P-14 2015年版 (平成27年編)
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プログラム P-14 2015年版(平成27年編)

15.08.02−08 Privas 6日間走
15・05。7−14Norway 鱈釣り
15.02.21 Moonlight Marathon
Metropolitan美術館逍遥記


平成27年8月16日設置

15.08.02−08 Privas 6日間走


8月2日14時に開会式がある。Privasの市長や体育関係者等の挨拶、競技要綱の説明等があるが、中身は全く分からない。只分かったことはGerardが企画実施する10回目の6日間走記念大会であることだ。彼はこれに合わせ本を出した。可なり分厚い本で、そのタイトルの一部にPassionという文字が見られる。情熱の男なのだ。情熱が無ければ、この様なスケールの大会を10回も続けることは出来ない。僕が彼の大会に5年連続参加するのも彼のこの男気に惹かれるからだ。彼の主要なスタッフも殆ど変わる事無く、毎年集まって来るのもGerardの人柄があってこそだ。彼を支える奥さんの  Marie,息子一家の協力も彼の情熱による物だ。

16時、100人余りが歓声を挙げながら動き出す。直前の参加者情報では148名のエントリーがあると報じられていたが、来られない人も可なり出たようだ。空は快晴、陽はまだ高く35度の暑さだ。湿気が少ない分日差しは強烈で、紫外線対策は確りしてから走り出した。帽子にサングラス、半袖ランパンスタイルで露出部は満遍なく塗っておいた。僅かに風はあるが、1キロ余りのコースを1周もすると汗が出てくる。水の補給をすると同時に、頭から水を掛け外部冷却にも勤める。

144時間、長丁場のレースで何処で何が起こるかは全く予測できないので、その時その時を如何走るかを考える事にする。前もってシナリオを書いて置いても、その通り走ることは僕の様な未熟者には到底不可能だ。とは言っても、全く何の目標も無く走る訳には行かず、一応400キロを目指すことにする。これはここ3−4年の実績と、その後の走力低下を考慮に入れた数字で、関節の故障や、酷い肉刺でも出来なければ達成可能と考えた。それに、今年はこの道では世界的にも名の知られている関家さんが参加することになっており、又例年走っており800キロを目指す有田さんと僕の3人で日本チームを作ったと主催者のGerardからも連絡があった。関家=1000キロ、有田=800キロ、小生=400でチーム優勝の確立はほぼ100%の夢の実現の為にも、400は何とか達成したい数字だ。只走り出す前にこの甘い夢は破られてしまった。関家さんの股関節故障、有田さんの目標引き下げで3人でも1000キロに達しない可能性も出てきた。走りの世界は甘くないのである。

日没は8時頃で、代わってほぼ真円の月が空高く見える。やや涼しくなるが、汗をかきながら淡淡と走る。今日の目標は24時までに50キロとし、達成不達成に関らず寝ることにきめてある。

走路は乾いており、特にダートのグランド内は一足ごとに靴の廻りに埃が舞い上がる状態で、膝から下は誇りだらけとなる。50キロには達しなかったが、予定した12時を越した所で寝ることにする。シャワーまでは遠いので、建物の外にある水場で膝から下を荒い、タオルで体を拭いて寝る。今回はテントではなく、テニスコート2面の大きな建物の半分が仮眠所と成っており、前回の様に雨風の影響を受けることがなく、就眠環境は良い。だだっ広い空間を占めるランナーの寝場所は粗周辺であり、真ん中には大きな空間が開いている。前日早めに着き、出入りに便利な入り口付近に日本村を作っておいた。

2日目の始まりは眼の覚めた4時半であった。肉刺が出来ない様に潤滑油を塗り、靴を履きチップを付け走路に出る。40m程先に周回計測所があり、ここで数字が変わる。朝は気温が20度ほどと成っており、気分良く走れる。1時間ほど走ると、丘の稜線が浮かび上がって来、徐々に明るく成りだす。夜通し走っている連中も居り、出会うと挨拶をする。エードで目覚ましの為コーヒーを飲み、2−3周ごとに水も摂る。7時の朝食の時間となると、長い列が出来る。更に2周して列が短くなってから並ぶ。レースの朝食と言うのは簡単である。バゲットの切った物を適当量、其れに蜂蜜、ジャム、バター等を塗ったものに、オレンジジュース、ココアやカフェオレで、これはプラスチックの丼で呑む。この辺りはミツバチの多い所で、蜂蜜の容器の周りには沢山飛んでおり、容器に入り動けなくなっているものも数多い。蜂蜜を塗ったパンにも付いて来る。横取りされた大事な蜂蜜を取り返しに来ているのだ。当然の行為であろう。有田さんはこれ等の一匹が腕に止まったの気に追い払おうとして刺される。蜂は此方が何かをしなければ、決して刺さない。ミツバチの場合、刺すことによって一命を落とすことになる。指すことは特攻隊の様に、決死の行為なのである。巣を守る為か、個体の生命が脅かされない限り決して指すことは無い。周りに飛んでいようが、腕に止まろうが此方で何もしなければ、やがて立ち去る。

朝食が済むと日差しは強くなっている。日焼け止め対策をし、歯磨をしながら食後の1周をするのが、レース中の日課と成る。正午までは水分のみの補給で走り続ける。スポーツドリンクも何種類かあるが僕の口には合わないので余り摂らない。ミネラバランス上は摂った方が良いのは分かるが味を考えると中々手が出ない。代わりに水に塩を加えて摂るようにした。

若干の雲があり、時々パラパラと降るが乾いた走路が湿るには至らず、ポツポツと埃の中に黒い点出来るのみで、期待外れである。最初の24時間の終わる16時には僅かに100キロを超えることが出来た。6日間、144時間のレースは結構長い。最初に距離を稼いでも、その後故障を起こせば帳消しになる。体調の現状把握を的確に行い、無理のない走行が必要なのだ。僕は毎日毎日計画通りに走ることはほぼ不可能と考えている。その様な練習をしていないからだ。自分に合った走りはその日暮しの走りで、その日その日無理の無い走りをする事だ。故障を起こさず、最終段階でも走る真似の出来る余力を持って6日間を終えたいものだ。

2日目が始まる。3時間ほど走ると夕食である。これも長い列が短くなるのを見計らって並ぶ。余り上等ではないが、温かい食事が出る。ワインもロゼと赤が自由に飲める。僕は夕食にワインを2−3杯飲んで寝ることにしている。人は夜寝るべしなのである。シャワーを浴び9時ごろには寝てしまう。

4時過ぎに目を覚まし、動き出す。先ず大事なのがチップである。これを忘れると、周回計測が不能となる。それにゼッケンである。緯度的には旭川より更に北にあるこの地の朝は気持ちが良い。気温は20度を切っているかも知れない。先ず一周は体調の確認である。肉刺などの兆候は無いか、関節障害の兆しは無いか、疲れ具合は如何かである。今日一日は大丈夫な様だ。

朝飯前の3時間半、約20キロを黙々と走る。この間コーヒーや水を呑む以外は食料は口にしない。只朝の早い時間には僕の好む食べ物が出る。夜の食事の残りの肉や野菜を再加工し、食べ易い形でプラスチックの容器に入れ出ている。トマトや果物もある。野菜類は少ないので、レタス等が出ているとこれを確保し、自分の台に乗せておく。これ等を朝飯の前に食ってから、食事の列に並ぶ。朝飯は前述の様に粗末な物で、トテモそれで栄養のバランスは保たれない。6日間の長帳場では単に水とエネルギーの収支を合わせるだけでは不十分であろう。

日中エードに出ている食料パン、ビスケット、カステラ状の物、パスタ類、茹でた芋、マッシュド ポテト、ゆで卵、ハム ソーセージ類、チーズ、チョコレート、バナナ、リンゴ、トマト、レタス、オレンジ、メロン、スモモ、西瓜など、種類は豊富だ。塩分を含むものは意外と少なく、フレンチ フライド ポテト、ピーナッツ、ポテトチップ位で、後は量限定でスープがある。これは頼むと暖めてくれる。

9時を過ぎると可なり暑くなる。空には一点の雲も無く、日差しは強い。走る仲間の   Internet情報によると今日は37度になるそうだ。頭に濡れたタオルを乗せ、T−shirtが常時濡れた状態で走るほか無い。大腿間接の障害が悪化した関家さんを何度も宥め、走らない様に勧めた結果、本人もヤット諦め、グランド観覧席の最上段でビールを飲みながら高見の見物が出来る心境になった様だ。関節障害の場合、走って良くなる事は決してなく、悪く成る一方だ。早めに走行を止め、医者の指示に従った方が良い。

1周10−11分で淡淡と廻る。時速6キロ弱である。このペースでの根気が続くのは4時間ぐらいだ。その時には小休止し、腰を下ろし、ゆっくりと補水、補食にあてる。気分を一新すると又同じ時間淡淡と走ることが出来る。

1周1025mのコースの大部分は砂と砂利である。コンクリートやアスファルトは精精200mであろう。それに陰が極端に少ない。建物や木の陰は朝夕の長い時でも精精100m、正午を挟んで2時間は全く陰が無くなる。陰を捜しながら走ると回り道となるが、僕は其方を選ぶ。

2日目からは1時から3時過ぎまでは木陰で休むことにした。簡易ペッドを影の出来る建物と木立の間に持ち出し、上半身裸に成ってウトウトする。男冥利の時間だ。ベッドの直ぐ傍を皆走っており、足音と周回計測確認音が聞こえる。眠り込むことは無いが、炎天下での体力消耗を防ぐ効果はあるであろう。

又動き出す。夕食までは4時間余りあるが、それまでは一気に走り続ける。この大会も連続5回目となり、顔見知りは多い。毎年家族ずれで来ている人も多く、名前を呼んで応援してくれる家族も居る。その中の一つには5年前は極小さな男の子が居た。毎年此方の名前を呼んで応援して呉れていた。昨年当たりから、体も大きく確りとして来た。グランド内の芝生を併走しながら話し掛けて来たので、此方からも聴いてみる。幾つに成ったのだとフランス語で訊くと、13歳だという。もう中学生だ。自分もその内に走る積りだともいう。ランナーとしての彼の姿を見ることが出来るかは、此方次第であろう。5年という月日は大きい。これから先の5年はモット大きいような気がする。暑さの中朦朧する頭で考えると決して生きて迎える事の出来ない先の様に思える。2−3年先なら何とか大丈夫であろう。更に大きくなったこの少年の姿を見るのが楽しみだ。 

8時半ワイン2杯と夕食を終え、歯を磨きながらシャワーに向かう。シャワーの序に靴下、ランシャツ、パンツを水洗いする。空気が乾いているので、翌朝までには乾く。一組の衣類があれば支障なく走り続けられる筈だ。実際には雨等も考慮し3−4組位は持ってきたが、半分以上は使わずに持ち帰ることになる。
9時過ぎに就寝。今日のまでの合計走行距離は135キロ、先ず先ずであろう。然したる障害も出ておらず、明日も何とか行けそうだ。

3日目も4時過ぎに起き動き出す。薄暗い中、出会うランナー全てにBon Jourと挨拶を送る。黙っている人は少なく、大抵は同じ様な挨拶が返ってくる。この時間でも可なり多くの人が走っている。今日は昨日よりも気温が上がると聞き、ゲンナリするが、天気に関してはどうしようもない。それに対応した走りをするしかない。

参加者のうち名前と顔の一致するのは数名であるが、顔は参加者の半分ほどは見覚えがある。これ等の人々も数少ない日本からの参加の僕の名前を覚えており、声を掛けてくれる。多分参加者の中では僕の名前が一番良く知られているだろう。此方もより多く彼らの名前を覚える努力が必要だ。

予想通り気温は上がり出し、9時には30度は超えたようだ。何か天候変化は無いかと空を見上げたり、若干揺らめいているレース参加国20余りの国旗の揺れを見るが、期待する変化は無さそうだ。雲が増えたり、風が出てくれば幾らか楽になるのだが。

朝飯の前に160キロを超える。16時までに210−220キロに達していれば400キロは射程内に入ってくる。暑くても其処を目指して走ろう。今までの中で一番暑い6日間走で既に何人かが脱落している。後日での確認情報では期間中の最高気温は36−38度であった。何故こんな暑い時期の開催になったのか?考えられる理由の一つは会場確保の問題であろう。6日の間占有できる施設はそう多くは無いのだ。ここも多目的運動場であり、走りだけにこれだけ長い期間占有できる期間はある時期しかないのであろう。町の施設であり、他のスポーツ団体との兼ね合いもあり、この時期になったと思える。

16時、3日目が終わり4日目に入る。ここで未だ3日もあると考えるか、もう3日しかないと考えるかは各人のその時の状態によると思う。今まで、何の問題も起こっていないので、僕は今回もう3日しかないのだと思った。ここに居る限り走り以外のことは何一つ考える必要が無い。僕は只走ることだけを考えれば良い。必要な食べ物の供給があり、宿は確保されている。いざという時は医療も受けられる。他の雑事雑念に煩わされることも無く、走り三昧の境地がここにはある。

この3日間気負わず、気ままに足を動かして来たのでそれ程疲れも感じない。一番疲れを感じたのは2日目の終りの様な気がする。その後は体がこの生活になれ、怪我しなければ更に何日でも走れる様な気がする。それに人参型の声援も大きな寄与をしているのであろう。Marieなどは姿を見つける大きな声で僕の名前を呼び、Allez,allez(Toshio, Go,go)という。他の人からも随所で同じ様な声援を得る僕は果報者だ。

只人間生身、何時何か起こるかは分からない。障害は常に予兆があるとは限らず、一気に出ることもある。従って、今日出来ることは今日確りとして置かなければ成らない。明日は障害の出現により、予定したことが出来ないかもしれないのだ。兎に角今日は今日の事を考えよう。明日の事は明日考えれば良いのだ。これが僕のその日暮しの考え方である。

昨日以上に暑かったが何とか無事に夕食とワイン2杯にあり付く事が出来た。
今日は履いていた古い方の靴の底が両方とも大きく剥がれ出した。接着剤の劣化に依るものだ。距離も半分は熟しているので、明日以降2足目の物で走る事にする。

4日目の朝は3時に起き動き出す。400キロの最終目的に早く目処を建てたい。何か昨日の熱気が未だ残っており朝の涼しさが感じられない。これから日の出まで未だ若干は下がるのあろうか?
今日の天気は昨日同様だという。昨日同様淡淡と走るしかない。朝飯まで4時間余り一気に歩を進め、25キロ余りを積み上げる。

その後気温が上がり出すと、余り考えずに足が動くに任せ歩を進める。モット早くなどとは考えない、所謂足なりの走りである。周りのランナーの動きを見ると色々変化が出てきている。疲れか怪我により、走る姿が前傾したり、左右どちらかに傾いている人も少なくない。ビッコを引きながら走っている人もいる。ユトリを持って日に何回も衣装を変え、CustumeShowを楽しんでいる女性もいる。彼女は昨年まではGazelle(ガゼル)の文字の入ったシャツを着て走っており、走力は確かだ。只如何見てもスラットした体型、足の速いガゼルのイメージからは程遠いズングリムックリ型のランナーなので、ガゼルの看板を下ろしたのかもしれない。カメラを持って仕切りに写しながら、余裕の走りだ。去年撮った物だと言って写真を2枚渡してくれた。Mercy!である。走りながら、周りの人の走りを見るのは結構楽しい物だ。自分は如何見えるのであろう。極力前傾に成らず、姿勢を正して走ろう。

昼食後の休みを終え、直ぐに300キロを越える。後丸二日あるので400キロは確保出来る筈だ。問題はどの位上積みが出来るかだ。
暫く振りにK−Gに出会う。何時の間にやら、コースから消えていた男だ。1990年代にStockholmマラソンで知り合った男でこの大会の最長老だ。その当時は松葉杖を突いて走っていたが結構早かった。その後膝の手術をし、杖は必要無くなったが走力は衰え、今参加しているのは専ら6日間走のみである。

何処に隠れていたのかと訊くと、暑いの町のホテルで休んでいたという。この大会はこんなこともアリなのである。彼が6日間走のみ参加しているのは、アシキリがなく、何でもアリの大会であるからで、アメリカ等の大会にも出ている。2−3日前に会った時にはお前との差は100キロぐらいに成るであろうと言っていたが、終わってみればは300キロ近くの差がでていた。

この様な大会は死ぬまで参加できるので、そうする積りだともいう。6日間の走行距離に何の制限もなく、途中抜け出してホテルでの静養が可能な大会なら、僕でも死ぬまで参加できる。只其処にどう言う意義を見出せるかだ。
前日同様日差しの強い2−3時間は木陰で横になる。この状態では汗はかかず快適である。
日本であれば、この気温では汗ベットリ、ダラダラの状態であろうが、木陰で体温程度の温度があってもここではそうならない。湿度が低い為だ。僅かな風でも心地よく感じる。

再び走路に出て歩き出す。未だ走れるが走っても歩いても、然して速さは変わらない。年配のランナーーがフラフラとコースを逆に歩いてくる。外側を逆方向に廻っている仲間と話している内に、自分の進行方向を間違えた様だ。この様な光景は2−3回目撃した。意識朦朧の状態では良くあることで、Trail race等でこの状態に成るとあらぬ方向に行ってしまい危険である。僕も立ち止まった時フラフラ感が出たので、落ち着くまで近くで腰を下ろして待った。連日の暑さと、疲れでソロソロ異常な状態が出ても可笑しくない。自分の状態を的確に判断して行動しなければならない。

300キロを廻った後、ワイン2杯の夕食を取り、9時半就寝。
5日目の朝も3時過ぎから動き出す。見上げると月は大分欠け出し、斜め真上で輝いている。4−5日の内に形が大きく変わり、位置も大きくずれている。この5日間終日陽の移動を眺めながら,時の連続的な移ろいを感じながら走った。時計は身に付けて居ない。陽の出、入りの時間も何分か変わって居るであろうが、其れを察知出来る程の感覚は持ち合わせて居ない。

今日も天気は前日とほぼ同じで、暑さが和らぐことは期待できない。朝の涼しい内に少しでも距離を延ばしておく事だ。今日の目標は最終目標の400キロに王手を掛けることだ。最終日は起床を3時にしても、13時間しかない。食事や休憩時間などを考えると、昼寝を全くしなくてもコースに居る時間は11時間強であろう。最悪時速4キロと考えると、就寝前に360キロを超えておかねばならない。

