P-12 2013年版 (平成25年編)
fc2web



バックナンバー

P-11 2012年版
以上fc2web P-8 2009年版 P-9 2010年版 P-10 2011年版
P-6 2007年版 P-7 2008年版  以下@nifty
P-1 2002年版 P-2 2003年版 P-3 2004年版 P-4 2005年版 P-5 2006年版 


プログラム P-12 2013年版(平成25年編)

13.11.12−29 New Zealand Trail Walk
Hawaii島探訪記(13.12.02−13)
13.07.29−08.16 Kungsleden
13.06.28−29Lapland 100K
13.06.07−08 Biel 100 キロ
13.05.07−13 Le Luc 6日間走

13.03.03 Copper Canyon 80 K


平成26年1月18日掲載

13.11.12−29 
New Zealand Trail Walk

写真をポイントすると説明が浮き出ます。

New Zealand(以下NZと省略する)には何時か又行きたいと何年か思ってきた。その理由は自然が美しい国であり、又2006年Atacamaを走った時、同じテントで6日間を過ごしたRobertとDavid兄弟がChristchurchに住んでおり、是非来いと言ってきていたからでる。どちらもAtacama Crossing,250Kmを完走しており、特にRobertはその年の総合優勝をしている優れたランナーである。ここ3−4年は毎年行こうと思っていたが、他にも行きたい所があり、実現できずに過ぎた。歳も取り、今年いけなければ、生涯行けないと思い、8月から本格的に計画を立て始めた。

NZ南島は行ったことが無く、地理、交通事情も全く分からず、如何計画を立てて良いのか分からず、兄弟に何処を歩いたら良いのか尋ねた。Robertから可なり強行軍と思える推奨行程が出てきたが、基本的には先ずこれに従う事に決める。NZには9つのGreat Walkと言うTrail(現地ではこれを英国同様Trackと呼んでいる)があり、その内3つを歩く事にしたのだ。何れも国立公園内にあり、その中の小屋も全て環境省の管轄で、事前の予約が必要である。其れに、各々は離れているので、渡りの交通も全部予約が必要であった。と言うのは、観光地間には一応の定期便はあるが、これは予め予約が有れば運行する時間だけが決まって居るのであり、誰からも予約がなければ、欠行となる。一人でも予約が有れば運行となる。この様な条件の中では予約をせざるを得ない。8月中に山小屋8泊と全ての足の予約を完了する。
11月12日夕刻Air New Zealandで成田を立ち、翌朝Christchurchの空港に着くと、打ち合わせ通り、Davidが迎えに出ていた。7年ぶりの再会である。町の中心部まで送って呉れ、その後自分の家に帰っていった。郊外の温室で花を育てるのが彼の仕事だ。荷物は彼の車に乗せて行き、夕方Robertの家で夕食の時、届けるという。夕食は自分の飼っている羊の肉は如何だと言うので、羊は大好物だと答える。夕方5時には市内の博物館前にRobertが迎えに来る手筈も整う。

11時頃から市内の散策をする。NZ西側からAustraliaを含むIndia Plate、東からは太平洋プレートに押され隆起して出来た島で、我が国同様地震国である、日本で大地震のあった同じ年の約半月前Christchurchは地震により200名近くの死者を出したことは記憶に新しい。町はやっと復旧工事が始まったばかりで、町の中心部を始め至る所で被害建物の撤去や補修の為、大型重機が動き、埃が多い。建設用のクレーンも彼方此方で見られる。倒壊を防ぐ為に鉄の櫓で支えている建物も多い。大聖堂もその一つで、復旧は困難を極めている様である。聞く所によると、町の大半の地盤は悪く、液状化により被害が大きくなったと言う。地盤を補強し、確りとした基礎を作るのは難しいとも聞く。町の大きな美術館も閉鎖されたままである。

 

人口36万余り、南島では最大の都市であるChristchurchは太平洋に面する平らな土地にあり、町の広がりは大きい様だ。市内には5階以上の建物は見られえない。地震による建築規制があるのであろう。町の博物館はイギリス風の建物で、損害は軽微であった様だ。入場は無料で可なりの内容がある。日本の浮世絵、美人画、役者絵等の展示がある。面白いのはNZと南極探検の関わりに関する展示である。南極に近いこともあり、関心が高かったのであろう。イギリス等と共同探検などにも参加していた様だ。車体が木製の雪上車も展示されていた。

博物館の横は広い植物園になっており、沢山の花が咲いている。ここ南半球の11月は、北では5月に相当する季節だ。Christchurchの緯度は高く、旭川とほぼ同じだが、この時期寒くは無い。天気は上々で、何もかにも綺麗に見える。公園の中には小川が流れ、水鳥が長閑に泳いでいる。人々も暖かい日差しを浴び、ベンチで寛いでいた。

町の商店街の方に行ってみる。翌々日からの歩きの為の食料、又電池の充電用のアダプターそれに燃料のガスを買う必要もあり、又多少のNZドルも必要だ。携行食としてはお湯を入れるだけで喰えるLamb肉の入った袋を3つ、インスタントラーメン5つ、トマト、リンゴ、パプリカ等を買う。ガスも飛行機での持ち運びは出来ないので、此方で買った。バーナーはDavidが夕方持ってきてくれる事になっている。

買い物を済ませ、博物館の前に戻るとRobertが既に来ていた。車で郊外の彼の家に行く。15分位で着いたが、新興住宅地の中の新しく大きな家だ。RobertもDavidも50近くになるが、独身で過ごしている。中に入ると更に大きさを感じる。10畳余りの部屋が今夜の寝室で隣は大きな浴室となっている。これも僕専用だ。Dining Kitchenも広く,30畳は裕にある感じだ。立派な無垢のテーブルと揃いの椅子が6脚あり、これらはDavidが作った物だそうだ。更にやや小さな応接間風の部屋があり、綺麗な写真で飾られていた。僕も持って来た北斎の富士36景の一枚も何れ額に入れて何処かの壁に落付くのであろう。

北斎の絵は、何かお土産に欲しいものは無いかと、訊くと日本の山の絵が良いと言ってきた為だ。適当な絵を選ぶのは難しく、富士山が世界遺産に選ばれた年でもあるので、手軽に手に入る北斎に決め、異なる絵を一枚ずつ兄弟に渡すことにしていた。絵は一枚8000円で手頃な値段である。気に入って呉れると有り難い。

暗くなる頃、彼らの両親が遣ってきた。次いでDavidが料理したLamb肉を持って来て、夕食が始まる。他にはRobertが用意した果物サラダとパンで、健康食だ。食後は各々帰って行き、僕は早めに寝ることにした。明日はDavidが最初のTrackの入り口まで僕を送る為に、6時に迎えに来るという。

11月13日、北西に向かって進む。最初は平地であるが、段々と上りとなる。農耕地帯であり、広大な農地が広がる。或る間隔毎に直線の防風林がある。平地で遮る物がなく、風が強い所なのであろう。上りになると曲がりも多くなる。川や湖の或る所では霧が出始める。羊や牛の放牧が多くなる。Davidによると、羊から牛に変えている農家が増えているそうだ。経済的な理由で、牛の方が実入りが良いのであろう。軈てArther’s Pass国立公園を横切り73号線は伸びる。雪のある険しい山もあり、美しい景色がつづく。途中で下り、Devils Punchbowl(悪魔の酒壺)と呼ばれる滝迄往復する。30メートル程の立派な滝である、途中の道は良く維持管理されていた。傾斜のキツイ道であり、途中に何か所か砂利が置かれていた。ヘリにより輸送されており、道が悪くなるとそれらを使い直ぐに直しているのだという。又車を止めた近くの鉄塔の基礎の上に体長30cm程のこの国固有のオウムの仲間が居り、人を恐れることは無い。Davidによると頭が良く,嘴が丈夫で、好奇心が強いので、車のワイパー等は格好の遊び器具として簡単に外して仕舞うので、困る人もいるという。

 国立公園Arther‘s Passの中を1時間程進む。峠を越え更に1時間ほどで西の海岸にでる。見ている海はタスマン海である。海岸線に沿いに北上し、Greymouthの町を過ぎ1時間ほどでPaparoa国立公園に着く。300平方Kmを超える大きな公園であり、海岸から内陸産地に広がっている。我々が行ったのは海岸の一部でPunakaikiと呼ばれるカルスト地帯である。Pancakeと呼ばれる薄焼きのパンを重ねた様な石灰岩が見事な所である。これ等の岩石が連なる海岸は浸食で大きく抉られ奇観を呈している。石灰岩は長い間に水で溶け、この辺りには大きな鍾乳洞も幾つかあると言うがそれらを訪れる暇はない。この様に見事にPancake状に見える広範な石灰岩を見るのは初めてである。

 更に車を進め、暫く行った所で又止まり、川に沿って歩いて見ようとDavidが言うので、30分程上流に歩く。名前は忘れたがこの国特有な椰子の木が多く茂る森の中を歩き、分岐点で折り返す。帰りに川面を見ると長いものが水中で泳いでいる。Davidが鰻だと言う。一メートル以上はある大きなものだ。大小は別にして、自然の中で泳いでいる鰻を見るのは初めてだ。犬も歩けば棒に当たるのだ。棒でも何でも当たって体験しておくことが大事なのだ。歩かなければ何にも当たらない。Pancake状石灰岩も鰻も歩いているから出会えた初物である。

 空は曇り出す。海岸沿いに更に北上、West Portから内陸に向かい、曲りの多い谷合の道を走り、Murchisonの町を過ぎ、更に北東に車を進める。途中ホップの栽培地や葡萄の産地を通り過ぎる。小雨が降りだす。薄暗くなる頃、大きな干潟となっている湾に辿り着く。湾を回り込んだ先がMarahauの集落で僕が今日泊まる町である。

 朝からの走行距離は500キロ程になっているに違いない。Davidは近くの町の叔父の家に泊まり、明日自宅に戻ると言って、僕の泊まるBackpacker Hostelで分かれる。友達のお蔭で部分的にではあるが国立公園を2つ見ることが出来、感謝に絶えない。持つべきものは良き友なり。 

 11月14日、今日からは自分一人で予め決められた行程を消化しなければならない。通常の一日分の行程を熟すのは簡単に出来る。問題は2日分の行程を消化しなければならない日が二回あることだ。その内一回は渡りの交通機関を利用して、消化する日で時間的な間違いは許されない。

 今日の行程は12.4キロで全く問題は無い。高低差も上り下り各々200m程だ。8時に宿を出て海岸沿いの車道を歩く。500m程で車道は終わり、橋を渡る。行く先とその距離、所要時間が書いた看板が立っている。時間は粗時速3キロで計算している。其処から先がAbel Tasman国立公園なのであろう。名前の由来は17世紀中葉、当時海洋大国であったオランダの航海者、Abel J.Tasmanに由来する。彼の名を冠するタスマニアやN Z,Fijiなどに最初に辿り着いたヨロッパ人で、これはCapt.Cookより100年以上早い。

先ずこの国立公園の位置を示しておきたい。南島の北西には大きな半島があり2つあり、その東側半島の中ほどにある。緯度的には宇都宮とほぼ同じ位置にある。この国立公園の西側は山岳地帯で、北西にはKahurangi国立公園がある。この国は至る所が国立公園の様だ。

幅1−1.5m程の整備された遊歩道が続く。砂を固めた地表で歩き易い。目につくのは大きなシダ類で、高さは3−4mある。又雄は頭部に冠の様な羽のあるハトより小さな鳥が、あちこちで番で歩いている。道は海岸沿いであったり、100m程上の山の中腹だったりし、若干の上り下りがある。上から眺める海の眺めも素晴らしく、流石国立公園である。見えている海はタスマン湾でその中には無数の小さな湾がある。上から見る海は青く綺麗だ。浜ではカヌーを楽しんでいる人もいる。途中にはいくつかのキャンプ場があり、又横道もある。広い国立公園なので、山の方にも景勝の地があるのであろう。

 天気も良く、気温は20度程度、快調に歩き、3時間足らずでAnchorageの小屋に着く。未だ誰も来ている人は居ない。小屋は常時開いており、何時でも入れ、好きなベッドを選ぶことが出来る。浜辺の小屋で真新しい。その筈である。調べてみると粗1っか月前に公開されたばかりでることが分かる。

 小屋には大きな共有空間があり、調理台がある。Abel Tasmanの小屋にはガスや電気による調理器具は無く、各自用意したバーナー等で煮炊きをする。水は其のままでは飲めない小屋が殆どだったと聞いているが、最近の小屋は処理設備を備えており、沸騰させずに飲めるようになっている。小屋には一部を除き、照明は全く無い。トイレは水洗で綺麗である。ベッドは2段の物が多く、部屋の大きさも4に人ぐらいから、8,10,20人程の大きなものもある。小屋によっては同一平面にマットを敷き詰めて隣との間隔が全くとれない部屋もある。この様な部屋では出入りするのが大変であるが、僕は何時も早く着くので単独のベッドで寝ることが出来た。マットの大きさは1x2m程である。枕は付いて居らず、これは寝袋の袋に余分な衣類を詰め込んで代用出来る。宿泊料はルート別に決まって居り、このルート上の小屋は32ドル、後で歩く2つのルートは54ドルであった。後者の小屋は全て、LPG調理台が付いていた。価格の差はこれだけでなく、建設費の大小にもよるのであろう。小屋の収容能力は30−50人である。8泊した中で、満杯に近い小屋は2つ、2人しかいない小屋もあった。日により、場所により、バラつきがあるようだ。

 荷物を置き、昼食を済ませ浜にでる。Anchorage湾は大きく遠浅である。小屋の前には右から突き出した長い砂州が横たわる。潮が引くとこの砂州まであるいて行ける。更にその先も干潟が広がる。後で分かったことであるが、一体に島の東側は遠浅の海が多く、幅1−2キロの干潟は何処にでもある。
砂の色は白くやや茶色を帯びている。誰もいない砂浜を歩き回る。引き潮であり波も穏やかだ。砂浜に横になると日差しが柔らかで心地いい。一昨日は夜行便の為、寝不足が残っており、いつの間にか寝込んでいた。

 6時過ぎに小屋の管理者(Warden)も兼ねている森林官(Ranger)が遣ってきて、周りの説明をしたり、宿泊者から切符を徴収する。僕はInternet予約なので、その番号を告げるだけである。日没は8時過ぎと遅いが、暗くならない前に食事をして寝てしまう。

11月15日、昨日よりやや短い12.1Km,起伏の条件もほぼ同等の道を歩く。8時5分に小屋を出て海に沿って歩く。直ぐに砂浜に入っていく。道は消えているが、入り口と出口には橙色の表示があるのでそれに従って歩けばいい。砂浜は足がとられ歩きにくい。其れに、波打ち際に向かって傾斜している。濡れた砂浜の方が歩きやすいかと思って行ってみ居ると、波が打ち寄せ、靴が濡れそうだ。靴に砂が入らない様にユックリと歩く。急ぎの旅ではないのでよかろう。この辺りはTorrent(激流) Bayと呼ばれているが、今はその様な気配は微塵も感じさせない静かな海だ。1キロ程で遊歩道に戻ると上り坂だ。海から3−4キロ内陸の山中を歩く。複雑な地形の土地で、海が複雑に入り込んできている。海の色は場所により、コバルトや翡翠の色をしており綺麗だ。其れに陸地の緑の組み合わせが実に良い。あちらこちらに白浜が見え人の姿も見える。カヌーで遣ってきて、浜に上がる人もいる。長いつり橋を渡り、坂を下っていくと今日の終点Bark(咆哮) Bayである。ユックリ歩いたが11時25分には着いてしまった。

 

 この入り江はAnchorageより遥かに小さく、静かだ。何故Barkの名が付いたのか分からない。静かな海も時としては牙をむく荒海になるのであろう。左手の方から川が流れ込む河口でもある。ここも潮が引くと広大な干潟となる所である。潮が引き歩いてみると,所により見られる貝の種類が異なる。干潟となる時間の違いや、真水の影響なのであろうか?アサリの様な貝が沢山いるが食する人は居ないのであろうか?

11月16日、24.4キロ歩く日である。距離の他に更に厄介な条件が加わる。潮の干満である。コースの内には2か所干潮時でなければ通れない所があるのだ。然もその場所は5キロ程離れた所にあり、この渡りの時間も計算し、如何に早く最終目的地に着けるかを考えなければ成らない。幸いなことに出発後5キロ程先にある最初の干潮越え(Tidal Crossing)は明日早朝5時に橋の開通式があり、その後は何時でも渡れるので、これに関しては考えなくても良い。夕方森林官に干潮の時間と渡る時の注意事項を訊き、その時初めて知ったのは最初の所には橋が出来ており、明朝式典のあと開通することであった。注意事項としてはあくまでも,潮に合わせて歩く事だという。潮時が肝心なのだ。

僕は運の良い男だ。開闢以来この地に架かる橋を初めての橋を渡る日本人なのだ。次の潮越え、こんな日本語は無いかもしれないが、は宿から12キロ先である。この地点に何時に着けば一番早い時間に潮越えが出来るかを考えれば良い。干潮は4時半その前後2時間であれば潮越えが出来るという。距離と起伏条件を考慮して、11時に出発する。早く着いても潮待ち時間が長くなるだけだ。

小屋を出て直ぐに上りだす。大きなシダや種類の多い藻の茂る道を暫く歩く。徐々に下り出し、砂浜にでる。砂浜の端まで行くと海に突き当たり進めない。戻ると右に足跡が付いている。足跡を追い歩いていくと直ぐ新しい木橋が目につく。橋の両側には模様のはいった櫂が立っている。マオリの模様を入れた櫂であろう。今朝早くここで伝統に則った開通式があったのであろう。橋は1.5m程の幅の立派なものだ。最初の日本人としてこの橋を渡れる幸運を感じながら渡る。その先も木道で繋がっており右手に曲がって道に繋がって行く。先ほど僕の歩いた砂浜の先端の延長線は丁度この辺りだ。橋が架かる以前はここを渡っていたに違いない。200−300メートルの幅である。

その先はまた昇りとなり、山の中の道を歩く。途中反対側から来る人のグループに会う。余りに人には合わないが、時として単独、2人連れ、数人のグループに出会う。先ほどの砂浜では子供連れのタスマニアの夫婦にであった。

 地図によると海からは数キロ入った内陸を歩いている。下りに掛るまで長く感じられた。下ると浜となり、自信は持てないが、浜に沿って歩く。空は曇り出し、水鳥の群れが寒そうに砂浜に一本足で立っていた。途中に民家があり、そこで道を確かめ、Awaroa小屋に着く。2時少し前であった。中に入ってみるが誰もいない。ここが渡りの場所であるが、一面の海である。対岸までは1キロはありそうだ。時未だ至らず。待つ他無い。小屋の野外のテーブルに腰掛け、昼飯をゆっくり喰う。管理人の小屋は別棟になっているが誰もいない。薄日が差出し、ぼんやりと海を眺め時の過ぎるのを待つ。

森林官が来て、干潮時に近い程条件が良くなるので、焦らずに待つ様にという。対岸には何人かの姿が見え、その内の2−3人が此方に向かって歩き出している。此方から見ていると腰まで水に浸かっている様に見える。彼らは右に左に大きく蛇行しながら此方に向かってくる。深い所を避けて進んでいるに違いない。その内に此方側でも潮を引いていくのが分かるようになり、段々干潟が広がっていく。対岸からの人に、様子を訊いてみる。オーストリアの人達であった。腰から上は濡れて居らず、今なら膝位に成っているだろうという。

3時40分意を決して、ズボンと靴を脱ぎ、足の保護の為靴下は2枚履いたまま歩き出す。干潟には貝殻が多く、足を切ることがある。最初の内は一直線に干潟を歩いて行けたが、残り300m程の所は左手から川が流れ、引き潮時流れは速い。膝程までであるが、転ばぬように足の置き場を選び慎重に進む。漸く渡り終えると、ズボンと靴を履くのに手間取る。泥を洗う真水を探し、其の傍で着替えをする必要がある。

適当な所が中々見当たらない。小さな蚋に似た虫が多く刺されて痒い。何とか用意が出来歩き出した時は4時20分を過ぎていた。この先10キロ余りあり、起伏もある。海岸線に沿って黙々と歩く。陸側の道は彼方此方で地滑りが起きており、立木と共に崩れて居る所が幾つもある。木の無くなった斜面には決まって咲いている花があり、ピンクが多く、白もある。綺麗な花で、日影が無くなくなると即時芽を出し花を咲かせるのであろう。砂浜にも何回も降り、足を取られながら歩く。

大きなキャンプ場のあるTotaranuiに着いたのは5時半であった。ここは西側から車で来ることが出来、大きく綺麗な砂浜があることから沢山の人が居る。場内は広く舗装道路が通っている。ここで道に迷って暫しウロウロする。人は居るが道の分かる人は居ない。皆よそ者なのだ。焦って見てもしょうがない。原点に戻ることだ。管理棟まで戻り、そこの分岐を確かめる。左手に折れる道があり其方に矢印が付いている。先ほどは直進して道に迷ったのだ。

其方へ歩き、キャンプ場の外に出る。道はダートと成るが、未だ車は通れる。更に進んでいくとY字路となり右手には鎖が掛っており、進入禁止だ。見るとその横に人が頻繁に出入りしている跡がはっきりと付いている。如何やら車は駄目だが人は良いようだ。地図の方向はこちらで、左手は別の観光地となる。自信は無いが柵の横を通りぬけて、右手の道を進む。その先暫く放牧地の様な所を通り、何となく今まで歩いてきた道の感じの道となる。未だ確信は持てないがそのまま進む。もう会う人も訊く人もいない。全てを自分で解決しなければならない時間となっている。歩いている所は内陸で、地図上もそうではある。30分程歩き、下りだす。Anapai Bayの表示が出てきて、ほっとする。先ほどの選択は正しかったのだ。後は一本道に成る筈で、この先の分岐で間違わなければ、1時間半程で最終目的地に着ける筈だ。

又坂を上り森の中を暫く歩くとまた浜に降りる。Mutton Coveと言う小さな入り江の砂浜を歩き、又上りだす。先ほどよりは大きな上りで、300m程上り40−50分あるくと漸く下りとなる。草で道が見えない所あり、雨水で深い溝の出来る所もあり歩き難い。今までにない悪路だ。用心しながら下って行く。海面からそう高くない所を左手に見て歩いていると、今度は水の溜まっている道となる。水の無い所を探して進む。左手は大木の松が生えており、その向こうは砂浜だ。砂浜を歩いた方が良いかもしれないと考えている内、道はよくなる。真っ直ぐ進んでいくと、建物が正面に見えてくる。今日の小屋に違いない。

8時近くに成っており、明るいが陽は西側の山の影に落ちていた。小屋の名はここの地名のWhariwhangiである。NZの地名は雑駁に言えば英名が3分の2、残りはMaori語の様である。日本語を含む他の太平洋諸地域の言語に共通な特徴はその音韻である。子音と母音の組み合わせが基礎となっており、発音はし易いのであるが、意味が全く分からないので読むことは出来るが、覚えて置くことは中々難しい。

小屋は2階建てで可なり古いようだ。中に入ってみると誰も居ない。入り口の左に4人部屋があるので、其処に決める。奥にも部屋があり、2階にも部屋がある。早速夕食の準備をしていると、森林官が遣ってきて、未だ後続が来るかどうかと訊いてくる。多分もう僕の来た方向からは来ないのではないかと答える。結局この日は先に着き、2階に陣取りをしていたAustraliaからきている30前後の女性と僕だけであった。
夕食の後は寝るだけである。森林官と女性はストーブを囲み、蝋燭の灯りの下何やら話し合っていた。

11月18日、今日は身体的には楽な日だ。歩く距離は7.5キロ、昨日迷った大キャンプ場、Totaranui迄である。其処の浜に1時40分に着けば良いので、11時過ぎに出かければ十分であろう。同じ道を引き返すので、道に迷う心配は先ずない。

1時に着き、場内一切を取り仕切っている環境省の案内所の野外テーブルに座り昼食をとる。船の予約の指示書にはこの事務所の前の浜に1時40分に出て待つ様にとある。浜には乗船用の突堤など一切ない。如何して乗るのであろうか?船の出向は45分であるが、50分になっても船の影すら見えない。ひょっとしたらとの懸念が胸を過ったが,程なく小舟が白波を上げて本来向うべき方向から遣ってくるのが見える。あの船が折り返す船であれば問題は無い。船が砂浜に船尾を向けて停泊し、降りてきた男が手招きで呼んでいる。

あそこで乗るのでは靴を脱がねばならない。流木に腰を下ろし、靴を脱ぎ裸足に成って水際に向かい、乗り込んだ。有料の船でこんな乗り方をしたのは初めてだ。船は15人乗りで、年配の夫婦が2組乗っていた。直ぐに水しぶきを上げ南を目指す。Marahauまでは僕の歩いた道では約30キロ、早い船でも1時間はかかる距離だ。途中の浜でも客が乗り込み、又船尾にはカヌーも積み込む。カヌーはレンタルで必要は浜に届け、又回収している様だ。国立公園は歩くだけでなく、色々な楽しみ方があり、又その手段も手際よく提供されている様だ。人口とほぼ同数の観光客が毎年訪れるNZならでは手際の良さだ。

彼方此方1時間も過ぎた頃空が暗くなり、俄か雨が降り出し、雷もなる。左手を見ろと船長が指さす。2人乗りのカヌーが必死に漕いでいる。よく見るとその周りを大きなイルカがポンポン飛んでいる。イルカの群れに遅れまいと懸命に漕いでいたのである。大きなイルカで4−5mあるという。200頭程の大きな群れで、船長も愛嬌でこの群れに合わせて船を進める。雨の中とは言え思いもよらぬ光景を身近に見られたのは幸運という他ない。目的地が近くなり、イルカの群れと離れ船は右の陸地に向う。

 

3時を過ぎ潮も大分引いている。Marahauの部落は遥か干潟の彼方にある。如何してあそこまで行くのだろう。歩けと言うことは無いだろうと思っていると、大きなトラクターが此方に近づいてくる。如何やら台車を引いている様である。見ていると台車を後ろ向きに海の中に入れ、そこに船を乗り込ませ、固定して陸に向かう。そのまま、干潟を1キロ程走り、陸の路上に上がり集落の中心部の案内所まで走り客を下ろした。ここから僕の乗るバスがでることになっている。船はWater Taxi、バスはTracknetと言う別々な企業で遣っているが、全てが利用者に便利な様に配慮されている。
雨は小雨となっており、外を歩く事も可能であるが、案内所の椅子に腰かけバスの来るのを待つ。4時定刻通りにバスが来る。大型のバスで、客は半分程度だ。向かう先はNelsonである。バスが走り出しほどなくすると又雨が激しくなる。

NelsonはNZの南島の北で北西と北東に突き出ている大きな半島の付け根の部分に位置する。タスマン湾の南端である。バスは海岸線に沿い頻繁に曲がり、又上り下りを繰り返し、南を目指す。時にはハラハラする様な所を通る。この辺りの道は日本とよく似ている。左手は海であるが、干潮の時間でどこの海岸も干潟が何キロも先まで続く。干潟の総面積はどのぐらいになるであろうか、想像も付かない。

1時間程走りNelsonに近づく頃、雨は止み、陽も出てくる。バスは客を其々のホテルまで送って呉れて便利である。若干高くてもこの方が客の時間の節約分考えると安上がりであろう。

予約していたBackpackerはPrince Albertと立派な名前が付いて居り、建物も立派である。中に入ると、大きなバーとレストランがある。鍵を貰い、部屋に落ち着く。6人部屋でほぼ満員、女性が大半だ。NZの山小屋もそうであるが、欧米ではMixed Dormと称して男女同じ部屋に泊まるのが極当たり前になっている。

 

レストランで魚料理を食べ、ワインを飲む。17ドル(NZドルは約85円)。次いで暫くぶりにメールを見る。驚きのメールが入っている。Tracknetからだ。内容は20日の”Queenstwon-Te Anauの第一便は取り消し。料金の返還は無し。”である。金は8月に払っており、一方的に取り消し、返金無しとは許しがたい。この便が無くなれば、その後2つの行程は踏めなくなる。予約した全て小屋は使えなくなる。それとその先の同じTracknetに払った交通費も無に帰し事になる。”断じて受け入れがたい”と抗議の返事を送るが。それ以上の事は何もできない。

陽が沈むまでの短い時間市内の散策をする。宿は市の中心部にあり何に付け便利だ。通りは広く、街路樹も立派な町だ。高い建物は丘の上に立つ教会位で、後は精々3階建てである。威圧感の少ない、静かな町で、住みたくなる様な町だ。英国の英雄Nelson提督の名を冠した町はNZで2番目に古い町(1841)で、人口は5万弱である。

11月19日、航空券のコピーを紛失し、出発時間が定かでなかったので、朝食後タクシー(25ドル)で飛行場に行く。予約していた便は9時40分、もう少し遅ければ乗り遅れる所であり、ホットする。Queenstownに向かう便は100人程のプロペラ機だ。飛び立って気が付いたが、飛行機は北に向かって飛んでいる。Queenstownは南なので南に飛ぶものと思って居たが、Wellington経由の便であった。Wellingtonは北島の最南端に近い町で、NZの首都である。ここで乗り換えQueenstownに昼過ぎに着いた。空港の傍には雪のある険しい山が聳える。町の中心地までのバスは8ドルである。降りて先ず、バスの発着所に行き、メールの内容を確認する。掛りの女性は電話で確認を取って、明日の朝は通常通り運行するという。ではあのメールは何だったのか?冗談にしてはキツ過ぎる。走れば問題は無いので、再度念を押して確認し、宿に向かう。

今度の宿もBackpackerで5人部屋である。荷物を置き、町の様子を見に行く。町は氷河の作った南北80キロあるWakatipu湖のほぼ南端の東に広がる16000人の観光の町である。湖には色々の観光船が行き交い、水上スポーツの船も見かける。船が傘状の布を引きその浮力を利用し、人が湖上に舞い上がったりしている。町にはレストランやスポーツ用品店も多い。スーパーもあり、明日以降3日分の携行食を買う。

ラーメン5食(1パック)、チーズ、サラミソーセージ、リンゴ、トマト、パプリカ等調理が簡単か生で食べられる物をかう。宿に戻り、カメラのバッテリーの充電をする。この先1週間充電は出来ないからだ。

11月20、問題の日だ。果たしてバスは本当に出るのか? 7時10分前にバス停に行ってみると、バスが停まっている。やれやれである。大型のバスで半分位乗っており,直ぐに出発する。空港の方向に向かって走り出し、そのまま南の方向に走る。道はカーブと上り下りが多い。NZの速度規制は面白い。町中は50、郊外は80とか100が一般的であるが、この他カーブ規制がある。カーブの程度により35−75までと5の付いた数字が多い。見ていると大体これに近い速度で運転している。

40分程走ると両側が開けた放牧地帯にでる。羊が多く、牛も彼方此方に見られる。稀には鹿もみる。後で聞いた話であるが、これ等の鹿は肉として西独に輸出されている。1960年辺りから盛んになり、100頭規模で鹿が草を食む様は壮観である。写真を撮ろうとすると、カメラが作動しない。電池が入っていないのだ。昨夜の宿で充電したまま置いてきてしまったのだ。何とドジな事をしたことかと思っても、後の祭りである。これから歩く、2つのルートの写真は諦めざるを得ない。

その後間もなくバスは進路を西にとり、Te Anauに向かう。1時間ほどで、Te Anauの環境省案内所につく。湖に面した大きな緑地の中にあり、ゆとりを感じる。

Te Anau湖は琵琶湖の半分ほどであるが、最深部は420mを超え、貯水量では豪州一の大湖である。氷河が作った湖で南北に約60キロ、西側に3本、20−30キロ突き出した部分がある複雑な形をした湖である。その南端にTe Anauの町があり、この辺りの観光の拠点となっている。

小型のバスに乗り、山道の入り口、Te Anau Control Gateに着いたのは10時少し前であった。町からは5キロの所で、駐車場、トイレ、屋根の付いた無人休憩所がある。車が何台か停まったおり、ここまで車で来て歩き出すのが此方の遣り方なのであろう。砂利道を進むと、案内板が出ている。これから歩く道はKepler Trackと呼ばれ、完全はLoopとなっており、右周り左回りどちらでも出来る。Robertが右回りの景色が良いと言うので、看板の所の左手の道を入っていく。天気は快晴で気温は20度程、歩きには申し分のない天気だ。

今日の行程はMotorau小屋までの15.5キロ、高低差は殆ど無く、無理しなくとも4時間もあれば歩ける筈だ。10時5分に歩き出す。暫く行くと、なぜここをControl Gateと言うのかが分かる。湖面の位置が210mあるTe Anau湖から更に低いAnapouri湖は川で繋がって居り、この川の水量を制御する為の水門が設けられており、これがControl Gateだ。道は左手に曲がりこの川沿いに続き、森の中に入っていく。樺を主体とした原始林で、その下にはシダ類や幾種類もの藻が生えている森の中を進む。道幅1m程でよく整備されている。

Chain Sawの大鋸屑に色も形状も良く似た物が道を覆っている。僕はこれは樺の花ビラだと思って居たが、後で調べてみると如何も落ち葉らしい。此方の樺は常緑樹で冬でも全部葉を落とすことは無いという。僕は今まで広葉樹の多くは全て冬には落葉するものと思って居た。我が国では北に多い樺は落樹であり、そうでは無い物があるのを初めて知った。NZの樺は日本の樺とはDNA的には遠いとされている。通年何がしかの葉を落とし、入れ替えを行っており、特に11月には大量の葉を落とすことを知った。これらの資料や図書は小屋に備えてあり、又森林官に訊くことが出来る。NZの樺は3種類あり、目通し直径が80cmになるのに100−120年を掛け、ゆっくりと育つ。樹高は30mに達する。 

2時間程歩くとRainbow Ranch Swingbridgeの表示があり、左への分岐がある。川の右岸を歩いており、その川にかかる橋であろう。

鳥の声が彼方此方から聞こえるが、姿を見かける事はない。大きな木の下で灰色の産毛の幼鳥がもがきながら歩いている。巣から落ちたのであろう。如何することも出来ない。暫く見て立ち去る。100m程で、反対方向から来た男女が居たのでそのことを話す。何とか助ける方法は無いだろうか? 女の方は人間の匂いの付いた雛を親は育てないという。巣に戻すことは木の高さを考えれば、論外だ。保護センターなどは無いだろうか?と聞いてみる。彼らは町に直ぐ戻るので、この可能性はある。小鳥が見つかるかどうかに掛るが、考えようと言って去って行った。小鳥のその後の運命やいかに?その後1時間半歩き、湖を見下ろす小屋に着く。1時15分であった。

