P-15 2016年版 (平成28年編)
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プログラム P-15 2016年版(平成28年編)

2016.10.23-29 Privas 6日間走
16.05.01-06 Namibian Desert 250 Km



平成28年11月30日設置

2016.10.23-29 Privas 6日間走

 
今回も貯まっているMileageから9万マイルを使い出費を少なくする事にした。航空運賃に関しこの他必要なのは、空港使用料の15000円程度である。航空会社では之を特典旅行と称しているが、僕は前払いしている運賃の取り崩しと考えている。特典旅行の最大の欠点は日程が自由に選択出来ないことだ。相当前から予約をしないと希望の日に飛ぶことは出来ない。出来ても接続が悪いとか、あらぬ所を周り長時間かかるとかの不都合がある。良い面もある。同じ圏内であれば2か所の滞在が可能な点である。又グループ内の異なる航空会社の便が利用出来、各々会社の特質、サービス,衛生、安全面の比較も出来る。この場合当然ながら往復同じ航路では無く異なる航路を飛ぶこともなる。今回はPrivasのレース参加が主目的であるが、St.PetersburgのHermitage美術館を観たいと思い、航空券の予約を先ず行った。次にロシアにVisa取得を調べてみた。驚いた事にその取得条件は非常に厄介で、僕には粗個人の旅行者お断りとしか理解できなかった。過去10か国ほどのVisa取得をしているが、この様に手続きがヤヤコシイ国は無かった。歓迎されない所に行くつもりはない。急遽立ち寄り先を変え、SwedenのGothenburgに行くことにした。久しぶりにRuneとMaryに会う為である。先方の都合も訊き、航空圏を変更するTokyo-Copenhagen-Gothenburg-Frankfurt-Lyon-Istanbul-Tokyoの経路で、SAS,Luft-
hanza,Turkish Air,3社の便を使う事にした。

RuneとはMailで連絡を取り合って居たが、直前になって兵役の訓練があり会えなくなったと連絡が入ったが、航空券の変更は難しいので取り敢えず飛ぶ事にし、機内で免税のお土産も買った。Gothenburgには遅く着き、バスで市内向かい、終点で降り、宿を探す。岸壁に停泊している船が宿であるが、地図を頼りに歩くが分かりにくい。周りに人は少なく、尋ねることも出来ない。暫く歩き回り、照明を受けた大きな船を探し当てた、Hotelの名前も書いてあり、ヤレヤレである。部屋はQueen sizeのベッドの周りに、僅かに人が歩ける程の空間しかなく、机は椅子もない。全体で4畳半というところか?これに小さなシャワーとトイレが付いただけの、正に寝るだけの空間。しっかりとした朝食は付いているが、之で1万円強、決して安くは無い。

翌朝Runeから電話が入る。Gothenburgの北50キロ程の練兵場で約1週間訓練中という。Swedenは永世中立国で200年余りに渡り外国との交戦は無いが、シッカリした国土防衛軍を有し、国連の平和維持軍でも活躍をし、兵役の義務もある。Runeはもう55歳を超えているが、定期的に訓練がある様だ。訓練は元より個人でするものではなく、集団で行動で、個人の都合でその機会を外すことは出来ないのであろう。

翌々日朝食後直ぐに空港に向かいFrankfurtに向かう。乗り継ぎ時間はやや長いがLoungeでInternetなどをして、Lyonに着いたのは22時を過ぎていた。市内への電車に乗り、終点まで行く。Lyon駅の構内を通りぬけ、駅前広場の角にあるホテルに向かう。昨年の同じホテルで便利で良い。部屋も大きく、机,椅子もある。朝食付きで7000円弱である。

10月22日、駅に行きPrivasまでの切符を買う。越田さん達とVallanceで会う時間に着く乗り継ぎの良い列車が無い。1時間程遅く着く電車に決める。昼過ぎに宿を出て、1時間余り電車に乗りVallanceの駅に着く。大きなバス乗り場が傍にあり、やや待ってバスに乗る。バスはRhone川沿いに南下する。路線バスで彼方此方に停まるが、渋滞は無く、粗時間通りの運航で、前方のモニターに停車駅や目的地到着時間等必要な情報が表示される。一時間程でPrivasに着く。昨年立ち寄ったCaféに立ち寄り、Café au Laitを頼み、大会本部に電話をかけて貰う。親爺は変わって居て、昨年いた男とは違うが昨年の借金、Cogniac3杯分(通信不良によりカード支払い不能)を払うと申し出るが、受け取れないと身振り手振りで主張する。コーヒー代と電話わせて5Euroの受け取りには応じて呉れたので良しとしよう。間もなく最初にあった時と同じ派手な絵を全面に施したVanでLaulandが迎えに来た。Privasの町は起伏に富んだ丘と渓谷の町である。天気は良好、紅葉も綺麗だ。会場には越田さん達も到着していた。彼らはもう一人外国からのRunnerと共にバス停から重い荷物を担ぎ歩いて来たという。GPSで3キロあったという。元気が余っているようである。

会場に着くと先ず主催者のGerardと彼の奥さんのMarieに会い挨拶をし、パスポートを渡し、簡易ベッドを借りる。

これから1週間の宿は鉄骨スレート作りの屋内テニス場で2面あるコートの半分を使う。可成り広い空間で、50-60人の宿泊には十分過ぎる空間である。出入りの利便性や騒音等の条件を考え、出入り口に近い一角を選び日本村とする。越田さんは持参のテントを張り、僕と岩田さんはアルミと布の組み立てベッドを借り、各々の寝床とする。曇りだし雨の懸念が出てくる。気温も下がりだす。

その後必要品の買い出しに行く。300m程先に小さなスーパーがあり、6時に閉店し、土曜、日曜日は終日買い物出来ない。Franceは日本の様に夜昼なく働く様な事はしない生活先進国なのだ。未だ夏時間なので6時頃でも明るい。暗く成れば何も遣ることは無く、持ち合わせの飲料を飲み切り寝てしまう。夜中に寒気で目が覚める。背中から冷えてくる。ベッドは布一枚、その上にアルミコーティングの薄いシートだけで、下部から冷えてくる。寝袋は2つ用心の為に持ってきたが、それでも寒い。相当に冷え込んでいる様だ。上下ダウンを着込み、辛うじて朝を迎えることが出来た。雨が夜半過ぎから降り出し、天気は一両日期待できない。

ギリシャ文字のΩの両端を円周方向に閉じた形状の走路の内側、400m正規グランドは1-2cmの水が溜まっている。これを見ただけで走る気力は無くなる。一周する間に靴はずぶ濡れになる筈だ。靴は2足しか持って来ておらず、この天気では濡れた靴を乾かす術はない。其れでも16時のスタート時間には後ろの方から雨の中走り出す。1周の30m程手前が宿泊所なので、一周しないで寝てしまう。翌朝3時半に目を覚まし、一応其れなりの用意をして外に出る。雨は夜通し降っていた様であるが、今は小雨と鳴っている。先ず計時マットを踏み1周を完了、約10時間の間に0.6km走った事になる。勿論文句無しのビリである。エードでコーヒーを飲み、眠気を覚まして,ビリ脱出を図る。雨は強弱の変化し乍ら降り続いている。其れに合わせて雨具を変えて周回を重ねる。ダントツのビリなので、脱出には正午まで掛かった。次に目指すのはBottom20からの脱出である。計時モニターは昨年までは2面であったが、今年は3面ある。Bottom 20は勿論3枚目を見ればいい。昨年まで有田氏等と1面はA Class,2面はB Class等と呼んで、どちらに名前が出るのかも楽しみの一つにしていた。僕の場合は夕方にはA Classの下段、翌朝にはB Classの上段の繰り返しであった。夜はワインを飲みユックリと寝ているからである。

ともあれ24時間経過の16時には70キロを超え、更に夕食までに10キロを積み上げ、ヤット熾烈なBottom20争いから脱却、ワインと夕食を終え、就寝。

翌25日4時起床、走り出す。30分程後、右足を躓き、気が付いた時には右手の甲と左手の平を付いて転んでいた。暗くて段差がある用心すべき所と用心はしていたが、一瞬の気の緩みで転んでしまった。老人は反応が遅く、転倒怪我の頻度は年々高くなる様だ。後ろから来た女性ランナーが心配してくれ、水場で傷口を洗い300m先の計時マットまで付いて来て呉れた。礼を述べ先に行ってもらう。自分のテーブルに用意しておいたバンドエードを傷口に貼り、走り続ける。野良仕事や樵作業での切り傷ひっかき傷はしょっちゅうしており余り気にならない。天気は良くなり、走るには良い条件となる。8時間以上たった正午に成っても右手甲の人指し指付け根からの出血が止まらないので、昼食の後医療テントに行ってみた。