5日目とも成れば、毎日遣ることは定型化してくる。体がその様に動く様になる。指に若干の肉刺が出来ているが、この程度であれば走行に支障は無く、明日もソコソコの距離がこなせる目処が立つ。筋肉や関節にも異常な痛みは出ておらず、昨年とは大いに異なる。昨年は2日目ぐらいから右膝前部内側に痛みが出、消炎剤や痛み止めを3食飲んだ。この為、食欲は著しく減退、ほぼ残りの全期間液状物で補強を賄った。昼間はスープ、水、就寝前はワインであった。これで5日間持ったのは不思議だ。

午前中は何時もの様に淡淡と走る。肉刺やその他の障害による痛みが無いのが、何よりだ。今までこんな長い間無傷であったことは無く、肉刺や間接の障害にはほぼ毎回悩まされていた。何故今回無傷に近い状態なのかは分からない。しいて言えば、速度低下=着地衝撃力低下による筋肉、関節負担の軽減であろうか?肉刺に関してはこれ等は逆に作用するであろう。歩幅現象=歩数増大:摩擦回数増大=肉刺の出現の様な気がするが、この算式に間違いがあるのだろうか?出場前には少なくと前回よりも2つ多い新たな故障の懸念があったが、其れが全く出ていないのだ。物事は遣って見なければ、分からない。先ず遣るべしだ。


昼の休憩後走路に出ると、ピンクのバニー姿で走っている大男が居て、とうとう発狂者が出たかと思った。この男は4−5年前からの友人Aurelianと同じくTou―  louseから来ており、フランス人にしては英語は旨い。夕食の時話しかけてきて、来年はお前等3人にモット刺激的な衣装をを用意するので一緒に走ろうと誘って来た。これに対して僕は日本男子は恥を弁えており、その様な破廉恥な行為はしないのだと言うと、怪訝な顔をしていた。これも文化の差であろう。カーニバルの騒ぎと同じ様にここでは何でもアリなのである。

関家氏に加え有田氏も昨日から高見の見物をする様になった。彼らはグランドとその外周を廻るランナーの蟻のような動きを睥睨し、ビールを飲みウルトラ談義に余念が無いのだ。

下から見上げ、ベラボー、ボンクラー(盆暗)と大声で叫ぶと、上では手を振って応える。周りのフランス人も誰も不思議に思わず、お互いにエールを交わしていると思っているようだ。僕の方はヤケクソで叫んでいるのだ。べラボーはブラボー、ボンクラーはボン クラージュ(Bon Courage)に聞こえるからだ。ジュの音は極弱く発音される。

英語に置き換えるとGood Courageであるが、英語圏ではこの様な応援の言葉を聞いたことは無い。いずれにせよ日本語には置き換え難い。応援や、励ましの発想が根底から異なるからである。“人参”文化と“鞭”文化の差である。西洋では競技者を鼓舞、日本では叱咤する文化の差がある。西洋では競技者を“良く遣った”“良いぞー“等と褒めて元気付ける。日本では”がんばれ“等と言って励ました積りになる。凡そ競技している者で頑張っていない者は居ないのではないか。それに頑張れてと言われても??? 今では”ファイトー“等と云う物騒な言葉も聞かれる。これは鞭文化の延長であろう。教育の現場でも同じだ。褒めて育てるか、叱って育てるか? どちらが良いのか考える必要があろう。

走りながら言葉の遊びをする。ランナーの多くは抜く時に“Toshio”と声を掛けていく。僕は“Tres chaud[(トレ ショ)=(トテモ アツイネ)]と応える。ToshioもTres chaudも余り変わらない響きを持つ。兎に角暑い。

走っていると退屈して来るので、色々悪戯を考える。何人かのフランス人を追い越す時、後ろから“Beraboo,Jean”と追いつき、“Bon Coura−”で並ぶと、後ろから“Mercy”の返事が返ってくる。彼らは僕の悪戯に気が付いていない。彼らの聞きなれている“Bravo,Jean”,“Bon Courage”に聞こえているのである。

今日も特段の支障も無く距離を順調に伸ばし就寝前には370キロを超えた。これで明日の最低ノルマは30キロで、後これにどれ程積み上げ可能かだけが問題となる。夕食は3人で一緒に取る。その際彼は僕は今アジア記録に向かって走っているのだ訳の分からない事をいう。確かにそうかもしれない。僕の歳で日本で、いやアジアでこの様なレースを走った人は今まで居ないからだ。走ればドンナ距離でも記録上はそうなるのであろう。そんなことは如何でも良いことで、今日もワイン三杯の夕食後21時半就寝。

8月8日、最終日である。3時に起き動き出す。無傷の為、疲労も余り感じない。心的に高揚しているのであろう。少なくても後2−3日はこの調子で行けそうなので、今日で終わりになるのが残念な気もする。

僕の年齢と同じかそれ以上の参加者は4人居たが、一人は2日目に帰ってしまい、4日目にもう一人は戦意消失、ゼッケン返上を申し出ている。最後の一人、K−Gは昨日辺りから車ごと完全に消えてしまい、行方不明と成った。最後まで残ったのは僕一人だ。只この大会はこうした離脱者でも走った距離は認定し、完走メダルも出している。

この様な長期のレースは色々な意味で正にSurvival Raceである。僕の年齢になると、先ず第一の関門はスタート地点に立つことである。参加手続きをし、スタート地点に辿り着く意志が無ければこれは出来ない。年々同年のランナーが減って行くのは、体力の減少と共に気力が無くなっていくのであろう。元気で生き続けなければSur− vival Raceのスタートさえ出来ないのだ。スタートしても6日間の内には色々な問題が出てくる。どれか一つでも解決できない問題が出れば、レースの継続は不可能となる。Survival失敗であり、レース離脱である。

久し振りに朝から雲が出ており、気温も若干下がっている。今まで一番走り易い安い日となった。10時前に目標の400キロに達する。残り6時間での積み上げ目標を25キロとする。時速4キロで達成できる目標で無理は無い筈だ。無理な目標を立て、達成失敗で落胆するよりは、達成可能な目標の方が良い。

曇りの為昨日までの様に暑くないので、昼寝は返上で走ることにする。走ると言っても精精時速5キロ以下、歩いているのと変わりはない。時間は残り4時間、3時間と少なくなった。気が付くとAve Mariaならず、Allez,Mariaの大きな垂れ幕が出ている。小柄でトップを走っているMariaを励ます横断幕である。

こんなに最後に楽に走れる6日間走は初めてだ。怪我は無く、気象条件も良く成り、止める理由は見つからない。これなら何時までも走れる気分で最後の1時間を迎える。430キロは先ほど超えた。3周した後、番号の書いた木片を受けとって走る。144時間の終了時にチップと一緒に最終走行位置に置き、最終周回完了後の半端な距離を測定する為である。

周回計測所、エードの辺りは沢山の人が応援に出ている。残り15分と成った時、カメラを持って走る。走る仲間、応援の人たち、モニターに移っている最終数値などを写す為だ。

1周後周回計測所を過ぎ、更に走り続ける。競技場スタンドを通り過ぎた所で、号砲が鳴り6日間走の終了となる。チップと木片を置いて走路を離れる。宿営地はグランド内側のラグビー場の芝生を横切った所にある。

今回は高温と言う悪い条件ではあったが、無傷という思わぬ幸運に恵まれ、気持ち良くレースを終えることが出来た。走行距離も435.5キロ強であり、決して悪くない。高温の為全体の記録も例年と比べ、100キロ程度低めである。110人以上の中で、順位も55位だ。ロートルとしては上出来だ。

シャワーを浴び、表彰式に臨む。6日間、3日間、女子、男子夫々表彰が延々と続く。主催者、市長の挨拶等もあるが、勿論チンブンカンプンである。その後は恒例のパエリヤパーテーである。適当にワインを飲んで早めに引き上げる。呑ん兵衛の相手をしていると切りが無くなる。関家、有田の両氏は3時の朝帰りであったそうだ。

舞台の前ではダンスが始まっており、皆お祭り気分で踊り出している。通りかかると  Marieに捕まり一緒に踊れてという。僕はダンスは出来ないし、疲れたので寝るのだと断る。更に進んでいくと、周回計測所の横で、10代のFrench Girls2人に呼び止められる。一緒に写真を撮って欲しいと言うのだ。こんな事はしょっちゅうあることで、直ぐに応じる。僕には何か安全マークが付いているのだ。

旅の前後
話の続きとして、後の方から先に書こう。
レース翌日はLyonに戻る日だ。簡易ベッドを返し、主催者夫妻に分かれの挨拶をする。昨日中に返ってしまった連中も居るが、残っていた連中にも挨拶をし来年もまた会えたら言いねと告げる。

Privasのバス停までは大会当局の車で送ってくれる。小型の乗用車で荷物と3人が乗ると満杯である。バス停では1時間ほどの待ち合わせである事が分かり、来る時も立ち寄ったCafe Restaurant、Le Jardinに立ち寄る。年配長身の店主は親切で気前が良い。来る時も当局との電話連絡をしてくれた。無事レース完了を祝って    Champaignでも呑もうと思って頼むと、Champaignは無いが、Co―  gnacでは如何だという。3杯頼み、呑みながらバスを待つ。支払いは現金が無いので、カードでしようとしたが、交信状態が悪く決済できなかった。次に来た時に払えば良いと大仰である。又来年も来なければ成らないことに成ってしまった。走れなくとも借金は払ってから死にたいものだ。

Lyonの宿には正午頃に着く。部屋の準備は出来ていないが、入って良いという。部屋に荷物を置き、ロビーでコーヒー飲みながら待つと、直ぐにシーツ等の取替えをしてくれた。古いホテルではあるが、湯船があるのでゆっくり風呂に入り6日間の垢を落とすことが出来た。その後は夕方までは昼寝である。この間睡眠十分の関家氏には世界遺産である旧市街の観光を勧めた。
夕食時、外に出ると日曜なので殆ど店は閉まっており、駅のSubwayが開いていたので、Long Sandwichを食う。約9Euro,日本でもこんなに高いのだろうか?

帰国の10日は朝9時近くまで寝ていた。その後1時間半ほど町を歩き回り、11時過ぎ空港に向かう。待たずに手続きをすませる。帰りの便は同じなので、関家さんとLou―ngeに入る。50人ほど入れる所であるが殆ど貸切り状態で、呑んだり食べたりしながら、搭乗を待つ。残念ならここのPCは故障中で、Mailの交信は出来なかった。

Luft Hansaの便は定時運行で快適であった。途中Frankfurtでの待ち合わせも2時間程度で、ここではLoungeを利用し、Mailの交信も出来た。
11日正午直ぐやや早めに羽田到着、蒸し暑い日本の夏を再体験する。

7月26日午後Berlinに着く。ドイツは何回か来ており、他の地域は殆ど廻っているが、Berlinなどドイツ北東部には来たことが無かったのでこの機を利用し、立ち寄ることにしたのだ。着陸前窓越しに見る地形は平地で、彼方此方に川や湖が見える。   Berlinは平地の都市だと勝手に決める。

空港の案内でホテルの名前を見せ、行き方を尋ねと、バスの番号と降りる場所を教えてくれる。序に3日間圏内有効なBerlin Cardを買う。27Euroであるが、使い方に依っては十分元は取れる。切符を一一買う必要がなく、この面でもメリットはある。HotelはMarriot系の大きな物で、直ぐに見つかった。直前に予約したが一泊素泊まりで15000円と安くはない。2日目以降は安い宿を予約してある。Checkin後は寝るだけである。

翌日はホテルの周りを歩き回り町の感触を得る。大事なことである。北西部にある空港と中心部の間にあるホテルで、傍には美術大学やBerlin工科大学がある。通りの名にはKant, Goethe, Shiller等の文人の名が付いて居り、6月17日通り(1953年6月17日の東ベルリン暴動では、多くの労働者の命が在独ソ連軍と人民警察に奪われた。この悲劇を後世に伝えるため、西ベルリン側にあったこの通りは同年、現名称に改称)は市の東西を貫く大通りで、その先はUnter den Linden通りに繋がりBrandenburg門に通じる。片側4車線、歩道、自転車道を備えた立派な道だ。町を歩いてみての先ず第一の印象は道路が良く整備され、大きな公園、緑地の多い事だ。碁盤目ではないが、道はどの道も立派だ。自転車の多いのも印象的だ。Berlin工科大学の前を通った時は丁度登校時で、多くの学生が自転車で乗り付け、建物前に用意されている広大な駐輪場に自転車を置き、校内に入って行った。

近くには有名なBerlin動物園があるが、行く暇は無かった。動物園駅の傍にはKaiser Wilhelm 教会がある。戦災を受けたのであろうか、建物は黒ずんでおり、一部は破壊されている。其の傍には一寸面白いトイレがあり、写真に撮った。小さな簡易トイレであったが、壁面に面白い絵が描いてあった。

午後からMitte(center)地区にある宿に移る。Expediaを通して予約をして置いたが、行って驚く。個室を予約して、3泊260Euro程先払いしてあったが、泊まれるのは6人部屋の相部屋しか無い。ベッド一つであれば、28Euroであるので、差額の清算を要求するが、お金の遣り取りはホテルではしておらず、Expediaと遣ってくれと埒は明かない。取り立てて他の不都合は無いので6人部屋に納まる。

6月29日、中心部の史跡を観て歩く。宿はOranienburg 通りの地下鉄に直ぐ傍に在り出入りには頗る便利である。大きな金色のドームを持つユダヤ博物館は直ぐ傍であったが、中に入る暇は無かった。
宿を出て右に進み次の角を左に曲がって歩くとSpree川に突き当たる。可なり大きな川で、中洲があり、その中にBerlin大聖堂や博物館がある。中州は通称博物館の島と呼ばれれ、博物館が軒並みにある。全体が世界遺産と成っている。戦災を免れたのであろうか、古びては居るがどれも堂々とした石造りの建物だ。

Spree川に大きな遊覧船が引っ切り無しに上り下し、岸辺にの沢山のレストランの野外席では多くの人達が食事をしながら、長閑な船の行き来を眺めている。戦後の混乱期、東西の分断の歴史を経て、この平和な時を過ごせる幸せを味わっているのであろうか?

近代的で巨大なHumbolt自然博物館も川の北側にある。脚に任せてHumbolt大学を左手に見てBrandenburg門にも行っている。大勢の観光客で賑わっており、何故かScotlandのBag pipeの4人組が演奏していた。傍にある国会議事堂にも行ってみる。最初の物は10年の歳月を掛け1884年に完成したが、1933年ヒットラーが政権を取った直後、不審火により炎上、この混乱を利してドイツの不幸な歴史が始まった。焼け残った建物も、先の大戦で大破、1999年に完全修復、統一ドイツの国会議事堂と成った。中央のドームの屋根はガラス製で規模も大きな堂々とした石造建築である。

翌日はPotsdamに行ってみる。Berlinから南西へ電車で1時間の所にある、Berlin以上に水に囲まれた落ち着いた町である。10世紀以来栄えた町で立派な城も残っている。1932年までEinsteinもこの地に別荘を持ち、今も残っていると言うが、行ってみる暇は無かった。

此処も町の中央には立派な教会や博物館が多くある。しかし此処に来た最大の目的は戦後の日本の運命を決したアメリカ、イギリス、中国(蒋介石国民政府)による無条件降伏宣言が策定された現場を見て置きたかったからである。米英ソのポツダム会談中に日本の戦争終結への為、アメリカ主導で、英国、中国が決めた宣言であり、蒋介石は会談に加わらず、単に無線で文案署名を了解したのみという。

ポツダム会談が行われたのは1917年建造のツェツィーリエンホーフ宮殿で1990世界遺産登録されている。参加国はアメリカ、イギリス、ロシアの3か国であり、東西分裂、資本主義・共産主義国の線引きが行われ、戦後の冷戦状態に入って行った。

市の北側にあるこの館には中央駅からバスで行く。細い森の中の道を暫く走り、降りると、森の小道を歩く。道標は無く、何となく歩いて行くと、其れらしい物が在るので安心する。城と言うよりは英国風の3階建の館と言う感じだ。その一部はホテルと成っており、行った時は改修中であった。入場料を払い、中に入るとガイドセットを貸してくれ、英語で各部屋の案内が聞ける。分かり易い案内であった。各々の部屋に関し、一通りの説明の後に更に詳しい説明もあり時間が在れば更に深い情報が得られる。戦争下の国益を掛けた凌ぎ合いの会談の場所として、当時ソ連の占領下あったこの建物の会議場としての整備にも時間を要したという。中央の大広間が会議場に当てられ、3国それ其れの控えの間を用意し、特別の場合を除き会議場以外でお互いが会うことの無い様な配慮もなされて居た。当時の皇太子の館であるので、各々の部屋は其々に特徴があり、これを3国間で纏まった区画に配分するのにも、色々物議があったに違いない。館内での写真は禁止されていたのは残念であった。

市の西側にはSanssouci 宮殿や庭園がある。Fredrich大王(1712−86)の夏の居城で、フランス語の名前が付いている。Souciは憂い、心配であり、Sansは無しと言う意味で、無憂宮と訳せよう。当時は略ヨーロッパの全域の宮廷用語は仏語であった。行ってみたいが、Berlinに戻る事にした。

Berlin最後の日となる。Potsdamer Plats駅まで行き、Philharmonieの建物を見る。黄色い特徴のある建物で、直ぐに分かる。カラヤンが活躍しホールで音響の良さから、サントリーホールに影響を与えたとされる。駅の周りや超モダンな建物が並び、Sonyの事務所もある。

又Brandenburg門から見える戦勝記念塔にも行ってみる。6月17日通りの大きなロータリーの中央に立っており、Brandenburg門からも良く見える。丁度パリの凱旋門からルーブルの方向を見るとオベリスクが見える様な感じだ。1864年デンマークと戦いの勝利を記念する為に建設が始まり、普墺戦争(1866年)、普仏戦争(1870−71)にも勝利したこともあり、高さ67mの石塔となり、其の頂部には勝利の女神Victoriaが金色に輝く。帝国議事堂前に建造したがHitlerの政策により、1939年現在の位置に移され、大戦中若干の破壊を受けたが、ベルリンの名所として残った。
立派なベルリン国立歌劇場にも行く。両側に対照的な立派な教会のある、堂々たる建物だ。ベルリンはこの他にも沢山の劇場がある文化都市である。