好きなベッドを選ぶ。より取り見取りである。全部開いている。これはベッドにマットを立てた状態にしてあるのでわかる。利用者は出ていく時、マットを立てていくのである。臭気や衛生上の為にそうしている様だ。
お湯を沸かし、食事をする。これから先の小屋はガス台が対いている。小屋には色々な案内があるが、その中に岸の流木はよい燃料と書いてある。拾ってきてストーブをたく。夕方になると寒くなり、夜はかなりの雨が降る。

11月21日、Iris Burn小屋までの16.2キロでなだらかに300m程上る行程だ。
楽な行程なので、出発は10時20分にする。今日も天気はよさそうだ。
昨日は蛇行する川に沿って大半を歩き、最後3キロ程を山の中、その後1キロ程はMarapouri湖に沿った道を歩いた。

湖には島が幾つかあるが、霧で見え隠れしている。3キロ程湖を左手に見て歩き、その後は湖に流れ込む川に上流に向かって歩く。川は急流で彼方此方で氾濫の跡がある。道が大きく流されている所もあるが、これ等は何れも復旧されており、歩くには支障はなかった。

NZは現在世界で最も隆起の激しい所であり、島の西側に連なる山脈は何れも急峻である。その上降雨量が3000ミリ、場所により7000ミリとなる。地滑り、崖崩れの条件は揃っている。山道の途中には特に大きな地滑りのあった表示が出ている。広範な地滑りの跡には大木は薙ぎ倒され、幼木が背丈程になっている所もあり、自然の破壊力と再生力を見ることが出来る。

3時間程森の中を歩くと突然草だけしか生えていない所にでる。地盤の状態が木の生育に適さないのであろう。何か氷河の削った地形の様で、左手前方には滝が見える。可なり高い滝で、流れ落ちる岩に当たり、飛沫となって飛び散り、真下には到達していない。飛沫はこちらに飛んでおり、何れは先ほどまで辿ってきた川に落ちるのであろう。この様な滝は映像では見たことがある。EcuadorのAngel Fallsである。遠くからではあるが、実物をみるのは初めてだ。これを見る為にRobertは時計回りのコースを勧めてくれたのだと思う。途中で森林官に会い挨拶をする。夕方に又会おうと言うので、小屋の管理もしているのであろう。

再び森に入り暫くするとIris Burnに着く。Burnとはスコットランド語で小川を意味し、近くに川があるに違いない。小屋の前は草地が広がっているが、如何やら湿地の様だ。その先には雪を抱いた険しい山が左右に見える。

7時ごろ森林官が来て、この辺りの事を説明してくれる。Kiwiの話が出る。KiwiはNZの固有種で国鳥でもある。NZは自らをKiwiと称し、Australia人を時としてはKangarooと呼んでいる。日本でキーウイといえば通常果物を指すが,あちらではKiwi fruitといっている。この鳥は天敵がいなかった為、飛ぶ必要が無く、羽は退化して飛べない鳥である。夜行性で昼は木や石の洞に潜んでいて、夜間に捕食する。視力は殆どなく、嘴の先端に付いた鼻孔の鋭い嗅覚により土中のミミズや昆虫、果物を探し食する。子育ては専ら雄の役で、抱卵も雄がする。雌は卵を産むだけだ。人が持ち込んだ猫、テン、イタチ、その他の肉食外来種の繁殖増大により、絶滅の心配があり、環境省はそれら外来種の駆除に力を入れている。この為の罠が、道の彼方此方に仕掛けられている。罠は両側に入り口があり、真ん中に餌の鶏卵が見られた。これ等は木に番号の付いた小さな3角形のプラスチックプレートを取り付けて、その所在を示している。歩いていると、100−200m毎にこれが見られる。NZの固有哺乳動物は蝙蝠のみで、これの保護にも大きな努力が払われている。又生態系の崩壊は外来肉食動物に限った物ではなく、狩猟の目的で持ち込んだ鹿も繁殖し過ぎて、森の幼木や下生えが全く無くなった森も現れ、その対策に追われた時代もあった。又、貨物に紛れ込んだネズミの対策にも手を焼いている。

録音したKiwiの鳴き声を聞かせてくれ、夜中に声が聞こえるかもしれないという。雄は甲高い声で繰り返して鳴き、雌は野太くがさついた鳴き声だ。雄雌の鳴き声が普通の動物と反対なのも面白い。朝方目が覚めた時、雄の声は何回か聞こえたが雌の声は聞くことが無かった。

11月22日、初めて1000mを超え樹林帯の上を歩く日だ。距離は14.6キロ、上り下りの合計は各々1600m、500m程になる。諸条件を考え、8時に出発する。

歩き始めて暫く行くと、九十九折れの上りが続く。ややきつい所もあるが、何ということは無い。道はよく整備せれており、楽しく歩ける。森林官の話では1300m辺りは尾根となっており、風が強い時は160−200Kmとなる。風の表示は日本では秒速何メートルで表しているが、欧米では車と同じように時速で表す。160kmの風は相当強く、歩行困難であることは想像がつく。まして、尾根上であれば身の危険を感じる筈だ。幸い今日は風は穏やかなので、心配は無い。

樹林帯の上にでると剥き出しの岩とちらほらと草や低木が見られる。四方の山が見え,見晴しはいい。尾根の先の方には木製の階段が幾つも続いている。尾根は危険な痩せ尾根ではないが、それでもここで40m以上の風に会えば身の危険を感じる筈だ。階段を上り切ると、下りとなる。下って鞍部に着くとトイレと緊急避難小屋がある。小屋は10畳程の」広さで、回りに人が寝られる幅の床張りがある。

鞍部からは又暫く上る。山道の最高点は1400を超えるようだ。Luxmore山の山頂は1472mで其処への表示が出ているが、真っ直ぐに小屋に向かう。この山の近くには花崗岩の様に固い石が見られ、かっては火山であった様だ。又軽石状の岩石もあった。その後は砂利道を下り、Luxmore小屋(1085m)に12時15分に着く。
標高が高く寒さ対策として、目一杯の重ね着し寝袋に納まる。明日は恐らく今回の旅で一番問題の日で、未だ暗い5時の出発としている。

11月23日、4時半起床、寝袋、枕等を片付け、ベッドを離れ、食堂で荷造りをし、戸外に出る。未だ暗いのでランプを点け、慎重に下る。ストックを握る指先が時の経過につれ痺れてくる。矢張りRobertが持って行けと貸してくれた手袋は必要だったのだ。

 距離は13.8キロ、標準の歩行時間は5−6時間である。今までの経験では、僕は標準時間の3−4割短い時間で歩けることが分かっているが、10時10分のバスに確実に間に合う様に5時の出発としたのだ。40分程歩くと明るくなり、ランプは消す。行程的には前半の8.2キロと後半5.6キロに分かれる。最初の8.2キロの間に約1000m下り、その後はほぼ平らとなる。境目はBrod Bayで之はTe Anau湖の湖岸で、Camp場がある。

 昨日森林官に今日の計画を話すと、そんなに早く出なくてもBrod Bayからボートで直接町にいけば良い言い、ボートの予約をしてやるという。唯こちらは歩く為に来ており、又バスの支払いも既に済んでいるので、丁寧に断る。
 朝早いので誰にも会うことは無いと思って居たが、Camp場に着く前に走ってくる2−3人の女性にあう。大分気合が入った走りだ。12月1日、Kepler Track1周(62K+)のレースがあり、Robertも出ると言って居たがその為の練習なのであろう。

 予定より1時間早く湖に着く。誰も居ない。波静かな湖は澄み切っている。遠くの水際には鴈か鴨が歩きまわっている。漂流木に腰掛け、朝飯をくう。その後浜を歩いて見る。先ほどの水鳥の足跡がはっきりと残っている。其の傍に、それらの倍ほど大きい3本指の足跡も沢山ある。Kiwiの物に違いない。声を聴き、足跡は見たが鳥そのものを見られないのは何とも残念だ。

 湖を左手に見て、樺の森を歩く。天気も良く、清々しい朝だ。更に何人かのランナーに出会うが、殆ど女性ばかりなのはなぜだろう?Control Gateを過ぎ駐車場に着く。3日前の今頃バスを降り、歩き出した所だ。
車が何台か停まっており、その周りでは入山の準備をしている人のグループを見かける。日差しのある休憩所でバスの来るのを待つ。間もなくこの間のバスが来る。運転手はこの間とは違うが乗れという。未だ時間が早いがと言うと、ここで乗るのはお前だけだから乗れと言う。町に向かって走り出すが、手前で右に曲がりあらぬ方向に走り出す。30分程走り停まる。Ranbow Ranch入り口である。ここで数人が乗り込み、町に向かう。運転手にSuperの傍で降ろして欲しいと頼み、それにDivideまでのバスは何処から出るか聞いておく。Divide迄は自分が行き、その客はお前一人だという。

スーパーで3日分の買い物をし、バスの出る環境省の案内所まで歩く。バスがでるのは12時15分で時間は十分にある。野外のテーブルに座り、買ってきたばかりの新鮮なトマトや果物を喰い、昼食を済ませる。天気は良く、気温も20度を超え快適である。

バスはTe Anau湖に沿ってMilford Highwayを北上する。地図を見ると道路の西側には14のFjordが広がる。先ほど降りてきたKepler Trackもこれから歩くRouteburn Trackもこれら氷河、及びSouthern Alpsを含むFiordland国立公園内にある。この公園の広さは粗新潟県と同じで、広大なものだ。最も人気の高いMilford Trackは8月計画の段階で小屋が満杯で予約が出来なかった。公園全体が世界遺産となっている。

 車は1時間程でDivideに着く。これで今日の行程の見通しと、今回の旅の目的達成の目処が付いた。旅には自分で何とかできる部分と、自分では何とも出来ない部分がある。歩いて行ける所は自分で何とかできる。距離や時間の関係で交通手段を使う場合、この部分は自分ではどうにもならない、他人任せの部分である。せめて自分に出来ることは交通機関の時間に間に合うことだ。

午後1時20分歩行開始である。歩き出せば後はある一定時間後には必ず目的地に着ける。今日は Lake Macknzie小屋でRobertと会うことになっている。彼は週末を利用して、態々ここまで遣って来て僕と明日、明後日一緒に歩くことになっている。恐らく小屋に着くのは彼の方が早い筈で、その場合は下段のベッドを僕の為に確保しておく様依頼もしてある。

3日分の食料と水を入れると、荷物は10キロを超えている。13.6キロ先のLake Mackenzie小屋を目指し上りだす。登り口の標高は約600mで、最初に上り、その後下り又上るコースである。今までの山道と比べると歩き難い。山が険しく、道幅が狭く、石だらけである。その上、彼方此方で水が出ている。この為、道の補修は大変で彼方此方で今しがた終えたばかりの、水捌けを良くする工事の跡が見られた。気温も25度を超えており、汗をかきながら上って行く。

 

 樺林の中を緩やかに登り、やや下るとLake Howden小屋となる。其処を通り過ぎ更に登っていく。水が彼方此方で出ており、歩き難い所が続く。右手は険しい尾根が走っている。1時間程歩くと大きな滝があり、沢山の人が集まっている。Earland Falls(174m)である。滝壺で泳いでいる人もいる。歩いていれば汗をかくが、水はまだ冷たい筈で、僕はトテモ泳ぐ気分にはなれない。水量はそれ程多くは無いが、高さは十分で水飛沫と轟音に圧倒される。これ程高い滝は日本では見たことがない。

一休みの後、又上りだす。暫く行くと開けた草地にでる。Orchard(果樹園)の表示が見え、背丈の低いRibbonwood(家具材)が生えていた。更に上り、その後やや下ると平らな場所がありその先が小屋であった。到着4時40分、Robertは既に来ており、50人程の大部屋の真ん中通路横の下段のベッドを押さえていた。

ここは間に何の仕切りも無く、目刺し状になって寝る部屋で、今回僕には始めての体験である。人気の山小屋でほぼ満員であった。小屋よりやや下に更に大きな宿泊施設があり、これはガイド付きツアー客が利用する物である。直ぐ傍に小さな湖があり、可なり寒いが、Robertはそこで泳ぎ体を洗った。

11月24日、13.6キロの行程で、高低差は登り下り各々700mと1000mである。天気が悪くなりそうなので、8時に出発する。コースの最高点はHarris Saddle(1255m)である。其処までは右手に尾根、左手に川を見ながら登って行く。途中2種類の白い花が咲いているので聞くと、一つはMt.Cook Daisyで、この葉っぱはランの様に細長く、もう一つはMt.Cook Liーlyだという。この葉っぱは5−6cmの丸型であり、花も百合の形状ではない。土地の人がそう呼んでいる俗名であろう。日本で言えば、富士xx又は富士00であろう。

その名が示す様にHarris Saddleは小さな鞍部で、2つの避難小屋がある。一つは開いているが、もう一つは鍵が掛かっていた。後者の戸口のガラス越しからにはテーブルの上に茶菓の用意がされており、これ等はガイド付きツアー客用の物だとRobertはいった。小屋の直ぐ傍に横道があり、一応進入禁止のテープが張ってあるが自己責任で登る分には構わないそうだ。Conical Hillの表示の横を登っていく。間もなくキツイ岩場となり、ストックは無用の長物なる。岩場に立て掛け、四つん這いになって上りだす。途中雪渓も3箇所あるが、漸く山頂にでる。雲ってはいるが景色は抜群である。風が強くRobertのカメラで写真を何枚か撮って降り出す。下りの方が怪我の確立が高いので、用心しながら降りる。Robertには僕のカメラの電池の話をし、彼が今までに取ったこのコースとKeplerの写真をCDに取って送るよう要請した。写真があると無いでは跡の記憶に大きな差がでる。その為にカメラを持っていったのであるが、今は背中の重りとなっているカメラを憾んでみても詮方ない。

コースに戻り今日の小屋Routeburn Flatsに向かう。40分程下って行くとその手前のRouteburnFalls小屋に着く。出発から左手に見てきた川の水量は増え、この辺りで幾筋かの滝となっている。高さは差ほどでもないが幅があり、岩の間を流れ落ちる滝は見ごたえがある。小屋は新しく景色の良い所に立っており、規模も大きい。其処から更に1時間下り、Routeburn  Flats小屋に着く。1時30分であった。ゆっくりと歩き途中道草も食ったが5時間半で着いた事になる。

小屋は前方に川が流れる広い河川敷の様な所に立っており、草叢には幾種類かの水鳥が餌を探し回っている様であった。小屋の手前には直径2m程の樺の大木が2−3本あり、その下にBirch Strawberryと書いてあった。後でこの事を小屋の管理をしている女性森林官に訊いてみると、ちょっと待ってと言い、雨の中を外に出て行き直ぐに戻ってきた。掌を広げ、“これです”と言って赤くならない前のイチゴそっくりな物を見せて呉れた。樺の木の枝の先端に出来る茸で、この時期地面に落ちるという。食することは出来るが、余り旨い物ではないというので、敢て口には入れなかった。

泊まりの客は5−6人で、8人程の一室に泊まったのはRobertと僕の2人のみであった。小雨は夜通し続く。

11月25日、今日が歩きの最後の日となる。距離は6.5キロ、小屋を出るとやや上り、その後は緩やかに川を右手に見ながら下っていく。大分下流であり、夜来の雨で水嵩は増し、新たな崖崩れ跡も見られる。僕は確り雨対策をして歩いているが、Robertは半そで短パンの恰好で歩いている。耐寒度の違いか、体感度の違いか、何かが違うのであろう。

1地時間ちょっとでRouteburn Shelterの駐車場に着く。ここにはRobertが Queenstownに住む友達から借りた車が待っていた。20分程谷を右手に見て、進むと湖に出る。Queenstownの先まで続く変形N字型の細長い湖だ。氷河が作った湖は一般的に細長く、又枝分かれしているのが特徴だ。

車中Robertの日頃の生活を訊いてみる。電気技師の彼は殆どがPCでの仕事で、偶に重電機の設置や試験の為に現場出張があるという。週末は専ら走りの計画で埋まっており、僕の着く直ぐ前の日曜日はAustraliaで100キロを走り、先週は休養、今週は僕との付き合い、来週はKelper Track1周レースに出るという。又Australiaで始まったOlienteeringに似た新しい競技Rogaineに興味があり、目下これの豪州チャンピオンでこの活動にの可なり打ち込んでいるという。

途中まで行くと天気は上々なる。彼の飛行機までは時間があるので、寄り道をしようと言い、Queenstownを通り過ぎ、Arrow Townに行く。昔、金鉱山の町であったが、今は観光の町で、200m程の大通りに昔からの郵便局、鉱夫の住居跡、酒場、何処にでもある土産屋等が並んでいた。町はこれだけで、大勢の観光客が訪れていた。町には大きな川が流れえおり、大通りから離れる緑豊かな自然が広がっていた。

現金は100ドルしか替えなかったが、大半が残っているので、Robertを昼飯に誘った。古めかしい飾りつけの店で、ラム料理を頼むが、今は出来ないと断られる。他に何がお奨めかと訊くと、肉入りパイはどうかと言うので、それに決める。それにアイスクリームを食べ、勘定は一人35ドル、観光地料金なのであろう。チップも含め持っていた80ドル余り払う。

僕をBackpackerまで送った後、Robertは飛行場に向かう。車は飛行場の駐車場に置けば友達が取りに来ることになっているそうである。礼を言って彼と別れる。彼ら兄弟の助言や手助けが無ければ、毎日が綱渡りの様な日程で、これ程沢山の景勝の地を見ることは出来なかった。有り難いのは良き友である。

Hostelに戻り、電池も受け取る。5人の相部屋で、女性はアメリカとイタリア、男はドイツとノルウェーからと皆国籍が違っていた。

26日は町を散策し、町の図書館に行き、今回歩いた所の資料を調べ、又メールの確認、返信をした。図書館のPCは30分2ドルで使える。これは町の店の料金と同じである。

27日、午前中は湖畔の遊歩道を歩き回り、午後は荷物を背負って空港まで歩くことにした。バスは8ドルで、現金以外は不可である。又両替をして、余った外貨を持ち帰る積もりは無い。歩くことにより、これは解決できる。空港にはやや早めに着いたが、Loungeが利用でき、Internetも出来るので、好都合であった。Air New ZealandのLoungeは中々良かった。

Aukland便は順調に飛び、Shuttle便で空港のホテルに泊まり、翌朝成田便も順調で、今回はほぼ計画通り全てが順調に進んで、幸いであった。

旅の費用
国際便10000(空港使用料等、他はMileage Point利用)、国内便25000(Nel―son−Queenstown),宿泊費14泊60000、食費20000、滞在先交通費20000、御土産等20000、総計155000.


このページのトップに戻る



平成25年12月19日掲載

Hawaii島探訪記(13.12.02−13)

写真をポイントすると説明が浮き出ます。

HonoluluのあるOahu島は何回か訪れているが,その他の島は行ったことがなかった。長年新たな地表が目の前で生成されるのを見たいと思ってきた。通常我々の目にする地表は少なくとも10000年前に生成されたものであり、その後の浸食の過程の一齣である。地表が形成されるのは瞬時であり、その後は浸食により徐々にその姿を変えているのである。この地表形成の瞬間を間近に見られる場所がHawaii島にはあるのだ。

Hawaiiには主たる島が8つあり、全島が火山により海底から突き出した特異地表である。その中でも最大の島、Hawaii島は最南端にある。大きさは四国のほぼ半分である。島には5つの火山があり、今も溶岩や噴気の出ているのはMauna Loa とKilaueaのみである。尚、この島の南端はアメリカの最南端にあり、Floridaの南海上に連なる諸島の最南端Key Westより更に南に位置する。全島が北緯18度55分−29度の間にある、完全は熱帯圏内ある。北西から南東への広がりは約2500キロ、日本とあまり変わらず、海を含め広大な範囲に渡る地域である。

日本との時差は19時間であり、この為成田を19時に立ちHonoluluで2時間余りの待合時間を入れても、同じ日の10時にKonaに着く。出発した時間より9時間も早くつき、同じ日が2日分近くあることになる。日付変更線のマジックである。

飛行場の周りは溶岩が固まった黒いゴツゴツの岩で覆われており、遠くに見える山々の頂上までなだらか傾斜が続く。溶岩が流れ下った傾斜がそのまま全体の景観となっている。傾斜の角度は15−20度程度であろう。島には4000mを超える山が2つあるが、実にユッタリとした風景が広がる。これは我が国の多くの火山とは異なり、溶岩の粘性が低く火口の閉塞による爆発性の噴火とならないためである。噴出口から出た溶岩は重力により下方に流れる。この流れの角度が島全体のゆったりとした傾斜となっている。溶岩の種類は2種類とされ、現地語でAaとPohoehoeと呼ばれている。

 

Aaはガスを多く含む溶岩から出来ており、極めて不規則なゴツゴツした岩石となる。この上を裸足で歩くと、その痛さで“あ、あっ!”と声が思わず出るので、この名が付いたとの説がある。一方Pohoehoeは何となく長閑な響きである。Aaよりはガスの含有量が低く、流動性が高く多少の傾斜があれば重力により下方に流れ波紋を残して徐々に固まる。僕が今回見たのは後者の溶岩で、これは既にある溶岩の上をゆっくりと流れ下り、流れの波形を残して固化していく。大量の溶岩が流れる場合、外部は固まっても内部の溶岩は流れ続ける。ここで、溶岩の吹き出しが止まるか極端に流量が減ると、固まった外部の溶岩の中に空洞が出来る。これが溶岩菅で大きなものは直径4−5mの空洞となる。

今回も余り下調べも出来ずに出発する羽目となった。只、最初の2日泊まる宿は予約し、そこに至る交通手段の予約だけはして置いた。空港で荷物を受け取った先で、現地の人が迎いに出ており、頼んでおいたShuttleに乗って宿に向かう。空港の周りには何もなく、Konaの町が何処なのかも分からない。後で手に入れた地図を見るとKonaという町はないらしい。空港は小さいが一応国際空港で、島の最西端に位置する。そこから南の40q程度の海岸一帯をKonaと呼んでいる様だ。日本では湘南のような地名に当たる。乗ったShuttleは僕だけで、40分ほどで宿に着く。運賃は定かに覚えていないが30−40ドルではないか。これは後でカードの請求が来てから確認する。5ドルのチップを払い、車を降りる。

泊まる宿は素泊まりでトイレ、シャワーが付いており、他に共同空間、台所などがついている。一泊85ドルであった。海の見える高台にある。周りには食べる所は余り無い。2キロ程先のSuperで食材を買い、自炊生活をすることになったが、結構楽しめた。経営は韓国女性が行っており、13年になるという。共有空間が広く、20−30人は泊まれるようだ。

次の日3日は周りの散策をする。その前に宿の主人に、翌日火山のツアーの予約を依頼する。
熱帯の島は東京とは大いに異なる。火山の島であることのほか、植生が全然違う。テニスボールよりやや小さな物が蔓性の植物に鳴っている。近所の人に訊くと、Passion fruitだと言い、一つ取って真ん中を切って食べて見ろと渡してくれた。以前に食べたことはあるが、木に成っているものを?いでその場で2つ割りにして食べたのは初めてだ。中には種が沢山入っており、黄色である。アケビを思い出すと良い。やや酸味があり、アケビほど甘くは無い。好奇心からその後、近所で貰った物を自分で切って喰ってみた。其の表皮は非常に固く,つるつるしており、切れの悪い包丁では切れない。鋸状の包丁を使うと割と簡単に切れる。どちらかというと、好んで食べたいと思わない果物だ。

 

次の発見はMacadamia nutである。今はハワイの主要産品となっているが、原産地はAustraliaでQueensland nutとも呼ばれる。Nuts類は一般的に油が多く、単位重量当たりの発熱量が大きい。その中でもMacadamia nutはずば抜けて高い。その理由は高含油による。資料によると“100g中の脂質は76.8gだがコレステロールをまったく含まず、逆にオレイン酸やパルミトレイン酸などの不飽和脂肪酸が83%も含まれる健康食品である”とある。味もよく、その分値段も高い。この実が彼方此方になっているのだ。直径2cm程の球場の実であり、最初は緑であるが稔ると黒茶色になり落下する。これも最初は何の実か分からず、宿に持ち帰り訊き、Macadamia nutであると知る。

コーヒー園を訪れるとコーヒー試飲の他、Macadamia nutを割る道具が置いてある。梃と連軸を用い力を増幅させ、殻を割って生で食べた。其れなりの味がする。甘皮を向いた中の殻は薄茶色の球状で光沢ありトテモ固く簡単には割れない。またこのコーヒー園ではカボチャを5−6個並べて居り、これも自然に出来たもので、一つもって行けという。昔ながらのカボチャの形をしており、縦に溝が入っている。貰って帰り、夕食に電子レンジで調理し食べて見ると、日本の戦後のカボチャそっくりの食感と味がした。びちゃびちゃと水っぽく、ホクホク感はなく、甘くも無いのである。瓜を煮て喰っているよう物だ。持て余したので、宿の女主人やると、早速残り全部切、鍋で茹でていた。今の日本のカボチャに慣れが人には、どうにもならない代物であった。

路傍にはこの他にも色々なものがなっている。バナナ、アボガド、パパイヤ等である。ちょうど手の届く高さに下部はやや青いが殆ど黄色くなり、食べごろのパパイヤあったので,そのうちに取ろうと思い目星を付けておいた。

更に浜に降りようと片側一車線の車道を降りていく。浜までは7キロ弱、標高差は400メートであるである。道は蛇行を繰り返し、徐々に下っていく。途中には沢山のMacadamia nutが落ちている。誰も拾う人は居ないらしい。途中の民家にはブーゲンビリヤ、ハイビスカス   等がさいている。又路傍には沢山のポインセチアがさいている。元々はメキシコと中米原産の植物であるが、この地に合ったのか沢山咲いている。又Snow ballと呼ばれる低木には木全体が白い花で覆われ、白い綿毛の塊のようである。その他にも色々な花が咲いており、常夏のHawaiiが実感できる。

途中にはコーヒーやMacadamia nutの加工場や無人の農産物売る場もある。果物他卵なども売っていた。着いた浜は10人足らずの人がいるだけで、ヒッソリとしていた。水は綺麗で、若者のグループがシュノーケルを楽しんでいたが、サメが出るので沖には行けないと言っていた。

湾の名前はKealakekuaとあり、州の歴史公園である。この辺りが有名なCapt.Cookが非業の死を遂げた地だ。
宿を目指して歩いていると、車が止まり乗らないかとの誘いがある。Macadamia nutsを拾って行きたいこともあり、礼を言って断る。ハワイではヒッチハイクが盛んで、彼方此方で手を水平に出し、車の停まるのを待つ人は多い。
Macadamia nutsを沢山拾う。検疫を通せばお土産に成る筈だ。次いでSuperにより食料品を買う。野菜、牛乳、肉、それにインスタントラーメンを買う。1ドル105円で計算すると、日本より安いのはラーメン位で、肉はほぼ同じ、他は全て高い。

拾ったナッツを割って食べようとしたが、これが中々割れない。殻はそう厚くは無いが固いのであろう。クルミ割りでは割れない。ハンマーで叩くとやっと割れる。専用の寄りしっかりした器具が必要な訳が分かった。

12月4日、朝一番のバスに乗り、Sheraton Resort迄行く。其処からツアーのバスがでることになっている。島の公共輸送はバスだけで,これは自治体の運営で島を西回り、東回り各々日に3便ある。区間に関わらず一回2ドルと安い。後で知ったが、これも60歳以上は半額となる。

漸く明るくなる頃Sheratonに着く。立派なホテルで一泊300−400ドルはしそうだ。ロビーで約1時間待ち、ツアーのバスに乗る。小型バスで客は10人程だ。料金はほぼ一日かかるコースで130ドル程だ。空港の横を通り、途中2−3大きなホテルに立ち寄り客を拾って、暫く海岸に沿って走り、その後東に向かい徐々に上りだす。黒い溶岩や枯れた草の中を暫く走ると、緑の広がる放牧地の中を通る。それ程大きな島ではないが、降雨量には大きなバラつきがある。砂漠状の所もあれば、8000mm近く降る所もあるという。Konaとは対照的な位置にあるHiloは3000mm(東京の約倍)の降雨量がありKonaより多い。1日で800mm降った日もあるという。ガイド兼運転手はこの様な事を話しながら車を進める。島の主要道路は北西の半島部と南東部を除き一周している。

島の北半分の中央部には4205mのMauna Kea(Hawaii語で白山=Mont Blancを意味する)が聳え、車窓からはその頂上にある幾つかの天文台が見える。この山はここ4500年噴火しておらず、今は其の自重で海底に押し下げられているという。氷河期には勿論山頂は氷河で覆われ、文字通り白山であった筈だ。この為溶岩が急速に冷やされる環境があり、固い岩が出来た。後の現地人がこの石を道具にする為の採石場の後もあるという。

南にはやや低いがMauna Loaが圧倒的な広がりを見せている。1983年以来今も溶岩が流れているKilaueaはその東にある。高さは1250mに満たない高さである。Hawaii島5つの火山で今も火山活動が続いているのはこの山だけである。今は海に届く溶岩流は無いが、今期の火山活動により、実に123Km2を超える陸地が海面上に現れたという。

バスは途中の町で休憩する。牧畜が行われている町で、小高い山が見られる。昔噴火し盛り上がった山であろう。これもなだらかで、険しい雰囲気はまったくない。町を出て暫く走ると、北東に面する海岸線に出る。かなり高い所を走っており,高い木々の間から海が下方に見える。Hiloの手前でRainbow Fallに立ち寄るが大した滝では無く、勿論今の時期水量は少なく、虹は架かっていなかった。Hiloの町を通り過ぎKurtistownを通り、Thurston溶岩菅に着く。熱帯雨林の鬱蒼とした木立の中にある溶岩菅で直径は4−5メートル、長さは50−60メートルであろうか。中を通り過ぎるだけであるが、この中を白熱の溶岩がかっては流れたことを想像すると、計り知れない地球の巨大エネルギーが実じる。

 

其の後直ぐに、Hawaii火山国立公園の中のKilauea Calderaに着く。巨大なカルデラで、その中や周りには更に幾つかのクレーターがあり、壮観である。噴気が彼方此方で上がっており、有毒であるので今は中に入ることが禁じられて居り,柵張り巡らされていた。Caldera大量の溶岩を吹き出した後、収縮し陥没して出来た様だ。我々はこのCalderaを其の淵に立つJagger博物館から眺めた。Calderaの周辺には様々なTrailsあり、有害が治まっている時期はCalderaの中に降りて行くこともできる。大きなクレーターの外周は18キロ余りあり、一回りはほぼ1日の工程であろう。博物館には色々な展示があり、係員の説明を聴くことも出来るが、時間の関係で適わなかった。
国立公園は先ほど見たKilauea火山のほぼ全域とMauna Loaの山頂を含む、9万ヘクタール弱の地域で、1987年に世界自然遺産とし登録されている

車は緩やかに下り、40分ほどで島の南東部の海岸に着く。車を降り海岸を歩く。真っ黒な溶岩岩石が流れ固まった波紋を残し海に続いている。浜の砂は真っ黒である。多くの人達が頻りに波の打ち寄せる海面を覗き込んでいる。大きなカメが産卵に上がって来るのをまっているのだという。

其の後、1時間余り走り、最後の休憩はKonaのCoffee試飲所であった。100%Kona Coffeeや10%のもの、その他煎り方の違いの物を用意していたが、僕は通では無いので、あまり違いは分からない。唯好みは深煎りである。KonaのCoffee栽培は200年の歴史があり、日本からの移民も大いにこの分野で貢献したようである。上等なCoffeeはたった3%としか出来ないという。100粒の内3粒のみが一級品なのだ。これはこの産地の特殊事情なのか、他の産地もそうだとすると、コーヒーはモット高価な物になるに違いない。

コーヒー園は西海岸の丘の上にあり、正面の海に陽が落ちるのを見て更に北に向かう。緯度の低い所では陽が落ちると一気に暗くなる。所謂黄昏と言うものは無いのである。すぐ先にCapt.Cookと言う集落があり、その郵便局の先で下してもらった時はすっかり暗くなっていた。宿は其処からは近いのだ。

翌5日朝先ず先日目を付けていた、路傍のパパイヤを見に行くと、案の定土手に落ちて原型を留め無い状態であった。唯よく見ると、それが成っていた直ぐ上にもう一つ売れた物が成っていたので、それを取り持ち帰る。下太りの楕円形をしており、短径が10cm、長径が15cm以上の立派なもので、ずっしりと重い。持って帰り朝飯にする。甘く水気もたっぷりとあり、おいしい。半分も喰えば十分である。この他にトマトとステーキの朝飯だ。アメリカでは肉は日本とほぼ同程度であるが、肉の切り方とパックの容量は異なる。ひき肉はあるが薄切り肉などはない。厚さが2−3cmあり、一パックに1枚か2枚で訳1キロ入っている。一パック買うと4−5回分はある。同じ物を何回も喰うことになる。僕は鶏肉は殆ど食べないので、その他の肉と言えば豚である。魚は高いので、今回の旅は牛と豚を食する旅となった。11月のNew Zealandの旅ではLamb肉が有ったので、やや良かったと思う。僕は牛よりLambの方が好きなのだ。

それにしても、熟れて落ちる寸前の果物は美味しい。1989年3月子供と姪を連れて家族旅行をしたことがある。主たる訪問先はAustraliaであったが、航空券を探しているうちに、何故かHawaii、New Zealandを回ってAustraliaに行くことになった。直にAustraliaに行くよりも、遠回りした方が安いのである。航空運賃とは不思議なものだ。基本的には距離に比例するが、そればかりでは無く、その路線の競合状況や,或る便の空席率等の要素で決まるらしい。

