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プログラム P-16 2017年版(平成29年編)

2017.05.06 Kintyre Way 56K
世界一周の南半球の旅



平成29年6月23日更新

2017.05.06 Kintyre Way 56K

 
 Laplandで出会ったランナーの一人であるSeanからScotlandCountry road raceを走らないかとの誘いがあったのは昨年の夏である。彼は友達を連れ伊南川100Kのレースに参加し、その時小生の小屋に泊まった。レース後約1週間の陳観光旅行をしたことはJournalにも報告した。

人生の終末期に入った。自分のしでかしたことの後始末をし、後世に塵や負の遺産を残してはならない。自分の残した物は生きているうちに使い切る必要がある。貯めるだけが能ではなく、使う能が大事なのだ。Mileageもその一つだ。British Airwaysで英国に飛ぶ為には十分溜まっている。放っておけば貯めた最初の方から消えて行く。僕はもう余り飛ぶ事なないので、この際に使う事にし、昨年暮れにRaceの参加を決めた。

英国には何回か行ったが、Scotlandには行った事が無いのも理由の一つだ。Scotlandには2006年にSahara砂漠で出会ったPaulもいる。Paulとは翌年Atacamaでも会っており、次の年従弟の結婚式の時、来日した。その時は小生が目の手術後で飛行機や新幹線等の移動手段は気圧変化が大きい為、動けない状態であったので、態々短時間ではあったが上京し再会をしている。

Seanは元々Scotland人であるがその半生をSwedenで過ごしている。Paulとお互いにメール連絡を取れる様にするとPaulの家に泊めて貰う手筈が整う。僕はEdinburghの空港に着けばその後はSeanPaulが面倒を見てくれる。こんな楽な旅はない。持つべきものは友達だ。走りを通しての友は掛替えがない。友達の友達も友達なのだ。SeanPaulとは何の面識もないが、今回は一緒に来る彼の父親と3人でPaulの家に泊まる事になる。

Edinburgh迄は何とつかなればならない。羽田発8時50分にBAに間に合わせるべく、家を7時前に出る。BA便は余り乗ったことがなく、羽田からは乗ったことがない。前日にInternetで搭乗手続きは済ませているが、搭乗券は窓口で受け取る手配とした。勝手が分からないの、1時間前に受付カウンターに行くと余り人は居らず、直ぐに搭乗券を貰い、荷物(7Kg弱)を預け、手荷物検査、出国手続きを済ませ搭乗口へ。この間の所要時間30分弱、実に手際が良い。搭乗口で新しく買ったPCで交信をするがWi-Fiでは交信速度が遅く実に時間がかかる。この為登場は最後になる。

今日の便は満席である。予約した席は通路側であったが、搭乗券には別の席が印刷されて居るのを乗務員から指摘される。Internetには確認出来る情報があるのでPCを作動するというと、この機内では未だ出来ないと言う。Wi-Fi交信はどの飛行機でも出来る訳では無いことを知る。全員が着席後一つだけ空いている通路側席があり、其処に座る。搭乗券記載の席は3席の真ん中であり、そんな所に12時間も閉じ込められるのは勘弁願いたいものだ。空いていた席は結局僕が予約して席に違いないが、機内では証明する術はなかった。Internetは万能では無いのだ。

BAのサービスは良い方であろう。トイレや客室の清潔度は満足出来る。機内食は他の航空会社と似た様なものであるが、副菜はヒジキの煮物で日本風であった。僕に取ってはやや塩気が効き過ぎていた。主菜はビーフであったが、これは合成肉であった。味は先ず先ずである。デザートはオレンジ風味カスタードプッデングに生クリーム、これも先ず先ずである。WineChili産であり、悪くない。コーヒーは温く、拙かった。

トイレは先ず先ずであるが、客室乗務員は余り働かない。免税品を売りに来ることもなく、僕がお土産にチョコレートを頼むと2種類ある内の一種類は既に品切れで,ほかの物も一つしか残って居ないという。全部買い占める。

食事の後の片付けも気の入ったやり方では無く、通路にはコップやワインの瓶がゴロゴロの状態が降機時まで続いた。安全上からも好ましいものでは無いが、もうBAには乗ることもないので見過ごす。

Heathrow空港には定刻よりやや早く着く。入国手続きを済ませ、手荷物検査を受ける。テロ事件が時々起きている国柄であり、検査は念入りだ。Edinburghへの搭乗口には2時間前に着く。Wi-Fi交信を試みるが、非常に遅い。係員に尋ねると、大勢の人が一斉に使いっていると、如何してもそうなるのだ。電波の奪い合いである。暫し待って試みると、通常の速さで交信が出来た。1111111111111111111

Edinburgh飛行場 で荷物を待っていると、既に到着していたSean父子が待っていた。彼の父親にも以前会っているが、顔は忘れていた。親子並んで立つと其れと分かる。予め彼らが手配していたレンターカーでPaulの家に向かい、30分程で着く。

Sean父子にはTwinの部屋で、僕はDouble Bedの部屋に案内される。Paulは何年か前に離婚しており、今年高校を卒業する娘と住んでいる。部屋に清掃状態は良いとは言えないが、一晩の宿としては十分だ。コーヒーを飲んだ後、Edinburghの世界遺産の一つであるForth鉄道橋の真ん前のレストランに5人連れ立って出かける。これも地元の知人が居ることで出来ることだ。巨大な橋は壮観である。カメラを持って来なかったのが残念である。

レストランとの支払いは僕がすることを条件に、夫々好きな物を飲み、好きな物を頼む。この辺の名物料理はHaggisと言うので、僕は前菜にそれを頼み、主菜は英国名物のFish and Chipsを頼む。それにSheryである。夕日をBack lightとした巨大な橋を眺めなら、暫し食事を楽しむ。

翌朝娘のMollyを学校に送った後、4人でEdinburghの町の見物に出かける。暫く走ると変な所で車を路上に駐車し、歩き出す。よく見ると電車の駅の傍である。この辺りでは路上駐車が多い。ここで車を降り、街には電車で出るのだ。

終点の手前の駅で降りる。ここが町一番の観光スポットの様だ。先ずPaulの案内で古いレストランで朝飯を食う。店は17世紀前半から続いており、その由緒が壁に書いてあり、遺品が展示されている。ポーリッジ(大麦粥)目玉焼き、ベーコン、ソーゼージ等がイギリスの定番の朝飯だ。

外に出て歩き出す。可なりの大通りで観光客が沢山いる。天気は快晴、気温123度で、歩き回るには丁度いい。それに新緑が美しい時期だ。出国前にInternetで調べて居たが、僕の滞在中は概ね良好な天気の様だ。Edinburghは7世紀からの古い町で、石造の立派な建物が沢山ある。空襲は無かったのかと訊くと、工業施設が少なかったので、空襲は受けて居ないという。町には独特な雰囲気がある。先ず彼方此方Tartan Checkの服を纏いスカート姿で歩いている男の人を見かけることだ。余り多くは無いが、他では見られない服装である。それに路上の彼方此方でバグパイプを演奏している人がいる。土産やで多いのはWhiskyTartanの柄の豊富なことだ。柄や色の組泡では粗無数に出来るが、元々は部族や家系をを識別する意味があり、今もその伝統は残って居るという。 


エジンバラ城 Scotland国会

 暫く歩いた後、王宮に着く。今は女王が住んでいるそうだ。Paul達がコーヒーを飲んでいる間、僕は折角来たのだから中に入ってみることにする。入場料は約12ポンド(1800円と高い)。Earphoneガイドに従い建物を一回りすると30分余り掛かる。余り大きな城では無いが、夫々の部屋には当時の絵画,調度品等が置いてあり、その案内が耳から聞こえてくる。裏には余り大きくない無い庭園があり、新緑や春の花が陽光を浴び綺麗に見えた。その後、丘の上にある古い王宮に行くが、時間がないので中には入らず、入り口で引き返す.

電車で今朝の駅まで戻り、Paulの家で彼と分かれ、Glasgowに向かう。Ferryの乗り場には5時半頃に着く。近くの店で夕食用にFish and Chipsを買い、船着き場の路上の石に腰かけ食う。彼らはこれを当たり前の様に思っている様だ。子供の頃道や立って物を食うのは乞食だけだと言われて育った、日本民族とは育ちが違いうのだ。近頃では物を食いながら歩いたり、瓶やコップを持って歩く姿は日本でも普通に成った。そうすることが良いのであろうか?食う事はもっと神聖な行為と思えるのだが。

1-2日前に BBC/Scotlandからメールが入っており、このレースの取材をするので、前日の明るいうちにInterviewに応じて欲しいとのことであったが、到着は21時過ぎとなるので、断りのメールを出しておいた。レースの開催地はKintyre半島で3時間余り掛かる。Scotlandの西側は氷河の形成した複雑な地形で目と鼻の先に見えていても海路でしか行けない所もある。傾いている太陽に向かって長閑な船旅をする。行く先はCampbeltownで、着いた時には既に暗くなっていた。Seanが予約していた宿までは車で半時掛かった。明朝は7時にはスタート地点に向かう必要があり、急いで床に就く。22222222222222222222

泊まった宿は半島の粗中央の東海岸にあり、出走地点は西側にある小さな集落Tayinloanである。半島を突き抜けて行く道もあるが、大回りでも海岸沿いの道が良いとの宿の主人の勧めに従い、半時計周りで海岸の道路を走る。会場には100人程の人が集まっており、小さなレースであることが分かる。直ぐに受付を済ませ、番号とチップをつけ、走る用意をする。荷物は車に残し、Seanの父親がFinish地点まで運転し、そこで待っている手筈である。

朝気温は10度前後で風が吹くと寒い。T-shirtを長袖半袖2枚重ね着し、その上にWindbreakerの出で立ちである。下は長タイツ、腰のパウチには用心のため簡易ポンチョを入れてある。それに軽いカップも入れてある。これは大会当局の推奨があったからであるが、結局使うことは無かった。 

8時15分号砲が鳴り走り出すが、直ぐに最後の方になる。右手に海を見て、砂の細かい白い浜を走る。浜は狭く、出来るだけ草の生えている所を進む。砂が入ると厄介だからだ。1キロ程砂地を走った後海に背を向け朝日の方向に走る。右手は針金の牧柵、左手は細い堀が流れている。木立の根元にはBluebellの花の列が続く。軈て右折し先ほど来た道路に平行の狭い牧柵との農道を暫く走り、左折して道路を横切り、6-7m程の砂利道を登りだす。Seanはここ2年程余り走って居らず、大分太っており、若い割には速く走れない。2人の後には夫婦のランナーのみが続く展開となる。僕は元より、56キロを11時間で走るのは無理だと思って居るので焦ることは無い。条件は違うが昨年の鶴岡は11時間で60キロであった。可なりの坂の蛇行する悪路が続く。1時間もすると真向いからの風が非常に強くなる。風の強い半島で風力発電機が彼方に何本も見える。時には戻されそうになりながら、風車の横を通り過ぎる。風車の風を切る音が体に伝わってくる。音というよりは振動である。海から300m程登って来たことになる。半島の背になる部分であり、この先更に風は強くなるが、下りとなったので、先ほどよりはやや早く前進できる。暫し下って行くと、舗装道路となり、躓く危険性は減るが用心して下る。3キロ程でまた悪路になる。その先は1m程の山道の九十九折れとなり、下りきった所に最初の関門がある。昨日泊まったCarradaleの集落の海岸に近いチェックポイント、15.5マイル(25キロ弱)地点で13時の関門制限がある。40分ほどの余裕で通過する。ここには色々スナック類がある筈であるがあったのはバナナだけであった。

レースコースの表示は主催者が必要最低限のものであり、日本のレース程親切には付いていない。Seanが遅れだし、先に行くと分かれ道になり、其処には何の表示もない。右手に進むと、どうも様子がおかしい。ランナーの踏みつけたらしい跡が無いのだ。戻って先を見るとSeanの姿が見えるので、後を追う。そもそもKintyre Wayとは彼の地の人達が好む歩く為の総長100マイル(161キロ)の道であり、そう遠くない昔作られ、その標識は出ており、距離表示もある。この道は従前の道を利用した部分と新たに農地、原野、山中に作った小道から成り立った連続した道である。歩き好きな人々がそのコースの部分や全体を楽しめる様になっている。この道の標識を最大限に利用し、レースそのもの標識は少ない。レースは走りと、自転車があり、これも混乱の元になる。コースは何か所かで牧柵を乗り越えたり、ゲートを開閉したりしながら走る。障害物競争の様なものだ。コースの最低点は0m、最高点は315mで、この間の上下となる。合計上り下りの合計はそれぞれ1360mである。これは標準的なマラソンの起伏とは桁が2つ程違い、楽なコースではない。今まで、山道、砂漠、雪道等色々なコースを走ったが、此処も変化があって面白いコースだ。333333333333333333

チェックポイントを出て1キロ程で海岸に出る。ゴツゴツした大きな岩の間を通れる所を探して進む様になっており、これは最早通常の定義での道ではない。海水が残って居る岩場を足元を選びながら進む。このコースで最も危険な区間だ。500m程のこの区間を過ぎると細い山道の登となる。先程のCPできつい坂があるといっていたのはこの先のことだと思い上りだす。Seanはまた遅れ出す。蛇行する道を登っていく。左手は川が流れ開けているが、右手は塞がれている。如何したものかと立ち止まって思案していると、自転車で後から来た人も探し出す。結局右手に本の僅かな空間があり、其処を入っていく。その先はまた砂利道の道路で、暫く進むと道に丸太が置いてあり、右手にCyclistと書いた表示があり、Runnerは直進かと迷い暫し思案する。Seanは大分遅れた様で姿は見えない。意を決して右手に進む。1m程の細い急な下り坂でランナーに取っても危険な所だ。下り終わって放牧場にでる。暫く進むと、21.5マイル(34.5キロ)のCP1515分の関門がある。ここでもバナナしか残って居らず、それを持って先を急ぐ。

CPを出て暫く行くとSeanと出会う。唯一短い折り返しとなっている地点で、立ち止まって話をする。右足全体が痛み出したので、此処で棄権するという。無理をしない方が良いと言って先を急ぐ。こちらの表示はマイルであり、通常キロで距離を考えている僕に取っては換算が必要になる。ボケて来ているので之が中々上手くできない。時としては11時間の制限時間内完走は無理に思え、次の給水所で棄権しようと思ったりする。コースの起伏は少なくなっており、此処までより走り安い。兎に角水飲み場まで行こう。

給水所は29マイル地点であるが、スタッフ(こちらではMarshal,と呼んでいる。元々元帥という意味であるがレースのStaff)に残り何キロかと訊くと10キロ弱だという。この先は給水も何もないともいう。給水所はコース上に5か所あり,この気象条件下では十分であろう。2時間近く残って居るので続けることにする。完全に一人旅で、自転車の連中が時折抜いていくほかは人にも車にも合わない。緩やかに曲がった細い道が可なり先まで見える。周りは緩やかにうねった羊の放牧場で、生まれたばかりの子羊を含め沢山の羊が草を食んだり、寝そべっていたりと、長閑な風景が広がる。暫く進むと道は舗装されている。自転車のコースは左に折れて行き、ここから先は人に会うこともない。日は傾きだし、影が長くなる。幸い風も治まっているので、長閑な気持ちで走ることができる。Finishまでの5キロは標識は何もない。道なりに進めと理解して前進する。漸く町の教会の尖塔が見えだし、完走を確信する。なだらかな下りと曲がりの道の歩道を走る。

前方に右折のコース標識が出ており、2人の手を振る姿が見え、Finish地点が近いことがわかる。手を振っていたのはSean 親子であった。何人かの人に迎えられ、テープを切る。30分余り残してFinishで僕が最後だと思って居たが、もう一人後から入ってきた人がいたという。

 暖かいトマトスープを飲み、チーズサンドウィッチを食うと至福の気持ちになる。終日天気が良かったこと、少ないスタッフでレースを実施した主催者に感謝したい。最遠来賞と最長老完走賞を頂く。何かと訊くとScotlandWhiskyを飲むカップだという。金属製で皿に近い形状をしており、横に張り出した取っ手が2つ付いている。これにWhiskyを入れ回し飲みをするのだという。早速Whiskyを買い求め、宿で試飲をすることにする。

近所の店で赤ワインとWhiskyを買う。WineSeanが選び、僕はJura島産の10年物を選んだ。Jura島はこの半島の北西に見える島でScotch Whiskyの産地として有名である。早速宿に着くと先ず宴会である。

宿は我々が走っている間にSeanの父が探しておいた旧豪族の古い館で立派な応接間がある。共有空間であり、既に一組の年配の夫婦がワインを飲んでいた。暖炉には火が入っており、豊かな気分で試飲を始める。先に来ていた男がWhiskyは若干の水を灌ぐと香りが豊かになると言うので、それに従う。件の御夫婦はKintyre Wayを何日か掛け歩いている途中だという。Whiskyを半分程空けて町に夕食で出かける。Sean親子は交代で運転するので、運転する番に当たる方は飲酒を控えていた。44444444444

レース翌日観光をし乍らGlasgowに戻ることにする。Ferryを使わず、半島西岸を北上し、半島の粗中程で、氷河地形の典型的な細長い湾に行き当たる。湾に沿って進むと、半島の東海岸の町Tarbertに着く。天気は良く、街の教会が空を突き刺している。ここで車を降り、街をぶらつく。丘の上に要塞の様なものが見え、登っていく。途中野ウサギにであう。丘の中腹には黒い羊の群れがのんびりと寝そべっている。要塞には2人男女が訪れていたが、彼らが去るともう誰も来ない。この町がKintyre Wayの北の始点である表示板もある。 

更に北上を続ける。新緑のトンネルを通り、羊の群れを彼方此方に見ながら2時間程走る。Whiskyの醸造所を目指したが、道を間違え諦める。Lomond湖に着く。国立公園であり、湖岸は沢山の人で賑わっていた。Glasgowの北に位置する所である。その後グラスゴーの南の海岸の町を目す。Seanの父が育った町で、彼の兄夫婦やその子供、Seanの従弟が住んでいる町Lagosの宿に着く。従弟の一人は町でレストランを遣っており、夕食を食べに行く。Sherryを飲み、羊の骨浮きステーキを食べる。Seanの従弟(女性)の言葉は分かりにくい。Scotland訛りであろうが、あまり聞かない英語だ。

次の日は対岸3キロ程に見えるCumbrae島を散策する。Ferryが朝早くから頻繁に出ている。周囲112キロの島で、大きな起伏もない。Seanの父親の足に合わせ歩く。Ferryの着く所には殆ど何もなく、バス停だけである。バスは島唯一の町Millport行きで、全周はして居ない。我々は時計回りに歩き出し、途中から、右手に入り町への近道を歩く。最初はやや登りとなり、ユックリと歩を進める。全島が緑で、牛や羊が放牧されている。空には時としてノスリが悠然と円を描いている。島唯一の町Millportは小さいが、大きな教会がある。町の大通りは湾に沿った海岸の道小さな店が何軒かある。教会はやや高い丘の上にあり、敷地は大きい。門を潜って中に入ると、小道の両側には白い花が一面に咲いている。ニンニクの種類だという。葉っぱや花はニンニクの匂いがする。教会の入り口には張り紙があり、“Welcome, Glasgo Suzuki Music School”とあった。先週末の訪問であった。どんな音楽を教えているのは分からないが、日本人がこの地で学校を開いて居ることを偶然に知った。町に軍人宿舎の建物があり、今は博物館となっていた。展示品は先の大戦の関するものが大半であった。50キロ離れた古都Edinburghは戦争の影響が余りなかったが、造船業等工業が盛んであったGlasgowは激しい攻撃の対象となった。この辺りは北太平洋の物資輸送に重要な航路を守る為に軍港があった所で、今でも潜水艦の基地があるという。

町を離れ又丘の道を進む。丘を登って下れば、アイスクリームが待っていることを励みにSean達は歩き出す。彼の父は僕より7歳若いがLondon住まいで余り歩きは得意ではない様だ。放牧場を幾つか通り、海岸のCafeに辿り着く。コーヒーを飲み、アイスクリームを食べ、また歩き出す。海岸沿いの殆ど平らな道だ。途中色々な鳥が見られる。アザラシやイルカも居るというが、今日は見ることが出来なかった。海岸の岩は薄いレンガ色の砂岩でこの当たりの外壁に使われる建材となっている。岩には海藻が付いている。この辺りではこれを取り、風を利用して乾燥させ日本に輸出しているという。海岸に降り、海藻を食べてみる。ヒジキに似ているが、少し違う。海水の塩味付いている。暫くぶりの日本の味を噛みしめる。Ferry乗り場が見えてくるころ、クジラが23匹泳いで居るのを見る。クジラも居るのだ。