傷口を見た2人の医者は即座に市内の病院に行けと言い、車の用意をして呉れた。Staffの一人が付いて来てくれ、何かと面倒を見て呉れた。僕のフランス語の知識はとても実生活の役に立つものではない。フランスの医者の大部分は英語を解しない。病院では指の動きを診、レントゲンを撮った。人差し指の腱が切れており、手術が必要という。先ず傷口の周りにあふれ出る程タップリの麻酔剤を注入して、手術が始まる。傷口を大きく広げ、砂などの異物を洗い出し、ピンセットで白い筋の様な物も取り出す。切れた靭帯であろうか? 20分程で手術は終わる。術後傷口は濡らさない様にとの注意と、5日間抗生物質の処方箋がでる。又2日後に来るようにと指示も出た。事務手続きを終え病院を後にする。処方箋はStaffが町の薬局に持ち込み,会場の医療テントの医者に預ける。医者は三角巾を用意して呉れ、之でレース復帰して良いと言う。本人の意思を尊重し,遣りたい事はやらせるのが彼方流のやり方の様だ。このレースにも色々身体的な不都合を抱えた人が参加して居ている。大きなコルセットを着用し、体を大きく傾がせている人、大腿と下腿を冶具で支えて歩いている人、片足の不自由な人等々である。モット日本でも身体的不具合のある人もスポーツに参加する機会があっても良いのでは無いか?


2日目、48時間終了時には何とか150キロを終了し、その後更に10キロを走り、夕食。手術後でもあるので、ワインは一杯で寝ることにする。

26日、3時半起床、片手が不自由で着替えに長くかかる。右手には包帯が分厚く巻かれ、衣服の袖を通すのが一苦労なのである。靴の紐は一人では結べない。仕方が無いので、紐を踏まない様に100m弱程先のエードのテーブルに行き、イギリスチームのサポーターの女性に結んでもらう。右手は粗役に立たないので、物を食うのも大変だ。全て遣る事に時間が恐ろしく長く掛かる。之も身から出た錆と諦める他ない。

天気は今日も良い。気温は日中20度近くと成るので、汗をかかない様、衣服で調節する。シャワーは暫く諦めることにしているので、汗をかかない動きをすることに努める。腕を釣って歩いていると目立ち、多くの人が声援を送ってくれる。このレースは5年連続出ているので、ランナーは元より、彼らの家族、エードのスタッフ、町の人々は皆名前を呼んで励まして呉れる。ヒョトすると僕はこのレースで一番注目されているのかもしれない。髭の東洋爺だからであろう。身も知らぬ人が、毎年何枚か前年の写真を渡して呉れる。中には出来の良いのもあり、有り難い。余り目立たない様、日常頃心掛けているが、どうも不精髭が注目の的となるらしい。でもこれを取るのは厄介で、一回で済むことではない。時々取る暇なとても作れない。暫し不都合を我慢し、不精を通したい。

丸3日が過ぎる16時には210キロを超える。今日は何時もの様にワイン2杯を飲んで寝る。

翌朝3時に起き、時間を掛け身支度をし、走路に出る。計時マットを踏み、エードのテーブルに腰を下ろし、靴の紐を結んで貰う。コーヒーを飲み、色々食べながら周回を続ける。Franceの朝飯は質素である。コーヒー又はココアにバター、ジャム,蜂蜜を塗ったバッゲトで済ますことが多いらしい。このレースでもそうである。バランスを考えると望ましいとは言えないであろう。僕はこの朝飯前に必要な物は喰って置くことにしている。深夜から早朝に掛けて僕の喰いたいものが出てくる。夕食の残りの肉や野菜などにやや手を加えたものが出ている。エードの食べ物の品数は多いが,我々好みの物は少ない。野菜や果物も少ない。特にスポーツドリンクは僕の好みの味は一つも無い。薬を飲む思いで、必要量取る様にしている。外国のレースであり、それにこちらが合わせる他ないのだ。其れが嫌なら、イギリスチームの様に私設のサポーターを連れて来て、好きな料理を作る他ない。彼らはガスボンベを含む調理器具一切を持込み、ランナー、サポーター共々レースを楽しんでいた。ただこれも車で移動できる、極限られた外国レース以外は無理である。

僕の寝ている間に正規のコースに戻したようだ。グランド地面の水が抜け、支障なく走れる状態になったのであろう。ガンガン走って居た2人の日本人にも屡々会う様になる。順調に目標の距離を熟し、疲れが出てきたのだ。コースはΩの両端の尻尾を其のまま円周方向に引っ張り接した変形二重丸だ。もっと分かり易いのはドーナツを一か所で切り、切り口をやや広げた格好を思い出すと良い。このドーナツの内周、切り口、外周に沿ってなぞると一筆書きの連続した線となる。之は同方向に連続して何周しても右左の足にかかる負荷は同じで、400メートルトラックでの超長時間走の様に何時間か毎に周回方向を変える必要が無い。このレースコースの場合、ドーナツ内周(400m弱)+切れ目+外周(600m+α)=1025mとなっている。走路面がもっと良ければ理想の超長時間走コースであろう。内外集を回ることに拠って、多くのランナーの位置が分かり、対面走になる距離も多く、交流の機会も多くなる。二点間の距離走とは異なり、途中の景色の変化は楽しめないが、時間走の楽しみは仲間との交流であろう。僕もこのレースで多くの仲間を得、励ましたり、励まされたり、冗談を交わし、距離走とは異なる楽しみを得ている。今年のレースでは2番目の長老であるが、同じ年配のランナーの走りの変化を見るのも楽しみの一つだ。年ごとに少しずつ走り方が変わり、走力が落ちていくのは自分だけの特異現象では無いことが実感できるのである。

医療テントの前を通ると8時頃に主任医師がコップを渡して呉れる。保管してある2種類の抗生物質の粉末を溶かした物が入って居る。旨いものではないが、必要な物なら飲まざるを得ない。11時頃になると病院に行けと車の手配をしてくれる。先日のStaffの娘さんが同道してくれる。抜糸の為の通院だと思って居たが、傷口の消毒をすると添え木で人差し指と中指を固定されてしまった。腱が繋がる迄指を固定する必要があるのだと、医者が言ってというのだ。尚不自由になるが致し方ない。右手は添え木と包帯で更に大きくなっており、着替えが更に難しくなる。憂鬱な気持ちになるが、之も身から出た錆と諦める他ない。人差し指と中指が固定される右手の機能は殆どなくなる。日頃何気なく上げ下げしているチャックも、左手だけでは開閉できない。何方か一方を押さえておく必要があるのだ。寝袋のチャックが喰ってしまい、動かなくなってしまった時には仲間の助けを借り、ヤット寝ることが出来た。一人では日常の生活が出来ず、介護が必要な状態なのだ。僕は今までこの様な身体的な不自由をしたことが無く、改めて肢体不自由な人々の生活の不便さ一部を知ることとなった。負け惜しみでは無いが、怪我からも得る物はあるのだ。


4日目の終了時に260キロを超える。気分的に落ち込み、早めに夕食を済ませ、ワインを飲んで寝てしまう。夜中に目が覚め、越田さんの買ってきた3L入りのワインを2杯飲んで又ねる。歯は2-3日磨いていないが、虫歯が進んでももうこの年に成れば歯無しでもいいやと自棄ぱちの気持ちだ。

5日目、7時過ぎに起きる。もうレース等如何でもいいやという気持ちで、ゆっくりと歩く。
抗生物質を飲む際に、左足裏を診てもらう。硬化した皮膚が割れた様で痛いが自分で見ることは出来ないが、靴下には血が付いている。その部分を消毒してもらいテープで抑えてもらう。テント内に何人かのランナーが治療を受けているが、中には足全体に肉刺の出来ている人もいる。如何してあれ程沢山の肉刺が出来るかも理解できず、又そんな状態で走り続けようとするのかも理解出来ない。僕は軟弱人間なので、何処かが痛ければ走らない。