一つ位は美術館にも這入ろうとAlte Nationalgalerieに行く。長い石の回廊で囲まれた美術館で、沢山の人が並んでおり、入るまで1時間程掛かった。Berlin cardの割引の利かない美術館で20Euro程払う。特設展示のテーマは印象主義と表現主義(Impressionism-Expressionism)の転換点でった。19世紀後半からの画風の変遷を色々な画題毎に展示してあり、可なり見応えがあった。色々な画家の作品の数の多さに圧倒される。国内で之ほどの物は先ず見ることは出来ない。写真を沢山撮り退館する。この絵画館の周りには展時物の時代の異なる新旧2つの博物館、Peragamon及びDode博物館がある。何れも国立である。二度の大戦に敗れたドイツには日本には遥かに及ばない文化財産が残っているのだ。


最後はベルリンの壁を見る事だ。大戦敗戦結果ドイツは西ドイツ及び東ドイツに分断される。東ドイツにあったBerlinは例外で、その約半分の西側を米英仏が治め東側半分はロシアが支配することに成った。西Berlinは西ドイツの飛び地で在ったのだ。

東西の行き来を遮断するために、東ドイツは西ベルリンを取り囲む壁を1961年に作り上げた。東西の緊張が緩み、1989年に取り壊されることに成った。この壁のあったBrandenburg門は自由に通り抜けることは出来なかった。今残って居るのは1.5キロ程、高さ3m程の壁で、壁面には全面思い思いの壁画が描かれていた。東側の壁面は道路に面し、多くの人が見ることが出来る。西面も壁画であるが川に面しており、彼方此方で分断されている。遊覧船の行き交う川の流れ、岸辺の緑地、夕日の当たる西側の壁画は、影と成って居る東側と比べ、何か分断時代の陰と陽を思わせるものであった。

7月31日、ユトリを持ってLyonに移動する。昼過ぎに着き、午後はRhone川の川岸を歩き、Saon川の合流点で橋を渡り、更にSaon川を渡り世界遺産と成って居る市街を歩いて宿に戻る。去年も来ているが時期が2か月以上違うので景色はやや異なる。白鳥の群れるRhone川を写し、宿に戻る。

8月1日、昨夜着いた関家さんとPrivasに向かう。Privasでの大会当局との電話連絡が旨く取れず、結局はタクシーを使う。10Euro. 会場到着後は出入りに便利な場所に簡易ベッドを置き、日本村を作る。後は明日の午後まではノンビリと過ごす。

今回忘れた物が2つあり、離陸してからそれに気づいた。診断書とサンダルである。会場設置に忙しく働いているGerardを見つけ、このことを話すと無くても良いと気に変える風も無かった。サンダルの方は幸い2足持って着た靴の一つを其の代用にする他ない。

旅の費用:
航空運賃:15000.−(Mileage利用)、宿泊費:80000.―(7泊)、
交通費:15000.−、食費:20000.−、大会参加費:53000.−
総計:183,000.−


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平成27年5月27日設置

15・05。7−14Norway 鱈釣り


4月26日から5月7日までは小屋に居た。この時期して置かなければならない事があるからだ。毎年作って居るカボチャ、サトイモ、ヤーコン等の植え付け、花の種を蒔く事に加え、昨年植えつけて置いた、タマネギ、ニンニク等の草むしりだ。この他にも薪の準備や、電気、ガス設備、屋根や雨樋の点検整備も必要だ。これ等は丸2日も在れば済む事であるが、10日以上小屋に居るのは訳がある。老人の特権である3割引きの切符を利用する為にはこの時期最低でも12日小屋での生活が必要だ。余った時間は静かな雰囲気の中で読書にふける。ある期間完全に一人に成って、電話やInternetから離れた生活をすることも楽しみの一つだ。以前は暇さえあれば、野山を駆け回って居たが、この所田舎で走る事は全くしなくなってしまった。連休中は穏やかな天気が続き、雨は殆ど降らない。春は花の季節だ。帰った時は桜や椿は見る影も無く成って居たが、木瓜やヤマザクラは暫く愛でる事が出来た。福寿草、水仙、福寿草も軈て花を落とし、皐月が咲き始めた。

7日、何時もより少し早い4時に駅まで送って貰う。もし電車に遅れが出た場合、その先Norwayの北部までの旅が出来なく成る為だ。6時半には家に着くが、郵便物の整理を終えると、直ぐに羽田に向かう。家内が用意した夕飯を食っている暇もない。

釣りの計画は昨年から始まり、昨年暮れまでに釣り宿の予約をTomasが済ませていた。8日から11日迄の予約で、如何しても8日中には地の果ての宿に着かなければ、トーマスにも迷惑が及ぶ。年が明けて予約出来た航空券は、8日未明羽田発Frankfurt-Stockholm経由Kirna着15時40分の便であった。TomasとはKirnaの空港で16時に会うことにしていた。今回切符はMileageを使ったもので、費用は空港使用料の15000円程度である。予約は出来ていても、実際10000キロ程も先の目的地に時間通りに着けるかは中々確信が持てない。旅は小屋を出た7日の16時から始まっており、国内での何回かの電車の乗り換え、空路でも2回の乗り換えがあり、これ等の乗り換えが時間通りに出来なければ、目的地に時間通りに着く事は出来ない。実際StockholmからKirna向けに飛び立つまでは安心出来なかった。SAS機は略北に向けて飛ぶ。1時間も飛ぶと白い物が見え出す。雪である。北極圏に来ており、略白一色に成る。川や湖も全て凍っているのが、上中からでも分かる。このあたりは未だ冬なのだ。粗定刻に到着、此処まで丸1日、時差7時間を加えると31時間かかっている。機内で若干寝ているので何とか成って居る。

Kirnaの空港は小さく、直ぐに荷物が出てき、Tomasにも直ぐに会えた。途中から計画に参加したAake(OKと発音する)も来ており、紹介の後、直ぐに走り出す。Norway国境迄約150キロ、その先宿までは更に150キロあると言う。道路の両側は白一面の世界であり、ボートを牽引して車は北西に向かって進む。30分程走ると道路の右側は結氷しているTorneaa湖が見える。Sweden 特有の細長い湖で北西の方向に80キロ余り続く。左手には世界最北の鉄道の線路が続く。寒々と見える木は殆どが白樺で、背丈は5m程にしかならない。1時間余り走るとAbiskoである。観光の拠点だ。2−3年前此処から南に向けKungs Ledenを歩いた事を思い出す。更に20分程走るとBjorklindenである。此処も宿泊施設やスキー場のある観光地である。適当なレストランがあれば夕食でもと立ち寄るが、無かった。何人かのスキーヤーを見かけたが、雪は解けだしており余り客は居ない様だ。

国境を越えNorwayに入ると、道は狭くなり凸凹が多くなる。此処からは全体的に下りとなる。Scandinavia半島の東側Balt海側のSwedenは全体に平らで、大西洋側のNorwayは険しい山と、氷河浸食による複雑Fjordの対称的地形を成している。この為Norway側の道は起伏と蛇行が多くなり、日本の道に似ている。20分も走るとFjordが見えてくる。外海の大西洋からは150キロ以上の内陸まで海水が這り込んでいる湾であり、これがFjordである。湾の幅は多くの場合1−2キロか、更に狭く、独特な湾と言える。目的地は北西の方向であるが、地形の複雑な事からは時には北東の方向に向かって可なりの距離を走る。Kirnaから3時間半余りで漸く宿に着く。19時半に成って居た。小屋を出てからの移動時間は36時間以上かかったことに成る。

船宿は二階建ての一棟を2に分けて使う様に成っており、その半分が我々の宿である。1階は居間、ダイニングキッチン、トイレ、小寝室がある。僕は一階に寝ることにする。2階は大きな寝室が2つあり、ベッドが合計5つあり、更に2−3の簡易ベッドが入れられる様に成って居る。持って行った2Lパック入りの日本酒を飲み、簡単な夕食を済ませ明日に備える。

9日4時に起きる。この時期いつ起きても外は明るい。小雨が降っているが、風さえ強く無ければ、釣りには問題ない。釣竿3本はTomasが用意してくれる。鱈は何の餌も付けず、重りの付いた針さえ投げ入れれば釣れるので、簡単でいい。針は複数付けることが多く、一度に2−3匹掛る事もある。

ボートは宿のトラクターで牽引車を港のやや急な坂を海に向け押し込み、海面に降ろし、桟橋までTomasが持って着て、我々が乗り込み漁場に向かう。鱈の居る所は何所でも漁場で、魚群探知機で魚影の濃い所で船を停め釣り出す。水深は10−40mの所が多い。この様な所は少なく、多くは100mを超える。竿を垂らし、リールを解除すると重りの付いた針は自由落下し、底に着くとリールの回転が止まる。やや巻き上げて固定し、竿を上下に振ると引きがあり、リールを巻き上げると鱈が上がって来る。大きさは様々であるが30−50cmの物が多い。25cm以下の物は捌くのも面倒なので、海に戻す。生存の可能性は低く、軈てカモメの餌には成るだろう。

終日小雨が降り視界は悪い。Fjordを囲む山は1000mを超えるものも多いが、中腹を除き見えない。昼食を挟み2度釣りに出かけたが釣果は思った程では無かった。其れでも30キロ程は釣れた様だ。僕は60cm程の物も2匹釣った。大きな物は其れなりの引きがあり、やや時間はかかるが、滅多に逃げられる事はない。前回は此処から随分南で釣ったがその時はやや小さいが、面白い程数釣れた。今回は余り掛らず、雨も続いているので4時ごろには宿に引き上げ、明日に期待することにした。

後は宿で飲みながら、明日への英気を養うだけである。Aakeが賄を担当し、簡単な食事を用意してくれる。飲み物は彼らが大量に持ち込んだビールと、日本からの酒である。Tomasは日本との付き合いも長く、其れなりの日本通である。日本で買った食器も一式持って着ており、日本酒もチャンとした御猪口で飲むことが出来た。炊飯器も持ち込んできており、明日寿司にしようと言う。この為に、僕は海苔、ワサビ、ガリ、酢、醤油等を買って来ている。

オーケーは日本酒は初めてだが、気に入ったと言い、喜んで飲んでいた。彼は釣りも初めてだという。今日は余り釣れなかったが、余り気にしている風はない。其れでいいのだ。僕も3度しか海釣りをしておらず、淡水魚はモット少なく、全くの土素人だ。釣りは技量では無く、運だと思って居る。掛るも八卦、掛からずも八卦である。之は素人、道楽の世界でのみ通用する考えであり、漁を生業とする人達には失礼極まりない話であろう。

翌日は晴と成る。風も穏やかで、釣りには絶好となる。雪を抱いた遠くの険しい山もクッキリと見え、気持ちが良い。泊まって居る宿はFjordの中にあるAndorja島の西南端の漁村Engenesで北緯69度を超えた位置にある。漁業と観光業の集落で、幾つかの宿があるが、収容人数は精々100人程であろう。

島の西側には同じような島が幾つもあり、外洋までは更に100キロ近くある。Norwayは北から南まで氷河が形成したFjordが海岸の複雑な地形を作って居る。之だけ大規模なFjord地帯はChiliの南西部を除いては世界に無い。Fjord形成の要因は緯度が高く、台地が高く、氷河の落差が多きかったことであろう。氷河が深く削り込んだ地形に、海面上昇により海水が流れ込んだ場所がFjordであり、大陸内に100−150キロ大きく入り込んだ湾も珍しくない。更に地盤の低かった所は島として残り、更に海側の複雑な地形と成って残っている。

Andorja島の外周は40キロ程であろう。この島の略中央にも細長いFjordがあり幅約一キロ長さ10キロ程である。此処でも釣りは出来る筈だ。港を出て北に向かうと直ぐに鮭の養殖場がある。この様な養殖場はFjordの彼方此方で見られる。波の小さいFjord内でも特に風の影響の少ない海面には必ずこの様な施設がある。餌を供給する船が陸側に停留し、其処からお100−200m沖に丸い生簀が10−12在るのが多い。船から生簀には径15−20cm程の管で餌を供給している様であり、定期的に餌を流す音が聞こえる。

この生簀の傍でも何匹か釣る。Norwayでの釣りには全く規制がない。漁業権とか許可証とかの問題も全く無い。外国人も全く同様でロシアからも毎年来ていると言う6−7人が来ており、可なりの鱈や大きなオヒョウを釣って居た。釣り人は自らの安全と、海洋内の設置物、例えばケーブル、他人設置の網等の破損に気を付けるだけで、他に何の規制も無い。

Tomasは釣りに出る前にInternetで最新天気予報を見る。風向きと風速が特に重要な情報だ。出来るだけ風が少なく波の小さい海域で漁をすることを目指す。之は安全上の問題よりはボートが流されて位置が変わる事を防ぐ為だ。魚はボートの動きに合わせて移動してくれない。風向き情報から出来る限り島が屏風の役を果たす海域で釣りをする様にする。今日の風は南西、島の北東に当たる位置に船を向ける。1時間程掛け、島陰の橋に辿り着く。探知機の情報に従い釣り出すと直ぐに釣れ出す。何匹か釣った後、更に重たい引きがある.竿がおおきくしなる。無理して一気に引き上げずに、リールを戻したりし時間を掛け引き上げると可なり大きい。今まで一番大きい。更に其れよりはやや小さいのが釣れ、結局これら2匹が今日の大物と成った。ボートを橋脚の梯子に固定し、橋脚に上って釣ったが20cm程のニシンの仲間が2匹釣れただけであった。

皆で20匹程釣っており、後は戻りながら適当な場所で釣る事にした。途中何か所で糸を垂らす。何匹か釣れると又場所を変え、港の方に向かう。ボートは風ばかりでは無く、潮流もあるので、同じ場所に留まる事はない。場所を変えながら、港に向かう。Aakeが一度オヒョウを釣り損ねた。水深15メートル程まで見えるので、一度白い大きな腹を見せた魚が逃げて行くのを3人で見送る。午前中皆で30匹程釣れたので先ず先ずであろう。港に戻り、魚小屋の前にある吊り秤で計ると一番大きな物は8キロあった。小屋には魚処理の大きな台が二十程ある。観光客のみならず、地元の人もここで処理するのであろう。

昼食の後又海に出る。朝方は陽の指す事もあったが、雲が厚くなり、風も強くなってきた。同じ方向に船を進め、今度は行きながら漁場を探し、釣りをし、適当な所で折り返す事にしていた。30分も経たない内に急な風が吹き出し、大雨と成る。30cm程の物を一匹釣っただけであったが、戻る事にする。

Tomasが今日は寿司にしたいと言うが、種は先ほど取れた小さな鱈一匹である。午前中に釣った魚は全部捌いて冷凍に成って居るからである。種が一種類それも少量であるが、魚屋も無く買うことも出来ない。最果ての地の寿司と言う事で我慢するしかない。彼が飯を炊くと言うので任せる。炊飯器なので計量した米に見合った水を入れれば旨く炊ける筈であるが、どうも見ると少ない。電源が切れて味見をしてみると、コメが固い。水を足してやり直し、何とか寿司飯モドキが出来た。冷蔵庫で冷やした後、酢を少し入れ掻き混ぜ握りだす。寿司など握った事も無いが、何とか恰好を作り、Tomasがチューブからその上にワサビをこすり付ける。やや多いと思うが直ぐに分かる事なので、取り敢えず6個作り、鱈の切り身を乗せる。後残った鱈はキュウリもあったので、これを短冊形に切り,皿に盛り、各自が好みの巻き寿司にして食べることにした。鱈は油が無く、是と言った味はしない。強いて言えば歯触りと、若干の甘みがあり、全く生臭く無いのが良い。スープに鰭や後頭部の切り身を入れ、みそで味付た物を出す。又くすんだクリーム色の白子をバターで炒めると大量の油が出てきた。其れに濃い緑茶を出す。之で何とか初めてのAakeにも日本食の一旦を味会う事が出来たのでは無いかと思う。

僕は酒のみ、彼らはビールと酒を飲みながら、食文化の違いの話となる。之は色んな切り口から論じる事が出来よう。Aakeが日本では何故箸を使うのかと言う。考えても居なかった問いに、僕は私見を述べる。元々は現在のインド等と同じ様に、日本でも皆指で食べていた筈で、これは時代を遡れば西洋で同じであろう。時が経ち特に熱い物などを食う場合等何か道具は無いかと考えるのが人の人たる所以であろう。其処で出来たのが細い一対の木の棒の利用である。木は何処にでもあり、加工も便利である。細い枝2本在れば、熱い物を食うことは愚か、食事の前後の手を洗わなくても、衛生上大きな問題は生じない。極めて合理的な道具である。

又日本食は適当な大きさに切ってあり、食べやすいと言う話もでる。これは当然であり、日頃我々の意識にも上らず生活しているが、外から見ると気付くのであろう。確かに西洋では大きなステーキや骨付きの肉等、如何しても其のままでは食べられない物が少なくない。ピザなども大きなものが丸ごと出て来る。これ等はナイフやフォークなしでは食することが難しい。箸、フォーク、スプーン等口に食物を運ぶ道具は、この様に根源的には調理の仕方に関わってくる。箸の文化圏では素材を小さく切って調理師、フォークを使う地域では調理の段階で手を抜く事が出来る反面、食う段階でもう一手間がかかり、これは喰う側の負担と成る。食う事の意義を考える際、この最後の行程は大事なのかもしれない。漫然と食うよりは、各人が口に入れる最後の準備作業に積極的に拘わる事に依り食への関心が高まるのではないか? 食は生物生存に取り不可欠で、大半の生き物は生涯を食の摂取の為にのみ費やする。努々、食に対する感謝の念を忘れては成らない。胃の中に納まり、原型を留めなくなる多くの動植物に対する感謝である。我々の食するもので生命体で無い物は唯一塩のみである。それらの食材を長年に渡り選び抜き、それらに対する最も相応しい調理法を編み出してきた祖先の努力への感謝である。又日々我々の口にする食は生産から物流、調理に至るまで実に多くの人の作業と心使いで出来上がっており、これ等に対しても深甚の謝意を持って口にすべきと思う。

箸とフォークの話の延長で、丼と皿に話が及ぶ。これらも食材やその調理法と密接に関連する。僕は世界は大きく丼(椀を含め、口径に対して其処の深い食器)文化圏と皿文化圏に大別できると思う。西洋は明らかに皿文化圏であり、中国、韓国、日本等は丼文化圏であるが、どの辺りに境があるのかは定かではない。