前置きはここまでとし、着いたのはHonoluluである。春3月末、Honoluluの住宅街を歩いていると庭から道路にはみ出ているMangoの木から30−50cm程の成り蔓に垂直にぶら下がっているマンゴの実をよく見かける。又路上には赤く熟れて落ちている実が彼方此方に見られる。勿論落下の衝撃で原型を留めない果実は対象外であるが、外皮に損傷の無いものを拾い、持ち帰りホテルで食べると、これが実に美味しい。Superでは1個1ドルか2ドルで売っていたが、これは外見も青みがかっており、青臭い味がし、甘みも少ない。拾ったマンゴの味を覚えた子供達は買った物は喰わないと言い出した。この時から僕はマンゴは拾って喰うべしとの持論を持つ様になった。パパイヤは外皮がMango程丈夫で無く、重さも重いのでマンゴの半分も高さから落ちても潰れて仕舞う。従って、“これは完熟期を見計らって、取って喰うべし”である。又熟して路傍に落ちているアボガドも喰ってみたが、これも買ったものよりズーと上等である。Kona辺りには探せばその機会は少なくない。これから何回利用できるか分からないが、これでまた生活の技が身に着いた。

朝飯の後、女主人に溶岩流ツアーとMauna Keaの天体観測所ツアーの申し込みを依頼し、また散策に出かける。一昨日行った海岸の方に向かって歩き出すと、程ない所の右左に車が10台ほど停まっている。其の傍には左手に降りて行く、幅1.5m程の小道がある。昨日浜へ行った時、この道に入っていく人、出てくる人を見かけている。この先には何かあるに違いないが、入り口には何の案内も出ていない。行き先が袋小路であっても、元々だ。引き返せば良いだけの話だと思い、その道を居りだす。なだらかな下りで、刈られた草を敷き詰めた小道は柔らかで、気持ちよく歩ける。道の両側は背丈を超えるイネ科の草が茂っている。所々には木も生えている。暫く下っていくと、草刈り機の音がする。近づくと大木の木陰で大柄な男が、エンジンの給油をしていた。この道の先には何があるのかと訊くと、Capt.Cookの塔が有るという。

下りていき、海が近くなると左に入る道があり、そこからは直ぐに塔があると教えてくれる。これは望外の喜びだ。歴史的事件のあった場所に行けるのだ。Capt.Cookの塔には海からでなければ、近づけないと聞いていたし、案内書にもこの小道の事は書いてない。言われたとおりに進んで行き、大木が両側に聳える森の先に白亜の塔が見えてきた。近づいて見ると10m四方程を大砲と鎖で囲み高さ10m程の塔が立っている。建立はAustralia政府が行ったとも書いてある。CookはAustralia東岸、New Zealand。Hawaiiなど18世紀の中ごろ広い範囲の調査航海を行い、この地で1779年現地人の手により倒れたのである。周りには海からボートやカヌーでやってきた人たちが50人ほど集まっていた。ここは一昨日行った浜辺の北側に当たり、比較的穏やかな入り江で水も透明で綺麗な場所である。その昔複数の命がこの場所で絶たれたとは思えない静かな場所でもある。

帰りに又先ほどの男に会い、お礼をいう。黙々と草刈りに精を出していた。自分だけでこの道を維持し、行政の援助は一切ないとも言っていた。傾斜のある土地で之だけの長い道を維持するには大変は労を要する。小道の出口の手前の右手に大木があり木の杖が何本か立てかけてあり、その上にA4程の大きさの表示が出ていた。読んでみると、雨が降り、“草が伸び、自分は黙々刈るだけだ“とあり、その下に名前と住所が書いてあり、自分の努力、機械、油代として、意があれば寄付受けたいと書いてあった。写真に撮ってきたので、帰国後何かしかの現金を送るつもりだ。アメリカにはこうした社会的活動をする人は少なくないのだ。

帰って来ると、希望のツアーはHiloから出ているから、Hiloのホテルに明日から移る様にと言われた。ホテルの予約もしてくれ、すっかり手配が整っていた。

翌朝、一昨日乗った同じ朝一番のバスに乗ってHiloに向かう。バスはほぼ一昨日の火山ツアーと同じ道を通り、10半時過ぎにHiloの終点に着く。4時間半の旅である。これで、通常料金2ドル、老人、学生はTドルと安い。大きな荷物があれば、更に1ドルかかる。これは日本では考えられないほど安い。島の生活の便であり、彼方此方で乗り降りがあり、ほぼ満席に近い状態だ。利用者は老人、学童、生徒、それに旅行者である。日に3本あるこのバスは、車の無い島民の生活には不可欠であろう。

Hiloで別のバスに乗り換え、宿に向かう。これも同じく郡運営であり、料金は同じである。距離には関係なく、全ての路線は一律の様だ。
宿に着いて、早速ツアーの日逓を訊く。翌日は2時半からMauna Keaの天文台,翌々日は9時から溶岩流ツアーとなっていた。ツアーの車もここから出るので好都合だ。この宿はかなり大きく、海辺からそう遠くない所に何棟もの宿泊施設が立っており、其々広い緑地と駐車場を備えている。車で乗り付け、自分たちで食事を作り、休暇を過ごす施設だ。Hiloの中心街からは東の約5キロの位置にある。

シッカリとした地図もなく、宿の情報に従い食材を買いに行くが、日暮れが迫っているので、目的を達せずに宿に戻る。若干の食料は常に携行しているので、死ぬことはない。

翌日、ツアー出発の前、約1キロの牛肉、玉ねぎ、人参、セロリ、トマト、赤ワインを買う。肉は少容量の物はなく、2−3cmの厚さの1枚ものだ。野菜、果物は日本とは異なり、パック入りの物は少なく、必要量を選び、重量で料金を払う。

2時半をやや回った時間に、ホテルの名前の入ったツアーの車がやってくる。このホテルはツアー事業にも手を出しているのだ。彼方此方のホテルから参加者を拾い、Mauna Keaに向かう。
幹線道路から山に入る分岐点には駐車場があり、其処でも参加者が乗り込む。そこから先は一般の車は入れないようだ。環境保護のためであろう。更に上って行き、2800mを超える位置にあるオニズカ情報ステーションに着く。そこに着くまで、僕は鬼塚の名前を忘れていた。1986年1月チャレンジャー号爆発事故で殉死した日系人初の宇宙飛行士で、Hiloの出身である。彼の名を冠したこのInformation Centerとその周りにあるオニズカ国際天文学センターには多くの建物は山頂の展望台建設、保守、研究にかかわる人々の広大な宿泊施設がある。否営利事業して運営されて居るという。ここには売店もあり、水もHiloの価格と同じで売っている。ハワイと日本の関係は深く、島の主要道路はDaniel Inoueの名前も付いており、ハワイの発展に貢献した日本人が多いことに改めて感銘を受ける。コーヒーやパイナップルの栽培の為、移民として渡った人々苦労は大変なものであったと思われる。その人たちのお蔭で、HikoにもKonaにも日本名の付いた通り、商店、建物を多々見かける。

 

ここで1時間程の自由行動となる。高地順応の為に必要な時間である。センターの周りには小高いなだらかな山がある。これらも火山活動で出来たものだ。この辺りは雨が少ない様で褐色の溶岩とそれが砕けた砂の中に枯れた草や背丈ほど灌木が疎らに生えているだけだ。ゆっくりと頂上までのぼり、下りてくる。

車はここから砂利道を上りだす。大きな九十九折れの道を、前の車の埃を見ながら進む。山頂までは7マイル余りあり、路肩に距離と高度の表示がある。5マイルの手前から又道は舗装になる。これは埃による天体観測を妨げ無い様にする為であろう。ほぼダートの道終わる頃、自転車の男を見かける。高度も高く、坂もきついので降りて押していた。海抜ゼロから4200メートルを一気に登るのは容易ではないのだ。エールを送って通り過ぎる。

ほぼ山頂の天文台の傍で降り、日没を待つ。山頂はやや風もあり、寒い。用意してきた、ダウンの上下を着るが、時間が経つとまた寒くなる。南東の方向に更に高い丘がある。丘に登っている人の姿が夕日に浮かび上がっている。あちらの方が本当の山頂なのであろう。地図を見るとほぼ50m高い。一旦やや下り上って行くことになるが、30−40分程で往復できそうであるが、断念する。

周りには10台程のバンが停まっている。100人程の人が居るが、8−9割は日本人だ。日本人は星が好きなのであろうか? 3000m以下辺りは雲海となっており、陽は徐々に降りていく。雲の色が微妙に変化してく中に陽は落ちて行った。ツアーは唯それだけの事ではない。ここにもっと重要な意味のある土地である。高所で、光や塵の影響が少ない為、1960年代からマウナケア科学保護区としてHawaii大学の管理下に置かれた国際的な天文観測所となっている。Hawaii大学2つの望遠鏡を始め、NASA、日本のスバル望遠鏡など12の天文観測所があり、10か国あまりの国がここで天文観測をしている。

夕日を受け、空を睨んでいるこれらの望遠鏡郡の姿は壮観である。折しも傍の大きなドームがユックリ回転仕出す。観測する星に焦点をわせているのであろう。赤外線望遠鏡もあり、昼夜を通して宇宙を観察し、より多くの事実を掴もうとする人々の努力に感謝したい。

日が沈むと戻り足となる。先ほどのオニズカ情報ステーションに戻る。ここで、其処に設置されている幾つかの望遠鏡除き、星座の観測をすることになっている。ここでは星座の観測をすることになっていたが、生憎上空には薄雲がかかり、下弦の細い月は大きな傘を被って居る。その下に宵明星は見えるが、その他あまり多くの星は見えない。快晴であれば満天の星が見られる筈で、残念である。其れでもガイド兼運転手はレーザー光線で見える星を指し色々説明をする。星は古来単に眺めるだけでなく、方向を示す重要な役割を持っていた。Capt.Cookを初め、全ての航海者は星の位置により航路を決めていたのである。これは西洋の航海者に限らず、望遠鏡など進んだ機器を持たなかった太平洋の島々に住む人々も同じで、何千キロも離れた島や陸地へ星を頼りに渡り歩いていたのである。彼らには彼らの星を読む独自の方法と記憶の仕方があったのだという。ハワイに最初に辿り着いた人類は南太平洋のマルキーズ諸島からであろうという。4−8世紀頃双胴でカヌーを星を頼りに航海したとされている。

一連の話が終わり、Centerの前にある何台かの小型の望遠鏡を覗く。小型とは言って、子供の玩具ではなく、相当な倍率の物であり、月のクレーターがはっきりと見える。何台かの望遠鏡は夫々倍率が異なり、異なった月表面の状態を見ることが出来る様に設定されていた。

12月8日、溶岩ツアーの日である。車の扉を開けると、中には泥の汚れが目に付く。運転手のブーツも泥だらけである。訊いてみると途中悪路を通って溶岩流に辿り着くのだという。僕はRunning shoesしか無く、泥だらけに成るのを覚悟する。他には特別な物は必要ないとのことで、出発する。帰りは4時半と言うので、昼飯は何処かで食えるのであろう。

Hiloの高台にある中継所に行くと、5−6人が集まっている。好きなバックを選び、持って行くようにと言われる。係りの人が昼用にサンドイッチの好みを訊くので、伝える。意向に従って各人用に近くの店で、サンドイッチを作ってもらい、用意されたザックに入れて出発する。ザックには若干のスナックと水1.5リットルが入っており、この他、ポンチョ、皮手袋、それにHeadlampが入っていた。皮手袋はAaと呼ばれるごつごつした溶岩で怪我をしない為の保護具であろう。

40分ほど南東に走り、車を降りる。車が通れる草の茂った道を500メートル程進むと、道は一挙に人一人やっと通れる幅の泥だらけの道になる。最初は出きるだけ靴を濡らさない様に歩いていたが、段々泥濘の状況は悪くなり、踝の深さとなる。靴は足を泥や水から保護する役には立たなくなる。それでも怪我をせずに歩く保護の役には立つ。

 

前後にガイドが付き、一列になって薄暗い熱帯雨林の中を歩き続ける。雨の多い所なのであろうか、鬱蒼とした大木が茂り、その下にはシダ類や苔が犇き合っている。熱帯雨林だ。悪路ではあるが起伏がなだらかなのは幸いだ。途中2度ほど小休止をし、3時間近く掛かって漸く植物が疎らに生える乾燥した溶岩地帯に出る。

2時少し前である。ここで、休憩をし、皆が揃うのを待つ。倒木に腰掛け、サンドイッチを食う。手には乾いた泥がつい居るが洗う水が無い。泥水は沢山あるのだが、手を洗える水は全く無い。出来るだけ食物に手を触れないようにして食べ、後続を待つ。

植物の生えている溶岩帯を100mほど歩くと、全く植物の無いAa溶岩帯に出る。2つの地表の違いは溶岩形成の年代の差であろう。植生の無いほうが当然新しいはずだ。その先200mほど先はPohoehoeと呼ばれる流れの波紋の分かる溶岩地帯となり、歩き易い。こちらの方がモット新しい。1年、1ヵ月、いや1週間前に出来た地表かもしれない。空は曇っており、岩の色は銀色を帯びた灰色である。これらは時が経つに従って、黒くなっていくに違いない。歩いていくと足元から熱気を感じる。いよいよ、溶岩流に近づいている実感がする。100メートル程先で2−3人が立ち止まっている。どうやら、溶岩流に達した様だ。近づいていくと更に全身に熱気を感じる。溶岩は先に固まった岩の割れ目から50cm程の幅で流れ出しており、出口は黄色く(温度は摂氏1000度強)、次いで赤黒くなって流れ、やがて固まる。この程度の流量では出口から4−5mの所で粘度は可なり高くなり、固体になるようである。それでも流出は止まらず、次々に噴出し、新たな流路を捜して流れ続ける。これらの流れは様々な波紋を作る。笹波のような紋様もあり、布を無造作に折った様な大きな紋様もある。流出量の大小、傾斜の程度、風の影響などにより、様々な紋様が出来るのであろう。

 

辺りにはこの様に流れている溶岩が何本かある。何れも約2−3mまで近づくことが出来、用意した棒を近づけると先端が燃える。又小さな流出もあり、地表の裂け目から流れ出し、盥一杯ほどの量で固まってしまう物もある。この様にしてここでは次々に新しい地表が出現しているのである。辺りを歩いていると、溶岩の割れ目が大小沢山あり、その割れ目は幅、深さ、長さも様々である。溶岩が収縮すると時に出来る亀裂である。比較的新しいと思われる亀裂は表面から20cm下にはまだ赤い溶岩が見られる。足の直ぐ下は赤熱の溶岩なのである。深い亀裂では3−4m下に大規模な溶岩が見える。地球はまだまだ熱く、巨大な力を秘めているのである。これが地震を起こし、火山を起こす元なのだ。約1時間溶岩流を見て戻り足にかかる。途中雨が降り出し、ポンチョを着込む。道は雨の為更に悪くなっており、皆下半身泥人形だ。5時半頃ガイドの勧めで、Headlanpを用意する。日暮れは早く、密林の泥道は見え難くなるからである。同じ道を通り車にもどったのは6時少し前であった。ガイド2人、参加者7人のツアーであったが6時半には車でHiloに向かうことが出来た。

宿に着いたのは7時半であり、腹は減っていたが、先ず泥の始末が先決だ。特に明日はHi―loからKonaを経由してNYに向かう日なので、靴だけは何とか乾かしたい。身に付けていった物は、帽子を始め全部水洗いした。着替えの後、受付に行き、古新聞を貰う。靴の乾燥には紙で水分を吸収するのが一番だ。夜中にも2−3回紙を換え、又小型扇風機を使い、翌朝には何とか乾いた状態に出来た。

所で溶岩流の見られる所は地図上では何処なのかと言われると答えに詰まる。ツアー業者からの資料は何も無く、後で宿で訊いてもらったが、定かな情報は得られなかった。恐らく先日行ったHawaii火山国立公園の手前で幹線道路11号線から南に車で入りその先で降り、熱帯雨林を歩いた先のEast Rift Zone(地溝帯)の一部ではないかと思える。

翌日、食料の調達に町に出ようと思い、バス停で待っていると反対側から何やら青い灯を点滅させた車がユックリと近づいてくる。余りにも遅い。道路の点検車であろうか?暫くするとその正体が分かった。Paradeの先導車であった。其の後には何百台ものオートバイ、クラッシックカーが続いている。オートバイは映画に出てくる様な派手で変わった型式の物で、クラッシックカー本当に古いものが多い。乗っている人は若者から年寄りまで年齢層の広い男女で、サンタの衣装やその他派手な格好で、手を振りながら通り過ぎていく。クリスマスの近い日曜日の特別な更新なのであろう。行列は2キロ程の長さだ。人口45000のこの町の人だけでは無く、遠くから乗り付けて、参加している人も多いのではないかと思う。バスを待っているのも忘れ見ていた。

車が止まり、女が降りて来て、同じ所に泊まっている者だがHiloまで乗らないかと誘ってくれた。車に乗ると、連れの男は東洋系で2人ともトロントから来ているという。5分ほどで町に着き降ろしてもらう。親切な人は何処にも居るのだ。この後知ったことであるが、日曜日はバスは全面運休であった。本当に良かった。彼はバスの運休を知っていたのであろうか?

町で買った物は赤ワインのみである。今回長年憧れのHawaii島を訪れ、見たいと思った物は総べて見たのでささやかなお祝いをしたいのだ。宿の大きな公共空間にはゆったりしたソファーもあり、小さなクリスマスの飾りつけもある。4−5人用のカウンターもあり、ゆっくりチビチビも悪くないだろう。

町から帰り浜の公園の幾つかに行ってみる。ハワイは南極からアリューシャン列島迄妨げるものの無い大洋の真っただ中にあり、波の荒い事で知られている。何メートルもの高い波の押し寄せる中、サーフィンを楽しんでいる人も見かける。公園では先程のパレードの連中が幾つかのグループを作り、また路上に出たりして、夕方まで屯していた。これも一つの日曜日の過ごし方なのであろう。

12月9日、移動の日である。Konaには1時半のバスがある。これに乗るには宿の傍を通る11時のバスに乗らなければならない。その次のバスは1時45分とKona行きには間に合わない。他の宿の仲間2人とHiloに向かう。町では1時間余り時間があるので、散策をする。Hiloの町には立派な建物は無い。戦後間もない1946年、この町の浜に近い一帯は津波に襲われ壊滅的な被害を受けている。特に日本人が多く住んだ、新町(Shinmachiと表示がでている)地区の被害は大きく、今はこの全域が公園となっている。東洋風の橋が幾つも架かった立派な公園であり、傍にはKamehameha大王の像がたっていた。津波博物館も見ておきたかったが、時間がなかった。

Hilo大きな湾に面した町で浜辺は比較的平らで、徐々に高くなっていく。この為海に近い辺りは津波の被害が大きかったのだ。可なり沖合に防波堤があり、湾内は比較的波は穏やかである。港がありハワイ島のほぼ全ての物資はここを通る。日によっては数万トンの観光船が停泊している。

Hawaii州には中々良い法律がある。浜辺は全て公共の物で、Hiloの海岸は至る所に海浜公園がある。ヨーロッパの浜の様に大ホテルが占有するPrivate Beachは無いのである。又、建物上部にネオン等の表示も禁止されており、ワイキキの繁華街でもこれは守られている。商業化やよる、景観破壊に配慮した法律だ。

Hilo都合4泊し彼方此方歩いたが、Konaと植生が違うのか、ココナツ椰子は沢山あるが、Konaの様にアボガド、パパイヤ、柑橘類、Passion fruit,Macadamia nut等の腹を満たす実のなる木は見かけなかった。又Konaで沢山咲いていたポインセチヤも見かけなかった。同じ島でも降雨量に大きな差がある性であろうか?

バスに乗る前にKonaの飛行場に近い停車場を訊いておく。其処から空港まではタクシー以外は無いらしい。停留場の名前はMatsuyama Storeとある。降りて店に入る。中々立派な店であり、ATMもある。レジには2人の現地人の係りがおり、タクシーを呼んで呉れないかと頼むと、古い電話帳を出して来て調べ出す。余り、ここから空港に向かう人は居ないらしい。手間取っているのを見ていた若い客が、携帯を持ち出し調べ出し、直ぐにタクシー業者の番号を探し出し、掛けてくれた。親切な人は何処にでも居るのだ。この人には有り難うと述べただけであるが、店からは7ドルの巻き寿司をかった。

タクシーは10分程で遣ってきた。空港は先ほどの幹線道路を直角に曲がり、急な坂道を下がって行く。坂の下には黒い溶岩とその先には海が広がる。15分ほどで空港に着き、チップも含め27ドル払う。

10時過ぎの便で時間はタップリあるが、カウンターは開いていたので搭乗手続きをする。荷物の検査ではアメリカ本国には生のMacademia nutには持ち込み条件があり、完全に表皮が無傷なものならOKだという。誰も居ないので、係官も手伝うので良品のみを選ぶ様にという。針で突いた様な穴でも穴の有る物は認められないといい、選び出す。路上で拾った物は殆ど穴が開いていた。20−30個選んだ所で、残りは廃棄することにした。検疫で恐れているのは虫の卵なのだ。

Hawaiiの空港は何処も野外に開かれ建物だ。気候が良いので、これが合理的なのだ。出発までは5時間も待たなければならない。夕食をとった後、明かりの下で本を読みながら暇を潰す。

便は5時間余りでSan Franciscoに翌日早朝に着き、待ち時間は殆ど無く、NY便に乗り換える。ここから一等なので酒類も自由に選べ、食事も出る。朝早い便であるが、お祝いの意味もあり、先ずChampainを呑む。航空会社も採算の為、削れる出費をドンドン切り、UAの太平洋便では酒類はワインとビールのみで、他は全て有料となっている。国内線のエコノミーはコーヒー、ジュースのみで食べ物は全て有料だ。

NYでは特に遣りたいことは無いが、年末で切れる一等席の権利を行使する為に行くことに決めたのだ。この町には国際空港が3つある。一番古いのはLagardia空港で、ここが一番市の中心部に近い。一番便が多いのはJFKであろう。それに、Hudson川を隔てた対岸のNew Jergy州にあるNewwarkである。この空港には15年以上前に一度降りたことがあり、今度で2度目だ。最初の時はNYCには寄らず、北の小さな町Bridge Portにバスを乗り継いで行った。NYCへの公共交通を訊く。NYのPort Authori―tyの運行するバスがあり、料金は16ドルであることが分かる。往復の切符を買い、バスに乗り込む。40分ほどで終点のGrand Stationに着く。宿はTimes Square の傍なので、ここから歩いていける。10分ほどで、宿の看板が見える。25−6階建ての大きなホテルだが建物は古い。King sizeのBedの入った殺風景な部屋で、暖房は昔の鋳鉄製のスチーム式だ。Shower室は大理石張りであるが設備は古い。これでも場所柄一泊100ドル近い。部屋からは2−3の劇場のネオンが見える。ホテルに着いたのは5時頃で、外には出ず、僅かに残っている物を食い、就眠する。

翌11日はNYの中心地を歩き回る。どの店も思い思いのクリスマスの飾り付けをして、町はこの時期華やかだ。特にRockfeller Centerには沢山の人が集まり写真を撮っていた。昼はGrand Stationの地下にあるOyster Barで摂ろうと思い入る。100席以上ある大きなレストランであるが、ちゃんとした席は予約が入って居り、Counterなら良いと言われる。Counterの奥に座りBivalves(2枚貝)と表示されている生物と、白ワインを頼む。貝は牡蠣が大小2種類、ハマグリ状の貝が2種類、各々2個で17ドルであり、そう高い物では無い。チップも含め25ドル払い店をでる。

5番街を北に歩き、Central Parkに行く。天気は良いが風は冷たい。気温は−2度からー4度の氷点下で前日に降った僅かな雪も融けずに残っている。スッカリ葉を落とした大木が寒そうに空に伸びているのが印象的であった。

 夕方4時頃NY図書館に行ってみる。大きな石造りの建物の正面には大きなライオンの石造が左右に並んでおり、その首には木の葉で作った緑に赤や金色の飾りを付けた大きな首輪が架かっていた。中に入ると建物は更に立派で圧倒されるほどだ。階段を上り、2階に上る。普通の建物であれば4階ほどの高さがあろう。案内の人にコンピューターの使える所を訊き、其方に向かう。

Passportを提示し、番号の書いた紙を貰う。室内にPCは50台ほどあり、ほぼ全部が使用中である。書かれた紙の番号を、専用のPCに入力すると使えるPCの予約が出来る。幸い直ぐに使えるPCが見つかり、その番号のPCの席に行く。必要な入力をすると45分使えることになる。アメリカではどんな小さな町の図書館でも無料で使えるPCがあるので、貧乏旅行者は大いに助かる。メールを見たり、返事を出したりし、日本のニュースなども見ることが出来る。PCを利用する人も5時近くになると少なくなり、PCの画面には15分の延長利用が可能ですが如何しますかと出て来たので、延長する。実に利用者の弁を考えたシステムが組まれている。45分の時間制限はより多くの人に利用の機会を与える為で、利用者が少ない時は此れを延長できるのは理に敵っている。二度目の延長の表示が出たが、十分利用出来たので、Noをクリックして終了した。

宿に戻る頃にはスッカリ暗くなっていたが、Times Sqare辺りはネオンの光が眩い程だ。人の流れも昼間より多い。多くの人が彼方此方の劇場の前に並んでいる。立派な毛皮のコートを着たご婦人も居れば、底の磨り減った靴を履き、家路へ急ぐご婦人も見かける。Times Squareは雑多な人間模様を見ることが出来る場所だ。街角に留まっていれば、あらゆる人々が通り過ぎて行くに違いない。宿の傍でピザを食べて、帰る。

翌朝早く、厚着をしてバス停に向かう。寒いのはバスに乗るまでだ。バスの中で上下のダウンを脱ぎ、袋に押し込む。Lincolon Tunnelを過ぎNew Jergy州に着くと陽の出が確認出来た。先日降った雪の量はNYより多く、ほぼ一面の雪が朝日を受け輝いている。

飛行機はほぼ定刻にゲートを離れたが、その後思わぬHappeningがあった。滑走路の途中まで出た所で、預かった荷物と搭乗した人が合わないことが分かり、ゲートに戻るというのだ。荷物と搭乗者が合わないことは過去一度LondonのHeathlow空港で経験している。この時は登場していない人の荷物を探し出し、其れを降ろし出発した。全部の荷物を調べ、その中から一つを抜き取る事は大変な労力と時間を要するが、安全の為必要な処置だ。ゲートに戻ると遅れた男が乗り込んできた。何も罰則は無いのであろうか?多くの人の迷惑だ。飛行に遅れることだけは自分の為ばかりではなく、他人為にも是非さけたいものである。僕は3回飛行機に乗り遅れたことがあるが、何れの場合も荷物は預けていない。他人に被害が及ばなかったのは幸いであるが、乗り遅れだけは今後も注意した。

ゲートに戻った機は再び管制塔との交信をし、1時間余り遅れて離陸した。風の影響で最初ほぼ真北に飛び、Hudson湾の東を通りアラスカの北の北極海を飛び、その後南向きの航路辿り、予定の40分遅れで成田に着いた。

今年10回目の遠出も無事終えることが出来満足する。空の旅は今年も12万マイルを超えた筈だ。毎時500マイル、800キロ、で飛んだとすると、空の上に丸10日は居たことになる。

旅の費用
航空運賃189000,宿泊費80000、ツアー参加費40000、現地交通費9000、食費
13500、総計331500、成田までの往復国内運賃を入れると334500円であろう。
好きなことが出来たのでこの位の出費は良いのではないかと考えている。


このページのトップに戻る



平成25年10月18日掲載

13.07.29−08.16 Kungsleden

写真をポイントすると説明が浮き出ます。

Kungsledenは英語にはThe King’s Trail と訳されている。Sweden北部、Norway寄りの荒野を通る連続した山道である。19世紀後期に創設の発想が起こり、1920年に立派な小屋を備えた425キロ余りの山道の完成を見た。今回はこの内、北極圏に属するArbisko−Kvikk―jokk間の200キロ余りを歩くことにした。この部分は10−20キロと適当な間隔で小屋が整備されている部分である。ここから南のAmmanaesへ130キロの間は全く小屋が無く、テント無しでは踏破が不可能なので、最初から対象外としていた。AmmanaesはVindelaelvsloppetのスタート地点で、日本から2度に亘りここを訪れた人は何人か居る。山道はここより更に南のHenmavanまで続くが、此区間は小屋が非常に整備されていて何時でも訪れることが出来る。

Swedenを訪れた人が等しく抱く印象は地形が平らだということであろう。国境のNorwayに向かってなだらかな起伏を繰り返し徐々に高度が上がることは確かであるが、日本と比べれば平地といえよう。

7月29日Thai Airで成田を立ち、翌朝7時前にはStockholmの空港に着く。国内線は安全の為11時半を予約しておいたが、その前の便に乗れそうなので、窓口で変更の手続きをする。変更には200   SEK(約3200円)必要であるが、早めに明日の出発地点に到達していた方が良いと判断し、予定より丁度3時間早い8時30分の便でKirunaに向かう。1時間20分ほどで到着、空港でArbiskoまでの便を訊くと、ここで5時間待つかKiruna市内で同じ時間待たないとArbiskoへのバスは無いと言われる。空港は何も無いので市内まで行って待つことにする。結局Stockholmで便を代えたメリットは全く無かったことになる。

Kirunaは鉄鉱山の町である。此町にも4−5回来ており、此れとて見たい物は無いが、空港よりは増しだ。木製の巨大な教会や鉄の町の鉄の市庁舎などを見て、暇を潰すが時間を持て余す。幸い天気は良く、気温も20度近くあるので、野外でブラブラするには支障は無い。

バスが出る時間にバス停に行ってみると、20−30人の其れらしい恰好をした男女が集まっていた。バスは更に西に130キロほど走り、Norway国境まで50キロ弱のArbikoに着く。ここへは原さんや菅原強さん達がLapland 100キロを走り、その後Icalandで菊池さん達と合流した年にNorwayのNarvikやFinlandのRovaniemiを訪れて際に一時立ち寄ったことがある町だ。北側に巨大な湖があり、南側には鉄道の駅と道路が走る街である。ここがKungusledenの起点である。立派な宿泊施設があり、ここに一泊し明日早朝の出発に備える。

07.31:7時40分、第一歩を踏み出す。全長200キロそれに横道にそれSweden第一の高山、    Kebnekaiseに登れば、案内書の標準行程では14日掛かる。それに天候が悪く、足止めを食らうことがあるかもしれない。行程は早めにこなして置いた方が無難である。今日は2日分の行程35キロ地点まで進みたい。

右手にせせらぎの音を聞きながら、白樺の林の中の山道を徐々に登っていく。道幅は1m程で、石の凸凹道だ。廻りに歩いている人は誰も居ない。2時間ほど歩くと道は狭くなり、人一人がやっと通れる位で、両側の草や低木が道に覆い被さり見えなくなっている所もある。躓かない様に用心しながら進む。やがて道の右側に小さな建物が幾つか見える。一つは簡易休憩所で“く”の字型をしており、文字の両端は外気に開いており、戸は付いていない。真ん中には小さな薪ストーブが付いていた。他の小屋は厠であろう。最初の小屋のある所がArbi―skoJaureであり、距離は15キロである。Jaureとは此地方では良くある地名で湖を意味する   Sami語である。湖は無数に近くあるので、無数に近いXXXJaureの地名があることになる。吊橋の反対側に小屋が見えてくるが、ここには立ち寄らず更に20キロ先次の小屋、Alesjaureを目指す。

道標は殆ど出ておらず、特に小屋の近くでは色々な道があり、道を失い易い。幸い犬を連れた2人連れに出会ったので、道を訊き、次の小屋に向かうことが出来た。暫く陽の指す中を歩いていると、雲行きが怪しくなり、風が強くなる。天気予報では好天の筈だが、如何も様子が可笑しい。暫く進み登りがきつくなる頃、雨が吹き付け出す。慌てて防水Jacketを着るのが精一杯でズボンは靴を脱がないと履けないので諦める。リュックも雨対策をして居る暇が無いのでそのままで進む。風は向かい風で非常に強く、時折後ろによろけたり、前屈みになって遣り過ごす。山の天候の急変は恐ろしい。

 

左手が深い谷に成って居り、此辺りはArbisko国立公園であるが、雨と強風の為、景色を眺めてたり、写真を撮ったりしている余裕は無い。先ほどの小屋を遅く出た連中の何組かに追いつく。皆悪天候の中、難儀をしている。僕は下半身はずぶ濡れ、靴はジャブジャブ、寒くなって来たので兎に角前進を続ける。体温が下がり動け無く成る危険は避けたい。此区間の昇りは330mであり、懸命に前進する。樹林帯の上の草と膝下までの低木しか生えていない地帯で、休みたくても風を避けて休める場所も無い最悪の状態だ。こんな所で唯一の避難場所は大きな石の風下だけだ。他の連中を何人か追い抜く。厳しい雨風は4時間程続くと治まり出し、綺麗な虹も見られる様になる。 

天候が回復する頃、台湾からの女性2人組に出会う。やっと生き心地がし、彼女たちに雨玉を遣り、立ったまま談笑する。道も緩やかに下り出し、遠くに小屋も見え出す。やれやれである。小屋に着いたのは17時40分、丁度10時間掛かったことに成る。35キロ10時間は先ず先ずといえる。この様な山道では毎時3キロが標準であろう。

宿に着いて先ず遣ることは食うことと、明日の準備である。ずぶ濡れになった衣類と靴を乾かせなければ成らない。小屋には乾燥室がありガス焚きの乾燥機があるが、運転されておらず、乾燥の期待は持てない。取り敢えず、開いている所を見つけて、濡れた物を掛ける。靴には雑誌の紙を丸めて居れて置く。翌朝まだ濡れている衣類をビニール袋に入れ持って出かけることになる。

Santiagoの道を歩いた時もそうであったが、今回も食事は日2回と決めている。宿には立派な台所があり、皆自由に使える。但し必要な水は近くの川や湖からバケツで運んでくる必要がある。煮炊きはガスバーナーで行う。食事の鍋や食器の洗浄は別の容器で行い、汚水は別のバケツに入れ、汚水処理容器までもって行き捨てる。小屋に着くと先ず食事である。今回は米を多用した。あちらで買った長粒米を焚いて、チーズ、ソーセージ等と共に食べる。生鮮食品は一切無い。毎回の食事は単調で全く変化が無い。これに、飴玉、チョコレート、クラッカー、レーズン等を歩きながら食べるだけである。それにSweden独特の板状の乾燥パンにチューブ入りの鱈子を塗った物も何回か食べた。小屋では食材を売っているが、皆乾物で選択の幅は狭く、それに高い。基本的な食料は多少重くとも、準備して行くべきであった