真面目に走って居る人の邪魔にならない様に歩き続ける。皆最後の追い込みで、到達目標距離を目指して頑張っているのだ。600キロ目指している越田さんも貯金が段々減って来たと言いつつもシブトイ粘りを見せている。僕の方は思わぬ怪我の影響もあって、すっかりレースへの関心も減退し、成り行き任せの状態で、何か口実があれば横になって寝てしまう。天気は良く、気温も走りに適しているが意欲は沸かない。時折モニターを見るが依然として3枚目で順位もBottom20に留まっている。
300キロを超えた後、日が沈む前に寝てしまう

29日、レース最後の朝である。8時に起き、走路に出る。こんなに長い時間寝たレースは初めてだ。家にいる時より、沢山寝ている。

今日はお祭りの日である。仮想姿で走って居る人も何人かいる。町の人達も見に来ている。カメラを持ち撮りながら何周かする。3時過ぎになると、エードで自分の番号の木札を渡して呉れる。之を持って周り4時の号砲がなった場所にこの木札と自分のチップを一緒に置いてレースは終了である。之により計時マットから距離を測り、周回回数で出た距離を加算し、各人の最終結果がm単位迄でる。僕は怠け者なので、出来るだけ自分の寝床に近い所で終わる様に歩を進めたが、号砲がなった時には皮肉にも一番遠い所だった。グランドを横切り、寝床に戻り、身の回りの整理をする。明るいうちにして置いた方が良いのだ。

最終結果は345Km余りであった。昨年より100Km以上悪いが、其れなりの結果である。越田さん、岩田さんは目標の600kmを超え満足そうであった。

その後主催者のGerardに会うと、来年は6月に大会を開きたいと言っていた。今年は最初雨に祟られた。6月の方が天候が安定すると考えているのであろうか?

6時からは表彰式がある。外は寒くなっており、上下ダウンを着こみ、式に臨む。主催者及び来賓の挨拶の後、6日間及び3日間レースの男女別、年代別の上位表彰の後、全員に時間発表と同時にメダルの授与が行われ、かなりの時間が掛かる。僕の名前が呼ばれると、大きな歓声が起こる。丸で優勝者か英雄の様な扱いだ。之は5年連続のレースに参加した東洋の髭爺の印象が強いこと、それに今年は大きな三角巾で腕を釣ってウロウロしていたのが影響しているのであろう。メダルを掛けて貰うと、市長が一緒に写真を撮ろうという。写真に納まり握手をする。来年も又来いというので、生きて居たら来ると返事した。僕は特別扱いされる事は好きでは無いが、之も身から出た錆と諦めるべきか?

式が終わるとパエリアの夕食である。ワインやウィスキー等の蒸留酒も出る。適当に飲んだ後,塒に帰る。この後ダンスが遅くまで続く筈だ。

多くの人の声援を受け、エード、医療スタッフからも格別な配慮を頂き、何とかレースを完了でき、各位の御好意に心からの謝意を送りたい。

翌朝越田さん達は年の為に一足先の車で会場を出た。其れより一時間程遅れでLaulandの車で送ってもらうと、越田さん達もバスを待っていた。結局同じバスでVallanceに向い、Vallanceの在来線の駅で僕は降り、彼らはその先のTGVの駅からParisに向かった。

Lyonの同じホテルに泊まり、翌日昼過ぎに飛行場に向かった。飛行場でアルゼンチンのRunnerと出会い、挨拶をする。英語は全く解しない男なので意思の疎通は難しくそのまま別れる。機内で座っているとさっきの男がやって来て隣に座る。こんなこともあるのだ。どんな経路で帰るのかを聞くと、航空券を見せてくれる。Istanbul経由でSao Paulo行きのTurkish Airの切符である。乗り継ぎ時間は長く12時間近くある。僕の乗り継ぎ時間は約3時間、Loungeで過ごすことにしているので一緒に来ないかと身振り手振りで伝える。安全に寝る場所もある事は理解した様だが、一般の待合場所で時間を過ごすと言うので、それ以上は勧め無かった
前にも触れたがIstanbulのLoungeは僕の知る限りでは世界一である。広さ、飲み物、食べ物全てにおいて、之を凌ぐ同種のLoungeはない。Internet用のPCの台数も多い。日が変わってから乗り込んだ飛行機は大分空席があり、その日の夜成田に無事到着。
 
旅の費用
12日間(10.19-11.01)
航空運賃:15000、ホテル代:40000、交通費:8000、お土産:10000、
食費:5000、レース参加費:40000

総計:110,8000.-

 
   
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平成28年5月22日設置

16.05.01-06 Namibian Desert 250 Km

 
RTP(Racing the Planet)が主催する50回目のレースであり、日本からは50名近くが参加し、NHKが取材班7名を送り込んできたレースである。僕にはこのレースを走る力は無いと考え、Staff(正式にはVolunteerと言っている)として参加する事にした。

このレースに最初に関与したのは2006年のエジプトサハラであったが、この時もStaffとしてであった。何故そうしたのかは10年も前の事であり,定かではない。当時の手記を見ればもっとハッキリした動機が分かる筈であるが、僕には過去を振り返る余裕が未だ無い。過去よりは未来が重要なのだ。只過酷な条件の中での長距離レースと、砂漠と言う地表が剥き出しの景観に興味があった事が主な理由であった事は間違いない。

その後、Atacama,Gobi,Kimberly(Australia)を走り、今回6年振りに砂漠のレースに参加する事にした。世界遺産となっているNamib砂漠にはおおいに興味があり、又以前に一緒に走った仲間やStaffとの再会を楽しみにしていた。RTPの窓口になっている近藤さんがNHKに付きっ切りになることで、50人近く参加する日本人ランナーに少しでも手助けが出来ればとも考えた。

Staffは自費で指定地まで行かなければならない。Namibiaまでの航空運賃は馬鹿に成らず、Mileageを使って飛ぶことにした。こうすることで、運賃は無料になり、出費は空港税約15000円程度の出費で済む。只Mileageの特典飛行に色々な制約が付く。先ず自分の好きな日、時間、ルートで飛ぶことは相当前でも実現が難しい。之は特典旅行の座席数が限られている為である。今回は2か月前に予約をしたが、4月27日発、5月8日帰国の要求に対して、出国26日、帰国5月12日の便しか取れず、又ルートも出来れば経由したくない北京経由であった。空気が悪く、機内サービス、トイレの衛生状態は非常に悪いからだ。帰りはJohannesburgから南アフリカ航空とLufuhanzaの組み合わせで、Munchen経由Haneda着であったがMunchenでの待ち合わせ時間は9時間に及ぶ旅程となった。更に悪いことは当初Namibiaの首都Windhoek迄の予約をしたが、その後更にその先の海岸の町Walvis Bayまで行く必要が分かり、この変更には予定の日に飛ぶことは不可能であった。特典旅行ではJohannesburgまで飛び、その先は取り消し、JohannesburgからWalvis Bayは別途買う必要があった。この間の飛行距離は片道2時間であるが、7万円の支払いが必要となった。この様にMileageでの特典旅行は色々の制約が付くのである。良い点は異なる航空会社の便で、往復別々のルートで飛ぶことが可能なことと、途中降機が出来、寄り道も出来る点である。国を跨いでの降機が出来、他に観光したい所があれば便利である。

今回はこれらの不都合の上に更に大きな不都合が起こった。成田には早めに行ったが、Air Chinaのカウンターで搭乗券が出るまで2時間近く掛かった。北京―Johannesburgは問題ないが東京―北京の搭乗券は発券出来ないというのだ。東京―北京の搭乗が出来なければ北京―JohannesburgがOKでも何の役にも立たない。UAが全て手配しているのでUAと話をしてくれる様申し入れ、暫し様子を見ることにする。電話で何回かやり取りをしていたが,拉致が空きそうにない。業を煮やして、UAのカウンターに話を付けに行く。発券業務の手違いで搭乗カウンターの所掌外として、発券の窓口と連絡を取ってくれたが、時間が経つばかりで、事態は改善しない。Air Chinaの窓口でまた待つことになり、今何が問題のかを訊くと、Ticketが東京―北京とJohannesburg-Muchen-Hanedaと2つに分かれていて、このままでは東京―北京の搭乗券が出せないのだという。今日飛びたいのはJohannesburg迄であり、素人考えでは何も問題は無い様に思うのだが、そうでは無いらしい。UAの発券担当者が2-3往復し、やっと北京までの搭乗券は出たが、Johannesburgまでの搭乗券は北京のカウンターで手続きしなおさなければならないオマケが付く。同じAir Chinaの便であっても成田でJohannesburg迄の搭乗券は、切符が2つに分かれている理由で出せない事になっているのだそうだ。幸い北京では3時間の余裕があるので、余計な手続きをしても、Loungeで寛ぐ余裕はあった。