宿には3時頃に戻る。オーナーは同じであるが、今日は昨日とは異なる裏手の一軒家に泊まる。早速夕食の前に皆で赤ワインを飲み干し、Whiskyも殆ど空にする。良い気分になった所で、夕食に向かう。海の見える大きなレストランにSeanの一族が集まっての夕食である。Sean親子、叔父夫婦、彼らの娘2人がめいめい好きな物を食べ好きな物を飲む。支払いは僕がすることが条件である。3時頃から飲んでおり、可なり回ってきたが、Seanの従弟が更にSherryを2杯飲めと言い、銘柄の異なるものを飲んで仕上げとする。どんな話をしたのか翌日は覚えていない。

翌朝早く起き、浜沿いに1キロ程歩く。1263年Vikingの最後の侵攻にScotlandが勝利し、その記念塔が立っている。Scotland沿岸部はバイキングの勢力増大した8世紀後半頃から度々その侵略を受けた。その結果地名にはScandinavia語がいくつも残って居る。彼らは略奪だけでなく、其処に住み着いたものも居たのだ。

町のレストランで朝食を摂るが、これは8時が開店の所が多く、時間調整を兼ね、暫しの散策をする。朝食は何処でも決まっており、先ず麦粥が出てくる。粥と言っても水気は少なく、ネットリしている。この後、卵、ソーゼージ、ベーコンやジャガイモ、インゲン豆等が出てくる。日本の食事とは大分違う。野菜は殆ど出てこない。

彩りのため豆トマトを焼いたものが付いていれば良い方だ。食材といい、食べ方といい、日本人なら糖尿病に直結すること間違いなしだ。555555555555555555555555555555

その後、50キロ先のEdinburghに向かう。途中Falkirk Wheelの土木建築物に立ち寄る。2005年から運用を開始している世界唯一の回転式ボートリフトであり、壮観な土木建築物である。これだけの説明では何の事かは全く何のことやら分からないのが当たり前であろう。先ず之が必要な背景はヨーロッパでは日本に比べれば平坦で船舶の広範な移動の為運河がよく発達して居ることである。勿論高低差はあるので必要な所には閘門が用意され、これにより水位の調整を図り、船は航行出来るのである。FalkkirkのボートリフトはEdinburghGlasgow間の2つの運河が間の航行を一つの機構で可能にした点で画期的と言える。この2つの運河は粗直角に流れており、落差がある。水位差と航行方向の違いを一つの装置で解決したのである。2つの運河の交わる点にこのボートリフトが用意され、15メートル程の位置にある回転軸に付けられた半径15m程の外輪が付いておりこの中に600トンの水槽が2つ用意されている。下の運河のから来た船舶はこの水槽に入り軸が半回転すると上の運河の水位に達する。ここで水槽から出ると水位と方向の異なる航行が可能となる。25mの水位差を閘門なしで航行を可能とした画期的な装置である。之だけの説明では絡繰りが理解できないかもしれない。写真を見ても想像が付かないかも知れない。仕組みの謎解きは下手なクイズよりは面白い筈だ。実に良く考えられた仕組みで重りのバランスを考え、この巨大な機構の上げ下げを22.5KWのモーター一つで,僅か1.5KWHの消費電力で出来る事だ。

ここでPaulと出会う筈であったが来ていない。連絡があり仕事で来られないことが分かった。次に行ったのは観光用に作られた巨大な馬の頭部の像であった。2つて立っており、高さは25m程であろうか? 遠くから見るとタイル製と思えたが、傍に行くと7-8mmのステンレス鋼板で出来ていることが分かった。これを内部の頑丈な構造体にシッカリ固定してあり、強風や経年劣化に対しても確り配慮された物であることも分かった。可なりの人が此処を訪れていた。ここで昼食をとる。僕はラムバーガーを食った。シッカリ腹に溜まる物である。アイスクリームとコーヒーもとる。

 この後Forth鉄道橋に行く。2度目であるが、壮観である。Forth湾に架かる鉄道橋で1882着工、1890開通、2015年世界遺産登録の巨大な片持ち梁構造の鉄橋である。長さ2500m余り、満潮時橋桁高さ46m、朱塗りの主要構造体は圧巻で、NKHの番組で昨年見た時から何時の日にか見てみたいものだと思って居た。この湾には更に内陸部に1964年完成の自動車用の橋があり、之は吊り橋である。更にその内陸に並行する橋が現在建設中である。

その後町の中心部に出て最後の買い物をする。Seanには3人の息子がおり、僕は彼らが何が好きなのか分からないのでSeanに選んで貰い彼らの土産とする。チョコレートや甘い菓子をSeanは選んでいた。

Paulの家に行き、皆で最後の晩餐に出かける。娘のMollyは卒業を控え試験勉強の為家に残った。Edinburghの中心街に出てItalian Restaurantでパスタ等をたべる。酒を飲まないPaulは大きなアイスクリームを食べる。此方の人は甘い物を良く食う。この後僕は傍にあるホテルで下してもらう。朝7時には空港に着く必要があり、宿を市内に用意していた。Sean達はやや遅い便なので、Paulの家に又泊まる手筈である。

別れ際にPaulに近々日本に来る様にと誘う。娘のMollyがホッケーのゴールキーパーで大学でも続ける事になっており、ホッケー観戦に2020年に行きたいと言っているので積み立てをし、一緒に行くつもりだという。僕もその時まで生きて居たいと思うが、之ばかりは分からない。兎も角再会を楽しみに別れる。

友と天候に恵まれ、良い旅が出来て満足である。

最後に今回の旅の大雑把な移動範囲を述べたい。EdinburghGlasgowも北緯56度近辺にあり、樺太の北端に当たる所だ。レースの舞台となったKintyre半島はその西にあり、緯度は余り変わらない。今回の旅はScotland南部の極一部を見たに過ぎず、氷河の形成した複雑な地形はまだまだ観たい所はある。

旅の費用(05.04-05.11):航空運賃(空港使用料):30、000、現地交通費、食費、お土産代、雑費等、100、000 合計:130,000.- 

追記:賀状でも御案内致しましたが、今年中に念願の感謝祭を開ける見通しが立ちました。レースは館山さんが主管で行いますが、日取りは9月10日とすることが漸く決まりました。鶴岡の直ぐ後の週末となりますが、何とか都合を付けて沢山の方々に御参加頂きたく取り敢えず日にちだけをお伝えいたします。

                                                                                                           大森 敏生

 

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平成29年4月11日設置

世界一周の南半球の旅

 
これ迄で一番長い船旅に出ることに昨年6月に決めた。横浜発12月8日、同港帰着翌年3月22日の西回りの南半球の旅である。理由は2-3ある。何事にも潮時と言うものがある。人生そう長くはない。今がその潮時ではなかろうか思えたのである。家内は僕が海外で駆けっこをしている間に家で転倒2-3度骨折をしており、その結果歩行に自信が持てなくなって来た。歩ける内にあちこち見ておいたほうが良い。航海中に誕生日も祝える。それに僕は南極には行っているが飛行機で内陸に行ったのであり、海上の氷山や生き物は全く見ていない。これらは死ぬ前に是非見ておきたい、冥土でも地獄でも天国でも土産は必要であろう。

長い航海中退屈予防に古いPCを持ち込み、日記を付けてみることにした。日記などは学校の課題であったこともあったが。三日坊主の性格ゆえ定められた期間以外は書いたことはないが、以下が今回の出来栄えである。

2016.12.08:朝7時家を出、横浜乗り換え関内下車。自分の衣類を入れたリュックと中型のハードケースを引き摺り港に向う。家内も小型ながら同じ様な格好をして、デコボコの歩道を15分程歩き船着き場に辿り着く。歩道は何故か切り石やブロックで出来ており、継ぎ目が多く、物を引っ張って運ぶ様には出来ていない。荷物はこの他大型のSuite caseを宅配便で送っているが、その殆どが家内の物である。何と多くの物が女性様の物か改めて認識する。

出国手続き後、09:10時乗船。乗客約1000人の大半が乗り込んだが、さほどの混雑はなかった。11時避難訓練、その後昼食。13時横浜出航。出航の前には7階デッキで仰々しい式典があり,埠頭で見送る人達と船上は無数のテープが風にはためく。空や鉄道の旅には見られない景色だ。

南寄りの風、逆風が可なり強い。空は快晴に近く、洋上より富士山が見える事を期待したが、伊豆半島通過は暗くなってからであり、見る事は出来なかった。

船室は長方形で略10畳程である。この中に2段ベッドとシングルベッドが一つ、シャワートイレ、衣装入れ、机、椅子、テレビ台などが付いている。この中で家内、家内の姉、それに小生の3人が100日余り生活することになる。何時もの様に小さく成って生活するしかない。男は外で大きく成ればいいのだ。 
僕は何処に行くにも10キロ以上の物を持って歩くことは無いが、家内は僕の四倍ほどの物を持ち込んだ様だ。30キロほどのスーツケースを前もって船に送り込んでいる。これ等の荷物で収納棚に入りきれない物はスーツケースに入れたままベッドの下に入れて置くことにする。この旅で初めて持ってきた物が幾つかはある。PCとLED読書燈、何時もより多い書籍である。目下ナチスドイツの悪行に興味があり、英文で3冊(2,500頁余り)である。それに改めて女性の研究の為、英訳 の“第二の性”700ページである。外国語は読むのに時間がかかり、少ない冊数で退屈凌ぎになる。それらは昔買ったもので、この機を逃しては読むことはないかもしれないからである。

船令約35年、デンマーク製の船は三浦半津、伊豆半島、紀伊半島の先端を結ぶ航路を進み、神戸に向かう。風が強く、外洋に出るとやや揺れ出す。比較的前の左舷にある5階船室の窓には波飛沫が掛かり、これが乾いた塩が付着して居るが、何とか外の景色は見える。伊豆半島を通過した辺りで、スッカリ暗くなる。何故か寝つきが悪く、本を読んでは寝付こうとするが、殆ど眠らずに朝を迎える。読書灯を持って来たのは正解であった。

12・09:5時頃ヤット眠りに付き、1時間半ほどで目を覚ます。外には又陸が見える。紀伊半島であろう。7時に朝食をとる。大した物はではないが、飯が旨いのは幸いである。10時から2時間程ジムで歩く。時速6キロ強である。デッキを歩くことも出来るが、向きによっては強風を受け、好ましくない。ランニングマシンは日頃使わず好きではないが、船内生活が続100日余りは利用する他ない。

 初日は上段のベッドを使ったが上り下りが大変で、皆老人で、転落の危険性もあり、上段のマットを床に下ろし利用することにする。川の字の床だ。幸い幅の広い部屋で日中は派半分に折り片付けて置けば邪魔には成らない。船内は寒く、フロントに連絡するが解決出来ない。船令35年廃船に近い襤褸船では対処できないのだ。中古船を安く買い、利益増大を図る意図が見え見えである。船員も90%以上が開発途上国の人々で、船籍はPanama である。船室の電源は一箇所で、240ボルト、コンセントもヨーロッパタイプでアダプターが必要で、変圧器を用意しないと日本の電気製品は使えない。日本の会社が運航する船とはとても思えない利益第一の姿勢が丸見えだ。

16時、横浜出航後25時間弱で神戸港に接岸。18時には出航で乗り降りの煩雑を避ける為に、船外には出ることが出来ない。スッカリ暗くなった18時には出航である。その前には騒がしい出航式があり船側からは沢山のテープが閃く。シャンペンで乾杯があるが、紛い物で不味い。

食事は昨日の昼以来、家内とは別々に摂る。当然会席と成るが皆初めてであり、出会いの挨拶から話が始まる。上海から乗りこんでくる中国からの客も含め、約1000人との出会いがある筈である。話は主に旅の話となるが、僕は語ることも無く、黙って聞くだけである。

就寝前に家内と姉との議論が始まるが、愚にも付かない話題にお互いの主張があり、どちらも一歩も引かない。兄弟、姉妹は思考方も同じで、対立すると接点を見出せない様だ。黙って読書を続けたいが、そうも行かず、この先狭い空間の生活が思いやられる。

波静かな瀬戸内海を通っている様であり、揺れは殆どない。10時半就寝。後で知った事であるが、船は四国沖の外洋を九州に向っていた。

12.10:2時半起床、PCに印象を記録後、又読書。ドイツナチスは狡猾、且つ又冷酷残忍な手口でデンマーク、ノルウェーを占領する。戦略物資の鉄鉱石をSwedenからNorwy北部の不凍港Narvikから輸入する為である、敵である英国の強大な海軍力をかいくぐり、必要物資を輸入する為にこの2国を支配下に置く必要があったのだ、

16時頃くっきりと見える開聞岳を後に佐多岬を通過し、船は一路西に向かう。航路図を見ると船は四国沖、九州西岸沖を通り佐多岬から西に向かう事になっている。種子島は見過ごしたが、屋久島、口永良部島、薩摩硫黄島、黒島が左舷に見える。天気晴朗、風穏やか、波静か。白波は見えず。

夕食後Gymに行ってみる。Running Machineが3台、上下に足踏みが出来る機械が2台、その他脚や、上腕を鍛える機械が3台、バーベル等が置いてある。僕はこれ等を使う事は好まないが、狭い船内生活で運動を続けるには他に方法が無いので、これらを使わざるを得ない。速度を6.5キロ程に設定し、2時間程歩く。

12.11-12:船は東シナ海を進み続ける。波は思いの他静かだ。空は灰色、時折雨が降り、船窓からは空と海の境が定かではない。上海には今夜23時に着く予定。その間島や陸地は見えず、時々船を見かけるだけである。

12.13:上海上陸の日である。港の建物の中にある入管を通り、タクシーを拾う。町の中心街までは25キロほどで、100元(約1600円)の情報があったが、運転手は150元だという。メーター料金で払うことにする。渋滞があったが結局111元であり、東京と比べると5分の1程度であろう。上海は過去何回か来ているので余り見たい所は無いが黄浦江の流れに沿う金融街(外灘)に行ってみる。川には多くの艀が上下しており、対岸には上海のテレビ塔が見える。よく整備された遊歩道を雨の中歩く。天気が良ければ沢山の人が居る所だが、今日は少ない。黄浦江の川面は見ない方が良い。水の色は表現し難く、強いて言えば汚れその物の色であり、その上発砲スチロール等人造浮遊物は半端ではない。1時間ほど歩くと、靴が濡れて来て面白くない。立派なビルの中には店があるのではないかと捜してみるが、古いビルなのでその様な物は無い。土地の人に訊き店のある通りに出る。有る所には有るもので、売るほど沢山の品物があり、家内どもは半時程物色する。僕も米を原料とした飲み物を買って船に戻る。中国語は良く分からないが米酒と書いてあり、酒精度10%とある。1リットル入りで、過量飲酒・有害健康とも書いてある。帰船後早速呑んでみると、甘酸っぱく日本酒とは大分異なる。これがこの地の人が好む味なのであろう。

上海からも40人程の人が乗り、出航は23時となっていたが、17時ごろに天候の影響で明朝5時とする旨の放送があった。放送は日頃から気に成っていたが、非常な音量であり、日本語、英語、中文(日本語では中国語であろうが、中国語では中文なのでだろう、飛行機等でも言語表示にはそう出ている)で各々2度繰り返される。溜まらず電話で抗議するが、中々会話が聞き取れない。向うの言い分は寝ている人にも分かる様にしているのでと言うが納得が行かない。人命に関る情報であれば、笛太鼓の鳴り物入りで、大音声で伝える必要があろうが、出航時間の遅れ等はモット穏やか方法で伝えるべきだ。掲示でも問題は出ないであろう。日本人は騒音に鳴らされている。駅の放送等も必要以上に煩い。

港の停泊で今夜は揺れない夜が過ごせると思っていたが、結構小さな揺れはあった。前後左右の揺れではなく、上下の小さな揺れを時折感じた。

12.14:出航前に目を覚ます。予定時間に成っても船は動かない。30分程経つと何か機械騒音が聞こえてきた。係留装置の解除など、準備が始まったのであろう。船首に近い部屋なので、巡航中は殆ど機会音は聞こえないので快適だ、接岸離岸時は可成りの音がする。

船は廃船前の襤褸舟で設備は悪い。空調は寒い場合が多いが、暑くなることもあり、調整が出来ない。電気の取り出し口にも不備があり、11日の夜には3つ持っていった電子機器全ての電源が入らなくなった。持っていった読書灯も壊れてしまったと思い棄ててしまったが、もう少し待っては不具合の原因が分かり捨てる必要はなかったであろう。要は電源側の問題であった。

予定より8時間余り遅れ、出航した。その理由は当局による天候上の理由との放送があった。5時間程沖合いに出、船の揺れがやや大きくなった。時折船首に受けるドンという波の音が聞こえ、其れによる揺れを感じる。只この程度の揺れはそう程珍しいものではなく、船の運航に支障の出るものではない。それでは昨晩の出航を遅らせた本当の理由は何だったのか?もしかすると、中国当局の他の思惑があったのかもしれない。国により国家権力の民生への影響は異なる。

随分沖合いに出てきたが、海の色は未だドブ色だ。チベットに発する大河、揚子江(長江、6300Km)の運搬する土砂の量は膨大な様だ。空は灰色、もう陸地は見えない。左舷側の船窓からは沖に向かうタンカーやその他の輸送船が時折見えるが、これ等は皆空荷船で、右舷からは上海への物資を喫水一杯に積んだ船が見えるに違いない。

夕方には略全員が揃った事を記念し、歓迎会と夕食会があるが。僕はどちらも参加の機会を失ってしまった。場所と時間を間違えてしまったのだ。

12.15:昼過ぎに台湾の北端に差し掛かり、台湾海峡を通るが、勿論遥か沖合いで、台湾も大陸側も見えない。西風がやや強く、白波が立っており、やや揺れる。時折大きな輸送船が見える。空は灰色である。可なり、南に来たが。気温は15度程で、外は寒い。次の寄港地Singapore迄は数日掛かる。食事は大きなテーブルで毎回異なる人に出会う。雑多な人が乗っており、若者も居るが、矢張り年配から老境の人が多い。60以上が70%を超える。男女比は4:6である。僕は語ることも無いので、黙って聞いている。大抵の話題は旅の話で、取り分この企画に過去何回参加したとかという話題だが、中には植物や星に関する話もでる。年により身体に障害の出ている人も少なくないが、こうした人達にも船旅は出来るのだ。3食昼寝付き、具合が悪ければ医者も乗っている。最高齢は92歳という。

12.16:今日も曇りである。船の位置は部屋のブラウン菅のテレビに出ているが、これは余り当てに成らない。何日間も位置が変わらないこともある。どうやら昼頃には台湾の最南端より、南に達した様であるが、それから19時までは位置が動かない。熱帯に入って居り、外気も暖かくなる。

航路は南南西に向かっており、フィリピンと海南島の間の広大な海域を通る。この行く手には今問題と成っているナンサ諸島が在る筈だ。船も陸地も今日は見ていない。

12.17:午前中薄日の指すこともあったが、今日も空は灰色、時折雨も降る。陸地も船も一度も見ていない。大分南に来ており、海南島とフィリッピンの間を南南西に向かっている筈であるが、モニターの位置情報は30時間以上変わっていない。受付に電話するが、そんな事もあるのだと、極当たり前の様にいう。空調も殆ど機能せず、暑かったり寒かったりで乗客の当たり前の快適性には丸で関心の無い様な運行振りだ。これがNOPが運営する旅とはトテモ思えない。寄港地のOption Tourも法外に高い。NOPを隠れ蓑して荒稼ぎをしている輩が居る筈だ。其のうちにマスコミの話題となり民事訴訟事件と成ってもおかしくないと思える

12.18:曇り、朝方はやや波が高かったが午後は穏やかになった。暫く振りで日の射す時間もあったが雲の多い一日であった。

昼過ぎに8階後方のデッキに出てみる。久し振りに遠くに輸送船が何隻が見え、夕方には小さ船も見えた。漁船かもしれない。デッキではバイオリン、ギター、トランペット等の練習をしている人もいる。小さなプールもあり、泳いでいる人も居た。2時間程日陰で読書をする。ナチスドイツの狂乱時代も終焉に向って来た。夕方雨が降る。空には入道雲が出ており、スコールの起こる地帯に入ってきたのだ。Singaporeまでは未だ30時間余りかかる。

12.19:今日も雲が多い。時折射す陽射しは強い。騒音の少ない場所を探し、略1日室外で読書。常時幾つかの大きな船が航路の右左に見え、島の見えることもある。日暮れから12時間後の明日の日の出頃にはSingaporeに付く。入国書類の準備をする。