08.01:6時40出発、26キロ先のSaelkaを目指す。次の小屋のTjaektjaまでは13キロ、この間の昇りは220mである。今回歩いた中でこの辺りが最も標高の高い所で、最高地点は1150mである。勿論樹林帯の上であり、石だらけの草地や這うように生えている低木のみの起伏した高原で見通しは良い。近くの山の窪みには雪が見られる。西側10キロ辺りがNorwayとの国境で、そちら側の雪の山々はNorwayの山であろう。

 

大陸隆起の後氷河が形成したこの辺りの地形は雄大である。山が迫ると言う感じは全くせず、谷の底辺は広大である。その中に行く筋の水が流れ、それらを横ぎり南を目指す。小さな流れは石伝いに超えることが出来る。大きな川には鋼製の吊橋や、木製の橋が架かっているが、一箇所だけは靴を脱いで渡河をした。水が雪解け水で永く浸かっては居られないので、急いで渡る。

Tjaektjaの小屋の横を通り、更に13キロ先の次の小屋のSaelkaに向かう。この間の昇りは150m、下りは300mである。歩いて居て、人に会うことは滅多に無い。その理由は僕は早朝出発、一つ宿を飛ばし、その先の宿を目指して居る為である。一般的は歩き方は毎日13−15キロほどしか歩かないのだ。

 

この為にはモットゆっくり宿を出ても十分間に合う。特にこの時期この辺りでは夜も真っ暗になることは無く、必要とあれば何の照明器具も持たず、真夜中でも歩くことは可能である。又山小屋は21時まで開いており、其れまでに小屋に達すれば宿泊は可能なのだ。この為、標準的な歩き方は朝ゆっくりと動き出すようだ。先ず最初に会う人はKungsledenを南から北に歩いている人である。この人たちに会う時間は凡そ予想がつく。歩き出してから3−4時間すると最初の人にであう。この人たちは宿を1−2時間前に出てこちらに向かっている人たちだ。次に会うのは最初の宿を通り過ぎ2−3時間後である。これらの人たちは今日僕が目指す目的の宿を出て、此方にむかっている人たちである。次に会う人たちは先ほど通り過ぎた宿を出て、僕と同じ方向の宿を目指す人たちである。これ等の人達を多い時には20−30人追い抜く。此れは僕が特別早く歩いているからでは無く、ただ休まずに歩き続けている為である。こちらの人たちの歩き方は、彼方此方で休み、昼時には携帯バーナーでコーヒーを飲んだり、暖かり昼食を摂ったりしている為だ。歩きのスタイルが違うのだ。この為彼らのバッグは20−40kg程になる。因みに僕のBagは12Kg程度である。このぐらい軽量であれば、略丸一日休みなしに歩くことは可能なのだ。

Kaelkaの宿に15時40分に着く。丁度9時間掛かったことに成る。曇っては居たが雨は降ることは無く、快適に歩けた1日であった。

08.02:今日の予定はKungsledenを離れKebnekaiseに行くことだ。折角傍まで来たのだから、Sweden一の高山(2104m)に登らない手はない。この為には丸2日が必要であるが、ここまでの進み具合を見る限り、行程的にも問題はない。

6時40分に歩き出し、先ず12キロ先のSingiまで行き、そこでKungsledenを離れ東に進路を取り、更に14キロ先のKebnekaise小屋に向かう。Singiまでは全体で100m下り、そこらKebnekaiseまでは+120m、−100mの高低差がある。

 

幾つかの小川を渡り、鋼製吊橋、木橋を渡り、長い木道を通る。7時間ほど歩き下っていくと、前方に赤いアンテナが見えてくる。如何やらあの辺りが今日の目的地であろう。鋼製の吊橋を渡るとまた昇りとなる。その先の真新しい木橋を渡ると下りとなるが、ゴロゴロと大きな石があり歩きにくい。小屋の傍には沢山のテントが立っており、一段と低い窪地に可なり大きな建物が何棟かある。2時40分に小屋に到着する。久し振りに電気も水道もある大きな小屋だ。

先ず食事だ。此小屋には立派なレストランあり、其れなりの物が出てくる。着いた時は既に昼食が終わっており、ケーキの他に何か食べ物は無いかと訊くと、サンドイッチならあるという。暫く振りに食う柔らかいパンは美味しい。ハムにありつけたのも何日振りかだ。70クローネ(約1000円)と安くは無いが、この場合銭金の問題ではない。マトモな物にありつけるなら、食っておかねば成らない。夕食はSwedenの魚料理だ。色々な酢漬けの鰊、燻製の鮭、小エビ、サバなどである。白ワインを2杯飲み、占めて6000円、朝食は1600円であるが、ピーマン、トマト、キュウリ等野菜、ハム、チーズ、ゆで卵、幾種類かのパン、ジュース、牛乳、ヨーグルトである。この様に食事の出る宿も此後、3−4日毎にあるので、日頃の単調質素な食事の憂さ晴らしが出来る。

シャワーを浴び、サウナに入り、洗濯もする。ここの乾燥室は大きく立派である。乾した物も4−5時間で完全に乾くので助かる。気温10−20度の中を歩いているので、そう汗はかかない。2−3日なら着替えをしなくても気に成らない。気にしない。

08.03:当初の予定ではKebnekaise登頂は全く予定していなかった。日本での事前調査が十分ではなく、山の位置関係が分からなかったである。Arbiskoの小屋でパンフレットを貰い、そこでKungsledenとの位置関係が明確になり、登ることを決めたのである。昨夜の内に山頂の気象条件や氷河、雪に関する情報をへ、ほぼアイゼン等の特別な用具が無くても登れることが分かった。正午の山頂の気温は約10度で雪はシャーベット状にになっている筈である。雪のある場所は最頂部、高度で約70mほどだという。

小屋の位置は高度700mに近く、昇り1400mほどであるが、実際には途中一旦400m程下り、又登り出すので、都合+−1800mが往復の総高度差となることも知らされていた。山頂までの距離は10キロ、往復20キロである。此程度の山は日本にも沢山あり、問題では無いと鷹をくくっていたのが間違いであったことが後で分かる。日本の山とは山が違うのである。

確りと朝飯を食い、9時15分に出発する。装備はT−shirt,薄でのズボン、それにお八つと若干の水、簡易雨具、厚手の長袖T−shirtをビニール袋にいれ背中に背負っただけの極軽装である。小屋から出ると昨日来た方向に進むが、昨日の道の更に上を通る道であるがKebnekaiseとは何処にも書いてない。1時間程の間に表示は2箇所あり、どちらもVaetraleden(西山道)と書いてあるだけだ。確かに道は西に向かっている。宿で見た山頂への地図でも、道は確かに西に向かってはいた。確証が持てないまま更に進み、前を行くグループに追いつき、そこで初めてKebnekaiseに向かっている確証を得る。

振り返ると昨日渡った鋼製釣り橋が左後方に下に見える。山頂への道は別の沢の中腹を登りだし、坂も急に成り出す。大きな石の凸凹が随所にあり、その上水の出ていて歩き難い道だ。沢に下りて一休みしている連中も見かける。天候さへ悪くなければ、暗くなる心配は無いので、皆安心して山行を楽しんでいるのだ。

暫く行くと厚い雪が沢を覆い、その下を激流が流れている所が何箇所もある。更に登って行くと、Kebnekaiseから舌の様に突き出した氷河から流れ落ちてくる幾つかの流れを横ぎらなければ成らない。渡河は大小10箇所以上に及ぶ。出来るだけ石伝いに渡れる所を探し、流れに沿って上に行ったり、下に行ったり暫し右往左往する。折角一つの川を渡りきり、安心しているとその先の川が渡れる所が無く、戻って別のルートを捜さなければ成らないこともある。この間の時間のロスも馬鹿に成らず、又距離や高度さも標準値より大きくなる筈である。何回かの試行錯誤の末、全ての流れを渡り切る頃には、標準ルートから大きく外れ、何処が本道なのかを捜すのが一苦労だ。前方上方を歩いている人から、ルート延長線を捜し、其方に向かって岩石だらけの斜面を前進可能な場所を探し、遅々と登って行く。やっと本来の道に戻って昇って行くと又道を失う。

仕方が無いので兎に角上に向かって、右手の雪渓と境の巨大岩石の岩場を這うように登って行く。持っているストック等は邪魔物になっており、四つん這いになり、岩にしがみ付くようにして上っていく。帰りは正規の道を辿ることが出来たが、ここが登頂に最難関で一時は登頂を諦め引き返すことも考える程であった。全体の3分の1辺りの場所である。何とか昇り切って、頂部の鞍部にでる。やや平らな地形が広がり、多くの人達がここで休憩をしていた。右手にはクレーターに雪を抱く別の山頂が見え、左後方には先ほど見た氷河が一段と近くに見える。前方にはもう一つの山があり、可なりキツイ上りが続く。此山を登りきると400m下ることに成るのであろう。天気はほぼ快晴、道さえ分かれば安心して歩ける。今日は可なりの人が登頂を目指しており、ここからは前後の人を確認しながら前進できる。

大小の石、滑りやすい砂利の九十九折れをゆっくりと登っていく。この辺りは確りと道が確認出来、迷うことはない。途中何組か人を追い抜き漸く頂部に達する。沢山のケルンが立っている。山はそれ程大きくないが、此辺りで良く見かける地形で、細長い饅頭の様な恰好をしている。頂部の傾斜はなだらかであるが、側面の傾斜は非常にキツイ。

底部の谷を挟み、反対側には同じ様にキツイ登り坂が見え、小さく人の姿も見える。昇りのきつい所は落差にしてほぼ400m、その後はややなだらかに300m程登るのであろう。山頂は此処からは見えない。短い九十九折れの悪路を用心しながら下りていく。尻餅なら未だ良いが、谷側に転倒すれば大怪我は必至である。山の斜面の傾斜は70−80度はある様だ。足元を確かめながら、慎重に下っていく。

やっとの事で谷の底部に降り立つ。氷河が作った谷の底部はほぼ平らである。500m程の底部で、大きな石が不規則に並び道は分かり難い。辛うじてケルンを頼りに谷を渡り切ると、キツイ上りが暫し続く。昇りのほうが体力を要するが、怪我の危険性は低いので、安心して歩ける。途中休んでいる人達を次々に追い抜き、登って行く。水は呑みつくしたので、石の間から湧き出している水をボットルに入れ呑む。此辺りでは殆ど流れている水や、湖の水はそのまま飲めるの有り難い。

キツイ上りが終わると、大きな岩石の山肌が広がる。道は彼方此方で途切れ、捜しながら歩く。岩場は何処でも歩け、決った足跡が残り難いので、ケルンや先を行く人を目安に方向を確認しながら進む。やがて非難小屋が見えてくる。山頂は近いのであろうが、未だ見えない。折悪しく、ガスが掛かり出す。この様な道が分かりにくい、岩石地帯で視界が利かなくなることは恐ろしい。ガスが深まらないことを願うのみだ。

 
 

山頂近くはほぼ平らである。暫く行くとやや下りなった斜面に沢山の人が休んでいる。その直ぐ前には、霧に覆われた雪のなだらかな山頂が見える。僕はこれがKebnekaiseの頂上だと思った。休まずにシャーベット上の雪の上を歩き出す。雪の深さは20センチ程で歩き難い。足を取られえながらゆっくりと昇って行くと、更に150mほど先に別の頂がある。其方に向かって登り出す。上からは3人の御婦人が大声を上げならら、足を取られてへっぴり腰で下りてくる。中の一人はアイゼンを付けており、全く問題なく降りられるはずであるが、他の2人と同じ恰好で降りてくるので可笑しくなる。漸く山頂に達した時は誰も居なかった。4時少し前であった。山頂からは霧の為に何も見えない。300m程離れた人々が休んでいた所も見えない。雪上の頂部に立つ白い旗を写真に収め、下山する。雪の斜面も下る方が難しい。慎重に無事降りきる。

後は来た道を辿り戻ろうとするが、大きな岩石地帯で道が分かり難い所で、道から逸れてしまう。焦りもあったのであろうか、岩場で転倒眉間から血が出るが、直ぐに血餅が出来血は止まる。大事に至らなくて良かった。傾斜が緩やかな所で軽傷で済んだのだ。霧も晴れ、本来の道には上り下りする人達を確認出来ることも幸いし、暫し歩き難い岩石の斜面を横切り、本来の道に戻ることが出来た。後は往路の難所の岩場を道に迷わず降りることに注意を払いたい。

急な昇り降りも何とか無事通過し、例の難所に差し掛かる。大きな岩場で、此処も下りの方が危ない。慎重に両手両足を使い、時間を掛け無事に降りることが出来た。次は渡河である。これには梃子摺り、ほぼ下半身ずぶ濡れになる。適当は渡河場所を探すが、中々無い。日中高温で夕方7時頃には水量が朝の倍ほどに成っているからだ。結局今日は終わりであるので、濡れることを覚悟で川を渡った。気温はまだ20度位あり、濡れても余り寒くは無く、宿に辿り着く頃にはほぼ乾いていた。問題は靴でこれは乾燥室で十分乾かすことが出来る。

宿に戻ったのは8時15分で、出発から丁度11時間を要したことにはなる。時速2キロ以下の歩みである。アメリカ本土の最高峰Mackinley(4400m+)でも之ほど時間は掛からなかったと思う。標高差+−1800m、距離往復20キロにこれ程多くの時間が掛かるとは予想できなかった。最も永く困難な20キロ、と+−1800mであった。

先ず無事登頂帰還を素直に喜び、夕食を取る頃にする。夕食は9時までなので、急いでレストランに行く。主菜はトナカイのヒレステーキで柔らかく美味しく、それに量もタップリであった。これに赤ワイン2杯で7000円程であった。食事の後は靴を乾燥室に入れ、サウナに入り、就眠する。

08.04:宿を8時に出て、歩き始める。目的地はKaitumjaureである。Singiまで同じ道を戻り、其方に向かえば27キロあるが、Singiの4キロ手前にKaitumjaureへの道標がでているので其方に入っていく。KungsledenやKebnekaiseへの道よりは通る人が少ないので、岩場で道の分かり難い所は特に注意しながら進む。途中から雨が降り出す。2時間ほど歩くと、右前方に2人連れが北に向かってあるいているのを見かける。Kungesledenを歩いている人に違いない。暫く歩くとKungsledenに突き当たり、其処にはSingiまで3キロと表示がでている。目的地のKaitumjaureまでは10キロあることを意味する。石の多い草地で緩やかな起伏を繰り返しながら、徐々に下っていく。更に3時間ほど歩き、宿に着いたのは5時10分であった。出発してから9時間余りかかっており、25キロ以上は歩いたようだ。

 

宿で明日の行程を確認する。明日は最初の小屋までは9キロ、その先湖を渡り、さらに16キロ先のVakkotavareまで行きたい。フェリーは午前中は8時から10時までと午後3時から5時までが営業時間たと知らされる。

今日まで5日間略標準行程の2倍の距離を消化してきた。多少無理があった様だ。足に障害が出て来た。今まで出来たことの無い所に肉刺が出来た。両小指の爪の上の部分と第2指の同じ部分だ。これは靴の天井部と指との間が狭しぎることに起因すると考えられる。2枚使っている中敷を一枚にして様子を見ることにする。もう一つは両足とも踝前部と下腿の接合部が腫れて痛いのだ。これは衝撃の少ない歩き方をする他対処の方法はない。最悪の場合は鎮痛剤をのみ騙しながら歩く他無い。

08.05:午前のフェリーに十分間に合うように6時半に宿をでる。30分ほど歩き、鋼製吊橋を渡り、その後右手に川、左手にトナカイ柵を見ながら歩く。暫く歩くと、柵の反対側に一張りのテントがあるの見て不思議に思いながら先を急ぐ。やがて道は段々狭くなり、途切れがちになる。それでも、前にもこの様な所はあったので進み続ける。更に道は細くなり獣道の様になる。王様山道とはトナカイ柵に沿った獣道だ等と思いながら歩き、渡り難い川を2つ渡り、更に進む。もう道は殆どない。その先に大きな湿地があり前進は不可能となる。普通このような所は木道が用意されているが、木道はない。道に間違った事に気付き引き返す。先ほどのテントはKungsledenの側に張られていたことが、引き返して分かった。橋を渡って間も無く、トナカイ柵に扉が付いて居り、それを開け柵の中に道は続いていたのだ。

 

道に迷ったお陰で、2時間近く無駄にしてしまった。午前中のフェリーに間に合わない可能性が高くなり、一時はほぼ諦め、次のシナリオも考え始める。9キロと距離は短いが、登り200m、下り300と起伏条件は厳しい。特に踝上の痛みは下りの衝撃が響く。湖面は見えているが、中々達しない。懸命に下るが終に時間切れである。ボート乗り場が見えてくる。時間は10時5分を過ぎていたが、そこには荷物を持った3人が居た。彼らはボートを待っている筈だ。やっと到着、訊いてみると、間もなくボートはでるという。間に合ったのだ。間一髪、今日の行程は達成できることになった。

ボート乗り場の右手やや高い所に見える建物はTeusajaure小屋である。フェリーの運航は今まで泊まって来た宿を運営しているSTF,Sverie Turistfaereningen(スエーデン旅行者協会、この協会は又全国のYouth Hostelの運営も行っている)が行っており、料金は100SEK(1600円)で切符を呉れる。船は8人乗りで、乗船の前に救命胴衣を付ける。ボートの運転は宿の管理者であった。幅1キロほどの細長い湖を渡ると、対岸にも人が何人か待っていた。

直ぐに歩き始める。距離は15キロ弱と大したことは無いが、登りが400m、下りが480mあり、他の区間より厳しい。短い草、地を這う低木、それに石のの高原で、大きなうねりのある台地を登り下りを繰り返しながら、徐々に登っていく。広大な平原で下から見上げる地平線に達すると又下り、又上りその先の地平線を乗り越える繰り返しである。道はハッキリとしているのは幸いである。こんな所で道を失えば大変なことに成る。道がなくてもどの方向にも歩けるので、迷えば大きく逸れてしまう。

今日も会う人の姿は少ない。地平線の彼方に右手に進む人の姿が微かに見える。その地平線に達すると変哲もない木片の矢印が立っており、Bron(橋)と黒字の手書きが見える。其方に進めという意味だ。やがて左手下方に吊橋が見えてくる。橋を渡り、渡った所で一休みする。川に沿って下って行くと、向かい側から此方に来る人に出会う。宿までの距離と特に難所は無いか訊いてみる。

距離は10キロ近くあるが、特に難所はないという。もう1時は廻っているが、今日は余り距離は稼げていない。最初の迷いも大きく影響しているが、足の故障の影響が大きいのであろう。朝食の後鎮痛剤は飲んで歩き出したが、その効き目も薄らいで来た様であり、着地の度に痛みを感じ、これが歩みを遅らせているのであろう。

更に立ち木の無い岩石高原を1時間半ほど歩くと、次の湖面が見えてきて、最初に白樺次いで針葉樹の急斜面が湖面まで続いている。落差は450m程の様だ。樹林帯の中に入っていく。大小の石に加え、木の根の障害物が加わり、更に急斜面の為、路面が水に抉られて落ち込んでいる所もある。それに山道には至る所に水が流れており、歩き難いこと夥しい。慎重に足の置き場を選びながら降りていく。

やがて送電線の高い鉄塔も見え出し、更にその下を走る車が小さく見える。車を見たのは6日振りだ。送電線は上流の水力発電所に繋がっているのであろうか、それともNorwayからの買電用のものであろうか。針葉樹林帯に入って暫し下りていくが、中々鉄塔の頂部が目の高さには成らず、何時まで経っても可なり下に見える。

何も焦ることは無い。何とかVakkotavareに辿り着ければ、其処はバスが更にその奥まで通っており、電気も水道もマトモナ食べ物もある。又明日1日は移動日の為、実質的な歩きはなく、完全休養日となることなど考えて、少しずつ降りていく。それにしても、鉄塔の高さを降りるのにどの位時間が掛かったであろうか?感じ的には無限であった。小屋に辿り着いたのは7時半であった。出発後11時間を要したことになる。

08.06:宿でユックリと休み、10時10分のバスに乗り、北西に何10キロ長いAkkajaureの下流のKebnatに行き、其処からFerryに乗り、次の宿Saltoluoktaに向かう。バスでの移動距離は30キロ程度であろうか。到着すると直ぐに100人は優に乗れるボートが遣って来て乗船が始まる。その後宿で使う食材やその他の消耗品の積み込みが、3人の船員により行われこれに時間が掛かる。全て手作業での積込みで、小型トラック満載分の量を積み込むと、出航となる。

20分ほどで対岸に着き、200m程山道を歩き、昼前に次の小屋、Saltoluoktaに着く。ここも設備も良く、高いけれどまともな食事が出来る。洗濯をしたりサウナに入ったりし、明日からの歩きに備える。この先の標準行程は4区間あり、これ等は無理をすれば半分に縮めることは可能であるが、その組み合わせは33キロ、40キロとなり、今の足の状態では可なり困難であろう。行程的にもユトリがあるので、無理をせず標準の歩き方をすることに決る。

08.07:8時に歩き出す。直ぐに小雨が振り出す。空は全面雲っており、予報でも終日雨であったので、雨対策はした上での出発であり、小雨程度では何の心配もない。小屋を出ると上りだし、約350m程登る。暫くは樹林帯の中を歩く。針葉樹の森を過ぎ、雪折れした白樺がおおくなる。その内に人の背程の白樺が儘らに生える所を通り過ぎる。その後は草と踝ほどの高さにしかならない地を這う樹木の世界となり、見晴らしが良くなる。此辺りの森林限界は斜面の向きにも拠るが、ほぼ海抜500−600mである。

見晴らしの良い、うねる様な高原を徐々に登っていく。雨は相変わらず続いている。彼方此方でトナカイの糞を見るようになり、周りを見渡すと彼方此方にトナカイの姿を見ることが出来る。トナカイは大小の群れや、親子連れ、単独で雨の中草を食んでいる。向こうでも此方に気が付くと、じっと此方を見ている。150−200m位の間隔があれば脅威は感じない様である。

草原を登りると、うねる地形となる。これは5キロほどあろうが、この間の登り下りは+−40mとある。略正午頃、前方に湖が見えてき、其処からは下りとなる。落差は120mとある。樹林帯に入る前の大きな石の上に、ピンクの雨具を着た女性が湖に向かって座っているのが見えた。こんな雨の中、こんな所で何をしているのだらうかと思いながら通り過ぎると、その内の一人が声を掛けてきたので、立ち止まって聞く。彼女達は雨の中でピクニックを楽しんでいたのではなく、商業活動中だったのだ。詰まり客引きだ。実に驚きである。

人の数よりトナカイの数の方が多い、この偏狭の地にも資本主義の競争原理が働いているのだ。話の内容はこうであった。この先フェリーがあるが、下っていくとボートの案内版があり、右手に入って行けば、時を置かず向こう岸に届けてやり、あちらには火は使えないが2人が只で泊まれる小屋があるので、是非右手に行ってくれというのだ。悪い提案では無いので、そうしようと返事をして通り過ぎる。降りながら、もう一度話しの内容を検討する。まさか此方の人が嘘を付くとは考えられないが、最悪のシナリオの想定は何時の場合でも必要だ。仮に向こうに小屋が無ければ、又此方に戻るか13キロ先の次の小屋まで歩く他無い。仮に小屋があって宿泊が可能でも、火が焚けなければ濡れた靴を乾かすことは出来ない。等等考えると矢張り当初の予定通り、こちら側の小屋に泊まり、明朝フェリーで対岸に行っく方が無難との結論に達する。そうこうする内に、ボート乗り場の看板の位置に達する。森林限界であり、右に入る道は細く、歩きにくいようだ。

真っ直ぐ下ることにするが、一旦肯定的な返事をしてしまった引っ掛かりが残る。日本人は嘘吐きとの印象を残したくないのだ。Sitojaureの小屋に着いたのは1時40分であった。ここの管理人は年配の女性で、直ぐに宿泊等に案内してくれ、好きな部屋に泊まれといった。小屋には連泊の客が3−4人居ただけで、複数の部屋が選択できる。入り口に近い上下2つのベッドのある部屋を選ぶ。ダイニングキッチンは広く、薪ストーブが点けられ居り暖かい。ストーブの熱は乾燥室にも伝わり、物は十分に乾きそうだ。

 

食事の後、明日のフェリーの相談に行く。ここのFerryは民営で、管理棟の右手と左手に業者の船着場がありどちらを選ぶかと言う。僕は先ほどの引っかかりもあり、右手の業者を指名する。明日朝8時管理棟の直ぐ前にボートが来る手配が終わる。管理人は40年近く前、NHKで仕事をし、1年間渋谷に居たという。又、ボートの主Annaも10年ほど前に日本に居たので、明日聞いてみると良いとも言った。その後木小屋に案内してくれ、薪の作り方を教えてくれた。木小屋には1m程に切られた白樺の丸太が大量にあり、これ等を宿泊者が必要に応じて、適当な長さに切り、更に割ってストーブまで持っていくのである。小屋の生活に必要な作業は全て宿泊者がするのが原則だ。水汲み、汚水の処分、掃除など全てである。此方ではこれ等の決まりが良く守られており、どの小屋もトテモ綺麗だ。薪小屋には丸太を切る台、寸方尺、鋸、鉞、専用薪割り機などが用意されている。最初に長い丸太を大きな弓鋸で切る。西洋鋸は押して切る。日本の鋸は引いて切るが、これは最初切り出す時直ぐに始まれるが、押して切る鋸の場合、最初は中々上手く行かない。1−2ミリ切込んでしまえば、その後は中々の切れ味である。丸太を鉞で割るのは中々重労働で、熟練を要する。これを手軽に出来るのが専用薪割り機である。これは僕が勝手にそう呼んでいるもので、あちらでは何と呼んでいるのかは分からない。他の小屋でも見かけたが何に使うのか、又どの様に使うのか検討が付かなかったが、彼女の説明を聞き納得できた。使ってみると非常に簡単に薪が割れる。鉞で割る場合は中々狙った所に振り下ろせないので、ことの他効率が悪いのである。此機械を使うと必ず割ろうとする所に刃が位置し、それ以外は在りえないのである。機構は簡単である。薪を割る刃、刃に力を加える可動錘、それにガイドである。刃と、可動錘は共にガイド上を自由に動かせる。直径10mm程の鋼柱がガイドである。これの下部に刃の部分、その上部に可動錘が取り付けられて居る。

刃、及び錘がガイドに沿って動く必要がある。その為刃の一方には中空の穴があり、それを介してガイド柱と結びついている。可動錘はその真ん中にガイド柱よりやや大きな穴があり、これを介してガイド柱を上下する。

先ず薪割り台のとなる大きな丸太を切り口を上に用意する。この台にガイド柱の径に合わせた穴を開け、それにガイド柱を差し込む。ガイド柱の永さは150−200cm程であろうか。立てたガイド柱に先ず刃の部分を上から滑り込ませる。その上から真ん中に穴の開いた錘を差し込む。錘の重さは2−3Kgであろう。これで準備は全て終わりである。刃はガイド柱を上下移動が可能で、またガイド柱を中心として、水平方向には360度首振りが可能である。c用意の出来た薪割り台の上に割ろうとする丸太を乗せ、刃を引き上げ、丸太の割ろうとする位置に降ろす。次に錘を出来るだけ高く上げ、両手の力を使い、思い切り振り下ろす。この一発で薪には可なりの割れが生じる。刃はこの割れの位置に留まっているので、これを2−3回繰り返すと、大抵の丸太は割れる。簡単ではあるが、良く考えられて便利な機械だ。

08.08:予定の8時にボートが遣ってくる。乗っているのは昨日声を掛けた来た女性だ。客は僕だけである。2001年に宇都宮の高校に1年間留学したことがあり、当時はある程度の日本語を話せたが殆ど忘れて仕舞ったと笑う小柄な女性だ。当時17歳だったというと、今は30前後に成っているに違いない。

船には魚網も積んであり、魚を取り、燻製にして売っているそうだ。彼女の家系はSami族であり、今でもトナカイを中心とした生活をしているという。昨日沢山のトナカイを見たと言うと、それらは全部家のトナカイだといった。トナカイには全部所有者が居るのだ。湖は浅い所もあり、見える岩と見えない岩がある。速度の落とし、慎重に進む区間がある。20分程で対岸に着くと4−5人が待っていた。渡船料200SEK(3600円)を払って降りる。

Ferryが可能なのは夏至の頃から9月末までと短い。この間に稼げる額は如何程であろうか?多少多めの想定として、ここを通る人の数を上下50人ずつとする。これを2軒の業者で同じ様に分け合うとすると、一軒当たり日に50x3600=180,000円となる。運行可能な日数90日をかけると1620万円と成る。必要経費もあり、それ程いい収入源とは言えないのではないかと思う。元々この地はSami人の地であり、彼らには色々な既得権が認められているが、決して生活が容易であるとは言えないのではないか?この渡船権益もここの2家族が辛うじて確保できた物であろう。今回の山行では4箇所のFerryを利用したが、個人営業のFerryはここだけで、後の全てはSTFが行っていた。

 

ボートを降り、直ぐに登り始める。歩く距離は10キロ程で、約330mのぼり、その後は490m下ることになる。途中とトナカイの群れや雷鳥を見かける。宿のあるAktseには13時40分に着く。

08.09:8時45分小屋を出、歩き始める。今日の行程は24キロ、高低差は+385、−405mである。途中2つの湖の淵を歩く。中年の夫婦に出会い、暫く一緒に歩く、が何時の間にか彼らは付いてこなくなる。途中で休憩しているのであろう。鎮痛剤のお陰で、足の痛みも治まっており、今日の行程をこなせば、全行程を踏破できる見通しが立つ。焦らずに歩き、15時10分にPaarteの小屋に着く。

08.10:最後の行程は18キロ弱、高低差も小さく、全く問題は無いが、早く起きたので、7時15分に小屋をでる。天気は良く、途中ノンビリと歩く。初めて自然の中でCloudberryの存在に気付き、彼方此方で抓んで食べる。北欧にはBerryと称される小さな見は何種類かあるが、Cloudberryは特に珍重されている。湿地に生える草になる直径1cmほどの黄色い実で上品な味がする。何故これをCloudberryと呼ぶのは分からない。Goldberryの方が相応しいような気がする。

昼頃に大きな砂利道出る。道は平坦で、反対側から何人間が遣ってくる。彼らはこれから歩き始めるのであろう。10分ほど歩くと、右手に木造の大きな建物が見えてくる。Kvikkjokkの小屋に、12時10分に着く。これで、今回の歩きは完了である。

7月30日から12日間山道上の小屋に泊まったが、これらは一切予約が出来ない。僕は比較的早く小屋に到着するので、通常好きな部屋の好きなベッドを選ぶことが出来た。所謂先着優先方式を取って居て、誰にも平等だ。どの小屋も収容能力に余裕があった。大きな小屋は100人を超える収容能力があり、小さな所は20人程度であった。ある小さな小屋で、収容能力を訊いて見ると、16人だと言った。但し、最大25人を泊めた事もあったと言う。所謂緊急避難的な扱いで、来る者は嫉まずなどだ。開いて居る床に寝てもらうのだ云って居た。山を歩くもの雨湯を凌げれば、文句を言う筋合いはない。

一室2−30人も止まれる大部屋の在る所も在ったが、通常は2人、4人、6人、8人程度の部屋が多く、2人部屋や4人部屋に一人で泊まる所も在った。部屋にはベッド、枕、毛布などが付いて居る。枕にはT−shirtの着せ、ベッド上で持参した薄手の寝袋で寝た。毛布が必要な程寒くはなかった。宿の入り口には寒暖計があり、朝方でも10度切る事は何度も無かった。今年は暖かい夏の様だ。

最後の宿の施設は大きな木造の棟が何棟かある。舗装道路が更に奥まで通って居る、山道の起点・終点の宿である。白流が流れる大きな川の崖の上のレストランで昼食にありつく。其の後川沿いをぶらつき、Blue‐  berryを沢山たべる。山行の途中でも沢山成って居たが、ユックリ、道草を食っている暇は無かった。実は沢山成って居るが、粒は小さい。掌に溜めては口に放り込む。自然の酸味と甘さがあり、美味しい。もう少したつと、真っ赤なRingonberryが沢山成る筈だ。これは酸味が少なく、甘い。Swedenではジャムとして良く食べる。

10日間の歩きの中で、出会い立ち話をした人も何人かいた。大半はSweden人であったが、オランダ、ドイツ、フランス、英国、Norway人などであった。長身で年配のNorway人は大きなザックを背負い、Kungsledenの最南から最北まで歩き、更に歩き続け住んでいるNorway最北東のKirke―ness(ロシアとの国境まで数キロの漁港、3年の程前に立ち寄った町)まで帰るのだといっていた。この様に野宿の用意もし、単独で何十日も歩いている人も居るのだ。

この辺り一体はKungsledenの他、山道が縦横に走り、早朝は2000キロを越えるそうだ。野宿の容易があれば、小屋の無い所でも安心していける。ただ怖いのは雷である。何もない高原では雷から身をまもる方法は皆無に近い。雷には2−3度合っているが、幸い遠かった。只、一度は朝の3時ごろか南を音と震動で目が覚めたことがあった。可なり近くのようであった。雨の降りも激しかった。また一眠りして起きてみると、昨晩よりテントの数が増えている。訊いてみると、今朝方の雷で、何もない高原のテントを引き払い、より安全なここへ引越ししたのだという。寝込みを襲われ、豪雨の中テントを撤収し、移動するのはさぞ難儀であったであろう。このあたりでは夜中でも暗くならないのが幸いである。

歩き方も様々だ。単独、夫婦、夫婦もどき、親子、家族、友人、大小のグループなどなどである。女性の単独行も結構多い。又、犬連れの人も結構多い。長期に預かってもらうのが難しいのかもしれない。結構歳の言った人も歩いている。又、家族と一緒に小さい子供も歩いている。小屋を中心に彼方此方行ける範囲を歩き、徐々に行動半径を広げている家族にも出会った。夕食時など、自ずとこう言った話がでる。小さい頃から自然に親しみ、馴染む習慣を付けることは重要に思える。 

08.11:バスでJokkmokkにでる。数年前雲峰さんとSwedenを南北に縦断する内陸道路を北に向かって歩き、初めて北極圏に入った所だ。Youth Hostelに荷物を預け、散策に出かける。Hostelの傍には大きな広場があり、其処では常時地元産物の露店が並ぶ。見ていると店の女主人と思しき人が話し掛けて来た。息子が日本人と結婚して孫も居るというのだ。津波や原発事故等について話が出た。こんな地の果ての人でも日本を案じている人は居るのだ。

 大きな教会に立ち寄り、その傍にあるSami博物館によって見た。可なり大きな施設で、入場は無料。トナカイと狩猟を生活の基盤としている、彼らの住居、生活用品など中々の展示内容だ。

 翌日にはボスニア湾にめんするLukeaaの町に出る。2万5000人を超える学生を擁する工科大学のある町である。この町も以前来たことがある。Luleaa川の上流13キロほどの所にGammelstads(古町)と呼ばれる世界遺産になっている教会村がある。500年ほど前はそこがLuleaaの町の中心であったいう。この辺りは氷河の消失以来、毎年約1cmの隆起による地盤上昇が在り、水上交通の便宜上、17世紀には町の中心を今の位置に移さざるを得なくなったという。今でもLuleaa市は毎年2ヘクタール余りの土地が増えているという。

Kungsledenの歩きは予定を大幅に端趣したので、Luleaaの町には4日滞在することになった。その間、Luleaa工科大学を訪れたり、船で東に広がる多島海を巡ったり、町の散策が出来た。図書館にも行ってみた。外国図書としては数十ヶ国の物があり、日本の本も50冊ほどが並んでいた。日本の市立図書館でこれだけの外国図書を揃えている所はあるであろうか?民意が低く、その必要がないのであろうか?