丼文化圏の食の特徴は汁物や不定形な食べ物が多い事だ。僕は調理の専門家ではないが、不定形な食べ物などと言う語が業界で通用するものとは思って居ない。要は飯などの様に皿でも丼でも盛り付けら器に馴染みやすく、それ自体は特定の形状を持たないものを指す。之に比べ、パンなどはどれも独自の形があり、僕の言う定形食品の範疇に入る。

丼と皿文化を分けるものは何か?それは食する素材、その調理法に大きく関わる。昔聞いた話であるが、何故か水の豊富な地方の食事は水っぽいものが多く、乾燥地帯では乾いた食事が多いと言うのだ。僕はこの見方は正しいのでは無いかと持っている。日本は水の豊かな国であり、水で困る事は殆ど無い。この為、汁物の食事が多い。子供の頃など味噌汁は毎食出て来たと思う。饂飩,蕎麦等も汁物と言える。其れに多食している飯もパンと比べると遥かに水分は多い。加えて、煮物やなべ物がある。これ等の物を食するのには丼が合理的だ。日本には勿論皿もある。漬物や、副菜、刺身等は皿が良い。器から口に運ぶ道具は箸が最適である。食材、調理法、盛り付け器、食べる道具はお互いに関連があり、最適な組み合わせと成って居る。組み合わせを間違うとどうなるか? 丼にステーキを入れ、フォークとナイフを使って食べる様を考えて見れば良い。ステーキは牛となり、テーブルから駆け下り、外に飛び出すに違いない。

湿潤食,乾燥食の話に戻ろう。真水の量は世界有数のSwedenでは空気は乾いている。此処での食は矢張り乾いたものが多い。パン等も日本の煎餅の様に乾いた物を常食としており、スープは週に一度しか摂らないが普通である。乾燥食の器は皿である。スープ等は中央部がやや窪んだ皿に入れ、スプーンで食する。英語圏でもそうであるが、西洋ではスープは飲むものでは無く食べるものなのである。コンソメなど具が全く入って居ないスープでも飲むものとは考えられて居らず、これを道具と使わず飲む行為は犬猫並みの品性と見做される。西洋では味噌汁などのスープもスプーン等余計なものを使うが、日本食の場合は簡単な箸があれば事が済んで仕舞う。箸は人類の発明した最も単純で最も有用な道具であり、その文化的意義はモット研究しても良いのではないか? ナイフやフォークを使う様になったのは箸よりはモット後の筈であり、彼等も或る時までは指や箸を使っていた筈である。

調理法により同じ素材でも異なる容器が合理性を持つ。小麦を素材とする同じ麺でもスパゲッテーは皿にフォーク、スプーンが良い。含水量が少ない為、皿で十分なのである。米にしても然りである。イタリヤやスペイン等では長粒米を食するが調理法も異なり、殆ど粘り気が無く、西洋の容器と道具で食するのが理に適っている。食事は文化の一面である。毎日の生存に関わる一面であり、他我の違いを良く理解し、良い所は取り入れ、又相手側にも取り入れられる文化を作って行きたいものである。

同じ2本の棒である箸でも中国、韓国、日本ではその形状がやや異なる。一般的に中国のものは太く、長く、先端も同じ形状である。之に比べ日本の物は先細りの形状で、小さな物でも掴みやすく、又ぬめりがあり滑りやすい物は突き刺して口に運ぶことが容易に出来る。日本では普通の食事では匙を使うことは無いが、中国では箸と匙両方使う。四川省辺りで回転テーブルに料理が出てき、個人で自分の皿と椀に取り入れ、適宜箸と匙を使い食べる。此処でも食べる側に若干の作業が必要である。日本食はこの点でも食べる側に作業を要しない、至れり尽くせりの食べ物なのである。貴女作る人、僕食べる人がこれ程はっきりしている食事は世界広し言えども余り無いのではないか? 等々話は尽きな

Tomasとの付き合いも後一年で三十年になる。仕事で何回も日本に来ており、彼方此方に行っており、日本の理解も可なり深い。食い物に関しても色々知っており、お好み焼きを日本風ピザだと言っていた。僕はその様な見方考え方をしたことが無かったが、丸で的外れな見方では無いなと思った。異文化との接し方には色々あるが、何時も新鮮な目で多くの物を見、咀嚼し取り入れて行ければ良いなと思った。

そこそこに飲み話をした後、明日の相談と成る。天気予報に依ると、これから風が強まり明日午前中は強風と成るという。釣りは少なくとも午前中は諦めざるを得ない状態だ。最後の日であり、残念ではあるが致し方無い。 


翌朝早く起きると、空は晴れており、風もそれ程では無い。又天気予報を確かめる。昨夜の予報は外れ、風は弱まる予報に変わった。準備をし、漁に出かける。昨日迄に針を二式岩に引掛け失ってしまった。今日は其れまでより半分の200gの重りの付いた針しか残って居らず、其れで釣る事にする。風の方向は昨日と同じなので、昨日まで良く釣れていた15キロ先の橋に直行する。釣り出すと小物しか掛らない。その内にAakeがイルカの群れを見つける。20−30頭はいる様だ。思いがけない物に出会い、もう釣りなど、如何でもいい。イルカの群れに合わせボートを進める。時速6−7キロのボートの周りをイルカは泳ぎ、又船の底を白い腹を上に逆さに成って泳ぐ。イルカは知能の高い動物であり、又遊びが好きな様だ。3−4頭で見事なSynchronized Swimmingを見せる。皆で写真を撮るが、動きのある動物を撮るのは難しい。海面に姿を見せるのは本の瞬時である。又何処に姿を現すかの予測は難しい。カメラの視野は狭く、シャッターも瞬時には切れない。文字通り、感を頼りに夢中になって撮りまくる。後で再生してみると、其れでも3分の2はイルカらしいものが映っており、その他は灰色の波頭のみであった。イルカを追いかけ5−6キロ行くと、島を略半周しており、風は逆風と成って居る。釣りの条件には合わないので、そのまま船を進め、40キロ余りの島を一周することにする。

昼食を済ませ、又出かける。目指す方向は今朝と同じで、港のある11時の方向から時計回りに4時の方向を目指す。釣り出すと皆は快調に良型の物を釣り上げているが、僕にはさっぱり掛らない。皆の獲物の引き上げや、針を外したりする。余りにも引きが無いので、空を眺めていると魚を脚で運んでいる鷲にカモメが襲い掛かり、魚を落とすのを見た。カモメは水面でその魚を悠々と食っていた。空の王者猛禽類の鷲と言えでもカモメには勝てないのだ。之は日本では良く見かける体の大きなトンビがカラスに追われて逃げ惑う姿によく似ている。何を持って王者と言うのか?現実とは異なるイメージを人は持っては居ないか、考えてしまう。今まで余り釣れ無かったAakeが好調で、3日目でコツを掴んだのか、単なる運なのかは分からない。Tomasも釣れている。可なり大きな物も釣れている。5−6キロ位の物も多く釣れる。Tomasが今までにない大物を上げる。これは後で計量すると10キロあった。用意した容器が溢れる程釣れ、又燃料の残量が少なった事もあり、引き上げる。結局、今日午後の漁が一番大漁であった。僕は針の重りが軽くなった事に依り、流されることが多くなった。極小さな鱈を2匹釣ったのみで、これ等は海に戻した。午前中のイルカとの出会いもあり、天気も良かったことで、結局最後の日が皆にとって最良の日と成って幸いであった。

漁は50−60キロもあったろうか? 一人では持ち上がらない。TomasとAakeが処理小屋迄運び上げ、僕が解体を担当することした。Tomasはボートの後仕舞い、陸揚げ等やることがあり、Aakeは最後の晩餐の用意がある。最近では解体を要する1匹ものの魚を買う事は少なくなっており、魚の処理を体験する機会は殆ど無い。其れでも三枚に下ろすとは聞いているので、その真似をする。使っている包丁も専用の物では無く、切れも悪い。何を思ったのか両手首を鰓の間から入れて仕舞い取れなくなった。手と引き抜こうと思うと、無数の棘で刺される様に痛い。無理して引き抜けば、傷だらけに成る事は間違い無い。偶々Aakeが傍に居たので、鰓を広げる様頼んだ。彼も最初は何が起こったのか怪訝は顔をしていたが、鰓に指を入れ、広げて呉れた。ヤット両手が自由に成り、又作業を進める。

鰓に手を挟まれたのには驚いた。死んだ魚の逆襲に会ったのでは無いかを一瞬驚いた。鰓はある程度の剛性がある事は分かって居たが、無数の鋭い針と成るとは思って居なかった。人生まだまだ知らない事だらけだ。抑々何故鰓に手を入れたのかも思い出せない。片方なら未だしも、両手を入れてしまったのだ。誰も居なければ、そのまま手錠を掛けられて様な状態で待つか、無理やり引き抜き両手の甲全体に引っ掻き傷を作る他無かった。Aakeが傍に居たのが幸いであった。

釣った鱈は2−3時間経っても可なり元気な物もあり、俎板の上から飛び跳ねて下に落ちるのも居る。捌いていると、全く血の出て居ない個体もあり、部分的に血の出て居るものある。之は釣り上げられてから、死に至るまでの暴れ方に依るのであろう。傷まずに美味しく食べるには日本では色々研究されており、活け締めと呼ばれる一つに瞬時の脳死と血抜きの方法ある。釣った鱈も暴れて自然死させるより、頭を叩くか背骨を切るか、即死させる方が魚にも人にも良いのであろう。頭部を切り血を流すのが一番いいのかもしれない。何十匹かを捌いたが、死後硬直が始まって居た物は僅かに1尾であった。

3枚に下ろす方法も全く分からないが、尻尾の方から背骨に沿ってある程度切ってから、頭部後方から背骨に向かって切って行った。肋骨に当たる部分も結構骨を除き、肉を分ける事が出来た様な気がするが、本当は別なやり方があるのであろう。この午後は40匹程を2時間余りかけ処理した。後から来たロシア人のグループの解体を見ていると、実に手早い。鱈やオヒョウを三枚に下ろし、皮も綺麗に取り去り、ジップロックの袋に詰めていた。彼らはここ数年毎年来ているグループで女の人も何人かいた。Tomasは前回もそうであったが皮付きで冷凍にしていた。解体した後の頭や骨には未だ可なりの可食部が残っている雑な捌き方で、内臓を含め廃棄する部分は重量で半分かそれ以上かもしれない。胃袋を拓いてみると結構大きな魚が丸ごと這入っており、溶けかかっているのもあった。

12日は7時に出発することにしていたが、皆の準備が出来たので1時間早く帰路に付いた。来た時と同じ道を逆に走る。それ以外の道は無い。暫くの間はFjordに沿ってクネクネ曲がる道を上り下りしながら進む。1時間半ほど走り、Narvikへの分岐の手前で、ガソリンを入れる。670ノルウエークロネ、約11000円をカードで払う。その時牽引車のタイヤ−空気が少ないに気が付いたので、Tomasに告げる。空気を両タイヤに入れ出発する。15分ほど走ると、車が重いとTomasが言い、止まる。見ると同じタイヤの空気が抜けている。パンクだ。スペヤーは無いので、牽引車を路肩に止め、先程の町に戻り、タイヤ屋を探す。直ぐに来てくれ、タイヤ−を外し持ち帰り、工場で直し、又来て呉れた。この間約1時間、この間Tomasはタイヤ‐屋と色々話し、情報を得ている。Sweden語とNorway語は別の言葉と考えられているが、御互いに通じあえる近い言語だ。日本の東北弁と九州弁程の差よりは小さいのではないか? 綴りはDenmark語も含めお互いに特徴がある。

朝1時間早く出た分は之で帳消し。先を急ぐ。Tomasが聞いた話では先程見えていたFjordには秋から冬に掛けてはシャチが来、タイヤ−屋は何回も見ていると言う。Tomasはこの話に大きな興味を持った様だ。もう一つの関心はオヒョウ釣りである。オヒョウは前回も今回も全く釣れて居ないが、今回の訪問で宿や観光釣り客からオヒョウ漁に関する情報を集めている。何れ又これらの話が出るであろう。


最後のFjordを見納めると国境までは40キロ程となり、上りが始まる。国境を通過する頃僕は居眠りをしており、気が付くとAbiskoの傍まで来ていた。左の結氷中のトルネオ湖上では数人が釣りをしていた。軈て、前方左手に巨大なハーフパイプの様な山が見える。2つの山の山頂とその谷がハーフパイプの様に見える不思議な光景だ。之も氷河の産物であり、Laplandの門と言われているそうだ。キルナに近づくと奇妙な雲が空に広がる。僕は先ごろより、刻々変わる雲の表情に興味を持ち出し、写真に撮る事にしている。直ぐに形を変え、姿を消す様に興味を覚えるのだ。

Kirnaには丁度昼頃に着き、昼飯とする。碌な物は無かったが、皆の分をカードで払う。300クローネ、邦貨約4500円。道は良くなっており、90キロ前後で走る。徐々に木の高さも高くなり、Sweden独特の森林、湖水、河川を見ながら走る。途中2度、2頭ずつトナカイを見る。未だ白い冬毛のままだ。途中から雨が降りだす。

Kirnaから50キロ程東のSvapavarraで南に向かう内陸縦断道45号線を進み、Gaellivareの手前でまた東に向かう。この辺りは何回か通っているが、特に印象に残っているのは何年か前雲峰氏と徒歩で更に200キロ南のArvidjaureから北極圏入り口の町Jokkmokkを通り、毎日2時ごろから歩き出し、無数の蚊や虻に血税を取られながら7−8日歩いた事を思い出す。着いたKirunaでは宿が開いて居なく、暫し庭に腰を降ろし、土地の強いイモ焼酎を飲みながらCheckinを待ったのも今では遠い思い出である。

3時間程走りOever Kalixの町のホテルでコーヒーを飲む。Kalix川を望む古く大きなホテルで、雪解け水で増水し湖のようになった川を見ながらコーヒーを飲む。TomasによるとSweden語で話すと英語で返事が返ってきたと言う。先程の食堂もそうであったが、この国のサービス産業の従業員は我が国と同じ様に可なりが外国人と成って居るのだ。お茶代は200クローネ、先程の昼食代と余り変わりがない。立派な茶器と小さなマーフィンが付いては居たが。

車は又走り出し、Balt海の北部Bothnia湾の町Luliaaを目指す。其処までは100キロ余り、その先湾に沿って南下し、最終目的地までは更に200キロある。この間は途中Skellefteaaの町でAakeを降ろす以外は,止まらずに走り、トマスの家に着いたのは19時半であった。840キロを途中事故休憩もあったが13時間余りを掛け走ったことに成る。Susanに迎えられ、以前はAnnaが使っていた部屋に案内され、ここで一夜を過ごす事になる。

翌日は小雨が続き寒い。町を少し歩き、TomasにChampaignと、今夜泊まるAakeにWhiskyを買った。Swedenでは薄口ビール(アルコール度2.8%以下)以外の種類は国家の専売と成って居る。Whiskyは輸入品もあったが日本製の在庫はないという。一番高いのはSweden産の物だったのでそれを買った。SwedenでWhiskyを作って居ることは知らなかった。勿論買うのは初めてだ。600クローン、約9000円だ。隣合わせの2軒の大手スーパーを除くと同じぐらい大きさの鮭と鱈が並んでおり、Kg単位の値段が出ていた。鱈はSwedenではTorskと呼ばれ珍重されている魚でキロ約2800円、鮭より15−20%高い値がついていた。

Aakeの家に泊まることに成ったのは、Tomasの強い勧めからであった。ホテル代は馬鹿に成らない程高いの、Aakeの家に泊まれというのだ。僕は13日早朝の便に乗るので。Skellefteaa市内中心のホテルに泊まり、バスで空港に出る予定であったが、Tomasに従う事にした。Tomasの家に泊まれない理由は娘のAnnaと孫のJulieを13日同じ時間に別の空港に送らなければならないので、Aakeの世話に成れと言うのであった。彼女たちはNYに5日程の旅を楽しみにしていた。

夕方近所に住んで居るAnna一家が訪れて来て、一緒に食事をする。半年前に生まれた長男のLuveはもう這い回っており、何時もニコニコ誰にでも懐く子だ。TomasはJulieやこの子の為に小さなプールを自分で作って居り、間もなく完成すると言う。プールは可変流水プールで泳力に合わせて水流調整が可能で、大人も体力増進の為に使うことが出来るそうだ。約1っ月後の6月23日には又訪れるので、どんな物か楽しみにしている。

食事の後、80キロ北のSkellefteaaのAakeの家にTomasが送って呉れ、明日は早いので直ぐ戻っていった。Aakeの家で持ち込んだWhiskyを一寸試飲する。2人の息子達は家を出ており、大きな家にAgnetaと二人きりで住んで居り、1−2人の泊まる寝室は十分あるのだ。Aakeとの出会いは今回が初めてであるが、Susanの友達であるAgnetaとは何回か会っている。暫く話した後寝ることにする。朝飯を用意するので食って行けと言うので、早いので良いと応える。Aakeはコーヒーを飲みサンドイッチ食べてから出かけるので、是非そうしろと言うので、折れる。

五時前に目が覚る。外は明るい。この辺りでこの時期夜でも暗くならない。コーヒーを飲んで5時半に出発する。空港までは20分、6時30分半の便に十分である。Swedenの空港手続きは短時間で済み、地方空港からでも日本までの通しの搭乗券が出てき、預け入れた荷物は途中何もせず日本で受け取ることが出来る様になった。随分便利になった物だ。

Stockholmの空港でAnnaとJulieに会うことが出来た。彼らの便が先に出るのでGate迄見送り別れた。Munchen経由の便であったが、順調に飛行し定刻に成田に着いた。

旅の費用
航空運賃:15000円
船宿代:60000円(4泊)
装備及び燃油:30000円
お土産等:20000円
雑費:17000円

合計:145000円

正規の航空運賃を払えば35万では上がらないであろう。個人の旅であり、銭金には代えがたい旅であった。


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平成27年3月27日設置

15.02.21 Moonlight Marathon


正式にはShotover Moonlight Mountain Marathonと言う、NZ南島、緯度的には稚内の北に相当する所で行われる山岳マラソンである。Marathon,Half marathon, 30K,10K、5Kの部があり、各々異なったコースを走る様だ。参加者は全部で5−600人程であろうが、国際レースで色々な国の人が走る。

何故この様なレースを走る事に成ったのかは、単純な人の繋がりである。昨年の5月Galapagosの黒山火山マラソンを一緒に走ったNZの一家が御膳立てをして誘ってくれたので、行く気に成っただけである。急峻な山岳レースであることは行く前にもある程度分かって居たが、実際走って見てその過酷な条件を初めて思い知った。

僕の悪い癖で、行く前には殆ど予備調査はせず、何とかなると思い出かけてしまう。今回も帰国後改めてレースコース等、事前に知って置くべきことを調べる羽目と成った。レースの名前は開催地の地名が基に成って居る。NZの南島の町Queenstownは観光のメッカであり、町の中心街は旅行業会社、宿泊施設、飲食店が軒を連ねる。世界中どこに行ってもこの町程、旅行者の案内所の多い町は無いと言える。中心部の建物の5軒I軒は旅行者案内所のマーク“I”(Information)の字が見られる。旅行者は列を作る事も無く、旅に関する情報が得られるのである。勿論其処で予約も可能だ。宿泊施設も実に多い。Hotel,mortel, hostel, lodge, court, pesion、Holiday apartment,、B/B,等々実に多様な施設がある。マオリ語と思える名の付いた施設も見られ、中にはHaka Hostel等の名もある。日本人は多分ここは避けると思われるが、かの地の言葉でじはHakaは何か有り難い意味があるのではないか?

