の見物に行く。広大な泥の遺跡(Huaca Puclliana)、所謂日干し煉瓦作りの遺構でIncaの1000年以上の前の文化であると言う。此処では石は用いられた形跡が無く,専ら土の文化である。ピラミッド上の建造物があると言うが、外からは確認できなかった。入場は可能であるが、我々は外から写真を撮っただけである。                 

目的の旧市街(世界遺産)へ移動する。CuscoからLimaに制圧者が都を移し、16世紀前半からスペイン風の町を築き上げた。アルマス広場を中心に大聖堂、ペルー政庁等豪華なバロック様式の建物が並び、世界遺産の一つとなっている。広場の周りや、主だった建物の前には自動小銃を持った警官が立って居り、装甲車も見られる。多くの建物の2階正面には重厚な木製のバルコニーがあり、見事な彫刻が見られる。植民地時代にIncaの金銀を使い、豪勢な生活をしていた征圧者の生活が偲ばれる。

 大聖堂の中はけばけばしい程の飾りつけが施され、金箔を貼った物も多い。此処にもヨーロッパのとは一味違う、Latin Americaの雰囲気が感じられる。San Fransisco教会、修道院の地下にはカタコンブがある。ローマで始まった地下墓地だ。薄暗い裸電球を頼りに迷路のような地下道を辿って行くと、沢山の頭蓋骨やその他の骨が気味悪く並んでいる。修道士達が多く居た所で、図書館もある。自然光を取りいれる窓が用意されていた。古い羊皮に筆記したもの、大判の聖書など貴重な文献も多いと言う。何分半日程度見ただけでは、町や歴史の全容は殆ど分からない。

 之でInca Trail Marathonの予定は全部終わりである。殆どの人が、今夜Limaを立ち、帰国の途に着く。22時ごろLobbyに集まり最後のPisco Sourを飲んで分かれを惜しむ。 

 今回のMarathonは今まで参加した砂漠、山岳、南極のレースと比べ、一番ゆとりのあるレースであった。競技性の低いレースとも言えよう。最も之は僕の解釈の仕方の問題かもしれない。優勝を狙う人、ある時間の目標を持つ人に取っては過酷なレースである筈である。宿や食事に関しても今までと比べれば贅沢と言える。

 8月17日、早朝に食事を済ませ、Lobbyで迎えを待つ。程なく旅行社の人が来て、Nascaへの旅の始まりである。Cruz del Sur(南十字星)と言うバス会社のターミナル着く。ここで搭乗券や晩の宿のクーポンを貰い、暫く待つ。中々立派な施設である。

 バスに乗ると之もまた立派である。座席は勿論指定で、席は今まで乗ったどのバスよりゆったりと出来ている。飛行機のBusiness Classとも比肩出来るもので深々と倒せる。定刻の7時半バスが動き出すと軽食、コーヒーのサービスもある。

 Limaを離れ暫くどんよりと曇った海岸沿いを走る。道路の両側の壁に藤森は無罪だ、とか藤森を解放と書いてあるのを彼方此方で見かける。又、Keiko Fujimoriの名前も良く見る。再来年の大統領選に、藤森の路線を継ぐ政党から立候補することになっているそうだ。PanAmeircan Highwayを南下している訳で、時として海が見える。砂漠地帯であり、地表が全部むき出しに成っており、進むにつれ泥岩層、礫、砂と変化する。3時間余りでParakas着くと、又別の男が出迎えて呉れた。一旦今日泊まるホテルに行き、他の夫婦連れと同道で、海岸の国立保護区に行く。海鳥が沢山居ると言う。言ってみると、遠浅の海で、遥か沖に砂州があるようだ。其処には沢山の鳥が居ることは分かるが、個体は識別できなかった。浜辺には化石が露出している所がある。一応柵を作って入らないように成っている。4500万年前の化石を数種類見ることが出来た。更に砂地を走り、半島の反対側の海岸に行く。砂地と絶壁の海岸で、荒い波が岩石に打ち寄せ豪快な白波となっていた。左手に聳える絶壁は赤みを帯びており、その砕片が波に現れ楕円形となったものが、浜には沢山打ち寄せていた。花崗岩の様だ。

 一方今立っている半島は泥岩で起源が異なる様だ。こちら側も奇岩があり、大聖堂と言われる岩もある。ペリカンや嘴の赤い鳩ぐらいの鳥が見られた。更に車を走らせ岡の上に立つ。全周が見渡せる。小石の転がる砂漠と岩石と白波の海、何か不思議な組み合わせに思える。靄を通して遠くには白い島が見える。長年に渡る海鳥の糞、グアノ、の固まった硝石の島だという。これは肥料および火薬としてPeruの一大輸出品であった、

 宿には戻ったのは3時ごろであろうか?後は自由時間である。港に行ったり、反対側の砂漠に行ったりする。Parakasの町は小さい。漁業と観光が主な産業の様だ。浜の傍には普通の家が立っている。少し、海から離れて砂漠に入ると不思議な光景が目に入る。砂漠の中に住宅街があるのだ。未舗装ではあるが、道幅は15メートルほど、碁盤目の高級地なのであろうか?此処が住宅街だと気が付くまでは暫しの時間を要した。通りに面した所は殆ど竹のスノコで出来ており、入り口がある。屋根は見当たらない。之も竹のスノコを水平に並べて居るのであろうか?よく見ると電柱が規則正しく立って居り、テレビのアンテナも見える。中にはパラボラアンテナもある。洗濯物も乾してある。子供も中で遊んでいる。矢張り、立派な住宅街なのである。フンボルト海流の影響で、熱帯のこの地は気候も通年穏やかで雨は年間2ミリしか降らないという。正に環境に合った、簡素にして快適な住宅なのであろう。住宅の建設費捻出の為齷齪働く必要もない。

 泊まっているホテルの一帯は建設ラッシュで道路も右左に何軒ものホテル建設が進んでいた。我々の泊まるホテルはとEmancipador云う名であるが、辻向かいにLibertadorの看板が出ていた。どちらも解放者という意味だ。何からの開放か?Peruの大方の人にとって、之は何を意味するのであろうか?勿論スペインの支配からの開放である。約300年続いた植民地支配からは1821年に独立し、200年近く経った今日でも原住民系が圧倒的に多いこの国の人々は解放の持つ意味合いを忘れないのである。旅の中でこんな話も聞いた。藤森の時代に国営電信会社が売りに出された時、スペインにだけは売るなと言う運動だ。支配者に対する恨みは事ほど左様に根深いものなのだ。日本が韓国や中国の一部を支配したのはつい最近のことであり、彼等が心の底に拭い切れない恨みを抱いて居る事を我々はもっと切実に実感する必要があろう。政府が歴史の教科書を歪めたりすることを彼等が許す筈は無いのだ。

 此処のホテルは三つ星で今まで泊まった所とは格が異なる。建物は新しいが、照明やスイッチの位置等には配慮の形跡が見られない。配慮したのは費用の面だけだと思える、安普請だ。スタンドは点かない。電話で連絡をするが英語が通じない。現物を持ってフロントに行き、使えるものを要求する。翌日の朝食も明らかに劣る。星が一つ違うとこれ程大きな差があるのだと実感した。

 818、保護区内にある鳥とアザラシの天国、Ballestas Islands向かう。空は相変わらず曇天である。道路を隔てたLibertador Hotelの横を通り、船の桟橋に向かう。救命胴衣を付け、20人ほど乗れるボートに乗り込み島に向かう。数分でParakas半島の北端に着く。沢山のペリカンが集まっている。更に船を進めて行くと、絶壁断崖の至る所にペリカンが見える。半島を離れ更に沖の島に向かう。やがて島が見えてくる。奇岩絶壁の島だ。侵食された巨大な穴が幾つも島を突き抜けており、その穴からは別の島が見える。貫通して居ない、洞窟状の侵食も沢山ある。更に近づくと断崖の頂上の平らの部分は勿論、至る所に無数の鳥が見える。場所によっては地肌が見えないほど群がっている。ペリカン、鵜、カモメなどが多いが、アジサシの類であろうか小型の幾種類かの海鳥、フンボルトペンギンの群れも見える。数は少ないがアザラシも数メートルの絶壁に上っている。足も無いのに、あれ程険しい岩肌を如何して登ったのであろうか?断崖の上は天敵も居なく安住の地なのだ。おっとりとした表情で寝そべっていた。

 

 しかし、これ程多くの鳥やアザラシは餌となる魚が豊富な海が必要で、Puru沖の太平洋はこの条件を満たして居るのだ。正に海洋動物の楽園である。これ程の生き物の排泄物は蓄積されれば分厚い堆積層と成ることが理解できる。

 島は岩肌が剥き出しで、岩盤は赤を基調としているが、真っ黒な島が縦や斜めに複雑に入っている。地質学的にも興味ある島の様だ。白波が砕け散る島に港は無い。唯一島に上陸する手段は島に築いた木製の櫓か下りている縄梯子に船から飛びつき、よじ登るほか無い。之とて波の荒い海なので容易では無いであろう。島々を巡りこの様な海に10隻以上の船が右往左往していた。

 2時間近く海洋公園を巡った後、港からの帰り道に珍しいものに出会う。犬棒ものだ。建築現場の廃材の中に中空でない竹を見つけたのだ。前にも述べたがPeruでは建築に竹を多用する。其の中に直径20ミリ程の中空でない竹があったのだ。この歳まで竹は節があり、中空だとばかり思っていたが、節はあっても中空でない竹がこの世にはあったのだ。廃材なので長短色々あったが40cm程もの一本失敬して来た。

 町の土産物屋に行く途中、アカシアの長い棘に仲間の一人が気付く。成るほど見たことの無い長さだ。これも犬棒ものだ。歩かなければ見付かるものではない。ほぼ例外なくアカシアには棘がある。普通はV字の対になった細く短い棘であるが、此処にあるのは長さが10cm程ある。珍しいので写真にとる。

 町の骨董屋に行くと、土器、化石、珍しい鉱物、人の頭蓋骨を売っている。意外なものが商品として売られているのだ。幼時に額に布を当て後頭部に添え木をし固く縛り、長頭としたものもあった。何の為にそうしたのかは明確には分からないが、身分を表す手段であったとの説がある。扁平頭はこの後再びNascaでも見ることに成る。

 午後再び砂漠の中を通り、PiscoのWineryに向かう。Piscoは緑豊かな農地が広がる。海から若干離れており、着いた時にはカラッと晴れ上がって日差しが強くなっていた。葡萄の生産には良い条件であろう。 此処では昔ながらの足踏みで葡萄を潰しワインを造っていると言う。葡萄酒を搾り取った後の皮を再醗酵さ其れ蒸留したものがPiscoと呼ばれるアルコールで、我々殆ど毎日夕食時飲んでいたPisco Sourは之にレモンと砂糖を加えたカクテルであったことが始めて分かった。地名がアルコールの名前となっているのだ。同じ様な方法で作ったアルコールはギリシャを初めヨーロッパにもある。度数は40度程度で、之はこのまま醸造タンクの清掃や消毒にも使うという。葡萄酒の保存には土焼きの甕が使かわれ、これは底部が尖っており不安定であるが、土に若干埋めて正立させるそうだ。

 砂丘の中のオアシスにも立ち寄る。周りが砂丘の中に小さな池がる。その周りに集落や宿泊施設がある。Youth Hostelに立ち寄り案内書を貰うと、一泊5ドルとあった。Kenyaでは10ドルしたので、ここは割安だ。

 その後Icaの町のHotelに送って貰って、今日の日程は終了。夕食は鳥の腿の入ったラーメン風の物を頼むと、ラーメンではなくスパゲッテーであった。此方では定番料理の一つの様だ。味も量も満足の行くものあり、料金は定かではないが150円程度であった。スパゲッテーをこの様な形で食ったのは初めてだ。

 819、Peru最後の日だ。ホテルにガイドの女性が来て、地上絵を見るための飛行機は視界が悪いと飛ばないので、予定を変えて先に墓を見物するという。日が昇り気温が上がれば晴れとなることを期待する。車で砂漠の中を暫く走り、昔の墓跡に着く。入り口に小さな受付と其の横にはこれまた小さな博物館があるだけで、我々が行った時には他の訪問者は居なかった。

 ガイドの話では墓は幅200メートル、長さ2キロに及び砂漠の中にほぼ一直線に延びている。至る所に盗掘の後がある。若干陥没している所は全て盗掘の後だという。Nasca文化は1世紀から8世紀まで続き、其の末期からIncaの起こりまでには700年余りある。この墓地がどの年代に出来たのかは確認しなかったが、今から1500ほど前のものと考えても大きな間違いでは無いであろう。墓は近年調査の為は発掘され、その内容や規模が分かって来た。公開されている墓には竹作りの簡単な屋根を掛け、直射日光や風雨は避ける様に成っているが、本質的には野晒しに近い状態だ。人の背丈ほどの深さに掘った矩形の穴に石で土留めをした36畳ほどの空間の中に埋葬されたミイラや装飾品、日用品、食べ物等を見ることが出来る。幾つかの墓が公開されており、同じ墓には複数のミイラや人骨が見られる。よく見られるのは母親と幼子の組み合わせだという。母系社会であったのだろうか?勿論親子の死期は異なり、死んだ順にミイラにし同じ墓に埋めたのであろう。墓の周りには人骨、土器の欠片、ミイラの衣装の布切れなどが見えられる。どれも1000年を優に超えるものばかりだ。布切れなどが之だけ間残っているのは此処特有の砂漠の気象による。

 ミイラの作り方はエジプトとは大きく異なるようだ。乾燥地で気温も余り高くならないので、自然乾燥でミイラ化させたようだ。死体を座位にし、其の上に木綿の布を巻き固定し、其の状態で縄で作った笊に入れ更に姿勢を安定させて乾燥させた様である。エジプトの様に内臓を抜いたり、防腐剤を使う事は無かった様だ。ミイラの衣装の素材は木綿である。時代を考えると高度の染色、機織技術があったのだ。色は無地、茶、赤であった。ミイラの殆どは骨が剥き出し状態であるが、頭髪は確り残っているものが殆どだ。髪の毛が背丈より長いミイラが何体もある。髪の長さは身分の高さを表していたのであろう。殆ど長い髪は本人の髪の毛の先端に他人の髪を細紐で結び継ぎ足したものだと言う。之も一種の鬘であろうか?髪を染めているのでは無いかと思えるミイラもあった、これ程髪が長ければ、農耕作業などはトテモ出来るとは思えない。日常生活も支障を来たす筈だ。有閑階級の身分の象徴とは言え、人は古くから理解を超える様な可笑しなことをして来たのだ。日本の丁髷曲げ等も異文化圏から見ると、相当可笑しく見える筈だ。手間隙掛けて何であんな髪型にしたのか僕にも理解出来ない。

 

 博物舘に入ると殆ど欠損ない土器等が沢山ある。多色の色の鮮やか物もあり、焼き物の技術の高さが伺える。2つ口の付いた水差しの様なものも多くあったが、日用品ではなく、祭事用であろう。モット驚いたのは開頭手術をした髑髏が幾つもあったことだ。頭蓋骨の異なる場所に穴を開け、病状の改善を図った証である。大きなものは前頭部中央のもので直径5−7cmほども骨を切り取っている。この他側頭部、後頭部などに切開の後が見られこれらは径3cm程であった。どれも円形である。単に穴の開いた頭蓋骨だけであれば、余り意味を持たない。驚くべき事は、手術後患者が何年か生存していたと言うことだ。其の証拠は切開外周部より中心に向かって新しい骨が成長している点だ。滅菌や術後の化膿防止など余ほど高度の医療技術があったに違いない。又異なった部位の切開は当時何処が悪いのかを知って手術したことを意味する。

 門外漢なので余り深くは追求しないが、何の為の手術かの問いに対する答えは、脳内の圧力調整の為と言う説がある。戦闘での傷が元で脳内の圧力が上がった場合が考えられるという。単に圧力の調整の為であれば、モット小さな穴で済む筈であり、同じ頭にニ個所の窄孔は不必要だ。モット他の理由があったに違いない、何れにしても石器しか無く、麻酔や殺菌の技術も今ほどでは無かった時代に開頭手術が行われ、成功例があったことは驚異に値する。

 その他目ぼしい物はほぼ完全な状態のミイラ展示であった。之は座位の婦人で露出部も多く、肌や毛髪なども確り付いていた。一般的にミイラは布で覆われている部分が殆どで、手足の保存状態がこれ程良く見られたのは初めてである。

 Marie Reiche飛行場に着く前に天気はすっかり良くなって居たが、未だ飛び上がった飛行機は無かった。我々は一番に飛ぶ予約をしていたが、暫く待つことになる。

この飛行場はMarie Reicheの名前が付いている。彼女はドイツ人であったが、地上絵の価値を認め、その保存にほぼ全生涯を捧げ、この地で没し埋葬されている。彼女の死の3年前の1995年に地上絵は世界遺産となった。

 観光用の小型機専用の飛行場で、得に柵などは無い。暇に任せて砂漠を歩いて暫くすると何か叫んでいる声が聞こえる。振り向くと、何人かが戻れてと手招きしている。柵の無い砂漠でも立ち入り禁止と成っていることを知らされる。

 戻ると程なく、飛行機に案内される。6人ほどのセスナ機である。我々4人が乗り込み、イヤーホーンを付けると直ぐに飛び立つ。イヤーホーンからは操縦士の声は聞こえるが、相互連絡は出来ないようである。飛び立つと直ぐに其れらしい線が現れる。図形は10以上あるが、余り良くは見えない。飛行機の動きが早いこともあり、又光線の関係もある。車の通った後もあり、図形の判別は容易ではない。パイロットが何時の方向に何の図形があると案内してくれるので、其方を注意してみる。確認が出来た所で写真を撮ると、もうその線は2度と見ることが出来ない。我々が日本人なのでパイロットは日本語で、イヌ、サル、コンドルなどと言っているが、之が中々分かりにくい。右左機体を傾け飛んでいると一周約40分の飛行は直ぐに終わってしまった。

 何故この様な絵を描いたのかに関して諸説があり、定説はない。永遠に謎として残るかもしれない。作図に関してはほぼ解明が出来ている。こんな絵が1000年余りもそのまま残っているのもこの砂漠特有の条件があるからである。雨が降らないので流されて変形することも無い。表面は小石状なので、砂が飛んで埋まってしまうことも無かったのだ。

 Nascaの地上絵はPan American Highwayの両側にあり、帰り道、道の横に

Marie Reicheが建てた展望台に立ち寄る。高さ10メートルほどの極小さな塔だ。皆が登っている間、僕は下で待っていた。

 之で全ての観光も終わった。後は特別に手配したVanに乗ってLimaの空港を目指す。19時頃までに着けば、帰国の便に乗ることが出来る。途中Chincha Alutaで昼食の為一時間ほど立ち寄る。他にもう一ヶ所小さな町で停まって空港を目指す。来る時は気が付かなかったが、Limaの町に近づくと、大きな鉄骨の広告塔が道の両側に延々と並ぶ。半端な数ではない。只実際に広告が出ているのは数えるほどしかない。Pan American Highwayの路傍の土地の権利を買占め、巨大な先行投資をしている企業がある様だ。全部の利用者が決まるまでは何年も掛かるか計算出来ているのであろうか。自己資金での建設でなければ、金利の支払いも出来なくなる。僕には大きな博打の様な気がする。

 市内に入るとラッシュの時間で大渋滞である。市内を通り抜けて反対が側の空港に着いたのは予定の30分後であった。運転手に残っていたPeru通貨をチップとして全部渡して分かれる。

 空港では空港税を払う場所が離れており、分かり難いこともあったが、余り時間も掛からずに手続きを終えることが出来た。原さんとLoungeに入り、夕食の変わりになるものを腹に詰め込み、ほろ酔い気分になる。後は飛行機に身を任せ、明朝Torontoに着くまで何もすることは無い。