12.20:船着場は埋め立て地にあり、街の中心街からは3-キロ程あるが、タクシーも地下鉄も使わず歩いて行くことにする。8時に船を離れ、入国手続き後、町を目指す。港の施設は大きく、接続道路にでるのも大変だ。家内たちの荷物を全部背負ってゆっくり歩くが、時々立止まり待たないと付いてこない。1時間毎に休憩をすることも重要だ。一人で歩く時は多少起伏が有る所でも、一日の標準コース(20キロ前後)は7時間程度で一気に歩くので、僕にとってはこういう歩き方は可なり根気が要る。身内の他、天童から来たという年齢不詳の昔の少女も一緒なので、行く先や休憩場所や、立ち寄る店舗も彼女達の言い成りだ。

高層ビルが立ち並ぶ金融街、市庁舎、川沿いのレストラン街、中華街などを歩き、中華街で食事をする。女どもの好みで、4点を注文したいと言うので、量的には根拠も示し3点で十分と思うと言ったが結局4点注文となった。女には勝てない。食べてみると3点で十分であり、1点は取り消したいと臆面も無く言い出す。女にはこの様な神経があるのだ。店側は既に作り出していると難色を示すが結局は折れる。

昼食後植物園にも行きたかったが、地下鉄の切符は現地通過でしか買えないので諦めた。女どもはSingaporeの新たな人気スポット、Marina Bay Sandsの展望台に行きたいと言うのでタクシーを捜す。13時頃町の中心部で、タクシーを捜すが、空いた車は殆ど来ない。偶に来る車はカードが遣えなかったりとうまく行かない。10分歩き、大きなホテルに行き、タクシーを呼んでもらいやっと目的地に向かうことが出来た。乗ったタクシーの運転手に何故この時間タクシーが捕まえられないか訊き、その理由が分かった。Singaporeは環境保全の為、市の中央部へも乗り入れ車輌を厳しく取り締まっており、時間帯により空のタクシーが市内に入る場合運転手が2ドル払い、乗客がいる場合は此れを乗客が負担する。この為空車で市内に入ってくるタクシーが日中は少ないそうだ。

僕は展望台、特に有料のそれには、全く興味が無い。女共の興味は展望台と、ホテルのShopping Mallであり、時間を決めて分かれる。Senior料金20Singapore dollar(1ドル約80円)で何を見たの かは訊いていない。

Singaporeには過去4度来ている。その内一度は菊池さん達とComra―  desを走った時であり、Singaporeに一泊し、Malaysiaとの狭い海峡の橋を渡り、Malaysia南端の町Johorebarに行ったことを思い出す。最後に来たのは20年以上前でありホテルの建っている広大な地域は海面であった。

午後から晴れて日差しが強かったが、この地特有のSquallに会わなかったのは幸いであった、ホテルからは3キロほどの間2度休みいれ5時前に帰船した

23時出航、次の寄港地Mauritiasまでは約10日間Indo洋の航海だ。マラッカ海峡を過ぎれば陸地も船も殆ど見ることの無い船旅と成る筈で、勿論僕にとっては始めての経験となる。

12.21:明るくなると大きな船が行き来しているのが見える。マラッカ海峡は交通の大動脈であり、タンカー、コンテナー船、大型貨物船等を常時見かける。時には本船の航跡の後を小さな漁船が横切ったりする。正午にはSingapore側の出入口部を除く海峡の一番狭い辺りを通過した様だが、勿論北側のマレー半島も南のインドネシアの陸地も見えない。狭い所でも50キロはあり、Malaisia側のMalacaも目にすることはなかった。首都のKuala Lamporからの延々と続くココナツ農場を通り過ぎ、バスでMalacaの街を訪れたのは遠い昔のことではあるが、赤い教会を始め町全体が赤いMalacaの町や遠浅の泥の海岸の記憶が蘇る。

船は北緯1度近辺のシンガポールを出ると、北西に進路を取り、時速16ノット(29キロ強、毎日700km強)で移動して来たが、インドネシアの北端を通過し再び南西に向かうまでは、更に丸一日掛かる。生活の大半はで読書で過ごし、2時間余りはジムで運動する。

夕方にはスコールにあう。22時頃デッキにでると、上空には月と星が見え、海上には点々と他の船の明かりが見える。特に明るく見えるのは漁船の集魚灯であろう。行く手遥か前方には稲光が見える。

12.22:日本との時間差が2時間の海域に入る。4時に起き久し振りに日本の新聞を見る。上海で積んだ物らしく、一番新しいのが12月15日の物で、最早新聞とは言えない物だ。オスプレーの事故や、除染に税金数千億を使うこと等が載っている。電気料金の時間差二重取りであり、政府業界が一体となった阿漕な手口である。こんな手口を使っても原発汚染が完全に解決する訳では無い。僕の古里は原発から60キロ北西西の方向にあるが、政府の基準値以内にあるだけで、何の助成もない。政治に公明公正を求めるのは最早幻想にしか過ぎない。

外に出ると傘の掛かった下弦の月が見え、小雨が降っている。左舷の遥か彼方には明かりが見える。スマトラ島寄りに航海していることが分かる。正午にはこの島の北西端を通過し、船は南西に向かうことになる。大津波を引き起こしたAchieはこの辺りなのだ。北緯1.5度ほどのシンガポールを出て北西に進み、45時間ほどで北緯約5度の北に来た地点で進路が南よりとなり、明日未明には赤道を超え南半球に入る。船で赤道を越えるのは生まれて初めてだ。

11時過ぎスマトラ島の最北西端を通過し、陸地は1週間の見納めとなるので外で出て見ようするが、雨である。雨が止んだ後、又外に出て、写真を何枚か撮る。漁船であろうか小さな船が彼方此方に見える。島の様に見えるものがあり、近づくと黒褐色の何かを小山の様に積んだバージであることが分かった。その先には引き舟が付いて、ゆっくりと動いていた。陸地から離れる方向に進んでおり、何を積んで何処に向かっているのか皆目見当が付かない。積荷は何か、海草の様にも見えるが、謎が解けることは無かった。この後は四方に広がる半径20キロの海と空だけである。

12.23:5時半頃に目を覚ます。赤道を通過している時間だ。6時前にジムに行く。6時にジムの鍵の開くのを待って、3-4人が既に待っている。何時もと同じ顔ぶれである。
日中は読書で過ごす。時折、デッキに上って四周を見渡す。水平線の遥かに船が見えることがあり、今日見たのは3隻に過ぎない。

12.24:今日また時間がかわり、日本時間との差は3時間となる。朝方雨が降る。赤道に近い海は海からの蒸発量も多く、雲も多く、見渡すと何処かで雨が降っているのが分かる。日中陽の射す時間が可なりあり、日差しは強烈だ。僅かな時間しか外に出ないが、日焼けの跡はハッキリ現れる。一隻の船に会う事も無く、陽は落ちる。

船内ではクリスマスの行事が姦しい。何でも良いから騒ぐ事が好きな様だ。その為に来ている連中は相当多く、僕などは異端者なのだ。家内たちも連日連夜彼方此方の催しに忙しい。

12.25:南インド洋はこの時期雨季であるらしい。晴れている所もあるが、周囲を見回すと何処かで雨が降っているのが分かる。短い間ではあるが、船も2-3回雨にあう。午後一度だけ遥か彼方に船が見えた。コンテナー船のようだ。冬のインド洋は穏やかだというが、実際船は殆ど揺れない。

クリスマスなので七面鳥が出たが、僕は余り好きではない。皆着飾って騒いでいるが、本当の意味合いが分かっている人は余り居ない様だ。

12.26;2日毎に1時間の時差の調整をし、日本との時差は4時間となった。船はインド洋の真っ只中を235度(南西より10度ほど西より)の方向に大圏航行をしている。雲が多く陽が射すこと無い1日であった。3度ほど外に出て見たが他の船は見えなかった。

12.27:5時過ぎ起床、陽は未だ昇っていないが上空は晴れている。ジェット機の航跡が朝日に輝いて見える。久し振りに本船以外の人造物を目にする事が出来た。朝方弱い雨が降ったが、日中は好天であった。波やや荒く、船の揺れは普段より大きく感じる。海図が変わり、縮尺1000万分の1のものと成った。船の一日に進む距離は地図上では約5cmだ。

今度の寄港地Mauritius迄は更に3日掛かる。何年か前に行ったことのある島であるが、島の位置関係はスッカリ忘れてしまって居た。人間の記憶はあてになら無いものだ。モット遥か南にあると思っていたが、意外と北にあり、緯度的にはMadaga―scarの南端と略同じだ。それに次に寄港地ReunionはMauritiusの東と思っていたが実際は西にあることも分かった。

12.28:天気良好。冬の印度洋は穏やかで波も精々2-3mだという。それでも船は常時揺れており、時々ドンという音が聞こえ、やや大きな揺れを感じる。時々夏はこの倍の波が立ちうねりも出るという。今日も空と海の他はなにも見えない。

12.29:何時に無くいい天気だ。空と海しか見ずに日が落ちる。

昼にこの旅の最長老と話をする。92歳の男で、小柄であるが何処も悪い所は無いという。耳も悪くない。変わった帽子を被っているので、訊いてみる。中国のカシュガルに行った時に見た回教徒の被っていた帽子に似ている。彼らは民族、部族毎に微妙に形や紋様の異なる帽子を被っていた。彼が被っていたのは貰った物で、オマーンの物だそうだ。元気の秘訣は何かと聞くと、暴飲暴食をせずその日暮が良いのだという。自然の治癒力を信じ、医者の世話にも成らない方が良いとも言う。確かに一理ある様な気がする。

12.30:Maulitius上陸の日である。首都のPort Louisに6時接岸である。島の北西部の港町で北側には国際空港がある。町の中央部までは徒歩で20分程である。直線距離では1キロ弱であるが、海を挟む陸路は曲りくねっており、三倍位の距離になる。出る前にどの程度現地通貨が必要か訊くが、たいしいて欲しい物は無いというので無一文で外国の町を歩くことにする。文字通りの貧乏無銭旅行である。

Water frontの商店街を経て、中央市場に向かうが地図の縮尺分かりにくい。警察があるので聞いてみる。真っ直ぐ行けば直ぐだと言うので歩き出す。20分程歩き、其れらしい物が無いので、ガソリンスタンドで又訊いてみる。どうやら警察の言う真っ直ぐとは逆の方向へ真っ直ぐという意味であった様だ。詰り僕の来た方向に真っ直ぐ行けと言う意味だったらしい。確認の仕方が悪かったのだ。警察でMaulitiusの公用語は何かと聞くと、英語、フランス語だという。然し国民の大半の日常の会話はCreole語だという。

Creole語と一括りにしているが、世界には何十ものClreole語がある。大航海時代以後ヨーロッパの世界進出、領土争奪戦、植民地化が始まり、隷属民との意思疎通言語が必要となった。この為上層語と呼ばれるヨーロッパ諸語と現地の言語との混成で出来たのがCreole語であり、この為言語の組み合わせ数のCreole語が存在することになる。これらは時の試練を経て高度な意思疎通が可能な言語に成長した。各々のCreole語を標準語としている国は何か国もあり、Maulitiusもその一つである。

それに町の表記にはフランス語が多い。歴史的に色々の変遷があり、最初はオランダ、フランス次いで英国等の列強の支配を受け、今に至ったようだ。人種的にはヨーロッパ人、インド人、アフリカ人、中国人などが住んでいる。中央市場は広大で、野菜と果物の市場である。この国には何年か前の丁度今頃来た事があり、この町の北にある飛行場の周りには野生のオクラが沢山生えていた。水分補給も兼ね良く食べた事を思い出し、市場で探したが見つからなかった。此処では余り好んで食べないのかも知れない。

道に迷いやや長く歩いたので、家内たちは疲れたといい、先に船に戻ると言い出すので分かれる。再び、水際の繁華街に戻り、写真を撮る。丁度南中の時間であり、この辺りでは太陽が真上から射す時間には殆ど影が出来なくなる時間だ。何メートルもある銅像や電柱にも殆ど影が出来ない時間帯がある。これは南北回帰線の間で起こる現象で、それ以外の所では見る事は出来ない。高い像や電柱等の写真を撮る。

その後他にも地図に書いてある観光スポットを廻ったが、これはと思う物は無かった。船に戻ったのは2時前で、船で昼食をとる。
18時出航、Reunionに向かう。

12.31:Le Portに6時着岸、8時にバスに乗り火山流の跡を見に行く。このOption Tourは現地の経済事情を考慮すると可なり高いが、初めての地はこれが一番安心出来る。途中植物園により、昼食を取り、火山流の跡を見に行く。ハワイ島のキラウエアに次ぐ、2番目に火山活動の活発な島だというが、規模的にはハワイとは全く比べ物にならない。火口からは何キロも離れた海辺には確かに溶岩が流れ固まった跡が見られる。島全体は2900年前に海洋火山が隆起し、現在の形となったとされるが、今は全域が緑に覆われた周囲、220キロ南北に長い楕円形の島となっている。西の鳥島も2-3000年後にはその位の島になっているかもしれない。この島に最初に辿り着いたのは1200年代でアラブ人だったという。その後1600年代に西洋人も来る様に成ったが、主に航海に必要な水の調達の為で、定住が始まったのは更に半世紀後とされる。砂糖の生産の為アフリカからの奴隷が導入され1848年まで続いた。中国やインドからも労働者が移り住んだが、フランスの影響が色濃く、道路等のインフラも良く整っており、アフリカ地域では最も生活し易い島であろう。人口は80万人、主産業は観光業では年間50万人(その8割はフランス人)と砂糖産業を凌ぐ様になった、カトリック80%の他、回教、仏教、ヒンズー教の人達が暮らす島である。

夕食時にジムでよく会う人と同じテーブルで食事を取る。明日が誕生日で、ケーキが出るので、一緒に食べてくれないかと言うので、その内に家内の誕生日もあるので、その時にお返しを受けてくれる事を条件に受けることにする。

18時出航、Madagascarに向かう。深夜に新年を迎える行事があるが、僕に取っては新年はも人間が決めたことで、宇宙の時の刻みの中では殆ど意味を持たず、浮かれる必要も無い。特別に祝う必要も感じない。何時もと同じ様に、時が来れば寝るだけである。

01.01:5時半前に目を覚まし、デッキに出る。沢山の人がカメラを持ち日の出を待っていた。横浜出航後3週間になるが、今まで一度も海上から昇る陽も、海上沈む陽も見たことが無い。何時も水平線上には雲があり、陽はその雲の上から登り、雲の中に消えていく。その内に海上から昇り、海上に沈む陽が見られるかもしれない。

船上では色々な正月の行事がある。餅突き大会もその一つだ。有志が突き、黄な粉や餡子を付けた餅が振る舞われる。食べてみたが、突き方が今一で、水の入れ過ぎで、糊の様な餅であった。
12時半頃、太陽が真上を通り、影が出来なくなる。南北回帰線内ではある時期必ず起こる現象である。写真に収める。

夕食時に誕生日のケーキを一緒に食べる。招待人は岐阜の男で、今回で69歳になるという。御夫人同伴で、何故この旅に来たのかを聞いてみた。ソロソロお迎えの時期が近づいた自覚があり、一度訪れた南極にもう一度行ってみたいと思い来たのだという。高卒後自衛隊に入り、南極観測隊の物資輸送業務で昭和基地に行ったそうだ。自衛隊はその後間もなく止め、その後岐阜の田舎でバスの運転手をしていたそうである。1000人程乗っていると色々な人が居るものだ。

01.02:4時半に眼が覚める。船の接岸は6時半頃であった。1日自由行動の日であり、家内のドルから現地の金アリアリに変える(100円は約3000アリアリで、逆の換金は出来ない。持っていると自然にナイナイになる通貨である)。

Ehoalaの港は港湾設備のほか何もなく、隣町のFort Dauphinの町まで8キロのバス代が6000アリアリと法外に高い。Madagascarは世界の最貧国の一つで、国民の大半が年間350ドル程度で生活している。片道バスに乗ればその日は水も呑めないことになる。僕も今日も無一文の貧乏旅行で歩く事にする。歩きに勝る旅は無いのである。

町までは立派な舗装道路があり、歩道は砂利道若干歩き難いが、一応安全に歩ける。客船が着いた時は其れなりの交通量があるが、その他の日は港から内陸への貨物輸送と、輸出用の鉱石の運搬車が通るだけで、交通量は日に100台程ではなかろうか?

港は島の南東に位置し、町への道は海岸から程遠くない所にあり、時々海が見える。道路の両側は灌木と草地である。降雨量が少なく、大木は育たない場所のようだ、道を歩いていると頭に笊の様な物を載せた女どもが灌木林の中から出てきて、同じ方向に歩き出す。籠は山盛りとなっており、上に何か紫色をしたサクランボよりやや大きな果実が見える。

暫くすると左手から進行方向に小型ジェット機が飛び立つ。その後プロペラ機も飛び立って行った。ヒョトしたら今度行く町はMadagascarの大都市なのかもしれない。

50分ほど歩くと始めての人家が見えてくる。尚も20分ほど歩くとY字路になる。左手の方に人がゾロゾロと歩いてゆく。船のOption Tourの車も其方に進んだ。町は左手に違いない。道の右左には草葺やトタン屋根の小さな民家が続く。どの家も小さく6畳一間あるかないかの大きさだ。尚も歩いていくと、一段と人の数が多くなる。道の両側に市場が広がる。食料品を始め生活用品は全てここで買えるようだ。鶏は籠に入れ生きたままで売っている。

通りを少し入ると肉屋もある。ハエが沢山おり、臭いも強烈なので直ぐに表通り戻る。市場の外れで、座る所を見つけ、水を呑んでいると見慣れた男が反対側を歩いている。船でよく会う男で名前は勿論知っているが、‘オッサン、オッサン’と大声を掛けると、此方に歩いてくる。彼にとっては外国で’オッサン‘と呼ばれるのは始めてに違いないと思うが、怒りもせずに此方に近づいて来て話をしたので改めて可笑しくなった。後でこの埋め合わせをしなければならない。

小雨が振り出し帰り足に付く。気温は30度を超えており濡れても寒くは無いので、傘も持っていない。雨は10分程で止む。暫く行くと2人のバイク警官に出会い、暫し話をする。T―shirtにPoliceと書いてあり、何処製とも分からないオンボロバイクに乗っている。英語よりはフランス語が得意らしく、漸くこの国の人口が2100万人であることを知る。国の大きさは日本の1.5倍、子供の多さを考えると少なさ過ぎる。幼児死亡率が高く、平均寿命が短いのであろう。国の統計で一人当たりのGDPは1000ドルとあるが、90%以上の人は一日2ドル以内で生活しているという。

その先で靴の小砂利を出していると、道路の反対側の灌木林の中で何人かが手招きをしているので行ってみる。往路で女達が頭上に載せ運んでいた果実の入った笊を差し出し、食えというのだ。見ると周囲の灌木に同じ様な果実が沢山成っている。差し出されたものは食べずに自分で採った物を食い、有難く礼を述べる。生活は貧しくても、赤の他人を招き寄せ、自分の摘んだ生活資源を提供するMadagscar人の心の豊かさに大きな感銘を受けた。こんなことがあるから、歩きの旅は最高なのである。

船の見える所まで帰ってきた。来る時に気が付いていたが、路傍には大小様々の雲母の破片が沢山ある。珪酸塩であり花崗岩の中にも小片が見られるが、ここでは白、黒雲母が独立した単体で存在する。これも車で通り過ぎれば気付く事は無い。歩きでしか見えない世界は意外と多いのだ。丈夫な足を持って生まれたことに感謝したい。

 船に一旦戻り出直す。海岸を歩く。白浜である。現地の子供が沢山いる。大きな船が来たので其の傍にやってきた様だ。写真を撮れという仕草をする。撮って見せてやると,見入っていた。浜には木を刳り貫いた丸木船沢山並んでいた。また打ち上げられた大きなサザエの殻が沢山見られた。

01.03:4時半に朝食をとる。Option Tourの早い出発は5時半の為、早くから朝食が取れる様になっている。僕のツアーは7時発であるが、朝飯はゆっくり食べたいので、起きると直ぐに食堂に行った。