大学は創立40年ほで新しく、広いCampusの赤に、近代的な建物が何十っており、駐車場も広く、校内にはバスの停留所が何箇所もある。夏休みの為か、校内に人の姿は少なかった。

多島海への船は南桟橋からでる。300人程乗れる船には精々50人ほどしか乗っていない。船がでると左手に同じような船が3隻、形は同じだが一回り小さい船が煮みえる。これ等が何をするのかを知る為、翌日傍まで歩いていった。砕氷船であることが分かった。バルト海の北に広がるSwedenとFinlandに囲まれた海はボスニア湾と呼ばれ、流れ込む真水の量が多く、塩分濃度は極めて低い。舐めて見ると、僅かに塩気を感じる程度だ。この為冬季は全面結氷し、船舶の航行が不可能になる。海運による物資の運搬は国の経済に重要である、Swedenはこの為8隻の砕氷船を保有し、その内4隻がLuleaaを基地としている。これ等の船には北欧神話の神々の名が付いている。砕氷船は排水重量が9500トンと大きく、ボスニア湾の航路確保の他、北極点への人及び物輸送、救助などの活動もしている。

船の旅は途中4つの島に立ち寄り、乗り降りがある。其のまま載っていると夕方にはLuleaaに戻ってくる。寄港時間は短く、島に上陸、散策する暇は無い。暇が有れば、島にある小屋に泊まってノンビリすることも出来る。島の幾つには人が定住しているそうだ。 


このページのトップに戻る



平成25年7月9日掲載

13.06.28−29Lapland 100K
13.07.09・大森

大会公式サイト www.laplandultra.nu

写真をポイントすると説明が浮き出ます。

6月26日成田を立ちBangkok経由でStockholmには翌早朝に着く。国際便の遅れも考慮に入れ、更に北のSkellefteaa便は11時過ぎで予約して置いた。偶然の一致でStockholmの走り仲間SeanとChristerもこの便を予約して居る事が分かり、此処から先はレースが終わり、Skellefteaaに戻る迄彼らと行動を共にすることにしていた。

 登場時間の少し前に彼らも現れた。Seanは過去2回Lapland100Kに挑戦しているが、膝の故障で完走を果たして居ない。Christerは100キロは今回が初めてで、13時間台の完走を目指すという。身長は196cm、細身で速そうである。彼は2年前、Seanと僕を空港まで送って来て呉れ、今回で2度目の出会いである。

 レンタカーと宿の手配はSeanがしており、今回同道した九州のランナーと僕は負んぶに抱っこの旅で安心できる。12時半ごろに空港に着き、直ぐに移動が始まる。小雨が降って居り、肌寒いが、車内は快適である。2時間も走ると、レース開催地のAdakに着く。時間が有るので、真っ直ぐに目的地に向かわず、寄り道をする。先ず向かったのはSwedenを代表するチーズ、Vaesterbotten Cheeseを産する Bustraeskに向かう。大きな湖と堂々とした教会のある素晴らしい町だ。 工場に着くと、他の観光客も来て居た。其処のレストランで昼食をとる。

 本来目指す方向は北西であるが、更に南下してVindel河沿いに出る。川沿いの森林地帯を北西に向かう。道路は空いており、行きかう車は殆どない。90−100キロで走り続ける。途中で早瀬を眺め、BjoerkseleのSixteenとAnnaの家の前を通る。彼らは勤めていた南東の町に中古の家を最近買い,その改装の最中なのであろうか、家には居なかった。

 

此処から北西のAdakに向かい、更にその先30キロの小屋に向かう。2−3年前の記念大会の折、バーベキューをした場所で何棟かの小屋が立っており、サウナ小屋もある湖畔の森であった。我々2人は真夜中に飛んでおり、昨夜は殆んど寝て居ないので、眠る事にする。

 翌朝8時レーススタート地点の2−3年前に廃校と成った元小学校の食堂に朝飯を食いに行く。50コローネ、約800円、で食事が出来るのは此処だけである。後は何処に行っても食事の出来る所は無い。此処もレースの週末に限り、参加者の便宜を考えて、大会当局が運営しているだけで、通常は100キロ以内には朝食の出来る所はない。

 朝食後夕方6時までは何もすることが無い。ChristerにとってはLap   landは初めてで、何処でも良いからドライブをしようという。僕が100キロ程離れたArieplogは如何かと云うと、其処にしようと言うことに成る。

 この小さな町は数年前TomasとNorwayに釣りに行った帰りに通った町であり、又昨年までSkelefteaaに住んでいたKenny・Helen夫妻が移り住んでいる所である。電話をしたが連絡は取れず、会えなくても場所だけでも見て置きたいと思った。途中トナカイの群に幾つか会い、町に着く。2000人足らずの町であるが、立派な教会がある。探す家は直ぐに見つかった。欧米の所番地は実に良くできて居り、探しやすい。家は中古の物で、庭も荒れて居り、Kenny夫妻は引っ越し後、ここには余り住んで居ない感じである。彼は主にNorwayで仕事をしており、今回も長期の滞在なのであろう。

 Arieplogは人口2000人足らずの町で、町の面積の大半は湖である。北西150キロ辺りにNorwayの国境があり、北極圏へも略同距離であろう。Swedenでは更に北の町は沢山あるが、何故かここが最も低温の町なのだとKennyからは聞いて居た。この寒さと広大な湖面を利用し、この街は冬季世界一の自動車の耐寒走行試験場と成るそうである。寒さと地の利を利用し、冬季町が最も賑わう不思議な町である。日本の各社も此処でテストをしているという。このことはSeanもChristerも分かって居た。どうせ寒いなら、徹底的に寒い所は又利用価値がある物であり、困るのは中途半端に寒い所だ。

 町で蚊避けのスプレーを買い、昼食を取る。更に100キロ程南東の町Arvid―   jaurに向かう。数年前レースの後、この町から雲峰さんと共にキルナを目指して歩き出したことを思い出す。衣類、食料、水等7−8キロを背負い、毎日40キロ以上歩き、7日を掛けて目的地に達し、Sweden焼酎で乾杯もした。途中寒い日もあり、又蚋、蚊,虻等に悩まされた旅であったが、今となっては懐かしい。

 

 ドライブの途中幾つものトナカイの群に出会う。小鹿も多く見かける。時には車の直ぐ前を悠然と歩く個体もある。此処は俺たちの世界で、お前らは余所者だと思っている様だ。一度だけ、大きなヘラジカの姿が見られた。又僕がLaplandでは初めて見る    Hjortと云う南部で多く見られる茶色の小型のシカに出会うことが出来た。昨日から800キロのドライブを終え、小屋に戻り2時間ほど昼寝をしてから、    Adakに向かう。僕の出走は18時であり、他の3人は22時である。僕が出た後、食事をして出走を待つことに成る。

18時20人余りが動き出す。走り出す人が半分、最初から歩き出す人が半分である。制限時間は26時間なので、ゆっくり歩いても完歩出来のだ。学校の辺りには後から走り出すランナーが応援して居る。僕は走り組の最後部、歩き組の最前部辺りを進む。参加者の中には重量級も居る。100キロは超える思われる御婦人もリュックを背負い、ストックを突いて猛列な勢いで歩いて居る。

前回及び前々回のレースは終始雨で寒かったが、今回天気は良い様である。出発地点での気温は23度、夜間は12度まで下がる予報で、雨は降らないとのことである。長袖7分タイツ姿で走って居ると汗が出てくる。腕まくりして放熱を図るが汗は止まらない。何れ気温が下がる事を期待して、走り続ける。

5キロを過ぎると砂利道となる。先ほどまでのドライブでコース上のダートの道の10キロと舗装道の50キロは走って居る。車で走った時の感触より、実際に走って見るとダートの路面の状況は可なり良い。凸凹は無く、平坦度は舗装道路とほぼ同じだ。それに午前中まで降って居た小雨の影響で、路面が適当に柔らかく、足に優しい。此処も何回も走って居るが、これ程走路の条件が良かったことは無い。路面の良し悪しは気象条件や、整備の状況など幾つかの条件の組み合わせによって決まる。強い雨の場合は整備状況に拘わらず、ダートの道は走り難くなる。又整備の為Graderで均したり、その上に砂利や砂を敷いた直後も極めて走り難い。路面の良さがどの程度、走行時間に影響するかは個人の走力の問題で、僕の場合は時間の短縮は余り期待できないのが残念である。 

25キロ辺りまでは前の走者を時々見る事が出来たが、その後は全くの一人旅となる。時速約7キロ、キロ8分強で進み、軈て9分を超える様に成るが、無理して上げ様とはしない。まだ先は長いのだ。マラソンの距離は6時間20分で通過する。此処で止める人も居るので、僕より前に居る人は10人以下と成って居る筈だ。良くここで会うドイツ人のニコラスは僕と同じ年で、早いランナーであるが、今年からはこの距離で止めると云って居た。誰にでも自分で決める限界とか、潮時があるのだ。

何時陽が沈んだのかは雲や木立の影響もあって判然としないが、どうやら12時ぐらいの様だ。1時ぐらいが最も暗い時間で、1時半ごろから徐々に明るさを感じる。左手に湖面を見ながら走り、50キロを通過する。気温は予想ほど下がって居ない様であり、終始汗をかきながら走る。エードで立ち止まり、補水、補給をしていると蚊の大群に襲われる。出走前に蚊よけのスプレーを全身に掛けて置いたが、効果は時間と共に薄れる様だ。急いで補給し、走る出すほかない。走り出しても彼らは付いてくる。羽が有るので走るより速く、逃げる術が無いのが何とも歯痒い。露出部は勿論着物を上からも刺され、痒いが立ち止まって掻いて居る間に又何か所も刺される事に成り、処置なしだ。対処方は忍耐これ一手だ。

エードに出ている物で食べ難いものが幾つかある。その一つが小さく輪切りにしたバナナだ。これはボールに入れて出ているが、食べ難い。口に入れて仕舞えば、ツルツル系の結構な食べ物であるが、口まで持って行くのにこのツルツル性が禍する。指で摘まもうとすると、指の間をすり抜け口に入るまいとする様にも思える。焦って居る時は尚さらだ。この為僕はバナナ丸ごとの貰う様にした。やや時間は掛かるが、出して呉れ、之を自分で剥いて、持って走りながら2本食べた。 

バナナには元々滑り安い成分がある。この為昔は新船の進水式の際船台の下にバナナの皮を敷き、船を海に滑らかに滑り降ろしていた。

マラソンの距離を超えてから3人に追い付き追い抜いて来た。スタートから8時間15分、55キロの手前で先頭ランナーが声を掛けて追い抜いて行く。Johanであった。彼は3年前此処で初めて走り、其の時は80キロ過ぎで棄権、昨年は9時間前半で完走している。このまま行けば、8時間を切るかもしれない。伸び盛りの若手ランナーで日本にも奥さんのMimiと走りに来ている。

56キロのエードの先からは舗装の道路となる。此処で2つ前のエードから腰に巻いて居たWindbreakerを再び置いて、蚊よけスプレーを振り掛けT−shirtを腰に巻き走り出す。このエードで先行していた2人ランナーを追い抜く。彼らは歩き出して居り、Finishでは2時間以上の差が出て居た。

22時出走のランナー2番手はドイツ人で15分以上の差が付いて居た。この後は5キロに一人位のランナーが追い抜いて行った。Christerは13時間を切りたいと云って居たが、之は僕が17時間以下でなければ追い付いて来ない時間である。

大きな川を渡るとSlagnaesの集落である。土曜の朝6時、町はひっそりとしている。レースとは何の拘わりも無い様な雰囲気で、エードはあるが極小さい。何時も奇異に思って通り抜けて来た集落であるが、その理由がヤット分かった。AdakとSlagnaesは確かに隣合わせの集落である。只行政区上は日本風に云えば県が異なるのだ。山形が主催するレースに県境を越えた秋田、新潟、宮城、福島の自治体が余り関心を示さない様な物だ。

残りは35キロ弱と成る。風は心地よい向かい風である。薄雲が掛かり、気温が上がらないのが幸いである。道路は凍結防止の為、1−2m高い位置にあり、両側は所謂側溝と成って居る。傾斜がなだらかで、此処の水は殆ど動かない。謂わば人工のボーフラ養殖所が何キロにも渡り続く。蚊が多いのは当然だ。

緩やかな登り下りを繰り返しながら、ユックリと距離を熟して行く。時速6キロを切る区間も出てくる。其れでもFinishまでに更に2人のランナーを抜く。結局先に出発したグループの中では3−4番目の位置にある様だ。90キロ地点はLaenaasの集落である。この小さな集落のクラブがレースを運営し15回を迎えている。良くやって居り、如何して継続が可能なのか知りたいものだ。

其之先数戸しかない集落を2−3箇所通り過ぎAdakに入ると残り3キロとなる。町の大通りは2キロ弱で人影も少ない。淡々と走り、Finishする。驚いたのは何と左膝に装具を付けたSeanが居た事だ。彼は今年も完走出来なかったのだ。81キロまでChristerと一緒に走ったが、其処までが限界でそこから送って貰ったという。  Christerも其処からは歩いて此方に向かっているという。彼は歩いて居ても可なりの速さだそうだ。歩幅を考えれば納得がいく。

結局僕の時間は15時間38分41秒でであった。之は昨年の僕の記録より略10分良い。走行条件の良さが反映されたと見て良い。メダルと記録証、それに参加賞を貰う。シャワーを浴び、サウナに入り、マッサジをして貰い、皆が帰って来るまで車の中で横に成る。3時間ほど待って皆が揃い、小屋に戻り一休みする。

夕食はまた学校に戻り、バーベキューパーティとなる。之は99クロネで各自持ち込みのワインやビールを飲み、楽しい歓談の時間が過ぎる。初参加初完走のChjris−  terは籤引きで、トナカイ一頭分の肉が当たる。昔は生きたトナカイ一頭であったが、今回は証書となって居り、後日冷凍された肉が家に配達になるという。Christerの幸運を皆で喜ぶ。

レースの後
30日、日曜日朝学校に立ち寄り朝食を摂り、Skelefteaaの町に向かう。先ず僕らの予約して居たHostelに荷物を降ろし、町に出る。この時期Skelef―teaaは夏祭りであり、町の広場には沢山の屋台が並び、仮設の遊園地が設置され賑わっている。川沿いの船着場のベンチには沢山の人が屋台で買った食べ物を食べていた。僕らは最後にモット真面な物を食いたいと思い彼方此方訊きながら可なりの範囲を歩くが、開いて居るレストランは広場の外れにある中華店一軒のみであった。

Christerは中華料理を他の3人はイタリア料理を頼み、僕を除く3人はビールを飲む。食べながら広場で進行中の舞台の解体工事を見る。祭りは今日で終わり、既に撤去作業が始まっているのだ。

Sean達は5時過ぎの飛行機で帰途に着く為、空港に向かう。その前に車のタンクを満タンにし、代金620クロネ、10000円弱、は僕のカードで払う。この他僕が負担できたのは先ほどのレストランの支払い550クロネのみである。3日間に渡るレンタカー賃料、都合3泊の小屋代、1000キロに及ぶSeanに対する専用運転士代を考えると、余りにも負担額が軽すぎる。何時か埋め合わせしなければならない。

Hostelに戻り、暫く経つとTomasが迎えに来る。何時もの年であれば、ここへ来た時には何時も彼の家に泊まって居たが、今回は相棒も居り、また翌朝早い出立でもあるので、ホステルを予約し、彼達家族を町のレストランに招待していたのであるが、  Tomasが夕飯だけでも家で食えと逆提案をしてきた。之は素直に受け、Sussanには機内で買った真珠のNeck laceとJulieにはChocolateを用意していた。海の見えるテラスで、心の篭ったSweden料理を頂く。この時期上手いのは何と言っても 新ジャガを使った肉料理だ。透き通るような青空、海面を泳ぐ子連れの水鳥を眺め、鴎の声を聞きながらユックリ夕食と楽しむのは格別だ。Tomasは此処は冬が無ければ天国だと言っている。正に其の 通りだ。

食事が済むと初めての相棒の為 寄り道をし、辺りの海岸線を見、昔の漁村跡を訪れ、宿まで送ってくれた。

翌7月1日、一番機でStockholmに飛ぶ為、目が覚めると直ぐにHostelを後にする。昨日得た広場近くのホテルの情報では4時と5時にバスが有る事に成って居る。片道70分掛かると言っており、5時では遅いかも知れない。4時のバスに間に合う時間にバス停に着く。バスは4時は勿論5時にも来ない。昨日のホテルに行き、又聞いてみる。受付には昨日とは異なる女性が居り、昨日とは異なることをいう。バスは飛行機の出発時間の65分前に出発すると言うのだ。従って5時25分に来るはずだという。待っていると時間にバスが来て事なきを得る。それにしても、早朝何もないバス停で1時間半いるのは馬鹿げている。失敗の元は昨日の情報を何の躊躇いも無く鵜呑みにしたことだ。昨日の女性はPCのScreenを見ながら4時とか5時と所要時間70分とか云って居たので、ウッカリ信頼してしまったのだ。良く考えて見れば、一つの情報を鵜呑みにすべきでなかった。情報源は2つ以上持つべきだ。それに自分の過去の経験を思い起こす事だ。僕は過去にもこのバスは何回か使っている。其の時の事を思い出すべきであった。所要時間が70分と云うことは距離すると100キロ近くを意味する。地方の空港で市街とこれ程離れた空港はこの辺りでは在りえない事なのだ。

Stockholm空港から市街まではバスで40分、バス停から歩いて20分の王宮の対岸にあるHostelに着き、荷物を歩いて預けて散策に出かける。僕はこの町は何十回も歩いており、特に見たいものは無いが、連れの相棒も如何でも良い風である。余り興味のあるもの、見て置きたいものは無いらしい。仕方が無いので、最初に市の主要部を一望できる高台まで歩き、その後旧市街、王宮、国会議事堂、オペラハウス、市庁舎、お土産屋の並ぶ商店街、王立劇場、国立絵画館、北欧博物館、戦艦バーサ博物館、動物園島等を回る。

翌日はCruiseがしたいと言うので、夕方一人で2キロほど先の波止場まで行き切符を買う。Tomasが勧めて呉れたAaland島への旅で往復14時間以上かかる。

翌2日7時半バスターミナルからバスで70分程のKappelshaerに着く。其処から先が大型のFerryの旅となる。Stochholmはバルト海の河口の町で外海までは100キロ以上ある。この間は多島海と呼ばれ、大小20000余りの島のある独特な地形と成って居る。何年か前、HelsinkiからFerryでここを通り   Stockholmに入った事があるが、其の時は夜間早朝の時間帯で景色は見て居ない。

 
 

Ferryに乗ると2時間余り、大小の島を眺めAaland島に着く。Aaland島は不思議な歴史を持つ。19世紀初頭Swedenからロシアに割譲され、その中葉には非軍事化が進められたが、バルト海の要衝の地の、為第一次世界大戦時も各国の争いの場となった。その後1921年国際連盟の裁定を経て現在のフィンランド領Aaland自治区として完全非武装、公用語はSweden語の島と成った。この裁定に尽力し名を遺したのは新渡戸稲造であったことを初めて知った。町の通りの名は全てSweden語で。Swedenの町と何ら変わった事は無い。只Finland領である決定的な証拠は通貨がEuroであることとSwedenとの間に間は時差が1時間ある事だ。自治区の人口は3万足らず、一人あたりのGDPも60000万ドルと高く、豊かで平和な島である。この豊かさの根源は地の利を利した、交易で在る様だ。

島には上陸後6時間余り居たが、この間、食事の他は町を歩き、町の南に広がる半島を一周した。町には余り古い建物やこれぞと言って見るべき物は無い。道路は広く良く整備されていた。此処を訪れるSweden人は多く、彼方此方のキャンプ場にはSwe−  den No.の車が多く停まって居た。

Sweden滞在最後の3日は、各々単独行動とすることにした。彼にはお土産を買う時間も必要な筈だ。僕はStockholmの真西にあるBirka Viking― stadを訪れる事にした。市庁舎の傍からでるFerryで2時間強の島である。700−900年の2世紀に渡り、Vikingがこの島を根城に活躍し、その後一時は廃墟となった島である。今は丘の笛に土を盛り上げて彼らの墓が沢山残って居り、墓の周りには一人では動かせない様な大きな石を並べてある物もある。全ての墳墓は勿論草に覆われている。小さな綺麗な花の咲いている墓もある。この島の3分の1と、西側に見える島の一部が世界遺産と成って居る。島にはVikingの博物館や、当時の生活を再現した家も何棟か用意されている。今から1000年以上昔、この地方に未だキリスト教が入ってこなかった頃の土地の宗教や神話などもあり面白い。島の3分の2は農地として何軒かで耕作し、牛や羊と放牧を行っている。大型のトラクターや農用車両を除き車の無い平和な島の静けさは何とも言えない。

此処の羊は黒毛であり、多くのメスには2匹の子供が付いて歩いて居る。アイスランドに行った時、原さん盛んに羊3匹の法則を唱えて居たが、何故そうなのか今回分かった様に気がした。歩いて居ると野生のサクランボが実って居る。やや早く、実は小さいが積んで食べて見る。先ず先ずの味がするので、沢山食べる。誰も他に取る人は居ない様だ。

今回の旅は天候に恵まれ幸運であった。到着後レース前の1.5日は小雨であり、又僕らが帰国の途に付いた後のStockholmは雨の予想であった。これと言う突発事故も無く順調な旅と言える。

旅の費用:航空運賃20万(国際線、17万、国内線3万)、Lapland滞在費8000、レース参加費8000、フェリー代8000、バス代4000、食費10000、合計23万8000円


参考 大森さんに連れて行ってもらった雲峰の北欧紀行


このページのトップに戻る



平成25年6月17日掲載

13.06.07−08 Biel 100 キロ
13.06.16・大森

大会公式サイト www.100km.ch

写真をポイントすると説明が浮き出ます。

6月7日Baselからレース開催地のBielの町に移動する。10時半に到着、駅で地図を貰い、ホテルの位置を尋ねる。駅の出口は南西と東北にあり、南西の出口を真っ直ぐ300m程進み、最初の十字路がある。其処からホテルは見えるという。

 ホテルに着き、予約の旨を告げ、荷物を預かって貰う。予約はItalyの走り仲間  Renzoが予約して居たものだ。身軽に成って町の散策に出かける。ホテルからは駅をはさんで対象の位置にある町の中心部の広場に向かう。広場からは道が5方に伸びて居り、斜め後方に風船のアーチが見える。レースのStart/Finish地点で在ろう。

Bielは5万人余りの町で南西北東の方向に細長い町であり、南西の外れは湖になっている。町の略中央には運河が流れ、他にも幾つか運河が通っている。運河に沿って歩き、湖を目指す。湖の傍に来ると、白鳥を始め沢山の水鳥が居り、人の姿を見ると此方に近づいてくる。人=餌の条件反射。食べ物は持って居ないので、暫く彼らの仕草をみる。

湖には沢山のヨットや遊覧船が係留されている。細長い湖で、沖合に出ている船が何隻か見える。この後ホテルに戻る。Renzo達とは正午にホテルで会うことに成って居る。Lobbyで待っていると、彼の他以前にも会って居るAntonioと初めて会うもう2人のランナーが遣って来て、紹介を済ませる。食事に出かける。程なくToscanaと云う店があり、何やら店の人と話していたが、此処は駄目だという。名前はイタリアであり、ピザやパスタを出して居るが、経営はレバノン人なのだと言う。この手の店は良くある。欧米でも日本食の店は見かけるが、之がタイ、韓国、ベトナム料理を供する店が兼ねているのだ。要するに日本食はアジア系の料理で、他の民族料理と大差無との認識の様だ。

2軒目の店はVeronaであった。ここは彼らの目に適い、テーブルに付く。彼らはビール、サラダにパスタ、僕は水、サラダとピザを頼む。ピザは径が30cm程の物で、切り目は入って居らず、自分で切って食べる。この後大きなアイスクリームを食べ、満腹となる。僕の分はRenzoが持つと言うので、有難く受ける。この後ホテルに帰り、   Siestaである。

今日は3人用の部屋1室のみの予約で、ベッド以外に床に寝転んでの昼寝となる。荷物は全部この部屋に置き、夜は走るので、部屋は要らない。出走前の準備や、荷物の置き場としては之で十分だ。
16時先程見たアーチの傍の町の議事堂(Kongresshaus)に行き、番号を貰う。その後、僕は旧市街の散策に行く為、彼等と分かれる。旧市街は小さく、余り見るべき建物は無かった。

Bielの町は独語・仏語が同じ様に通じる言語境界線の町である。町の正式名は   Biel/Bienneであり、Bielがドイツ名、BienneがFrance名なのである。同じ場所が音声的には異なる2つの地名を持って居る。通りの名前もRueやStrasse,Gasseの独仏語不規則に付いて居る。この町の名は似て居るが、ベルギーのBrussel郊外の駅等は音声的には全く異なる名前が付いて居るのを見て戸惑った事がある。オランダ語系とフランス語系2つの地名が付いて居るのである。この様な例はヨーロッパで彼方此方にある。FinlandでもSweden寄りの地方では  Sweden/Finland語2つの地名表示が出て居る。

ホテルに戻りもう一眠りし、21時過ぎに出走点に向かう。前方ではCheer    Girl達が見事な演技を披露している。100キロのスタートは22時である。之には一般の部、軍隊・公務員の部、ペアリレーの部、複合リレーの部と幾つかの分類が為されており、総勢は1000名を超えている様だ。今年は55回目と成って居るが、最初は軍隊の訓練が目的の様である。このレースは随分昔、岸・石渡夫妻が走って居り、僕も何時かは走って見たいと思っていたが、Renzo達が走ると言うので、之に合わせて走る事にしたのだ。

Count downの後の号砲で一斉に動き出す。最初の1キロはRenzoと一緒に走るが、早過ぎて付いて行けない。脱落して自分のペースで走る。ボロボロ抜かれるが、之も町を離れる5キロ辺りではおさまる。薄暗く成っているが、町の中には大勢の人が応援の人が出て声援を送って居る。

町を離れると緩やかな長い登りが続く。街路灯があるのでライトは要らない。暫くたつと早くも15分後に走り出した。マラソン、ハーフマラソン、とその駅伝のランナーが抜いて行く。更にその後45分後出走の100キロの軍隊・公務員の駅伝ランナーが何処かで追いつき、抜いて行くに違いない。彼等には背中にその表示をしているので分かる。

立派な木造の橋が在り、沢山の人が応援に出ている。橋には立派な屋根が付いており、写真に撮っておきたいが、カメラは持って居ない。ハーフマラソンのFinishの町を通過する。100キロの20キロ地点は更にその先2キロ程先に成る。彼等は約3キロ余計な所を町の中で回って来ているのだ。其之先やや大きな集落を通過する。エードは無いが多くの人が応援している。日は変って居るが、子供も多くHightouchを求めて来るので、応じる。中には番号と一緒に書いてある名前を読み取って“Toshio”と声を掛ける子もいる。缶ビールを指し出して来る人も居るが、ビールは飲まない。

其の先で走路は鬱蒼とした森の中を通る。“Ho Chi Ming”の森と言われるのは此処なのであろう。道は勿論砂利道だ。自分のライトの丸い光の中以外は暗闇で何も見えない。前に行く人の光も殆ど見えない。大きく差が開いてしまい、単独走と成って居るのだ。

森を出ると田園地帯と成り、略真っ直ぐな砂利道が7−8キロ続き、其之先がマラソンのFinish地点である。走路の状態は良く、凸凹は少ない。略半数の人はライトを点けずに走って居る。月明かりは無いが、道が何と無く白く見えるので、大丈夫なのだ。途中何か所かで懐かしい馬糞の匂いがする。日本では馬は競馬場、遊園地などでしか見られないが、此方の田舎では馬は未だ沢山見かける。

小さな集落がFinish、表示がハッキリしないので、直進して暫く進むと後ろから大声が聞こえる。振り向くと手で合図をしているので戻る。100キロは進路を右に直角に曲がった方向であった。

出発時は長短のT−shirtの重ね着、下は膝下タイツで走って居たが、寒くなって来たのでパウチに入れて来たWindbreakerを着て走る。手先が冷たいので、袖を伸ばして、手袋代わりにする。やや明るく成って来る。やや大きな集落で補水、補給をする。水の他スポーツドリンクは数種類ある。成分はほぼ同じなのであろうが、お茶系、果物系の味、香りの差がある。スープもある。食べ物はパン、クッキー、ビスケット、チョコレート、バナナ、リンゴ、オレンジ等で果物を除き、どれもパサパサ系で胃に収めるのに時間が掛かる。走路の先にはゴミ入れが数百mに渡り用意されており、其之先でコップや包装等のゴミは殆ど見られなかった。

この辺りからはもう抜いて行く人はいなくなり、ドンドン抜く様に成る。Finishして気が付いたのだが、抜いたランナーに再び抜かれた事は一回も無かった。こんなことは初めてだ。後半の50キロの間では通常、何回が順位が入れ替わるのが当たり前なのだが。55キロのエードを過ぎると進路は南東に向かう。朝日が左手に上り出す。走路は左手が川となっている砂利道だ。日の出と共に靄が立ち出し、朝の美しい田園の風景となる。日の出十分後に前方に二つの気球が上がる。何キロか先であろうが、ガスバーナーの点火音が時々聞こえる。手前の気球は何回か之を繰り返し、登って行った。奥の気球はその真下を通り過ぎても点火を繰り返していた。場所に拠って上昇気流の条件は大きく異なるのであろう。

眩しいのでSunglassを付け、帽子も被る。朝の田園の風景は長閑で美しい。この辺りは複合農業地帯だ。放牧の馬は立っているが、牛は寝そべってのんびりと反芻を繰り返している。長い野毛の大麦は正に黄金の広がりと成って居る。麦は幾種類か作られており、より細く未だ青い穂は小麦であろう。未だ穂を出して居ない麦もある。この他、芽を出したばかりのジャガイモ、ホウレンソウ、トウモロコシの大きな畑が続く。刈り取られた牧草地では干し草の匂いがする。

川に沿って12−3キロ走る。砂利道の先は玉石の敷き詰めた道で、石の間から出た短い草で覆われて居り、彼方此方滑る所がある。道幅は1.5m程だ。両側に巨木の生えた森の中も通る。小鳥の囀りが賑やかだ。繁殖の時期で、彼等に取ってこの囀りは重要な意味を持つのであろう。今までこれ程多くの鳥の鳴き声を聞いたことは無い様に思う。暑く成って居るので、木陰の在るのは有難い。川は彼方此方で堰き止め、水力発電が行われている。

後半は砂利道が多く、小石が靴に入り、何回も止まり、石の始末に時間を要した。事情が前もって分かって居れば対策は取れたのだが。70キロの手前で川を離れ北向きから、南西の方向の走路となる。田園や森を通り80キロの先で又別の川に沿って走る。実に水辺を多く走るコースと成って居る。もう20キロを切って居り、この先どの様な所を走るか想像してみる。如何も湖の南東岸の中ほどに突き当たり、細長い湖の先端を回り込み、湖の全長を走ってから市内入りする様に思える。予想は的中するが、コース図には幅3キロ全長12−3キロの湖は全く載って居ない。不思議なコース図だ。

砂利道を走り、湖を回り込み、1−2キロ舗装道路を通り、再び川沿いの砂利道となる。木陰は殆ど無く、暑い。後半はこの暑さの為、エードではスープとドイツ特有の塩パン、Pretzel(紐を編んだ様な形状をした、表面に岩塩を付けたやや乾いたパン)を更に乾かしたクラッカー状の小さな物を多く摂った。スイスではPretzelをBre―tzelと呼んでいる。所謂スイスのドイツ語は方言で標準ドイツ語とはやや違う。

95キロ過ぎヤット川を離れ、町のフィニシュ地点の方に向かう。大きな公園に沿って走り、残り3キロを過ぎた所で町に入り、複雑に曲がりながらFinishに向かう。如何やら16時間を切って完走する可能性もあるので、懸命に走るが速さは上がらない。モット早くから、目標時間を定めそれに向かって走るべきであった。

町の人達の歓声を受けてFinish、放送では自分の名前が挙げられている。メダルと掛けて貰い、冷たいビールも勧められるが、水を頂く。次いで記録証と完走シャツを受け取る。