 2週間足らずの滞在であったが色々考えされられる旅であった。Peruでは世界遺産は四つ廻った。どれも文化遺産である。Limaを除き、3つの遺産は全て原住民の手によるものである。このことも考えることの一つである。現在世界遺産は約900あり、この大半が文化遺産、詰まり人類が築いてきたものだ。人が築いた物なので、当然其処に人が、相当数の人が、住んで居なければ成らない。人がアフリカに発生し、陸伝いに広がって入った過程を考えると中近東、アジア、ヨーロッパに古い文化財が残るのは必然であろう。ただ文化財の空白地帯があるのも事実だ。人類発祥の地アフリカには極めて少ない。広大なシベリア大陸、カナダ、北米にも殆どない。下ってMexico,更に南米に行くと立派な文化財が見られる。

 文化の発達の要件は先ず豊富な水、水と太陽により生産され豊富な食料であろう。豊かな生活が出来、大勢の人の集団が文化の創造には不可欠な要因ではあろう。しかし、之だけの条件では文化は発生しない。他の要因がある筈で、それは何なのか?前述の生活環境を満たす場所、または其れを凌ぐ好環境が広い北米大陸には無かったとは思えない。何故世界一の大河アマゾンでは文化が起こらなかったのか?人類の長い移住の歴史を辿れば、この辺りに人が住みだしたのは少なくとも何万年もの昔の筈だ。

 一方生活条件が水や食料の面からは非常に厳しい地域にも優れた文化財が残っている。アンデスや中東の乾燥地帯などが其れである。中近東辺りでは周りの民族の接触があり、互いに影響仕合い、更に高度の文明へと繋がって行ったであろうが、アンデスは殆ど孤立状態の中で生まれて文化だ。スペインの征服によりIncaは滅び、Andesの西側に栄えた文化は終焉を遂げる。この地帯では紀元1000前から、色々の文化が起こり、勿論Incaは其れらを継承しての文化ではある。

何がこの文化を育んだのか?指導者の指導力、統率力ではなかろうか?良きにつけ悪しきにつけ指導者の影響力は大きい。原子爆弾を作るのも、宇宙探査をするにも強力な指導力の下に人心の集約が不可欠だ。太陽の名の下に人心を一点に集めて、ことに当たらせない限りはあれだけ高度で大量の石造建築物を100年余りの年月では出来なかったであろう。人々の生きる目的は神の為に生きることであり、神の為に其の身を捧げることだと信じ込ませたのであろう。人は己の信ずる生き方をする時、生き甲斐と満足を感じる。Incaの民も確たる人生観を持って、造営に励み死んで行ったのだろうか?そう思いたい。壮大な石の遺構を思い出すと、そう願わずには居られない気持ちになる。

 820、朝7時過ぎにはTorontoに着く。仲間の3人は此処から午後の便で成田に向かう。僕は兼ねてから予定していたMinneapolisに立ち寄る為、此処で一行とわかれた。

 Minessotaは雨であった。約束の場所までBobが迎えに出ており、車内で完成祝いだと言って500ドル渡す。 

82123日 

Miracle Lodge Grand Opening Celebration

今回アメリカに立ち寄ったのはBobが9年掛りで完成させたMiracle Lodgeの竣工パーティーに参画するためであった.BobやMiracle Lodgeに関しては前にも触れている。

 前日の夕方近くBobのRanchに着き、寝る所は古いLodgeであった。二段ベッドが地下室に男女各々100床ほどある大きなLodgeだ。寝室を地下にしたのは、この辺では滅多にこないが、巨大竜巻発生時の非難所としても使うためだ。1階は食堂と集会室と成っている。期間中此処に泊まって居たのは僕だけであった。このLodgeに泊まったのは初めてであるが、静かで完全に暗くすることが出来るので安眠の場所としては最高であった。

 翌金曜日から週末3日の日程は朝からビッシリと組まれている。最初の朝食は建設に協力して呉れた人々を労う為のものであった。実に多くの人たちが来ており、中には僕が何年か前に行った時に一緒に仕事をした人も居て声を掛けて呉れた。僕の方では多くの白人の中での彼等に気が付かなかった。東洋系は僕一人なので向こうでは容易に識別出来たのであろう。

 僕は客として行っているのでは無いので、朝食後まだ準備の終わって居ない仮説テントの設置や夜間の照明の取り付けなどを手伝う。この間にも新しいLodgeの巨大な玄関ポーチに作られた特設舞台では大きな音響装置を使いバンドの演奏が続く。バンドも何組が交代で舞台に上がる。常時200−300人いる聴衆は近隣からの人が多いようだ。皆車で乗り付け、臨時に用意した駐車場に停めている。農村地帯の小さな町ではこの様なイベントは少ないので心待ちしている人も多いのであろう。外部の人たちからは3日間の通しの入場券を売っているようだ。

 午後には準備も殆ど終わり、僕も聴衆の一人となる。昨日は酷い雨であったが、朝から天気は回復、スッキリとした青空と成っている。舞台前の広場には特設の観客席が扇状に作られている。ジャズバンドの演奏を聴いていると、地方のテレビ局の男が来て、話が聴きたいと言うので応じる。何処の国の出身なのかは聞かなかったが、彼も東洋系であった。何故此処に来たのか、BobやこのLodgeとの関わり等に答えると、お前はどの部分の仕事をしたのか言うので、Lodgeの中に入り何年か前に1週間ほどで張った廊下や部屋の腰板の方に向かう。途中エレベーターに乗ると、パネル入りの写真があり、其の中の一枚に彼が気付き、之はお前の奥さんかと訊く。家内と昨年秋に行った時、外部デッキの塗装をしている写真であった。腰板の辺りも写し、カメラ氏は間もなく帰っていった。

 イベント中の施設内は殆どが開放になっており、2頭立ての馬車が2台敷地内を巡っている。一台は自前のもので施設の専属スタッフが御者をしている。もう一台はDickと言う僕と同じ歳周りの男が一式自分の物を持って来て動かしている。大きなばん馬2匹と大型の馬車トレーラーで持ち込んで着たのだ。彼とは腰板張りの仕事を一緒にしている。がっしりとした体躯にカウボーイハットの御者振りは中々の物だ。横に座って一回りする。

道は登り下りが可也急な所があるが、ブレーキは付いていない。上りも下りも全て馬力だけが頼りなのだ。何か下りの方が馬には負担が掛かる様で危ない感じがするが、大丈夫なのであろう。もう一台にもブレーキは全く無い。家族連れなど40人程を乗せる大型馬車は相当重いが、何故ブレーキが無いのか不思議だ。

 施設の土地の大部分は森林である。彼方此方に大きな胡桃が落ちており、木の葉の色も若干黄色み帯びて来ている。ミネソタの秋はもう近い。途中に小動物園がある。此処にはアンデスのラマが居る。最初に行った時には一頭であったが、何時の間にかもう1頭増えている。羊、山羊、鹿、兎、鵞鳥、孔雀、その他色々居る。面白いのは4本角の山羊だ。奇形であろう。更に面白いのは豚である。どちらも雌の小型の成豚だ。兎に角丸々とした肉と脂肪の塊に短い足が付いた感じの動物だ。足は細く、長さは5cm、地面と腹の隅間は2cm位で腹が殆ど地面擦れ擦れだ。体重は30kg位だろうか。細い足であれだけの体を支え動き回れるのが不思議だ。自然界での生存は不可能であろう。之は人間が作り出した奇形である。

更にモット面白いのはDickの馬は何故かこの豚が嫌いなのだという。馬には目隠しが付けられ、横が見えない様になって居るが、豚の檻の横を通ると必ず首を大きく曲げて豚を見ようとする。怖いもの見たさの心境なのであろう。普通の馬は豚など歯牙にもかけないが、豚が嫌いな馬が居ることを初めて知った。鼠を怖がる人間は多いので、馬豚のこの中も不思議では無いのかもしれない。生き物は全て好き嫌いがあり、之は理詰めで解決は難しいのだろうか。

年間20000人以上訪れるこの施設の受付事務所の前で降ろして貰い、後は歩く。施設への入り口辺りには20台程のトラクターが並んでいる。1920年代からの異なるモデルである。車輪が鉄製の物や、鉄にゴムを貼り付けてだけのもの等近隣の農家がこのイベントの為持ち込んだ物だ。牧草地を刈払った所には60台ほどの珍しい車が並んでいる。

古いものは1920年代のFord Model T(車社会の先鞭を告げた量産車)、戦後のアメリカの大型車、ポルシェやフェラーリなど格好の良い車も並んでいる。トラクターも車も最終日のパレード後、各々の所有者が移動することになる。

 Lodgeの前の空き地にはホットドッグ、ハンバーグ等の屋台があり、定価が付いて居るもの、居ないものがある。定価の付いていないものは、気持ちを缶の中に入れて食べるようになっている。豚を野外で丸焼きにし、売っている所もある。ミネソタ農業地帯の豪快が風景だ。

 中日、土曜日朝は敷地内で5キロのレースがある。こんな短いレースには出たことは無いが、遊びの積もりで走る。近所の子供や親子連れが沢山走っている。75を過ぎた夫婦も走っていた。森の中を走り、小川を2回渡り、回って帰ってくる。小川は石伝いに渡る事が出来るが、不安定な石で足を滑らせ、転ぶ人もいた。短い時間ではあったが、久しぶりの走りの後の朝食を満喫した。

 
 

 週末は両日共好天気であった。舞台では音楽の他、退役軍人の儀礼式、やミネソタ州知事の挨拶もあった。彼は大統領出馬の噂もあると言う。挨拶の中で心に残ったのは、彼が挙げたミネソタ州の良い点である。近隣愛精神や、人の絆は全米に誇れるものだという。寄付や奉仕活動の精神も強く、犯罪も少ないと数字を上げていた。BobのLodgeが完成したのもこう云う背景があったからであろう。

 Bobの施設の基本精神はキリスト教である。それにBobが身障者であることから、身障者のための運営を心がけている。この為、演奏もゴスペルソングが多い。サリドマイドにより両手の無い演奏者や、その他の障害を持つ演奏者の演奏も繰広げられている。2つのバンドは家族単位のもので、其の一つは障害者を抱えていた。彼等は大型バスに機材を積み、一家で移動しているのだという。

 兎に角3日間、Hallelujah.Lord,Jesus,Holy Mother,等を聞いて、同じ集団の中に居ると気がおかしく成ってくる。宗教歌は時として絶叫調となり、聴衆もそれに引きずられ我を忘れた状態に陥る。舞台と聴衆が一体となって絶叫の呼応が始まる。こう云う集団の中では独自の考えを維持することが極めて困難となる。教宣、扇動は之を利用しているのだ。

 音楽が静かに成ると何人かの人が、来てくれて有り難うと話しかけてくれる。テレビで放送があったのであろう。バンドの座長も挨拶に来た。彼等の歌を理解し賛同していると思ったようだ。僕はただ観察をしていただけなのであるが。

 太陽が未だ高い5時頃、イベントは終わり、辺りに静けさが戻る。皆が帰った後、撤収作業が始まる。月曜日の午前中も手伝って、Miracle Lodgeを後にする

 Minneapolis空港の傍のホテルに着く。直ぐ前がMall of Americaという、全米最大のShopping Centerが有るので行ってみる。巨大なビルで中にはデパート、その他の商店、劇場、美容室、殆どなんでもある。驚きなのは中央が遊園地になっており、ジェットコースターなどもある。冬の寒いミネソタではこの様なものが必要なのであろうか?アメリカ人は何でも世界一が好きで、長年に渡り、世界一であったが、最近はドバイに更に大きなものが出来ているという。明朝は早いので、早めに眠りに着く。

写真は原氏撮影のものも相当数含む。改めて感謝する。


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皆さんの家「豊心庵」
平成21年10月14日掲載

09.07.07−12 Kilimanjaro 登山


 7月11日午前5時15分に山頂に達しました。と書くと何と無く偉そうで格好良く思えるであろう。自分の足で6000メートルに近い所まで登ったのは間違いないが、僕の意識の中では、登らせて頂いたというのが実感だ。何しろ4600メートルの最終キャンプ地からは自分の身に付けているのは衣類以外無く、1リットルの水もガイドが背負っている。全く空身での登頂で、僕の中にある登頂のイメージとは全く異なる。前のCamp地まではガイドの他6人のポーターが僕だけのために付いており、大名行列紛いの山行である。今日までの4日間も自分の昼食と水、それに其の日必要と思われる合羽や衣類だけを背負って昇ってきただけで、精々3キロぐらいであろう。高地であるが軽いハイキングの井出達で登れるのがKilimanjaro(世界遺産)である。高地順応さえ出来れば、平地を日に20−30キロ歩ける人なら誰でも昇れる山だ。特別の技術も装備も要らない。僕はTrekking Shoesで登っているが、ランニング用の物で充分である。現にPorter達の靴は体の良い中古の運動靴だ。只高度が上がるに連れ、気温が下がるので、それに対処する為と雨風に備えた衣類は用意する必要がある。

赤道から僅か330キロ南にあるこの山は、今冬の寒い時期である。赤道の極近くにあるので、季節による気温の上下は少なく、温度を左右するのは高度である。麓では30度あっても、山頂では間違いなく氷点下になる。樹木や水が全くない砂漠的な山などで日没と共に、気温は急激に下がる。これらを考慮して、日が変わると間もなく出発した僕は、上は薄物ではあるが防寒性に優れた物を4枚重ね着、下は3層の格好で出かけた。御来光の前に着く予定で、其れまでは歩き続けるので、そう寒さを感じない筈だと考えていた。日が差して下山の途中気温が上がれれば、衣類を脱いで入れるザックはガイドが担いでいる。

ガイドは26の男で、17の時からこの山に登っているという。この道のヴェテランの自負があるのであろう。過去5日間の僕の動きを観察して、出発の時間を真夜中と決めたのだろう。出発の前にパンやコーヒー等を腹に入れる。後は下山するまで食べ物は何も無いことにある。

予定時間よりやや遅れて出発する。頂上に向かう斜面を見上げると、登りだしている登山者のランプが点々と続いている。先頭は可也先まで行っており、動かなければ星と間違うほどだ。下限の月の薄明かりの中、星を目指して登る。足元はガレバで傾斜も可也きつい。星ばかりを眺めている訳には行かない。先に立つ、ガイドの歩調に合わせ、ザックザックと足音を聞きながら歩く。歩調は緩慢であるが、高地では此れが良いのだという。山に入って2−3のスワヒリ語を学んだ。山では良く使う言葉は何処の国にでもあるのであろう。

此処ではPole Poleと時々云言いながら登る。英語のSlowly Slowlyに当たる。ユックリ、ジワジワ登るのが登山の秘訣の一つなのであろう。

Head Lampを付け、淡い月明かりの中を黙々と登っていく。眺望は決して素晴らしいとは言えない。足元の瓦礫の連なりは単調そのものであり、遠くに見える山の輪郭も絶景には程遠い。ほぼ90分に一度、立ち止まった小休止をし、水を飲んだりする。リュックの中に入れてある水はほぼ凍りかけており、非常に冷たい。2度目の休憩をし、更に登りだすと間もなく、先発の全てのパーティーを追抜き、先頭を歩くようになった。間もなく傾斜が急になだらかになる。左手の谷川には氷河が白く見えるが、写真には成らないであろう。山頂はもう間もなくだという。最後の30分程は傾斜は緩やかで、地面はほぼ平滑だ。日中眺望が良ければ、ハイキング気分で歩けるであろう。山頂近くは5−6メートルの風が吹いており、寒い。この程度の風は山では風とは言わないのかもしれない。然し、段々と寒さが身に応えるようになる。

間もなく山頂に着くが、勿論誰も居ない。5時15分であった。山頂からは3000メートルあたりから上のKilimanjaroの輪郭が微かに見える他、何も見えない。アフリカ大陸の最高地点からの眺望には可也の期待を持っていたが、見事に裏切られた格好だ。山頂からの朝日を浴びた大地溝帯は是非見たいと思っていたのだ。

兎に角寒い。ガイドと話をするにも、寒さの為口が自由に動かない。喋る事が億劫だ。カメラを取り出し山頂の標識の写真だけは何とか其れらしい物を撮る。ガイドが僕の写真を撮ってやろうと何度が試みるが、どれも失敗に終わった。兎に角寒い。日の出までは1時間以上あり、御来光などは如何でも良くなる。こんな所で、冷凍人間になるのは願い下げだ。頼まれていた山頂の石数個を盲目の状態で、ポケットに入れ、這う這うの体で山頂を後にする。

途中で休んで居た人の話を聞くと、気温はー25度だと言う。どの程度精度の温度計かは知らないが、これが事実とすれば、風の影響を受ける体感温度は−30度以下となろう。兎に角早く高度を下げる為急いで下山する。瓦礫の斜面は広大で何処でも下れる。登ってくる人は九十九折れの道を登ってくるが、下りは真っ直ぐに降りることが出来る。足元に気をつけながら、出来るだけ早く下る。身体も温まり、人心地が付いた頃、雲の中から太陽の薄日が指すようになった。左前方に険しい山頂が見える。雲の中から浮かびだしたように見える。Kilimanjaroのもう一つの山頂でMawenzi(5149M)である。ガイドの話によると此方の方が登るのが難しいそうだ。見ただけでも僕などには登れそうも無い山だ。先ほど登ったUhuru Peak(5895M)を中心に西側にはもう一つのPeak、2日目にCamp地、Shjra(3878M)がある。此処がKilimanjaroでは一番古い火山で、過去に於いてはここが最高地点だったという。これ等3つはほぼ東西に一直線に並んで降り、壮大なKilimanjaroの山容を形成している。

ほぼ明るく成りきった頃、昨夜泊まったCamp地が遥か下方に見えてくる。この他視界に入ってくるものは広大な広がりの岩塊、瓦礫、雲のみである。振り返ると、青空と広大なKilimanjaroの斜面と其の輪郭が見渡せる。彼方此方に雪の見える窪みもあるが、山行中終ぞKilimanjaroの雪も氷河も踏む事が無かった。最近では真冬でも雪が積る事が少なくなっているのであろう。ここまで来ると、もう少し山頂に留まってクレーターや氷河を見たり、写真を撮りしたかったと思うが、この為に一命を掛ける積りは無かった。尋常な寒さでは無く、身の脅威を覚えるほどであった。南極点1100キロ手前まで行ったが、今回が体感的には一番寒かった。出発の前に薄手のダウンの上下を重ね着する事も考えたが、想定した最低気温はー20度であったので、結局着て来なかった事が山頂付近で殆ど何も見ないで下山せざるを得ない事に繋がった。軽装で登ったことがガイドの予想を上回る早期山頂到達の原因かもしれない。

Camp地に戻り着き、簡単な朝食を済ませ、更に下山を続ける。下りは上りとは異なるルートを辿る。狭い山道での上り下りの交差を避けるためだという。最も1日に一つの登山口から登る人の数は最高でも200人程度で、日本の山と比べれば登り下りの登山者が行き交う頻度は比べ物に成らない。登山口は6つあり、途中のルートも色々異なるが、最終的に山頂に至る道は2つのようだ。山頂に最短距離で登るルートは傾斜がキツク、短時間で高度を上げていくので、高所順応が出来ていない者には向かない。より一般的な登り方は円錐形の山肌を螺旋を描くように登っていく。僕の登ったMechame Routeも4日目のBarrancoからBarafuまでは反時計方向にほぼ90度回りこんで、高度を700メートル上げている。