ツアーはAndohahela国立公園のTrailを歩くことになっている。4-5人乗りの4DW(殆どが日本製)に分乗して60人で港を出発する。10分程昨日歩いた道を進み、右手西の方向に向かう。直ぐに舗装が壊れた酷い道となる。4WDはこの破壊の激しい公道を走る為のものであり、砂漠などの不整地を走る為のものではなかったことが分かった。道の破壊の様子は実際に走ってみなければ想像も出来ない筈だ。道の陥没は20-30cmは当たり前、深い所は1m程あり、水が溜まっている。揺れ方は地震体験車で震度7を下回らない感じだ。これが2時間あまり続く。途中幾つかの小さな集落がある。道路の右左に並ぶ民家は殆どが草葺で、大きさは2-3畳程であろう。1畳程の物も少なくない。屋根は1.5m程で立っては入れない。入口に戸は無く、屈んで中に入り床の無い土間に汚れた布などが見られそこで家族が寝起きしている様だ。煮炊きは外で薪や炭を使ってする様だ。僕の受けた印象は家と言うよりは巣という感じである。寒くても5度程度なので、何とか生命の維持は可能なのであろう。日本では縄文の頃ももっと確りした家を作っており、この必要があった。中間点を過ぎたやや大きな集落では帽子と上着は茶色の警官と呼ばれる男達が思い思いの棍棒を左手に持ち、2人一組で4-5m間隔で並び我々の車に向かって気の貫けた様な敬礼を送っていた。この列が延々と続く。感じ的には200人程は居た様に思う。我々御一行様の為に動因が掛けられて居たのは間違いない。この集落で小用をするが、厠等というものは元より無い。人家の後ろの畑で用をするのである。小生は犬に似てか、何故か木の根元で用を足す習慣があり、其方でしようとすると現地の案内人が木の根元は避ける様にと仕草をするので従う。木は大切であり、アンモニアの過剰供給で枯れること心配している様だ。

道路には色々な人が行き来している。頭に物を載せて運ぶ人が多いのはアフリカ的である。自転車に袋に入れた炭を目一杯積んで町に向かう人にもよく出会う。また肩の付け根に瘤のある牛が何頭も道に出ていることもある。2時間以上走り国立公園への取り付け道路に入る。赤茶色のダートの道に車輪の幅だけ舗装した区間となる。幅60センチ程の2条の舗装面が続く。この区間は8キロだという。

標高500m程の公園の入り口に着き、3つのグループに別れ各々の現地ガイドに付いて歩き出す。山道は人一人が歩ける幅で良く整備されており、目印も付いている。ガイドは主に植物の説明をする。バオバオの木や、幹の形状が良く似た、属名象の脚という木の話がでる。植物園の説明と言った感じだ。1時間程歩き、木陰で昼食を取る。支給されたアルファー米(日本製で200円程の物)には出発前に各々が水を入れてあり、丁度食べ頃になっていた。40分程で又歩き出す。途中デンデンムシの殻のような物があり、ガイドに聞くと貝殻だという。山道は川を挟み細長い形状をしており、巻貝の一種であろう。形状は田んぼでよく見るツブに似ているが、大きさは2-3歳の子供の拳ほどであった。

後半も1時間程歩き出発点に戻った。これで全行程終わりだという。国立公園は広いのであろうが、整備された山道は4-5キロ程度であろう。この間出会えた動物はトカゲ数匹、小さな蛇一匹、トンボ、ハエ、鷹位であった。フランス語のパンフレットには輪尾猿や他の猿の写真も載っているが、目撃は出来なかった。

歩きが終わる時間に合わせる様に、空色の帽子、上着はみな同じ、下は思い思いの半ズボン、サンダル、草履の100人程の若者が現れ、単調な歌声に合わせ足踏みダンスの披露が始まる。これも動員されたものであろう。砂煙が濛濛と舞い上がるので遠くの木陰で出発をまつ。ダンスの輪を女、子供達が囲み、声援を送る。こちらの時の過ごし方なのであろう。


この土地固有種を見ること無しに島を離れるのは残念ではある。期待していたカメレオン等には出会えなかった。どうしても見たければまた来いということであろう。

01.04:天気良好。波静か。陸地も人造物も見ることなし。

01.05.天気良好。船が左右にゆっくりと大きく揺れる。白波が立っているわけではなく。海は穏やかである。よく見ると大きなうねりの上に小さな漣が乗っている様な海面である。海面は穏やかであるが、船体に掛かる合成力が大きな揺れを齎しているのだ。今迄で一番大きく揺れた日だ。船はマダガスカル南東部の港Ehoalaを出てからMozambique海峡をおほぼ真西の方向260度の方向に一直線に進んでいる。夕方遠くにタンカーらしい船を2隻か見えた。南アのDurbanに向かっている様だ

01.06:朝方眼が覚めると機械音が喧しい。接岸作業が始まっているのだ。MozambiqueのMapto港到着である。接岸した岸壁から100mほどの所に町が広がる。

朝飯の後取り敢えず町を見ることにする。船で貰ったコピーの地図は頼りないが、無いよりは増しであろう。港を出ると直ぐ左手に立派な建物が見える。右手には巨大な女性の石像が立っており、その真ん中に真っ直ぐな道が通っている。ポルトガルの支配を受けた町であり、町は略碁盤目に出来ていて歩きやすい。只、地図には“NoGo”の印が付いており、不用意に近づかないほうがいい場所もある。要注意な町だ。取り敢えず港からの真っ直ぐな道を歩く。道幅は可なり広く、30-40m程ある。この道はほぼ南北に通っており、木陰のある東側を歩く。歩道は広いが至る所痛んでいる。凸凹は半端ではない。この歩道の両側に露店が出ており、ありとあらゆる物を売る程並んでいる。歩行者は真ん中に開いた人がヤット擦れ違うことの出来る空間を歩くことになる。

物価はビール一杯が100円ほどと聞いているが、取り敢えず両替をせずに文無しで歩く。暫く歩くと家内の姉が何か呑みたいと言い出し、カードの使える店を捜す。腰を下ろせる木陰も捜すが中々見つからない。ヤット木陰を捜し、水を飲ませる。僕はこの間、辺りをウロウロ。又暫く歩き、緩やかな昇りの頂上に来ると、町の賑わいも落ち着いてくる。其処から引き返すことにする。来る時にも聞こえたが大きな人声がする建物がある。可なり大きな建物で、広い開口部を入って行くと、奥に何百もの椅子が置いてある。最前部には2-30人の人が集まっており、中央に羊と群れの描いた絵がはりだされてあった。ポルトガルで何やら書かれており、教会である事が分かった。それにしてもあの絶叫音は物凄い。耳栓無しでは一週間で難聴に成るのではないかと思った。牧師の説教であろう。これが有り難い人には有り難いものなのであろう。宗教とは摩訶不思議な物なのだ。建物の外の歩道には聖書等を売っている露天もあった。

女どもが反対側の道路も歩きたいというので、日差しのある歩道側を歩く。代わり映えはしない。心持、果物など食料品の店は少ない様だ。

先ほど反対から見た黒い屋根、白と緑の立派な建物に行ってみる、表の表示はポルトガル語であるが、鉄道の駅であることは分かる。中に入ると今も使っている駅だ。博物館も構内にある。ここの鉄道の始まりは1853年で、今の建物は1935年建造のものであることが分かる。昨年のアメリカのTimesによる世界の10の美しい駅の中で3番目に入る駅だそうである。世界の名だたる大都市の中の駅で日本では金沢駅が入っている。僕が見ていない駅はIndoのMumbai駅だけだ。マプトの駅は美しくはあるが一番小さい様だ。

01.07;今回の寄港地中複数日停泊する最初の港がここMaptoである。その理由はここから南アフリカのクルガー国立公園への往復が出来ることだ。僕も行きたかったが、この旅での大失敗はMozambiqueのVisaをSingleで取ってしまった為、南アへの出入国が出来なくなってしまったことだ。この為、何も見るべき物もないこの港町で無駄な時間を過ごす破目になった。それでも午後、家内が又町を観たいというので一緒に出かけた。港の出口には旅行客を鴨にする色々な男が居るのは当たり前だ。早速一人の男が付いて来る。店を案内してやると英語で持ちかけてくる。僕は無視するが、家内が余計な話をする。何度も余計な話をしない様に信号を送るが、家内には通用しない。家内も何十回も海外旅行はしており、向こうから話しかけて来る人は無視するよう言って聞かせてあるがスッカリ忘れている。如何しようも無い阿呆になっている。5分位付いてきて、店に来たから2ドル払えて要求して来る。家内も僕も文無しでは払い様は無い。漸く船の傍まで辿り着き、執拗に2ドルと要求する男を振り切る。この様な不愉快な出来事は避けるべきで、家内には改めて注意を喚起した。相手は純粋な商売人で興味も無いのに気のある素振りは億尾にも出してはいけない。お互いに不幸な結果を齎すだけだ。家内は僕より暇で、日本でも店に立ち寄っては彼是余計な事を言ったりする。電話の商談などでも余計なことを言い過ぎる嫌いがある。どんな人にも礼儀を持って接する必要があり、家内の今日の行動は礼儀を欠いたものだ。船に帰ると、オッサンに出会う。僕より若く、家電の海外勤務の長い男で、何処でも一人で歩く男である。港の傍の官庁街で2人組の警官に30ドル恐喝されたという。警察はカービン銃をもっており、有り金全部取られたと浮かない顔であった。警官といえども悪事を働く国はここ以外でも幾つもある。要注意だ。

01.08:南アとの国境に近いMaptoを昨夜11時に出ている。5時前に目を覚ますと船は可なり揺れている。時折ドーンと船体に当る波の音が聞こえ、その後大きな揺れが来る。海面は白波が立っており、風も強い。昼過ぎからは一時右舷側のデッキが封鎖になった。ほぼ1ヶ月になる航海中一番の揺れだ。正午頃南アの一部と思われる陸地が見えた。又夕刻には航跡の彼方に小さな船が見えたがどんな船なのかは全く判断出来なかった。

航路図によるとほぼ真南に当る188度の方向に進行中の筈である。船はこの後、215度、更に225度と角度を西より変え、喜望峰を廻ってCape Townに向かう。

01.09;空は曇っており、船は大きく揺れている。明るくなり、海面を見ると白波は立っていない。大きなうねりがありその上に小さな波が乗っている。一見静かに見える海は秘めた力を持っており、船にはドーンと言う衝撃音と振動を与える。

日中3度ほど甲板に出ると、大きな船が一隻ずつその都度見えた。午後には何度も訪れたアフリカ最大の港Durbanの東を通過したが、勿論大陸は見えない。夜暗くなってから大きな客船が反対方向に消えていった。

01.10:5時過ぎに目を覚ますと明るくなっていた。天気は良い。5時半に10階の甲板に出ると、既に陽は登っていた。昨日とは異なり白波の立つ荒れた海面となっており。昨日よりも揺れもやや大きくなっている。進路は251度、更に260度と西よりになっており、アフリカ大陸の最南端、Cape Agulhas(南緯約35度)の沖合いからは暫く真西に進む。その後北に向きを変え、真夜中の2時頃喜望峰を廻り、Cape Townには明朝6時に付く予定である。

01.11:南アの入国手続きは簡単である。何も書かなくて済み、パスポートを出すだけで、何も聞かれることもない。89年か90年に来たことがあり、Water frontと称される当時としては新しい繁華街の傍の港から、高層ビルの建つ中心部に先ず歩く。ATMで取り取り敢えず2000ランド(IR=8円)換金をする。その後傍のホテルに寄り、タクシーの1日貸切料金を聞くと2800Rだという。直ぐに電話をして貰い、タクシーを待つ。この他に必要な費用はケーブルカー料金や喜望峰有料道路費等であるが、運転手と最終的に港の手前のATMに立ち寄って貰い、不足分を換金支払いすることで合意する。

此方の行きたい所は喜望峰、ペンギン群生地、Table Mountainである。これでほぼ1日7-8時間の行程になる。


喜望峰は町から12-13キロであり、海岸沿いの景色の良い所をはしる。途中2-3度車を止め写真を撮る。その先で可なり大きな山火事の煙が昇っているのが見える。喜望峰は前回も来ているが家内達は始めてだ。見晴らしのいい海岸では車を止めてもらい写真を撮ったりする。岬の最南端で車を止め、暫く歩く。船に乗っている連中もバス何台かで大勢来ていた。次に高台の灯台に向かう。駐車場から電車も出ているが、歩くことにする。家内達は途中2-3度休みヤット登る。船に乗っていた大半の連中は電車を利用していた。往復100Rである。平常の経済感覚では法外の金額である。灯台からの眺めは素晴らしい。灯台の手前にはアフリカ最南端の気象観測所がある。

この半島を訪れたもう一つの目的は動物を見ることであった。前回来た時は6月中旬の天気の良い時であったが、観光客の食べ物を奪い持ちさるマントヒヒやのんびりと日向ぼっこしている30cmほどの地鼠、ダッシーの群れやBokと呼ばれている大きな鹿を見ているが、今回は姿を現さなかったが、Bokの糞は途中大量にお目にかかった。


駝鳥牧場を廻り、ペンギンを見に行く。浜辺には木道が用意されており海よりの茂みを良く見ると3-40cm程のペンギンが居る。卵を抱いている番も居り、卵が転がっているのも見かけた。茂みの下の海で泳いで得るペンギンや、大きな岩の上には沢山のペンギンが見られる。さっきの山火事は未だ治まっていないらしく、煙や灰で視界は悪く、息苦しい。町に戻ろうとして暫く進むと交通止めに会う。山火事の影響だ。大きく迂回し、途中小さなWineryを通過し、町に戻りTable MountainのCable Car乗り場に急ぐ。乗り場は高度500m程の所にあり、頂上は1060mある。3分程で着く、町や港が全貌出来たが、残念ながら、海上は霧の為世界遺産と成っているRoben島は見ることが出来なかった。Table MountainはCape Townの象徴的な山であり、国立公園でもある。隆起大地の為、頂上は遠くから見ると平らである。実際は何億年もかかり風化した大小の岩石の間に灌木や高山植物の花が咲いている。沢山のダッシ-を見ることも出来た。何百メートルもある垂直断崖に2人のクライマーが挑んでいた。時間があれば何日でも楽しむことが出来る山だ。夕刻6時船に帰り着く。

日により時間帯により、雲が平らな山頂から絶壁に沿い下降する様はTable clothと呼ばれる。船の高層デッキから改めて山を眺める。平らな山頂に雲が一面に掛かり気温が下がる日暮れ、肉眼では其れらしい様を捉えることは出来たが、写真を撮ることは出来なかった。

持って来た3冊のHitlerとNazismもほぼ読み終えた所であり、前回訪れたユダヤ博物館を訪れ、ユダヤ人がこれ等をどの様に認識しているのかを確認したかったが、時間が無く果たせなかった。
Cape Town 出向22時

01.12:大きな音と揺れで目を覚ます。音は鈍い音とやや高い音とがある。船体のあたる場所や水塊の大きさの違いにより差が出るのであろう。頻度も今までより頻繁になった。波静かなインド洋から大西洋に入ってきたのだ。風は強く、白波が立っている。一日中曇りで今までより気温は可なり低い。緯度的には南緯34度程で、大阪辺りと余り変わりは無い。盛夏であるが22-23度程であろう。海水温は11度とある。南極からの冷たいBenguala海流の影響だという。

3度ほど甲板に出たが、その都度1隻の船が見えた。又見るからに飛翔力のある海鳥が海面すれすれに何匹か飛んでいた。海鳥の飛ぶ姿は実に華麗で美しい。

01.13;揺れは昨日と余り変わりなく大きいが、周期は大長くなった。よく晴れた1日となり、海面はスッカリ穏やかである。大きなうねりの上に漣が乗った海原が続く。

午前中非難訓練がある。部屋から救命胴衣を持って、8回の劇場に集合し、点呼確認を受け、その後救命艇下のデッキ出て暫く待つだけで訓練は終わりである。この間上海から乗った男が、携帯で取ったイルカと海亀の写真を見せて日本では何と呼ぶのかと尋ねてきた。イルカと亀だと教え、中国語で何と呼ぶかと訊くと、イルカはハイトン(海豚)と言っていたが、亀は忘れてしまった。海を指して“イルカは居るか?、亀は居るか?”と訊いたが分かる筈はない。僕はこの航海中全く鳥の他見ていないが、鯨や飛び魚を見た人も居るという。たまにしか甲板に出ない者にとってはそれらを見ることは無いかもしれない。

01.14:眼が覚めたのは6時少し前であった。船は殆ど揺れておらず、横に成っていると洋上に居るとは思えない。天井に張ってある洗濯綱を見るとやや揺れている事が分かる、空は略全面の雲で覆われている。海面には小さな白波が彼方此方に見える。ジム直ぐに行ったが、空いている機械は無い。コーヒーを飲んでやや待って40分ほどの歩行運動をする。

Cape Townを出ると、船はほぼ真西の268度の方向に暫く進み、その後北寄りに271,274,276,278,283,282,287度と何回か方向を変え、その先再び南寄りの210,217.214.218度と方向を変え、ほぼ丸10日振りにRio de Janeiroに付く。この様な航路は距離が最短になる大圏航路と風及び潮流等も加味し、最も経済的な航路なのであろう。概ね西に向っており、陽は朝船尾の方から昇り、夕刻は船首の方に沈んでゆく。

ドイツの狂乱時代の本はひと先ず読み終えたので、最後の一冊“女”に関する本を読み出す。僕の学生時代に話題となっていた実存主義哲学の女傑、Mme.Simonne de BeauvoirのLe Deuxieme Sexe(英訳、The Second Sex)である。昔買って置いたものでヤット読む機会を得たのはこの船旅のお陰だ。

01.15:朝方空は曇っている。海面は略平らで、船の揺れも殆どない。昼甲板に出ると、先日見た同種の鳥二羽が船の後ろ100m程の航跡の上を右に左に飛びながら付いて来る。実に優雅な飛翔だ。昼からは晴れて来て、気温も快適になってきた。

01.16:曇り。波静か。朝短い間雨が降る。船尾の方の空は曇が多く、彼方此方で雨となっているのが分かる。船首の方を見ると船を跨いで大きな虹が掛かっている。多くの人が気付き写真を撮っていた。10時頃から天気は良くなる。昼に甲板に出てみる。視界に入るのは空と海のみである。今日は鳥も姿を現さなかった。

部屋にある小さな白黒のモニターを見ると船は丁度大西洋の真ん中辺りまで進んできた。今日は又時差調整のある日で、時差は丁度10時間となる。略真西に進んでおり、2日間で1400キロ移動し、この辺りの緯度では之が1時間の時差に相当する。赤道近辺の緯度の低い所ではい時間の時差は1600キロ以上であろう。Rio de Janeiroと日本との時差は丁度12時間の筈で、着く前にもう2度時差調整が必要となろう。2日に1時間時間を得したような錯覚を得るが、日本に帰るには日付変更線を超えなければならず、その際一気に24時間、丸1日が消えてしまい、喜んでばかりいられない。

01.17:大きな揺れで目を覚ます。白波が見え曇っている。甲板に出ると風が強く小雨が降っている。6時にジムが開くが、その半時前には常連が3-4人には戸口前で待っている。3人目までが好きな機械を使うことが出来る。4人目意向は第二選択の機械か他の運動をして待つことになる。込んでいる時は30分で交代することになっている。この間にコーヒーを飲むことも出来る。待っている間に外に出ると船首の方に、船を跨ぐ様に虹が掛かっている。その内に他の人々も気付き、写真を取り出す。

昼にデッキに出た時は天気は良くなっていた。コーヒーを飲みながら船尾の海面を眺める。イルカ居るか、居ないか?が気になって出来る限り海面を見る様にしているが、未だ見たことはない。航跡を追って何時も見る鳥が右に左に、前に後ろに忙しく飛び廻っておる。ツバメに似た鳥で、鳩ほどの大きさがある。動きが早いので、個体を追う事は難しいが、暫く見ていると4羽いることが確認出来た。それにしても、陸からは2000キロも離れたここで何をしているのだろうか?航跡を追って飛んでいるのは何か意味があるのであろう。船の推力による異常な海面の発生で、魚が見つかり易くなっているのであろうか?