16.01.52とある。自己新記録である。これからは毎回自己記録更新となるのであろうか?宿に帰り、昨日の部屋から荷物を取り出し、新しい部屋に移る。勿論他の4人は早々に帰って来ている。シャワーを浴び一眠りし、起きると激しい雨と成って居る。Swissには6月3日に着いたが、以来晴天に近い天気がレースが終わるまで続いたので運の良さを感じて居たが、ここらで天気が変わるのであろう。

夕食は彼らが当たりを付けていた様で、6時半と云う事に成って居た。定刻にRen―zoとLobbyで待つが、他の3人組は現れない。Italyでは時間は余り正確に守る習慣が無いのかも知れない。昨日の昼食の時もそうであった。30分待って痺れを切らしたのか、Renzoが電話を掛けるとヤット降りて来た。

雨はまだ降って居るが、レストランは隣のビルで傘なしで行けた。ドイツレストランで僕はドイツ風豚カツ、Schnitzel、とサラダを食べた。彼らは其々の主食にビール、其の後また大盛のアイスクリームを食べた。体はそれほど大きくないが皆良く食う。

 満腹に成ってホテルに戻り早めに寝る。昨夜の分も眠らなければならないのだ。明日8時には彼らは帰途に付くという。

朝食の約束は7時であるが、例の3人組は又現れない。30分遅れは当たり前なのだ。この間僕とRenzoは湖へ散歩に行き帰って来る。漸く揃い朝食となる。泊まったホテル、Continentalは3つ星ホテルで、朝食は結構内容が良い。皆好きなだけ食べた後、彼等は帰途に付く。ミラノの近郊の連中で、Renzoの車で来て居り、3時間の旅だという。

Renzoには2度食事を御馳走に成って居るので、宿泊代は僕が持つことにして150スイスフラン(約16000円)を払い、僕もGeneveに向かう。ややこしくなるので、Geneveの事は続いて書いてしまいたい。

Geneveには10時過ぎに着き、直ぐにHostelからの情報に従い駅前の  Laussane通りを左に5分程歩きKawasakiのBikeを売って居る店で左に折れ、すぐ右にBackpaker Hostelは見つかった。荷物をロッカーに入れ、地図を貰いに行くと、Baselと同じ様な2日有効な市内の乗り放題カードを呉れた。之が有ると便利だ。特に今日の様に小雨の日は電車に乗って居れば濡れずに済む。先ず駅に出、Leman湖に向かうAlpes通りを歩く。この一本東の通りはMont  Blanc通りで、天気が良ければLeman湖の先にMont Blancが見えるのであるが今日は全く見えない。Leman湖に突き当たるとMont Blanc岸通り、その右先はMont Blanc橋である。沖合には高くまで噴水が上がって居る。目指す所は更に右前方の旧市街なので更にその西側の橋を渡る。

 処で新たな事が2つ分かる。一つはこの大きなLeman湖は実はRhone川の一部であった事だ。Leman湖には他に注ぎ込んでいる川もあるだろうが、Rhone川はその東からLeman湖に流れ込み、ここGeneveから又流れとなってフランスを南に流れ地中海に注ぐ大河なのである。通る橋の辺りには多くの白鳥がいる。澄んだ水が滔々と橋の下を流れて行く。河床の水草が揺れのも見える。

 ここの旧市街も丘陵地である。広さは1キロ I 0.6−7キロぐらいであろう。先ず丘の上の大聖堂に行ってみる。更に奥の方にはGeneve大学、大劇場、歴史美術博物館、その他昔の豪族の館であろうか、今は博物館として使われている見事な建物がたくさんある。広場や公園には大きな銅像、や彫像がある。歴史に貢献した偉人達の像である。ロシア教会も立派である。雨は降り続いているが、ポンチョを来ているので余り、気に成らない。

 戻り足に付く。これら歴史的な建物の他の建物も皆美しい。特にホテルや、銀行の建物は凝ったものが多い。銀行の数の多いのには驚きだ。金融業は一大産業なのであろう。川岸に面する殆どの建物が銀行である。

 市電に乗って駅に戻る。大きな駅は現在改修中である。駅の東側には立派な建物が在り、これは工業美術学校である。その前には大きな教会がある。電車で北東の方に行ってみる。

市が立っている所の先まで行き、そこで居り、徒歩で戻る。行きの電車で見た美しい建物の写真を撮る為だ。市も通り過ぎる。生活用品が主で、興味を引く物はない。市や公共交通機関で気が付くのは、Geneveの町はアフリカ系の人が多い事だ。30%程居る様に思える。国連本部、難民高等弁務官事務所、国際赤十字本部等重要な国際機関のあるGeneveは難民の受け入れをせざるを得ない背景があるのであろうか?これは他の都市では見られない現象である。

 気に入った建物、街並みの写真を撮る。これらの建物は往々にして正面から見た物ではない。更に興味が有れば、正面まで行ってみると良い。思わぬことが分かるのだ。その一つはVictoria Hallである。正面に行ってみるとコンサートホールなのであった。正面の作りは豪華で、なおこれが個人の寄贈であることが面白い。1906年英国領事D.Bartonの寄贈と刻されている。更に面白い事はこのHallで活躍している我同胞が一人ならずいる事であった。5月8日、12日にはKazuki Yama―daが指揮者として、5月17日にはNaoka MatuiがSolistとして、6月30日にはOzawa Seijiが指揮とある。旅の面白さはこの様に予期せぬことと出会いなのだ。最初から全部分かって居れば旅に出る必要は無い。

電車に乗り市の西側にある国際連合本部に行く。参加国の旗が連なり遙か遠くに建物はあるが、本の一部しか見えない。其の道路を隔てた反対の側の丘には国際赤十字の本部が見える。更に登って行くと博物館、次いでホテル学校(Ecole Hoterire  de Geneve)と其のレストランがある。レストランの名はVieux―Bois(古森)とある。日曜日なので営業なして居なかった。世界的なホテルマンの養成学校である。此処の講堂は世界一の食品会社であるNessleの創業者が寄贈している。其処からやや降った所に綺麗な建物があり、その庭の片隅に銅像がある。行ってみるとDr.Marcel Junodと刻してある。更に“広島・長崎の犠牲者を忘れない為に、Geneve市が国際赤十字の代表として広島の犠牲者に最初の医療をした外国人医師、 Dr.Marcel Junodに献ずる”とある。之も予期せぬ出会いだ。

 

 更にもう一つの出会いがあった。森の中に座るガンジーの像である。杖を突いた立位のガンジー像は彼の抵抗運動のきっかけとなった南アのPietermaritzburgを始め、何か所かで見ているが、座位の像との出会いは之が初めてだ。胡坐をかき、読書をしている姿だ。森の中で雨に打たれて居る像の感動を覚える。台座には”Ma vie est mon message“,更に仏語の下に”My life is my   message“とある。 ”俺の生き方そのものが、俺の伝えたいことだ。“と言っているのだ。モット砕いて言えば”我語る事無し。心あらば、我が生き方を見よ“と云って居るのだ。何処を取っても疾しい事のいない人生送った人のみが言える言葉だ。

 これで今回の日程は全部消化し明日日本に帰れる。

その他レース情報:申し込みはInternetで出来る。但し、英語の情報は極めて少ないので、独語または仏語の素養が無いと難しいかもしれない。参加費は130スイスフラン(約13500円)。先ほど述べた諸レースの他、レース前日の16時から行事が始まり、18時にKids Run,18:00−22:00 Pasta Party,20:30−21:30 City Run,市内1.5キロのコースを最大9周等がある。100キロの優勝タイムは7時間+−。制限時間19時間

レースの前
スイスには何回も来ているが訪れた所は極限られており、Zurich、Geneve,Laussane等であった。今回は首都のBernや北西の国境の町Basel等を訪れたいと思い、事前に全ての宿泊予約をして置いた。スイスは九州よりやや小さく、鉄道も発達して居り、1.5時間も有れば何処へでも行けるので、予約日にその地点に到達できない可能性は極めて小さいからだ。

6月3日成田に行って驚く。予定のSASの便はキャンセルでLufthanza便と成ると言うのだ。席の予約の督促のメールが昨日入り、予約を済ませたのは昨日の事だ。実はSASは昨年10月Tomasが来日した時、その1か月後僕がSwedenに行った際も欠航があった。天候不順でないことは明らかだ。Tomasの説明に拠るとSASは便の席が大幅に埋まらない場合は欠航させ、他への振替え便としていると言うのだ。営業上この方が得策なのであろう。然し利用者にすれば、許されるべきことでは無い。振り替え便で予定の便より早く成る事は先ずない。その他帰りの便の搭乗手続きの際も不都合が出、利用者に撮っては不利な事ばかりなのだ。大幅な空席の在る事は少なくとも48時間前には把握出来て居る筈で、之を利用者に知らせずに、空港カウンターで初めて明かすとは如何なる理由からであろうか? Tomas論が正しければ許しがたい。SASを今回選んだ理由は、偶々最安値の便から数千円しか違わなく、昔の好みからである。

 代替便はLufthanza便で、これ自体問題は無い。実はLHの方が機内サービスも良のだ。然し、Geneveの到着時間は2時間ほど遅くなる。見知らぬ町へは明るい内に着きたく、この2時間の差は大きい。

 Munchen行きのLH便は予定のSK便より出発が1時間余り遅い。Loungeでシャワー等を浴びて時間を利用できる人は未だ良いとしても、何もない空港でこれだけ余分な時間を過ごさなければならない人とっては更に大きな苦痛となろう。次回からこの点も考えて便を選びたい。

 Geneveの空港でバス乗り場を尋ね、外に出た時はもう薄暗く成ってからであった。バスは深夜まであるが、この時間帯では1時間に1本と少ない。予約しておいたホテルはHotel Stars Geneve Airportであり、電話番号からはフランス国内のホテルで在る事が分かっていた。券売機で5スイスフランの切符を買う。Ho―telからの案内により国境の税関の建物の先の最初の停留所で降りる。乗車時間は15分ほどだ。ホテルは目の前にあり、直ぐ分ったが、扉が閉まって居り、誰も人は居ない。入り口に22時以降の宿泊者は200m程奥の系列のホテルで手続きをする様にと書いてある。もう真っ暗であるが、歩いて件のホテルに行き手続きを済ませる。入り口の扉と部屋の扉は同じ8ケタの番号で開くと云い、部屋番号と開錠番号を書いたものを貰い事なきをえる。それにしても余計なことをせざるを得なかったのは間違いない。

 翌朝8時素泊まり50Euro(6500円)を払い、同じ路線バスで空港に向かう。車内で切符を買うと1.8Euroで昨日の半分以下なので変な気になる。乗車時間からすると、今日の金額の方が正しい気がする。
 空港からBernを通る列車は1時間に一本でており、この電車は5−6分後には Geneve中央駅をとおる。その後Laussaneの先までLeman湖に沿って走り其の後更に内陸に向かう。

 Geneveを出ると列車はLeman湖を右手に見て、湖面より50−100m程高い所を走る。列車の右左の傾斜は殆ど葡萄畑である。葡萄は漸く短い蔓を出したばかりで、本当に実を付けるかどうか疑わしい様子をしている。Laussaneを過ぎて更に湖沿いに走ると世界遺産となっているLavaux Vineyard Terracesがある。長い年月を掛け、傾斜地に石垣を作り、段々畑状の見事な葡萄畑となるが、Bern行きの列車は其の前で左手に入って行く。

 スイスは山国であり、電車に乗って見て居ると平らな土地や真っ直ぐな道が無いと思われる。右に左に曲り、トンネルを潜り、高速で走る。電化が進んでおり、殆どの路線が複線だ。永世中立国として、長年戦争をしておらず、その間のインフラへの蓄積は大きいのだ。カーブが多い割には列車の速度は早く、停まる間隔も平均すれば30分に1度程しか止まらない。特に急行や特急列車ではない。BernへはLaussaneの先もう一駅止まり2時間弱で着く。

Hostelからの情報に従い歩くが途中大工事中の所があり、道に迷いウロウロするが、人に聞いて可なり大回りをしてHostelに着く。Berne Back−packers Hotel Glocke(英語ではClock、Bern名所の時計台が直ぐ傍にある)と壁に書いてある。町の中心地にあり、出入りに便利なHotelだ。町は国の首都でドイツ語圏であるが、Berneの表記もあり、之はフランス語だ。荷物を置いて外にでる。天気は良く、平日ではあるが町には人が多い。

至る所に公園や広場があり、昼休みには多くの人がこれらの場所で何かを食べている。勤労者がこの時期昼食時をこの様に過ごすのが当たり前なのかも知れない。

町の中心部は世界遺産となって居り、砂岩の立派は建物が並ぶ。特に国会議事堂は3つのドームを持つ巨大な建物で、写真には納まりきれない。ドームは銅葺で其の頂部には金冠で飾られている。国の豊かさを表す象徴だ。中世ヨーロッパの都市の姿を今も残している町には美しい建物が多く残っている。100メートルの鐘楼を持つ大聖堂(現在改修中)、時計塔、16世紀から残って居るという多くのの憤水、之らは皆本来の機能を備えて居るばかりでは無く、建築的に美しいのである。

 
 

泉と云うと僕のイメージは何か沸々と湧き出る水である。之を手又は杓子で掬って飲む場所が泉なのである。所によってそのイメージは異なる様だ。泉、噴水に相当する英語仏語はFountine,ドイツ語ではBrunnenであり、管を通して横に流れ出ている水をも意味する。Bernには実に多くのFountineがあるが、どれも見事な彫像を備えており、人が利用しやすい高さで何本かの送水管により水平方向に流出させている。その下には大きな石造の受け皿がある。石の水槽は通常複数あり上流から用途を決めて使って居たのであろう。

僕が美しいと思う建物は本来必要な機能の他、遊び心のある飾りの付いた建物である。機能とコストの面から見れば現代の箱型建築が一番合理的だ。只箱の積み重ねの様な建物を美しいと思う人は居るだろうか? 又その様な建物が連なる、町並みを美しいと感じる人はどれ程居るだろうか?

僕はある時点で建築に対する人の考え方が変った様に思う。その昔、人々は粗末な道具を使い、今より長持ちのする美しいものを作ってきた。其の元になった考え方は何か?今に残る美しい建築が出来た頃の人々は建物に美と永遠を求めたのではなかろうか?今の様に機械を使い簡単に物が作れ、壊せることは想定外であった。建物は一つ一つ石を削り、磨き、積み上げる作業で、今とは比べ物にならない程の時間を掛けて作っていたに違いない。これらを作った人々は、彼等の労苦が短時間に無に帰する事を望ます、何時までも飽きない美しさをも建物に求めたに違いない。どうせ建築には長い年月を要するのだ。プラスアルファーの時間を掛けても、建物に美しさを求めたに違いない。其れが外壁や入り口の彫像と言う形で現れたに違いない。これらの彫像は人々と建築物の永遠を望む宗教的な意味合いも多分にあったに違いない。こうした観点からこれらの飾りを見たらモット面白い何かが見えて来るかもしれない。

美しさは彫像だけが齎すものではではない。屋根の形状や色彩、その調和も重要な要素となる。古い建物の屋根は変化がある。一般的には傾斜は直線的では無く、下方はRが付いてなだらかに成って居る。円錐形やドーム型の塔の付いたもの、出窓の付いた屋根、変化に富んだ屋根が多い。手間暇を掛けて作った屋根であり、これが全体として美しさを醸し出しているのだ。屋根材は素焼きの鱗型の瓦で色は橙色で、古い物はこれが黒くなって、地衣類や草が生えている。之はモット昔は木の板で出来て居た物と思われる。

兎に角機能だけの直線だけで出来ている建物は面白くない。此れが理由で、20−30年毎に立替をしているのでは無いかとの思いもする。日本は特にこの傾向が強く、環境、資源保護の立場から世界の指弾を浴びる事は必至だ。建物は美と耐久性をモット追及すべきと考える。

 Bernの町は3方をAare川に囲まれ東側にのみ城壁を作れば防御しやすい所から町が出来た様だ。町の姿は天狗の御面を横から見た形となる。旧市街は幅500m、長さ1500m程の西に突き出して天狗の鼻のような高台に出来ている。川はアルプスの氷河を水源とし、ベルンでは南側、丁度天狗の上唇の辺りから入り、出っ張った鼻の先端を回り込み、目の辺りから北に流れて行く。水源からBasel辺りでRhein川に合流する約300キロの間に1500m余り下る急流でBernの辺りでも流速は早く可也の水量である。

 

 町には何本もの橋が架かっており、略丸2日の滞在中、旧市街と対岸を結ぶ7つの橋を全部往復する事が出来た。人だけが通れる釣り橋もある。対岸からの旧市街の眺めも素晴らしい。景観だけでなく、要塞としての立地の良さも手に取るように理解出来る。特に天狗の鼻の先端に架かるNydegg橋を渡って左手の坂を上った高台のバラ園からの眺めが素晴らしい。此処には日本からの団体観光客が来ていた。バスは橋を渡った下の道路で駐車し、此処まで登って来るには大変な筈だ。バラ園は広く今は其の時期では無いが、大勢の人で賑わっていた。躑躅、石楠花、藤などが綺麗であった。緑地も広く、多くの人が日光浴をしていた。

 地図に載っている名の付いた建物は殆んど全部回る。HostelはRathaus Gasseにあり、之はネズミ小屋では無く市庁舎の事だ。その傍にある大聖堂、その他の教会も回る。宿から直ぐ傍には時計塔もある。又道路を隔てた市立劇場、その隣の図書館、之は昔穀物取引所であった様だ。Casinoやコンサートホール等美しい建物は沢山ある。綺麗な建物が有るのは旧市街だけでは無い。カジノの傍の橋の向こうには立派な建物が見える。行ってみるとBern歴史博物館である。其の傍には美術博物館、国立図書館など立派な建物が幾つかある。町の東南にある劇場やその傍にある音楽学校等も立派な建物だ。

 美しい建物は歴史的建造物だけではない。対岸に多くたっている住宅も集合住宅を含め、皆美しく、単なる箱型の容器では無いのだ。どの建物も個性と遊びがあり、其れで居て街並み全体の調和が取れている。どの建物を見ても優雅で、生活のユトリを感じる。通りも奇麗で、ゴミなどは落ちて居ない。ラテンの国では良く見られる犬の糞も無く、安心して美しい物に見とれて歩く事が出来る。

 次の日の朝、駅(ここは天狗の面で言えば目に相当する位置)の東側に見える高台の立派な建物に向かって歩く。坂を上り、階段を上って行くと広大な緑地に出る。その先に先ほど見えた立派な建物がある。建物に近づく前に緑地の淵から駅の西側を見る。旧市街の全体が見える。地図を見るとここが展望台の一つに成って居る。建物に近づくとBern大学であることが分かる。建物は2棟あり、どちらも大きく堂々としており、美くしい。周りの民家もこれに劣らず立派な物が多い。更にその奥まで行くが、観るべきものが見当たらず、別の道を通り、引き返す。駅の付近は再開発の最中で大きなクレーンが立ち並んでいる。此処にも箱型のの醜い建物が並ぶのであろうか?

 天狗の目に位置するLorrain橋を渡り、対岸の植物園に行く。此処は無料で開放して居り、熱帯植物園もあり、可なり広大だ。春の草花が咲いて居り、其れなりに楽しめる所だ。次いで同じ対岸の川に沿って上流に向かって1.5キロほど歩き、天狗の鼻先のやや上流にある、有名な熊公園に行く。川沿いの広大な傾斜地に4頭の熊を自然に近い形で飼っているという。行った時は一頭だけが外に出て居た。薄茶色をしており、大きさは日本の熊とほぼ同じだ。沢山の子供たちも来て居り、或る時間に行われる熊の芸を楽しみにしているという。此処にはもう一度訪れたが、其の時は4匹全部見る事が出来、熊たちは若草を食っていた。熊が草を食うのを見たのは初めてだ。

Bernは此処を築いた最初の領主が倒した獲物が熊であった事で、その名が付いたとされ、熊は市の象徴で市旗のデザインと成って居り、至る所に国旗と共にこの旗が掲げられている。

熊公園から更に川沿いを上流に向かって歩く。道は森の中の小道と成る。途中流れ方向に300m程渡り、河床の高さが違う所があり、此処で流れは略直角に流れを変え、幅方向に流れる。落差は2m程であるが、水煙と轟音が聞こえており、水はこちら側に流れてくる。此処は当然川幅が倍以上になって居り、此方の岸にぶっつかった水の流れは元の方向となる。水は薄緑の乳濁食をしている。此処は町の眺望の一つと成って居る。其之先で森の小道を抜け、高い橋脚のKirchenfeld(英語のChirchfield)橋の下を潜り、直ぐ先の川面スレスレに掛かる小橋(Dalmaz橋)を渡り旧市街に戻る。この橋は天狗の鼻と上唇の付け根に位置し、連邦議事堂の略真下に当たる。

午後は旧市街側を川沿いに下流に向かって歩いて見る。連邦議事堂から下り川沿いに出る。Aarestrasse(アーレ通り)は舗装の立派な道であるが、現在工事中である。直ぐに先ほど対岸から見た河床の高さの違う所を通り、水飛沫と轟音を立てて流れを変える水流の凄まじさを更に近くで暫く見入る。道の名前が変わり更に進んで鼻の先端を回り込むと森に入って行く。更に行くと小さな吊り橋がある。余り意味は無いが、一応渡って帰って来る。其の直ぐ上流に宿からは一番近いKornhaus橋がある。この橋の下流側の欄干からは長いロープが降ろされて居り、之を利用して数人の若者がサーフボードを楽しんでいた。ロープに掴まって居れば、川の流れによって浮力が生じる。恰もモーターボートに引かれた様に、ボード上に浮き上がる事が出来るのだ。川幅一杯に蛇行をして楽しんでいる。色々な遊びを考えるものだと感心する。氷河が水源なので水は極めて冷たいに違いなく、危険も大きいが、お遊び代只の誘惑には勝てないのであろう。

Bernでの2日の滞在を終え、6日早朝Baselに向かう。此処のHostelも事前の情報で容易に見つかる。駅から歩いて10分程の所である。Hostelで荷物を預け散策に出様とすると、2日間有効な市内乗り放題の切符を渡して呉れる。地図を貰い市電に乗って旧市街に向かう。

Baselは北西の国境を接する位置にあり、Rhein川が東から北北西に湾曲して流れている。此処の水も薄緑の乳濁色をしており、急流である。川幅は200m程あり、市の大部分は旧市街も含め其の南東側にある。此方側はGrosse(大)Baselと呼ばれ、対岸はKlein(小)Baselと呼ばれている。川には4本の橋と最上流に高速道路・鉄道橋が架かって居る。この他4か所でフェリーが運航されている。急流なので、フェリーは何れも両岸から張られたケーブルに沿って川を横切る。この様なフェリーを見たのは此処が初めてだ。

 

最初は町の全体像把握の為、旧市街を通り過ぎ、対岸まで行ってみる。そこで電車をおり、旧市街の教会を眺めながら橋を歩いて戻ってくる。教会は茶色の砂岩で出来ている様で、高い2本の鐘楼が青空に聳えている。此処からだと全体像が見渡せる。屋根に特徴がある。鱗状のスレート葺であるが、その上に多色の幾何学模様が描かれている。旧市街に入り先ず教会を目指す。裏手の方から教会に入り、川岸の崖の上にたつ。フェリーが流れに抗して、流れで直ぐ消える短い航跡を吐き出しながら懸命にこちら側を目指しておる。教会の裏手に当たるこの広場には大木もあり、何人かがそこで寛ぎ、あるいは川を眺めていた。教会の正面に向かうと、ここにも更に広い広場であったが、広場の外れまで行っても教会全体の写真は撮る事が出来なかった。広場を囲んでいるのは幾つかの博物館である。旧市街を回る幾つかのお勧めコースが地図に載って居るが、僕は気の向くままに歩く。旧市街の大きさは長さ1キロ幅500m程度なので、全ての道を歩いたとしても大した事はない。起伏の多い所で、狭い路地や階段もある。電車の通る道に出て、右手の方に進むと、又広場がある。広場は細長く、多くの人が野外のテーブルで飲食に興じている。広場を囲む建物はドレも砂岩で出来て居り、立派な物だ。略真ん中に赤味がかった褐色の建物がある。16世紀初頭に起源をもつ市庁舎である。その後修復や増築を繰り返し、今の姿に成ったと言う。建物の色は顔料を塗ったものであり、内部には同じ様な色調の壁画が描かれている。今は市庁舎の機能は無く、日本で言えば県に相当する地方行政区の議事堂として使われている。観光の名所であり、予約の時間に説明付き館内案内もある。

彼方此方歩いて居ると立派な破風が見えて来たので、其方の方に行ってみる。Ba―  sel大学のの植物園であった。春の草花が咲く中、多くの人が植物の手入れをしていた。見せる花を咲かせるのは大変な事なのだ。熱帯植物園では、幾種類かの南国の鳥の姿も見られた。紫色をした、細長い電球の様な形をしたバナナの花の下には鉛筆よりやや細く、長さは5cm程のバナナが軸を取り囲むように成って居た。その下にも幾層か同じ様な物が成って居た。バナナは何回も同じ軸の上で花を咲かせ、其之度に新たな層の実を付けて行くのであろうか?余りにも分からないことが多すぎる。里芋の仲間、タロ芋であろうか。兎に角葉っぱが大きい。大人の上体より大きい。単に写真を撮ったのでは大きさが分からないので、傍に居た御夫人に葉の横に立って貰い写真を撮った。茎も太く、高さ2.5−3.0m程もある。熱帯ではこの芋を主食としている所も在るそうだ。

小さな旧市街の建物を除くと、Basalの大部分の建物は何処にでもある箱型建築で見るべきものは無い。スイスの町で一般的に云えることは、路面電車を多用して居seであろう。トロリーバスやバスの路線も多く、公共交通機関は十分に発達している様だ。

一旦Hostelに戻り、Checkin後再び出かける。宿で、ドイツに行くにはと尋ねると、交通機関を教えて呉れる。宿からは直線だと5キロほど真北がドイツ国境で、其之先200mで左折し、人のみが渡れる橋を歩き、Rhein川の中央から先はフランスだと教えて呉れる。

路面電車を降りて歩き出す。直ぐに運河があり、之を渡り、高速沿いに1キロほど歩くと国境で、大型トラック等の通関所があるが、歩行者は何の手続きも要らない。更にその先ドイツ領内を歩く。物流運輸関係の事業所が多く、生活臭の無い所で、1キロ先で引き返す。スイス国境300m手前のドイツ領には広大なShopping mallがあり、此処の運営は3国共同で行っている様だ。新しいく作られた立派な吊り橋を渡り、フランスに入る。真っ直ぐ進むと広大な広場があり、モニュメントがたっているが、工事中の為近づけない。先の大戦の記念碑であろう。この辺りは国境地帯で、70年前独仏は対戦相手であった。今はこうして自由に行き来出来、之が人間本来の姿であろう。
天気が良くBaselも十分堪能出来た。明日は愈々レース開催地Bielに向かう。

その他スイス雑感
スイスは九州よりやや小さい国であるが、国際的な存在感は大きい。小国必ずしも小ならずである。日本と同じ様に資源小国でもある。にも拘わらず、国民生活は豊かで、生活文化水準も高い。確りとした政治政策と国民資質の向上を目指した長年の政策がこの国を大成らしめているのであろう。見習うべき国の一つである。

今回は大半Backpacker Hostel(素泊まり3500−4000円)に泊まったが兎に角清潔である。Lockerの設備も良く安心して泊まれた。

走って居る間に見た小規模発電も含め、水力発電は60%を占め、他の大部分は現在五基の原発で賄っている。只、徐々に閉鎖を進め2034年には原発ゼロとする計画である。環境保護に関しても大きな関心を持って居る様だ。その表れは、今回訪れた都市の全てで、市電やトロリーバスが多く走って居た。これらの架線は写真を撮るには邪魔に成るが、環境保護に立場が優先されるべきだ。

 旅の費用:航空運賃:150000.鉄道運賃:20000、宿泊費:30000、食費:10000、レース参加費:14000、合計:224000円 

                                               

このページのトップに戻る



平成25年6月2日掲載

13.05.07−13 Le Luc 6日間走
13.06.01・大森

大会公式サイト http://french-ultra-festival.fr/
参加者フランス在住有田せいぎのレポート 2013-6day-run.pdf へのリンク


レース前日の6日夕方友達の車でToulouseから8時間程掛け、会場のLe  Lucに着いた。着くと間も無く激しい雨が降り暫く続く。会場ではテントなど設営に多くのスタッフが働いて居たが、この雨には全くお手上げだ。自分の選んだテントもグランドシートが濡れて居り、座る場所は無い。風もあり、屋根だけのテントの中では濡れずに居られる場所は少ない。僕はテントの中に止めてあった2台の電気自動車の一台の運転席に座り、雨宿りをする。屋根が2重に成って居る分、濡れ方は少なくなる。フランスは電力大国でもあり、電気自動車の普及も進んで居る様だ。車は場内用であろうが、2人乗りで、屋根は付いて居るが、ドアに相当するものは無い。運転は簡単な様で、操作部はハンドル、アクセル、ブレーキの他は無い。鍵は常時付け放しなって居り、誰が乗っても良いのであろう。

雨が上がり、自分のテントに行ってみる。やや低い所にあり、テント内のグランドシートの4分の1程は泥水で覆われている。先ず浸水側に回りから集めた木片などで堰を作り、その後中からグランドシートを持ち上げ、水を外に出す。水はまた堰を超え、低い所に流れ込むが、今度はシートの上面では無く下面に流れ込むので、テント生活に不都合は無い。

写真をポイントすると説明が表示されます
其の後テントの入り口部に近くに在った荷物受けの木枠を置き、その両側には直径30cm、高さ40cm程の松の丸太を置く。ちょっととした椅子代わりに成る。テントの入り口にしては中々立派な玄関だと、自らの作業の結果に満足する。7時ぐらいに成ると簡易ベッドが到着し、パスポートと交換に使うことが出来る。実際このベッドなしに浸水したグランドシートの上に直に寝起きすることは不可能だ。テントは50m2程の立派な物だが、住人は今日の所4人で、十分な空間がある。テント内にも丸太を持ち込み、荷物の置き場を確保する。有田さんの持ってきた洗濯用の紐を張り巡らし、一応7泊8日の生活空間の完成となる。

今回の会場は自動車競走のCircuitで,街からは離れた所にあり、傍には何もない物と思い、持ち合わせたある物を食い就寝する。

レース当日は素晴しい朝となる。走路の確認の為二キロ余りのコースを一周する。道幅は15m程あり、之を真ん中で仕切り、内回りと外回りの二つのコースが出来ている。両コースの境はコーン(Traffic cone)と場所によっては鉄柵で仕切られている。鉄柵には接地面に突っ張りの足が出て居り、夜間は注意が必要だと言い聞かせる。

 会場全体は小高い山の頂上を削り、Circuitを作ったもので、今回の走路の他に幾つかの迂回路がある。又ゴーカートの走路も別にあり、其方からは轟音が聞こえて居り、時折、地面スレスレに高速で走る車が見える。このコースは自動車競技選手の育成が主なのであろうか、観覧席等はない。競技開催時にはその都度臨時の観覧席を作るのであろう。

走路の両側は草地となって居り、色々な野草が花を咲かせており、綺麗だ。レースの参加者は思い思いの場所に車を乗り付け、テントを張ってレース期間中過ごす事になる。

コース全体は荒いアスファルトで出来て居り、殆ど凸凹もなくまた路面の幅方向の傾きも少なく走り易そうだ。又コース全体の一周当たりの高度差は+−10m程であろうか、緩やかな登り下りが何か所かある。又曲がりも大きなものが何か所あるが、全体として閉じたループとなっている。 

下見の後受付をし、番号を貰う。其の後は遣る事は無く、横に成って時を過ごす。
レースのスタートは午後四時である。歩きも含め100名余りがユックリと動き出し、外側のコースを時計方向に進みだす。皆其々の目標に向かって144時間の結果に向かって走って居るに違いない。僕は歳が歳だけに大望や大志を持つことは無くなった。その日その日に出来るとこをすれば其れで満足だ。今日は初日なので、若干遅くまで走り、取敢えずマラソンの距離を踏んで置こう。

最後の2周目に懸念していた事故が起こる。周回の終わりに近い1700m付近は大きなカーブとなって居り、其処の鉄柵の足に躓き、転倒右膝に大きな擦過傷が出来る。直ぐに応急処置をして貰い、もう一周するが血は止まらない。テッシュペーパーで抑え、血が衣類に付かない様にして床に就く。7時間近く掛かって目標達成、23時少し前であった。

翌朝は5時に起き、厚着をして取敢えず歩き出す。1周する頃には体も温かく成って来る。長袖のシャツを脱ぎ、腰に巻いて走る。一周2キロ強のコースを7周ほど回った所でテントに立ち寄り、朝食の券を持って又コースに戻る。使っているテントは周回確認地点や食堂用テントから略200メートル先にあり、食事の度にこの間を行き来していたのでは日に800mと云う無視できない距離に成るので、食事やシャワーには準備をして走行方向1800m強先にある地点まで進むことに成る。銭湯や食堂が1.8キロ先にあると思えば良いのだ。食事の後はテントに立ち寄り歯ブラシを持って歩く。食事直後に全力疾走など飛んでも無い話で、歯でも磨きながら歩く事だ。僕はこの何十年も歯磨き材を使ったことが無く、何も付けずやや時間を掛けて磨いている。この間虫歯が進行したことは無い。歯磨き粉は本当に必要なのであろうか?