暫くは瓦礫の多い砂漠の様な所を下っていく。ペットボトル等が彼方此方に捨てられている。大きなゴミとしては、アルミ製の可也大きな、橇と荷車があった。橇は分かるが、荷車は何の為にこの地にあるのか見当が付かなかった。やがて潅木が見えてくる。上空には青空が広がり、日差しは強いが、汗をかくほど暑くは無い。潅木の山道に入り、暫く下って行くと、3人の女性が元気だねと声を掛けてくる。彼女達も下がっているのだ。具合が悪くなったので、山頂は諦め引き返しているという。勿論彼女達にもガイドと相当数のポーターは付いている。彼女達には2日後のサファリでまた会うことになる。

所々、急な坂や、抉れてV字の溝が出来滑り易い所もあるが、概して歩き易い道を下る。段々樹木の背丈が高くなって来て、熱帯樹林帯となるころMweka(3100m)のCamp地に着く。今日は頂上までの1300mを登り、其処から2800m下ってきた事になる。距離は22キロとなる。

薄日の漏れる木立に中のキャンプ地である。潤いと安らぎを感じる空間に暫く振りに来たような感じがする。テントは既に用意が出来ている。早めの夕食が済むと、ガイドがテントに来てチップの要求がでる。全体で最低500ドルが相場だという。僕が考えていたのはその3分の1程度であったので、元受の旅行代理店と相談して、適当な額を払うので安心するようにと言って、了解を取り付ける。多くの登山者は2人以上のパーティーで登っており、ガイドやポーター達も一回の山行で500−600ドルのチップがあればいいのであろう。2−3人でこれを負担すれば、チップの額として大きいものではなくなる。僕の場合は1人なので問題となるのだ。只僕は一人で登りたいとは要っておらず、催行を決めたのは旅行会社だ。この代理店を介せずの解決はあり得ないと考えたのだ。

此処で大名行列紛いの山行の費用について触れておきたい。旅行会社との契約は1500ドルで、出発前に支払い済みである。このうち650ドルは入山料、キャンプ設営料等の名目で、タンザニア政府の国庫に入る。残りの850ドルが、旅行代理店の経費、利益となる。

代理店は当然ガイド、ポーター、登山口と僕の滞在しているArusha間の輸送、6日間の僕を含む8人分の食料などの支払いをしなければ成らない。食料は専属のポーターの他に3人が途中のキャンプ地まで上げている。計算をしてみると、余ほど人件費が安くなければ、これ程多くのポーターを付けての登山は成り立たない。国民一人当たりの経済的な豊かさの指標の一つのGNI(2007年度、USD)で見ると、タンザニアは400、日本は37760(世界の17)の背景があるので何とか僕でも登る事が出来たのだ。但し、数字は魔物である。日本人の物質生活や幸福度がタンザニアの其れと比べて100倍近くでは決してない。所得の低い国は必需品の物価もそれなりに安いのだ。

観光業はタンザニアの主要産業の一つで、其れなりの政策を持っているようだ。先ず、Kilimanjaroの登山に関して言えば、ガイド無しの個人登山は外国人には許されていないようだ。中央政府が入山料やキャンプ地を一括管理しており、増収の為には登山者が出来るだけ長期に管理地内に留まることが必要だ。山に慣れている人であれば23日で充分であるが、登山日程を67日に設定したコースが多い。失業対策の為、仕事量確保の為、ポーターの荷役重量を20キロに制限している。ヒマラヤのポーターはこの56倍の荷物を運搬している事から考えると、この他の理由は考え難い。雇用を少しでも多くの人に行き渡らせる事はどの国でも重要な施策であろう。

明けて12日、朝早々にテントを撤収して、下山に掛かる。熱帯雨林に入り、巨木が多くなる。根元の土が流され、根が浮き上がって居るものもある。100年、200年の間には根元の地形も変化するのであろう。巨木にはコケやヤドリギの類が付いた物が多い。又、多層林となっているこの辺りの木々はお互いに住み分け、共存しているように見える。巨木と巨木の先端の葉はお互いに触れ合う程には接近せず、一定の空間を保っている。空を見ると、木々の先端の葉っぱは微妙な曲線描いて、お互いの生息域を保っている事が分かる。

2000m辺りまで下ると、木が揺れる音が聞こえる。猿の群れが居るのであろうが、姿を見かけることは無かった。

2時間余りで10キロほどを歩き、Mwekaの登山口に着く。事務所に行くと、登頂の証書を呉れる。証書の番号は62845で此れが1889年初登頂からの通算の数であろうか。飲み水には適さないが水道で手や顔を洗いサッパリする。迎えの車も来ており、Arushaに向かう。途中暫くはダートの道で、集落やコーヒー畑の中を走る。コーヒーのKilimanjaroは此処が産地なのだ。間もなく舗装道路に入り、1時間ほどでRainerの待っているホテルに着く。ガイドとRainerの間で再度チップの話しが持ち上がり、500ドル等は論外だとRainerが怒り出し、現地通貨を差し出し、折り合いを付けようとするが、決着を見なかった。ガイドには再度、代理店を介して適当額を払うので安心するよう申し入れる。代理店での話し合いは、契約額の1割で決着が付いた。常識的な線であろう。そもそもチップは西洋でもサービスに対する任意の支払いで、受け取る側である額を要求することは異常なのだ。只土地には土地なりの慣行があり、訪問者と言えども之を無視する訳には行かない。特にサービス業では従業員の収入は賃金+チップで成り立って居り、宿泊や飲食の際は土地での標準のチップは払うのが当たり前なのだ。チップの習慣は日本には無いが、チップも払わすホテルを利用するなどは論外の行為なのだ。不必要に高額なチップを払う必要は無いが、払うべきものはキチンと払う必要があるのだ。外国を訪れる際は日本を代表しているとの気構えが重要である。旅の恥はかき捨て等は飛んでも無い考えなのだ。日本人は金持ちだが、ケチだとか、品性が無いなどの風評が立たない様、心したいものである。

ホテルにはRainerの奥さんも来ており、彼の家に向かう。久し振りにシャワーを浴び、埃だらけになったTrekking Shoesも刷毛で洗う。

泊まっている部屋は北側に向いる。南半球なので、此方が日向である。窓の外に靴を出して乾す。二階の部屋であり、15メートル程のダートの道路を挟んで前の区画は青物市場になっている。広さは10000平方メートル以上ありそうだ。道路との間には鉄製の塀があり、其の中に屋根つきの市場がある。色とりどりの果物、野菜なごが豊富に並んでおり、売り手も沢山居る。出入りする人も頻繁で、見ていて飽きない。

市場と此方の建物の間の凸凹道は所謂自由市場、闇の市場だ。此処には直径30cmほどの籠に、思い思いの農産物を肩の高さに手で支えて売っている沢山の女達がいる。頭に載せている人も居る。服装も派手でアフリカ的だ。日長こうして路上に立ち、何がしかの金を得るのも大変なことであろうが、ここでは多くの人がこうした生活をしている。正規の青物市場の真ん前の闇市なので、当局の手入れが時折ある。何処からかともなく情報が伝わるのであろうか、其の時は一斉に路上の女達も商品も消える。程なく、又戻って来て、同じようが光景となる。こうした事が日に何回も起こるのであろう。正規の店を出せないこうした人々の日々の悲哀は如何ばかりか?富の分布をもう少し平準化する仕組みは何時になったら出来るのであろうか?

Kilimanjaroの登頂から下山に関しては一通り触れた。次いで、何が僕を其処に向かわせたのか?何故今回Kilimanjaroなのか?それに登頂に至る前の3日間の山行に関して順々に触れて置きたい。

僕は脳ミソの容量が足りない為、当初より遠大な目標を立てることが出来ない。門外漢から見ればよくそんな事が出来たねと言われることも、当初からそれを目指して居た訳では無い。牛に引かれて善光寺参り的な事が多いのだ。今回のKilimanjaroもそれに近い。

山羊と馬鹿は高い所が好きだと言う。僕は其の通りだと思う。更に僕の場合は程度が悪い。高い所の他、知らない所、今まで行ったことの無い所に、行って見たい習性を持っているのだ。23年前は南米大陸の最高峰アカンコグア(6962m)に登りたいと思ったこともあった。調べて見ると、風の強い山で、素人の老人には登れそうも無い様に思え、そのままになっていた。

昨年の暮れ、RainerからメールでTanzaniaに暫く滞在するので一緒にKilimanjaroは如何だとの報せがあった。善光寺行きの牛が現れたのである。付いて行かない方はあるまい。早速3月中は如何だと言ってやると、其の頃は雨季で良くないとのことで、7月行く計画を進める。

Rainerに付いては以前Mauritius紀行で若干触れているが、此処でも付け足して置きたい。彼は根からの宝石屋だ。ドイツ生まれで、31歳まで母国で腕を磨いた宝石加工の職人で、その後は宝石の産地のオーストラリアに渡り、再婚。ランナーであり、彼と最初に会ったのはComradesであった。その後、ComradesSpartaで何回かあっている。23年前再度離婚、別の宝石産地Mauritiusに住み付くようになった。アフリカやマダガスカルからも原石を買い加工していた。その後マダガスカルに移り、3度目の結婚をした。仕事をして居たが、政変が有り、加工品の輸出が禁止され、動きが取れなくなり新たな宝石産出国のタンザニアに移った。財産の殆どが在庫品として動かない状態にあり、タンザニアで仕事も急には軌道に乗らず、最近ヤット目鼻が立つようになったという。 

前妻のSuanもランナーでComradesで何回か会っている。彼女は公認会計士で自立しており、Rainerによると時折金を送ってくると言う。分かれても好きな人なのか? 兎角他人の仲は計り知れない。離婚後彼女は日本を訪れ、僕の小屋にも来ている。詳しくは話さなかったが、彼とは別れたと涙ながらに話して居た。僕に対しては、”貴方は両方の友達なので遠慮なく付き合うように“とも言っていた。

4月は旅の計画に当たった。5月下旬のWyoming Marathon6月中旬からの北欧の旅、7月初旬のKilimanjaro,8月初旬のInca Trail Marathon等の手配を全部済ませておく必要がある。Rainerとの交信も頻繁になった。いざ、手配の段階になると、予約に関して明確な回答が出てこない。金欠病の様なので、立て替えて遣るとか、家内に宝石を買ってやりたいとか呼び水を入れるが乗ってこない。最終的には今回は同道出来ないと言って来る。只僕の方はその気になって居り、多分今年を逃せば、永久に登頂の機を逃す様な気がするので単独でも決行すると言ってやる。

旅行代理店とKilimanjaro登山の予約の話を進めるが、支払いの問題が起こる。アメリカの銀行を通し、最終的にタンザニアの銀行口座に振り込むように要求してくる。支払いは米ドル建てで、約200ドルの振込み手数料は此方負担だ。手数料が馬鹿馬鹿しい程高いので、予約せずに現地入りして、その場で決めることにする。代理店にはKilimanjaroだけが旅の目的では無いといってやる。タンザニアへの送金は実に厄介なのだ。NairobiKilimanjaro空港のAir Ticket300ドルはRainerに立て替えて貰う事にした。

登山の予約が完了しないままTanzaniaへのAir Ticketの手配をする。金は無制限に有るわけでは無いので、NaritaNairobiの往復はUAMileageを使うことにする。スターアライアンス系の、Lufthansa,Turkish Air,Austira Air3社の乗り継ぎ便で、接続は極めて悪く、距離はそれ程でもないが、目的地までに到達する時間は僕の今までのどの旅より長くなるが、背に腹は変えられない。

74日成田よりFrankfurtに飛ぶ。Checkinした荷物が届いていない。之には山行に必要な装備一切が入っており、これが無ければKilimanjaro 登頂は不可能となる。荷物の事故は前回の北欧の旅でも起こっており、続けて2度目とは余ほど運に見放されているようだ。係りの窓口で荷物の所在を確認するが、不明とのことであった。航空会社3社の絡むKilimanjaroまで便名を告げ、是非何処かで荷物と一緒になる様な手配を依頼する。今晩泊まる宿は決まっていないので、荷物の行方が分かったらメールを入れる様にとの要求もする。其の後、空港から電話をし、程遠くない空港ホテルに泊まる。

翌朝Istanbulに飛ぶ前に窓口に行き、再度荷物の確認をする。所在が分かったので、Nairobi空港に送るとの返事を得、ホッとする。Istanbulでは数時間の乗り換え時間をLoungeで過す。Turkish Airで夜Nairobiに向かい、翌朝1時に着く。荷物とも再会出来て一安心である。Kilimanjaroに向かうのは15時なので、丸半日以上の時間がある。幸いなことにNairobi 空港は終夜開いている。TanzaniaへのTransit扱いとして、25ドルの通過Visa料を払い、手続きは終わる。入国管理官に何処か安全に午後まで居られる場所は無いかと聞くと、外に出ればレストランがあるという。荷物もあり、現金も200ドル持って居ることでもあり安全を考え、空港内に居たいというと、それなら其処のソファーで寝てはどうかと指差す。入国管理の8つのブースの他、検疫のカウンターがあり、其の傍のソファーで寝る事にする。ビニール製の硬いものであるが、贅沢は言えない。朝方目が覚めて、検疫カウンターの裏を見ると、極狭い空間に67人の空港従業員が薄い絨緞の床に作業衣のまま雑魚寝をしていた。皆靴も履いたままだ。之がアフリカなのだ。未だ充分に寝て居ないので、又眠り込む。昼ごろ国内線のターミナルに移り、Fly540と言う奇妙な名前の航空会社のカウンターに行き、Air Ticketを受け取り、手続きを済ませる。運賃は往復300ドル強と、距離300キロにしては高い。ゲートの待合室に行き、又暫く待つことに成る。

乗った飛行機は13人ほど乗れるプロペラ機で、操縦室の仕切りは無い。RainerKilimanjaroの見える左側に乗れと言って来ているので、其の通りにする。飛び立つと見えるものは、疎らに潅木の生えた砂漠地帯である。ほぼ真南に30分ほど飛ぶと、雲上に山頂を表して居るKilimanjaroが見えるので、写真に撮る。典型的なコニーデ型火山の大きな山容である。

Kilimanjaro空港は小さいが一応国際空港であり、入国審査がある。Visa料は50ドルと高い。乗客は10人足らずなので、手続きは直ぐ済んだ。それにしても、此処に着くまではほぼ丸2日掛かる長旅であった。Rainerが迎いに出ており、彼が乗って来たタクシーで彼の家に向い、1時間ほどで着く。町の中心部から近い、2階建てのアパートであり、高い塀が回されている。24時間マサイ族の見張りが入り口の傍に常駐しているそうだ。入り口側の道路はダートで凸凹が大きい。

塀を入ると大きな中庭があり、番犬が吠え出す。彼のアパートは2階にある。約10畳ほどの4つの空間がある。入ると直ぐに居間、その奥が主寝室、居間の左側の空間にはシャワー室、台所、納戸となっている。又主寝室の左手は普段はRainerの作業場となって居り、一客の机の上に宝石の研磨機が1式乗っている。その他にはベッドが1つあり、他には何も無い。この部屋が僕の滞在中の居室となる。

新しい奥さんはマダガスカル人でTokiといい、27歳で、Rainerとは35歳離れている。小柄で子供の様なところがある。簡単な挨拶を交わす。其の後旅行代理店にRainerと歩いて出向く。5分ぐらいの所だ。話は簡単につき、予定通り明日8時に出発出来るという。1500ドルを払い込み、予定表を受け取る。明日迎えに行くといったが、此処までは近いので此方から来る事にする。

夕食は近くの焼肉屋に行き、路上のテーブルにすわる。RainerによるとTanzaniaの牛は旨くなく、ケニヤ牛の方が上等で値段も倍ほどするそうだ。注文は彼に任せる。一品は肩の瘤肉である。之は日本では余り見かけないが、ある種の牛の肩の傍の首に出来る瘤状の肉である。肉と言うより油の塊の様な気がする。ブラジルでも食った事があるが、柔らかくて美味しい。食っている内に停電となり、ローソクが点けられる。この国では停電は頻繁で、時には相当長い間続くという。発電能力に比べ消費が大きすぎる為に起こる原因だ。通常でも電圧が不安定で、この為電球はすぐ切れて仕舞うという。

77日、約束の時間に行ってみるが、事務所は開いて居ない。ややあって、昨日話をした男が遣って来て、鍵を開けだす。よほど治安が悪いようだ。建物を入って、2階にある事務所の扉は二重に成っている。先ず、鉄製の扉には4つの大きな鍵が付いている。其の内側に分厚い木製の扉があり、それにも4つの鍵が付いているのだ。丸で、銀行の金庫並みの厳重な保安体制をとっている。やがて、Vanが遣って来て、それに乗れというので、また驚く。何と車には運転手の他7人が乗っており、山に登るのは僕一人だという。何でこれほどの人が必要なのかの見当は全く付かないが、これが此方の遣り方なのであろう気楽に考える。

トウモロコシなどを作っている乾いた農耕地帯の中を走る。所々には牛などの家畜が放牧されている。群れの大きさは数頭から2030頭と様々で、群れには必ず人がついている。独特な布切れを纏い、棒をもった男が地べたに腰を下ろして群れを見守っている。何とも長閑な風景だ。何人かが荷台に乗っているトラックに追いつく。こちらに向かって手を振っているので、カメラを向けると、Noの仕草をするので撮らなかった。

どの道筋でも集落のある所に来ると共通して見えるものがある。飲食店の看板である。看板は飲食店限らず、物を売る店なら無い方がおかしい。只これほど徹底した同じデザインの看板は何処に行ってもかって見たことが無かった。縦50、横100センチほどの大きさで、夫々の店の名前が書いてある。店の名前の横には現地の女性がコカコーラーを飲んでいる写真が必ず入った全体に赤褐色の看板である。飲食店の看板は僕の廻った範囲では例外無く、之であった。世界のCoca Colaの着想には驚く。少ない経費で、圧倒的なブランド名を売り込んでしまう戦略だ。看板自体は風雨に耐えるものであれば良く、安価なプラスチック製だ。同じ物を量産し、店の名前を変えるだけで何処でも使えるのだ。対経費効果は計り知れないほど大きい筈だ。

山裾に近付くと水の供給が豊かになり、バナナ等の畑が多くなる。1時間半程でMechame登山口に着く。大きなゲートがあり、中に入ると事務所や休憩所がある。事務所で書類に記入する。内容は、名前、国籍、Passport No. 旅行代理店名、ガイドの名前などである。之は入山中、Campに到着する度に記入を要求された。Campによっては事務所の無いところもあり、其の場合はRangerがテントに遣って来て記帳させていた。この点は極めて几帳面であった。

ポーター達の荷物の分担が決まると出発である。其の間、近くの森林を見ていると、猿の群れを見かける。Blue Monkeyだという。実際に青色をしている訳ではないが。

10時半に歩き出す。ガイドの指示で、僕はポーター兼調理担当の男と歩き出す。ガイドを除き、英語は全く駄目か、片言程度だ。彼らの言葉はSwahili語である。Tanzaniaには130を超える部族が住むと言うが、国語はSwahili語である。先ず挨拶はJamboであり、Mamboもほぼ同じように使うという。Jambo-Mamboの世界に来たのだ。それに山の歩きはPole Poleだという。Slowly Slowlyを意味する。行き逢う毎にJamboと声を交し合う。之はHimalayaNamasteに相当するようだ。返答はJamboであったり、Mamboであったりする。どの様に使い分けているのか定かではない。

定かでは無いことがこの他にも沢山ある。多くの部族が住んでおり、マサイ語など沢山の言語があるに違いないが、国語はSwahili語であり、英語を公用語としている。国語と公用語は如何違うのか?国語は公用語ではないのか?国語が其の国の公用語で無いとしたら、変な話では無いか?事情に詳しい人に御説明願いたいものだ。南アフリカには国語という定義はなく、公用語が11あり、英語も其の一つだ。法律などは当然11の言語で書かれているに違いない。役所の広報などは如何成っているのだろうか?