01.18:船は静かに前進を続ける。波は治まり、静かな海面となっている。天気も良い。船内では連日彼方此方で色々な文化、体育、娯楽番組があるが僕は一度もそれらに参加したことは無い。その内に暇が出来たら、スペイン語や太極拳等を遣ろうと思う。

今大半の時間を費やしているのが“女”の研究である。もう少し早く之を手掛けていたら、モット増しな人生を遅れたかもしれないが、今からでも遅くは無さそうだ。以前からそう思っていたが、女と議論をしても勝ち目は無い。そう思ってはいたが、如何しても議論にはなる。只、今回何故女と議論をしてはいけないかの根本的な理由が分かったので、金輪際肝に誓ってしないことにする。こう決意する学問的な根拠が今になって始めて分かったからである。

女による“女”の解明書、“第二の性”の中でボボアールは、生物学、人間発達、文化史、哲学、文学など膨大な資料を駆使し、女の特性を解明する。その序論は生物学見地から始まる。それによると、女性と男性の差は身体の外見的特性のみならず、消火器、循環器、呼吸器等も男性に比べ外的要因に対し過敏、不安定な動きをするという。又血液、ホルモンにも微妙な差があり、男性に比べ、心的な揺れが大きくなる傾向があり、その原因は懐胎出産等の男には無い身体活動に起因するとしている。ヒステリーは女性特有精神現象でギリシャ語が語源である。天下の哲人ソクラテスも細君との折り合いに腐心したことは有名である。女との付き合いはかくも難しいのだ。これ等を考えると、内の迪子が“黒“と言い出した物を灰色ではとか白ではないかいという議論は出来ないのである。

この書の中にはこの他にも面白い事が沢山書いてある。今朝読んだ中にはNietzscheの言として“The warrier loves danger and sport, that is why he loves woman, the most dangerous sport of all,”(武士は危険とスポーツを好む、之故、女を好む。これ以上危険なスポーツは無い。)という下りがあった。英雄色を好むという諺もあり世の真実なのであろう。

01.19:今朝も良い天気。甲板に出ると久し振りに船が見えた。海は穏やかで、船の揺れは小さい。

01.20.朝方小雨が降るが、その後回復、良好な日和となる。船の揺れも小さい。夜10時頃ジムからでて海面を見ると、3隻の船の明かりが遥か彼方に見える。大港湾であるリオに向かうか、リオからの船であろう。

01.21;4時頃に目を覚まし窓外を見ると、丁度巨大キリストの像が建つ丘を通り過ぎる所であった。船の速度は可なり低速で、5時には停船に向けての機械音が響き出す。リオに着いたなーと感じる。

8時頃船を降り、小さな地図に①が付いているお登さんの丘“Pao de Aacar”(ポルトガル語フランス語同様母音には勿論、c等の子音にも尻尾の様な符号やその他の符号が付く、英字にはその様なものはないで正確な綴りではない)、英語ではSugar loafの丘に行くことにする。先ずATMを捜し、今日必要な現地通過を手に入れる。3人分の1日の行動費300レアル(円価約9000円、更にATM使用量20レアル)。如何しても足りなければ、又換金するか、カード支払いの可能な店を利用するしかない。金を手に入れると直ぐに街角でタクシーを拾い、地図の①を示す。20分程走り、丘のケーブルカー乗り場に着く。メーターは27レアル余り出会ったが、硬貨を貰っても使う当ても無いので、差し出すと30レアルの領収書を呉れた。感じのいい運転手であった。この辺りは長年の風化で出来た、頭の丸い円柱の様な岡が幾つかあり、キリストの丘もその一つである。花崗岩が風化した丘であろうか?今回は前回訪れたキリストの丘より更に高い丘に登ることにした。ケーブルカーは一人76レアルでこれはカードで払う。丘は2つあり、ケーブルカーは2段継ぎで登っていく、2つの丘とも急な絶壁で出来ており、多くの人が岩登りに挑戦している。

丘からの景色は絶景で、リオの町のほぼ全景が目に入る。湾を結ぶ日本の企業の手になる巨大な橋も、国内線の空港、キリスト像の丘、コパカバーナ海岸が一望できる。船に乗っている連中もバスに分譲し、大挙して訪れている。彼らはここに来るだけで10000円程払っている筈だタクシーで町の中心部に出る為、運転士に市立の劇場の番号を指す。了解して走り出す。目的地に着くと100レアルを要求される。今朝より近い距離であり、20レアルで十分の筈だと主張するが相手は了解しない。仕方ないので、警察署に行く様指示する。了解した様で暫く走るが、此方は地理に不案内、警察に行く素振りを示し、あらぬ所を引き回され又問題を大きくしかねないと思い、タクシーが2-30台留まっている通りで止まるよう指示する。降りた所で、通りかかった若者に警察は何処かと訊くと、余り英語は出来ないが此方の言い分を聞き、何やら運転手と話をする。35レアルで良いと運転手が言っていると言うので、その程度であれば応じても良いと50レアルしか無いので其れを渡すと釣りも払わずにタクシーは走り去った。青年は呆気に取られていたが、この程度の事故は旅のうちにはあり得る事だと肝に収める。

3人で屋台風の店で飯を食う。肉料理であったが全部で1500円程度、可なりの量があった。その後国立美術館を一回りする。ブラジルは広く国民が文化、芸術に接する機会を得るように、殆どの博物館美術館は無料である。世界の一流美術館には及ばないな、南米の美術の展示にはそれなりのものはある。日系作家の展示も何点か見られて。

美術館で港までの道すがら買物をしたいのだがと尋ねると、館員の一人が、英語は殆ど出来ないが、何とか此方の役に立とうと、外まで着いてきてくれた。電車に乗っていくのが良いと方向を示している時、若い男女の2人ずれが通りかかり、彼らが助けを申し出てきた。英語は可なり出来る。駅で切符の買い方は居合わせた駅員が教えてくれるが、彼かが通訳をしてくれた。路面電車に乗るには先ず券売機でカードを買い、それに必要な金額を入れ込むことが必要だという。所で歳は幾つだと聞くので、3人とも70を超えているというと、それならカードも金も全く払う必要が無いと言うことになる。ブラジルは老人も優遇される国で、日本とは大分違う。

それにしても今日は落差の多い日であった。リオは犯罪が多いことで有名である。只、僕の感じでは95%以上の人々は皆善良で親切な人達だ。問題なのは極1部の人達であるが、人々の生活、社会の安定にはこれらの人達への対応が問題なのだ。

港の近くの繁華街で有り金全部使うことにする。家内たちに50レアル渡し、手元に72レアル残っている。殆どの店は土曜日で閉まっており、飲食店ぐらいしか開いていない。ある店に入り、赤ワインを1本頼む。ポルトガル産のワインで60レアルであった。それにChampaign一杯を頼む。12レアルで文無しになる。船内では昨年の暮れから飲んでおらず、久し振りの飲酒でいい気分になる。後は又次の寄港地で飲めばいい。22時出航。

01.22:夜中3時頃、咳きが出て眼が覚める。中々治まらず、鼻水も出る。これで朝まで眠れないのでは思っていたが、スッカリ寝込んでしまい、起きたのは7時に近かった。

雨が降っており、空は暗い。海面は穏やかであるが、横揺れがいつなく大きい。船は南アメリカ大陸の東岸を南西よりやや南の方向、215度で南に向かっている。この為か波は陸地に平行、船の進行方向に対し垂直になっているのであろうか?

昼頃小さな小船が見えたが直ぐに視界の彼方に消えていった。陸地からは300キロ程はなれており、漁船であろうか?何時も見る鳥が2羽確認出来た。 

02.23:雲は多いが終日先ず先ずの天気だ。海は穏やか、揺れも少ない。朝方反対方向に向かう船が見えたが、直ぐに窓の視界からは消えていった、南米大陸の東岸100-300キロの沖を南下しており、上下する船が甲板に出るとその都度1-2隻が見える。次の寄港地、Montevideoは海外からの輸入品の南米への陸揚げ地だという。良港、内陸交通網、関税制度等の条件が整っているのであろう。

出来るだけ海面を見る様に心掛けているが、この時間は精精日に1時間程度であろう。今日生き物は何も目にすることは無かった。

02.24:船内には色々な人間が乗っているが、僕は余り新たな知り合いを作りたくないので、自ら話し出すことは無い。70過ぎると百-百五十人程の友人は既に居り、これ以上増やす必要は感じない。同じテーブルで話し掛けてくる人には失礼の無い様に対応する。名前と顔は覚える様に心がける。乗船40日程になるが、5-6人の顔なじみは出来た。顔だけしか知らない人も何人かいる。色んな人が居るが、大体話しかけ来る人は中身が無い人が多い。外見は派手だ。僕はこの様な人種をチンドン屋と呼んでいる。乗船2-3日の朝、向かい側に座ったバーちゃんチンド屋が名刺を差し出して話し掛けて来た。T-シャツはNorwayのとかいてある。Norwayは彼方此方行ったか、何処が印象に残っているかと聞くと、何にも返事が返ってこない。何も見ていないのだ。名刺にはこのボートに10回以上乗っていると書いてある、歳も書いてあり、僕より幾つか若いが、見掛けはババーだ。趣味も色々書いてあるが、趣味として恥ずかしくないものは何も無い。名刺は真っ直ぐゴミ箱に入り、その後はチンド屋の傍に近づか無くなったのは言うまでも無い。人生それ程暇ではないのだ。恰好で分かるチンドン屋はこの他にも10人程はいる。又自分でお見知り置きと自己紹介をしておきながら、次に名前を呼んでも知らぬ顔をしている男もいる。

序にこの船旅の船客の分類をしてみよう。年齢別では20代の若者も居るが、彼らはアルバイトをしながら旅をしている。上陸先での現地案内人の通訳などの仕事だ。船内の余興等も彼らの仕事だ。勤労者世代は少なく、大方は退職後の連中だ。僕も若い方に入るのかもしれない。大抵の人は髪を染めている様だ。染める必要の無い人も多く、この人達の光方は様々である。

チンドン屋ババーの様に、この船を老人ホーム代わりにしている人は何人もいる。私設高級老人施設の場合、初期入所には多額の金が必要であろうが、この船の場合、その様な頭金の心配は無い。医療も受けられ、三食昼寝、娯楽文化活動など、贅沢を言わなければ普通の生活が出来る。船は年3-4回の航海があり、日本の港から出、日本の港に帰る。航海の無い時は港の傍のホテルに泊まれば、家は無くても暮らせる。家を売り払い、年間7-800万工面できれば、結構快適な生活は保障される。船には死んだ場合の準備もあり、棺桶は4つ用意してあると聞く。

今日見た生物は何時もの鳥一羽と、夕方には糸トンボの様なトンボが2-3匹と蝉の様な昆虫が船上で飛んでいた。陸地は見えないが、近くなっていることが分かる。

21時半ごろジムから甲板に出ると。稲光が彼方此方でしている。部屋に戻り電気を消すと、更に頻繁に光が見える。稲光の明かりは相当な物で、海面が水平線まで時々見える。頻度も頻繁に成って来たので、再び最上階のデッキに行ってみる。先ほどは船尾の右左の限られた範囲の、稲妻であったが、今は空の前方向でも略毎秒の様に光が見える。音は聞こえない。海面の見える範囲は半径20キロ程だというが、この範囲の何処かで頻繁に雷が発生しているのだ。光は時により、白色のギザギザの線を描き海面に届く。有る時は雲の陰で起き、雲が赤身を帯び、空を照らす。兎に角この現象が空の全周で頻繁に起こる。こんな現象がある事は聞いたことも無かった。まだまだ知らないことは沢山あるのだ、また部屋に戻り、暫く窓越しに外を覗く。雷は日の変わる頃まで続いた。この間音が聞こえたのは一回だけであった。

01.25:5時半にジムに行く。UruguayのMontevideoに入港、着岸の準備が始まっていた。この国を訪れるのはこれが初めてである。

8時頃小さな地図を頼りに町の散策に出かける。3方を海に囲まれた、碁盤目状の道路が通っている歩き易い小な町だ。南米の物流拠点との話を聞いていたが、港の設備も貧弱で、トテモ其の様には思えない。港からの鉄道もなく、道路も其れらしい規模ではない。町の独立記念広場や、その他の広場、教会等廻るには1時間もあれば十分であろう。家内やその姉は未だにゴミに興味が有るらしく、店に立ち寄ると彼是弄り回す。1箇所で30分もこれをされると、ポーターは遣り切れ無い気持ちになる。おまけに船の仲間に出会うと又新たな物色が始まる。付き合いきれず、先に船に戻る。
治安は余り良くないと言われているが、その様な気配は無かった。歩道もそれないに整備されており、ゴミ等も気になることは無かった。夕方出航。

01.26:6時前にジムに行く。未だ開いてなく外で待つが、風は冷たい。30分余り、傾斜15度、速度5キロの運動をする間に、ブエノスアイレス港の接岸作業は終わった様だ。

地図を貰い町の散策に出かける。凡その検討を付け其方の方向に歩き出す。天気は快晴、雨の心配は無さそうだ。朝がたは半袖では寒いので、陽の当る側を選んであるく。途中2度尋ね5月広場に付く、約3キロ歩いたことになる。広場は大きく、隣接した広大な公園もある。広場に着いた時、ヘリが降り立つ。傍に大統領官邸があり、要人が降りたのであろうか、警官が目に付く。官邸はWhite houseでは無くPink houseである。沢山の報道陣がカメラを構え、TV中継車も2-3台止まっていた。傍には中央銀行や大聖堂もある。辺りは金融街でもあり、多くの銀行が店を連ねている。アメリカのCiti銀行のATMで1000アルゼンチンペソを換金する。手数料は92ペソである。この辺りでバーさん達はもう元気が無く、200ペソを小遣いに渡す。パリの小型シャンゼリゼ通りの様な先にはオベリスクが見える。6月9日通りに建つ塔でありその通りは是非見せて置きたいと思い歩き出すが、ある店の前に手頃な腰掛があり、2人で其処に腰掛動かなくなる。500m程あろうか僕は塔の傍まで行き引き返し座っている前を通り過ぎるが、二人は気が付かない。又引き返し、いい加減に歩かないかと誘う。荷物は全部持ってもこの有様だ。これが最後となるであろうが、バーさん2人のポーターはもう沢山だ。

やっとオベリスクに辿り着く。塔の廻りは人で一杯だ。オノボリサンのグループでもあろうか、難民の集合場所の様にも見えるのは何故であろうか?二人は疲れきり市内観光バスに乗りたいと言いだす。歩いた距離は4キロ弱だ。バス乗り場の場所を教えて、一人で歩いて別の道を歩き、船に戻る。途中何人かが路上に寝込んでいるのを見かける。路上生活者は結構多い。酔っ払って寝ている人も居り、警察が退去を促す姿も見られた。又一寸した小屋を作り夫婦と幼児2人の家族のホームレスも始めて目にした。小屋と言っても1坪にも満たない物で、その中に寝具を用意し、乳母車も置いてあった。冬季は可成り寒い筈であるがこんな環境でよく生存出来るなと不憫に思うが、僕の出来ることはない。

船で昼食を取り、又出かける。港を出て中央に緑地帯のある大通りを暫く歩き、同じ道の反対側を歩いて戻る予定であったが、同じ道ではなく。随分大回りをしてしまった。只町を知るには歩くに限る。南米のパリを称されるBuenos Airesは港を中心に出来た町の様に思える。港から北西に向かう大通りの直ぐ傍に巨大なバスの駅がある。僕は今までにこれ程大きなバスの発着所は見たことが無い。大きな建物があり、その2階に250社ほどの南米各国のバス会社が店を構え、発券している。1店舗5mの間口で計算すると、店舗の長さは1kmを遥かに超える。仮に奇数、偶数の店舗を右左に分け、真ん中に通路を取ったとすると600m余りとなる。これ等が全て一つの建物、“バスの駅”の中に入っているのである。発着所は1階でゲートの数は100程在る。大型バスの乗り場の幅を仮に7mとしても700m程になる。これ等の発着所から国を跨いで南米の各地に旅することが可能なのである。鉄道が余り発達していない南米ではバスは安価で手っ取り早い交通機関なのである。

バスの駅の隣は鉄道の駅である。これが又変わっている。こんな駅があろうとは今まで想像もしなかった。空間を挟んで駅舎が3つあるのである。線路は同じ方向に向かって敷設されている。考えられる理由は歴史的なものかもしれない。1-6番線あれば良いと考え、立派な駅舎を建てた。7-10までが必要なったので又新しい駅を作った。更に11-14が必要になったので新たな駅舎を作った。その前に前の駅との間には道路が通っていた。と言った具合ではなかろうか?いずれにしても場所が十分にある事が前提で、日本では出来ない相談であろう。

この街には何年か前の正月を迎えた事がある。元旦の晩餐は町一番のレストランシアターでタンゴを見ながら摂った記憶が残っている。

2度目の帰りに赤ワインを買う。100ペソを持っていたので値段の丁度合う物を捜し、店で開けてもらい、瓶は重いので水のプラスチックの容器に詰め直して持ち帰る。帰ってくると、バーさん方は大鼾の最中であった。ん十年の前の乙女の面影もう其処には無い。
出航は真夜中12時の予定。

01.27:明るくなり、外に出てみると船は可成りユックリと濁った海面を進んでいる。聞くところによると、Buenos Airesは南米第2の大河La Plata川(世界第2の水力発電所ItaipuやIguassuの水が合流した川)の河口の湾の南岸に位置し、湾内及び可成り沖まで泥流の堆積で海の深さが10m程であるという。船の喫水は7.5mであり、深度を図りながら用心しながら航行しているのだ。

昼食後デッキに出ると、Montevideoが見える。この港は同じ湾の北東の出口部にある。航路の関係で一旦元来た方向に戻り、そこから南下するようだ。船は海底が浅い為、航路標識に従って巡航速度の半分以下の毎時10キロ程で進んでいる様だ。喫水の浅い小さな貨物船が右舷200m程の所を悠々と追い抜いていった。泥水で濁っており、波は穏やかである。外海には15隻程の貨物船が停泊している。港湾に荷役設備が十分でない為の沖待ちを余儀なくされているのかも知れない。Montevideoを左手に見ながら船はゆっくりと方向を変え、南南西に近い210度の方向に進み。全く白波は無く、穏やかであるが、うねりは大きい。船側に打ちつけ、揺れはやや大きくなる。この先2時間程はUruguayの陸地が見えるが、その後は暫く陸地とはお別れとなる。

今夜は春節の前夜で中国系の人も大分乗っており、お祝いの集まりがある。会場に行ってみると、100人ほどが集まって爆竹の代わりに風船を持って零時を待つ。年が明けると、風船の破裂音を合図に何やら輪になって踊り出した。韓国人も居り、彼らも旧暦で新年を祝うという。

01.28.久し振りに水平線に雲がない海面から昇る太陽を見る。左舷の真横の方向である。朝方は略快晴であったが、海面温度が下がったのか、全面に霧が上りだし、気圧が下がり出す。上空は晴れて居るが海上は殆ど見えなくなる。うねりや船の揺れは昨日と変わりがない。

01.29:朝起きると窓は結露している。外の気温は相当に下がっているのだ。霧が海面を覆っており、空は全く見えない。海面は幾らか穏やかになっており、揺れは治まっている。17時前にデッキに行って時はスッカリ晴れ上がって全周の水平線が見えたが、船は一隻も見ることはなかった。例の海鳥、1羽を確認。船の中には風邪を引いた人が多く、マスクを掛けた人をよく見かける。此方は真夏であり、風邪の時期ではない筈だが、船自体が菌で汚染されているに違いない。

01.30:未明2-3時にフォクランド諸島に達することになっており、眼が覚めた時窓外を覗いてみたが、島の光は見ることは出来なかった。6時前にジムに行った時には日は昇っており、左舷に島影が幾つか見えた。右舷には人が集まっており、鯨が居ると指を指している。居るには居るらしいが、見えるのは吹き上がる潮だけで姿を写真に納めた人は居なかった。陸地が近いので、数羽のカモメが飛んでいた。10時頃には島影は見えなくなったが、ウシュワイアまでは更に丸一昼夜掛かる。船はやや速度を上げ、時速32キロ強で南西の方に向かっている。11時頃から揺れが大きくなり船に当る鈍い波の音が1-2分毎にあり地震の縦揺れの様な突き上げる衝撃がある。風も強くなっており、デッキの立ち入りは全面禁止との放送がある。夕刻には揺れもやや小さくなる。雲の多い一日で、6時過ぎに一時雨が降る。大分西に来ており、また緯度も高くなっているので、日の入りは21時近いが、雲で夕日は見えない。

01.31:朝起きると左岸に陸地が見える。右岸にはFuego等が見える筈で、窓から見える陸地はChili側の島で、その間のBeagle海峡を通過している筈だ。波は殆どない。南米最南端のこの辺りは氷河の影響で険しい地形であり、狭い海峡、島、険しい山等、独特の景観となっている。地図を見るだけでも楽しくなる所だ。

Ushuaia上陸の日である。デッキに出ると寒く風が冷たい。接岸9時、10時半ごろ船を出て町の散策に出かける。3-4年前のクリスマスはここで肉料理をタップリ食った思い出がある。治安は悪くない。思い出を頼りにお土産屋等の多い町並みを歩き、観光案内所に立ち寄り、地図を貰い Terra del Fego国立公園への行き方を尋ねる。バス乗り場も訊く 。乗り場に行くと、料金は一人300ペソだと言う。もう既に手持ちの金は足りない。足りない分はドルを払い、何とかバスの切符は手に入れる。更に入園料が200ペソずつか必要なので、近くのATMに家内のカードを持って行く。暗証番号を聞いていったが、着いた時には忘れていた。又引き返し、聞き直し又出かける。ヤットペソを手に入れ、清算書も手にし、引き返しバスに乗る。バスが走り出し、暫くたってからカードが無いことに気が付く。ATMに入れたままで、出てきたようだ。バスは10人乗り程のVanで戻り出す。途中で降ろされ、此処で待って別なバスで町まで行けと言われる。間もなく別なVanが来て町戻る。カードは銀行で保管してあり、無事取り戻した。