一周後テントに戻り、歯ブラシを仕舞い、日焼け止めを塗って又コースに戻る。レース開始後第1日目の朝であり、レースは今日から本格的な展開を迎える。先ず1日の大雑把な流れは、起床、走行開始、朝食、走行、正午、走行、16時(レース1日の終わり)、走行、夕食(19−20時)、就寝となる。起床から朝食(2−3時間)、朝食から昼食(4時間強)、昼食から16時(3時間強)、16時から夕食(3時間強)と、活動時間帯を4つに分け、それぞれの時間帯でどれだけ距離を伸ばせるかを考え、歩を進める。この周期に従って、どの位距離を伸ばせるかを考えればいいことに成る。頼まれて走って居る訳では無く、気が向くままに走れば良いのだ。睡眠時間を削ってまでも距離を伸ばす考えは毛頭無いのだ。各期間の目標値は低すぎても高すぎても良くない。高すぎた場合、挫折感に襲われる。次の区間設定はやや下げ、到達可能な値とすることだ。

9時からは別のレースが内側のコースを使い始まって居る。彼らは反時計方向に回っており、頻繁に出会う事に成る。このコースではマラソン、50キロ、100キロ、100マイル、6時間走、12時間走、Kids‘Run,かーちゃんレース等が時を変え行われ、其れなりに楽しい。超長距離界の有名人Serge Girardもマラソンか50キロを走った。彼に取っては御遊びで、此方のゼッケンの名前を読み取り、各人の名前を呼び、High touchをしながら、いつの間にか消えて行った。

昼食まで4時間余りが最も充実した時間だ。暑さもそれ程には成らず、凌ぎやすい。この間は真水以外は何も摂らず走る。折角歯を磨いたのに、何かを食えば効果はゼロになる。11時半ごろには腹が減って来るが、更に1周する。車は燃料が切れる直前が良く走るという。車体が軽く成って居るからだ。

椅子に腰を降ろし、パスタ、マシュドポテト等を食べて又走り出す。午後は気が向けば、テーブルに出ている物を何でも食べる。リンゴ,オレンジ、バナナ、チョコレート、ケーキ類、パン、ポテトチップ、フライドポテト、茹で芋、ピーナッツ、サラミ、ハム、飴玉、チース、茹で卵、茹で米[強いて言えば御飯と云う事に成るが、何か僕にはしっくりと来ない]等で、可なり選択肢は広い。

僕の膝の傷を見て、転んだのかと何にものランナーが尋ねる。彼らの中にも転んだ人が2−3人居たが僕ほど大きな傷では無かった。歳を取ると転倒時の怪我も大きくなるのであろうか?

今まで全体に薄雲が掛かって居たが、雲が無くなり、風が強くなる。突風が吹き、斜め後方で大きな声がするので振り返る。大型のテントが宙に舞っており、沢山の物が舞上がって居る。如何も我々のテントの傍の様である。一順してテントに戻って見ると、帽子、ランニングタイツ、パンツ、Sleeping Mat等がなく成って居る。“風と共に去りぬ”である。後で近所の人が集めて居て飛散物を探すと、帽子だけは出て来てホッとする。他の物は諦める他無い。この突風の後、テントは縄で確りと固定されていた。又、主催者のGerardがテントの様子を一つ一つ見て回って居た。出来る限りの事はする彼の姿勢の表れある。

レース開始後24時間後の目標値は100キロであり、何とか達成する。その後夕食までに15キロを積み上げる。19時少し前にテントにより、着替えや石鹸をビニールバッグに入れ、背負って走る。時間に成るとこの様な恰好のランナーが多くなる。皆考える事は同じなのだ。

シャワーを浴び、夕食を摂る。赤ワインも3杯飲む。之でユックリ眠れる。空は未だ明るいが9時前に就寝。

2日目の朝を迎える。朝は冷え込んでおり、中々起き上がる気に成らない。漸く起きだし、外にでる。走路上の彼方此方に立っている照明灯が霧で霞んで見える。余り気は進まないが、取敢えず歩き出す。

Car raceのコースなので、元々照明等は全く無かったが、レースの為に電柱を建て照明を用意した大会当局の作業は大変で在ったであろう。僕が到着したとき時は未だ、電柱と建てる作業が続いて居た。御蔭で、ランナーは照明灯を持たなくても走る事が出来る。

テントに立ち寄り、Antibes在住の晴美さんの用意してくれたお握りを持って、歩きながら食べる。彼女はこちらに来て四年になり、今年からはスタッフとしても名を連ね、大会当局のWebsiteの日本語版にも関与している。

エードにも立ち寄る。夕食の残りの肉料理、サラダ等が出て居り、少しずつ食べて走る。フランスの朝食は簡単でコーヒーにパン程度の事が多い。此処での朝食はカフェオレ又はミルクチョコレート、オレンジジュース、それにバター、ジャム等を塗ったバゲットだけである。

朝食までに7周14キロ余りを走る。今日の目標は48時間終了時190キロ、就寝までには210キロを一応の目標とする。幸い今の所肉刺は出来て居ないので何とかなりそうだ。実はこのレースで一つだけ変えたことがある。靴である。新しい靴はもう買うまいと思っていたが、思い切ってもう一回り大きい物を買い、1度国内のマラソンで履いたものを持ってきた。何時も殆どの爪が駄目に成るので、従来の物より5mm大きなものを買ったのである。靴を替えた理由は爪対策であり、肉刺の対策には寄与して居ないと思うが、兎に角肉刺は未だ出来て居ないのだ。肉刺の出来ない理由の一つは路面が平坦で凸凹が少ない事では無かろうかと思っている。昨年まではこの時点で肉刺に難儀している。

空は快晴で風は強い。前半は追い風、後半は向かい風となる。向かい風の場合真っ直ぐ進むのが困難な程の強風だ。日中は気温が上がるが、風が有るので、流れる程の汗はかかない。其れでも2時―4時頃は矢張り暑い。48時間の目標は達成する。190キロと云うのは24時間走の目標としても高い物ではないが、6日間走の中での目標値として、また歳のことを考えると、それ程的外れの数値ではないと思っている。更に夕食までに20キロ程走り、210キロを超える。明日の夕食までに300キロを超えられるだろうか?

午後に入ると何時も走路には人が少なくなる。シアスタの習慣のあるフランス南部ではこの時間は昼寝の時間なのだ。この時間は気温が高く、体力を消耗するので、昼寝は合理的なのだ。その分気温が下がり、風も穏やかに成る夜走れば良いのだ。只夜は寝る事に決めて居る僕は敢えてこの時間でも走る。

内側のコースでは4時から24時間レースが始まって居る。知り合いのSweden人が歩いて居る。20名程が走って居り、互いに反対周りに走って居るので頻繁に出会う。走りと云うのはヒョトしたら馬鹿でなければ出来ないのではないかと考えてしまう。足を右左に出すだけの単純な動き、同じ所を何日にも渡って回り続けるだけなのだ。又別な見方をすれば、之だけ単純は動きを斯くも長期に持続出来る動物は他には居ない。行動の目的を長期に渡り保持し、運動を維持出来るのは矢張り高等動物以外には出来ない様にも思える。どちらが正なのであろうか?

其の後7周し、シャワー、夕食、ワイン3杯で就寝である。この辺りはワインの産地で出てくるワインは勿論地元産の物である。

丸2日ストレッチもせずに走ってばかりいると、体の柔軟性が無くなり、床に落ちた物を拾うにも一苦労である。寝付こうとするが、右手の人指し指が釣って眠れない。色々遣って見たが、中々治らなかった。

3日目の朝の冷え込みは以前より厳しい。空が快晴の性であろう。最初の一周は上下薄手のダウンを纏って歩く。ゼッケンを付けて居ないと、周回の記録は出ないので、付いて居るシャツを帽子の代わりに被っている。寒さを避ける為に丁度いいが、奇妙な恰好には違いない。疲労感も今日あたりが最大の筈で、筋肉も強張って居り、ユックリと歩きながら一周すると、何とか走れるようになる。

2−3周でダウンは脱ぐが、朝飯の終わるまで、長袖、長ズボンは外せない。気温が上がって、着替えをし、日中仕様で走り出す。勿論日焼け止めは塗り付けてからテントを出る。今日も快晴で風は強い。

Toulouseから一緒に来たAurelienは既にアキレス腱の異常で歩き出しており、1600m辺りにある彼のテントに時々立ち寄り休んで居る。その際、一緒に来たCatalineが足を洗ったりして面倒を見て居た。彼女は6時間走を走るという。

小さなテントで8泊同宿すれば何も無いと言うのは可笑しいが、之がフランス流の男女の仲なのであろう。Aurelienには立派な奥さんが居るのだ。

レース開始後既に2.5日が経過しており、走って居る人の中にも姿勢が崩れたり、テーピングをした人の姿が目に付くようになる。自分には未だ肉刺ひとつ出来て居ない。10時頃、周回計測所の辺りで何処かで会った爺さんに会う。向こうから声を掛けて来たが、誰だか分からずに通り過ぎる。

医療テントの前は終始治療を待つ人が並んでいる。一人の医者と、もう一人の整体師で対応しているが、対応しきれない程だ。昨年は元気で走って居たJeffは何時みてもこのテントに居たので、如何したのだと言うと、良く分からないが、痛くて走れ無いと足に沢山のテーピングをしていた。結局彼はこの後棄権して帰ってしまった。3日位でリタイヤーした人は15人を超えるという。何処も痛くなく、走れる事は幸せな事だ。

丸3日が終わる4時には予定していた250キロを超える。明日は300キロを早めに越えられそうだ。4日目となる4時からは3日間走が6日間走と同じコースで始まる。参加者は20名足らずで、リタイヤ―した人と差引零の感じで、人が増えたとは感じない。只ゼッケンの番号が違うの、其れと分かる。

風は夕方一層強まり、1700m付近を走って居ると目の前の大きなテントが宙に舞い、逆さに成って落ちてくる。更に風が吹くと危険なので、急いで本部まで走り、状況を告げる。アルゼンチン人達のテントで、住人の2人は医療テントにいたが、急いで対処に戻ったが、他の人の応援なしには対処し得ない筈だ。もう一周しテントの傍に来ると、骨材と幌とは別々にされ、中の荷物も片付けられていた。別のテントに移り住むのであろう。心配に成ったので自分のテントに立ち寄る。物は飛んで居ないが,あらゆるものが土埃を被り、まるで砂漠のテント生活の状態だ。風が治まってから埃の始末をして寝る他無い。

風は治まりそうも無く、コースの分離帯の鉄柵も彼方此方で倒れ、スタッフが対応に懸命であった。結局全ての鉄柵は取り払われ、コーンに替えられた。コーンはプラスチックで軽いが、風ぐらいでは倒れない様に出来ているらしい。下部を重くし、安定を良くしているのであろう。その後これらのコーンは一つも倒れる事は無かった。夜間は蛍光色を発するこれらのコーンは安全にも極めて有効だ。何故最初から全部コーンを使わなかったのか?使って居れば、僕を始め何人かの転倒による怪我は無かった筈だ。

夕食までに260キロ余りを終える。夕食は肉料理、サラダ、パスタ、ライス、豆等日によって変わったものが出る。それにヨーグルトが出、好きなだけ食べる事が出来、十分である。この日も、赤ワインを3杯飲んだのは言うまでもない。テントに帰ると、僕の横に男が寝ている。埃を払うには、外に持ち出してするしかないが、止むを得ない。やや時間を掛け、埃を払った後就寝。9時半、外はまだ明るい。

4日目の朝、満天の星を仰ぎ1日が始まる。今朝も寒い。5度位であろうか? 4時半ごろに東の空が明るくなり出す。ゆっくりと歩き出すが、疲れは余り感じない。走りの生活に慣れて来たのであろう。昨日あたりが、疲労を一番感じた様だ。風は幾らか治まっているが、矢張り強い。

朝方は走って居る人は少ない。会う人が居れば、Bonjourと声を掛ける。もうみんな顔馴染みだ。追い抜いて行く人の殆どが“Toshio”と声を掛けて行く。特にOlivierと云う上位を争っている若いランナーは何時も声を掛け、軽快に追い抜いて行った。

何日か快晴の日が続き、サングラス無で走って居たせいか、目がショボショボする。帽子の鍔だけでは十分では無いらしい。路面からの照り返しもキツク感じた。今日からはサングラスを掛けて走ろう。

何周かして、テントに戻ると、隣に寝ていた男が起きて居り、声を掛けて来た。例の爺さんで、僕も何処であった男かを思い出していた。Henri Giraultと云う100キロの完走回数世界記録保持者でGuiness Bookに載って居る男だ。専ら100キロだけを走って居り、それ以外は全く興味を示さない男で、今年で77に成るという。暫しの間立ち話をするが、彼は100キロを走らずに帰ると云い、帰り支度としている最中であった。その後本部の前で見かけた時は荷物を手にしていた。バスを待っているのであろう。

彼とは以前2度会って居る。最初は2005年Laplandの100キロレースで、この時は彼の奥さんも一緒に走って居る。其の後は南極で2007年の暮れに会って居る。当時の彼の記録は540回ほどであったと思うが、今回は604回完走を目指して来たが、 諦めて帰るのだと云っていた。603回の今の記録が自分の最後の数字かもしれないと寂しげに云っていた。王者と云えども歳には勝てないのだ。

朝飯を済ませ走って居ると、直ぐに9時と成り、内側コースでは100キロのレースが始まって居る。見て居るとHenri Giraultも走って居る。思い直して、挑戦する気に成ったらしい。周回ごとに2度会うので、どの程度の早さかが分かる。時速6キロ前後であろうが、段々に落ちて来て、軈て歩き出していた。昼食後暫くすると走路での彼の姿を見なくなる。次に会った時は本部前で、又帰り支度した姿であった。立ち止まって話をする。風が強く完走を断念したと言う。挨拶を交し分かれる。本当にこれが彼の最後の走りとは思いたくない。又走り、603から更に積み上げて欲しいし、又何処かで会ってみたい。お互いに走りを諦めない限り、可能性はあるであろう。

相変わらず日差しは強く、風も強い中を走る。沿道の家族や走る仲間の掛け声が何よりの慰めだ。丸4日経過の4時を迎える。走った距離は330キロを超えている。密かに目標としていた1日平均80キロは確保出来ている。

4時からは48時間のランナーが同じコースで走り出しているが、早さが違うだけで、人がそれ程増えた感じは無い。道幅約8mの2キロあまりの走路に最大で130人程度ランナーが散らばって居るだけで、15mに一人のランナーが走って居る程度なのだ。勿論2−3人で連れ立って歩いて居る人たちも彼方此方にいる。

僕はアチラに行くと何か珍獣と思われるらしい。ランナーや沿道の人達から一緒に写真に納まる事を求められ、その都度立ち止まって応じる。中には動物の帽子を被せられて写真に納まる事もある。子供も似た様な帽子を被り一緒に写真を撮り喜んでいる。

夕食までに更に7周、14キロ余りを走る。赤ワイン3杯が今日の終わりである。未だ肉刺は全くできて居なく、ひょっとしたら全く作らずに6日間を走り切ることが出来るとの希望が持てる。何処も痛くなく、動き続けることが出来るのは最高の気分だ。

只故障の前兆も出て来た。右を下にして横向きに寝ると、大腿骨の一番飛び出した所に鈍痛を感じる。僕が走る様になって何年も経たない頃、右の鼠蹊部が痛く成って自力では脚が持ち上がらない事が起り、国立陸上競技場の整形医に診て貰った時、変形性股関節症と診断され、暫時悪化の方向を辿ると宣告されている。無理をし、限度を超えれば走りを諦めざるを得ない事態となる。過去何度もその様な経験をしている。様子を見ながら、焦らずに前進する他無い。

5日目の朝も晴天である。何時もの様に歩き始め、2周目からはお握りを食べながら歩く。軈てゆっくりと走り出し、朝食前に16キロを熟す。

今日の目標は400キロを超える事だ。丸5日が経過する4時には之を超える410キロに達する。何とか6日間の日当たり平均が80キロを超える目途が立つ。今日は体調に変化が出て来た。尿意が頻繁に出る様になった。放尿は所定の場所以外でもテントの張って居ない走路の草地で出来るので支障は無かった。更に10キロを加え、この日の終わりとする。今日も夕食時にはワインを3杯。

レース最後の朝を迎える。何と尿意の為、1時に目が覚めてしまったのだ。其のまま起きて、歩き出すことにする。残る時間は15時間を切って居る。480キロには60キロ残っている。10時間以上は掛かる距離なので、この時間から動き出す必要があったので、丁度いい目覚めであったと言える。

最後と云う事もあって、ユックリとは言え、リズムに乗った走りを心がける。走りと歩きの境目は速さでは無い。定義上の問題である。時速5キロの走りもあり、時速15キロの歩きもあるのだ。僕の前進移動行動は意識的に歩く他は、全て走りと思っている。朝起きた時や、食事の後を除いては、全て走って居ると思っている。

走路にはびっこを引いたり、大きく姿勢を崩しながら前進する人が彼方此方にいる。此方の速度も落ちているので、歩いて居る人に追いつけなかったり、歩いて居る人に抜かれたりして、歯がゆい思いをするが、行かんともし難い。2時過ぎに何とか480キロを超える目途が立つ。どの位上乗せ出来るかが問題だ。最後なので最善の努力をしてみよう。暑さの中、淡々と走る。肉刺の出来ている気配は無い。

3時半を過ぎると自分の番号を書いた木札が渡され、それを持って走る。木札を持って更に1周するが、まだ時間があるので走り続ける。スタート地点から1キロを少し超えた所で、号砲が鳴る。走行を中止して木札を路肩に置く。後で計測員が最終計測する為だ。コースには元々レース用に100メートル毎の距離表示が用意されているので、其処を起点に計測するのであろう。機械的な周回数、234回、之にコースの長さを掛けた486.03438Kmが達成距離であり、之を143時間48分で達成したと出ている。之に計測員の計測結果の1キロ余りを加えたものが、最終結果で487キロ強となる。之が6日間の全ての結果である。

レース後2時間後の6時に表彰式に続きパエリアパーティーが行われ大騒ぎをする。僕はワインを十分飲んで、テントに戻ったが、多くの人達はダンスに興じていた。 

レースの前
日本を4月24日出てBangkok周りでパリに着いたのは24日の朝であった。早速TGVに乗ってAngersに住んでいる有田さんの所に向かう。彼からは買い物を頼まれており、其れを渡してから旅を続けたいからであった。依頼された買い物は大した金額では無かったので、お土産として渡す。

 午後彼とAngersの町や彼の畑を見て、一晩泊まり、翌朝Cherburgに向かう。日本からの核燃料再処理品の受け渡し港のある町で、何年か前の“シェルブールの雨傘”の舞台と成った町である。車窓からは春の木々の芽吹きや、一面の菜の花の咲いた風景が眺められる。春の一番いい時期にフランスに来たなーとの感慨をもつ。

 今回の度は電車で移動しフランスの大西洋側を北から南へ観光しようと考えた。In―ternetで路線や所要時間等を調べたが、必要な情報が得られなかった。従って、列車や宿の手配は出国前は全くせず、全て現地調整と云う事で来ている。

 町に着いて先ず近くのホテルで地図を貰い歩き出す。Youth Hostelの看板が出ているのでそれに従って20分程歩く。途中立ち寄った花屋では“シェルブールの雨傘”の日本語のポスターが飾ってあった。荷物を預け、更に散策をする。沖に防波堤となる細長い島が横たわり、良港の条件を満たして居るが期待したような大型船や軍艦の姿は無かった。内港には沢山のヨットやモーターボートが係留されていた。空はどんよりと曇り、今にも雨が降りそうである。

町は大規模な空爆を受け、殆ど見るべき古い建物は残って居ない。戦後に作られて街並みも既に70年近くたっており、薄黒く余り立派な街並みとは言えない。モット綺麗な町と期待をしていたが残念である。

翌日はタイタニック博物館に行く。沈み行く状態をデジタル表示の時間とともに再現しており、映像的に水の迫って来るのを体験できるものだ。入った所には実物大のタイタニックの荷物の受け渡し台があり、その大きさに驚く。当時の金持ちが、大きな荷物を持ち込んでの船旅の様子が想像できる。操舵室の様子、1,2,3等船室の様子なども分かる様に成って居る。只これらは再現されてものであり、本物ではない。

この博物館にはこの他原子力潜水艦、Redoutable(恐れるべきもの)の実物展示がある。勿論原子炉は撤去されている。原子力潜水艦は機械の塊である。後部は蒸気タービンそれに続く変速ギヤー、スクリュー軸等がある。原子炉は中央部にあったが、この区画は意外と小さく、今は空洞になっている。小型でも、大量のエネルギーを発生出来るのは原子炉の特徴である。中央部には操作室があり、此処には潜望鏡も付いて居る。更にその前部の大きな空間はタンク類で占められている。艦員200名に必要な空気を海水から作る装置である。その前には弾道ミサイルの発射装置を備えている。原子炉を除き、之だけ実物を備えた潜水艦の展示は他には無いという。入館料は18Euro(2300−2400円、他の博物館等も略同じ金額)。

前部の方には艦員の居住空間がある。軍隊は階級社会であるが、居住空間に限って言えば、意外とその格差は小さい。船長の寝室の小さいのには驚いた。幅一間の押入れと余り差の無い空間なのである。他の士官の寝室は之より、更に小さく、下級士官は二段ベッドと成って居た。此処までは一応個室である。その他の艦員は三段ベッドと成り、通路との仕切りの無い空間で寝起きしていたことが分かる。

潜水艦はこの型での第一号艦で1971に就航し、地球32周潜航航海後1991年に退役している。その後Cheruburgに作られた136メートルのドライドックに収められ、2002年より一般公開されている。
午後Cherburgを後に、Caenに向かう。駅にはLeopoldが迎えに来ることに成って居る。彼にあった事のある方は何人か居る筈である。我々が2度目に    Vindel河畔駅伝に行った時、色々面倒を見て呉れた男である。其の時フランスから来ていた女性2人が居た事を覚えている人も居ると思う.其の内の背の高い方と良い中になり、お互いに行き来している中と成って居る。

4月27日時間通りに駅に迎えに出て居り、時間が早いので、やや回り道をして観光をし、Heleneのアパートに着く。彼女は公務員で何時もは遅くまで働いているが、今日は土曜日で早めに帰って来て、夕食の支度を始める。彼女は如何も通常働き過ぎのようである。休暇は年9週間取れることでバランスを取っているのであろう。

何年か振りに会う彼女には適当なお土産をと考え、機内で日本ブランドの真珠の首輪(と書くと犬猫のそれの様にとれるので、Necklaceとした方が良いかもしれない][170ドル]を用意した。之なら軽くて、嵩も小さいので3−4日持って歩いても気に成らならないし、彼女も気に入ると思えたからだ。


Leopoldも手伝い、ややあって夕食となる。Leopoldの友人が倒したというElkのフィレ肉料理だ。此処でこんな上等な物を食えるとは全く思って居なかったので感激である。赤ワインを飲み、エルクの肉を堪能する。

 

其の後町の中心部に観光に出かける。フランス北部のこの辺りは10時頃まで明るい。Heleneのアパートは町の中心地から歩いて10分程の便利な所にある。先ず中心部の城郭跡に車を停め、Heleneの職場に歩いて行く。昔尼寺であった壮大な建物を今は行政機関の事務所として使っていると言う。彼女の事務所は門を潜り、コの字型に広がる大きな建物の右手の先端の3階であるという。11世紀に建てられ戦災を免れた歴史的な建物である。彼女の話によると、Vikingの血を引く、Normandy(この地名の由来は度々この地を襲ったViking,Nord man(north man))の君主William the Concqurer(France名Guillaume)は教会が認めない従妹のMatildaとの婚姻に悔悛の意を示す為に、この尼寺(北東部)と更に大きな僧院(南東部)を互いに見える位置に作ったのだと言う。

英文学や歴史には必ず出てくる、Norman Conquestの主人公がCaenを本拠としていたのは全く知らなかった。彼は1066年英国を征服し、英国王と成り現在に繋がる英王室の開祖なのである。僕に取っては今まではNormandyは漠然とした地名でしか無かったのだ。先ほど見て来た城郭跡も1060年に彼が作った、ヨーロッパでも最大級の城跡である。Caenの町はドイツのみならず連合軍からも空爆を受けたが、こうした重要な歴史的な建物が標的にされなかったのは幸いであった。ドイツ軍を叩く為の連合軍の空爆の際にはこれらの建物の屋根に大きな十字架を書いた布を建物の屋根に被せ、戦火を避けたという。Caenの町にはこの他10余りの見事な建造物が残っている。

翌日は200キロ余り先のMont St.Michel(1979年世界遺産登録、我が国の世界遺産、厳島神社がある広島県廿日市市とは姉妹都市)にでかける。天気は良く、車窓から春の景色は美しい。2時間ほど走り高速を降り、田舎の曲がった道を暫く走る。菜の花の広がる田園風景が素晴らしい。軈て前方にMont St.Michelの姿が見えて来る。沿道には小さな宿やレストランも目に付くようになる。羊の姿も彼方此方に見える。

大きな駐車場に車を停め、約2キロ先のMont St.Michelを目指して歩く。島までは満潮時でも冠水しない1877年完成の盛り土の道路が通っている。島とはこれで陸続きと成ったが、之は潮流の自然の流れを遮断していたことに成る。100年余りの間に島の周りに2余りの砂が堆積し、干潟の面積を小さくしてきた。ラムサール条約登録地でもあり、勝手の姿を取り戻すべく、陸路を取り除き、島との行き来を橋を使って行う」準備が進んで居るが計画は遅れている様だ。現在の陸路とほぼ平行に新たな道路と鉄道の建設が進んでおり島との数百メートルは橋とし、その下を潮流が行き来できるようにするという。完成後は現在の陸路は撤去することに成る。

島のあるサン マロ湾は世界でも干満の差が大きな所で15メートルにもなり、沖合18キロにも及ぶそうだ。
島は古くは墓の山としてケルト民族の聖地であった。その後キリスト教の伝来の後、8世紀の始めごろから聖地建設の伝聞が残って居る。10世紀後半修道院が建てられ、その後増築を続け13世紀には現在の規模となったという。その後英仏間の100年戦争時には要塞として、またフランス革命時には監獄として使われ、一時は荒廃していた。破壊、改修の歴史の中で、主要部のゴシック様式の他、その後の時代の建築様式に見られる修道院であり、カトリック教の聖地である。此処からスペインに繋がるサンチャゴの道は世界遺産となっている。 

島に着くと左手の方から反時計周りに細い石畳みの道を上って行く。道の両側はレストラン、カフェ、お土産屋等が軒を連ねる門前町だ。其の外れに僧院への入り口がある。切符を買い、英語のオーディオセットを借り、僧院内部を見て回る。この間LeopoldとHeleneは何回も来ているので、外で待っていた。

中は修道僧たちが瞑想に耽ったと言う美しい回廊やその中庭、礼拝堂、厨房、食堂、賓客の間など僧院生活に必要な空間が色々な建築様式出来て居た。上部から湾を見ると広大な干潟が広がっている。干潮時であり、2−3のグループが裸足に成り、陸地に向かって歩いて居た。水温む春の干潟の感触は気持ちが良いに陽が居ない。

見学を終えて、昼食である。観光地であるので、物価は高い。名物だと言うクレープ風の料理を頼む。中くらいの皿に薄い生地の上に目玉焼きがのった物が16Euroである。之では足りず、ムール貝、それにもう一つの名物オムレッツを分け合って食べ、3人分で  70Euro払う。

帰りに第2次世界大戦の激戦地D−Day Beachesに寄る。英米を主力とするNormandy上陸作戦の地である。Omaha,Utah,Juno,Godl,Sword等の謎めいた名前が付いて居る。Omahaはアメリカ、ネブラスカ州の州都であり、勿論其処には浜辺等はない。Utahも然りである。そもそもD−Day,H−Hour等の言葉そのものがその意味が分かるものにしか分からない軍事用語であったのだ。 

その手前の海の見える小高い丘の上にはドイツ軍の砲台の後が,錆びた大砲と共に数基残って居た。砲台は頑強なコンクリート製で半地下となって居り、丘と一体と成った感じだ。各々中には砲弾、弾薬などの倉庫が備わって居り、当時の戦い姿が思い浮かぶものだ。

 

 アメリカ軍が上陸したOmaha Beachは幅200−300m、長さ6キロ弱の白砂の立派な海岸で、今は穏やかその物である。上陸作戦が開始された1944年6月4日早朝、アメリカ軍だけでも死者300人、負傷者4万人の人的被害が出た海岸である。この作戦の成功が大戦の勝敗を決したとも言える歴史的な戦場は、今は自然の穏やかさを取り戻している。浜には塔も建っているが、このまま静かな浜辺であって欲しいものだ。
 
 傍には広大なアメリカ墓地があるが、午後6時を過ぎて居たので、中を見る事は出来ず、Heleneのアパートに急ぐ。

 翌29日は2人共其々の仕事があるので、一人で、市内の観光をする。午前中は歩いて20分程の所にある、大戦博物館に行く。映像やパネルを使い先の大戦の推移が分かる様な展示が為されており、急いで回っても半日は優にかかる。説明は勿論フランス語であるが要旨は英語でも出ている。丁寧に読んでいる暇は無いので、写真を沢山とる。日本は欧州の戦場には関りは無かったが、大戦の一方の相手として、一小間には日本刀や日の丸の寄せ書き、軍服などの展示が為されていた。

 Caenの町は激戦の舞台となった所であり、幾つかの歴史的な建物を残し、壊滅に近い状態となった。其の復旧には14年を掛け、今の姿を取り戻したとある。綺麗な花の咲く広場が彼方此方に在り、立派な街路樹の道路も整備され、川や運河に沿って近代的な中層住宅街が広がる近代的な町と成って居る。戦争の悲惨さを風化させる事無く、何時までも美しい町であって欲しいものだ。

 30日8時過ぎ、Leopoldと僕はHeleneの車で駅まで送って貰い、3人其々の生活に戻る。僕は列車でBordeauxに向かう。途中TGVに乗って居る間可なりの雨が降って居たが、4時過ぎ目的地に着いた時は止んでいた。Bordeauxで乗換え、Medoc寄りのBlanquefortで降り、Caenから予約していた宿に荷物を置いてMedocに向かおうとする。駅で時刻表を見ると、Medoc Wine  Marathonの町まで行くと、帰りの便は無くなり、今日中に宿に戻れなくなることが分かる。支線のまたその支線と云った様な鉄道で、一応電化はされているが、Internetで調べても路線さえ載って居ないローカル線で、運行本数も極めて少ない。

 雲峰さんの走ったMedoc Marathonのコースは見る事は出来ず、途中駅で降り、一面の葡萄畑を見て、宿に戻る。葡萄は今膝位の高さの主幹に5−6枚の黄緑の葉っぱを出して居り、軈て花を咲かせ、蔓を伸ばし、秋には立派な実を付けMedocの   Wineとなって世界の食卓に乗るのを静かに待っている風である。彼方此方には   Chateauと呼ばれるWineryが見え、其処への表示がでている。

 5月1日、Bordeauxに戻り先ず宿探し、荷物を預けMedocと反対側、内陸部のSt.Emilionに向かう。Bordeauxを中心に西にMedoc、東にSt.Emilionの葡萄畑が広がる、広大な世界的なワインの産地である。

Bordeauxを離れると広大な森林や草地が見えて来る。軈て車窓の右も左も一面の葡萄畑となる。Bordeauxから35キロのSait−Emilionの駅には小一時間を要するのんびりとした旅だ。乗って居る人の数も少ない。着いた駅は無人の様だ。何人かが居り、鉄道から北に向かい丘を目指して緩やかに登って行く。皆目指す所は同じで、1.5キロほど先の町Sait−Emilionの町だ。 町の歴史地区や葡萄畑を含む辺りの景観は世界遺産となっている。

新芽を出したばかりの葡萄畑を見ながら進んで行くと、途中から片側に駐車している車の列が目に付く。此処へは列車より、車で来る人の方が多いのであろう。途中のCha―teau(この言葉はフランス語で元々は城を意味するが、大邸宅や、ワイナリーをも意味するようになった)や色々なワイナリーの行き先案内等を眺めながら歩を進める。丘の上部に岩が剥き出しに成って居る所があり、入り口の様な物が見える。石灰岩を刳り貫いた地中にワインを保管し、塾生を待つのであろう。

Sait−Emilionの歴史は古く、先史時代に遡る。この地に最初に葡萄を植えたのは古代ローマ帝国の人達で2世紀のことという。中世には巡礼者達が此処を通る様になり、質の良いワインの産地として広く知られるようになった。人口は2000人余りであるが、街は正にワインの町である。ワイン博物館、沢山のワインカフェやバー、試飲を供する店、ケースや瓶でワインを売って居る店、およそワインに関する物なら何でもある。値段もピンきりで、一本1000円程度のものから200万円程の物が並んでいる。僕も広場のバーに入り、St.Emilion産のワインを2つほど飲んでみた。ワイン通で無いのであろうか、2杯のやや上等のワインよりは若干劣ってもボトル2本の方が僕には合って居る様に思えた。

 

地図をみると、St.Emilionを含めこの辺りの地名には殆どこのSaintやSt.が付いて居る。パリの通りの名も矢鱈とこの聖が初めに付くものが目に付く。   Spainでも同じだ。之の地の人達は余程Saintが好きなのであろう。キリスト教の聖人は12使徒を始めに徐々に数を増し、今では三桁に成って居る様だ。Mother Teresaも間の無く聖人に叙せられる様だ。これらの聖人の呼び方は各国により違いがあり、このことを考えるとヨーロッパには驚くほど多くのSaintやSt.を関した地名がある。

Bordeauxに戻り町の散策をする。この町も一度来たことがある。ワイン産地の中心地として栄え、石造の立派な建物の多い町だ。

2日大都市Toulouseに向かうTGVに乗る。Toulouseは昨年San‐ tiagoの道を歩いた時、一晩泊まった所であるが、街は殆ど見て居ない。今回は町の観光もし、Airbus製造の本拠地となっている工場も見ておきたいと思った。町に着くと先ず宿を探す。地図を貰い探すと、巡礼の宿が見つかった。其処に泊まる事にし、荷物を預けて町の観光に出掛ける。Toulouseはフランスの他の町の白さに比べて、茶褐色の町である。近くに石材の産地がないのであろう。町は煉瓦で出来ている。

この街には友達がおり、今回会うことに成って居る。昨年の6日間走で会った男で、   Aurelienと云う50代の男だ。着く日にちは3日程前から連絡していたが、時間は知らせて居なかった。彼は英語が余り得意では無いが、何とか此方の云う事を理解しようとして色々確認をしてくる。言葉が不自由でもその意思があれ意志疎通の方法はあるのだ。電話の結果4時にこちらの宿に来ることで合意する。


4時前に宿に戻り待っていると、略定刻に彼が遣って来た。彼には2つ程頼みたいことがあった。一つはAndorraに行っている間余計な荷物を預かって貰う事、もう一つは此処から先レース会場まで一緒に行くことであった。どちらも快く引き受けて呉れ荷物を引き取って帰って行った。彼は今勤務中であり、長居は出来ないのだ。