横道に逸れたが、山道に戻ろう。如何も旅行社から貰った予定表の高度と政府刊行物の高度には2300メートルの食い違いが随所にある。この程度の差異はあちらでは問題外なのであろう。アフリカに来ても僕は数字に関してはアフリカ的な雄大寛容な気持ちに成れないので、僕の高度計と刊行物、道標を比較し妥当な数字を記すことにする。

Mechameの登山口は1900メート弱である。登りだすと、鬱蒼とした樹林帯が続く。高い物は780メートルあるようだ。多くやコケやヤドリギが寄生している。多層林を為しており、樹種も多い。思ったほど密集しておらず、所々では地面に陽光が指し込んでいる。

風の動きに連れ、地面の照度が微妙に変わり、地面が動いているようにも見える。登りだした頃は車が充分通れるほどの道も1時間も歩くと、幅1メートルほどになる。よく整備された山道は湿っており、歩き易い。傾斜は緩やかで可也早く歩けるが、Pole Poleと言いながら歩いているポーターのあとを付いて行く。彼は鍋などをいれたザックを背負っており、手には紐で結んだ30個ほど入りの卵のパックをぶら下げて歩いている。もう一方の手には俎板をぶら下げての登りだ。転ぶ心配は無い様だが、転べば卵は無傷では済まない筈だ。天気は上々、熱帯雨林帯はもっと暑くて蒸し暑いと思っていたが、汗は薄っすらとかく程度だ。爽快な気分で歩ける。背負っている物は水と雨具など精々23キロだ。

今日の行程は、最高点3100メートル地点を超え、そこから下った3000メートルのMechame Campまでの10キロ、最終高度差1100メートルである。

2500−2600メートル辺りには一層大きな樹木が生えている。人の手が入りにくいからであろうか?更に100メートルほど登ると、土地が乾きだし、樹高は低くなる。黄色い花の咲く潅木が彼方此方に見えるようになる。ガイドは象が好んで食べる木だという。象はこの木を求めてKilimanjaroに遣ってくるのだそうだ。又、さらに高い所には象の集まる場所があるという。塩分などのミネラルを含む岩石が其の一帯にあるそうだ。

4時間ほどを掛けてCamp地に到着。案内板には3000mの表示があり、木造の事務所で記帳をする。確りとした建築で、雨水は全部集めて使うように大きなタンクを幾つも備えていた。他のキャンプ地の事務所もほぼ同じ作りであった。其処には吊り秤があり、ポーターの荷物の重量を一々測っていた。何人かのRangerが常駐しているようである。彼らは登山者の管理、キャンプ地や山道の管理などをしており、KilimanjaroT-shirt等も売っていた。T-shirtの方は副業であろう。

其の間にテントの用意が出来ていた。2人用と34人用の2つのテントがあり、2人用のものは僕の専用でゆとりがある。テントとマットは提供を受け、寝袋等は自分の物を使う。テントはソコソコものであるが、マットは酷い物であった。

 

一方ポーター達7人が泊まる方は寸分の隙もない程であろう。Nairobi空港での雑魚寝仮眠の姿が思い出される。彼等にとっては重なり合うような就眠環境でも余り抵抗は無いのかもしれない。ポーター用のテントの入り口庇の前ではオイルバーナーを使い夕食の支度が始まっている。更に水が必要なので、ポーター2人が20L程のポリバケツを持って水場に行くので付いて行く。バケツと言っても、元々は何か液体の入っていた容器で、それ用に作られた専用の物では無い。その後見かけた町でバケツとして使われている物は、殆どが何かの容器であった。細い水場への道を5分ほど下って行くと、直径1メートルほど水溜りがある。湧き水のようだ。バケツで水を掬い上げ、更に傍にあったペットボトルの上方を切り、コップ状にした容器で汲み上げてバケツを満杯にする。可也急な坂を溢さずにどうやって持っていくかと思ってみていると、1人がバケツをヒョイといとも簡単に頭上に持ち上げ、そのまま歩き出した。彼らは頭に物を載せて運ぶ事に慣れているのだ。日本人であれば、あれほど満杯の水であれば平地を歩いても頭からずぶ濡れになるに違いない。

夕食の前に周りを見て歩く。白とピンクの花の咲いている潅木が彼方此方にある。之は綺麗で、写真に収める。雲の動きは早く、雄大な尾根や谷に陽が指したかと思うと、次の瞬間には何も見えなくなる。この辺の潅木はある高さになると枯れるものが多く、それらに綿の様な藻が付いて林立している様も美しい。明日昇るコースを暫く昇ってから引き返す。

食事の前にプラスチックの洗面器(兼食器洗器)に僅かな温湯を入れてテントの前に持って来てくれる。油の薄い皮膜が浮いているが、これ以外に手を洗う水は無い。油皮膜との付き合いは山行中続いた。

給仕担当がテント内にバスタオル大のチェックの布を敷いて、其の上に食事を載せる。薄暗いテント内で黙々と食う。夕食は3コースと成っていて、一応其れらしい物は出てくる。調理法はタンザニアスタイルであろうか?野菜はニンジン、インゲン、ジャガイモ、玉葱などを微塵切りにし、クタクタに成るまで火が通ったものが出てくるのが常であった。肉などは脂身の無い硬い物が多かった、それ程抵抗のあるものではなかった。

78日、8時に出発してShira Camp(3749m)に向かう。標高差は約800メートル、距離は6キロである。標準の移動時間は7.5時間とある。其の半分で充分では無いかと思う。荷物には調理担当の用意した昼食が加わる。今日も天気は良く、上空は青空、下方には雲海が広がる。気温は山歩きには丁度いい位だ。暫くは潅木の間の山道を登っていく。傾斜は徐々に急になってくるが、気にするほどのものでも無い。潅木の背丈も低くなる。同じ花でも3分の1ほどに小さくなり、それはそれなりに美しい。小川を渡ると瓦礫の多い地形となる。道も更に狭くなって居り、所によっては他人を交わせない程狭い。大きな岩塊の間を四つん這いで登る所もある。幾つかの尾根を上り下りしながら歩く。低い谷状の場所にはこの山特有の草木が疎らに生えており綺麗だ。Giant Groundselは葉っぱが天辺に雪洞のように付いている面白い木だ。葉っぱは地上に落ちる事無く、幹に枯れた後も纏わり付いて幹からの蒸発を防いでいるようだ。この為幹の見かけは太い。ガイドによると樹幹は綿状になっており、水分を蓄える様になっているという。

ユックリ歩いても午前中にはShiraCamp地に着いて仕舞い、到着後朝から背負っていた昼食を食う。サンドィッチ、バナナ、茹卵、鳥の唐揚げ、マンゴジュースなどが入っており、その後の昼食も似たりよったりのものであった。

昼食後ガイドが風洞を見に行こうと言うので付いていく。ShiraKilimanjaroの最初の最高点であったが、陥没により今は高原状になっている。この辺には象、水牛、Elandという大型のレイヨウ(牛の仲間)が餌やミネラルを求めてやって来るそうである。一寸した湿り気のある土地には餌になりそうな草木が生えている。風洞は富士山の其れと比べれば、取るに足らないものであるが、辺りには溶岩が流れながら固まった岩石、更に前の瓦礫を取り込んで固まった熔岩塊、と様々な火山岩が見られ、黒曜石も沢山転がっている。面白い事は少し離れた所に行くと異なった岩石が見られることだ。火山岩は一様なものではなく、発生した場所や時期によって異なる岩石が出来たようだ。熔岩がそのまま固まったもの、火山灰が堆積岩となったものなど様々である。岩石の形状を見れば、火山活動の激しさが生々しく分かるような気がする。想像を絶する巨大なエネルギーによって、大量の奇岩奇石が生成されたのだ。岩石の写真を沢山写す。

 

Camp地は広大で、100余りのテントが点々と見える。午後はお茶の時間である。之は英国支配を受けた影響であろう。Tanzaniaを最初に支配したのはドイツであった。第一次世界大戦前の約40年はドイツの領地、その後ほぼ同じ年月英国の統治下に。1961年に独立を果たしている。ポップコーン、炒りピーナッツを作り、出来合いのビスケット等でTea Timeである。インスタントではあるが、コーヒーやココアも選択できる。

その後は夕食まで勝手に歩き廻る。行程はゆったりとしており、退屈してしまうほどだ。体力的にもキツイことは無い。只ガイドは高所順応の為にはノンビリと高度を上げて行く事が必要なのだと何度もいう。それに、沢山水を飲み、沢山食えともいう。確かにどちらも重要なのであろうが、余り動かないので、食欲は湧かない。必要以上には食えない仕組みが出来上がって居るのであろうと思う。

79日、日の出前に起き、周りの写真をとる。今日も天気は良く、目指す頂上や幾つかの氷河もはっきりと見える。風も穏やかで、こんなに穏やかな山は初めてだ。雲海から出て来る太陽も移す。湿気や浮遊物が少ない少ないので、赤みを帯びておらず、日本とは違った太陽だ。人間の寄生鳥カラスは何処にでも居り、朝から煩い。此方のものは日本のそれとほぼ大きさは同じであるが、首の後ろに白い線が入っている。

此処特有のLobeliaという植物も綺麗だ。之は草であろう。ユリに似た葉を放射状に出し、円筒形に伸びる珍しい植物だ。小さい物は単に地べたの緑の花弁の様であるが、成長すると1、5メートルほどの円筒形になる。直径は20−30cmほどである。全体が薄緑の葉っぱで覆われトテモ美しい。昨日見た時は葉が外に放射状に開き、花弁のようであり、真ん中が御椀状になっており、水を保存出来る様に成っているようであった。夜は葉が内側に曲がり、放熱を防ぐ様である。今朝見た時は全部の葉が内側に曲がり、直径が細くなっていた。花弁が十重二十重の大輪の菊の花は扁平球状をしているが、其れを引き伸ばして筒状にした姿をイメージすれば良い。恐らく成長するに連れ、真ん中に茎が出来て、そこからも外に向かって放射状に葉を出しているのであろう。

今日の行程は更にユトリガある。次のBarranco Campとの標高差は100m、但し、途中4550mの熔岩塔(Lava Tower)を通過する。標準移動時間は5時間。今日のCampが行程の中で最も綺麗だというので、期待をする。ShiraCampを出ると岩塊の多い道を登って行く。大きな奇岩の散らばる山道だ。視界が開けており、前を登っていく人の姿が遠くまで見える。コケを除き植物は殆ど見られなくなる。暫く登って行くと、ほぼ正面にKilimanjaroの山頂が正面に見えてくる。大きな氷河が2つあり、左手のものはシャチの姿をしており、シャチ氷河と呼ばれているそうだ。Kilimanjaroの南斜面を登っており窪んだ谷あいには彼方此方に雪も残っている。北半球とは逆に、雪は南斜面に残り易いのだ。それにしても、少ない。HemingwaySnow of Kilimanjaroを書きだしたのは70年以上前の1936年で、其の時は夏でも山頂からかなり下までこの山は雪に覆われていたのだ。氷河もあと15年もたつと完全に無くなると云う学者もいる。キリマンジャロの雪を見られるのも、そう長い事ではないのであろう。

2時間余りで、今日の最高点のLava Towerにつく。名前の通り、粘度のたかい熔岩が噴出した順に固まり小山の様な奇岩である。長年の間に崩壊した断面をみると中心部に熔岩が噴出したあとの縦の層が見られる。周りにはこの他にも、噴出した直後に固まった団子を重ねた様な岩が幾つもある。此処で昼食を取る。何時も良く見る、雀の2倍ほどの小鳥が餌を強請りに直ぐ傍まで遣ってくる。カラスと違い可愛い。

 
 
 

昼食の後、下りだす。左手には奇岩の高い絶壁が続く。僅かな水が流れる谷合を下って行くと、再びGiant GroudselLobeliaなどが生えている。流れに沿って、綺麗な植物群を見ながら下って行くと、Camp地となる。やや高台のようだ。先ほどの渓流はテントの左手の深い谷を流れているようだ。テントの正面に見える山頂はKilimanjaroであろうが、大分変わった形に見える。テントの直ぐ傍には、小さな泉もあり、Camp地としては最高であろう。Lobeliaや黄色の花も沢山ある。

どのCamp地にも幾つかの便所がある。これは小さな木造の小屋である。特に浄化設備は無く、自然の分解に任せて居るのであろう。自然分解しない物は持ち帰るようにとの、掲示はある。

夕食の前ガイドが来て、モット食うように云う。充分に食っているのでこれ以上は必要ないと応えるが、不満げである。食欲低下で、体力の減退を心配しているようだ。

710日、最終Camp地に向かう日である。標高差は700メートル、距離は8キロである。移動時間は7時間。Campを出ると可也急な登りとなる。山道は変化に富み、今回の山行中最も登りがいのある所が続く。2時間ほど登ると一旦下って小川を渡り、又登りだす。暫くは植物も見えるが、やがて岩石の世界となる。今まで良かった天気が急に変わりだし、ガスが下から追いかけてきて、太陽が見えなくなる。やがてKarangaCamp地に着き、昼食をとる。

其の間に霧雨が降りだし、寒くなる。更に悪いことは昨日まで携行していた、雨具を持って来ていない。化繊の長袖一枚では、濡れれば寒くなる。体温低下を避ける為に出来る事は一つしかない。急いで今日のCamp地にたどり着くことだ。急いで歩けば1時間もあれば着ける筈だと、懸命に歩き出す。ガイドが居なくても、道に迷う事も無い。標識は無いが、道ははっきりと分かるし、所々に同じ方向に歩いている人が居るからだ。傾斜は余りキツク無い。辺りは一面の岩石地帯で、植物は全くない。ガスは薄く、視界は100メートルほどはだ。霧雨の中を30分ほど歩くと、ほぼズブ濡れになる。風は微風であるが、それでもその影響は感じる。兎に角目的地に着くことだ。

漸く、Barafu Camp(4600m)に着くと、既に2人ポーターが着いていたが、テントは未だ張られて居らず、僕の荷物も届いていない。出切る事は風下の岩陰で寒さを凌ぐ事以外に無い。小雨は未だ続いて居り、やがて小粒の雹となる。震えながら15分ほど待つと、ポーターほぼ全員が到着し、予備の衣類を着ることが出来た。

設営されたテントに入って暫くすると、グランドシートの隅から水が入ってくる。ガイドを呼んで対策をするように依頼する。別のポーターが来て、テントの周りに排水溝を掘り、テント内への浸水は止まった。時間は未だ早いが、ガスの影響もあり、テント内は可也暗くなっている。雨でもあり、視界も悪いので、横になって休む。一眠りした方が良い。明日は日が変わると頂上を目指す事に成っている。テントに打ち付ける雹の音は催眠の効果がある。

此処までで、Kilimanjaroの項は終りである。Tanzaniaに来た細大の目的は完遂である。後丸3日を如何過すか考えなければならない。明日13日はArushaの町をぶらつけば良い。其の間に1416日の過し方を決めることにする。

泊まっている部屋の窓からは15メートル程のダートに道を隔てて、大きな青物市場がある。地図も持たずに先ず其の辺りから散策を始める。Rainerのアパートの入り口は之とは正反対側の道路に面する。町の作りは英国の都市の影響で、Blockの単位で出来ている。道路に囲まれた区画がBlockと考えれば良い。一つのBlock内には通常建物は一つである。日本の様に一区画内に、ゴチャゴチャ複数の建物は無く、町並は整然としている。Blocの三方又は四方の道路に面しては複数の出入り口や中庭がある。

 
 

Rainerの住むBlockは塀と入口があるダートの道は南、市場側が北で、これも未舗装の凸凹道だ。東西の道路は舗装してあるが、程度は良くない。入口を出て左に歩くと、次のBlockに突き当たる。建物の庇の付いた歩道には何十台もの足踏みミシンを使い、職人達が仕事をしている。此処だけではなく、彼方此方で見かける風景である。多分市民の一般的な衣類は、布を買い、この様な所に持ち込んで誂えて貰ったものなのであろう。人口30万と言われるこの町全体では、屋台のミシン職人は何千にも居るだろうと思われる。

更に右に曲がると市場である。野菜や果物の種類は、日本よりは遥かに多く、量も半端ではない。陽光に恵まれ、水さえあれば何でもできるのであろう。

町を歩いて気が付くことは、辺りが翳んで見えることだ。埃が多いのだ。其の原因は排ガスもあるが、何百年も前に起こったMt.Meru (4566M) の噴火による火山灰である。この山は富士山に似ているが、裾野が大きく傾斜は緩やかに見える。灰であるので比重が軽く、飛びやすい。灰は年々細かくなる。其の上、車などが増え、空中拡散する原因は大きくなる。微粒粉塵は呼吸器障害の原因となる。Rainerも僕も呼吸器は弱い。Brisbaneに住んでいる前妻のSuanもこの為RainerArushaを引き上げAustraliaに戻ることを勧めているそうだ。この粉塵が無ければ、高度約1500mのこの町も良好な高地トレーニング地だ。

町は正確な碁盤目ではないが、比較的歩き易い。北側にMt.Meruが聳えているからだ。建設中のビルが彼方此方にある。高層のホテルが多い。其の一つの施主は中国の鉄道会社であった。中国はこの様な所に着々投資をしているのだ。近年Arushaは観光の拠点として、急速に大きく成っているという。町には既に一流のホテルが沢山ある。

町の中心部にClock Towerがある。大きなロータリーの中心に時計塔が立っている。其の周りに銀行や事務所が立っている。先日の旅行代理店もある。寄って話をする。明日から2日間のツアーは無いかというと、有ると云うので、内容を訊く。Lake ManyaraNgorongoro Craterのサファリだという。通常3日のコースであるが、帰りはタクシーにすれば、2日でもOKだという。料金は300ドル。

手持ちの金も底を尽きつつある。Rainerにも宿泊料兼滞在費として500ドル払ったからだ。23軒隣の銀行に行く。入口にはカービン銃を持った男が立っている。この町では金融機関やちょっとした店には武装した守衛がいる。現地通貨で相当額引き出し、支払いは完了。

その後も彼方此方見て回る。タタの小さな車を何台か見た。中型のバスも走っている。後でRainer に聞くとタタの車は兎に角安いのだという。価格を下げる為、走る為に必要なもの意外は徹底的に省いた車だと言う。車は全て輸入であるが、ある金額以上の新車の輸入は認められて居ない。大半の車は中古車としているのだという。町では日本語の入った車が其のまま走っている。〇〇荘、xxx特別老人介護施設とか大暑した車は珍しくは無い。

直ぐに気が付いたことであるが、こちらに歩いてくるご婦人方が大きな目を開けて僕のあらぬ所凝視するのである。殆ど例外なく、興味深げに見入るのである。僕は7部のタイツとT-shirtの格好で歩いていたが今までこの様に注目を引いたことは無かった。Rainerに後で聞くと、こちらの女性には淫らに見えるのだそうだ。以後はこの格好では外に出なかった。

町を歩いてもう一つ気が付くことは、人の多さだ。何処に行っても人が沢山居る。此方の人達は屋内で過すより屋外で過ごす事が多いのだろうか?又路上の店も多い。道路や空き地何処でも物を並べ、商売をしている。青空商店街が延々と続く所もあり、一坪ほどの簡単な小屋営業の所もある。極彩色の衣類、中古の運動靴、等が目に付く。靴などは経済大国で御用済みとなったものを洗うなどして売っている。

ベッドや椅子などを作っている所に立ち寄る。何人かの職人が極簡単な道具で組み上げ、塗装していた。これらの作業も全て屋外か、簡単な屋根の掛かった作業場で遣っていた。

魚の臭いがするので、其方のほうに歩いて行くと、シートに広げて、煮干の様なものを作っていた。海は遠いので、原料は淡水魚であろう。車の巻き上げる埃の下で乾燥させたものが抵抗無く受け入れられる環境なのであろう。 