時間も大分たって居り、昼飯時になって居り、船に戻り昼食を摂ってまた出かけ1時のバスで目的地に向かう。入り口で入場券を買い、中に入って行く。道は大分前からダートになって折り、埃の中揺れながら走る。最初の停車地は南米最南端の郵便局があるが、帰りに寄ることにし、通り過ぎ、最終地点で降りる。一度来たことがあり、その時は車の走る道路とは別の小道を延々と歩いた。終点では次のバス迄40分ほどあるので、整備された遊歩道を歩く。小さな湾があり、引き潮らしく、小島が2つ見え、船着場にはムール貝が沢山見えた。

バスに乗り郵便局で降りようと思っていたが、バスは既に出口を出ていた。止まって貰い、郵便局に行きたいというが、もう引き返せないと言う。仕方なく其の儘町に戻った。当初の予定は郵便局で降り、浜辺を散策して町に戻る予定であったので、残念である。その辺りも前回は殆ど歩いて折り、綺麗な小石の浜などは家内達にも見せて置きたかった。前回は丸一日この公園で過ごし、1000m弱の山にも登っている。

今日は2つの大きな手違いを起こしてしまい、後悔の1日となった。雨に会わないのが幸い出会った。
町に戻った時132ペソ残っていたので、これを持ち酒屋に行き、135ペソの赤ワインを負けて貰って買った。今回はこれまで、Motevideo,Buenos Airesの二つの町でもワインを買い、全部消化してしまった。Montevideoの物は宗主国ポルトガルからの物であった。21時出港愈々南氷洋に向かう。

02.01:目が覚めると船は大きく揺れドーン、ドーンという音が頻繁に聞こえる。今まで無い程揺れは大きい。寝ている間に島々の間の水路Beagle水道を抜け、いよいよ波の荒いドレーク海峡に近づいている様だ。窓にも海水の飛沫が頻繁に吹き付ける。波も今までよりは大きく、4-5m位であろうか?追い風が吹いており、波頭は白く飛沫が飛んでいるのが見える。用心の為、酔い止めの薬をのむ。揺れで目がチラチラするので、本も読まずに寝転んで過ごす。

02.02:空は全面曇っている。相変わらす波は大きい。南氷洋に入り部屋の窓からは島影が見えている。King Goerge 島である。島を左舷に見ながら南西の方向に進む。可なり大きな島で、周りには小島が幾つかある様だ。その一つがPenguin島であり、Penguinの営巣地であろう。どの島も大半雪で蔽われており、その下は氷河であろう。剝き出しになっている岩肌はあらあらしい。船はそれらの小島の可なり沖を通り、島のPenguinは見ることは出来なかったが、洋上を泳いでいる姿は沢山目にした。一瞬空中に姿を現すが写真は取れなかった。アザラシの群れも泳いでおり、この写真は撮れた。20m程の海面を見ていると、白い小さな漂流物が見える。大きさや形状はほぼ均一である。ヒョトするとそれは南極海の結氷の子供かもしれない。写真は撮ったが判然としない。南極の夏は短く、もう冬の始まりかもしれない。

大きな氷山が現れる。生まれて初めてみる海上に浮かぶ氷山で、思ったより堂々としている。これを見るのが、今回の旅の目的の一つであった。以前Purito Moreno氷河が大爆音と共に湖に落ち、風で漂流する様を目にしたが、これらの氷塊は大きさに拘わらず氷山とは言わないのかもしれない。

King Goerge島には韓国、ロシア、ウルグアイ等幾つかの国の南極基地があり、小生のヘボイカメラでも微かに其れらしい物が撮れた。基地は海岸の平地を選んで立ててある。この島は火山島であり、火口が大きな湾になっている。Maxwell湾であり、正午頃に着く。湾内を一回りし、Deception 島に向かう。氷山の数が段々多くなる。夕方Deception島を通過し、更に西に向かう。翌朝南極半島の東の端に達する。

02.03;左舷は南極半島、右舷はSouth Shetland諸島が切れ目なく続く。氷山の数も益々多くなり、形状や大きさも様々である。中にはゴマ粒の様にペンギンが乗っている。鯨も10回以上姿を現したが写真に撮るのは中々難しい。アザラシも然りである。ペンギンは海面を飛ぶ様に泳ぐ、これは呼吸の為であり、瞬時に海中に消える。可なり頻繁に遭遇するがこれも写真にするは難しい。


氷山や半島、島々の写真は簡単に撮れる。只日長写真を撮っていると、夫々異なる自然の造形も同じ様に見えてくる。4時には半島のParadis湾に着く予定であったが、氷山に阻まれ低速運行の為2時間程遅れるとの放送がある。

 
 
 
 

夕食は5時と早い。食事中に氷山の為予定していたParadis湾への侵入は不可能で、針路変更北方転進の放送がある。止むを得ない。天国への道は遠く、容易に行けないらしい。湾の入り口までは行ったが、中に入ることは出来ないという。局地では人の決められる事は大幅に制限される。天候回復待ちのため南極大陸向けの飛行機が飛べず、Punta Arenasで9日間足止めを食ったことを思い出す。

最終的に今回達した南限は南緯64度47分で、極圏には至らなかった。湾の入口まで行ったが、その先進めなくなり、進路変更北上することになった。このクルーズの最南端は、南緯64度を若干超えた所であった。これは北緯では我々が走りに行ったSwedenのVindel川位の所だ。あの辺りは緯度の割には格段に暖かい所だ。Mexico湾流の影響は非常に大きく、あの河畔辺りには全く氷河はないが、ここは殆どが氷河で覆われている違いがある。

後で分かったが小さな氷山で海面が塞がり、無理して進入するとスクリューが損傷し、その後の航行に支障が出る為の転進であった。

今日は節分であるらしく、夕食時に煎り豆が供された。その後又防寒着を着て8階の展望室に行く。前方150度程が見え、窓に雨や着雪がなければ見晴らしが良い上、解放デッキにも直ぐ出ることが出来、鯨等の生き物が出現した場合、直ぐに対応できる。雲が略全面に掛かっており、雪も時折吹きつけ、碌な写真は撮れないと諦めていたが、船の前面両側に鯨出現の放送がある。何箇所かで潮が上がり、幾つかの群れが居る様である。黒い背鰭や背中が見え隠れする。船は30キロ近い速さがあり、鯨はやや遅い。同じ方向に泳いでいる様である。段々近づき盛んにシャッターを押す。5分ほどで鯨は後方に消えていった。鯨は突如として船の直ぐ傍に現れることもある。この2時間ほど前、船室の窓の直ぐ横に鯨が2頭、3回ほど背中を見せて消えていった。これがこの旅で一番間近に鯨を見た瞬間であった。

南氷洋の氷山も島もやがて暗闇の中に消えてゆく。略二昼夜の間天候には恵まれた方であろう。緯度の高い所での天候は急変する様で、海面が急に霧で覆われたり、雨、雪、霙等が急に吹き付けたりする。短い時間視界が悪くなることがあったが、概ね写真の撮られる天候が続いたことは幸いであった。この間波も穏やかであった。

南氷洋にはUshuaiaから出た小型の船が来ており、それらの何隻かが遥か彼方に見えた。その中のどれかには我々の船からOption Tour参加者(約60名,一人約100万円)が乗った船である筈であるが、船名を識別出来る距離ではなかった。その他2本マストのヨット、と我々の船と同様の観光船も見えた。又Chiliは南極で領土主張をしており、この為か警備艇の様な船も見えた。Chili国旗をはためかし、高速で比較的近くを追い抜いて行った。     

丸2日南氷洋にいたが、この間沢山の氷山を目にすることが出来た。大きさも形状もどれ一つとして同じものはない。生まれも育ちも皆違うので之は当たり前のことだ。たった一つ同じことはどれも水で出来ており、水に戻ることだ。巨大な氷山は海に出てからも何年も漂流し続けるのであるまいか?太陽と海からの熱で解けるであろうが、巨大な氷山は温度の低い南氷洋では急速には解けない筈だ。

洋上を漂う氷山は色々な表情を持つ。角張って居るのは生まれたての氷山ではあるまいか? 陸上の高所に何万年もかけて出来た氷河は重力により徐々に下降し、海に近づき、その下端部分の亀裂部が分離、海に押し出される。幾つもの物理的要因でその大きさや形状が決まる。その後は水面下又は上の諸条件により徐々に融解し、姿を変えていく。太陽に面する角度、風向き等はその後の形状変化に大きな影響をもつ。徐々に変わる形状は実に様々で、自然の芸術である。中間に穴の開いている物もあり、場所によっては光の関係で綺麗な青色に見える。水面下の氷は薄緑で、何とも言えない美しさがある。巨大な氷山もやがては扁平に成り、その上部は規則的な幅の畝ができ、その上にゴマ粒の様に見えるペンギンが沢山乗っていたりする。更に小さくなるとまた変わった形状になっていく。スイカほどの大きさになった氷山はガラス細工の様に美しい、様々な形となり、やがて海に消えていく。

02,04:眼が覚めると船は揺れも少なく前進していた。空は曇り、窓は結露水で覆われている。水滴を拭いて目を凝らすが、もう見える陸地はない。間もなく名に知れるDrake海峡に入り、波が荒くなる筈だ。船内にある地図帳を見て、足跡を辿ってみた。1000万分の1程度の地図ではPenguin島や湾の名前などは載っていない。因みに僕の行ったIce Marathonの開催地、Patriot Hillを調べてみるとChiliの南極基地として地図上に記載がある。其の時は雪上車で宿営地から更に南まで行き、帰りに立ち寄った。既に利用されていなかったが、チリは領土主張の為管理は続けている様だった。南緯81度を超えた地点で、極点までは900Km程の所である。その時一緒に走った30人程の仲間の内少なくとも2人は逝去している。人の命は分からないもので、遣りたい事は今直ぐ遣って置くべきだ。

空は朝から曇っている。昼頃から波が荒くなる。ドレーク海峡に入っている様だ。船は345度の角度でHorn岬を目指して進む予定で、今後24時間は波が更に強くなることが予想される。3時過ぎには風も強くなり甲板への出入りが出来なくなる。21時頃はジムに居たが、略15分毎に大きな揺れがあり、機器が異音を発して居た。寝てしまいえば船酔いの影響も少ないと思い、往路は用心の為飲んだ酔い止めの薬は飲まずに寝る。

02.05:朝5時には揺れが小さくなっていた。結露水を拭いて窓外を見ると、天気は悪い。海は治まってきてはいるが、未だ彼方此方に白波が見える。海面の色は灰色の空の何倍も濃い灰色で黒に近い。名に負うドレーク海峡の荒波の写真は最早撮れない。往路で撮っておくべきであった。

10時前に船内放送があり、南アメリカの最南端のHorn岬が見える位置まで来ていることが分かる。アンデス山脈の南端でその後氷河期の影響を受けた所で、見える景色は険しい。南緯55度を超えた位置にあり、樺太の北端辺りに相当する。当初の予定ではそのまま外洋を西方に進み、大西洋に出る予定であったが、その方面は風が強い予想が出ており、東に進みMagellan海峡の入り口まで戻り、この海峡を通過し太平洋に出るとの放送があった。船は十分な速度を持っており、多少大回りでも予定の寄港地に予定通り着くという。

その後北東、40度の方向に進み、2-3時間すると、山容は穏やかになってくる。長い間の浸食作用の違いが、ハッキリと異なる山の姿として現れている。雲が多かったが、時折青空の欠片が見える様になり、部分的に陽の当たる山も見える。海鳥が時折窓外を行き来する。魚が豊富なのであろうか。2日振りに反対方向に進む貨物船が見えた。海面は穏やかで船室では殆ど揺れや音を感ぜず、陸地の住居に棲んでいる様な錯覚を起こす。Horn岬からは波は非常に穏やかになっている。この辺りは風の強い所であるが、今日は穏やかである。

日没は21時過ぎとなる。20時ごろ左舷10キロ辺りに可なり大きな島が見得てくる。右舷はFuego島の東端に当る所で、船はその間を抜けて北西方向(315度)へ進む。幅30キロ、長さもそれ程ないMaire海峡である。西大西洋に入っても波は非常に小さい。大静洋ではないかと思う。

02.06:全面的に曇りである。波静かな海を船は静かに進み続けている。左舷100キロほどにはFuego島が横たわって居る筈である。夕刻にはMagellan海峡の大西洋側の入り口に達し、明朝7時には大陸の港町、Punta Arenas(砂岬)に付くことになる。船は予定に従い、速度を変えながら(22-32キロ)進んでいる。

6時ごろMagellan海峡の大西洋側の入り口が間近との放送がある。Magellanが広大な大西洋を乗り切り更に西に進もうとし偶々見出した航路である。船はここから西に更に南西へ向かうことになる。船の左舷はFuego島で右舷は大陸側となるが、大陸側の陸地は陽の沈む21時過ぎになっても確認することは出来なかった。土地が平らで高地が無い為であろう。左舷下側Fuego等も平らで僅かに其れらしく見えるだけである。海峡の入り口の幅は50キロ以上あり、右舷側で目に付くのは航路標識のみである。

02.07:Punta Arenas、英語ではSandy Point、と呼んでいる様である。Punta=Point,Arenas=Sandy,日本語では砂岬となろう。

港から町の中心地までは6.5キロありタクシーで15USD、10人乗り程のVanだと一人3USDである。現地通過は未だ無いので、9ドル払い3人で町にでる。町の中心部にPlaza de Armas(武器広場)がある。広場の中心にはマゼランの像が立ち、台座には白人達が虐げた原住民の像が何体かある。その中の一人の男の足に触ると再びこの地に戻れると言う、根も葉もない話があり、その男の真鋳の足は金色に輝いている。この様な話は此処だけではなく、彼方此方にあるが、僕はその様な話は一切信用せず、そのような物には今まで触ったことはない。只何故か僕は今回が3度目の訪問となる。順序は定かではないが、一度は南極に行った時であり、2度目はPatagoniaの走り旅の時であった。何れも此方の夏12月中陣であり、ルピナスの花が綺麗な時期であった。

町は略平らで碁盤目の道が通り、迷い無く歩け、安全面も問題ない。大きな野良犬の多い町であるが、食べ物は豊富らしく、どの犬も丸々と太っており、人に危害を与えることは無い。銀行で両替をする。取り敢えず40000ペソ(1円=5ペソ)を手にする。ATMでの両替であったが、驚くことに機械使用料5000ペソで、1割強であった。こんなに高い所は初めてである。広場を中心とした代表的な通りを一回りし、2人に20000ペソとバス代の6ドルを渡し、僕は歩いて船に戻ることにした。途中ワインを1本買う。Chiliのワインは悪くない。

気温は15度程あろうか、時々陽の射す先ず先ず天気だ。船までは海岸に沿った車道の外側によく整備された自転車、歩道が続く。時折走っている人や自転車の人に会うだけで、浜辺に人は居ない。浜は町の名前に似ず小石が多く、狭い。対岸30-40キロにフエゴ島が見え、波は穏やかである。風の強い所で真っ直ぐな木はないが、今日は穏やかで心地よい。途中古い木製の桟橋があり、其処には沢山の鵜が羽を乾かしていた。彼らは例外なく太陽の方に向いている。カモメも砂浜に群れを成している。餌が豊富なのであろう。1時間余りで船に戻り、昼食を済ませる。その後、船から1キロほどにある免税店(Zona Franca)に行く。5-6棟の巨大な建物があり、世界中のメーカーの物があるが、欲しい物は何もない。激しい雨が降り出し、安物建築の屋根からの音は凄まじい。

02.08:船は昨夜日の変わる時刻に動き出して居り、未だあけ遣らぬ6時頃南米大陸最南端Cape Frowardを通過することになっている。地図上ではMagellan海峡が狭くなり、航行方向が北西寄りになる位置である。何日か前のHorn 岬はMagellan海峡の更に南に連なる島々の一つHorn島にある。最南端が幾つもあるようで紛らわしい。この岬がPanama運河開通以前の南北大陸の地続きの最南端なのである。南緯53度54分弱。

5時半に起き、カメラを持ちデッキに出ようとしたが、カメラが見つからない。昨夜ジムに行って忘れて来たらしい。仕方なく、手ぶらでデッキに上がる。空は曇っており、未だ日は昇っていない。アンデスの険しい山陽が右舷に見える。この岬に小高い山(2-300)の山頂に白い十字架が立っている。丁度その辺りに雲がかかり、十字架が見え隠れする。その後ろには5-600mの山が連なり、雪で薄っすら白くなっている。

9時に受付が開く時間に行くと、カメラは無事戻っていた。確認の為映像から本人の写真を係りが探し出す。1100枚程撮ってはいるがそんな物は一枚も無い筈だ。僕は自分で自分の写真は撮ったことがない。写真にしなくとも何時でも見たい時に見ればいいし、見たくない時もつい見てしまうものだからである。鏡は必要以上に何処にでもある。カメラが戻りヤレヤレで又外の景色が取れる。左舷南側には島々の山が見える。1000mに満たない様な山に万年雪があり、その下は氷河になっているのであろう。緯度的には樺太の北部に相当する位置だ。この辺りの海峡は狭3キロ程度あろう。夕方には海峡を出て西南太平洋に出その後は大陸沿いにPeruまで航行する筈である。


3時過ぎ前方の海が開け、波がやや荒くなる。550キロの海峡の太平洋側の出口である。北西方向に進んで来た船は其の儘大洋には出ず、進路を真北乃至は北北東に変え、Chili南部の氷河が作った複雑な諸島の間を進む。又波は静かになる。終日曇りで、余り陽の射す時間は無かったが、5時過ぎには雨も降り出す。

02.09:朝5時未だ暗い時間にBrugo氷河の傍で船が止まる.1時間半程ここに止まり、ボートを下ろし流氷の採集をし、その間我々は写真を撮ったりする。南緯50度強の位置で、これがこの航海での最終の氷河らしい。取った氷はバーでロックの材料とするらしい。そもそも氷河の始まりは雪である。これがドンドン溜まりその重みで氷になる為その中に空路が含まれることになる。この高圧で閉じ込められた空気が溶ける時に気泡が出ると同時に微かに音が出るのが普通の氷と違う所だ。之はIcelandに走りに行った時氷河に行き、その先端を自分達で取ってきてウイスキーを飲んだ。同じくPatagoniaの走り旅でもPurito Moreno氷河の流氷でも同じ事をし、何万年も前に出来た氷を味わい楽しんだ。

この後更に氷河の作った沢山の島が両側に見えるPatagonia Fjordを船は北上する。空は曇っている。風は強いがFjord内の波は小さく、船は湖面を滑る様に前進する。NorwayのFjordも何回も訪れ、ほぼ隈なく見て廻ったが、ここのFjordとはその景観が異なる。此方の方が全体に丸みがあり穏やかな感じがする。NorwayのFjordの景観は特に北に行く程切り立った厳しい表情である。夏には無数の略垂直の糸状の滝が見られるが、ここは滝が余りなく、又真っ直ぐに落ちているものは殆どない。海面近くの崖には緑の植物が生えているが、この様な光景はNorwayでは見られない。南緯50度を超える島には樹木も見られた。この辺りからやや波が大きくなる。霧も発生し午後からは視界も悪くなり、時折雨も吹き付ける。4時頃からは波も荒くなる。外洋に出た様である。

02.10;空は曇り、風も強く、時折雨も吹きつける。波は大きく揺れも大きい1日であった。夕方からはデッキへの立ち入りが禁止となった。

02.11:昨日からの悪天候が続く。通常は一旦デッキに出てから入るジムも今日は中の入り口から入る。9時半避難訓練があったが、その際も救命艇のある外に出ることは出来なかった。午後になると漸く天気が回復、波も小さくなった。南緯40度辺りに来ており、気温も上がってきた。右舷側に時折Chiliの陸地が見える。この先Peruを離れるまでは概ねこの天気が続くと思える。フンボルト海流は海水温が低く蒸発が少ない。この為この辺りから北の陸地は降雨量が少なくPeruのLima辺り迄は沿岸でも砂漠地帯となる。