選べる日程に制限があると一気に目的地に飛べなくなり、余計な出入国手続き、最終目的地以外の国での宿泊が必要になる。Johannesburgでの降機はしたくなかった。過去に10回訪れており、治安が悪く、安全に歩き回る事の出来ない国には余程の事が無ければ立ち寄りたくないものだ。今回この国に立ち寄った事で更に不愉快な経験をする。砂漠での食用に魚の缶詰を10缶程持参したが、空港で全部没収されてしまった。肉や乳製品の持ち込みは検疫上の理由で制限を受けることは理解できるが、魚の缶詰の制限の根拠が分からず説明を求めると、この国の法律だとの一転張りであった。

予約してあった空港ホテルからの出迎えの車が来ており、10分程で着く。朝の8時であったが直ぐにCheck-in出来て好感が持てた。家族経営のホテルで、高い塀と高圧電気柵が何重にも回された敷地内に平屋建ての客室が20ほどあり、公共空間も広く、小さいながらプール、ジム、玉突きの設備なども整っていた。客室も綺麗で湯船が付いており、快適である。料金は朝食付きで7000余りと手ごろであった。外を出歩くことは宿では進めておらず,見るべきところも無いので、本を読んだりテレビを見たりする。奇しくも南アの祝日、Freedom Dayの祝賀の行事が大きな競技場で行われていた。人種差別撤廃から22年を喜ぶ黒人の熱狂が報じられて居た。国民の祝日であるが、白人の姿は映らなかった。演説をしているのはMandelaから3代目のZumaであるが、彼は目下、収賄等数百の罪に問われているのは偶然ではない。アフリカ各国の政治腐敗は世界の安定を脅かすほど大きな問題なのである。この日の外出は500m程先のスーパーでの食料調達のみであった。

28日、昼頃に空港に送ってもらい、2時間の飛行の後Namibiaに初めて降り立つ。Walvis Bay空港は極小さく、仮設の鉄骨テントの建物で、降機して暫く建物まで歩く。入国書類を書き、審査を受ける。手続きは至って簡単であった。

ここでも、Internetで予約していたVanが待っており、大会関係者数名と乗り込み、40分程でこの大会の集合地Skwapmundにつく。ここから先7日にこの地を離れるまでは大会当局の予約で、昼夜の食事を除き、費用の負担はない。Staffはランナーより1日早い到着が求められている。夕方町を歩く。綺麗な浜辺の町で、このあたりの観光の拠点となっており、ホテルも大小沢山ある。Bismarckの時代からこの辺りを統治したドイツの影響が色濃く残っている。店は通りの名前にはドイツ語が目に付く。建物もドイツ風だ。浜辺に行ってみると、灯台やビール醸造所直営のBeer Hallもある。この傍では民芸品を路上に並べて売っている。木や石で作った動物の像、素焼きの壺、ビーズや織物など南アフリカ辺りの物と酷似している。

29日はランナーの受け入れ手順などを打ち合わせ、25人のStaff(知人や連れ合いがランナーの人が大半)の任務の周知等の為に必要な時間である。夕方皆で簡単な食事をする。

30日8時、もっと多くのランナーが宿泊しているホテルに移動し、受付、装備の点検が始まる。これらは全部Staffの仕事である。特に装備の点検には時間が掛かる。数10点に及び物品を床に広げ、指定した基準を満たしているかを点検するのである。不適合品が在れば、至急調達しなければレースの参賀が認められない。一部に預入荷物が届いて無い人も居たと聞くが、その他は無事適合品を持参して居た様であった。又日本からの参加者で便の遅れで本人が到着していない人も居るとの話も聞いたが、真意の程が確かでは無い。レースの参加費が40万円以上(3700-3800USD)するこの様なレースの参加には1日ぐらい前に着く便にする必要があると思う。金銭的なカバーは保険でも出来ようが、本人の第一の目的が砂漠を走ることにあるならば、矢張り早めの到着が賢明であろう。

受付作業終了後昼過ぎに当局が用意した弁当を手に、30台ほどのVanと4台のバスに分乗し、4時間ほど掛け更に北の野営地に着く。ランナー用には25張のテントが用意されてあった。一張10人用のものであり、各々決められて番号のテントでレース終了まで起居することになる。この大会運営者、医療班、報道関係者、Staff、約50名のテントが大小合わせて15張程ある。これらのテントは先ほどの30台以外の車に乗った現地の作業員が毎日設営撤去の任に当たり、これ等の人々のテントもやや離れた所に点々と立つ。これらは小さいので、砂漠の中に50程のテントが立っているおり、壮観である。

200人余りが砂漠を走る為には現地要員も含めそれと同数の人の関与が必要な様だ。大会に直接関与する30台の車の他に、テント、椅子、テーブル、ストーブ、簡易トイレ、水、燃料、作業員等の輸送にはほぼ同数の車両が動員されていた様だ。外国の舞台で之だけの人とモノを統合的に動かす事は誰にでも出来ることではない。創始者のMaryは自らも走り、情熱の持ち主であるので出来るのであろう。

宿営地各々には名前が付く。今日のはHuab Lagoonである。大西洋の荒波の音が聞こえる潮だまりの傍である。現地人男女各々3人の歌と踊りの歓迎を受ける。之もMaryの計らいなのであろう。焚火の傍でお湯を貰い、ラーメンと缶詰で夕食とする。ここで困った現象がでる。Head lampの電池低下により2-3分で消えてしまう現象だ。予備の電池を取り抱えようとするが、挿入の遣り方が分からない。Spainの巡礼の道を歩いた際、持って行った物を途中の宿に置いて来てしまった為、現地で買ったスイス製の物で、電池を交換は一度行なったのみである。その時は簡単に出来た記憶があるが、どう考えても分からない。周りのStaffにも訊くが分からない。明日明るい所でジックリ構造を見て、解決することにする。

風があり寒い。テントは4人が入ると余り余裕はない。寒くて中々寝付けなかったが、いつの間にか朝になっていた。 

5月1日、レースは8時開始である。4時半に起き、暗がりの中、寝袋を袋に押し込み、荷造りをする。5時の熱湯供給開始に合わせ食事を済ませ6時には出発する。コースは前日設定されているが、念の為当日も目印の旗を確認しながら車を走らせ、風で倒れた物や動物が持ち去った物を正規の位置に立て直していく。これには3人の専任者が当たり、駆け足で予定通りの目印を立てて行く。この為車は10キロ程のノロノロ運転となる。砂漠を見たり、窓越しに写真を撮ったりするには丁度いい。僕の今日のエードはスタートから2つ目、21.3キロ地点で、このレースではCP(Check Point)と言っている。


着いて驚いたのは更に前を走って居る車が置いていった水のボトル、5L入り、70本程のうち10本以上の口が開けられ、使用不能になっていたことだ。袋に2本、10キロ以上の物を10メートル程引き摺った後もあった。ハイエナの仕業だと運転手は言っていた。彼らは匂いに敏感で、水もさることながら、食い物を探しているのだという。目印のビニールの小旗を食いちぎった跡も見られた。食べ物の少ない砂漠の生き物は何時も水と食い物を探しているのだ。この日何頭か見た、ジャカルも痩せこけて、貧相な格好をしていた。

到着後テントを2張設営する。目印の旗や幟も立てる。CHでは到着ランナー各々が持っているカードを読み取り、通過を電子的に確認し、通過時間は時計を見て記入する役目がある。所謂機械的確認と、手作業の時間記入のややこしい方法をとっている。何故そうして居るかの理由は分からないが、何か理由があるのであろう。水の十分な補給や、次のCPまでの距離、制限時間を伝える任務もある。一つ所CPにはStaff4-5名、医師1名の配置があり、ランナー全てが安全に走れる様な布陣となっている。

ここまでの距離は21.3キロ、その間の高低差は10m,走路面の状況も砂漠としては非常に良いので、10キロ程度の荷物を背負っていても力のあるランナーであれば2時間ほどで来る筈だ。気象条件は曇り、涼しく走れるに筈である。予定通り10時過ぎに先頭ランナーの姿が見えだす。望遠鏡で確認すると日本人である。NHKが期待する筋書き通りのレースの可能性が出てきた。過去のレースで2位になった選手だそうだ。2位は台湾のランナーで9分の差がついている。その後も単独、2-3人の団子等、ポツリポツリと入ってくる。半数ほどが通過する頃から集団は大きくなり、10人以上の集団もある。中にはCPの手前で派手なジェスチャーや、踊りながら来る連中も居る。まだまだ元気であり、レースを楽しむ余裕があるのだ。