 夕食は仕事仲間のMarkと食事をすることなって居り、彼が迎えに来るという。目下車を持たないRainerにはアッシーが必要でMarkが其の任に当たっている様だ。其の他の時は専属個人タクシーを使っている。何処に行くにも電話で呼び出すと、直ぐ来る。料金も気に成るほど高くないのであろう。宝石屋のRainerは一流ホテルに店を構える宝石店との取引もあり、テクシーでは格好が付かないらしい。やや遅れてMarkが来て、日本料理屋に向かう。僕は国外での日本料理屋には殆ど興味が無いが、彼等が好んで行く店の様なので付いて行く。

日本酒もあり、料理も其れなりのものは出てくる。経営者の日本人も店に居り、暫し話をする。元々は車の販売業で5年前から此処に住み着いていると言う。現地の女友達に店を起して任せて居るそうだ。Arushaには5人の日本人が居り、時々集まるが夫々に我が強く、別れ際は喧嘩状態のことが多いが、又集まる集団だという。分かるような気がする。中には宝石で財をなし、村上ファウンドの創始者を凌ぐ金持ちもいるともいう。

Markはフランス育ちのユダヤ人の宝石屋である。50前後の男に見えるが、人は良さそうだ。Rainerによると何かと手助けしてくれるそうだ。ドイツ人はユダヤ民族を迫害したが、自分と彼は良い友達だとも言っていた。ほろ酔い気分になった頃、Markの運転でアパートに帰り着いた。完全な飲酒運転であるが、余り気にしないようだ。

148時、旅行社の前からLand Rover(7人乗り)で出発する。乗っているのは僕1人だ。途中で調理担当も乗り込んでくる。次いで途中郊外のCamp地に立ち寄る。何と乗ってきたのは、3日前下山の途中出あった3人連れ御婦人方では無いか。之を奇遇と言うのであろうか?話を聞いて見ると彼女達はベルギーから来ているという。2人は先生、もう1人は学卒で就職口を探しているという。古くからの友達で偶に一緒に旅をするという。歳は25前後であろう。

如何して登頂を諦めたのだと訊くと、気分が悪くなって登れなくなったという。ベルギーには高い山は無いので、登山の経験は何処で積んだのだと訊くと、そんな事はしていないとの返事が返って来る。無謀だと言ってしまえば御終いだが、大胆に挑戦する事はいい事だ。失敗したらやり直せば良い。若者には其れが出来る。年寄りの失敗は失敗のまま終わる可能性が大きいが、若者には何回でも挑む機会があり、諦めずに続ければ失敗を成功に変えることは可能だ。最初に先ずやって見る事だ。やって見なければ何が出来、何ができないかも分からない。己の限界を知ることは大事なことなのだ。

今日最初の目的地は150キロほど先のLake Manyaraである。Arushaを出てほぼ西に走る。道路は良く、砂漠の丘陵地を走る。大きなBaobabの木が彼方此方に見える。丸い草葺の屋根の集落が見えるので、カメラを向けると、運転手兼ガイドが写真を撮らないようにという。理由を聞くとこの辺りは軍事施設だからだという。この他にも理由はありそうだ。この辺りにはマサイ族が多く、彼らは写真に撮られることを嫌う。金を払えば撮影はOKである。単に只で撮られることを嫌うのかもしれない。何れにしても他人の嫌う事を敢えてする必要はない。道路左右に彼らの追う牛の群れが埃を立てて移動する姿も時々見える。

目的地の手前の集落のCamp地に立ち寄り、昼食を取る。場内には立派な宿泊施設、小さなプール、調理場がある。調理係が用意した昼食を食べて出発する。彼は此処に残り、テントを張ったり、夕食の用意をする。

国立公園、Manyara湖はこの辺りでの低地で湖もある。Hemingwayがアフリカで最も美しい場所と書いたのはここの事であったと記憶しているが定かでは無い。平坦な土地の最も低い所に水が溜まったのが湖であり、水際は遥か遠くに見える。乾季と雨季では湖の面積は大幅に変わるという。そこには多くのペリカンが居るというが、何と無くその様に見えるだけである。

 

埃を上げながら車を走らせていくと、小象が現れる。大声で鳴いている。ガイドは群れと離れ、苛立っているのだという。更に車を進めていくと、猿の群れに出会う。Golden Monkeyという猫ほどの大きな猿で、毛の先端が黄金色に見える。更にインパラの群れにも出会う。大きく角が真上に長いElandも何匹かみることが出来た。これは鹿の類と思えるが、実際は牛の仲間だという。牛のような鹿、鹿の牛がいるのだ。

木立の少ない平坦な所を暫く走ると、遠くにキリンの姿が見える。水牛も居るようであるが、個体としては識別出来ない。地上に突き出した大きな蟻塚も沢山見る。暫く見て周り、帰路に向かうと象の群れに出会う。小象も何頭か居り、群れは15頭ぐらいのようだ。道を横切るなど車の傍を悠々と歩き回る。森の王者の貫禄充分だ。子どもを持つ雌の象の集団なのであろう。

此処には木に登るライオンも居るという。又水辺には河馬も居ると言うが、それらを見る時間は無かった。

Camp地に戻ると、テントが用意されていた。山で使ったものと比べれば遥かに上等で、マットも申し分ない。ほぼ同じテントに彼女たちは3人泊まりだ。僕は此方でも1人で、悠々出きる。暗くなる前に屋根だけが付いている食堂(?)で運転手も交えて夕食を済ませる。

翌朝起きると、調理場の傍で何人かの男女が水をタンクに移し替えている。小さなバケツの手渡し作業である。此処では人手に頼るしかないのだ。水は貴重品で、出来るだけ貯めておく必要があり、大きなタンクが彼方此方に用意されている。

朝食の後Ngorongoroの噴火口に向かう。アフリカの言葉にはNMから始まる語が少なくない。日本人には発音不能と思えるが、やってみるとそれ程難しくも無い。運転手にNは発音しないのか聞くと、ちゃんと発音し、聞き取っているという。我々の耳は聞いていないのだ。聞いてはいるが聞こえていないのだ。我々にはゴロンゴロンと聞こえるが、最後のNは本当は発音されていないのだ。発音された音が聞こえず、発音されて居ない音が聞こえるが我々の耳なのだ。

途中までは昨日と同じ所を通り、更に登っていく。1時間ほどで、国立保護区の入口に着く。ガイドが手続きをした後、区内に入り、ダートの道を登っていく。ゲートの高度は約2000メートル、更に600メートル登り、クレーターの淵の最高点に達する。所々に水面が見え、白く見える所もある。噴火口は途轍も無く大きく見える。面積は260キロ平米というので、直径は15キロ以上ある事になる。

 
 
 

噴火口の底に下って行く。底の平地の標高はほぼゲートの高さで、2000メートル位であろう。底に下りると、沢山のSafari Carが集まっている。中学や高校の生徒を乗せた現地のバスも何台か停まっている。其処からはマサイの牛の群れや其れを見守るマサイ人の姿も見られる。保護区ではあるがマサイ族はこの区域ないでも放牧が認められていると言う。但し、彼らの家畜は毎日Craterを出入りしなければ成らず、其の日の内に区域外に移動させなければならないのだと言う。野生の動物も其の直ぐ傍にいる。マサイ族がこの噴火口に入り込んだのは1800年ごろという。其の前は別の部族が住んでいたが、マサイが駆逐したのであろう。ガイドによると、マサイはライオンとも共存出来るのだという。実際マサイの牛の傍には野生のWildebeest(大きさも姿も牛そっくりであるが、鹿の類)や、シマウマがおり、其の極傍にはライオンやハイエナなどが居る。

マサイ族はArushaなどの都市にもいるが、独特の格好をしているので直ぐ分かる。長身で赤や紫系の派手な布切れを身に纏って棒を必ず持っている。棒は1−1,5メートル位で、通常真っ直ぐである。自然の木なので。勿論若干の曲がりある。時には一方の先端が拳ほどに膨らんだ物もあり、この場合は50−60センチとやや短くい。何れにせよ、動物を追い払ったり、攻撃の武器として使える。これらの棒を肩に担いだり、腰の後ろに乗せ、両手を絡めたりして持ち歩く。立ち止まって休む時は、棒に足を絡ませたりしている。彼等にとっては体の一部に成っているのであろう。足にはバイクのタイヤで作ったサンダルをはいている。多くものは耳たぶに10円玉ぐらいの穴を明けている。何らかの方法で穴を大きくしたに違いない。ブラブラ垂れ下がっている。マサイの女は余り見かけない。回教徒の様に男女別の生活をしているのであろう。マサイ族は独自の言語を持ち、食生活も独特であり、タンザニアでも一風変わった存在と目されている。

火口内では数十台のSafari Carが埃を巻き上げながら走っているが、殆どがToyotaLand Cruiserである。僕らの乗っているのは、今はインドのタタモーターの参加に入っている英国のLand Roverである。どの車も不整地用の4WD車で外見も厳つい。屋根は開口部があり、立ち上がり、其処から動物を見ることも出来るように成っている。乗用車とは程遠く、ドアや席はジープの様に出来ている。

車の走る道が縦横に走っており、車は動物の群れを追って走り回る。珍しい動物や、大きな群れが間近に見られる処には多くの車が集まる。動物達は人間のこの様な動きを不思議に思って見ているに違いない。何といっても彼らは金も時間も使わず、世界中の人間の奇妙な行動を見られるのだから。

今は乾季で緑色の草は少なく、全体に枯れ草の平地が続き、見通しは良い。数の多いのは有蹄類である。一番多いと思われるのはWildebeest、次いでシマウマであろう。之はGnuとも呼ばれており、この方が日本では一般的だ。移動の際は隊列を組んで歩く。見ていた時も一列の長い列で移動の最中であった。黙々と同じ速度で歩いている長い行列は壮観である。移動が終り、食料のある所に来ると更に小さなグループで行動するのであろうか、シマウマと交じり合って草を食っているものも多く、寝そべって居るものも居る。直ぐに5頭のライオンの群れが遠くに見える。其の内の一頭がヌーの群れに近付き、一番外側の個体を仲間ら切り離す為、群れの中に忍び足で入っていく。草の背丈もそう高くない草原で、気付かれずに接近できる確立は低い。皆かりの瞬間を期待して待ったが、不成功に終わった。それでも此処は単位面積当たりのライオンの数は他を引き離して多いそうだ。食料確保が他に比べて容易な為だ。安定して食料をえられるので、平均寿命も長いという。ただ問題は、群れの移動が無く、他から入ってくるライオンが居ない事から、近親相姦による群れの衰弱が問題だそうだ。之などは他からライオンを移住させれば、解決出来そうに思うが、素人が考えるほど、簡単ではないのであろう。ライオンの群れは他にも2つ見た。其の一つには可也傍まで車が行っていたが、ライオン専門のRangerの車だそうだ。其れなりの、管理と対策は取って入るのであろう。

数は少ないが、Thomson’s GazzeleGrant’s Gazzele等も沢山見ることが出来た。水のある処には沢山の河馬が集まっていた。彼らは夜行性なので、昼間は水の中で鼻だけ出して寝ているのであろう。時折動く個体あるが、後は背中だけを出して群れ固まって水に浮いている。

ハイエナも彼方此方で見かけた。又所々ではダチョウの姿も目にした。普段は牡雌離れて単独で生活しているが、間もなく番の季節が来るという。オスは黒に白、雌は灰色をしている。野鳥も沢山居る。遥か彼方には湖が見え、そこには沢山のフラミンゴが居ると言うが、個体は確認できない。時折編隊を組んで飛んでいるのが、フラミンゴであろうと思う。

カルデラの中は乾燥して居り、若干の風でも埃が舞い上がる。旋風風が起こり、螺旋状に埃が時々舞い上がる。湖の水際は一面白く、そこからは白い旋風が何条も立ち昇っている。上から見た時は白い広がりは塩だと思っていたが、塩ではないらしい。塩は比重が大きいので微風では舞い上がらない筈だ。ガイドに聞くとソーダの結晶したものだという。何れにしても白い旋風を見たのは生まれて初めてだ。

Ngorongoroは丁度30年前にTanzaninaは初めて登録された世界遺産だ。ほぼ完全なカルデラとしては世界最大のものだ。底部に通年水があり、又塩もあるのでここに定着して居る動物も相当数に登る。絶滅に近い黒サイなどもいるという。この他にも今日見ることの出来なかった草食動物もおり、またチーター等の肉食動物も何種類かいるという。キリンは外輪を超える事が出来ないので居ない。象もCraterの中までは入って来ない。餌が合わないのであろう。然し、外輪を越えて、内側の斜面の木立の中で、何頭かの大きな象を見た。群れではないので、雄であろう。

充分に動物を観察し、戻り足に付く。外輪を登りだす手前の休憩所で小休止する。幹に瘤が付いた様に凸凹の大木があり、Golden Monkeyの群れがいる。我々の後にも車が来て停まる。窓は開け放したままある。直ぐに体の大きな猿が窓から車内に入り込み、物色を始め、食べ物の袋を持って木に登り悠々と中身を食べだす。仲間の猿も車内に入り込み、物色を始める。人が傍に行って追い払っても、怖気づかない。傍若無人とはこのことを指すのだ。車内には食べ物がある事を知っており、木の上で車を待っていれば食にありつける優雅な生き方を身に付けている。猿には他人のものを掠め取る事は罪悪だとの認識は全く無いのであろう。労せずして又身に傷を受けることなく、上等な食べ物が手に入ればこんな良い事は無いのだ。

外輪を登り、又下る。路傍の草木の葉っぱは車の埃で一面褐色である。大事な酸素同化作用など出来る状態ではなく、彼らに取っては非常に迷惑な話であろう。外輪山の頂上でもう一度Craterの中を眺める。広大な広がりで、湖は大小幾つかある。塩湖もあるという。どの湖も外周は白い。ソーダや塩の結晶となったものだ。

ゲートで手続きをし、帰路を急ぐ。Camp地の町で運転手にチップを払い、ベルギー嬢達と分かれる。そこからはタクシーでArushaに戻る事に成っている。タクシーが来るまで暫く時間がある。其の間に現地の人達が何人も物を売りに来る。物珍しいのであろうか、色々な人が話しかけて来る。失礼の無いように応答に勤める。暫くして、車が来る。之がタクシーだと言うので、驚く。オンボロ車で、おまけに中は既に満員だ。運転手が右の後部ドアを開けて、既に乗っていた男女に少し席を空けろと指示する。空いた席に腰を降ろすが、なんとも窮屈だ。然し、陽も傾きだしており、選択の余地はない。

旅行社が手配したタクシーであるが、非常に変わったものであった。車種は何か確認しなかったが、アメリカ製のオンボロ乗用車で彼方此方が壊れており、ドアは内側からは開かない。Tanzaniaでもタクシーの定義はあろうが、之は日本で言う乗り合い白タクであろう。この車の常識的な定員は精々8人であろうが、子供を含め10人の寿司詰めだ。運転手の並びには車椅子の障害者と30ほどの女性、僕の並びには大男と其の連れ、2歳と5歳位の子供、三列目は3人の観光客風のドイツ人と荷物、車内は隙間がない。荷物は車の屋根にも山盛りに積まれている。

車が走り出すと、座席の間に立っていた大きい方の子供が、極自然に膝の上に乗ってくる。之が此方のタクシーの乗り方なのであろう。横の男女は夫婦の様であるが、何も言わない。車は大きな音を出して走り続ける。道が良いのが幸いだ。薄暗く成り出している。隣の大男が話しかけて来る。自分は牧師で、他の任地に家族と移動中だと言う。黒の立派な装いしており、其れらしく見える。屋根のダンボールの大きな荷物は彼らのものであろう。半端な量ではないが、家族の全財産なのであろう。家族の紹介をするが、膝の男の子に関しては何も触れない。この子も彼らの子供だと思って居たが、そうでは無いようだ。

其の内、前の女が振り向き、子供にバナナを与えたので、彼女の息子であることが分かった。日本であれば、僕に対して一言あってしかるべきであるが、彼女は一言も言わなかった。子供な社会が育てるべし、と言うのも此方の文化なのかもしれない。それとも単に言語の不自由さ故なのか?1時間ほど走ったところで車が停まり、彼女達は降りたが、その際も何も言わず、何の身振りも無かった。矢張り子育ては社会の責任なのであろう。

走ろうとするとエンジンが掛からない。男は全員降り、車を押さなければならない羽目になる。車は片側の車輪は舗装道路外に停まっていたが、幸いなことに若干の下りであったので、車が動き出しエンジンも掛かった。

暗闇の中車は走るが、速度は遅い。予定の倍以上の時間の後、町の灯が見えてくるが、真っ直ぐ町に入らずに右に曲がる。酷いダートの道を暫く走り、停まる。辺りに同じような車が何台も停まっている。此処が終点だと運転手がいう。全く見知らぬ所で、こんな所で降ろされては困ると思っていると、代理店の男がやって来た。ここからは自分が送ると言うので、一安心。

Rainerの家に戻ると、今日はお前の最後の晩なので、Markなども呼んで家で食事だという。Markと初めてあう現地人の男女の連れが8時半ごろやってくる。皆仕事仲間だという。Rainerの奥さんのTokiが何種類かの料理を作っていた。マダガスカルの料理だという。葡萄酒を呑み最後の晩餐を楽しむ。

16日、Kenyaに向かう日だ。午前中は荷造りをしたり、テレビを見たり、話をしながら過す。此処では停電だけでなく、断水の頻繁に起こるそうだ。目下は断水中で、タンクに貯めてある水で全てをまかなっており、タンクからシャワー室の更に小さい容器に水を移すのを手伝う。タンクの水が底を付きそうになった事は一度や二度ではないそうだ。

Rainerも今年で62、最近では殆ど全く走っていない。来年はComradesを走りたいので、お前も是非来いという。膝の故障を抱え、完走の目途が立たないので、行く積もりは無いと返事する。Green No.のお前と一緒に走りたいので是非来いと再三誘うので、行く事を約束する。

彼の将来展望も聞く。マダガスカルは自然が綺麗で、資源も多いので、政治さえ良ければ、人々は今より遥かに良い生活が出来るとも云う。政変を起した今の大統領一族が富の大部分を握って、現在は一般庶民の生活は悲惨だそうだ。自分は31まで働いたドイツの年金で充分良い暮らしが出来るので、仕事を止めたらマダガスカルに住みたいともいう。 

昨夜の残り物で昼食を済ませ、Rainerが空港まで送って呉れる。残っていた現地通貨を渡し、来年のComradesでの再会を約して分かれる。

今回僕が廻った処は地球最大の地溝帯、Great Rift Valleyの東側であり、古くから火山や其の他の地殻変動が激しい場所であった。SyriaからMozambiqueまで、全長6000キロの地溝帯で、今後数百万年後には此処を境にAfrica大陸は分割されると予想されている。TanzaniaKenyaの地溝帯の傍で、300万年前の人類の祖先の骨が見つかっている事も興味深い。Kilimanjaroの雪や氷河も、Africa大陸の形状そのものも永遠の物ではなく、ある限られた時にしか見ることが出来ない物なのである。

Nairobi/Kenyaでの大失敗

Nairobi空港には午後の5時前に着く。入管で手続きをし、追加の15ドルを払う。係官は僕の顔を覚えており、入国の目的を訊く。特にこれと言う理由は無いが、Kilimanjaroの通過港でもあるので寄ったのだと言うと、最近日本から来るのは主として外交官とBusiness Manだけでお前は変わり者だと笑う。両替をして外に出る。日本の100円が75Kenya Shilingと思えばいい。

他人から聞いた話では2−30年前のNairobiには沢山の外国人が訪れたという。その後の正常不安や、経済の停滞で、訪問の魅力が薄らいだのであろう。2005年以来の政情不安定も観光客を遠のける原因のようだ。