02.12:朝7時Valparaiso(Val=Valley,Paraiso=paradise,天国谷)に接岸。この地特有の朝霧が出ている。晴れるのは正午位になるかもしれない。気温は17-8度歩くには丁度良い。風は殆どない。船側からシャトルを2回乗り継いで、港の外に出る。町は海沿いに横に長い。縦方向は急な山となっているが、その山の斜面に沢山の建物が建っている。薄暗い内海上からみた町の光は神戸を思い出させるものがあった。



先ずほぼ平らな海岸沿いに左手に歩き、Sotomayor広場を目指す。スペインの多くの町では町一番の広場にはこの名が付いているからである。広場には名前は忘れたが軍人の巨像が建っている。海軍の本部が海の見える所に建っており、その他裁判所等の建物が並ぶ。

チリは地震の多い所で古い建物が昔ながらに残るには難しい環境であるが石造の立派な建物が幾つか残っている。この町でよく見かけるのは野良犬である。栄養状態は良く、丸々と太った犬が彼方此方に何体も死んだ様に転がっている。

広場の海軍本部裏手からは上り坂になっており、津波避難路の印が出ている。この道を上がっていくと、同じ船で来た人達が降りてきて、上は治安の悪い地域だというので、戻り別の道を入っていく。途中にこの町特有の乗り物Assensior(昇降機)がある。坂に軌条を敷き車の付いた箱をケーブルで引き上げる乗り物である。一人100ペソ(20円)であったが、長いものは300ペソ程するそうである。町には以前沢山あったが、現在運転中のものは少なくなっているそうだ。傾斜は45度程度であり、長さは100m程であった。登りついた所に1956年建造の立派な美術館があり、其処からの町の眺めは良い。先ほどの広場の先には海軍の船が何隻か見え、我々の船も望むことが出来た。更にその先の坂を上り、元来た方向に進み、下り出す。この辺りの建物は比較的大きな物が多く、アパートか簡易宿泊所が目に付く。道の右左の建物の壁は色々な絵が殆ど描かれており、中々の景観である。

絵葉書を出す為のホストは見つからない。地元の人に訊いても分からない。港に戻りチリ・日本友好の集いがあるので、其処で出会った日系のチリ人に訊いて見ると、チリでは郵便ポストは破壊され郵便物の盗難等もある為、ポストが撤去されたいう。日本の都市ではポストは一定区域ごとに必ずあるが、チリでそういうことは全く期待できないのだ。自分が預かり責任をもって投函するというので、お願いすることにした。

行きとは異なる道を通り、船に12時頃引き返し昼飯と食ってから又で直す。国会議事堂を目指す。船からは15分位の所にあるが、大きいだけで只の箱という感じで建築物としては面白くない。コンクリート製で耐震性は十分に顧慮したものであろう。チリでは行政府はこの町の東方内陸にあるSantiagoにあるが、立法府はこのValparaisoに置くという、南アフリカと同じ分権統治を行っている。途中スーパーに立ち寄り飲み物の価格を調べる。チリペソが約2500円分程残っており全部使い切っておく必要がある。結局ワインを3本買い使い切る。

出航は丘の町の電灯が見頃になる9時であり、やや明るかったが中々見応えのある夜景であった。ここからは346度の方向に一直線にPeruのCallaoに向かう。

01.14:ほぼ終日曇りである。ややうねりがあるが、波は穏やかでであった。初めてSpain語の口座に出てみた。Screenを使った講座であり、印刷物はない。次回からは筆記用具を用意する必要がある。

夕日が綺麗なのでデッキで眺めた。日が完全に沈む直前の一瞬緑Green flashと呼ばれる現象を初めてみた。ほんの瞬時であった。

02.14:午後から晴れてくる。海面は微妙に表情を変えている。昨日も似た様なうねりであったが、その上に乗っている波は極小さいものであったが、今日はやや大きくなっている。船はゆっくりと左右前後に揺れる。中国語の口座に出てみる。僕以外の人はもう何十日も前から勉強しており、可なり理解が進んでいる様だ。中国人も沢山居るので、何か役に立つ言葉を覚えたい物だ。

02.15:終日曇り。この辺りは乾燥地帯で、午後からは晴れ上がることが普通であるが、今年は異常気象の様だ。うねりに乗っている波はやや大きくなっているが、うねり自体は小さくなっており、船の揺れも昨日より小さい。

02.16;Callao、カヤオに8時前に接岸する。首都のLimaまでは10キロ余りあり、東京でいえば川崎辺りという所だ。港町で治安が良くないので単独行動はさける様にとの警告が出ている。前にも来たことがあるが、あまり印象に残っていない。隣室に住む中国人の誘いもあり、彼らと一緒にLimaに行く。彼らは20人程で独自にマイクロバスを貸しきって1日首都の観光をする予定で、費用は16ドルと安く、ペルーの通貨交換をしなくても済む。

Peruの幹線道路は日本よりも広く、自転車や歩道もよく整備されている。Limaの市内に入るとLima文化の史跡Huaca Huallamarca(ワカ ワジャマルカ)がある。紀元200-600年のインカに先立つ、日干し煉瓦の巨大な遺構であるが1950年頃史的事実を無視した修復が行われた。墓として使われていたという。他にもう一つの遺構Huaca Pucllamaがあるが、其処には立ち寄らなかった。何年か前Limaには来ているが、印象に残って居るのはこの日干し煉瓦の遺跡だけである。


駆け足の見物なので、殆どが車窓よりの景観を眺めるだけとなる。Plaza de Armasは大きな広場の一つである。ここには大統領官邸、市役所、大教会等がある。丁度行った時に衛兵の交代があり、儀礼兵楽隊の演奏があった。何処の国もそうであるが、為政者は自からの権力誇示の為この様な事には金を使うのである。
彼らの爆買い(馬鹿買い?)も見る事が出来た。マカと称する粉末剤を2-3の店を廻り有るだけ買い占めていた。昼食は海岸の新しく出来たShopping Center,Larco Marの中のItalian restaurantで我々は取ったが、彼らは中華の店に入った。

最後に中華街に行き、其処で夕食にした。勿論中華料理である。中華街は余り大きくないが、それなりの雰囲気は十分に味わうことが出来た。6時半頃予定の場所にバスがくる予定であったが中々来ない。道路は夕方のラッシュで大渋滞となり、歩道にはバスを待つ人でごった返しの状態である。これ程多くの人が町に溢れているのは、お祭り以外では見たことがない。これが毎日Limaでは起こっているのであろう。道路は東京などより広くよく出来ているが、鉄道などの大量輸送手段がなく、専ら車に頼っている。バスやタクシーは非常に多い。殆どのバスは空調がなく、満員である。熱帯ではあるが南極からの寒流のお陰で、比較的高温にならないのが幸いである。30分程遅れてバスに乗ったが、渋滞で中々進まない。構内バスの最終便にヤット間に合う時間に港に帰りついた。

02.17:家内達は2時過ぎにMachupichuu観光に出かける。僕は2回も行っているので、船の中で本を読んで過ごす。Callaoには4日停泊する。がその間中晴れは期待できない予報がでている。晴れれば影が全く出来なくなる現象が見られるが、ここでは不可能の様だ。
これから暫く冬物は不要となるので、鬼の居ぬ間に洗濯をして片付けることにした。

02.18 天気予報は3日続けて外れる。朝は霧が出て、昼前には晴れるこの地特有の天気だ。甲板で南中時に写真を撮る。太陽が真上に来るので影が一瞬全く出来ないとなるが、中々頃合の見計らいは難しい。本を読んだり、小さなブラウン管テレビでVideoを見たりして一日が終わる。

02.19:ジムでよく会う男が中心となって6人で港から15キロほどのLimaの町まで行き昼飯を食い、序に観光もしようと話が纏まる。彼は海外経験もあり、足の手配は任せる。仲間の目当ては馬糞海栗を食うことであったが、Miraflorの店何軒か其れらしい所を廻ったが無かった。時期でないのかもしれない。一軒だけ海栗のある店はあったがこれは馬糞海栗ではなく棘の長い普通の海栗で、4時半にならないと開かない店であった。海鮮料理屋に入ったが、生ものはなく、蛸、イカ、ホタテ等火を通したものであった。この手の物は余り好きではないが、皆さんの好みにあったかどうかは分からない。

乗ったタクシーは白タクらしい。運転手も含めて十二人乗れるヴァンであり、我々6人の他に現地人の女が最後に乗り込んできた。運転手は自分の家内だというので了解した。こういうのは初めてだ。11時から16時半迄で一人10ドルと安かった。ここでも又赤ワインを買った。後は日本までアルコールは買わないつもりだ。

家内達がMachupichuuから帰っており、大鼾をかいて寝ていた。もう恥じも外聞も感じない生き物になっている。恐ろしや恐ろしや。
8時に出航である。後は243度の方向へ一直線にEaster島を目指す。

02.20:概ね晴れ。うねりやや大きく、揺れも大きい。真っ直ぐに歩くのが難しい。船も動物も見えない1日。

02.21:朝は雲が多かったが、午後から良い天気となった、風は前方左舷方向から吹いており、逆風である。時としては風上に向かって歩くことが出来ない風が吹く。波は風の方向から来る横波で、船は常時周期的に揺れている。

02.22:天気も波も昨日と余り変化はない。船も生き物も見ていない。

02.23:船の揺れが変わる。うねりの方向が船に平行ではなく、進行方向からとなり、船の長手方向の揺れに変わる。ゆっくりと船首船尾の方向に揺れる。船室の窓から見ていると、どの方向に揺れていても海や空の雲が上下に動き、陸とは違う感覚が味わえる。

02.24;大分東の緯度に来ており、日の出は遅く7時過ぎとなる。午前中は進行方向のゆっくりとした揺れであったが、午後になるとうねりが小さくなり、揺れも小さくなる。明日はいよいよ初めて訪れるEaster島に着く。船が接岸できる港は無く、当日明るくなってから現地当局と打ち合わせの上、投錨地点を決めることになっている。全島が世界遺産になっており、上陸出来るのは一人一日限りの様であり、我々の上陸日は26日となる。

今日夕方の揺れでは海は凪いでおり、観光に最適な場所に投錨できる予感がするが、希望的観測であろうか?

02.25:明るくなる前に島の電灯が見えてくる。海は凪いで居り、予定した位置に投錨できるようだ。島の西南に有る唯一の村Hanga Roaから一キロ程の所であろう。10時頃から島への上陸が始まる。最大9人乗り程のボートでのピストン輸送となる。島の船着場は最短距離の目の前の集落ではんなく、一旦南に進み、その後東に進んだ所にある。見ていると方向が東側に変わると船は大きなうねりで可なり揺れるのが見える。周囲2000キロには波を遮る陸地はなく、矢張り波はそれなりに荒いのだ。

艀への乗り換えは船の救命艇の乗り込み装置を使う。これは波高が50cmを超えると可なり危険となり、人の介助があっても無理と思える。波が高くなると暫くは上陸中止なる。我々の上陸は明日なので今日は日長船中で過ごすことになる。対岸の集落のやや南に空港があり中型の旅客機が着陸するのが見えた。島は全周が60km足らずのもので、起伏もそれ程大きくはない。飛行機で来て一泊すれば全島のモアイ像を見て廻ることは十分可能であろう。

02.26:天気は良いが波が高くなっている。船は投錨位置から一キロ程南西に流されていた。地元の業者と折衝して安全な停泊地を捜すことになる。10時頃になり、船の停泊位置を変えることになり、更に北に進みその後東に進路を変え40分程のAnakena海岸に投錨する。陸地との距離も約半分程になっており、波も静かである。この間に輸送用の艀も10隻余り本船と同じ動きをする。

11時半頃上陸が始まる。船着き場には小さな入り江の砂浜があり泳いでいる人達もいる。4-5体のモアイ像も見えるが、それらを見る前に、マイクロバスに乗せられ、移動が始まる。ツアーは実にお粗末な物で、何の説明も無しに40分走る。道路は簡易舗装であるが先ず先ずである。全体になだらかな形状の島で雨風による侵食が少ない為と思える。高木は少なく森林らしい所もない。降雨量が少ない為こうなって居るか、放牧の目的の為人為的なのかは分からない。何故か馬が多く彼方此方で道路に出ている馬に出会う。車はそれらを避けて走る。牛も居るが、見た所馬が多い。馬の方が有用なのは何故か?

やがて海の見え丘の上のエコハウスに付く。何処にはでも在る自然との共生を目指した建物で、それ自体何ら新しい物ではない。ここで子供達に音楽を教えているのだと居る。こんな所で3時間も過ごすのは苦痛である。ガイドは捜しても見当たらず何処かで昼寝でもしているのであろう。建物の廻りは原野か畑である。畑にはトマト、スイカ、甘藷、キュウリ、インゲン等が無造作に植えられている。雨量は少ないが、日照な豊富で結構な物がなっていた。

移動後10分程でタハイのモアイにでる。昨日船が停泊していた左舷に正対する位置であり、可なり広大な面積がある。島のモアイは全て海に背を向けて建っているという。ガイドに何故かと尋ねるとあっさりと知らないという。現地のガイドはこの程度の人間であり、恥の概念は全く持ち合わせて居ない様であった。モアイの周りには倒れている物もあり、また鶏を飼っていた石の祠や人が住んでいたとされる入り口の極狭い石造住宅群も残っていた。モアイの傍には海への乗り出しに便利な小湾があり、其処では何人かが泳いで居た。


この後飛行場の横を通り、アフ トンガリキに向かう。途中雨が降ることもあったが、見通に良い海岸を30分程走り、遺跡に着いた時は良い天気なっていた。この遺跡はChili地震による津波で破壊され、その修復が日本政府の援助により実現した島一番のモアイ像が見られる所である。入口の横に一体のモアイがあり、大阪万博の時展示された物だそうだ。右側が海になっており、アフと呼ばれる2層の台座の上に15体のモアイ像が整然と立っている。台座の大きさからみるともう10体程あっても可笑しくない。修復不能に破壊された物もあり、復旧出来たのが15体なのであろう。敷地内には頭だけの像や、胴体だけのものも転がっていた。アフの後ろ100m程の所は船の出入り出来る湾になっており、ここでも泳いでいる人たちが居た。

帰路に付くと30分ほどで、先ほどの船着場に着く。乗船までには1時間程あるので、ここにある7-8体のモアイを見る。海水浴客の居る岩場や砂浜を通り抜け登っていく。足場は悪く登りにくい。ここのモアイは津波の被害にはあわなかったのであろうか?頭部のないものも含め7対が整然と並ぶ。一体は別な場所に独立して建っている。何か意味があるのであろう。

車の移動一時間強、説明なしのこのツアーは19000円であった。良心的な内容価格とは言えない。
Easter島の起源、人類の漂着、巨石文化の出現、多くの謎を残して島を去るのは残念である。
夕刻船は昨日の投錨地から島を一周してTahitiに向かう。

02.27-28:雲が多く、すっきりしない天気が続く。波は穏やかであるが、うねりがあり、船の揺れはやや大きい。Easter島到着前日から下痢を起こし熱が続く。何のやる気も起こらず只管怠惰な時間を過ごす。熱は37-38度を往復している。咳きも鼻水も止まらない。欧米では風位では医者には掛からないというので、僕も自然治癒に勤める。経過は一進一退で中々治癒に向かわない。船内全体にこの様な人が多い。船全体が病原体なのであろう。気長に待つしかない。

03.01:洋上運動会の日である。誕生月により4組に分かれて、縄跳び、玉居れ、綱引き等の団体戦で点数を競う。若者が張り切り応援団を作り参加を呼びかけているので、時々出ることにする。天気は終日上々である。時々しか見に行かなかったが僕の属する青組みは終始独走し、優勝してしまった。優勝チームの特権は缶ビールが100円であったが、僕には無用の長物である。

03.02.昼過ぎに島影が見えてくる。英領Pit Cairn島である。東西に3.5キロ程の島であるが、人口はどの位のであろうか。見た所確りした建物も見える。国家権益の為に其処に住む人には色々な利便が供されている筈であるが、それにしても孤島である。何かと日頃不便を余儀なくされて居るに違いない。

 後日の船の報道では通過時に島から立ち寄る様にとの呼びかけがあったが、立ち寄らずに予定の航行をした。又島から船の通過する写真も電送してきたという。

 後で調べてみるとこの島の住民は50人程で、これはBounty号の氾濫の映画が世界的になった1962年以降、主としてその乗組員の末裔が住みつく様になったという。18世紀末、世は列強の領地争いと海賊の時代である。英国の傭船で戦艦となって居たが, 元々は商船で西インド諸島に食料としてパンの木の果実を運んでいた船内での内乱が題材である。

どの様な思いで人々は住んで居るのであろうか?医療、教育、通信、娯楽、物資の調達など、生活に必要な物資、サービスはどうなっているのであろうか?行けたら行ってみたい島である

03.03:天気は先ず先ずである。船は3次元方向にゆっくりと複雑な揺れを繰り返す。当初の予定では次の寄港地タヒチのPapeti到着は5日朝となっていたが、当日が日曜に当たる為、半日早い4日の夕方に変更し、昨日から速度をやや上げ時速32キロ強、日に750キロを超える速さで航海している。

03.04:天気晴朗、波穏やか。10時前には緑の島が幾つか見え出す。14時過ぎ接岸。港の直ぐ傍から町が広がる。早速降りて町の散策に出かける。明日丸一日滞在するので、観光案内所で調べるがドルの現金以外での予約は不可能であったので、他の手段を考える他ない。市場等を見て歩き、家内達と分かれる。Tahitiは19世紀後半フランスが植民地化した所で、その影響である程度のインフラは整っている。町の道路もフランス名が付いており、歩きやすい。明日は特別な日曜日とされ、多くの店は閉るという。緑に覆われた大きな店を一回りする。中々品のある展示がしてある。建物の敷地は広く、魚の棲む小川が流れ、小道が通っている。蓮の花が咲き、水鳥も遊んでいる。ここで絵を描いたGauguinはTahitiの太陽と、深い緑、何処と無く東洋風の景観を好んだのではあるまいか?記憶が正しければ、この島は宝島の作家Stevensonや下ってはMaughamも訪れ、何がしかの恩恵を得ている。

首都のPapetiは港の海岸に沿って広がり、ある程度高い所まで住宅開発が進んでいる。1時間ほど海岸に沿った道を歩き引き返す。帰りは道の反対側を歩く。海にそって公園となっており、水辺には海水浴場や、カヌーの貸し出し場等の娯楽施設も整っている。週末でもあり、多くの家族連れが寛いでいた。地元の人が多い様であるが、男女ともポリネシアの人は大きい。圧倒される程大きな人も居る。終始乗ってきた船の停泊位置は見えており、港に近づくとヨットの係留場となるが、船は少ない。船の停泊地点から200m程の所に来ると色々な魚が沢山集まっている所がある。餌付けをしている様であり、150m程に渡り沢山の魚が見られた。船の入り口に観光業者が店を出しており、此処は予約金無しでも予約が可能なので取り敢えず3人分予約する。島は北西から南東に広がる瓢箪の様な形をしており、北西側の方が大きく、半径15-20km程で南東側はその半分程度である。瓢箪の大きい部分の海岸に沿い時計方向に一周するツアーで4時間のコースで円建て2500円と安い。それには訳があり、それは翌日乗ってみて初めて分かった。

03.05:9時半発のツアーは15分程送れて出発した。何と乗ったのはBentzの中型のトラックを改装した物で、日本では家畜の輸送にしか使わないものだ。荷台には一応木製の覆いが付いており窓らしい物も付いている。天井の高さは150cm程で、立ったままでは歩けない。空調等とは一切縁のないものだ。座席は荷台の外側を背にした席と、真ん中に跨って座る席があり、総勢40-50人程が乗れる。安全ベルト等安全に関する考慮は一切ない乗り物である。

これにウクレレを持った50歳位の男が車掌として乗り込む。Papetiは北西に位置し、其処から時計回りに一周する。車は猛烈に揺れながら走りVienus Beachに付く。途中お祭りの集団と擦れ違う。地元の人達は陽気で、頭に色々な花飾りを付け、手を振りながら道路沿いに歩いている。Vienus Beachには灯台があり、その周りは広場になっており、多くの人が集まり色々な催しを楽しんでいる。特に小学校前の子供達は男女に分かれ、夫々に地元の花を集め遊んでいた。自然との関わりがこうした生活の中から自然と身に付いて行くのであろう。


Gauguinの美術館は瓢箪の括れを廻った所に在る筈であるが、素通りであった。植物園にも立ち寄ったが、ここはトイレ休憩だけで、園内を見ることは出来なかった。次に洞窟や滝と称する所に立ち寄ったが何処の島にもある様な景観である。Tahitiの聖地なる所にも立ち寄る。ズッグリムックリの石造が2-3体あり、他は火山岩の黒い丸石を積み上げた台状に構築物で、これも文化財という物であろう。