Queenstownは鍵型の氷河湖の北岸に広がる町で、その背後には山が連なる。この山中の一つの山道がMoon―light Trackである。その更に北に流れる急流がShotover川である。この山道と川の名前を冠したMarathon大会であることはInternet上で直ぐに分かる事であるが、横着不精である僕はそれすらせずに出かけてしまうのである。

レースの受け付けはレース前日に市内のホテルで行われる。受付には条件が付いている。先ずレース参加費(170NZドル、訳15500円)の払い込み済みであること、それに指定装備の点検である。之は山岳レースでの天候の急変、怪我に備えて各人が携帯すべきもので、サイト上で公開されている。サーマル シャツ半及び長袖、長タイツ、完全防水衣ジャケット、保温帽子及び手袋、其れに応急手当用品、5cm幅の包帯、及び2cm幅の伸縮性テープ,各5m、これ等を切る為の鋏、三角巾、バンドエード10枚、サヴァイヴァルバッグ(アルミホイル製)等である。其れにこれらを入れて走るバッグが必要になる。これ等は全く勘定外で、用意出来ていたのは長タイツと防水上着だけである。後は借りるか新たに買うしかない。シャツ類とバッグは仲間から借りることが出来た。帽子、手袋と救急用品はバンドエードを除き買って間に合わせた。腕を釣る為の三角布の携行を要求されたレースは之が初めてだ。砂漠のレース以上の厳しさだ。只険しい地形を走るので、実際事故が起こればこれらは必要であろう。幸い用心して走ったお蔭で、背負っていた3キロ程度の荷物のお世話に成らずに済み、筋力維持の為のWeight Trainingの為には成ったのかと考えている。

20日の夕刻スタート地点の近くの宿泊地点迄移動する。これ等の手配は全てGalapagos GangのNZの頭目Brettがしている。1行20名余りがバスで町を離れ、レースのFinish地点のMoke Lake迄行き、其処でオンボロバスに乗り換える。此処から先は私有地で羊の放牧につかわれている。この先30キロ奥までが、1地主の所有で、羊は7000頭居るとの説明がある。バスは日本車でこんな古い物は日本ではもう走って居ない。道はダートで急峻である。前の車の埃を追い、全速で上って行く。途中何回か川越があり、これはアイスランドで経験している。上り下りを繰り返し、40分程で漸く山中の建物に着く。山の天辺を平らにし建物が立っており、その裏手は急峻な崖で数百メートル下には川が流れている。

山荘には個室もあるが、建物の両端は各々8名が泊まれる部屋と成っており、中央に食堂がある。収容人員は30名程度でこの日泊まったのは我々のグループ20名あまりであった。夕食は鹿肉と鮭、パスタ、デザート、それに朝飯が付く。スタートと地点までのヘリコプターも含め、一泊300ドル、27000円強)である。自家発であるので、夜9時以降電気は止めてしまい、室内は真っ暗となる。夜中に目が覚め外に出てみる。晴天で星が大きい。天の川も綺麗に見える。この様な空はもう日本では見られないのだろうか?

21日五時半頃に起き、朝食を済ませる。6時50分には最初のヘリコプターが来る筈だが、来ない。2機ほど来たが、建物の上空を通過していった。3機目が建物の前に着陸し、予め決めてある6人を乗せると飛び上がる。僕が操縦席の横に座ると直ぐに飛び立つ。5分ほどでスタート地点に着き、引き返していった。機内からは辺りの険しい地形を写真に収めた。

スタート地点に着き、受付に番号貰いに行くが、準備が出来て居ないという。途中で何か聞かれた番号を言えば、問題は無いともいう。番号の代わりに成るのはチップで之さえあれば、問題は無い筈だ。只、正式のレースで番号を付けずに走るのは僕にとっては初めてだ。長生きをすれば、生涯始めてはモットモット増えるであろうし、之も楽しみにすることにしよう。次にはドンナ初めてが待っているであろうか?

スタート地点で会うことにしていたRobertを探す。彼はアタカマ砂漠250キロで優勝した男で。その時同じテントで1週間を過ごした男で、一昨年の11月にもRouteburn Trackの一部を一緒に歩いている。会場には300−400人集まっているが直ぐに見つかる。友達と一緒で紹介してくれる。Phil と言う大きな男だ。慌ただしく写真を撮ってスタート地点に向かう。僕は遅いのでFinishでは待たずに帰る様にと言ったが、“まあ−色々あるからどうなるだろうね”と言って別れたが、Finish では待っていて呉れた。彼は40代の部で2位、Philは30キロの部総合1位だったという。どちらも優れたランナーだ。


出走地点はMoonlight川に掛る長いつり橋を渡り、対岸から其の川底まで降り、其処から走り出すという。橋は最大10人しか渡れず、向こう岸からの合図をまって次の10人が渡りだす。橋の中央部にはBungee Jump台がある。川底に降りと、レースの説明が始まる。出走時間は過ぎているが、先ずレースの注意点は主催者として言っておかねばならない。定刻より30分遅れてレースが始まる。

川原の石だらけの中を進み、直ぐに急な登りとなる。スタート地点の標高は450mで、3キロ程の間に300m程上る。その後上り下りを繰り返し、10キロでの高度は800m程になる。走路は羊の歩く道であり、狭く、所に依っては転倒の危険がある。樹木は殆ど無く、灌木と草だけで、紫と白の花を付けた植物が生えており、香しい匂いがするのが何よりの励ましと成る。足の遅い僕の後には20人位しか居らず、前には誰も見えないことが多くなる。10キロを超えた辺りから急に上りがキツクなり、2キロ程で高度を300m程上げることに成る。最高点は1080mである。文字通り四つん這いに成り岩をよじ登る。此処は岩だらけの所であり、見晴らしは良い言が、一休みしている余裕はない。直ぐに下り出す。この下りもキツイ。3キロ程は上り下りを繰り返しながら200m程くだり、その次の3キロで350m程一気に下る。川底に近い所は湿地が至る所にあり、踏み荒らされて真黒な泥田の様な所が多い。少し大回りをしても靴を汚したくないので、藪超えしたり、木立の中を進んだりする。主流に注ぎ込む小川を何本も、靴を濡らさずに、通過する。

下りは体力的には楽であるが、注意が必要だ。転べば只では済まない所が彼方此方にある。特に細い尾根沿いでは神経を使う。漸くMoonlight川の河床に降り、この川を何回か石伝いに渡る。中国から来ている若い女性に会い、川越の手助けしながら進む。標高は500mを僅かに超えた辺りまで下ると、やがて滝の音が聞こえてくる。此処で又渡河があり、今度は川幅もあり、如何しても靴を濡らさずに渡ることは出来ない。折角ここまで来たのであるが、思い切って膝まである水に飛び込む。思った程、冷たくは無い。前面には10m程の滝が見え、その横には何処にでも2連梯子が掛っている。渡り終わって、靴の状態を見る為、石に腰を下ろすと、其処に居た係員が、靴などどうでもいいから、先を急がないと、制限時間に引っ掛かるぞという。靴の状態はともかく、垂直に掛った梯子をよじ登りだす。暫し急な山道を登ると、緩やかな幅1.5m程の道が続く草地に出、遠くの方に建物が見える。如何や昨日泊まった山荘の様だ。河床と尾根の間に続く、クネクネ道を進み、漸く山荘に辿り着く。エードがあり、若干の食べ物があった。此処で、仲間の4人の女性と、一人の男性に会うが、何とか制限時間には間に合う様だ。1キロ程の先の24キロ地を14時30分に通過すればいいのだ。結果的には全員失格と成ってしまい、正規のマラソンのコースを走らずに5キロ短いバイパス路を走る事に成る。正規のコースでは後半に前半より若干小さい上り下りがあり、安全上制限時間を設けている。

走路上に距離表示は一切無い。有るのは走路の印のポールやテープであり、これは十分に付いているので迷うことは無い。エードは訳約6キロ毎にあり、此処は水しかない所が多い。距離の推定はエードの位置、地図、高度計からそれ程誤差なく出来る。バイパス路は最初は車の通れる道であるが、之にも上り下りはある。最後の7キロは正規のコースと同じで、2−300mの山道の上り下りの後、緩やかに上って行く川沿いの道である。此処も車の通れる道である。川は水源のMoke湖から流れ出しており、急流ではないが、川幅は10m程ある。何とこの川を最後の7キロの間に何十回濾過しただろうか。彼方此方のレースや山歩きで渡河はこれまでに随分してきたつもりであるが、ここでの渡河はそれらの総計を遥かに多いと思われる。渡って20mも行かない内に又川越と成るのには、流石に辟易した。漸く放牧の牛が見えてくると。渡河の必要が無くなる。最後の2キロ程は緩やかな上りの陸地を走る事が出来、結果として、怪我もなく終わることが出来て良かったと思う。それにしても、同じ42キロの走りでも、マダマダ新しい走りがあるのには驚いた。マラソンレースで下り坂を、進行方向に背中を向け、四つん這いで降りている姿を見たのもここが初めてであった。20−30cm程の草の生えた斜面で何処でも降りることが出来るが、特に道は付いていない。コースの印が見えるだけの所であった。地面は乾いており、特に危険な石も無い所だったので、僕は草に足を取られない様に用心しながら降りた。富士山の須走に似た斜面もあり、レースのSweeperの女性が2人、猛烈な勢いで追い抜いて行った。この様な所は靴に砂や小石が這入ることを覚悟で、思い切り踵で制動を掛けて降りるのが最上だ。興味が有る方は是非走ってきて欲しい。因みにここのコース記録は4時間40分台である。今年の優勝記録は5時間16分であった。僕はレース参加者の最長老で、37キロを9時間半を超えたが、年齢別の1位であった。

Finishでは水やビール、バナナなど出ることに成って居たが、僕が着いた時には水しか残って居なかった。スタート地点で預けた衣類などは大きな2階建ての建物(羊の毛刈り場)に有ると聞き、行ってみると、RobertとPhilが待っていた。Robertは40歳の部2位、6時間余りであった。Philは30キロ部総合優勝し、気を良くしていた。それにしても、長い間僕のFinish待っていてくれた訳で、友と言うものは有り難い物である。彼らは働き盛りであり、RobertはChristchurchに戻り月曜日からは普通の仕事することに成る。手短に今後のレース予定などを訊き、連絡しあうことにし別れる。

濡れた靴でバスに乗り、Queenstownに戻る。幸いまだ夕日が残っているので、濡れた靴を日向で干す事にした。靴は一足しか持っておらず、之が渇かないと何処にも行く気が起きない。雑誌の紙を中に入れ、出来るだけ早く乾く様にする。乾くまでは裸足で歩くしかない。此方や、Auystrali 等では裸足で町を歩いている人の姿はそれ程珍しいものではない。早速走行に必要なバッグやシャツ(結局これらはレース中一切使う事が無かった。万が一の危険に備えた装備で,むしろ使う機会が無かった事を喜ぶべきなのだ)を返しに2−300m離れたRydges HotelにいるAndrew/Natashaに返しに行き、今夜の夕食には一杯奢ることを告げる。

最後の晩餐は船着き場のレストランFinzに全員が集まり、8時から始まる。粗定刻に全員が集まり、レース参加の段取り、航空便、現地での足の計画手配をしたBrettの挨拶や総括がある。その前に各々飲む事を始めており、僕は無事楽しく友と一週間を過ごしたことに感謝し、彼とその息子夫婦にChampagneを取り皆で飲んだ。このレースには彼の娘夫婦も参加している。NZ版内山一家いったところであろうか? 娘のSuzieは旅行関係の仕事をしており、今回はレース以外のイベント、例えば、Bungee Jump、急流下り等の手配をしたり、記念T-shirtのデザインをしている。この点も日本の一家と似ているのは偶然だろうか?T-shirtはNZの国鳥Kiwiの羽を表した物であり、僕も一つ貰ったが、レストランに忘れて来てしまった。


料理も個々に頼むのが向こう流のやり方で、僕は鰈を頼んだ。25cm程の御頭付の蒸した物であったが、淡白な味が付いて居り美味であった。鰈にはソースが付いているだけで、他には全く何も具は付いていないのがユニークと言えばユニークだった。これで3000円は安く無い気がする。歓談が続き、次はAustraliaが幹事と成って、何か面白いレースを探すと言うことに成った。どんな変わったレースがあるのやら。

レースの前後
12日午後Bangkok向けに飛び立つ。6時間余りの旅である。2時間程の待ち合わせで、夕刻タイを経ち、翌日の正午過ぎにAucklandに着く。10時間強の飛行時間だ。一方日本から同じ所に真っ直ぐ飛べば粗Bankok-Auckland間の同じ時間でついてしまう。成田―Bangkokの移動時間と待ち合わせ時間は何の為なのか?航空運賃を安くするためであった。僕は金は無いが、時間は何とかなる人間なのである。この時期NZは観光シーズンなので運賃は高い。溜め込んだマイルは地球五周するほど溜まっているので、これを使わない手は無い。溜め込んだマイルの使用に関しては色々と制約がある事は前にも述べた。今回も数か月前に手配をしたが、航空会社の都合でBangkok経由以外の選択は出来なかった。その上Auckland ?Queenstown間の便は全く手配が出来ず、この区間の片道4万円は自分で手配する他無かった。望みの日に望みのルートを飛ぶのは数か月前から手配しても、出来ない事が多いのだ。只マイルを使った飛行では2か所の滞在が可能で、今回の様にAucklandで2−3日、Queenstownで2週間といった様な日程は組める。其れにマイルを使った飛行区間に関して払う代金は空港使用料等で、100ドル強の事が多い。

日本とタイの間にはー2時間の時差があり、NZは夏に当たるので+4時間の時間差がある。経度的に正味で5時間差のある、東西方向の行き来と待ち時間で確かに時間ロスはあるが、この時間を何とか有効に使えば大きな損失には成らないと考える。

AucklandではBrettの家の直ぐ傍にあるMotelを紹介され、其処を予約しておいた。アメリカから来ている連中数名は更に離れたホテルを予約出来たが、僕が動き出した時は其処も満杯だった。NZは何所もこの時期観光の最盛期なのだ。

空港からShuttleで予約したMotelに着く。5−6人の乗客が居り、言葉からSweden人であることが分かり、30分程あれこれ話している内に着く。41ドル程であった。Motelは15室ほどの小さなものだが、部屋は大きくKing size bed とSingle bedが付いている。台所が付いて居り、長期滞在が可能な様だ。皿やカップはあるが鍋釜は一切なく、利用者は車でそれらを持ち込み旅をしているのであろう。料金は一泊訳約1万円である。

その日は周りをうろついただけで、早めに寝てしまう。明日に成ればBrettが何とか言ってくるだろうと信じて疑わない。此方は接触先も持って着て居ないので、そう信じる他ないのだ。僕は余程間抜けに出来ている幸せ者だ。ウトウトして間もなく、ドアのノックで目を覚ます。Brettだ。明日朝7時アメリカ野郎どもが泊まって居るホテルに集まり、この辺の火山で出来た丘めぐりの走りをする予定だという。その後の予定はその時話すと言って帰って行った。

翌14日、用意したコーヒーを飲み指定のホテルに行くと数人が集まっている。今まで会ったことの無い人が多い。如何やらGalapagos gang以外の人も交じっている。着ているT-shirtからAndes Adventuresを主催しているDevyの他のツアーに参加した連中の様だ。Brettの娘夫妻にもここで初め出会った。紹介も済み、ホテルから幹線に沿った歩道をユックリと走り出す。直ぐに岡が正面に見えてきて、其処に向かって進む。途中にはGovernment Houseと書かれた門と塀がある。周知のとおり、NZは英連邦の一員であり英国の国家元首が何年に1度の訪問の際、此処を宿所にするという。広大な敷地は大きな木に覆われ建物は全く見えない。20万年前に噴火が終息した丘を背に建つこの施設はかっての英帝国の栄華の産物である。暫くすると、歩道から左に入る坂道となり、上り始める。150m程の岡であるが走ると息切れがする。途中擦り鉢状の噴火口を見て、展望台と成っている頂上に達する。天気は良く、海に接するAucklandの中心街や彼方此方に火山の岡のある郊外が360度眺められる。Aucklandにはこの様な火山丘が80余りあるという。写真を撮って降り出し、別な岡にも上り。1時間程でBrettの住む郊外の町の中芯街のカフェーで朝食を摂り。散会する。

Motelへの途中でここが自分の家だと教えて呉れ、夕方ここでバーベキューをするので5時に集まる様にと言った。彼の家とMorelは同じ通りにあり、番地は55と73なので150m程しか離れて居ない事が分かった。
日中一人で、途轍もなく大きな公園の中を歩いたり、先ほどの岡や、その他の噴火活動の後を見て回った。Aucklandは今度で2度目であるが。最初は遠い30年程前の話であり、家族と姪を連れHonolulu経由でMelbourneに向かう途中で空港の外には出て居ない。天気は粗快晴で、気温もそれほど高くない。歩くには絶好の条件だ。