Nairobiの宿はYouth Hostelを予約しており、空港からの便も聞いていた。タクシーは25ドル、バスであれば乗り換えはあるが1ドルである。貧乏人の僕は当然バスに乗る他無い。25ドルは2.5泊の宿代に相当するのだ。

バスに乗って驚いた。30人ほどの小型バスはほぼ満員で、空港から凸凹の道を走り、大きく揺れる。片側一車線の道を走り、停車場では道路から側溝よりに車が傾くほど右によって止まる。かってナイロビを訪れた人からはこの様な話は聞いていなく、又僕が訪れたどの国でも、首都の空港から市内に向かう道は立派過ぎるほどのものであった。国家の玄関口であり、国の面子に掛けても遜色があってはいけないとの意気込みが感じられることが常であった。最初のKenyaの印象ではこの国には恥や外聞、見栄は無いのだと思ったが、Kenyaの名誉の為此処で言っておこう。実は立派な道は他ににあったのだ。偶々僕が乗ったのは一般のバスで、空港への直行便ではなく、地元の人々の生活の足であったのだ。あちらこちらで大きく車体を傾げて停まり、5−6人が降り、ほぼ同数が乗り込みする。市中心部に付くのに1時間以上掛かった。人口300万を超えるNairobiの中心部は車の渋滞が激しく、人が多い。バスの車掌が乗り換えのバスの乗り場まで案内して呉れる。之は彼の好意であり、業務外のサーヴィスなので100シリングを渡す。次に乗ったバスは殆ど動かない。動いてものろのろで、また直ぐに停まる。目的の停車場に付くまでまた1時間以上かかり、薄暗くなる頃Nairobi Youth Hostelに辿り着く。

割り当てられた部屋は20人以上の大部屋である。Bedは空いている所が使える。一番奥の下の段を選ぶ。半分以上は使用中だ。食堂で夕食を済ませ、眠りに付く。真冬であるが蚊が沢山飛んで居り、眠れない。蚊取り線香や、噴霧剤は要求しても無いであろう。多くの人が此処で寝ており、問題としていないからだ。蒸し暑いが頭からJacketを被り、何とか寝付く。

翌日バスに乗り中心街に出る。料金は30円ほどだ。昨日バスを乗り換えた所でおりる。

先ず町の起源となったNairobi駅に行ってみる。丁度110年前の英国による鉄道敷設がこの町の始まりであり、今では人口300万を越える大都市と成っている。貨物の輸送が主であるが、この駅を中心に客車も北西のKismuと南東港町Mombassaへ走っている。駅の中に入って見たが、ガランとして何も無かった。列車は日に何本も走って居ないのであろう。駅前広場の両側もバスが沢山並んでおり、大変な渋滞と成っている。広場は50メートルほどの幅の公園となっている。駅は質素な外見で、首都の主要駅の雰囲気はない。駅よりも其の前にある石造りのKenya 鉄道本社の方が建物としては立派だ。

 

 初めての町は何処を歩いても観光になる。市の中心部にある100メートルを超える幾つもの高層ビル、市庁舎、国会議事堂、彼方此方ある教会、ケニア大学などを廻る。其の先のケニア国立博物館に行ったが、入場料は外国人は8倍なので、中には入らなかった。沢山の小学生が見学に出入りしていた。劇場やコンサートホールなどにも行って見たが、之はと思うような建築物には出会わなかった。

昼頃町の中心部で、レストランを探していると、寄って来て話しかけて来る男が居る。何処かで僕の挙動を観察していたに違いない。この様な手合いには用心した方が良い。何処に行きたいのだと訊いて来る。レストランを探しているのだと言うと、直ぐ傍に自分の知っている良い店があるという。歩きながら自分はケニア大学の医学生で、聞いてもらいたい話があると切り出してくる。愈々怪しい。直ぐ近くのレストランに入り、食事を注文する。彼はジュースを一杯飲んでも良いかと云うので、頼んでやる。

今日は大学の医学生の大半が、町に出て車椅子の購入資金を募っているので、貴方も一口参加してくれないか? 無心の話だ。学生証の提示も無いので、この時点でペテン師だと断定する。此処できっぱりと断っても良かったのであるが、其の先どう話が展開するかに興味があったので、一口乗ろうと合意する。彼氏ポケットから印刷した紙を取り出して差し出してきた。PCで作った用紙で、人の名前と募金金額の入った紙で、数名の名前の横に1000とか3000の数字が入っている。

自分の名前の横に50と書いて渡すと、桁が違うのではないかという。嫌、間違っては居ない。気に入らなければ、募金は取り止めだというと、幾らでも有り難いと言う。チャンとした趣意書も無く、募金団体の存在も確認できない状態で寄付をするのは馬鹿だ。自分は大馬鹿なので、お前に金を渡すのだといって提示の金を差し出した。ジュース代と合わせて100円の余興であった。

その後も町をブラブラし、Internetを1時間ほどしてHostelに戻った。Internetの料金は1時間100円ほどで、結構高速の所もあるが、スピードが遅かったり、日本語の読めない所もあるので、この点を確かめることを条件に入るのが無難だ。

夕食はHostelでとる。Hostelの食事は朝食200円、昼と夜は3−400円程であるが、余り選択の余地はない。

7月18日5時に目が覚める。最初に気が付いた事は、何がきっかけでそう気付いたは分からないが、もう飛行機は飛んでしまったっているということであった。よく考えて見ると2時半発と言うのは午前の2時半の事であり、自分が勝手に思い込んでいた午後2時半では無いのだ。往路乗ってきたトルコ航空の便がNairobiの空港に着いたのは午前1時であった。この飛行機が折り返す事にモット早く気付くべきであった。大変なドジをした事になる。今まで多くの便が遅れたり、欠航になったりしたが、便に遅れたのは之が初めてだ。之で帰りの切符は買い直さなければならない羽目となった。便が遅れるのも困るが、便に遅れるのはモット大きな経済的な損害を被るのである。

加齢による脳の低下は、問題と成っている記憶や、物忘れだけでは無いようだ。当然関連する事柄を統合的に認識する力も劣って来て、ある事柄を独立した断片としてしか捉えない傾向が強くなるようだ。ABは密接な関連あっても、其の事に考えが及ばず、AA,BBだけの事象としてのみ認識する状態だ。頭の中ではABとの間で回線が繋がって居ない状態だ。頭の回転が鈍いとはこの様な現象も指すのであろう。また最近使われている統合失調症という言葉はこの様な状態も含むのであろうか?

常識的に考えれば、到着便と出発便との間には密接な関係がある。一般的には到着した同じ機体が折り返し、出発便となるからだ。特に国際便の場合、この関係が殆どの場合成り立っていると考えるのが正常であろう。

また人の脳は勝手に自分の都合の良い事を思い込んでしまう傾向があるのであろう。午前と午後の間違えに気が付くまでは、朝食をユックリ摂って、10時ごろHostelを出れば、2時半の便は悠々間に合うと計算し、昨日はバスの乗り換え場所の確認までしているのだ。モタモタして飛行機に遅れたら大変だ。此方のバスは行く先の表示はない。車掌が番号の書いた表示板をバスの左窓から出し、乗客に大声を出して乗らせる方式を取っている。TanzaniaKenyaも英国の統治下にあった関係で、車は左側を走り、乗降は左側からである。時刻表も無いが、割と頻繁に来る。周到な帰国の準備はしたと持っていたが、肝心な所で思い違いをしていた。恐ろしいことだ。

何れにせよ、飛んでいってしまったものには乗り込むことは出来ない。善後策を講じるしかない。航空会社の事務所が開くまではまだ時間があり、それに今日は土曜日なので開いているかどうかも定かでは無い。今焦ってもどうなる事でもないのだ。もう一眠りする。

10時頃町の中心部のHilton Hotelに行き土曜日だが航空会社の事務所が開いているかを確かめた後、Nairobi路線を持つ、KLM,Turkish Air,Emirates等の事務所の所在地を確認する。順々に廻って、便と価格を確認する。週末でもあり、どの会社も今日明日飛ぶ便は無い。早く帰りたいが、20日と21日の一日違いであれば安い方を選ぶ。各社の価格には2−3倍の開きがあり、結局Turshi Airを選択し、7万円ほど余分に払う事に成った。近くの銀行で現地通貨を引き出し、無事帰路の目途が立った。

切符は手に入ったが、元々何という目的も無く立ち寄ったNairobiなので、余分に丸3日近くを過すのは中々容易ではない。100年余りの歴史しか無い市内には之とて観光地も無いのだ。

翌日はHostelの周りを歩いて見る。昨日町の中心部へバスで往復しているので、Hostelの位置関係も掴めている。Hostelは中心街から3−4キロ西によった所で、病院やケニヤ大学の医学部、歯学部、国立図書館、金融機関などがある新興地域である。緑が多く、落ち着ける環境である。Hostelを出て右に曲がり、更に50メートルほど先で右に曲がると10軒ほどの屋台の店がある。店の反対側はケニア病院である。

どの店も果物やちょっとした食べ物を売っている。何時も現地人が果物フルーツを食べているので行ってみる。弁当箱ほどの透明プラスチック容器に、マンゴ、バターフルーツ、スイカ、バナナなどを盛り込んだ物が約150円だ。果物は熟してもので味は良い。

20日午前中は歩いて市の中心部まで往復する。夕方人々が帰宅の途に着く頃、ホステルに向かって歩いていると、多くの人が歩いている。こちらの人は少しぐらいの距離はバスに乗らずに通勤をしているのであろう。バスも走っていて、ほぼ満員の状態だ。日本のバスより小さいが、日本製のものが殆どだ。古く、整備が悪いので、坂を上る際は真っ黒な煙を出す。登りの車道側を避けてあるく。

ホステルに戻りタクシーの手配をする。深夜の便に乗る為にはタクシー以外方法は無い。ホテルを出て屋台の店の方に曲がらず、直進すると100メートル程先にタクシーの停留所があり、常時2−3台のタクシーが停まっている。外に出ていた中年の運転士と交渉をする。今夜11時にHostelから空港まで行けるか、また幾らで行けるかの話をする。3000シリングなら行くと言う。手持ち金は2700しかなく、全部遣るから如何だというとOKだと言う。チップも込みだと念をおして合意する。

其の帰り道、其の先のT字路で車に撥ねられ転倒する。僕がT字路を横断し、ほぼ渡り切る頃、ホテルの方から来た車が右折して来てその右の全面で大腿部を撥ねたのだ。僕は1メートルほど撥ねられ、右側の車の方向に倒れた。車はトヨタのVanで可也大きな車であった。此処では車は停まって呉れないと聞いていたが、本当に突っ込んで来たのだ。曲がろうとして、スピードは落ちており、もう少し落とすか、ハンドルを外側に切れば事故は避けられた筈だ。幸い倒れる寸前に車は停まり、轢かれる事は無かった。それにしても命の値打ちは余り無い国だなと思った。

車は比較的新しく、中には男女2人が乗っており、車の外側にはUN、国連の関連機関の名前が書かれていた。運転をしていた男は謝りもせずに、病院に行こうと言うので、車に乗る。20メートル程先で左に折れ、ケニヤ病院で受付を済ませ、金を取りに戻ると言うので、名前と電話番号、車の番号を書かせる。

病院は可也大きく信頼出来そうだ。右側に倒れたので右ひじに擦り傷はあるが、車の鼻先が当たった右大腿は打撲傷で、骨折はしていないと自分では思った。痛みも大したことは無い。然し、病院に来たので一応医師の診断は受けようと思った。長い事待たされ、レントゲン写真を撮る。写真を手に医師が診断結果を話して呉れた。若い医者であった。骨折は無いが、股関節症があるねといった。股関節症は何年も前から分かっていた。痛み止めと炎症防止為の軟膏と飲み薬を出してくれる。暫く待つと先ほどの男が遣って来て、支払いを済ませて、一件落着である。誤りの言葉は一言も無かった。事故があっても予定の便で帰れれば、僕にも不満はない。病院に居た時間は3時間ほどであった。其の間ケニアの医療事情の一端を見ることは出来た。その後打撲傷の痛みは程なく消えたが、衝撃の影響を受けた股関節の痛みは一月ほど続いた。

約束の時間少し前にタクシーが迎えに来た。順調に走り、一時間足らずで空港に着いた。通った道も往路とは異なり、立派な道であった。運転手には約束の金額に残っていた現地通貨を全部渡す。

Istambulでの乗り換え時間は数時間あったが、LoungeShowerInternetを使い、また飲食も出来たので快適であった。色々なことがあったが、無事帰国できたので可としたい。


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皆さんの家「豊心庵」
平成21年8月4日掲載

09・06・26−7 Lapland 100 K 


 Lapland 100 K も今年で11回目を迎える。10回を以って大会中止となる情報もあったが、続けられる見通しが立ったようだ。僕は連続して7回此処に来ているが、2008年はサイトの不手際で会場に付いたのがレースの翌日であったこともあり、6回の完走を目指す積りである。Sweden南部でそれ以前に2回100キロは走っているので、死ぬまでに切りの良い10回とする積りだ。マラソンも同じぐらいの回数を走っているので、此方の方も狙って見たいものだ。

昨年来加齢と半月版損傷により大分速度が落ちているので、正規のスタートより4時間早い18時に30人ほどの人達と走り出す。中には顔見知りの人も居る。70−80キロ離れたSoreseleからは今年もLeopoldが応援に来てくれ、何枚かの写真を撮って、帰っていった。

天気は何時に無く良く、雨の心配もなさそうだ。唯一の気掛かりは蚊の大群である。大きな蚊が沢山飛んでおり、暗くなると吸血活動も活発になる。蚊の他には蚋類の小さなものが大量に発生していて、此方の方が始末が悪い。頭髪の中や、衣類の中に入り込み、執拗に指す。気温の高い内はアブも煩い。虫除けにはスプレーや塗り薬が有効であるが、僕はスプレータイプを好む。衣類の上からも吹き付ける事が出来、効き目がある様な気がするからだ。軟膏状ものは色の付いているものもあるので気をつけたほうが良い。或るエードで貰ったものを頭に塗りつけたが、後で真っ黒のものであった事が分かった。臭いは強烈で効き目はあるようであるが、元々白い帽子は元色を留めない程になってしまった。

15kほどまでは前を走る人影を見ることが出来たが、その後は全くの弧走なる。7−8キロごとにあるエードに立ち寄り、水分を補給し、固形物も食べる。食べ物はバナナやオレンジを除き、パサついた物が多く、飲み込むのに時間が掛かる。エードには地元の年輩の人が多く、焚き火をしたりして待っている。何回も着て居るので、顔を覚えている人も多く、名前を呼んで応援して呉れる。

10キロの手前からは砂利道となっているが、例年になくゴロゴロしている砂利が気になる。ほぼ10キロごとに靴を脱ぎ、砂利を取り出してからまた走る。砂利道でも良く整備された道であれば、舗装道路並に平坦で脚への衝撃が少なく気持ちよく走れる。今回もその様な所があったが、其の区間は極僅かであった。

人の背丈ほどの疎らな針葉樹、水のある所には白い綿毛や小さな柳が生えている。この頃のLaplandの典型的は景色の中を自然と溶け会った気持ちで前進を続ける。陽は12時ごろになだらかな山陰に姿を消すが、2時間程たつと又出てくる。寒暖の差が少ないので、例年見られる水面からの幻想的な霧の発生は今年は見られない。

再び舗装道路に入り間もなく、近づく背後から軽快な足音が聞こえて来て、抜き去って行く。正規の2200にスタートした先頭ランナーだ。60キロ地点に指し掛かっている。更に其の前方には自分と同時に走り出したランナーの小さな影が見えてくる。確実に前進し続ければ,何時かは捕らえられる筈である。

陽を左前方より浴びて進む。気温の上がり方は緩やかで、暑さは気にならない。やや長い緩やかな坂を登って行くと、道路の真ん中を立派な角を生やした大きなトナカイがユックリと同じような方向に走っている。実に悠然としており、何かに怖気付いている感じは全く無い。時として、道路を離れ、平衡して続く森林帯と道路の間の開放的な空間を同じ方向に進んでは又道路に戻る事を繰り返す。1キロほど進んだ辺りで、トナカイは森林帯の中に姿を消していった。

後から走り出したランナーが時々抜いていく。先ほど来前を走っていたランナーの姿も大きくなり、脚の動きも分かるように成って来た。どうやら歩き出して居る様だ。更に1キロほど進んだ所で、漸く追い付く。背のスラリと高い、丸坊主の男で、毎年この大会に出ている。Kennyだ。 酷く吃る男だが、話しは大好きだ。何時も大声で何かをしゃべっている。

どうかしたのかと訊くと、帽子を指差し、ここ以外は悪い所は無いと、毎年同じ返事をしてくる。帽子の下には毛は殆ど無い。確かにウルトラレースは頭が大きな要素となる。気が切れれば、走り続けることは出来なくなるのだ。毎年同じようなレース運びで完走している。僕より90分ほど遅れて今年も完走を果たした。

暫く行くと反対側から車に乗って、Seanが遣ってくる。抜かれた覚えが無いので、如何したのだと訊くと45キロで、同僚のKennethが棄権したので、一緒に止めたのだと行って、逆方向に立ち去っていった。

残り10キロとなった所で、もう1人先ランナーを捕らえる。其処から先はエードには寄らずに走り続け、そのまま朝9時前にFinishする。15時間近い時間を要した。幸いにも膝の異常は出なかった。

シャワーを浴び、マッサージをして貰う。会場の小学校の廊下に持っていったマットを敷き、昼まで寝入る。 Seanのテントで泊まる事にして居たが、日中テント内は暑くて堪らない。寝ている間に激しい夕立があり、テントに掛けておいたタオルやシャツ、外に乾かす目的で出して置いた靴もタップリと濡れてしまった。夕方人の出入りの止むころ、サウナ室に濡れたもの入れ、明朝までに乾く事を期する。

表彰式の後夕食済むと、SeanとKenneth呑みに行かないかと言う。乗り気がしないので、断ると、彼らは20キロ先のMalaaの町に車で出かけて行った。飲酒運転はSwedenは厳しく取り締まられているが、殆ど車の通らないこの辺の道では当局の目が届か無いのも事実のようだ。僕は引き続き廊下に寝袋を持ち込んで寝る事にする。結構この様な泊まり方をしている連中は多い。宿泊費は只が何よりだ。

 

レース後

28日の朝、Adakを離れ、途中彼方此方で観光をしながらSkellefteaaの町にでる。SeanとKennethはStockholmから空路この町に来、レンターカーを借り、テントに泊まってレースに参加している。途中4年ほど前の冬に訪れ、一緒にクロカンスキーをしたChrisitian家に寄る事を思いつく。AdakからMalaaに出る途中にある事は漠然と覚えている。Rentjan(トナカイ湖)という綺麗な湖があり、その道路の右側に筈だ。湖で、散歩から帰ってきた老夫婦に聞くと、彼を一番良く知っている人が直ぐ後ろから来るので彼女に訊けてという。見ると見覚えのある老女だ。Christianの母親なので、先ほどの答えは実に当を得ている事に成る。彼女にも其の時あっていて、向こうでも思い出したようである。息子は私の家の芝を刈っているので、付いて来る様にいう。

Christianの家でジュースを飲み、クッキーを食べ、暫し雑談をした後、Malaaに向かう。Malaaではスキー場の丘に登る。急な砂利道を登り、頂上に行くと、360度Swedenの典型的な風景が広がる。緑の森と、空の色を写す青い2−3の湖、其れらを結ぶ川である。

今夜は空港の傍にテントを張り、明朝一番機でStockholmに皆一緒に飛ぶ手筈が整っている。町のスーパーで夕食の買出しを済ませ、野営地を探す。中々適当な所が見当らない。有料の所は幾つかあったが、長期の契約が必要で割高になる事から、只の所を探し出す。空港の柵の見える松林の中に落ち着く。此処なら明日朝も楽だ。テントは2張り有るが、Kennethは車の中で寝ると言うので、1張りだけ張って、Seanと一緒に寝る事にする。大きなテントなので、ユトリガある。

夕食はソーセージのバーベキューであり、其の為それ用の着火が容易な豆炭か炭状の物が延焼防止用の容器に入っており、網も付いている。使い捨てのバーベキュー火器である。

此れにパン、野菜サラダ、ポテトサラダ、デザートにはイチゴと充分であった。ここでも蚊の大群に悩まされ、火に草や生木を入れ、出来る限り煙を多く出し、蚊の退散を計った。

テントの中にも当然蚊は入っている。見つけては潰し、後は全身を厚手の布で覆って寝る他無い。蒸し暑くないのが幸いだ。

翌朝は順調にStockholmに飛び、他の2人派は夫々の家に向かう。僕は午後の便なので、Loungeから電話を架け、Internetで交信しThai Airに乗り込む。帰りは順調で、予定通り、6月末日帰国。

 

レース前

今回のLaplandにレースの序に遣りたい事が2つあった。一つは長年走りたいと思っていた、Spitzbergen Marathonであった。何回か今年になってもInternetで申し込んだが、Siteの不備と当局対応の悪さのため、参加手続きは未完了で、この件は諦めざるを得なかった。

もう一つは長年行って見たいと思っていたヨーロッパ大陸の最北端Nordkappを訪れる事であった。ここを訪れるのには今年が最上の年であると昨年來思っていた。その理由は仲間の何人かがTranseaurope FootraceでItaly南部を振りだしにかの地を目指すことが分かって居たからである。これは一種の追っ掛け旅であろうか?