最後に波静かな小湾で1時間ほど水に浸かる。砂浜は余り大きくなく、腰辺りまでの海底は砂、小石、泥と余り綺麗ではない。更に背の立つ辺りまで行くと、水も綺麗で泳ぎ易くなる。水は温かく何時まで入っていられる。適当に上がり、シャワーを浴びて着替えをする。真水は冷たく気持ちが良い。

朝から2回スコールにあったが、2度とも車中であり幸いであった。あっと言う間に風と共に猛烈に振り出すのがスコールだ。慌てて窓を閉めて対応する。10分も経つと元の青空に戻り、雨なぞ全く降らなかった様な状態になる。スーパーに立ち寄り港に戻る。途中急停車した際、真ん中の席が横に倒れ、悲鳴が上がったが、幸い怪我人は出なかった。椅子は固定されている物と思っていたが、単に置いただけの物であった。これ程安全性を欠いた乗り物は無いのではないか?事故が起これば死者が出るのは間違いない。恐怖を感じる乗り物である。世の中には未だ未だ不思議はあるのだ。生き続ければまだまだ新しい事にはお目に掛かれる筈だ。

03.06:Bora Bora島沖合いに船は投錨停泊、其処から島までは30-50人乗り程の艀で渡る。船着場の傍には観光案内所と御土産屋があり、その裏側からバスが出る様になっている。観光案内所で適当な行く先があればと思い訊くが、当日の予約は全部埋まっていた。家内たちは体調を崩して居り、適当に見て船に戻ると言うので、独自に歩き出す。最初は海辺に沿って右手に歩く。島を一周する道で迷うことはない。何人かの人も歩いており、1時間余り歩き同じ道を戻る。ボラボラ島は島から3-4キロ辺りを珊瑚礁が取り巻いており、その境は白波が立っている。白波の内側は静かな遠浅の海になっており、彼方此方には小島がある。島の中央には700m程の火山の険しい岩山が聳える全島緑の美しい島である。海岸に沿って民家が建ち、浜辺には彼方此方にボートが保管されている。保管の方法がちょっと変わっている。浜が狭い為であろうか、船は砂浜に引き揚げずに、浅い海中に台を作り、其処に船を吊り上げ海面1m程に吊るして保管しある。ある所では黒い犬がジッと水に浸かり、時折動いていた。犬も好きな様に涼を取っているのだ。所々に無人の果物売り場がある。人の善意の上に成り立つ流通形態で島の平和な暮らし振りが分かる。歩いていると人々は挨拶をし、一度ならず飲み水を差し出されたこともある。何時までも平和な島であり続けられる様願わずには居られない。

一旦船に戻り、昼食後再び出かけ今度は左手の方向に歩き出す。何人かの人は自転車で島を1周していた。例の改良トラックも何台か走っており、これが島の主な観光移動手段であり、この他には5-6人乗りのJeepが何台か走っていた。30分も歩くと店らしい建物はなくなり、民家も疎らとなる。更に1時間程歩くと山の反対側にでる。其処には主に貨物用と思われる小さな港と倉庫群が並ぶ。10人程の人が作業を休んでいた。更にその先まで行き、引き返す。30分程で戻ると自分達の船が彼方に見え出す。どの浜も余り人影はなく、荷物を置き、安心して泳ぐことが出来る。勿論シャワー等はなく、濡れたままで又歩き出す。そのうちに乾き、暑くなったのでスーパーに立ち寄り、涼を取り船に戻る。南海の楽園も堪能した気がした。
8時頃には出航の予定であった、揚錨機の不具合で4-5時間遅れたが、次に目が覚めた時には順調に動き出していた。

03.07:海は静かで天気も穏やかである。朝ジムに行ったほかは、殆ど何をした覚えもなく一日が終わる。明日は時差調整無しに、日付だけが1日変わる何か不思議な一日となる。大分東に来ているが時間はハワイ時間と同じだ。朝は暗く日の出は8時近くかもしれない。7日の次は9日となり、8日はないのである。
03.09:終日曇り、波はそこそこ。Easter島を過ぎた頃から気分が良くない。胃がむかつく感じで、食欲はない。遣ることも無く、ゴロゴロ寝たり起きたりで1日が終わる。

03.10:天気は回復、日中晴れ間も出る。甲板で、1時間ほど甲羅干しをする。日差しは強く、汗が噴出す。船内では若い人達が中心となって、彼方此方で音楽、踊り、講演会、その他の文化活動がある。音楽も太鼓を始め、色々な楽器の愛好家が多用な演奏をする。踊りも日本舞踊、社交ダンス、サンバにルンパ、何でもありだ。1000人も居れば、ソコソコの芸人は居る物だ。芸の無いのは僕位かもしれない。僕も中国語やSpain語の口座に時折顔を出すが、語学の習得はそれ程甘い物ではない。夜は映画もあり、たまに良い作品にも出会える。

03.11:暗い内に最後の訪問地Samoaの首都Apiaに着く。朝ジムで会い、何回か一緒に行動した男が一緒にタクシーで島の観光をしようと言うので、家内達とは別行動にすることにする。タクシーの運転手と交渉をし、滝と陥没洞窟の2箇所を廻る4時間の観光を160ドルで合意する。車はトヨタの小型車で、空調も付いた比較的新しい物であった。

人口30万人のSamoaはNew ZealandやAustraliaと近く英語が通じる。島は常夏の国で、常食はタロー(サトイモの仲間)、バナナ、ココナツ、パンの果実、魚と自給出来る様である。海岸を走る道路は片側1車線であるが渋滞はない。花と緑一杯の平和な島で、日本からの援助で建った学校が彼方此方にある。小さな島で、高い山でも300m程なので自然は雄大な感じはしない。滝と称するものも小さく物足りない。

海辺に近い、陥没洞窟に着く。入場料が15ドル程する。広範なカルスト台地で覆われる地中海沿岸には数多くの陥没洞窟があるが、ここも石灰岩が溶けて陥没した洞窟で底には水が溜まり、梯子伝いに下りて行き、中で何人かが泳いでいた。


ここで運転手がココナツの食い方を教えてくれた。外皮を剥ぎ、中の硬い殻に穴を開け、其処から先ずココナツ液を取り出す。これは其の儘の飲むことが出来、ココナツジュースである。品の良い甘さがあり、炭酸飲料より張るかに優れた飲料だ。液を出し終えた殻は目に沿って割ると3分割され、その内側には白い4-6mm程の果肉が付いている。この果肉を道具でそぎ落とすとオカラ状になる。これを椰子の繊維に包み、絞ると先ほどのジュース状の液と水分の抜けた固形分に別れ、夫々に又食材として使い道があるのだという。  Samoaの人たちはココナツの実を万能食材として使っているのだ。帰りの出店でココナツを買って呑みながら船に戻った。1つの実には1l程のジュースが入っている様に思えた。

その後町を2時間程歩いた。立派なギリシャ様式の教会があり、また丘の上には宝島を書いたRobert Louis Stevensonの墓がある町であるが、墓を訪れる暇が無かったのが残念である。
船は夕方出航一路日本に向かう。

03.12:今回の旅も残す所10日余りとなった。ここで今までの整理をして置くのが良い様な気がする。
先ず旅の目的は達せられただろうか?先ず船で地球を一周する事は金を払い船に乗っていればこれは可能である。この意味では人生の最後に出来るのが船旅である。船に乗り込みさえ出来れば、毎回の食事、部屋の掃除、シーツの取替え等は全て運送約款に含まれて居る。船には医療設備もあり、隔離病棟もある。洗濯、散髪等有料で可能である。飲み屋もある。限られた空間を出ることは不可能であるが、其れを除けば普通の生活は出来る。Internetの時代ではあるが、偶々乗った船は老朽船で設備は古く、世界や日本の出来事は新聞等の印刷物の形で見られるのが1ヶ月遅れは増しな方だ。最新のニュースはInternetのコピーで、之とて2-3日遅れで鮮度のいい物とは言い難い。これ等の不都合も慣れてしまえば、生命に支障があるわけではなく、特に不便は感じなくなる。

船内生活で一番困るのは病気である。感じ的に言えば、半数以上が何らかの健康問題を抱えている。僕の部屋の例で言うと、略常時誰かが病人である。時には長期に渡り、3人とも病気の状態が続く。主に風邪の症状で、鼻、喉、胃腸の異常が長期に渡り続く。僕の例で言うと胃の不快感が長期に渡り続いている。今までこの様な症状を経験したことは無い。出航以来湿度も温度も高い南洋を航海して居り、風邪の季節では無いにも拘らず船内の略半数は風邪の症状を訴えている。特別料金を払い何人かは常時隔離収容されている現状がある。船内病院ではマスクの着用を頻繁に勧告しているが、効果は全く期待できない。余りにも多くの病人が発生した為、最後の10日は備蓄の薬品も底を付き、基本的な痛み止めも薬も出なくたった。全てが異例尽くめで、想定を超えた病人が出たのであろう。船全体が汚染された状態で船内は元より、世界の港に病原菌を撒き散らして航海している様に思える。何か国際的な船体の健康安全基準は無いのであろうか?社会問題にはならないのであろうか?損害保険会社も問題にしないのであろうか?世の中にはまだまだ不思議は沢山ある。

約1000人の乗客の年齢分布は如何であろうか?之も健康状態の大きな要素であろう。船では年齢や、男女別の正確な資料を持っている筈であるが、僕には感覚的な言い方しか出来ない。この船に乗り、何故か大半の人が僕より老けていると感じた。何故か後期高齢者の僕が平均より若く思えて成らないのだ。それは身体的な外見からそう思えるのだ。どの様な身体的条件がその様な印象を与えるのであろうか?先ず身体の機能障害である。特に運動機能障害で常時介護や、杖も含めて常時何らかの補助用具を必要とする人、之を使用しなくても左右の動きが均一ではなく、所謂ビッコを引いている人が、ザット50人はいる。酷い人は一気に100m歩行できない。後は毛の少なくなっている人、白髪の多い人など如何見ても僕よりは年長の男女が300名程になる。テーブルに正常に座れず、屈みこんで食事をしたり、体全体が常時振動している人も何人かいる。それ程歳は取って居そうも無いが動きが鈍い人や、余り動かず座ったままの人も100人余りは居そうだ。船外に出ることも観光もすること事も無い人も可なりの数に登ると思える。居室、最寄のバアー間のみを往復し、毎日1万円の酒を飲んで過ごす御仁も居ると聞く。勿論20代の学生層も50人位は乗って居る。彼らは娯楽や文化番組の計画や制作活動をしながら旅を続けており、平均年齢を下げてはいるが、何分数が少ない。働き盛りの30-60代は殆ど乗っていないのは社会的な背景からである。中国人も100人程乗っているが、彼らは若干平均年齢が低い様である。本土系の人も北京語、広東語、等言葉によりグループ化しており、台湾系、シンガポール系等別なグループを形成していた。日本在住の中国系の人も少なくない。韓国人も何人が居た。それに、ブラジル、アルゼンチン、Chili等から日系の2世―3世の人が乗り込み1週間程で下船して行った。日本の船であり、日本人に会う目的で乗りこんで来たのであろうが、日本語が全く出来ない人も何人かいた。日本人に触れ、日本食を味わって満足したであろうか?これらの人々も4-50人程は居た様である。

この様な年齢的身体的な構成なので、所謂リピーターも多くこの先数次に渡るクルーズ予約をしている人も可なりに登る。要は船を体の良い養老院代わりに利用している人達だ。年に1000万程度の資金があれば、高い契約金を払う必要もなく、途中契約解除違約金を払う必要も無く生活が保証されるのだ。こういう人達が船の中では大きな顔をしており、身なり恰好からそれと分かる。彼方此方で買い集めた衣服を毎日着替え、自分が何者かが分からない人達なのである。世に言うチンドン屋であり、旅の事は殆ど分からない人達である。NorwayのT-shirtを着ていた御仁に何処を廻ったのかと訊いた所、地名の一つも挙げることが出来なかった。

旅のもう一つの目的は、実は先回行った時はいきなり生き物の居ない内陸であり、氷山も見ていない。今回は、ペンギン、アザラシ、鯨や、氷山を見ることであった。これも殊の外沢山見ることが出来十分に堪能できた。

健康状態が維持出来ない環境ではあったが、これは同乗者全員に関る問題であり、将来大局的な観点から改善が図られることを期待した。

そもそもPeace Boatの運営はNPOが当っていたが、民間の会社が実際の運営に当っており、当初の理念は極端なまでに薄れた感じがする。運賃やオプションの費用は全て数ヶ月前払いを要求し、有無を言わせない強引さである。僕は当初よりその運営に疑念を抱いており、他人に勧められる旅では無い。船室の不備に対する対応は遅く、解決に至ることは殆ど期待できない。所謂多層構造の運営で責任の所在が曖昧なのである。この様な不満は色々な人が漏らしている。

03.13:昨晩暫く振りで時間の調整をした。New Zealandの首都Willington時間となり、日本との時差は4時間となった。日本より4時間早く朝日が昇る。日の出の前に小雨がふる。赤道に近づきつつあり、気温と湿度は一段と高くなってきた。雲は多いが、時折射す日差しは強い。南中時は太陽が真上を通り、影が理論的には全く出来なくなる。船上ではこの頃合を捜すのが中々難しい。船は揺れており、其れにより影も揺れるからである。13時頃、影が最小となった写真と、半透明コップの同心円投影陰もとる。

船の食事は概ね、次の通りである。食堂は4階に一つ、9階の2つあり、若干違った物が食せる。4階食堂は朝と昼はブッフェスタイルであり、ヨーグルト、野菜のサラダ(キャベツ、人参、レタス、キュウリが主、時には玉ねぎ、セロリー、トマト、大根、蕪、海草)、秋刀魚、鮭、鰊の類、鱈、鯖などの魚、豚、牛、鶏、卵、練物など、ジャガイモ、甘藷、南瓜、ズッキニー、チャーハン、ピザ、フライ、餃子、シュウマイ等の調理品であったが、毎日食っていると飽きてくる。主食はパン、中華風蒸しパン、白米、玄米、御粥に梅干、焼き海苔、芝漬け、納豆等が付いた。食材の調達も寄航先で調達はしないようで、多くは日本から持っていった物と思えた。アフリカではもっとオクラが食える物と思っていたが、期待はずれであった。果物は柑橘類が主で、スイカ、メロン、バナナ等がたまには出た。栄養面ではバランスは取れているのであろう。調理法は日本食が主で、中華、韓国、その他東洋風の調理であったが、中国人には合わない様であった。この事を見越してか上海から乗船した男は缶詰やその他の加工保存食を持ち込み、それらを食べていた。彼らは野菜と果物を大量に食べ、又中国風蒸しパンや水餃子、シュウマイ、中国粥等を食べていた。牛乳も好んで飲んでいた。ジュースは朝主にオレンジジュースが出た。時にはグレープフルーツ、トマト、ピーチ、パイナップルジュースも出た。夕食は所謂定食で日本料理が大半であったが、何品が供され、デザートも毎回異なる物が供された。新年とか節分には其れなりに考慮された物が出され、時に洋食も出た。9階には2つ食堂があり、一つは主として麺類、丼物が中心で、もう一つはハンバーグ的な物を供していた。この他には有料で飲み屋のお好み料理、10日1度程度のデッキの焼肉や魚を食することが可能であった。又3時には若干の茶菓でコーヒーや2-3種のお茶を飲むことが出来たが余り上等の物ではなかった。
就寝前に180度の日付変更線を超えた様だ。

3.14日:明け方早く赤道を超え、北半球に入った。もう1週間位で、100日余りの旅も終わりになる。毎朝6時に開くジムには常連が4-5人居る。中には名前も分からない人も居るが、一期一会の会を下船前に遣ることを提案し、話が大方纏まる。後は日にちを決め場所の確保をすればよい。

03.15:角田さんと言う面倒見の良い男が居る。彼が幹事役となり夕方5時4階定食堂でささやかな宴会を持つことになる。女性一人、男性5人の朝6時に毎日集まる常連であるが、名前も未だ知らない人も居る。酒は各々の好みで取ることにする。

福岡からの女性と、神戸の男2人、佐賀の男性、其れに横浜に住む中国系の男である。僕が最年長ではあるが皆70近くになっており、今後この顔触れが揃う事は先ず無い物と思え、正に一期一会の会であった。但し、何らかの都合でお互いの土地を訪れる場合は赤の他人ならずの交流をすることも約して散会となった。

朝方やや強い雨が降ったが、日中は天気が良く日向ぼっこしながら海と空を眺めて過ごす。この様な時間はもう2度と持てないかもしれない。遣ることも無いので、幼い頃の歌を思い出して、歌ってみるが、正確に歌詞を覚えている歌は5本の指にも満たないことがわかり、唖然とする。何時の頃からか歌など歌わなくなっており、何時の間にやらスッカリ忘れてしまったのだ。昔出来たことでも、遣らなくなれば、忽ちに出来なくなってしまうものだ。昨年鶴岡の大会の時、小真木の公園の鉄棒にぶら下がり懸垂を試みたが、自分の体が全く持ち上がらなく成っているのに気付き唖然とした思いがある。老いとはその様な物で、能力は時と共に消えていく物なのだ。

03.16:船内の色々な活動の発表会が2-3日の内にあり、夫々のグループはその仕上げに余念が無い。僕も途中から出ている中国語の口座では中国と、日本の歌曲と舞踊を披露することに成っている。女の人が多く、男は4-5人しか居らず、歌詞を覚えていなくても出なくては成らない破目になっており、余り気は進まない。女性は中年以降でも可なり活発で、特に中国女性の踊りの情熱を見ていると面白い。

03.17:朝方雨が降るがその後青空がでる。残り少なくなったので、甲板で日光浴をしながら、空と海を眺めて1日が終わる。夕刻からうねりにより船の揺れが大きくなる

03.18:船の揺れは夜通し続き、朝になっても治まらない。天気は朝から雨が降り、その後曇りの一日となる。色々な教室の3ヶ月の総仕上げの発表会が終日ある。僕も1時間程舞台に立ち、うろ覚えの中国の語の歌を歌う。60年前の学芸会を思い出す。船の揺れは治まらない。

03.19:今日が最後になるかもしれないので、デッキで日向ぼっこをして過ごす。15時頃西の鳥島の西側を通る。その少し前に船首を横切るイルカの群れを見た。この航海中初めて目にするイルカであったが写真に収めることは出来なかった。

島は粗平らで中央部にはタンク、倉庫、塔の様な物が見えるが、何なのかはわからない。建物の右左には樹木の緑が見られた。本土から最も離れた領土で、1万年とか2万年後にはどの様な姿になっているであろうか?その時まで人類は存続しているであろうか? 不安定度を増す現状を考える時、楽観的な展望は持てない。

03.20:下船の準備をする。大きな荷物は埠頭の建物まで係りが運べる様名札も付ける。100日余り過ごした部屋の写真も撮る。

2-3日前から風邪で隔離されていた(通常4日5夜)角田さんの部屋を訪れ瞬時の別れの挨拶をする。彼は彼の同室の男が隔離解放後2-3日後に風邪の症状が出、その後隔離となり、本来ならば未だ隔離期間中であるが、下船の準備もあり船と交渉し、部屋の相棒を別の部屋に移してもらい、自分の部屋に戻り荷造りをしていた。隔離中は別途日割りで1-1.5万円の支払いが必要であったともいう。

03.21:朝8時に八丈島に立ち寄るとの放送がある。乗組員に急患が出た為である。天気は悪く海は荒れており、この船が接岸出来る港は無い筈で如何して患者を降ろすのか考えてみるがこれぞと言う案は思い当たらない。外は強風、波はドレーク海峡以来の大きさだ。10時頃に再度放送があり、悪天候の為島への寄港は諦め、横浜に向かっているという。この間関係当局と病人輸送の手段を検討していたに違いない。天気は終日悪く、船は揺れ続けた。

03.22:明けると嘘の様に天気は回復していた。快晴に近く風も穏やかになっていた。先ず左舷に見えてきたのが房総半島である。東京湾に入り、鋸山が見えて来ると、方向を変えその山を真後ろに横浜港に向かった。11時過ぎ下船。2時前に無事帰宅出来た。

最後に一つこの旅で良かった事も書いて置こう。通常は観光地でも無く、滅多に見ることの出来無いPit Cairn島や西の鳥島を見られたこと、又船の性能にゆとりが当初予定外のMagellan海峡、Brugo氷河を含むPatagonia Fjordを通過出来た事である。
航海総距離:31、417海里、58,184Km

旅の費用:船賃170万円、Option tourその他現地滞在費30万、総計200万/人

 
 

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