5時にBangkokで買ったDimpleの15年物のお土産を持ってBrettの家に行く。ボチボチ人が集リ出し、ビールやワイン等を飲みだす。Brettの娘婿のMatthewはベルギー風のビールを1年前から作り始め、小瓶に詰めて何本か持って着て、ベルギー人夫妻と飲んでいる。評判が良いので、僕も普段はビールは口にしないが、一口飲んでみる。黒ビールで、深みのする味である。ビールは簡単に作れる様であるが、この味であれば、誰でも喜んで飲むはずであり、個人の趣味としては良いであろう。度数は8度あるそうだ。

近所の人も集まり30人程が、居間や外のテーブルを囲み、バーベキューを食べる。肉や魚であるが、目玉は白魚である。透き通った3−4cm程の魚で、今が旬だという。日本であれば差し詰めこれは生で食べるべきものであろうが、これらを卵の中に入れ、鉄板で焼いて食べるのであった。白魚入り卵焼きだ。この他、野菜や果物サラダで結構満腹になる。Brettの奥さんはGalapagosには来ていたが、今はCanadaを旅行中だそうだ。明日はQueenstownに向かう日で1時にBrettが迎えに来ると言った。

翌日午前中はRemuera(Aucklandの一行政区)の繁華街を見て歩く。町全体は静かな住宅地で500m程の商店街があるだけである。教会や時計台などどの町にもある風景であった。Motelに変えるとBrettは既に来て居た。タクシーが停まっており、大柄な女性と外にでて話していた。荷物を積み込み直ぐに出発する。先程の女性は運転手で、濃紺の背広とズボンを履いていた。車中彼らは話しっぱなしである事から、Brettが良く使うタクシーなのであろう。

国内線の空港手続きは極短時間に終わる。水も500ml程であれば持ち込み可である。この区間の切符はInternetで買ってあり、籍もMt.Cockが見える左側の窓側の予約をしてある。飛び立って1時間程で雲の上に出ているMt。Cockが見えだし、写真を撮る。険しい山容で大きな氷河が幾つもある。此処からQueenstownまでは険しい地形が突き、多くの氷河湖が見られる。湖はどれも青く綺麗だ。

Queenstownでは皆が同じ宿に泊まることが出来ず、分宿と成る。毎日夕食は一緒に取ることにし、多くは町の中のレストランに集まった。時には30分程の町まで、バスを借り切って行くこともあった。レース日までは丸5日ある。その間、他の連中はBungee Jump,Rafting、Zipline、Luge(コンクリート専用コース用で、橇ではなく、底部に車が付いたもの)、,Paraglider等を楽しんで居た。之等は急峻な地形を生かしたこの地ならずではの娯楽た。Bungeeも飛行機から飛び降りるものもあり、高さにより値段が異なる。3000mで400ドル、200mで300ドルが相場で、町には至る所にこれ等の宣伝がある。

僕はこれ等には興味は無いので、専ら歩き回る。この町には15程の山道があり、結構楽しめる。6−7時間で往復できる物が多く、中には一周できるものもある。勿論山道の先に又山道が繋がり別の町に出ることも出来、歩く事には事欠かない。滞在中幸いにも天気は良かったので、毎日丸腰で一つの山道をあるいた。その一つはBen LomondTrackである。宿を出ると直ぐに険しい上りが続く。岩の出ている坂を時には四つん這いに成って上る。帰りはどうやって降りようかと思う所もある。周りは大きな針葉樹の森で、薄暗い。人に出会う事も無く上り続ける。所々に木製の櫓がある。これ等はZiplineの乗降場で通常は安全上鍵がかかっている。大きな松を切り倒し、人の座れる椅子状にした物もある。これ等の松は切られても、切断面を修復する為に樹皮で部分的に覆われ、切られても尚生きようとする、植物の生命力が感じられる。尚も上って行くと、傾斜がやや緩やかになり、他の山道やMountain bike道、ロープウェーの管理道路などに突き当たる。右に折れロープウェーの終点に行ってみる。此処には展望台、レストラン、の他色々な施設がある。 LugeやMountain bikeの貸出場、Ziplineの受付場、Paraglioderやハングライダーの飛翔場などである。これ等の娯楽は全てロープウェーを中心として成り立っているのである。これ等落差を利用した娯楽はロープウェーなしでは成り立たない。此処から専用の斜面を下り降りた、Luge,bike,Paraglider,Hungliderも同じことをする為に湖面(標高約350m)に近い町から標高約1000mのこの地点まで引き上げなければならない。この為の設備がロープウェーやLiftには備え付けてある。何時の頃からか、人は自らのエネルギーを使わず、労なくしてより大きく刺激的な快楽を求める様になったのである。上から見る町、湖、その対岸に聳える山々を眺め至極の満足を感じる自分とは異なる人種が大勢を占めている現実に疑問を抱かざるを得ない。金に飽かして、自然を破壊し、身に余る快楽を求め続けて良いのであろうか?

此処から又右寄りの道を上り続ける。周りは何時しか樺の樹林帯と成って居る。地面が暗い松林より、樺の林が好きだ。樺は常緑樹であり、その葉は黄楊と同じほどの大きさで、互いに密集せず、地面の彼方此方に陽光が届くのが良い。暫く歩くと樹林帯の終わりである。山羊の声が何回か聞こえるので注意して周りを見ると、薄茶色の山羊が3−4棟頭見える。ヨーロッパから持ち込んだ物が野生化した物らしい。元々、NZに居た哺乳類は蝙蝠だけで、その保護に政府は今懸命に成って居る。先住民のマオリの生活圏に勝手に入り込み,我物顔に振る舞った英国その他のヨーロッパ人により持ち込まれた、山羊、鹿、イタチ類、鼠等がNZ古来の動植物の生存の危機の根源であることに気付いたからである。身から出た錆の典型であろう。

見晴らしの良い、低木と草地を緩やかに上って行く。彼方此方に歩く姿が見える。1時間程で鞍部に到達する。其処からは反対側の谷が見え、これも同様に険しい。右手に行くとMoonlight Track左手がBen    Lomond山である。山頂を目指して上り出す。砂や、小石の滑りやすい道が暫く続く。その後、傾斜は更に急に成り、所に依っては手も使って上って行く。暫く角のある大きな岩石の道が続くが、その先傾斜が緩くなる。如何やら山を巻いて上る道らしい。回り込んで上って行くと、山頂が見えてくる。丁度昼時で、2−30人の人が食事を楽しんで居た。1745mの山頂には日時計が置いてあった。大きな岩が彼方此方にあり、切り立つ崖っぷちに陣取り、リンゴを頬張る女性のグループもあり、高所があまり好きでない僕は恨めしいと思えた。360度の展望の出来る所で、Queenstownも勿論見える。数枚の写真を撮り、直ぐに降りだす。丸腰で水すら持っていないので、早く町に降りる必要がある。

途中の松林の薄暗い中に、切断面が樹皮で完全に覆われた切り株を幾つか見た。之ほど生命力の強さを感じたのは初めてである。こんなに日の当たらい所で再び芽を出す事は不可能と思えるが、兎に角傷口だけは直しておこうと言う松の強靭な思いが伝わってくる。死すとも最善を尽くす、死ぬまで最善を尽くすとの思いであろう。


山道の中には“歴史の道”的なものもある。One−mile Trackである。Queenstownの歴史は新しく、19世紀末からである。この町に最初に出来た水力発電所の導水管に沿った山道で、此処もその他の山道と繋がり、単純往復したり、回り込んで元の場所に戻ることも出来る。登り口を入ると直ぐに小さな小屋がある。十畳足らずの小屋で、其処に1924年設置のGEの65Kw発電機、其れを動かすCurtis Turbine水車,それに繋がる25cm程の導水管が当時なままに残っている。我が国の大正末期であり、当時の電力の殆どは照明用と推定すると、4−500戸分はまかなえたのであろうか? 当時の予算や完成時最終価格、工事期間等の展示もある。


発電所跡を後にし、左手のせせらぎを聞きながら上り出す。周りの木立は樺である。上って行くと導水管が段階的に太くなって行く。取水口の導管径が一番大きく、下に行くほど細くなって行くのは自然の理である。下部圧力が高く、流速が早く単位時間当たりの流水量が多くなる。上流からこれに相当する水が供給されなければ真空現象により、配管振動や破損の危険が生じる筈だ。水を滑らかに流す為に途中彼方此方にコンクリート製の配管受け設けられている。設置以降100年近く経って居り、腐食により穴の開いている所や、岩石の落下で押しつぶされた配管から歴史を読み取れる。

樺林の中を上って行くと、岩の多い所に差し掛かり、何処が道なのかからなくなる。感を頼りに上って行くと如何も可笑しい。落ち着いて周りを見渡してみる。遠くの方に導水管らしいものが見えるので、其処まで降りていく。人一人がヤット通れる道があり、其処を上り出す。上るにつれ、導水管は太くなり、径40cm程に成って居る。管が折れ谷底に転がって居たりする。取水口のダムは長年の間に砂が溜まり、その上流は対岸に渡れるようになっている。対岸に回り込み下り出す。

時間があるので、隣町のFarnhillに繋がる山道に入り、この町に立寄り、湖畔の遊歩道を歩き、宿に戻る。町の図書館にも行ってみる。図書館はその土地の情報だけでなく、色々な情報がある。NZの地図を見たり、ヨーロッパ史等今自分が興味を持っていることを手軽に調べることの出来る格好の場で、僕は天気が悪かったり、時間が余った時には良くいく。町の図書館は小さいがそれなりの落ち着いた空間がある。日本の本も50冊程あったが、どんな基準で集めたのかは全く分からい、雑然としたものであった。

一か所にこれ程長く留まることは僕にとっては稀な事なので、この間食事は如何していたのかについても触れておこう。僕は面倒臭がり屋であり、不精者だ。この理由で、旅をしている時は1日2食にしている。自分で作るにしても、店に行くにしても、回数が少ない方が良い。食う為には作るだけでなく、食器を洗ったり歯を磨いたりと厄介な作業を伴う。この為2食が僕には適している。

夕食は皆で集まってするので、酒も含めて5000円程かかる。之は僕の日常の食費の一週間分に相当するであろう。この為朝は自炊とする。NZは意外に牛乳や卵は高いが、肉、チース、バターは安い。赤みのステーキ肉はキロ1000円強、ラムも粗同じ、豚はやや安く、鶏は更に安い。スーパーは2−3軒あり、肉を買い、適当に野菜果物も買う。肉はトレーとラッピングで梱包されているが、容量は大きく1キロ前後のものが多い。之で牛肉なら2枚で、切り身の大きさも大きい。泊まっているBackpackersには大きな台所があり、此処で調理をし、残った物は冷蔵庫に名前を書いて保存して置く。他人の物を食ってしまう不心得者は居ない様である。

朝はステーキ(100−150g)、玉ねぎ、トマト、人参、ピーマン、果物、それにインスタントラーメン1つで、10時間程は間食なしで十分であり、空腹を感じる事はない。肉は滞在中2度買ったが、これはMilford Track4日間の食料にもなった。

レース後丸2日町でブラブラと過ごす。この間も天気は頗る良い。カメラ電池の充電も確りし、24日早朝出発に備える。夜雨が降り出し、嫌な予感がする。

バスは7時に町の中心部からでる。小雨の中宿を出て、10分程歩く。バスが待っており、直ぐに名前を告げ乗り込む。既に乗っている人も多く、直ぐに出発と成る。観光大国NZでは観光地間のバス移動は民間で行っているが、観光省との連携も良く、旅程が確実に繋がる様になっている。問題はこれ等事前の計画予約に当事者が間に合うか如何かである。バスに乗りそこなうと、其処から先の予定は全てパーになる。

湖に沿ってバスは南に向かって走る。1時間弱で湖を離れ、略平らな放牧地の中を走る。途中一回中継点があり、乗り換えの出入りがある。目的地Te Anau に近づくと、鹿の放牧場が幾つかある。ドイツに輸出する為の飼育で,100頭程の群れで飼っている。一昨年の11月此処を通った時、電池を宿に置き忘れ、残念な思いをしたので、今回は何とか写真に収めたいと思ってカメラを向けるが、移動中の車窓からの撮影は中々難しい。何とか鹿に見える物が映っているので満足する他ない。2時間余りで目的地に着く。DOC(Dept.of Conservation、環境保全省、観光省)の事務所の前で、乗り換えの前にそこの受付で、予約票を貰う。これからの交通手段、山小屋の日程と時間が入った切符の綴りであった。此処で入山中の天気予報なども知ることが出来る。今日はまあまあの天気であるが、明日は若干の雨が降る可能性があるが、樺樹林帯の中の移動なので、余り影響はないであろうとの事であった。その先も若干雨の可能性はあるが、概ね良好との予報でやれやれと思う。年間200日は雨が降るというこの地の観光は、雨の覚悟はしているものの、矢張り好天である事に越したことはない。観光でも山行でも天気は最重要な条件である。天気が悪ければ、折角の景色も全く見えない事もあり、見えても綺麗に見えない事もある。増して写真等は更に光が重要な要素となる。2度と訪れる機会の無い所の観光は好転であって欲しいと誰でも思うであろう。政府管掌の山道歩行(この他にも地方自治体、私設の山道は無数)には予約が必要で、この予約が中々取れない山道もある。Milford Trackもその一つで、例年7月中に予約開始と成るが、直ぐに満杯と成り予約が出来ないことが多い。今回の予約も開始と同時に手続きをしたが、望んだ日に入山は不可能で、空いていた24日せざると得なかった。本来は1っ昨年の11月に歩きたかったので、同年の7月末に予約を試みたが既に満杯であった。

入り口、出口の交通も含めて予約通りに進まなければ成らず、天気が悪いから、良い写真を撮りたいからと言う理由で同じ所に留まる事は許されない。言わばトコロテン式とでも言うべきで、入った順から理由の如何に拘わらず、押し出されてしまう移動方式なのだ。予約の上限は浜小屋の収容人員50名である。之は施設の大きさをこれ以上大きくせず、環境維持の為入山者数を制限し且つ又多くの人に機会を与える措置として止むを得ないのであろう。


次の目的地はTe Anau Downsで30分程で着く。湖面の桟橋には100人乗り程のボートが泊まっている。やや待って乗り込むと、直ぐに動き出す。細長い氷河湖を北に向かって進む。湖から立ち上がる絶壁の尾根、流れ落ちる幾条もの白い水の筋、奇妙な形をした小島等、景色は次々に代わって行く。日本からのツアーの連中も乗り合わせて居り、添乗員や参加者達とも話が出来た。彼らは軽装で来ており、ボートの終点Glade Wharfで降りMilford Trackの一部を歩き、折り返しのボートでTe Anauに戻るそうだ。中年の御夫人が多く、靴や装備は其れらしいものだった。時々放送があり、周りの景色の説明や、Milford 山道の開発に尽力しその後遭難死したMackinnonのボートが難破した島の十字架等の説明ある。ボートは1時間余りでGlade Wharfに着く。

日本からの皆さんの楽しい旅を希求し、別れ、入り口の印を確認し歩き出す。正午少し前と成って居た。今日の行程は5キロ、標高差も訳100mで楽な歩きだ。只、早朝から動き出しており、早く小屋に着いたに越したことはない。吊り橋渡り、Clinton川を右手に見ながら樺林の中を歩くよく整備された道で、苔に覆われた樺林の中を歩く。下生えはシダ類が多く、何処を見ても緑だ。右手に流れる川幅は20−30mあるが、今実際に水が流れているのは5−6m程である。只一度大雨が降ればその水量は一気に増え、岸の弱い所は押し流す暴れ川である。彼方此方に黄色のテープが張られ、最近の被害場所が彼方此方にあることが分かる。1時間歩き、Clinton小屋に着く。2段ベッドの小屋が2棟あり、自分の気に入った場所を選ぶ。小屋には10cm程の厚さのマットがあるだけ、寝袋、枕等は個人で用意する。

場所の確保が出来れば少し早いが2度目の食事をする。流しやガス台は十分あり、点火のマッチも備わっている。主食はインスタントラーメンを毎日2食、肉はステーキを4食分600g、それにゆで卵8個、トマト小8個、リンゴ4個、生人参、ピーマン等生物も持って着ている。JMT(Sierra Nevada)の20日余りの山行では生物は釣った小さな鱒を2度程口にしただけだったが、今回はそれに比べれば贅沢だ。其れに非常食として、チョコレート、ナッツ、ビスケット等もあり十分だ。お茶も、コーヒーも持って着ている。その代り衣類は最小限におさえ、余計な物はQueenstownの宿に預けて来た。携行品で日本から持って着て無い物が1つだけあった。ヘッドランプである。小屋の証明は太陽電池を利用しており、8時過ぎは真っ暗になるので、携帯電燈は必需品だ。持って着て居な見ものは使えない。4日間無しで凌ぐ他ない。

小屋の周りをうろついていると、東洋系の男に会う。日本語で話し掛けて来たので、暫く話す。此処を歩きたかったので、Internetで調べたが、当初は満杯で諦めていたが、何回か目にキャンセルが出たらしく、予約が取れたという。横浜で会社勤めをしており、休暇を利用して歩いていると言う。30代と思われるが、此方からは名前も聞く事も無く、3泊同じ宿に泊まり、同じ道を歩いたがそれ以上は、会えば挨拶を交わす程度であった。歩きが終ればMil―ford氷河湾の船旅をした後、帰国するとも言っていた。

抑々Milford Trackとは何か?何故に人気の高い山道なのか?元々マオリの人達が山を越え、海の民との交易の道であったらしい。19世紀末、西洋人もこのルートに着目し、これを拡張し、海絵の最短ルートとしたようである。全長53キロあまりのこの道を中間に設けた山小屋に3泊して4日で歩く山道がMilford Trackだ。途中険しい岩場を開削し安全に通れるようした所もあり、これ等の工事は困難で、囚人や民間人により長期を要したという。これ等の努力のお蔭で、美しい景色を眺めながら今我々は安全に山行を楽しむ事が出来る様に成ったのである。ルートは大雑把に言うと、くの字を描いており、最初は北西に向かって進み、Southerland Falls(高さ580m)への分岐の辺りから北東に向かう、全長53キロ余りの山道である。