第二CPの関門閉鎖は13時半であるが、皆元気で通過して行き、最終ランナーの後に続く2人のSweeper Staffが到着した後、CPを撤収し、持ち込んだ物はゴミも含め全て車に積み込む。Sweeperとは文字通り掃除人である。最終ランナーの通過後、走路表示を撤収し、ランナーが落とした物、故意に捨てたゴミ等全てを回収する任務を持つ。砂漠のレースで後に残るものは足跡のみとなる。このレースでは先ず物が無くなることは、落し物は必ずその日のCamp地に着き公開される。CPにも色々忘れ物があり、全てランナーが必要品として持ち込んだ物であり、持ち主に返る様な仕組みを作っている。

撤収が終わるとその日の宿営地に向かう。昼食はスナックとジュース、コーヒー等で済ますことが多いので、着くと先ず熱湯で喰えるもの作り、喰う事が多い。その後は未だ走って居るランナーの応援に出かけ、テントに戻るのは9時頃になる。今日の走行距離は37.3キロ、起伏は+260m、-290mとあるが起伏の数字には間違いがある様だ。

5月2日:4時半起床、6時出発は前日と変わらない。今日は12キロ先のCP1の担当だ。到着後直ぐにテントの設営を済ませる。テントはアルミの骨材に布の屋根が付いた物で、4隅の骨材に一人ずつ付き、対角線方向に引き延ばすだけで出来上がる。更に日差し除けの布を側面に取り付けると完了である。風がある為、四隅の柱の上部からの紐に10キロ程の石や水のボットルを結び付け、安定を図る。これらの作業は医師も加わり一体となって進める。水の供給体制や記録の準備も完了する。

最初のランナーの到着時間は9時過ぎであり、その前に電池の交換方法を考える。全体を見て、ケースの構造が如何なって居るか考える。何処が開口部かは直ぐわかり、少し凸状に成っている所を押すと、ケースは2つに割れ、電池交換は簡単に出来た。明るくなるのを待っての解決は正解であった。

未だ涼しく、砂も湿っている内に予定のランナーが見えてくる。2人おり、余り差が無い。更に近づくと昨日の1位2位のランナーで在ること分かった。コース条件は昨日よりキツイと成っているが路面の状態、起伏条件等は差が無くほぼ同じと言える。後でランナーに聞いてみると、彼らも実際に走り同じ印象を持ったことが分かった。

このCPの閉鎖時間は11時である。時速4キロの計算で在り、体力、気象、走路、荷物の条件等を考慮しても、皆楽々通過できる筈だ。予想通り30分も早く、最終ランナーが通過し、テントを撤収キャンプ地に向かう。今日のコースはほぼ海岸沿いに北に向かっている。海岸には難破船が幾つか見え、大西洋の波の荒さが分かる。塩で固まって走り難い所もある、起伏は少ない。小さな砂丘があり、砂漠の色は一色ではなく、所により変わる。砂は白にちかい。小石のある所は茶色や黒の斑になっている。

キャンプ着くと、既に全部のテントが張られ、お湯の準備も出来ている。早速ラーメン等を喰い、テントに荷物を置いて先頭ランナーの到着を待つ。

テントはその日により異なり、毎日異なる組み合わせの雑魚寝だ。空いている場所を見つけ、荷物を置く。ガラガラのテントも無ければ、ギュウギュウ詰めも無く、塩梅が取れる。

全長42.0Kmを全員が走り終えたのは17時過ぎであった。今日の夕食は主催者が用意をしてくれた。Campからやや離れた所に場所を設け、報道、医療、Volunteerその他の大会Staff及運転手等が招待されたようである。大きな鍋でパスタが用意され、サラダ、肉料理等のBuffet Styleの食事でビールやその他のソフトドリンクも出た。年配の大男が声を掛けてきた。運転手の一人で、トヨタの4WDは素晴らしいという。他の2-3の運転手仲間も集まり、Namibiaの酒を飲めと30-40ccの小鬢を差し出してきた。良く冷えており、紙に包まれている。その紙を瓶の膨らみの辺りまで剥いて、紙を取っ手にしてこうして飲むのだと教えてくれる。味わってみると、北欧のAquavitに似ているが、香りは独特だ。何度だと聞くと44度あるという。仕事の合間、暇があれば釣りをするのだといい、車の前面にアンテナの様に5-6本の釣竿を付けた車を指す。何が釣れるのだというと、色々釣れるといい、携帯に取った釣果を見せてくれる。4-50cm程の鯛やその他の大物の写真を見せてくれる。今後もレースは海岸を通るので、自分の車が海岸に見えたら立ち寄ると言いとも言った。大きなアイスボックスの一つにはワインが何本か冷やされ、結構優雅な生活をして居る様だ。釣った魚は別のアイスボックスに入れてあるという。氷は魚の加工場を通る時に大量に買っておくのだという。

5月3日、内陸に向かって走る日で気温の上昇が予想される。今日の担当部署はキャンプ地である。昨夜泊まったキャンプ地のレース関係のテントを撤収し、車に積み、今日の目的地42キロ先を目指す。途中砂の柔らかい所があり、タイヤの空気圧を下げて走り、道路に出ると小型空気ポンプを充電器に繋ぎ、正常圧に戻して走る。この為に車は持ち運びの出来る大小様々な空気ポンプを持って走って居る。小さな物は手の平に載るほどの物もある。

砂漠の色は赤みを帯びてきた。車で各CPに立ち寄り乍ら、今日の最終CP,Camp地に着く。7時半であった。ランナー受け入れの準備は30分程で出来る。周りでは現地の人達がテントを所定の位置に立てだす。現地の人の作業には階層が出来上がって居る様だ。運転手は全て白人で、車も各々自前の物の様である。言わば自営業の人達であろう。テントの撤収、設営に携わるのは専ら黒人である。僕を見ると作業を止め空手の真似をしている。テレビの見すぎの様だ。焚火やお湯係も皆黒人で、女性も何人か居る。それに、歌や踊りの担当も専ら黒人、夜遅くまで聞こえる彼らの歌は見事なもので、土地の香りがするものだ。

目的地は、黒の小石交じりの砂地であった。ランナーの受け入れの準備後、2班に分かれ代わる代わるランナーの走る方向に車で出かける。海岸にでると多くのアザラシの群れが遠くまで砂浜を黒く染めている。我々が7-80m以内に近づくと群れは一斉に荒い波の中に入って行き、其処で飛んだり跳ねたりの泳ぎをする。それ以上近づかないで、暫し見とれる。

帰りに車が砂に嵌り、仲間の車に引っ張って貰い、更に4-5人で押して、やっと脱出し、Campに戻る。先頭ランナーは12時前に入ってきた。1,2位の順位は変わらず、差は可成り開いてきた。NHKの思惑通りの番組が濃厚となってきた。その後続々到着し16時過ぎ全員完走である。砂漠のレースでこの様なことは珍しい。気象条件が一番の原因であろう。到着し、寛ぐランナーの姿を見ると、ダウンを着ている姿が多い。気温は20度位あるが、まだ海岸に近く、風が強いので、寒く感じるのだ。この条件と日中雲が多かったことが、楽に走れた条件で在ろう。

僕は熱いとは思わず、汗も全くかかなかったが、荷物を背負いランナーは熱いらしく、この日は途中で点滴を受けたランナーも出ている。大半がFinishした後、Medical Tentから僕を呼びに来る。行ってみると2人の日本人ランナーが点滴を受けており、医者が症状を的確に知りたいという。熱中症の症状にも色々あり、症状により必要な処置が異なるのであろう。どんな自覚症状があるのか、医者は問いかける。気分は如何か?吐き気はあるか?実際に吐いたのか?水分はどの位とったか?食べ物は?等の問いである。一人のランナーは塩のタブレットを6錠摂ったと答え,それでは不十分なので、電解質をとる必要があるという。僕の持っている物で1Lの溶液を作り、その場を離れる。幸いそれ以上の問題はなかった様だ。