3月中ごろ、主催者と連絡を取り、最後の4日間スタッフとして参加することに決めた。南から走って来るレースの一団と何処で落ち合うかの検討をし、アルタ辺りで出迎える事に決め足の手配に入る。バスや列車を使った方法も2−3あるが、此れでは時間が掛かりすぎる。Tomasに相談すると空路を色々当たってくれ、最終的にStockholm−Oslo−Kirke―nes−Honningvaag−Tromso−Oslo−Stockholmが良かろうということになる。この空路だと、最北の地の沿岸の其の他の空港にも幾つかにも立ち寄る事になる。切符の手配も彼に任せる。後はHonningvaagから南下するバスを探し、レースの一行を待ち受ければよい事になる。

僕は貧困層に属するので高い切符は買えない。多少時間がかかり、乗り継ぎが悪くとも安い切符を優先させる。Thai Airの切符を手に入れ、6月15日出国予定で、機内に乗り込むが便は飛ばない。一時間ほど待たされた後、2つのエンジンの1つが起動しないので、便は取り止めの報が流れる。乗り込んでからの、便の取り止めは僕に取っては2度目である。前回はSan   Franciscoからに帰国便で丸1日遅れて帰国している。

今回は同じ便の取り消しであっても事情が大いに異なる。旅の初めに異常が起これば、其の先の旅は全く成立しない可能性があるのだ。降機後カウンターでこの先の旅が全部繋がらなくなる旨説明し、何とか最善の策を取る様要求する。幸い後に出るJALの便の席を優先的に割り当て貰い、取り敢えずBangkokに向かうことが出来だ。

僕は自ら選んで日本の飛行機に乗ることは先ず無い。理由は2つある。割高で、マイルの制度も良くない。目的地からの乗り継ぎ便が必要な場合、更に割高になる。今回のような大体便やパック旅行で選択の余地の場合以外は乗らない。唯一良い点は機内食が日本人向きに出来ており、国際的にも遜色はないてんであろう。機内食は航空会社が其の路線の客の最大公約数的な好みに合わせて作るので、此れは当然と言える。又日本酒が飲めるのもいい。

只今回のJALの夕食は実にお粗末であった。夕食の主菜が何と5−6ミリの輪切りのフランクフルトソーセージ風のものが一切れであった。採算性が悪くなったので、この辺りで原価削減を図っているのかもしれない。酒を飲みながら、彼是考えていると、放送がある。機はヴェトナムのダナン沖を飛んで居る。雷雲の発生で気流が悪くなっているので、シートベルト着用の案内だ。画面で飛行情報を見ていると、高度が上がって行き、40000ft.、12000メートルを超える。僕が乗った飛行機では最高の高さだ。.BoeingAirbusの新鋭機はこの高さまでは上昇できるのである。

更に情報から便は遅れ、Bang―kokからの便に乗り遅れる可能性が高いので乗務員に善後策を依頼する。優先的に最初に降ろし、降りた先でではThai Airの職員が待機する手配を取って呉れた。機を降りると直ぐに電動車で広い場内を長い事走りStockholm行きのゲートの傍まで連れて行って呉れた。どうやら間に合う様だ。降り際に女の職員が誕生日おめでとうと言って呉れた。航空会社は誕生日などの情報も持っているのだ。日は変わって新たな日と成っている。僕は今日からはもう68ではないのだ。

再び機上の人となり、ワインをタップリ呑んで寝てしまう。

翌朝Stockholmに着いた時、気分は良好であった。但し其れは束の間の事であった。問題は未だ全てが解決していないのだ。JALへの乗り換え時間が短く、荷物の積み替えが出来ていなかったのだ。幸いなことに今日1日僕はStockholmに泊まる事になって居り、明日の朝Osloに飛ぶ前に荷物が届けば、被害は極限定的だ。今日必要な物若干は買う必要があろうが、此れは何となる。問題はそれ以上遅れる場合は、Nordokappの追っ掛け旅は成立しなくなる。預けた荷物の中には、マット、寝袋など、全て旅の継続に不可欠の物が入っているからだ。

荷物不着届けを出し、到着の時間を確かめる。物はまだ東京にあるが、夜には此処に届き、泊まっているYouth Hostelには12時前に届けられると確認。但し日が再び開ける頃届けられても使える物はない。夜行で飛んで居り、夜は早めに寝たいと思う。必要な物は買うので、荷物は明朝まで空港で管理するよう依頼し、市内に向かう。

Youth HostelのCheckinは15時である。荷物を預け、Djur 

Gaarden島を一回りし、市庁舎の食堂で昼食を取り、明朝までに必要な物を買い、部屋に落ち着く。早く寝るに越した事はない。明朝は早いのだ。

6月17日朝6時前に空港に着く。荷物との再会が出来、ホットする。荷物を再び、今日の最終目的地のHonningvaagまで預ける。便はOsloで乗り換え、    Kirkenes迄はジェット機である。Kirkenesで乗り換え時間が5時間あるので、空港バスで町にでる。片道10キロ余りであるが、バス代は高い。Swedenと比べると約3倍である。

Kirkeは北欧語ではChurchを意味する。Nes又はNaesは地峡を意味する。大地の括れた部分や突端をも意味する。北限の偏狭の地に先ず教会を立て、其処に人々が集まり生活するようになった事は、想像に難くない。200−300年前人々はより神に頼らざるを得なかった。同じようにヨーロッパの殖民地主義も神頼りに、其の勢力範囲を広げて行ったのである。

ロシアの国境まで7キロのこの町の丘の上には大きな教会が立っている。此処からは町の中心街や港が一望できる。後で港にも行ってみるが、ロシア国旗や船名を付けた船が大半である。錆びだらけの船が多く、其の多くは蟹漁をしているようだ。

 

国境の町であるので、町の通りにはロシア語表記もある。市役所や図書館にも入ってみる。外国図書をみると、沢山のロシア語の図書の他、中国語、スワヒリ語、ペルシャ語、ヒンズー語、タイ語などの本が並んでいた。日本語の本は一冊も見当たらない。此処から見れば、日本は遥か遠い国なのである。タイ語の本が置かれている理由は多分この辺りの人々には20世紀の初頭Nordkappを訪れたShamの国王の影響が残っているのかも知れない。

Kirkenesからは20人乗りほどのプロペラ機で、Honningsvaagに向かう。飛行機は15−20分飛ぶと次の飛行場に降り、同じ位の時間の後また飛び立つ。其の都度何人かが降り、また乗ってくる。プロペラ機なので、速度は遅く、高度も低い。ヨーロッパ最北の地の、入り組んだ大地と海の景観を眺めながら飛行を続ける。途中Vadso,Baatsfjord,Mehamnの3箇所に立ち寄った後、ほぼ定刻の19時前に目的地に着いた。同じ飛行機でこんなに多くの飛行場に立ち寄ったのは初めての経験である。

Nordkappの空の玄関口Honningvaagに降りた客は2−3人であった。

ここでもまた荷物の問題が起こる。着いてないのである。職員も10人程度の小さな飛行場で、直ぐに荷物の件を話す。対応に出た男は今日中に宿に届けると易とも簡単に言う。便も日に1便なので、どうやって物が届くのかが分からない。物が何処に現在あるのかの確認とその輸送手段を明確にするよう要求する。男は物を探し、タクシーを使ってでも届けるという。Nordkapp Guesthouseの連絡先を残し、宿に向かう。

宿まではタクシー以外の輸送手段はない。道順も聞いてあり、2キロ弱だと言うので歩く。大きな荷物が無いのは楽でいいが、今日中に此れが届かないと生活に支障がでる。明朝早くアルタにバスで行くことにしているからだ。兎に角、人と携行品がバラバラになる事は不都合が多すぎる。僕は旅に出る際、必要最小限度の物しか持って行かない。余分なものは何も無い。身の回りに最小必要な物が無ければ、人は生きて行けないか弱い存在なのだ。

暫く歩いた後、バス停に居た2人の中学低学年ぐらいの女の子に道を聞いて見る。知っているので傍まで一緒に案内するという。バスを待って居るのでは無いのかというと、バス停のベンチに座って話をしていただけと言った。傍まで来るとアソコガ宿だと言って引き返していった。

宿はInternetで予約を入れて置いた所で、大きくないが小奇麗な所であった。個人経営で、Norway人とロシア人の夫婦が遣っていた。空港での遣り取りを手短に話し、町にでる。9時近くなっても夕方の感覚はない。港に行ってみる。3隻の大小の観光船が入っている。小さい船は1万トンほどであろうが、大きな船は 14層あり、10万トン近くあるかもしれない。船の周りには多くの観光バスが横付けになっている。通常の観光客はここからNordkappに向かう。帰りに魚の乾燥した臭いがあるので、其方に行ってみる。大きな切妻屋状のものが2つ、陸屋根状のものが一つ立っており、タラが沢山乾されている。大きさは各々20x50メートルほどあるので、相当な量となろう。網を掛けて、カモメの害を防いでいるが、雨風に晒したまま、人手を掛けずに乾燥させているようだ。

Elinaは普通9時には自宅に帰るが、荷物が届くまで居てくれるという。空港にも連絡を取ってくれた。小さな空港で夜は無人になるので、連絡や確認は早く取る必要があるのだという。Inter―netも自由に使わせて呉れた。其の間に彼女は町の暮らしや不満を話してくれた。

何年か前、RicaHotelNordkapp一帯を買い受け、Norway人でも只ではそこに行けないようにしてしまった事(行くだけで4000円の入場料が必要)、其の裏には政治家の動きがあった噂、儲けを出しても一銭も地元には還元しない事であった。道路は使い放題、大型にバスが道路を傷めても、補修費は税金を使うので、地元には不満が多いことなどであった。地元の不満はよく理解できよう。Nordkappは稚内や佐多岬のような所で、本来は万人に立ち入りが出来るのが当たり前であろう。金になる観光資源、儲けの対象と狙いを付けた資本が、政治と結託して利益の永久独占化を図ったことは想像に難くない。その遣り方は極めて巧妙で、政治抜きには考えられられない。一般的にNordkappに行く場合バスを利用する。その際30キロ手前のHonningsvaagからの場合、往路のバス運賃はNordkappの入場量コミの350Norway Kroneとなり、帰りは100クロネである。本来、運賃と特別施設への入場料は別々の物であり、政治の介入無しには一括同時徴収は考え難い。

結局物が届いたのは日が変わってからであった。此れで一安心、暫しの安眠を貪る。

18日朝6時半、管理人の居ない宿をでる。鍵は所定場所に置き、感謝の走り書きを残す。

バスをElinaに教えられた通り、宿を出た直ぐ傍の道路で待つ。停留所でなくても手を上げれば止まるのだという。南にいく筈であるが、乗ったバスは北に向かって暫く走る。この辺りの海岸線は複雑で、大きく曲がりこんでいるのだ。

バス代はクレジットカードで支払いが出来るが、約250キロの移動に6000円程かかり、割高の感がする。複雑な海岸線を走り、トンネルも2−3潜る。切り立った岩を左手に右側は海を見て走る。岩石は堆積岩で色々な暑さの層を成しており、層も水平の所や角度の付いたものなど複雑である。小雨で濡れて黒光りしている硯の表面の様な大きな岩肌が見えるところがある。北緯70度近辺では殆ど木は生えておらず、見晴らしは良い。緩やかなうねりのある地形の中に沢山の白い生き物が群れで動いている。最初は山羊かと思った。山羊がこんな所に居る筈が無い。良く見ると冬毛の生え変わっていないトナカイの群れで、殆どが白い毛のままだ。夏にかけて徐々に茶色に毛が生え変わるはずだ。それにしても、大群のトナカイだ。岩肌にはあっちにもこっちにも沢山の群れが見える。これ程のトナカイを見るのも此れが初めてだ。バスから写真を撮るが旨くは撮れない。

バスには20人程ほど人が乗っている。Russenesがこのバスの終点である。旅行案内所兼土産物屋、レストランなどがあり、道路を隔てた浜側はCamp場になって居り、多くのCamping Carが留まっていた。別のバスに乗り換え、南下を続ける。樹木が多くなり、大きな木も見られるようになる。谷合を走り、徐々に下がっていく。明日はこの道を北に向かって走るに違いない。

運転手に降りたい場所を伝える。Altaの北にあるRafsbotenの小学校が今日の宿泊所になっている。道路から200メートル程入った所に学校の施設がある。子ども達が居るので、誰か先生は居ないかと尋ねると呼んできてくれる。訳を話すと荷物を預かってくれる。5キロほどのリュックを背負い、走路を逆に歩き、ランナーに出会い、最初のエードまで行くことに決める。走路の案内所はInternetからコピーしてあるが、此れは逆に読まなければならない。左と書いてあれば、右に曲がらなければならない。更に曲がった所で、反対側を眺め案内書と自分の位置を確かめながら先を急ぐ。途中、大会のロゴを付けた車を2−3見かけたので、現在辿っている道は正しい物と確信する。今日最後のエードの場所は道路からやや引っ込んだ休憩場であり、寄って見るが、まだエードは開設されていない。木陰のテーブルで休んで居た人が声を掛けてきたので、近付いていくと、コーヒーを飲めと勧めて呉れる。頂きながら暫し談笑する。  Camping Carで来ている年輩のオランダ人の家族と、オートバイのドイツ人達であった。途中歩いているのを見たという。彼らはTranseurope Footraceの事は知っていた。

彼らと別れて再び南に向け、歩き出す。橋が見えてきて、真っ直ぐ橋を渡ればAltaの市内に向かうようだ。此処で念の為工事をしていた人に道を聴く。橋を渡らず左に曲がる事を確認し、歩き続ける。もう次のエードまでは遠くない筈だ。

暫く行くと左側にエードが見える。車が一台止まっており、小さなテーブル一つに2−3の椅子だけの簡単エードだ。驚いたことに出発前にInternetで確認した時は女子の断トツトップであった沖山裕子さんが居るではないか。ビッコを引いている。最後まで走りたかったであろうが、故障には勝てなかったようだ。エードは車の持ち主が主任で、裕子さんは連日その手伝いをしているという。僕は飛び入りで言わば半端者だ。ランナーは距離を置いてくるので、エードが輻輳する事はない。荷物を置いて、更にコースを逆に辿る。暫くすると先頭のランナーに出会う。手を振って見送る。日本人の若いランナーも元気で走って来る。総合2位の立派な走りだ。現時点で日本人は9人走っている筈だ。彼らには2−3度、Siteを通じて応援のメールは出している。

この大会は参加者の顔ぶれを見ると明らかな特色がある。ドイツと日本からの参加が郡を抜いて多いことだ。ドイツ人が多いことは容易に理解できる。Europaにはウルトラランの長い歴史があり、この大会がドイツの団体が企画運営しているからであり、大会の舞台がヨーロッパであるからであろう。日本からヨーロッパの外れまで何故これ程多くの人が行くのであろうか? 日本人はこの様な長い走りが本当に好きなのであろうか? 好きなだけで走れる距離ではないのだ。好き以外に色々な条件が揃わなければ、参加する気持ちに成らないであろう。本当の理由を知りたいものだ。

更に進んで行くと、顔見知りのランナーとも出会うようになる。先ずであったのがNorwayのTrondである。Internetで見る限り、彼は尻上がりに調子を上げてきている。一緒にエードまで走り話を聞く。段々調子が好くなって来て、何処も痛くなく、あまり疲れも感じていないという。顔色も良い。エードまで走り見送る。

又引き返す。次に会ったのが古山さんだ。遠くから其の姿が見えたが、帽子を目深に被り、頬被りをしていて顔は殆ど見えない格好で走っている。やっぱり来てくれたと喜んでくれる。彼女も元気で安定した走りをしており、此れとて故障は無いという。故障が出れば走りは楽しみではなくなり、苦痛の連続と成る。彼女もまた恵まれた素質をもった幸せな人なのだ。エードまで一緒に走り、見送る。

次に会ったのが菅原さんだ。故障はあるが、何とか行きそうだと元気だ。原さんはと聴くと足に故障が出てこの所走っておらず、車で移動している筈だという。Trans−  earopeの二度の完走候補者は彼と、最年長で走り続けている金井さんの2名だけなので、何とか行きたいと、経験のゆとりを見せる。

次に出会ったのが貝畑さんだ。立ち止まって話をする余裕を持っており、元気だ。息子さんが終始同道しており、最近娘さんも合流したとも話す。気の利かない息子なので、宜しく頼むともいう。一年前に癌の手術をし、息子を気遣う気丈な母親がこの地を走っているのだ。世の中驚きは尽きない。

エードから引き返すとEiolfに出会う。Trondと同じ町に住んでおり、レースには何時も奥さんと一緒に来ている。今回は娘さんも一緒でNorwayに入ってからズーット同道していると言う。右の膝にテーピングをしており、余り元気はない。つい最近まではTrondと同じような走りをして居たが如何したのだと聴くと、膝がおかしくなっているが、テーピングでなんとか凌いでいるので、無理は出来ないという。

次に会ったのは金井さんだ。何時も変わらない颯爽としたフォームで走ってくる。調子はどうかと聞くと、何処も悪くないという。靴も一足修繕もせずにここまで走って来たと言う。足にも靴にも優しい、芸術的な走りが出来ているのだ。71歳にして2ヶ月以上連日、総距離4500キロを走り切れる人はこの人を除いて居ない。驚異のランナーである。

エードで見送って、残り少なくなったランナーを出迎えに向かう。大分先まで行った所で、岸本さんらしい人が走って来る。其の後にもランナーが見える。殿を走っているは奥野さんのようだ。暫く岸本さん一緒に走り話を聴く。彼方此方故障はあるが、何とか成りそうだが、スピードが落ちているので、最後には奥野さん抜かれることがあるので、出来る限り最初の内距離を広げて置きたいが、ママなら無いという。加齢により落ち込みを実感しているようだ。

エードに付くと畳む用意をしている。僕はエードの車で宿泊所まで行く積もりで居たが、車は小さく、エードの機材で、僕を乗せる余裕は無いという。次のエードには余裕のある車があるので、其処まで走れという。次のエードも最終ランナーが通過すれば、引き揚げてしまう。奥野さんの後を追って、こちらも懸命に走る。