時間があるので、周りの散策に出かける。小屋の手前に左側に入る湿地の案内板があったのを思い出したので行ってみる。湿地には何種類もの靄やシダの仲間が生えており、色も、緑、黄色、赤、白等色も多様で綺麗だ。その帰りに思わぬ経験をする。生涯始めての体験であり、感動する。日本ではありえない経験だ。山道を歩いていると10m程先に、一羽の黒い小鳥が路面に降りる。写真を撮る為に立ち止り、撮り出すと、小鳥は此方にドンドンと近づいてきて、足元の靴を突いたり、つま先に乗ったりして、暫く遊んでいる。足元を見下ろしながら写真を何枚か撮るが、後で見ると余りうまく取れて居ない。意外と自分の足の周りの被写体を撮るのは難しいのだ。暫くして小鳥は横の小枝に飛び乗り、樺林の中に消えて行った。時間にして2−3分、我を忘れて小鳥の仕草を見守った。後で調べると、この鳥の名はBlack Robin(雀の約2倍程のコマドリの仲間で、全体に黒いが腹部は白)であることが分かった。この辺りでは良く見かける鳥だ。この出会い一つでも十分ここを歩く価値はあったと思える。何分にも、我が生涯始めての出会いであり、NZ以外では有り得ない出会いであったからだ。

小屋から遠くない所に朽ち果てた樺の大木の2m程上から根を降ろし、その上に根本30cm程の樺が伸びている。元の木は何年か後には朽ち果て、その形を留めなく成る筈であるが、新しい木は空中に出た根で自重を支え、その下地中に這入っている根から必要な養分を吸い上げ、成長し続けるに違いない。この様に根が地上に浮き上がっている木は沢山ある。多くの木は、2−300年の間には根の上部は地中から飛び出している。年間7000ミリの雨が降る急峻な地形では長年の間に根本の土や小石は流動し、根浮き状態で多くの木は生き続ける。これ等の木には不思議な生命力が備わっているのだ。

25日、6時には台所、食堂の電燈が付くので、先ず食事を済ませ、歯も確り磨き、出発の準備をする。向かう先はMintaro小屋で16.5キロ先となる。標高は400m近く高くなる。今回の小屋の中では最も高い位置にある。標準6時間の行程であるので、8時出発で、13時過ぎには宿に着く筈である。

昨晩はかなりの雨が降った様で、水量が大分増えている。昨日同様右手に川を見ながら、樺林の中を徐々に上り出す。ガスが掛っており、昨夜の雨が幾条もの白い筋と成って流れ落ちている尾根の上の方は見えない。この様な景観もNZ独特の景観だ。暫く行くと、Mackinnon峠が最初に見える場所との案内板があり、正面にはこの山道の最高点の峠(1145m)が見える筈であるが、ガスが掛って居て全く見えない。彼方此方に池がある道を更に上って行く。暫く行くとHidden Lake(隠れ湖)の表示が出ており、看板に荷物を吊るして、左に這入って行く。10分程歩くと、尾根からの白滝が流れ落ちる沼がある。之を隠れ湖と呼んでいるのだ。写真を撮り、元の道に戻る。

直ぐに草が広い範囲に渡りなぎ倒された場所に出る。雨の増水で草が倒された跡であることが分かり、雨を避けて此処を通れる事の幸運を喜ぶ。大雨の中此処を通る場合、膝は愚か、腰まで水に浸かる可能性がある。倍によっては流される可能性すらある。山は天気によっては大きな危険を孕む、恐ろしい所でもあるのだ。その先の川では水鳥が泳いでおり、写真を撮る。Blue Duckと云う固有種の様だ。その先には広大な雪崩の沢がある。大木はなぎ倒され、大きな白い石灰岩の塊が広範に広がる。その手前にはこれより先250m、止まらずに急いで通過!との警告看板が立っている。今は夏でもあり、雪崩はあるまいと思い、写真を撮り急いで可なりの幅の岩石の中を通過する。

上りがやや急になり、道が悪い所を進んでいると、Kiwiが道を横切るのが見え、慌てて写真を撮る。KiwiはNZの国鳥で、飛べない鳥である。NZ人はAustralia人が自らをカンガルーと呼んでいる様に自らをKiwiと呼んでいる。日本で良く果物をKiwiと言っているが、海外ではこれはKiwi Fruitと言っている、この果物は元々中国原産であるが、NZでも良く生産されており、大戦後1959年にこの果物をNZの特産品との印象付けを定着させる為にKiwi Fruitと名づけたという。尚この鳥は今後何回か出会うことに成る。軈て2日目のMintaro小屋に着く。民太郎小屋なら日本にもありそう名前だ。環太平洋の言語は何れも子音と母音の組み合わせが日本と同じで、我々には発音しやすい。

何処の小屋でも室内には靴で上がらないことに成って居るのは日本と同じだ。靴は小屋の入り口外に置き、室内は素足か上履きを使う。この小屋で変わっているのは、靴を外の高い位置に付いている杭に吊るすのである。理由は標高600m近辺を好んで住処としているNZ南島の固有種Kea(オオムの仲間)から靴を守る為である。Keaは猫の声にも似ているキャーと大きな声で無く、カラスほど鳥で、嘴が強く、好奇心が非常に強い鳥である。地べたに置いた靴などは忽ち分解し、形が無くなる被害が出る。自動車のワイパー等も簡単に取って壊してしまうと言う。食う為にでは無く、何でも嘴の強さを使い好奇心と暇つぶしに何でも壊してしまう鳥なのである。NZの人達はこれ等の鳥を追い払う事無く、知恵を絞って害を少なくする方法を取っている。吊るして置けば害は出ないと言う。


夕方小屋の管理人も兼ねる森林官の案内で近くの川に鰻を見に行く。Sandfly(砂蠅、蚋に似た昆虫、人肌に多数着いた様は、濡れた肌に砂が付いた様に見えることから来た名前であろうが、無数にいて刺されと、何時までも痒い)避けの対策をして出かけるようとの注意があったが、用意が居ないので、何もせずに出かける。NZでは前回来た時に南島の北で大きな物を見ている、鰻は夜行性で夕方から活発に動き出すと言うが、川には何匹かの鰻が居た。大きさは7−80cm、大きなものは1m以上ある。人を恐れる気配はない。2−30人の見守る岸で泳いでいた。森林官の話では背びれの長さの違う2種類の鰻が居るそうだ。其の内特に長鰭鰻はNZの固有種で絶滅危惧種として特に保護されていると言う。日本では自然のなかでの鰻は見たことも無く、この意味でも此処を歩く価値はある。踝や手の露出部を彼方此方刺されて、小屋に戻る。Sandflyに刺された跡は何時まで痒く、始末が悪い。
翌朝起きるとガラス戸は内部結露の水滴で覆われおり、外には5−6羽Keaが室内に有る物に興味を示し、執拗に突こうとしているが、ガラスを藪る事は不可能だ。結露を拭いて写真を撮るがうまく映らなかった。


3日目の今日が、この山道の山場である。距離は14キロと短いが、上り550m、下り1000mと起伏が大きいのである。標準行程では6−7時間である。其れに落差580mの滝への往復に1,5時間を見ると全工程で7時間強を見なければならない。

8時少し前に小屋をでる。直ぐに吊り橋を渡り別の沢に這入って行く。上りはやや急で、路面は小さな石で覆われている。尾根にはガスが掛っており、青空も見えだしたので、良い天気に成ることを期待する。高度が1000程になると、樹林は無くなり、低木と草花の世界に成る。一面に咲いているわけではないが、幾種類かの小さな花が咲いており、心が和む。2時間半程で十字架の塔の建つ峠に出る。この道を切り開き殉死した探検家Quintin Mackinnonの碑である。峠からの眺めは素晴らしい。深く抉られた谷、湖、川が一望できる。峠の辺りにもいくつか池があり、草花を写し透明そのものである。暫し、荷をおろし、眺望を楽しむ。草叢からKiwiが出てきて歩き回っている。草間らに頭を突っ込み、何かを探している様だ。来る途中にも苔などが、剥ぎ取られた跡が彼方此方にあったが、それらはKiwiがそれらの下に潜む、ミミズや昆虫などの幼虫を捕食した後では無かろうと思った。この為に体の割に足が以上に大きく頑丈に出来ている。写真を撮って下り出す。前方は更に高くなっており、小屋が見える。峠の避難小屋でここがこの山道での最高点(1145m)である。此処からは一気に約1000m下がる。用心しながら降り出す。足元は角のある石だらけである。


谷と稜線の中間の高さを山道は通っており、向こう側の尾根から谷へ落下する幾筋かの水の流れが綺麗だ。足元を見れば岩の間に可憐な花が咲いている。徐々に高度を下げ、雪崩の後を横切り、乳房そっくりな二つの岩山の真ん中の沢合いに、白く流れる滝が確認でき、何とも不思議な感じがする。何と自然は味な景観を作るのか?此処から直ぐに山道の傾斜はキツクなり沢に下って行く。樹高の高い森の中を下って行く。所々に木製の階段が用意されている。谷底から大きな水音が聞こえてくる。Roaring Burnの表示版が見える。唸る川と言う意味で、確かに吠えて居る様な大きな水音だ。流れが見えてくる。岩にぶっつかり、白煙を上げながら流れる急流は壮観である。岩がせり出し、水路の狭く成って居る所も、やがて削られ広く成ったり、または崩壊してドンドンと渓谷の姿は変わって行くのであろう。更にこの川の右岸を下がって行くと、Southerland Fallsへの分岐の道標がある。指示通りに右に曲がり、その先で鶴橋を渡り左岸を下る。30分程歩くとSoutherland 滝まで580mの道標がある。滝の高さは580mでこの地点と滝の最高点を結んだ線は直角正三角形と成る地点だ。勿論木立があり、此処からは滝の全高は見られない。
滝壺まで行ってみる。先に来ていた2人組の一人が、滝壺に入って居た。高さは高いが水量は多く無く、落下音や飛沫は気に成るほどではない。滝は上から248m、229m、103mの3段々滝である。全高を写真に収めるには広角レンズが必要で、僕のカメラでは下の1段がヤット移せた。

巨木の生える樺の森をひきかえす。標高が7−800mに成ると樺の巨木が彼方此方に見られる。手付かずの自然林で根元の径が2m程の物も見られる。正規の山道に戻る途中に、来る時にも気づいていたが、面白い木の根が有るので写真を撮った。シダ類の根であろうか、中心部は保水や通水の為であろうか縦に繊維状の物が詰まっており、根の表面は髭状の細根で覆われている。山道に横たわるこれ等の根は人に踏まれ、或いは切断されて思わぬ形状を露出する。踏まれて髭の取れた根の外周は規則的な模様が入っている。美しいとは思うが、本来人はこの様な物を見てはいけないのだ。根には生命を育て維持する重要な役割があり、散々踏まれこの様な姿を曝け出すのは無念であろう。

本来の山道に戻り、小1時間更に下ると最後の小屋Dumpling Hut(団子小屋、名前の由来は団子状の巨岩が近くにある事からとか)に着く。天気が良く、最高の峠越えが出来満足である。

27日、最後の日である。今日の予定を確実に実行できなければ、予定の帰国が出来なくなる。何処か一つでも予定が狂うと、旅の継続は不可能に近くなる。行程は18キロと長いが、高低差は殆ど無く、5−6時間が標準行程である。1時に終点のSandfly Pointまでに着かないと、ボートに乗れなくなり、その先のバスにも乗れなくなる。予報では天気は崩れる。標高200m近辺、低地の移動である。之は雨が降ると通常は濡れることなしに渡れる川も、大変な増水で渡河に時間が掛る可能性を意味する。用心の為いつもより早い7時に小屋を出て歩き始める。道の狭い所は露を帯びた両側からの草で靴が濡れる。杖を一本持っているので、片側だけは草の露を払い,なるべく払った方寄りに歩いて、靴の濡れを少なくする。

Arthur川を右手に見ながら歩いているが、彼方此方で水の爪痕を見る。昨晩の小屋の管理人も言っていたが、鰻の泳いでいる川もある。倒木も至る所にあり、これ等の始末をするのも森林官に仕事である。倒木は通行に大きな障害と成らない物はそのままにしてあり、手を入れるのは最小限にし、自然の成り行きに任せている。この為倒木を跨いたり、下を潜ったりする所は何か所もある。山道の修復の為に、道の彼方此方にその材料や簡単な機材が置いてある。バラス等の資材は予めヘリで運び、道の端に置いてある。山道には1マイル毎に道標が立っており、これは山道開通当時の名残で、片面にはキロ表示がある。湿地には幅90cm程の立派な木道が長く続き、安全に渡れる様に成って居る。途中2つの緊急避難小屋を通り過ぎる。幾つかの10m程の滝も通る。Macky滝の傍にはBell Rockの表示がある。ベルには見えない巨大な岩でその上は苔が生え、大きな木も生えている。よく見ると地面に人がヤット這入れる程の空間がある。カメラを入れて写真を撮ってみると、中がドーム状に成った岩で、ベルの打金状をした別の岩があった。氷河で運ばれた巨石で、その形状と言い、中にある小岩との組み合わせと言い、何と自然は不思議な事をするのかと感心する。之を最初に発見した人は何と思ったことか? 更に進んで行くとやや水量の多い滝があり、その滝壺の前に大きな吊り橋が掛っている。Great Gate Fallsの表示が見える。その先には湖の岸の絶壁は何百メートルに渡り、岩を削った道が続く。険しい地形で当時の難工事がしのばれる。遥か下に見える湖はAda湖で、水鳥も小さく見える。残り5キロ程の所で、反対側から来る人に出会ったので、何処まで行くのかを訊いてみると、釣りに来たので、夕方の船で戻ると言っていた。続いて4−5人のグループに出会う。ガイド付きの日帰りの山行であろう。


幸い雨も降らず着々と目的地に近付く。船着き場の小屋に辿り着いたのは12時前であった。大きな小屋で、略全周が腰掛けに成って居る。未だ誰も来ていない。周りを見に出かける。Milford入り江に接する更に小さな入り江で、50人程の小さなボート以外の航行は出来ない。海抜は0mで、Ada湖からの川の河口でる。船着き場には未だ船は着いていない。Sandflyが多すぎ直ぐに小屋に戻る。小屋に居ない。残りの食料を喰い、写真を見て時の建つのを待つ。軈て続々と同じ道を歩いた仲間が着き出し、小屋は満杯の状態になる。ボートが着き、乗り込み20分程で外洋に通じるMilford 入り江の奥の港に着く。港の後ろには険しい山が立ち上がり、可なり大きな滝が流れ落ちている。港の施設はかなり大きいが、余り人の住んで居る建物らしいものは見えない。下船してバス乗り場に向かうと、観光バスが20台程ならんでいる。クルーズ船に乗り込む観光基地なのだ。港のトイレに行くと之が又大きい。船の出入りの際、大勢の人が利用できるためであろう。

乗ったバスは略満席であったが、一番前の通常ガイドや助手の乗る席が開いており、其処に座ってもいいと運転手が言うので、其処に座る。運転席の横で、一段と低くなっており、前方の写真を撮るには最上の席だ。一番危険な席だが、その時はその時だと思い、写真を沢山取る。バスは最初長い間上り、長いトンネルを抜けて下り出す。周りの山はどれも険しい。最初に停まったのはDivideである。分水嶺の意味で、此処から先は一度通ったことがある。Te Anauから此処まで来て、此処からRouteburne Trackを歩いた事を思いだす。何人かが乗り込むと、直ぐにTe Anauに向け動き出す。途中Te Anau Downsで何人かが降りる。3−4日前にここからBoatに乗りMilford Trackに向かった事は記憶に新しい。Te Anauではバスの交換が在るかも知れないとの話であったが、15分ほど待って同じバスでQueenstownに向かった。此処まで2時間半、此処から更に2時間半の長旅だ。

夕暮れが迫った頃、バスは空港に立ち寄り、町の中心にある終点に着いた。ホテルには8時少し前に戻り、荷造りし直して明日早朝の出発に備える。

夜中に雨が降り、可なりの勢いで、止まない。6時半頃にやや弱まったので、思い切って飛び出す。バス停までは精々10分、濡れてもたかが知れている。雨具はリュックの底で、出すのは億劫だ。バスは着いて居り、直ぐに乗り込む。定刻5分後動き出す。

航空ラウンジで簡単な小食を摂り、登場する。僕は通上機上での移動は旅と考えて居ないが、窓からの眼下の景色も中々面白い。1万mからの上空からは細かな事は全く分からないが、地形がどうなっているかなど、高所からでないと見られない事もあり、NZの国内線は窓側とした。北に向うにつれ天気が良くなり、見晴らしが良くなる。Christchurchに近づくと、平野となり、行く筋かの川が見えるが、その川も水の流れている所は少なく、川幅の8−90%は砂や石で覆われている。之は降雨の際水が短時間に海に流れ出るか、土地の浸透性が高く地下水と成って海に出るかのいずれかであろう。機はChristchurchに降りる。僕の行きたいのはAucklandなのであるが、此処で降ろされ、乗り換えを余儀なくされたのだ。何か月も前に予約を入れたにも拘わらず、日に10便ほどあるQueensland−Aucklandの直行便で利用できる席は無いと言うのだ。Mileを使った飛行をUAでは特典飛行と呼んでいる。航空会社の方では無料の特別奉仕と考えている様で、どんな経路で飛んでも、最終目的地まで行ければ良いと考えている様だ。僕の考えは之とは全く正反対だ。無償でのサービス等とは全く思って居ない。抑々Mileage Pointとは過去何万マイルも正規運賃での飛行に対する感謝を兼ねて利用者に対する還元の筈である。此方から見れば、運賃は何年も掛って前払いをしていると考えられ、何か月もの手配に拘わらす、今回の様にAuckland-Queenstownは特典旅行では手配が付かず自己手配とか、今日の区間の様に分断飛行など不都合な扱いを受ける筋合いは無いと思う。その内に会社側の考えも訊いてみたい。

再び飛び立つと、南島の北西端の半島やそれに連なる砂州が見え、南部とは異なる地形となる。暫し洋上を飛び、北東の南西端が見えてくる。南東とははっきりと異なる、丸みを帯びた穏やかな地形が見える。如何も南島はプレートの押し合により隆起し、北島は主として火山活動で出来た島の様に思える。上から見てと略正円に近い裾野を持つ富士山型の山も見える。