Finish地点に行ってみると未だ続々と入って来ており、大半がアジア系だ。僕が最後に走った2010年頃とは大きな様変わりだ。特目立つのは中国、韓国系だ。彼らは本国以外からの同胞とも連携をとり、グループとなって走って居る。韓国の例を取れば、在日韓国人をはじめ、カナダやその他の国籍のランナーも同国人として、集団で走っている。中国もこの傾向は強い。韓国からは少なくとも2人の盲人の参加があり、これ等をグループとして支え走って居る様は同胞の絆の深さを感じる。

今日のキャンプの名前はSkelton Coastであり、白砂の砂丘がある。海岸も砂丘に上ると見える。風の作る砂の風紋は感動的に美しい。Skelton Coastは骸骨海岸ということになる。この辺り広範な砂漠の国立公園の名でもある。その由来は2つあるらしい。一つは彼方此方に見られる難破船、もう一つは多くのクジラの骨が見られる事による。その昔、欧米諸国はクジラを喰う為ではなく、油の採取のみに捕鯨を行い、その基地の跡は世界の彼方此方に残っている。この海岸で見られる鯨の骨は自然に押し上げられた物ではなく、過去の採油捕鯨の跡なのである。

5月4日、今日のCPは水の流れて居ない河床である。岩石は礫岩で赤茶けた色をしている。辺りにはいく筋かの獣道が平行に走って居る。異なる獣の足跡であり、足跡がハッキリ残っている物もある。偶蹄類のオリクスやガゼル、ダチョウ、ジャカル、ハイエナ等である。過去幾つかの砂漠を訪れたが、これ程大型で幾種類もの動物の足跡を見たのはここが初めてである。又足跡ではなく、砂に掘ったMeerkat(語源はオランダ語の海猫との説もあるが、マングースの仲間、良くテレビでは敵を発見すると全員で立ち上がり警戒音を発し剽軽に見える小獣)の巣も彼方此方で見た。食物の少ない砂漠で生きる為に、独自に進化した生き物なのであろう。

この砂漠の水分は殆どが、朝方の結露水のみで、植物は本の僅か彼方此方にしかない。この砂漠特有な多肉質の植物に、2枚葉が大きく伸びる植物がある。夜露を根に集め、1000年以上育ち続ける物もあると言うが、食物になる物ではない。雄雌別々の植物で、花が付いていたる。写真に収めることが出しないのが残念である。獣道には糞が当然落ちている。新しい物は当然其れなりの色が付いているが、古いものはドレも白色である。紫外線による脱色なのであろう。

走路はやや石が多いが,それ程走り難くは無さそうだ。所定の時間内の全てのランナーが通り過ぎる。CPを撤収して枯れ川の下流Campに向かうと、河川に沿って緑が見えてくる。


走路はほぼ平らで左右に大きな風景が広がる。全体に褐色の風景である。遠くに見える山は隆起大陸特有な形状をしている。その初期の山頂形状は平らである。頂きが平らな山等日本では想像し難いが、隆起大地の山は最初皆平らなのである。アメリカの西南部に良くみられる。有名なのはCape TownのTable Mountainであり頂部がほぼ平らな台形の山であろう。何百万年の歳月をかけて隆起する大陸は、地上に姿を現すや否や雨風の浸食を受け変形していく。平らな大地には水の流れ道が出来、浸食が始まり台形の地形が出来る。之が更に削られていくと3角形になり、更に崩れると平地となる。この時の流れを感じる地形が現れる。  

Campに着き、テントに物を置き、Finish地点に向かうと現地の女性の一群が訪れて居た。13ほどある現地部族の一つであり、手作りの品を売りに来たのだと言う。

暗くなって最後に入ってきた大きなランナーは倒れ込み医師の手当てを暫く受けていたが、重症では無かった様だ。今日の走行距離41.0Km。CampはSpringbok Wasser Campと名付けられている。ドイツ語でSpringbokの水飲み場という意味であろう。

5月5日、このレースの最長区間77キロを走る日だ。32キロ先のCP3に向かう。この間若干の起伏があるが、全体的には200m弱下る楽なコースだ。途中砂の柔らかい所があるが、距離的には僅かで後は走りやすい筈だ。軈て左手に大きな砂丘が続く。砂丘の下を暫く走った平らな所が今日のエードとなる。

設営を終え、砂丘を上った所に幟も立てる。砂丘は100m程の高さが在ろうか? 上からの眺めは雄大である。このレース随一の雄大な砂漠の景観かもしれない。残念なのは今朝がたから、カメラが故障し撮影不能になった事だ。砂漠では良くあることで、見えない砂の粒子より、レンズの作動不良を起こすのである。之で3度目かも知れない。誰の足跡も無い風紋が何キロも続く。風が押し上げる砂の頂点が砂丘の稜線であり、この稜線の緩やかな曲線が何とも言えない美しさを持つ。真下にCPが見える位置に幟を立てる。2人がかりで砂に押し込むと、細長い旗の杭は,何とあっさりと1mも入ってしまった。ランナー達が喜んで砂丘を駆け下り、CPを目指すに違いない。その後稜線に沿って暫く歩いていると、立てた幟の位置がコースから外れている事が分かる。位置を変えることを提案し、皆が同意し、立て直すことにする。選んだ場所は簡単に杭が入らない。砂の大地は表面からは分からない下部の構成が所により大きく異なるのであろう。石は無く、幟が風に抗して立ち続けるには砂に十分深く突き刺すしかない。手で砂をかき分け、40cm程の深さの穴を掘り、杭を立てその上に周りから砂をかき集め盛り上げる。何とか4-5時間は持たせたい。

エードの主任Samが運転手と前のCPまで引き返し、水を取って来て欲しいというので、引き返す。前のCPは幹線道路に近く、物資の輸送が楽に出来る位置にある。早いランナーは既に入って来ており、次のCPまでは1時間足らずで到着する筈だ。CPには若干の水はあるが、直ぐに無くなる筈である。肝心の補充の水は来ていない。辺りの砂漠を歩いていると、異な物が在ることを見つけ、其方に歩いていくと、5Lのボトル入りの水であった。

砂漠に在るべきものでは、エードに持ち帰ると、運転手は未だ口も切って居なく、水は貴重なので呉れないかというので、喜んで手渡す。資源の多いNamibiaでも水は貴重品なのだという。尚も、ヤキモキしながら暫く待つと、水が到着、急いて積み込み引き返す。砂の中の道は其の後何台かの車が通り、掘り返されて走り難くなっている。運転手は頻りにハンドルを操作し、難所を切り抜ける。砂丘の始まる所で車を降り、目印の旗に沿って砂丘を上る。ここでランナーの応援に当たる。既に何人かのランナーが上ってくる。暫く砂丘の中ほど、応援をし、40-50人程が通過する。ジャケットを着ていても風は強く、寒くなってくる。食料も水も無く心細くなってくるが、交代要員は来ない。仕方が無いので、コースに沿ってCPに向かうことにする。ランナーとの違いは荷物が無いだけだ。砂丘の砂もやや固まっており、足が取られることは少ない。砂丘を上り切ると長い稜線が続く。このレース一番の絶景であろう。稜線の繋がりと、左右に無限に広がる砂漠は正に絶景、雄大そのものだ。ランナーに声を掛け乍ら1時間ほど歩き、漸く先ほど立てた幟が見えてくる。其処から先は、砂除けのゲートルの用意はしていないが、気にせず駆け下り、ランナーと一緒になってCPに雪崩込む。

全てのランナーが通り過ぎたのは2時過ぎであった。予定より大分早く、CPの撤収をし、Campに向かう。
16時ごろCampに到着する。海岸の海水浴場であろうか、何棟かの建物が建っている。トイレや脱衣場であろう。早いランナーは既にFinishしている。お湯で食事を作り、先ず喰う。朝のそそくさとした食事後は、珈琲、ジュース、スナック位しか口にしていなので、何を喰っても旨い。

次に寝場所の確保をする。小さいテントであるが、片隅に一人寝られる空間があるのでそこに決めて、マット敷いて置く。

Finish地点では薄暗くなり、ライトを付けたランナーが遠くから近づいて来るのが見える。コースの表示は夜光塗料を塗った小さなピンクの小旗であり、勿論之だけでも光を当てれば確認でき迷うことは無い筈だが、夜間は更に黄緑色に光るケミカルライト(棒状、長さ15-20cm、直径2cm程のプラスチック制の袋に2種の流体が入っており、袋を折り曲げると2液が混合し、蛍光色を発する)を旗の先端に付けたり、傍に置いたりして、更に走路が分かりやすい様にしてある。之は10年来変わらないこのレースのコース表示方である。