Altaからの道に合流し、暫く行った所で、奥野さんの姿が見えたので一安心する。僕が懸命に走っていたのを見ていた人が居た事を後で知る。明日から部分参加することになっている田村さんだ。 彼女はAltaからタクシーで今日の宿舎に向かう途中であったのだ。兎も角もエードの手前で追い付き、奥野さんとも話をする。足裏に障害が以前から出ているとが、何とか成りそうだという。女は強いのだ。

宿舎に着き、主催者のIngoに会い、今日の顛末を手短に話し、明日の指示を待つ。大会の責任者は兎角雑用が多く、余り余計なことを聞きたがらないものだ。明日まで考えて置くという。

午前中荷物を置いた所は体育館の出入りであった。中に入ると、原さんが奥の方に陣取っており、僕の寝る所も確保しておいて呉れた。元気そうに見えるが、所謂弁慶の泣き所に異常が出ており、動かすと不気味な音がする。塗り薬で炎症を抑えているが、腫れもでている。大事に越した事はない。歩けるので、最後の日は自分の足でNordkappに行く事にしているそうだ。

体育館の中は思い思いのグループが出来ており、囲いや線は無いが日本男村、女村などが出来ている。2ヶ月以上の生活を共にしていれば、色々な深い関係が出来上がる。参加者がお互いに助け合って、目的地に共に行こうとする姿は心を打つものがある。遅くなってCampに着く者は夕食にありつけない場合もあろうが、ユトリノある人がこういう不都合も回避する対策を取っているようである。

夕食を摂りに2階に上がる。用意がヤット整った所であり、食堂の人に食べだしても良いかと確認後、皿を取って列に並ぶと、問題が起こる。未だ時間になっていないので、中に入るなとIngoの奥さんのIngeが血相を変えてガナリ立てる。食堂のスタッフがOKを出していると言うと、引っ込みが付かなくなり、渋々顔で成り行きを黙認する。指揮を取るものはどうでも良い事には、余り口出しせず、肝心な所を抑えれば、通常事が円滑に流れる。然し、世の中には何でもかんでも一言言わないと存在価値が無いと考える輩は少なくない。Ingoも因果な奥さんを持ったものだと思った。

翌日も同じようなことが起こる。Ingoの指示に従って僕の乗る車はアレだと言うと、いや違うアッチの車に乗れてという。Ingoに確認すると最初指示通りの車だという。指揮官は何人も要らないのだ。混乱を大きくするばかりだ。仲間内でもIngeの評判は良くない。

大会の62日目である。空は曇っており、風邪も強くなってきた。谷合を走る時は風は緩和されるが、吹き曝しの所は相当走りにくくなりそうだ。出発を見送り、殆ど車が走り去った後、我々のヴァンも走り出す。車にはStaffのRichterとRunnerで途中棄権したMikeが乗っている。我々のエードはコースのほぼ中間点で途中彼方此方よって行っても充分間に合う。着いたところは左手に川が流れ、右手には若干の山小屋が立っている、比較的見通しの良い所である。背の低い白樺が生えているだけの土地で、風も可也強い。北欧では所々にある道路を膨らました一時駐車場がエードとなる。車を風上に止め、駐車場にあった大きな木製の椅子と一体になったテーブルを利用して設営する。

 

昨日の経験からすると、エードのStaffは1人でも充分に対応出来るので、2人に其方の方は任せる事して、昨日と同じようにランナーとの出会いを楽しむことにする。どちらも好きな様に楽しむが良いと言って、余り頓着しない。設営と撤収時若干手を出すことで事は足りるのだ。

気温は5−6度と低く、ジットしていると寒い。設営後暫く車の中で待機する。Mi―keが名刺を差し出し、自分は今Istanbulに住んでいるという。走りが好きで数々のレースに出ているが、こんな長いレースは始めてだともいう。途中棄権したことは余り気にして居らず、今は走れる状態になっているが、走る積りは無いとスッカリ諦めた状態だ。

上下薄手羽毛の上に確りとウィンドブレーカーを着ているが、外に出ると寒い。頭には毛糸の帽子が必要だ。手袋も薄手の物では指先が冷たくなる。

時間的に最初のランナーが着く頃、コースを逆に辿りだす。先頭のランナーが通り過ぎると、2,3番手が同時に通過する。手を叩いて応援すると手を上げて走り去る。外国のランナーも何人か顔見知りがいる。ドイツのEikeとは暫く併走する。調子は如何と訊くと、段々調子が好くなって来ており、何処も異常は無いと元気だ。女子の総合2位だ。現在の1位は古山さんだ。時間差が大きいので、順位が入れ替わる事は先ず無い。

Internetで何時も全く同じ時間で走っているSwedenの2人組とも出会う。TrondのGirl friendLeiaも元気に走って来る。彼女は最初の方で棄権しており、今でも故障が残っているが、走れる区間は走っているのだ。最も、走り出しても、Campまで行かずに途中収容されることも多いという。Eiolfにもあう。Tapingのお陰で、昨日よりは楽になったという。今日から走り出している田村さんとも出会い写真を何枚か撮る。

殆どStaffとしての仕事はしなかったが、ランナーとの出会いは存分に楽しみ、Olderfjordの学校に向かう。毎日走っているランナーにとって食事は大事だ。栄養面でのバランスや量は充分に配慮されているようだ。特にデザートはこってりしたものが多い。原さんなどはレースが終わったら量を減らさなくては言っており、充分食べているようだ。

次の日20日、Staffはお役目御免となる。所謂失業である。遣る事が無いのである。車両が少ないので僕と何人かの日本人で今日走らない人はバスでHonningvaagの学校まで行く事になる。バス代は各自払いだ。此れも変な話だ。参加者はStaffも含め、食事、宿、移動は大会当局が負担する事に成っている筈だ。只、目くじらを立てる程の事は無いので、意義は申し出ない。

乗ったバスは終点に付いた後、通常のルートでは無いが、寄り道をして学校に寄ってくれた。早すぎたので学校は空いていない。寒く雨の降る中、外で長時間待つのは容易ではない。近くにある屋根付きのバスの停留所に行ったが、此処とてこの雨風を凌ぐには無用に近い。僕はこの町には2日前に立ち寄っているので、多少町の様子が分かっているで、港の傍の観光案内所、土産物店などで時間を潰した。

学校に戻ると今度は空いていた。講堂は電動可動の階段状椅子が備えてあり、これを動かすか動かさないかで一騒動がある。此処での主役は矢張りIngeともう1人の評判の良く無いドイツ女性がであったが、結局は電源を入れる人が来なかった。広い学校であり、この狭い講堂に全員泊まる必要は無いのだ。それぞれ思い思いの所で寝れば良いだけの話なのだ。単純明快な対処方より、勿体をつけた複雑な解決方を好む人は世に少なくないのだ。

窓の外は町の広場と成っている。見ていると2−30頭の立派な角を持ったトナカイが集まっている。中には横になっているものもいる。悠然としたものだ。皆に声を掛け、写真を撮る。飽き足らず、雨の中外にでて写す。群れはユックリと動き出す。生え変えの毛を横腹に垂れ下げているのも何頭かいる。暫くすると群れは広場を離れていった。街中でこれ程ほどの群れを見たのも初めてだ。

 

この後原さんとタラの干してある所へ見に行く。原さんは絵葉書で見たと言っていたが、僕は実物を先日見ている。現場に着くと、長手方向に約50メートル、幅20メートル程の切り妻形屋根の形をした乾燥場が2棟、それに同じほどの大きさの陸屋根型の乾燥場が一棟立っている。沢山のタラが、傾斜に沿って乾されており、カモメの害を避けるために網が掛けられている。雨が降っても取り込むことはせず、手間隙を掛けずに自然乾燥に任せているようだ。上のほうには頭だけを乾してある。可也大きいので、此れは鮭の頭であろう。ドンナ食べ方をするのかは分からないが、何れ訊いて見ることにする。

此処で原さんと別れ、僕は最終レース日の後さらに此処に一晩泊まるので、その宿の手配に向かう。最終日のNordkappに向かう途中にNordkapp Youth Hostelがあったのをバスで見ているので、そこに行って予約をする。値段は約4000円で安くはないが、朝食はついている。清潔さや安全性を考えればそう高いものでもないのだ。

今夜の夕食は外部業者から取り寄せる事になって居り、普段より遅くなる。それに、食器も各自用意しなければならない。僕はその用意をしてきて居ないが、幸いにも仲間の物を最終日まで借りて、何とかことが足りた。

雨風のなかを走って来たランナー達も10キロ先の今日のフィニシュ地点からバスで帰って来て、皆で食事をする。明朝はバスで今日のフィニシュ地点まで一緒に行って、そこから最終地点のNordkappまで走ることになる。距離は45.7キロである。

明日は距離も短く、今日以上にStaffの仕事はない。僕も走りたいとIngoに話すと良いよと言ってゼッケンを渡して呉れる。足には自信は無いが、何とか最後尾になら付いて行けそうだ。キロ10分のペースで良いのだ。原さんは歩いても充分に行けると言っている。

 6月21日、北半球で最も昼が長い日だ。最もこの辺りではこの時期陽が沈む事が無いので、大した実感は湧かない。この日に最北の地を踏む事は意味の無いことではない。主催者はこれを織り込んで計画したに違いない。又、もう少し時期を後にずらせば、この辺りの交通量が増え、走者の危険が増すことも考慮に入れていた筈だ。実に周到な計画と言える。

昨日のフィニシュ地点は7キロの海底トンネルの出口であったが、今日は其処からHonningvaagに向かって走る。右には海、左手の崖の上にはトナカイの群れが時々見える。湾曲の多く、緩やかな起伏の海岸線を暫く走る。古びた麦わら帽子の形をした島が見えたりし、飽きずに走ることが出来る。90分ほども走ったろうか、トンネルに入る。4.5キロのトンネルで車が少ないのが幸いである。終始岸本さんと一緒に走る。

 

トンネルを出て、1.5キロほど進むと左に曲がる。この手前に昨日予約したYouth Hotelがある。 暫くは大きく曲がった海岸線を走る。起伏は殆どない。遠くの方を走っている人の影が見える。曲がりこんでいるので、3−4キロ離れているに違いない。左手の小島には御伽の国の様な家が何軒か見える。

20キロ辺りで、海岸を離れ徐々に登りだす。風が急に強くなり、吹き飛ばされそうになり、よろける程だ。橙色のヤッケをきた原さん姿が前方に見えるが、中々追い付けない。暫くすると菅原さんに追い付く。岸本さんに付いて行き、彼とはその後フィニシュまで会うことが無かった。

風が強くヤッケのフードが直ぐに取れてしまい、何回も立ち止まって付け直すが、直ぐに取れて仕舞う。襟巻きにしている布で固定しようとするが、風が強くうまく行かない。其の内成るがままに任せるしかないと思うようになる。耳も冷たく風の音も煩いが、対処方はない。雨も時折吹き付ける。薄手の毛糸の手袋を嵌めているが、指先は冷たく感覚は既に無いほどだ。夏とは言え、北緯71度は東京の真冬以上に寒い日もあるのだ。

40キロ手前のエードに立ち寄るが、水などは飲む気がしない。パン切れとチョコレートを取って先を急ぐ。止まっていると体が冷えて来るのが分かるほどだ。暫くすると写真で見たようなNordkappらしい光景が見えてきたので、嬉しくなる。大きな球状のドームが左手前方に見え出したのだ。此れが真横に来た時も道は更に前方に続いて居り、そちらにランナーの姿も見える。

どうやら見えていたのは軍事用のアンテナであったようだ。やがて同じような物がまた左前方に見えて来た。道も一旦下り、左手の方に曲がって登って行く。今度こそ本物のNordkappに違いない。

 

坂を上っていくと、ドーム状の屋根の他に他の建物も見えてくる。強風にたなびく旗の類も多くなる。駐車場が見える所で、小用をする。この間に先に行った岸本さんにはその後追い付く事は出来なかった。64日も走り続けたとは思えない力が残って居たのだ。女は魔物で恐ろしい。

駐車場のフィニシュ地点を通過し、屋内に入り、暫く落ち着いてから外に出てみる。北の空き地には地球の傾きを示す造形がある。写真を撮るが、風が強く静止している事が出来ず、碌な写真は撮れない。それに寒い。 

最後のランナーが入って来た後、バスでHonningvaagに引き返す。今日の宿も同じ学校である。夜にはRica Hotelで完走パーティーがある。

パーティーの会場は細長く、やや狭い。ワインが一杯が付くが、食事はビュッフェスタイルで、各自下の階に取りに行かねばならない。食事をしながら、45名の完走者一人ひとりに記録証が渡され、順表式もある。僕も45.7キロの完走証を貰ったが、時間は入っていない。其の後Ingoが箱入りの腕時計も呉れた。CitizenMovementを組み込んだドイツの時計で、文字盤には大会のロゴが入っている。Swedenの2人組とも話をする。其の内の1人は髪も髭もやや長かったが、フィニシュ後直ぐに丸坊主となっている。家族も来ている。彼ら2人は軍の仕官であり、此れも訓練の一つなのだという。練習は別々に行っているが、時々同じレースにでているという。今回のレース参加の目的の一つは常に一緒に何事も協議の上お互いに助けあい、走りきることだったいう。走りは元より、食事も常に一緒であった。此れは言うは易しく、実行は極めて難しい事なのだ。2人との基礎体力は並外れたものが無ければ成らず、精神的にも余程の鍛錬を積んできているに違いない。

パーティーの後学校に戻り、残っているアルコール類を呑む。日本酒も4合壜2本手付かずで残っており、ビール、其の他可也のものが残っていた。今まで呑む気持ちになれなかったのかもしれない。またこの日のために取って置いたとも思われる。何れにせよ、日本から液体を運ぶのは最近容易では無く、更に陸路4500キロ64日も掛けて運んだ貴重品などで有難く頂く。

僕は明日の朝ユックリ起きてYouth Hostelに移ればいいが、他の全員は明朝3時には此処を出てAltaの空港から帰国の途に付くので、寝ている暇は無い。一睡の後、僕も起きて、荷物の積み込み手伝いをし、皆と別れる。

更に一眠りし、食堂に行った時に残っていたのはドイツの企画母体の数名であった。彼らは5日を掛けて車でドイツに戻るそうだ。彼らとも分かれ、荷物を全部持ってユックリと今日の宿に向かう。2キロ足らずの道程なので、15キロ程度の物を担いでも如何という事も無い。Checkinは何時でも良いとの事であった。

小さな町なのでもう見る所は無いのだ、暫く振りに本を読み、テレビも見る。夕方に汚れた衣類は洗濯機で全部洗い、乾燥機で乾かすことも出来た。

翌23日は終日飛行機で移動の日だ。12時前の便に乗るため、宿を10時に出る。空港まではユックリ歩いても30分あれば着く。例のプロペラ機に乗って、Tromsoに向かうが、途中Hammerfestに立ち寄る。Tromsoには1時過ぎに着き、乗り継ぎ時間は約40分。

空港内ないからTromsoの町の様子をみる。この辺りでは最大の町で、水に囲まれた美しい町だ。雪を抱いた険しい山も背後に見える。東の大陸側の丘に斜めに突き出した異様な建造物が見える。傍の人に訊いてみる。スキーのジャンプ台であると知らされる。北欧はクロカンやジャンプの大国である事を思い出すべきだった。如何も脳も老化の現象が出始めているようである。回線の繋がりが遅くなり、あるいは全く繋がらないことが起こっている様だ。当然思い出すべきことを思い出せなく、連想から物を認識する能力も低下しているのであろう。所謂、血の巡りが悪いとか、回転が鈍いと言われる状態に成っているのだ。

オスロまではジェット機で約2時間で着く。此処での乗り換え時間は1時間。Stockholmには午後6時過ぎに着く。Skellefteaaの便までは約3時間ある。Internetで暇潰しをするが、更に時間がある。ゲートに早めに行き椅子に身を沈める。この空港の利用は100回以上になろうが、落ち着ける空港の一つだ。今回は手荷物も少なく、携帯貴重品もパスポート位なので一層気楽な気持ちになる。ほぼ水平に入ってくる薄日を浴びて、暫し微睡んでしまった。

Skellefteaaに着いたのは10時半を過ぎていたが、Tomasが迎えに出ていた。木立を通して道路に這う日の光を横切って車は走る。其の日は何もせず取り敢えず寝る。

翌日Tomasは休みを取っている。2−3年前の寒波で、海が異常に凍結した際、別荘の船着場はバラバラになってしまった。其の時の部材は全部取ってあるので、再度組み立てたいと言うので手伝う。こういう仕事は1人では極めて能率が悪い。2x4メートル程の木の簀も1人では動かせない程重い。これらを先ず定位地まで運ぶ。浜辺は石が多く足元に注意しながら、慎重に運ぶ。水平度を確かめ、僕が位置決め固定をするとTomasが螺子止めをする。作業は午後早く完了する。その後は海岸を散策し、夕方6時頃にはベランダで夕食を済ませる。この辺りの夏の生活は、食事は殆ど野外で摂る。夕食を早く取り、この後彼らは軽い夜食を食べ、10時ごろに就寝する。太陽は未だ沈んでいない。太陽の位置に関係なく時間が来れば寝て、必要な睡眠時間を確保しているのだ。朝は太陽が出て何時間かたって起きる。

僕は間食や夜食の習慣が無いので、Annaが元使って居た小屋に行き荷物の整理をして寝てしまう。

翌朝7時ごろ、ドアに小さなノックの音が聞こえ、Breakfast is ready!! と小さな声が何度かする。Thank you!と応えて、戸を開けると4歳になるAnnaの娘Juliaが立っていた。連れ立って母屋のベランダに行く。部分的に日の差し込んで来ている中で朝食を取る。全面のバルト海は波静かで、子連れの海鳥の数家族が長閑に航跡を残して泳いでいる。本当に清清しい朝だ。

今日はKennyの家に行く日だ。彼の住むアパートはSkellefte川の南、上流にあり、Tomasの所は川の北側、海より下流となる。距離は約20キロ、自転車で行き来するには丁度良い距離だ。僕が訪れた時、Kennyは丁度RollerSkiiの練習から帰ってきた所であった。

2階建て棟割長屋風のアパートの庭は広い。垣根のライラックは今が満開、芝生の緑が眩い。木陰のテーブルでHellenが作ったサンドィチを食べ、コーヒーを飲む。

 

Kennyは2年前のSweden縦断単独走以来足と腰に障害が残り、本格的な治療が必要だという。その気になれないので、衝撃の少ないクロカンスキーを遣っているのだと言う。雪の無い夏はサイクリングロードなどでRoller Skiiをやっている。この7月末にはNorwayからBalt海への450キロを一気に単独移動をするという。

一頻り話をした後、車で近所を案内すると云うが、2時には戻る予定があるので、断って戻り足に付く。

別荘に戻るとSussanの母親と其の妹夫妻が来ていた。Swedenは日本に劣らず長寿国で生き生きとした高齢者が多い。こうして家族や友人を時々訪れ、野外でお茶などを飲みながら絆を保つのである。この様な親族、友人との接触は日本より濃密であるようだ。最近の日本では何年も会っていない従兄弟や叔父叔母が居る事は、そう珍しい事では無いであろう。

夕方Ulfにも会った。彼は我々が1994年最初にVindel河畔駅伝を走った時に我々のチームで走っている。今でも走りには興味があり、色々の話は尽きない。

6月26日、Lapland 100 Kの日である。Stockholmから前来ているSeanKennethと落ち合う日である。昨年分かれた、Shellefteaaの中央バス停で10時半に会うことに成っている。Sussanは母親に会い、町の美容院にも用があるので丁度好いと言って送ってくれた。


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