空港を降りたつと快晴である。Shuttleバスを待つことも無く、一度泊まった事のある空港ホテルに向かう。Checkin 後、時間があるので、外に出る。ホテルの北側に広大な空間が広がる。大きな公園で中には近代的なObjetが10以上あり、可なりな間隔をあけ並んでいる。中には池の中に建つものもある。池には色々な鳥が居り、写真に撮りたかったが、カメラは持って着て居ない。その隣には大きな遊び場あったが、誰も居なかった。高い所にロープやネット等を張り巡らし、其処を自力で渡り遊ぶ場所の様だ。何れにせよ、之だけ広い空間が空港の間近にある国は羨ましい。
ホテルの傍にはSuperがある。NZドルはもう使うことは無いと思い、何か買って全部使い切って置きたい。50ドル程あったが、500g入りのマヌカ蜂蜜が有ったので買った。この蜂蜜はマヌカの木に咲く花からの蜂蜜で何か特別な薬効があるとされ、NZの特産品であるらしい。

 久しぶりでTVを見る。NZには20チャンネル程があり、その地2つはマオリ語であり、政府も専用のチャンネルを持っている。その他中国が2局、韓国が1局、常時放映を行っているが、日本はゼロである。之は国力の差というよりは、政府の金の使い方の問題であろう。数年前Kilimanjaroに上った時にも、書いたが特に中国の国外における自己顕示には日本もモット見習うべき所があろう。何時までもアメリカの真似ばかりしていて良い訳は無い。

3月1日、9時半にAir NZ機はAucklandを飛び立ち略定刻の17時に成田に着き、今回の旅を無事に終える事が出来た。

旅の費用
航空運賃:60000、(空港使用料15000+Auckland-Queenstown 45000)、宿泊費:110000(16泊)、 飲食代:33000。、交通費:36000。、お土産:7000、レース参加費:15500、
現地調達装備:3000
                         合計:264,500。―

今回は航空運賃は安く上げたが、付き合い上、高価なホテルや飲食店を利用したので、この点は割高に成って居る。他の人には経験出来ない旅なので、この程度は良いのでは無いかと思って居る。

今回の旅で特に印象に残ったのは鳥やウナギ等との自然の中での出会い、と樹木の生命力の強さだ。人を恐れず近づいてくるコマドリ、彼方此方で見たKiwi,その頑丈な足、Keaの鋭い嘴、静かに佇むBlue Duck等である。木の逞しさはAucklandの石垣を覆う木、倒木の上に育つ木、表土を流され半ば空中の根で育つ木、根元を完全に切られても傷跡を完全に樹皮で覆いつくす松の姿であった。


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平成27年3月5日設置

Metropolitan美術館逍遥記


昨年暮れから年明け迄Metropolitan美術館を丸3日に渡り逍遥する機会を得た。

暮れも迫った30日深夜と言うより大晦日の明け方、United機は羽田を立ちSan Fran― ciscoに飛び立つ。9時間余りで着くが、現地時間では前日の午後の4時半である。17時間の時差の性で僕は12月30日を略2日に渡り生きて居ることに成る。更にCalgaryの北300キロのEdo―montonに向かう。到着は23時20分であったが、強風で出発が遅れ、31日の2時頃であった。

何でこの時期、こんな旅をするのだろうかと人は笑うかもしれない。僕には年間365日しかない。時間にして約7500時間だ。365日では足りないのだ。中々旅に使える日にちを確保するのは難しい。無職で誰からも拘束される訳ではないだが。一番の拘束条件は季節の移ろいである。僕は日曜百姓より更に手が抜ける、季節百姓の趣味がある。之は季節を無視して、成り立つものではない。幾ら手を抜いても植えた物が、雑草や害虫で全滅する様な事は出来ない。之は生命に対する冒涜と成る。生えた物は大事に育てる。その為には、一定期間ないに、成長を阻害する要因を取り除く必要がある。草むしりや害虫駆除だ。これ等を全部人力で遣ると、可なりの時間が要る。おまけに生産現場な住居から250キロも離れているので、その往復も入れ一回の手入れには7−10日は必要と成る。春から夏に掛けては略月に1回の手入れが必要なので、自由に旅をするわけには行かない。其れに回数は減ったが、未だ国内でも出たレースが幾つかあり、これ等2つの拘束条件外で纏めて2週間或いはそれ以上の旅の日程を確保するのは中々難しくなる。本当に好きな事をするのは中々骨の折れるものなのだ。兎も角こうした条件の中で、職を辞した後この13年間、何とか毎年10回の旅行が出来ている。旅は主にヨーロッパ、北米、中南米、オセアニア、アフリカ等比較的遠隔地なので、年間の飛行距離は10万マイルを優に超える。飛行時間は250時間を優に超える。年間10日余りは完全に空の上に居ることに成る。飛行マイルにより、優待ポイントが加算され、優遇処置が得られる。昨年僕が得たポイントではUnitedの国際線6区間、Business Firstと国内線(北米全域)1等の6区間であった。昨年年初に家内が行きたいと言うAtlantaとWashingtonに行き、各々4枚ずつを使い、残りはこの1月末に無効と成るので、使って置く必要があった。可なり前から予約を入れたが、特典飛行は一に航空会社の都合で決められ、中々此方の思うような日程では飛べない。これが今回年を跨ぐ旅程と成った理由である。

Alberta州議事堂EdmontonはAlberta州の州都で75万人程の平地の町で、今はShale Oilで繁栄している。州議事堂と博物館を訪れたが之に付いては機会があったら述べたい。

1月2日早朝の便でChicagoに向かう。Canada−USAの入国手続きはEdomontonの空港にアメリカの出先機関が在りそこで済ませる。カナダ製の100人乗り程のJet機には1等席が6席あったが、4席は空いていた。国内の一等の処遇は数年前から数段悪くなり、余り大きなメリットは感じない。確かに席は大きくユッタリとしている。以前は暖かいチャントした料理が出たが今は多くの路線で午前と午後の若干中身の異なる紙箱が出るだけである。中身はクラッカー、ナッツ類と、チーズ等である。酒類は余り選択できないが、出してくれる。Economyではコーヒー、ジュースを除き全て有料である。尚国際線でも全ての米系航空会社では酒類は有料で、ビールは7ドル、その他は8ドルと高い。

Chicagoでの乗り換え時価は1時間足らずで、NYに着いたのは3時半であった。バスと地下鉄でNY youth hostelに着きその日は終わりである。NYのホテルは高く、100ドル以下の所は無い。Youth hostelでも週末は65ドルで、8000円弱と成る。2−3年前はモット安く、粗末ではあるが朝食も付いていた。今回はそれも無く、円安のお蔭でダブルパンチの感じだ。

1月3日は久しぶりにNYの町を歩く。何回も来た町ではるがまだまだ知らない所は沢山ある。NYと言えばManhattanである。他にもBrooklin,Bronx等の地区がある。Manhattanはそれらの中心にあり、略北東南西に広がる幅約3キロ長さ15キロ程の四面を水で囲まれた島であり、14丁目通り以南(Downtown)を除き、略碁盤目状の町なので歩きやすい。Battery     Parkが最南端にあり、町の始まりはこの辺りから始まったのであろう。金融の中心地Wall街、市庁舎、中華街は斜めの道が走り、やや歩き難い。遅く出来た町程、道路は整然と成り、Midtown(14−79丁目通り)、Uptown(それ以北)は誰でも迷わずに歩ける街である。島のほぼ中央には幅約1キロ、長さ略4キロのCentral Parkが広がる。

ビルの谷間をなるべく今迄通った事のない、通りを歩く。Broadwayを南に歩いていると、47通りにRestaurant Row(飲食横丁)の表示が見えるので其処を這入って、東に進む。別に腹が減って居る訳ではないが、劇場が多いこの辺りで観劇客が好むのはどの様な所かを見ておきたかっただけである。200メートル程進んだが、道の両側にはこれと言うレストランは無い。観劇前後の客を当て込んだレストラン街も消滅し、名ばかりが残っている様だ。6番街を超えると、様相が一変する。両側には貴金属商の店が連なる。American Daiamond Centerの看板も見える。中に入ることは無かったが、高級店が5番街まで続く。5番街にTiffarnyの本店があり、その他の有名ブラン店が右左に連なる。Uniquroはブランド品なのであろうか、2−3年前からここに可なり大きな店を構えている。僕はブランド品は出来るだけ買わない様にしているが、前回来た時もここにきている。小用の為である。

5番街を南に下り、42通りを越すとNY図書館がある。僕は旧時代の人間であり、携帯通信設備を持ち歩くことはしない。固定の通信設備に専ら頼る。アメリカの殆どの図書館には誰でも使えるPCがあり、   Internet交信が可能である。

この図書館も20台程のPCがあり、殆ど待つことなしに最低30分の利用が可能で、更に空きを待っている人が居なければ、自動的に延長が可能である。此処で日本のニュースを見たり、自分のEmailの交信が出来る。

次の日からは天気が悪くなりそうだが、美術館での鑑賞には天候の関係は無い。徒歩片道40分は、10回分(約3000円)地下鉄のカードを亡くしたので、歩く事にしているが、余ほどの荒れた天気でない限り、之も問題ではない。10時の開館を目指して、Amsterdam街103丁目からCentral     Parkを横切り、5番街82丁目のMetropolitan Museumに向かう。5番街の82から106丁目はMuseum Mileの通称があり、多くの美術館が連なる。Metropolitanはその南端に当たり、丁度正面玄関が82丁目に位置し、その敷地は84丁目から79丁目迄、東西には粗5番街と6番街に広がる。面積は粗5ヘクタール(5町歩強)である。

勿論日によっても混み具合は異なるが、開館前には多くの人が集まっている。正面の通り,5番街には10台程のFast Foodの車も並んでいる。中に入り、コートを預け、入場券を払う。大人25ドル、老人17ドルである。カードを出すと、幾ら払うかと妙な事を訊かれる。17ドルでは無いのかと訊き返すと、幾らでも良いのだ、何なら只でも良いと言う。老人は優遇されている様だ。邦貨で2000円強、丸一日の観賞料は高くないので、17ドル払う。閉館は5時半であり、週に2日は10時まで開いている。

常設展の他特別展としてAssiria to Iberia、Madam Cezanne、El   Greco展等がある。之を先ず先に見る。

AssiriaからIberiaへの展示では、メソポタミアは古代文明発祥の地の一つ、アッシリア、今のイラク北部から、Iberia半島のSpain迄如何にその文明が伝わって行ったかの経緯を示す壮大な展示だ。紀元前13世紀から使われ出した楔型文字も鮮明な物も見られる。陸路海路を通し、航海術を持たなかったペルシャ人に代わり、フェニキア人等他の民族を介して、焼き物、青銅器から鉄器への金属製品等の交易により、文化が伝わって行った経緯を多面的に展示であった。

Madam Cezanne展はでは30点余りのCezanneの長年の伴侶であったHorten―se Fiquetを描いた絵やデッサンと展示であった。Cezanneが30の時に出会ったこの女性はその時18歳であり、唯一の息子を設けたが、Cezanneとその父親との関係ため、同棲や別居生活が長く続き、籍を入れたのは息子の相続の為、後年に成ってからである。Cezanneの絵に最も大きい影響を与えたとの説明もあった。女性の力恐るべしである。巨匠の画風にも影響をあたえるのだ。尚、彼を絶賛した画家にはMatisseやPicasoであり、畑は違うが、Sons and LoversやLady Chaterly‘s Loverの作家D.H.Lowrenceも同様な記述を残している。

El Grecoは通称であり、本名はギリシャ名でやや長く、覚えるのは難しい。彼はギリシャのクレタ島の出で、当時この島はベニスの支配下にあったことから、ベニスに渡り、ローマでも短い間、画業に励んだ。彼の通称はイタリヤ語のギリシャ人を意味するGrecoにスペイン語の定冠詞Elを付けたもので、英語ではThe Greekであろう。ギリシャ人全てを代表する様な立派な通称である。イタリヤを離れた理由はMichelangeloの絵を酷評したからだとの説がある。

Spainに渡った彼はToledoに住み付き、教会等からの委託を受け、多くの宗教画を残している。16世紀後半から17世紀にかけての画材の多くは宗教にかかわる物で、El Grecoの絵は宗教画8割、自画像1割、残りは肖像画などである。5年程前、Spainを一人旅したが、Toledoの入り組んだ路地の一角にはグレコの家と称する建物があり、これは20世紀に出来たもので、小さな美術館である。実際彼が何処に住んで居たのかは定かでない。彼の絵の多くはMadridのPrado美術館で展示され居り、その中の何点がこの特別展に来ている筈だ。彼の絵は極めて大胆で、全体に暗い感じがする中に、主体を光で浮き上がらせたような明るさが特徴では無いかと思える。大きいな部屋一杯に30点ほどの大きな絵の展示は圧倒されるほどであった。特別展であるので写真は一切禁止であったのは残念である。

ロダンの大小の彫刻が100点ほどある、大きな展示場を回ると、閉館を告げる係員の声がする。7時間余りの観賞はこれで終わりである。後2日でどれ程の物が見られるであろうか?

ロダンの展示室翌日は気温が下がり、雪が降る予報が出ている。傘を持って出かける。切符を買う時に昨日と同様な問いを受ける。2日目でもあるので、10ドルを払う。本当に金額は入館者が随意に決められるのだ。之なら近くを通った序に依ることも出来、老人の特権である。この様に芸術に観賞に関し、配慮をしている国は他にもある。ブラジルのサンパウロの国立美術館は誰もが無料で入れる。国民に芸術を開放しているのである。我が国もモットこの点に金を使うべきだ。碌な住民還元もせずに、GDPの246%(最近の米紙による、GDP比世界最大の借金大国)財政赤字を作った政治家、歴代政府には責任感も恥の観念も無いのだろうか?

ヨーロッパの近代画を見る。ゴッホに興味があったので、先ず見る。自画像を含め10点ほどの展示がある。フランスのアルルにある跳ね橋の絵の現場は今もそのままに保存されており、数年舞に訪れているので、絵も見たいと思って居たが、これは無かった。バンダイクやルーベンスの絵も各々20−30点ある。これ等の絵は全体が黒く、重々しい感じがする。

Degaの踊り子 ゴッホ自画像

フランスの画家の展示が多い。Dega等は絵だけでも100点は超えるであろう。彫刻もほぼ同数あり、之だけの物が一か所に集められているのに驚かされる。踊り子を描いたものが多いが、繊細に描かれた衣装、絵から飛び出しそうな躍動感ある描写が素晴らしい。Degaは彫刻を通し、体の動きを実によく良く観察、理解していたに違いない。

続いて多いのはセザンヌ、ルノアール、モネ、マチス、ピッサロ、マネ、コロ、ミレー、ゴーギャン、ロートレック、ラトール、ドラクロア等などの絵が何十点も展示されている。之だけの物がT堂に集められて居るのは正に驚異だ。イタリヤやスペインの絵も見たかったが見る暇は無かった。

結構真面目に一日中歩き回ると疲れるが、コーヒーにケーキを昼飯代わりにして見て回る。何しろ広いのだ。館内には食堂やカフェが幾つもあるが、ユックリ座って喰っている場合ではない。外は雪が降っており、既に一面の白と成って居る。

旧帝国ホテルの水瓶カフェに立ち寄った際、アメリカ広場に行く。大きな吹き抜けの空間で、沢山の彫像が並ぶ。NYの古いガス灯も一対展示されており、片隅には1968年に解体された旧帝国ホテルの正面にあった水鉢が展示されている。火山岩で出来た直径1m程の甕であるが、こんな物も博物館入りするのである。

退館の勧告を受け、出口に向かう。

1月6日、今日がNY最後の日だ。趣を変えて東洋の美術品を見ることにする。圧倒的に中国の展示品が多い。それらは、仏像、焼き物、書画、青銅製品などである。古い歴史と広がりの中で生み出された、芸術作品が多いのは当たり前であろう。漢詩の書画等は独自の領域を成し、素晴らしい物がある。書画や焼き物も我が国へはかの国から来たものである。日本では最初はそれらを模倣し,後にはそれらを凌ぐ独自の物に高め、他から模倣される様にも成った。之が文化の流れである。焼き物を見ていると、殆ど同じ図柄配色の皿と丼2対が目に入る。左側には日本製であり右側は英国製とある。更に左にはもう1対があり、之が大元の中国製であることが分かる。技術も文化も最初は模倣、模写から始まり、やがて独自の境地に至る物では無かろうか?

仏像、Pakistan仏像を見ていると面白いことに気付く。同じ釈迦の像でも地域、国によりその容貌は大いに異なる。中国や日本のものは良く似ているが、アジアの西アフガニスタン、パキスタン、南のベトナム等の釈迦の顔や髪形は明らかに異なる。其々そこに住む人の容貌に近い物と成って居るのであろう。

仏教発祥の地、インドの仏像は如何か? 理由は分からないが意外と少ない。僅か2−3体のみであった。その代りに多いのは女神等女性の像が多い。元々インドは多神教の国であり、色々の神が存在した。豊穣繁栄の象徴としての女神や、踊り子達の像は極めて肉感的であるのが印象に残る。

日本からの展示物は仏像、書画、焼き物、漆器の他、着物展が開かれていた。此処には多くのアメリカの年配の女性が訪れ、図柄が如何の、刺繍が如何のと可なり興味を持って見ている姿があった。日本熱は高い様だ。

最後のエジプト展を見る。大きな吹き抜けの空間に再現したTemple of Dendurは見応えがある。入り口に面して高さ3m程ある黒いSakhmet女神像が4体普通あるが、手前の1体は出張中の掲示が出ている。此処の展示物に限らず、絵画や彫刻等も東京と神戸の美術館に1月12日まで貸出中の掲示が彼方此方で見られた。

ナイルの流域からは30万年前に遡る土器や、石器がでており、これ等の展示もあるが、何と言っても見ものはその埋葬様式であろう。死体をミイラにし、幾重にも布で包み、更に人体を象った何重かの木棺に入れ、更に石室に入れて弔ったとされる、それらの現物が修復され幾つも展示されているのは圧巻である。元々エジプトの出土品であり、エジプト政府はこれ等の返還を求めているが、それらを修復、保存、展示の能力は不足している。我が国はギザのピラミッドの傍に新たな博物館の建設をしているが、返還品を全て適正管理するには十分とは思えない。人類の宝であるこれ等の展示品は此処やBritish Museumで機が整うまで今の状態で、管理展示するのが妥当と思える。カイロの国立博物館は狭く、ミイラの管理状態は酷いものであったことが忘れられない。

丸3日懸命に歩き回ったが、全体の3分の1程の空間を歩いたに過ぎない。それ程、この美術館は大きいのだ。暇を作って又来たいものだ。其れまでにはもっと勉強をして、、、。


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