光が見えだすと僕は其方に向かい、Finish地点までランナーの後に付いて応援を続けた。事実上今日がこのレースの最後の山場である。後残るのは10キロで、今日Finishするランナーは明日丸々このCampで休養した後翌々日10キロ(制限時間3時間)に臨むのであり、完走出来ない理由は皆無に近いと言える。

遅くなって入ってくるランナー程平常とは異なる表情を見せる。之には国民性があり,見ていると面白い。一般的には欧米人の方がジェスチャーや喜怒哀楽の表現が大きいと思われているが、ことこのレースに関わる限りそうではない。僕は今回でこのレースに5回関与している。最初と今回は所謂Staffとしであり、中間の3回はランナーとしての関わりである。

韓国、中国系の参加者が多くなったが、彼らの感情表現は日本人の比ではない。Finishに前に飛んだり、跳ねたり、踊ったり、抱き合った号泣したりする。Finish後、へたり込んで在らぬこと言い出す者もいる。倒れ込んで何やら言い続けているので、医者を呼びに行き、戻って見るともうそこにはその男の姿は無かった。周りの人に聞いてみると、皆で運んで今明かりの点いているテントに連れて行ったという。男は椅子に座って居り、医者に症状を話す様促すが体調の事は一切話さず、頻りに英語で、自分はバスケットボールの国際審判であり、尊敬する警察官の兄とこのレースを走り、誇りに思うと泣きながら話し続けていた。医者は興奮状態で体調不良では無いと判断し、その場を離れる。

遅くなってもう一人の日本人ランナーが途中収容車で運ばれて来た。50歳ほどの人で、車の後部座席に座り、心臓の辺りに手を当て異常を訴えている。医者が心臓にどの様な異常を感じるか頻りに聞くが、納得の行く返答が得られない。痛いのかと聞くと、痛くは無いという。圧迫感も無いという。高血圧と過去に言われたかと問うと、それも無いという。本人は高血圧と思って居る様で、血が頭の方に上る感じがするという。医者は高血圧には其の様な自覚症状は無い筈だと途方に暮れる。近藤さんも呼んで、異なる聞き方で尋ねても、結果は同じであった。大事を取って、病院で心臓の検査をすることとなった。病院までは250キロ、深夜の砂漠の道では10時間かかるが、何とか運転手の手配を付け、搬送することとなった。結果は悪くなかった様だ。

長い区間の走行には途中に足止めのあるCPを設けるのが常である。今回は43キロ地点がそれである。そこにはお湯の供給があり、休憩仮眠も出来る。そのCPを日が明けて1時間迄に出発しないランナーは4時まで留まらなければ成らない。今回このCPは皆余裕を持って通過しており、54キロの第5CP、66キロの第6CPも既に撤収との報告が入る。今走路に居るランナーは全員日が変わる頃にはFinish出来る見通しと成った。

最後のグループがFinish し、暫く後にはCampは静寂に包まれる。久しぶりに水洗トイレに行くとHead lampの光の中にジャッカルが浮かんだ。物の5-6m程の距離であった。

テントに戻ると女性3人が既に寝ていた。寝転ぶと背中の辺りに緩やかな凸部があり、寝心地は良くない。今日まで3か所全てのCampは平らな砂地で寝心地は良かった。こんなことは他の砂漠のレースでは無かったことで有り難く思って居た。他のレースではモット傾斜が付いていたり、石ころ交じりのCamp地で、寝心地はすこぶる悪いのが当たり前である。連日の寝不足で寝付いてしまう。直ぐに大鼾で目を覚ます。鼾は直ぐ傍から聞こえてくる。後は寝たり覚めたりの繰り返しとなる。如何も悪いテントを選んだ様だが、致し方ない。

朝明るくなってよく見ると鼾は自分のテントからではなく、隣のテントからであったことが分かった。それにしても大きな騒音だ。この為、外で寝る人も何人か居た。只この砂漠の場合、海水の温度差で朝方海岸では霧が発生し、夜露となって地表に落ちる。地面が一面に濡れる程結露があり、寝袋はほぼびしょ濡れになる。之を日中広げ乾かさす手間を厭わなければ、青空の下、真夜中満天の星を見ながら寝るのは悪くない。

朝飯を食って、鼾が止んでいるのを確認し、又寝る。今日は休養日で、使い終わったCP用の機材の点検確認だけである。機材は現地調達で現地に置いていく物、主催団体の本部の香港へ戻す物とに分ける。

自由時間に浜辺に行ってみる。長い砂浜の先に磯場があり、何人かの人影が見えるので行ってみる。韓国のランナー達であり、5Lのプラスチックの瓶を切り、その中に小さな貝を集めている。小さなムール貝や尻高の様な貝が沢山取れる。Campの焚火でスープを作るのだという。中々賢いやり方で、これぞSurvival 技術の一つだ。食べ物の現地調達だ。其の後更にその先まで行ってみる。砂の中に花崗岩がゴロゴロ見られる海岸で、マグマの影響を受けた火成岩地帯であることが分かる。朝のうちは空も曇っており、風があり寒い。プラスチック系のゴミを2-3個拾いCampに戻り、又寝る。今夜も同じ様に鼾を覚悟しなければならない。

5月7日、7時に10キロ先の最終Finish地点に向かい、設営をし、メダルや飲み物を用意しランナー受け入れの準備が整う。近くの小高い砂丘に思い思いに登り、各々の感慨に浸る。軈て最初のランナーが見え、見る見るうちにFinishに入って来た。其の後僕はランナーに声援を送りながら逆方向に足早に歩を進めた。会うランナー全てにBravoだ。只多くのランナーがコースを大きく逸れ直線的に近道を進んで居るので、正規の印の付いたコースを辿ると会わないランナーも多い。Staffはこれらコース逸脱走者をCheatersと仲間内では呼んでおり、近道をCheetah Trackといっている。Cheetahの獣道を指す。正規のコースから一定以上逸れると失格になる筈だが、大目に見ているのであろう。軈て最終ランナーとSweeperに出会う。最終ランナーは小柄な中国系の女性で、ダウンを着込み、ストックを付いてユックリと歩いている。時々残りの距離を訊くほかは、此方から話しかけても答えず、黙々と歩き続ける。Finishの旗が見えてくるとホットした様で、やや足早になる。中国人の仲間が迎えに来て、無事Finish。昨日迄の完走者はこれで全員完走である。其れまでの脱落者も10数名で、今までのレースで最も少ないので無かろうか思う。

終了後は皆でビールやその他の冷たい飲み物を飲み、Fish and Chips(白身の魚フライとポテトフライ)を食べる。直ぐにバスに分乗し、帰り足になるので、僕はバスに乗ってから食べることにする。車に預けてある小さなバッグを取り行くと、2-3日前に会った大柄な男に出会い、使わなくなった杖を置いて行けいう。遣ってもいいと思い、杖を入れたバッグを探すが見つからない。バスが出るので探す時間が無いと断った。

バスはほぼ満員で後方に座り、昼飯を食い出す。一眠りの後、4時間後にバスが30日の出発点に戻る。やや時間が掛かったが、今朝ほど積んだ他の2つの荷物も見つかり、積み替えて最初に泊まったホテルに戻る。

部屋には先着の客が居た。初めて会う男で、コース係をしていたと言う。ホッソリとしたドイツの優男であった。湯船に浸り、ゆっくりと1週間分の垢を落とし,一眠りする。昨夜も鼾で殆ど寝ていない。風呂に入り、柔らかい枕、ベッド寝る贅沢さに改めて感謝する。

7時からは別に用意した体育館の一室で表彰式がある。ホテルから約10分、皆で歩いていく。式の前に先ず腹ごしらえ。Buffetスタイルの食事と缶ビールがでる。食事の間、中国のメデアの制作したレースの映像が流され、皆時々大歓声をあげ見入る。落ち着いた所で、男女3位までの表彰、年代別表彰がありその後歓談の後,散会。男子は優勝できたが、女子は振るわなかったのは残念である。

5月8日、レースの集合地を離れ夫々が帰国にする日だ。朝レストランで出会うStaffやランナーと挨拶を交わし、又何処かでねーとなる。10時にVanの手配をしていたが、車が来たのは11時近くに成っていた。相乗りかと思ったら、乗ったのは僕一人で走り出す。行く先は40キロ南のWalvis Bayの宿である。町に着くと彼方此方探し回すが見つからない。ホテルに電話をして所在地を訊こうとするが、電話の応答がないという。遂に警察署まで行くが、其処でも分からない。地図やインターネットで検索する方法は無いらしい。空港への客の予定があるので、其方を先に済ませたいと言うので、了承する。飛行機に間に合わなければ大事になる。此方はホテルに着けば良いのであって特に急ぎではない。車での観光も悪くない。町から客を拾って、空港に行くものと思って居ると、車は元来た町に戻りだす。結局元来たホテルに戻り、一人の男を乗せて空港に向かう。この間ホテルから向かう先のホテルに連絡してもらい、所在地が確認できた。

ホテルに着くと代金の支払いを求められる。代金は前金で払ってあるというと、領収書を出せという。そんな物の要求を受けたのは今回が初めてである。出発前に支払いの確認はして居ると言うと、主人と相談するという。午後町を歩き回ろうと思い、地図はないかと尋ねるとそんなものは無いとアッサリいう。小さな町で、危険は無いので、勝手に歩けと大雑把に中心街の方向を教えて呉れた。

人口15000人程の町で、粗平らな町で道路は広く碁盤目に通っており、歩き易い。広大な空き地が彼方此方にある。砂漠の国Namibiaは人口密度が平方キロあたり3人に満たず、世界的にも密度が最も低い国の一つである。日曜日であり、店は殆どしまっている。町を歩く人影も少ない。港には大きなCruise船が入っているので行ってみる。船からは沢山の人が降りてきて、町を歩いているが、観るべき物は何もない。この町だけの為ならば、全く意味の無い寄港と言える。只Namibiaには大型船の入れる港はここを除きもう一つしかないそうである。町は港湾施設、漁業及びその加工、石炭、ウラン等の鉱業で成り立っている。中心街を外れると、小さい住宅が規則正しく並ぶ。開口部の小さい住宅で、大きさは4-5m X 5-6m(20-30m2)程であろう。

ホテルはここも個人経営で塀に囲まれた平屋建てであり、10室ほどある。シャワーが付いただけの質素な造りだ。湯沸かしの設備すら部屋にはない。出入りは自由で、部屋の鍵には自動車の鍵の様な物が付いており、これで門扉を開けて外に出ることが出来る。

Namibiaの通過はNamibia ドル(NAD)であり、南アフリカのランドと等価である。ランドはこの国で使えるが南アではこの国のドルは全く通用しない特殊な関係にある。入国後主として交通費用にATMのCashingで600NAD(邦貨約5000円)を両替した。飛行場までのタクシー代、150NADを残し、粗全部使い切ってしまう必要がある。翌日スーパーに行き、チョコレート等を買い、残った物はタクシー代とチップ用とすることにした。

12時に宿からの車手配を依頼してあり、Check Outをしようとすると主人がまた宿代の請求をして来た。自分が出国直前にCredit会社より毎月来る請求書を見ており、絶対支払いがあった筈だと主張するが拉致はあかない。払わなければ警察を呼ぶとの物騒な話に及び、仕方なくカード支払いのサインをする。タクシーはと聞くと俺が行くと車を出す。飛行場までは約20キロ、その間色々訊いてみる。支払いの件は済んだことで、Credit会社を介しての解決が最善だ。これからの支払いは差し止め可能なのだ。

町には何故魚屋が無いのか聞くと、必要が無いからだという。魚が喰いたければ、浜で4-5時間釣りを3-4月食える程魚が誰でも釣れるからだという。それ程魚は豊富に居るのであろう。町には一五程の魚の加工場があり、皆輸出用だという。更にこの辺りはウランの世界的産地でその鉱山もあるという。その他の鉱物資源も豊富で、鉱業は国の主産業の一つだという。それに最近急速に発展してきたのが観光業だともいう。空港まで20キロ弱、海岸線に沿って彼方此方に小高い砂丘が見える。西から東、海から陸側に沿って出来たものだ。幹線道路の舗装面が砂に埋もれることは無いのかと訊くと、しょっちゅう砂掻きが必要だという。空港で150NADと残り全部を渡し別れる。この男は白タクも兼ねているのだ。

空港では何人かのランナーとStaffに会い、別れを惜しむ。ランナー達は頻りにStaffに対し感謝と労いの言葉を掛けて呉れる。Staff冥利の気分となる。之が良いので、自らは全く走らないが、Staffをしているのが2-3人いた。中には9回に及ぶ者もいた。人が喜んでくれることをすることは気分がいいものだ。手続きを済ませ、待合室に入ると5-6人の日本人がいる。話しかけてみると、星を見に来たのだという。確かに砂漠の星は空気が澄んでおり、大きく見える。星座も日本では見られないものがあり、星の愛好者には憧れの地なのであろう。趣味の為に案内者と共にここまで来られる人達は至福者だ。

初めてで最後となるであろうNamibiaを後にするに当たり、触れておきたいことがある。其れは大航海時代以降ヨーロッパ諸国がアフリカ大陸に対して行なってきた人道上許されざる残虐行為である。ここでは特に、後のユダヤ人大虐殺に繋がったと後のドイツ政府も認めた二十世紀初頭ドイツが行ったNamibiaの現地住民に対する残虐行為である。現地人を鎖に繋ぎ強制労働させ、彼らの当然の反乱に対しては、部族を砂漠に追いやり餓死させ、井戸に毒を入れ、中毒死させた。ヘレロ・ナマクワ虐殺で、80%のヘレロ族、50%のナマクワ族が命を奪われたのである。徹底した組織的な民族抹殺の手法が読み取れる。

第一次世界大戦後、Namibiaの統治権は南アフリカに移り、人種隔離政策下の歳月を送る。1966年からこれからの脱却を図る独立運動が始まり、1990年南アから離脱、独立国家となった。Nelson Mandelaの釈放と同じ年ある。因みに南アで人種差別政策が撤廃差され、現政治体制となったのはその4年後1994年の事である。南アより遥かに良いが、僅か7%の白人が経済力の大半を握る社会が何時まで続くのかには疑問が残る。遥かなる地より今後の動静を見守りたい。

機上では一寸した食べ物が出、白と赤のワインを飲む。何方も南ア産の物であり、美味い。Johannesburgでは同じ運転手が出向に来ていた。案内された部屋は前より大きく、湯船も大きく快適であった。南アフリカももう訪れることは無いと思い、十数年来持っていたランドも全てスーパーで物に変えた。もうこの地に思い残すことは無い。

5月10日18時手続きを済ませ、南アフリカ航空のLoungeに行く。最後に訪れた9年前よりは大分広くなった。利用者の数は多く、空いている椅子が少ない。出ている物を食べ、ワインも飲む。どれもEconomy Classで供される物より上等だ。Internetで必要な交信も済ませ20時半空の人となる。機内で寝ることは苦手で、音楽を聴きながら時を過ごす。機はアフリカ大陸の中央部を粗真北に飛び、Tunisの西方で地中海にでる。Sardinia、Corsicaの西方を飛びGenoa辺りでヨロッパ大陸に入り、Munchenには翌朝7時半に着く11時間弱の夜間飛行である。粗時間通り付き、乗り換えゲートの傍のラウンジに行く。Munchenの空港は良く出来ており、其処での通過手続きは何もない。ラウンジは大きく、人は疎らである。16時発のLufthansaのHaneda 便までは8時間在るので、横に成れる所は無いか尋ねる。案内してくれたのはベッドのある3室で,どこでも好きな所を使って良いという。有り難く横になる。

2日連続の夜間飛行は僕も初めてであり、眠れる所では確りと寝ておかなければならない。只眠りは下手な人と上手な人があり、僕はこれは練習や訓練で上手くなれるものでなく、天性の素質では無かろうか思う。薬を使わずに何かスイッチ操作で睡眠が自由になれば重宝であろうが、何でも出来る世の中とは言うが、そんなものはが無いのが何とも恨めしい。兎にも角にも一時間でも2時間でも完全に横に成れるのは有り難い。

2-3時間で目が覚める。色々食べ物も出ており、赤白のワインを飲みながら喰う。僕は白ワインはあまり飲まないがMosel河畔のRieslingは気に入っているので無いかと訊くが、無かった。又寝る。

3時半に目を覚まし、便の確認をする。定刻出航と出ており、その旨家内にメールを出し、搭乗口に向かう。

旅の費用
機内泊:3泊、ホテル:6泊、テント泊:7泊
航空運賃:85000、ホテル代(3泊):18000、現地交通費:5000、
食事代(砂漠用1週間分):5000、合計123,000円

 

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