Andorraから戻るバスの時間にバスの終点で待ち合わせる約束もした。只この約束が守られない場合、僕はレースに必要な荷物は何も無くなってしまう事に成る。然し、騙された事がハッキリ分かるまでは僕は人を信用することにしている。

其の後又散策に出かけ、夕食後宿に戻る。部屋は比較的大きく6人が泊まれる様に成って居るが、今日の宿泊客は4人である。部屋には台所、シャワー、トイレが付いており長期の滞在には向いて居る。

3日丸一日Toulouseの町の観光をする。Touloseは人口50万に近く、フランスでは大都市である。町の中心部は水に囲まれている。西側には湾曲した幅3−400メートルの川が流れ、東側にはこの湾曲に沿う様に運河が流れている。この水で囲また中心部の弓状の幅は2キロ程である。

フランスは平地が多いので、何処でも運河の利用が盛んだ。此処を流れている川は   Garonne川といい、Bordeaux、Medocを通り大西洋に流れ込む。川や運河の岸は安全で走ったり、歩いたりするには恰好の場所だ。場運河沿いには木立があり夏でも快適に走れそうだ。

 

川に幾つかの橋が架かって居り、東側にも立派な教会や教会系の病院として使われた大きく立派な建物がある。東側から見ると川沿いに立派な建物が見える。美術学校の建物と劇場であった。

Toulouseの町は碁盤目状の道は少ないが、Place du Capito―leと呼ばれる中心部の広場から放射状に道が走り、それ程歩き難い町ではない。其の大きな通りの一つでは蚤の市、骨董品市が4−500メートルに渡り行われており、又別の道では生鮮食料品の市が行われていた。蚤の市の元祖はパリと云う人もあるが、似た様な市は中世からあった様だ。今では欧米の風物詩であり、彼方此方で見られる。大きな道路の中央分離帯、街の広場、教会の周り等彼方此方の町で市が立つのを目にする。Tou―loouseでも僕の泊まった宿の傍の教会を取り巻く様にもう一つの市が行われていた。趣味の目を持った人なら掘り出し物が見つかるだろうが、僕にはそう云う才は無い。

公園も多く、広い植物園もある町である。宿の北の方の運河の手前の公園の中には日本庭園もあり、一応それなりの体をなしている。Franceは文化の国であり、異国文化に対する興味や吸収力の高い国である。その表れがこの様な日本庭園の設置であろう。この他にもBlanquefortのホテルの壁には蛇の絵と其の漢字が書かれていた。今年が蛇年と知っての展示であれば、見事と云うほかない。又この後泊まるAulerianの家の僕の泊まったベッドカバーの模様は漢字であった。

翌朝マイクロバスでAndorraに向かう。切符は昨夕バス発着所の窓口で車内で買う事を確かめて置いた。カード支払いもOKとの事であった。バスの運転手にこの旨告げるが、カードで取扱いは出来ないと言われる。到着先の事務所で決済出来ないか訊くとこれも駄目である。運賃は往復62Euro,これも窓口の話より若干高い。話が違うでは無いかと怒鳴りたい気持ちもあるが、此処では何の役に立ちそうもない。15人乗りのバスで、4−5人しか乗って居なかったが、傍で聞いて居た人が自分は電話でAndorraの事務所に電話をしてカードで買えたので、買える筈だと云い電話を掛けて呉れる。之で切符の件は一件落着。何処にでも親切な人は居るもので、感謝の意を伝える。

バスは空港に立ち寄った後、一路西を目指して走る。道は良く、時速120−130キロ程であろう。2時間ほど走ると前方に山が見えて来る。Pyrenees山脈である。  Andorraは其の山中にあり、北東はフランスと南東はスペインと国境を接する人口7万程の小国である。面積は琵琶湖の3分の2程の山国である。以前から訪れたいと思っており、昨年のSantiagoの道を歩いた時も試みたが、果たすことは出来なかった。

バスは谷合を徐々に高度を上げて行く。左手には鉄道も見える。国境の傍まで行っている様である。Franceの国境のAndorrano町、Pas de la Casa、は名前の通り峠の町で標高2050mにある。勿論まだ雪が残って居り、木々もまだ芽を吹いて居ない物が多い。其処からは九十九折れに下っていく。途中には彼方此方にスキー場があり、滑って居る人も見かける。更に幾つかのリゾート地を経て、首都のAndo―rra la Villaに着く。3時間半弱の旅である。

急流の川にそった細長い町で、高層建築は無いが、建物はどれも超モダン、古びた物は無い。先ず宿を探す。町の中心部の道路を介して5つ星と2つ星ホテルがある。先ず5つ星のホテルで宿泊代を訊く。170Euro[22000円強]。2つ星の方は30Euro,こちらに泊まる事に決める。元より5つ星に泊まる気などは無かったが、ほぼ同じ場所で星の差がドレだけの金銭的な差になるかを後学の為に知っておきたかっただけの話である。

部屋は直ぐに利用出来、荷物を置いて散策に出かける。目抜き通りの両側には巨大な店が並ぶ。酒類、煙草、香水、宝飾品、衣類、靴、バッグ、スポーツ用品、家電、時計、カメラ、IT機器なんでもある。僕は煙草のことは分からないが、葉巻の種類の多さ、刻みタバコが大小の透明なバケツに入ったもの、今までに見た事もない物をみる機会を得た。香港等は自由貿易港として栄えた所であるが、Andorraは欧州の香港的役割を担い繁栄しているのであろう。香港との違いは海や港が無い事、高層ビルは一つも無い事、人々の動きに落ち着きが有る事であろう。

ヨーロッパにはAndorraと同じ位小さな国は少なくとも5つある。今回でその全てを訪れた。これらの国に共通して言える事はどの国も経済的に豊かで、独自の暮らし文化に誇りを持って居る点だ。どの国も一人あたりのGDPでは日本を凌ぐ筈だ。小さい事は決して悪い事では無いのだ。人口減少が始まったわが国では政府、マスコミ界が仕切りにその弊害を喧伝している。何故か? 人口が減れば、労働人口が減る。労働人口が減れば、企業の生産力が落ち、利益が減る。利益が減って困るのは誰か? 企業であり、その裏にいる資本家であろう。政治家も困る。税収が減り、自分達の自由裁量幅が減り、大判振舞い悪さが出来なく成る。マスコミは政治や資本の代弁をしているに過ぎない。

何年か前San Marinoに行ったことがある。此処はAndorraよりは遥かに国土も小さな国で、人口も3万人台であるが、この国が現存する世界最古の共和国である。1700年に渡り、独立し続けた国である。勿論原爆を作る国家予算は無い。大きな国だけが危険な殺傷機材を開発保持しうる。この点から見ると、世界の平和は小さな独立国の集合体の方が確立出来る可能性が高いのでは無いか? 

日本は未だ世界の経済大国である。原爆も持ち得る力を持って居る危険な国である。最近最大の危惧すべき政治的動きは憲法改正論である。現政権や維新の会は看過できない程右傾化している。天皇制の強化を図り、戦争の準備を図りたい意向ありありだ。未来の平和を考えるなら、先ず今の平和憲法を守る必要がある。平和を考える時、これら小国の歴史が貴重な指針と成る様に思う。

首都のAndorra la Vellaは標高1000mをややこえる所にあり人口は25000人程である。町には立派な病院や体育施設もある。川沿いには整備された遊歩道がある。先ず上流に向かって右岸の遊歩道を上って行く。傾斜地を利用し幅の狭い段々畑で野菜を作って居たり、鶏を飼っている家を見かける。決して土地自体が豊かでは無いが、此処には平和な暮らしがある。急流に沿った谷は狭く、両側には可なり高い所まで人家が立っている。

翌日も素晴らしい天気だ。バスは午後1時半なので、其れまで歩く事にする。下流に向かって遊歩道を歩く。地元の人も歩いて居る薄いスポンジ状の物を張った衝撃の少ない路面で、気持ちよく歩ける。町を外れても延々と続いて居る。時々自転車で通る人も見かける。2時間ほど歩き折り返す。ホテルに戻り、荷物を受け取る時、“もっと長く預かっても良いですよ“、云われ心の豊かさを感じ、お礼を述べ分かれる。免税店でAureli―enにはWhiskey,奥さんにはChocolate、締めて45Euro,を買いバスに乗る。

バスが鉄道駅の傍にある大きなバス停に着いて、やや待っているとAurelianが迎えに来た。やれやれである。今夜は彼の家に泊まり、明日レース開催地に向かうことが出来る。

彼は空港に勤めて居り、町から30分程の郊外に住んでいるという。空港に立ち寄り、管制塔の傍の建物を指し、あれが自分の職場だと言った。どんな仕事はしているのかは言葉が不自由なので分からない。次いでAirbusの製造工場の傍を通る。巨大ない建物の切妻が4つ此方を向いて立っている。棟は一体となっていて兎に角大きい。4機の   Airbus 380が同時に組立可能な建物で、更にその奥にはもう一つ同じ工場が繋がっているという。

直ぐに道は砂利道と成り、周りは麦畑となる。間隔を置いて2−3戸の住宅が見えてくる。その中の一つがAurelienの家だ。道と敷地を隔てる塀の門を通り、2−30m入った家の前で車を停め、中に入る。玄関に続き100m2程の広間、それに隣接する台所がある。1階はこの他、トイレ、風呂、彼らの寝室が有る。僕の泊まる部屋は2階で8畳程以上の大きさがある。家は土地を買い、20年ほど前に作ったと言うが、未だ完成はして居ない。常時使う部分は出来上がって居るが、その他の部分はコンクリートが打ち放しであったりする。2階に上がる階段は手作りらしく、可なり急でギシギシと音がする。欧米では暫時家を完成させていくのは珍しくないのだ。

畑に囲まれた家であり、裏庭も広い。間口100m、奥行き300m、3000m2の敷地があり、夏は草刈が大仕事だという。隣の家では鶏を飼っており、時々此方に来て、花畑をあらすこともあるという。昔なら当たり前の暮らしが此処にはある。

広間では訪問中の彼の父親がテレビでサッカーを見て居た。今年80に成るそうだ。  Aurelienの母親は目下膝の手術で入院中なので、日中はこうして彼の家で過しているという。夕食の後、奥さんが車で送って行った。食事中拙い英語で彼の生い立ちを話してくれた。彼の家族は父親の代にSpainからフランスに移住して来たという。彼が子供の時であり、彼はSpain語France語ほぼ同じ様に使えるが、父母はフランス語はあまり話さないという。ヨーロッパは陸続きなので、この様に他国への移住は比較的多い様だ。

食事の後、彼が走ったマラソンのメダルを出して見せて呉れた。Barcelona、Medocは各々10回以上走って居り、Barcelonaはお気に入りの様だ。   Medocも良いが、人気があるレースでEntryが段々難しくなっているともいっていた。この他、Stockholm,Roma、Paris等も走っている。

 明日はラッシュ時の渋滞を避ける為、6時起き7時出発と云う事にし、就眠。

 6日朝隣の鶏の鳴き声で時間前に目が覚める。パン、チーズ、ヨーグルトの朝食を摂り、出発する。1時間程田園の中を走り、小さな集落で停まる。小ぢんまりとした家に入り、コーヒーを飲んでそこに住む女の人を乗せ、会場のLe Lucに向かう。道は良く、天気もいい。順調に東を目指し走り、途中一度小用を足す。次に停まったのはアチラ風休憩所だ。可なり広い場所に、椅子やテーブル等が置いてあり、多くの人が車を停め、食事をしている。トイレと水道が在るだけの施設で、雨の日は如何するのであろうか。欧米では日本の様なサービスエリアなど見たことがない。車で旅をする人は食料や飲み物を持ち込み、この様な所で食を摂るのだ。昼飯は同乗のCatalineが用意して来たサンドイッチやサラダであった。好天の日はこの様な所でワインを飲みながら食事をするのも悪くは無い。
 この後は本文の始めとなる。
 
 旅の費用:航空運賃150000、鉄道運賃40000、宿泊費20000、食費20000、お土産25000、レース参加費39000、入館料8000、合計302000円であった。


このページのトップに戻る



平成25年3月27日掲載

13.03.03 Copper Canyon 80 K

13.03.08・大森


Grand Canyonは御存じの方も多いと思うが、Copper Canyonは聞いたことも無い人が多いのではなかろうか?今回は此処で行なわれた、80キロレースに参加した。

メキシコには古くから走る文化が有る事は相当前から聞いており、何時かは自分で確かめてみたいと思っていた。このレースを知ったのは4−5年前であり、自分も走って見たいと2−3年前から思いだし、ヤット今年実現した。僕にとってはこの種のレースの最後となるかも知れない。

3月3日5時、宿のマイクロオーブンで、近所の店で買っておいた日本の名前の付いて居るカップ入りインスタントラーメンを作り、かき込む。インスタントラーメンは日本が生んだ20世紀最大の調理技術で、今や全世界に広まっている便利な物だ。走る準備をし、ウィンドブレーカーを羽織り、出走地点に向かう。宿からは150m程の所で、日焼け止め、Head Lamp等を入れた袋を傍のレストランの窓に括り付ける。傍に居た人が腕輪を着けて呉れる。丈夫な紙で出来て居り、貼り付けると容易には取れない様に成って居る。之が、正規のスタート地点からの出走の証拠となるらしい。6時スタートと成って居るが、5分ほど遅れて号砲が鳴る。Mexico時間としては上々だ。

レース当日はカメラを携行しないことにした。レンズカバーが全開せず、どうせ碌な写真は撮れない。それに、自分の好みのファインダーの付いたカメラは最軽量の物では600gはあり、中々重く、走力の低下している自分には大きな障害となる。之だけの重さの物を首から吊るしただけでは、揺れが激しく、特別な固定装置も必要となる。レース前に略全行程を歩いて、写真に収めているので諦めはつく。

太陽は既に出ているが、深い谷間の集落に差し込む迄は時間が掛かる。真夏の恰好で走って居るが寒くは無い。此処は北緯27度強、標高は550mをやや超える小さな町(人口1000強)だ。民家の庭には実を付けたパパイヤが彼方此方に見られる。

多くの人たちに見送られ町を後にする。短い舗装の道が終わると、大小の石が散らばる凸凹で埃の立つ道を走る。北に向かい右手にUrique川を見ながら緩やかに登って行く。2キロほどで右に曲がり川に掛かる橋を渡り、川の左岸を上って行く。登りは軈て全体的にはきつく成るが、下りもあり又平らな所もある。道幅は4−8mで一定ではない。地元の生活道路で、狭い所ではどちらかの車が広い所で待ったり、又は戻ったりして行き交いしている道だ。昨日下見で歩いた所で、起伏の状況は把握している。

勾配がキツク成り、九十九折れに登って行く。程無く先頭のランナーが折り返して来る。殆どがRaramuriと呼ばれる小柄な現地人で、道路を外れ細い更に急な小路に入って降りて行く。所謂近道で、厳密には違反なのであろうが、問題にはされて居ない様だ。

登り切ると、川が遥か下に見える。早い人たちは先に行ってしまい、僕の前後には人は余りいない。又下り、水面近くまで降りる。狭い渓谷の地形では川面に沿った平らな道を作る事は不可能で、道は必然的に登り下りとなる。このレースの上り下りは各々3000mを超える。この上り下り、走路の悪さ、それに日中の暑さが加わり、決して楽なレースではない。折り返して来る知り合いのランナーと沢山出会う。日本からも僕の他6人が来ており、次々に出会う。小さな集落2つほど過ぎ、学校のある集落に辿り着く。この学校の裏手の小さい教会が折り返し点だ。水を貰い、教会を回って折り返す。此処でも腕輪を付けて呉れる。ここまでが7キロ、其処から下って、先ほどの橋までが5キロである橋を渡り右折し別の沢を上り出す。

此処でコースの概略を説明しておく。コースは概ねYと考えると分かりやすい。変形のYであり、StartとFinishのUriueはYの交点のやや下に位置する。ここまで走って来たのはYの右手の枝部でありここが一番短い。5キロ。橋が交点である。これから走る左手の枝部は先端では時計回りに曲がっており、Yの装飾文字と考えると良い。この部分は2番目に長く、8.5キロ。起伏は一番厳しい。Yの垂直部が一番長い。交点からは川に沿って下るが、10キロで吊り橋を渡り山道に入って行く。Yの下部は右に曲がって居ると思えばいい。この距離は9.5キロある。Yの下部の総長は19.5キロと考えれと良い。これらを其々2倍すると66キロである。最後にUriqueからYの左手枝をもう一度往復すると80キロである。Uriqueから橋までは2キロである。

Yの左手の枝も最初は凸凹の道路であるが40分程登った所から左に入り山道となる。登りは急で大きな石が不規則に並ぶ道だ。トテモ走れるような道では無い。時に両手も使い、登って行く。ここは5日前に反対側から歩いてきた道だ。周りには誰も居なく、黙々と上る。陽は高く成って居り、暑く成って居る。所々に木陰が有るのが何よりだ。2−3軒民家の集落が何か所あり、彼方此方で放し飼いの牛やロバに出会う。

先端は折り返しでは無く、回り込んで先ほどの道路に出るので、この区間では先行のランナーに会うことは無い。沢を渡り更に登って行くと麻薬のケシを栽培している斜面の横を通る。青空、真っ赤なケシの花、その葉っぱの緑は強烈な印象として今も残っている。更に登って行くと、凸凹の道にでる。暫く進むと給水所がある。腕輪を付けて貰い、500ccのボトルで、好きなだけ飲み、ボトルを持って又走り出す。頭から水を被ると生き返る。しばらく行くと、最高点となり、其処からの眺めは素晴しい。これから走る道が遥か下にクネクネと続く。足元に気を付けながら降りていく。

先ほどの山道への分岐点にも給水所がある。水は略5キロ毎にある。水の他の飲み物はトーモロコシの粉末を入れたPinoleと呼ばれ、見かけはコーヒー牛乳の様な物である。試しに飲んだが、好みに会う物では無かった。略10キロ毎には食べ物もある。バナナ、柑橘類2種、それに茹でたジャガイモ等が置いてあった。他の物も2−3あったが、僕はそれを食べる事は無かった。果物はどれも日本の物より美味しく、ジャガイモは塩を付けると美味しかった。

橋まで戻り、此処で若干の補給をしUriqueに向かう。直ぐに日本人のランナーに出会う、期待のランナーなのであろうか、NHKの取材班が5−6人来ているのは其の為であろう。後14キロ足らずでFinishとなる。

出発地点に置いた袋を探し、脇の下にワセリンを塗り、日焼け止めを塗り直し、また走り出す。32キロ以上走っており、時間的にも略予定通りだ。軈て正午を過ぎ、暑さは更に厳しくなる。成るべく木陰を走る様にする。この先8−9キロは全体に下りであるが、矢張り起伏は彼方此方にある。折り返して来るランナーに次々であう。此処は3日前に車で往復している。水も無くなり、暑くてふらふらしていると、反対側か来た顔見知りの男が、蓋の開けて居ないボトルを渡して呉れ助かる。呑んだり頭から被ったりしながら、次の給水所の吊り橋に辿り着く。給水と給食をし、又先を目指す。

此の先往復19キロは3日前に歩いた所で起伏の大きな所だ。先ず今は枯れ川と成って居る大小の石の並ぶ幅20−30mの河床を上って行く。500m程進んだ所で河床を離れ九十九折れの山道を歩く。この先約9キロは全体に登りの山道で、時々折り返してくるランナーに出会う。

起伏を繰り返しながら登って行くが、胃の具合が悪くなる。水の飲み過ぎだ。ヤット折り返し点に達した時には略戦意喪失の状態で、如何にでも成れとの気分であった。先ず木の下の大きな石の上に仰向けに横に成る。心配する地元のスタッフが何かと訊いて来るので、OKを繰り返す。暫く寝てから、漸く給水をする。果物やトーテヤ(トーモロコシ粉の薄焼きパン)等をすすめて呉れるが、バナナと塩ジャガイモを食べる。4つ目の腕輪を付けて貰う。

戻り足に掛かるが、この時点で略完走を諦める。全体的には下りであるが、とても走る気力が湧かない。早足で歩き、彼方此方で同じ様に弱っているランナーを追い抜く。Raramuriは走る種族と言われるが、全部が同じ様に走れる訳では無いのだ。途中で弱るランナーも居るのだ。日頃の走りの量や、生活様式の違いがあるのであろう。吊り橋まで戻り、再度給水給食をし、川上に向かって歩き出す。もうトテモ走る気力は湧かない。この先Uriqueまでは10キロ、全体に登りである。歩いて居ても何人かのランナーを追い抜く。彼らも勿論歩いて居る。途中何回かトラックが止まり、乗ってUriqueに戻る様に促されるが、之だけは断る。Uriqueまでは自力で戻り、65キロ強の距離は熟したい。時間も十分にある。彼方此方にある集落では人々が声援を送って呉れる。

4時を過ぎると川沿いの深い谷は日が当たらなくなる。気温も下がり大分楽に成る。制限時間は14時間で大分あるが、トテモ完走は望めない。Uriqueの町に入ると、Finish地点の賑わいが聞こえてくる。舗装道路に入るとFinishまでは300mとなる。完走するにはそこを通り抜けて更に14キロ走らなければならない。残る90分ではその半分が精一杯であろう。棄権を告げ、荷物を持って宿に戻る。制限時間は14時間と成って居るが、後で分かった事であるが、16時間半ぐらいでFinishすれば完走が認められる。既定の時間外の完走者も20名近くいた。完走者総数:247.

シャワーを浴び、夕食に出かける。会場の直ぐ傍でのレストランで魚のフライを食べ、日本酒を一杯飲む。此処で、日本酒に有りつけるとは思って居なかったので有難い。日本語のラベルが貼ってあるブランド品で、こちらで造っているのかも知れない。日本酒独特の麹の香りも仄かに漂い、日本で飲む酒と何ら変わりは無い。

その他レースに関して:
起伏の大きい渓谷を舞台としたレースで、通常のロードレースでは味わえない変化が楽しめる点は評価したい。今回が11度目となるこのレースを発案し、継続してきた個人及びそれを支えて来た賛同者には大いなる敬意を表したい。

人間生存にとって決して楽ではない自然環境の中で走る文化を育んで来たRaramuri達と一緒に走り、彼等に出来る限りの物質文明の恩恵を与えようする考えも決して悪いものではない。

然し、このレースの参加費は異常に高い。約400ドルである。Mexico人は其の略10分の1であり、Raramuriには更に安い。差額は地域振興にどの位まわすのであろうか。

只僕が素直に承服できないのは創始者の神格化や偶像化を意図した様な事前の行事である。之は2度に渡り行われ、極めて不愉快であった。一度目は走路の下見の再、散骨式の様な事が行われ、二度目はレース前日の夕方余興の前に全員に黒の喪章が配られ、遺族の長々しい涙と絶叫調の弔辞を聞かされた事だ。勿論スペイン語なので内容は全く分からないが、全く見ず知らずの遠来者にあの様な場に身を置かせる事は日本では考えられ無い。之も文化の差と割り切るべきか?創始者は昨年死んだ事は知って居た。御気の毒に、御愁傷様と云う以外無い。只強制的に見ず知らずの男の追悼式に参加させられる筋合いは全くないと僕は思っている。

Copper Canyonに付いて
Mexico北部アメリカ国境に接するChihuahua州の南西部にある広大な渓谷地帯で、其の面積はGrand Canyonの四倍と言う。Grand Canyonは元々平らなColorado高原の浸食により出来た物であるが、Copper Canyonは六つの渓谷があり、元々Sierra Madre(母山脈)の浸食で出来た物である。従って深さも所によってはGrand Canyonより深いのである。

Spain語ではBarranca del Cobre(銅の渓谷)と呼ばれ、これは渓谷の岩石の表面の色が銅の色をして居る事からの命名とされる。今見る限りでは緑青の様な岩が彼方此方で見られる。

Chihuahua州はメキシコ31州の一つで、その最大の町は国境にあるCuidad Juarez(人口約200万、雲峰、千田氏もここを訪れている)で、次いでほぼ中央にあるChihuahua市(人口約90万)である。チワワと発音され、チワワ犬の原産地である。一体に野良犬の多い所ではあるが、チワワ犬は少ない。モット大きな犬が町中に居る。これらの犬には注意する様にとの警告も聞いた。 

このレース参加に当たって先ずどうやってレース地点に行けるかを考えた。相当山の中で、何回か乗り継がないと行けない事が分かる。大会当局に問い合わせると、提携している業者を紹介してきた。早速問い合わせると、往復250ドルで全部請け負うとの返事が帰ってきた。之は運賃だけで、途中の食事や宿泊費は個人負担との事であった。車は14人乗りで、足りない場合はもう1台用意するとの事であり、早速払い込みをする。責任者はDougと云い、メールの遣り取りも早く、会ってみるとGIとして沖縄に駐在したことある気さくな男で60を過ぎている様だ。

3月22日、日本を立ち、その日の夕方El Passoの町に着く。此処はBostonを走った時、雲峰、千田の両氏等と一度来ている町だ。広大な町で、当時何処に泊まったかは全く見当が付かない。Urique行きのPickup Pointと成って居る“Motel6”に落ち着く。翌日移動を請け負っているDougと出会い、2−3人の旅仲間と西側の山を見てその後買い物をする。

夕食は2台のVanで略全員が、町の東にある牧場のレストランに行く。高速を1時間以上走り、その後一般道を暫く走りレストランに着く。夕飯を食いに100km以上も移動するのがTexas 流なのだろうか? Cattleman’s Steakhouseと云う巨大なレストランで、中に入ると、席待ちをしている客が100人程いる。我々に番が回って来るには1時間ほど掛かるかもしれない。略真っ暗にに成って居るが、外に出てミニ動物園を見て回る。可なり広大な牧場で、有名な映画のロケを何回も遣って居るという。牧場の説明には約770万m2(約800町分)に1頭の牛しか飼って居ないとある。砂漠地帯で草の生育が悪い事もあろうが、広大な牧場であることは確かだ。ヤット席に案内され注文を取って貰う。肉は選べるが一番小さい物が10オンス(280g強)である。T-bone Steak等は1kg程もある。赤ワインを飲み、肉を食うが、半分ほどで十分である。赤味の肉であるが、柔らかく、味は上々である。赤味の肉であるが、柔らかく、味は上々である。残りはDoggy bagに入れて貰う。明日朝電子レンジで温めれば、朝食となる。値段は30ドル程で決して高いものでは無い。

24日10時頃、2台のVanでMexicoに向かう。どちらも満員で荷物は全て屋根に載せて運ぶ。之が、此方の移動方式だ。直ぐにRio Grande(Rio Bravo)に掛かる橋を渡り、Mexicoに入る。其の後1時間ほど入った所でMexico側の入管があり、手続きを済ませ、又走り出す。

この辺り一帯は砂漠地帯で、風が吹くと砂が舞上がり、所謂Sand storm/Dust stormと呼ばれる現象が起こる。出発後2時間ほどで風が強く成り、この現象が起こり始め、周りが全く見えないことがしばしば起り、車は其の度に止まったり、徐行したりしながら進む。

砂嵐は4時頃迄続き、この間大分遅れが出る。Chihuahua市の中心部のホテルに着いたのは8時過ぎであった。其れでもチャンとしたレストランに行き、赤ワインを取り、ステーキをユックリ食う。メキシコのステーキも捨てた物では無い。写真を撮ろうとするが、レンズカバーが全開しない。細かい砂が入り込み正常な作動を妨げているのであろう。写真は取れるが、右下の方が黒くなってしまう。デジカメは埃には弱く、僕は略毎年新しい 物を買っている。何かモット良い物は出来ないのだろうか?

 翌日9時、又移動が始まる。乗って居る連中はアメリカ人が多く、次いで、イギリス、カナダとなる。ベルギーからも4人来ており、ギリシャ、日本は各々1人であった。途中で簡単な昼食を取り、Copper Canyonの見せ場に着く。此処にはケーブルカーもある。又Zip Ropeと云う乗り物もある。個人個人が身に付けた車の付いた懸架装置を張られたケーブルに引っかけ、重力を利用してより低い所に移動する装置だ。小規模な物はMinnessotaで遣った事があるが、余り気持ちの良いものでは無い。歩いて写真でも撮って居た方が未だ増しだ。

 

渓谷の淵に沿って歩き、写真を撮る。安全の為手すりの付いて居る所もあるが、無い所も在る。渓谷は長い浸食の跡で、岩が一様に浸食される訳では無く、巨大な柱の様な形で残っている物ある。その様な岩の間に吊り橋を掛け、深い浸食の跡が見られる場所も用意されている。真下を見ると恐ろしい程深い。落下の可能性は略ゼロと分かって居ても余り気持ちの良いものでは無い。

2時間ほどで又移動に移る。渓谷に沿って険しい登り下りを繰り返しながら進む。新たに道を作って居る所も在り、先週開通したばかりだと言う道も通る。観光資源の利用の為こうしたインフラの整備も行っているのであろう。暗く成る頃、今日の宿泊地Hotel del Osoに着く。車を運転しているDougが経営しているHotelで、OsoはSpain語で熊を意味する。ホテル直ぐ傍に熊の形をした高い絶壁が立っているのがその名の由来である。この辺りの岩石は火山活動の結果出来たものが風化浸食を受けたものである。問題の熊の岩石と云うのは帽子を被った熊が尻餅を付いた格好をしており、何か漫画に出てくる恰好である。

此処も渓谷の集落で、標高は1500m程であろうか、夜は寒い。ホテルの部屋にはストーブと薪が用意されている。焚き付けとして、プラスチックの袋に大鋸屑に軽油を混ぜた物がり、袋ごとマッチで火をつけると旨い具合に燃え上がる。4人の相部屋で、目が覚めた時は薪を入れる事にして眠りに着いた。

 翌26日は熊岩の上まで皆で登った。勿論垂直な岩なので直登は出来ず、裏側から回り込んで登った。色々な山道が用意されており、結構1日楽しめた。

 27日山越えをしてUriqueに向かう日だ。40キロ近い山道を2手に分かれて歩く。Urique川を左に見て、凸凹の車道を暫し歩くと、吊り橋がある。橋の手前で案内者が、ここから先は別世界となり、皆さんの自然観も変わる筈だとの話がある。此処までは3−4匹の野良犬が付いて来て居り、橋を渡り出すと目の前の犬が、腰を抜かした様に、橋の床面に這い蹲り震えている。吊り橋は前後左右上下動の大きな揺れの他に、小さな揺れもあり、人に取っても日頃余り経験の無い揺れを起こす。自然界では余り経験する事の無いこの揺れに犬は敏感に反応し、極端な怯えの行動を取る。只渡り出して居り、戻る事は食を絶たれることをも意味し、腹を橋板に擦りつけながら、ユックリと震えながら渡り切る。彼らは人の居る所には必ずお零れが有ると心得ているのだ。

 

登り下りは厳しいが、景色は素晴しい。高度が上がると、淀んだ水は結氷している。険しい表情で屹立する岩肌には自然の威厳がある。進むに連れ又別な絶壁が見えて来る。写真を撮ろうとするが、電源が入らない。何回かやり直すが、駄目であった。二度とここを通る事は無いので、残念ではあるが致し方ない。デジタル機器は斯くも不安定なのだ。メーカーに言わせると精密機器なので致し方無いのだそうだ。僕に言わせれば、すぐ壊れ、部分補修が不可能な、粗製乱造物だ。殆ど使い熟すことが不可能な、何十にも及ぶ機能を持たせた機器より、必要最小限の機能を備え、小型軽量で堅牢な物が僕の好みである。直ぐに壊れ、全体をゴミにせざるを得ない様な商品は、売り上げ増大、経済成長には必須条件であろうが、自然環境、人類の将来を考えると決して好ましい物ではない。

途中宿で手渡されたサンドウィチの昼食を取り又歩き出す。学校の在る集落でやや長い休憩を取る。Raramuriの子供達は我々に興味深々である。諦めきれずにもう一度カメラの電源を入れて見る。レンズが飛び出し、写真が撮れる様には成ったではないか?機能が不安定なのがデジタル機器の特徴なのであろうか? それにしても、険しい登りで、眼前に迫る急峻な岩塊や、岩肌に怪しげに咲く妖艶なケシの花を撮る事が出来なかったのは残念至極である。

其の後は略下りとなる。険しい山肌の可なりの面積でケシが栽培されている。ホースで引いた水で灌漑し、大事に育てている様だ。高い岩肌に穴が幾つか開いており、それらは人の住居だという。勿論電気などはない。標高がやや下がると牛が放し飼いされている。休みを入れて大分長い間歩き、漸く道路に出る。この辺りはレースのコースとなる所だ。川沿いに1時間半ほど歩き、漸くUriqueの町に達する。

  

荷物は昨夜のホテルから町の入り口まで届いて居るが、泊まる宿が分からない。Dougが決めているものと思っていたが、Dougは居ない。傍に居た人に聞いてみると、荷物を持って、彼の居る中心部のレストランに行ってみろという。人口1000人の町で500人もの余所者の宿を提供するのは容易では無かろう。町には小さなホテルが何軒かあるが、何処も満員の筈である。Dougに訊くと暫く待てば何となるとの事で、やや待った後、ホテルは満員だが、ホテルのオーナーの家庭で泊れると云う事であった。屋根さへあれば何処でも良いと思って付いて行くと、Double bedの広い部屋に案内して呉れた。裏庭が広く、洗濯物も容易に干せる。御の字である。此処に5泊泊まる事にし、200ドル相当を払う。

28日、小型トラックの荷台に12−3人乗って川下に向かい、吊り橋でおりる。トラックはこの辺では交通の一般的手段である。小さなバスも通って居るが、余り本数は無いらしい。吊り橋を渡って山道を歩く。この辺りは標高が5−600mで暖かく、日中は暑くなる。山道には色々な花が咲いている。特に山肌には点々と紫色の花が咲いて居り、綺麗だ。アカシアの類の様だ。

往復19キロの歩きであった。折り返しと成って居る民家の大木の周りで散骨式があった。僕は縁もゆかりも無い人のその様な物は見たくは無かった。

帰って来て町をぶらぶらしていると、仲間が乗って居るVanが何処かに行く所で、それに飛び乗る。車は町を離れ、ダートの凸凹道をドンドンと登って行く。この悪路の中、屋根の荷物の上に何人かを乗せて走って居る車も見かける。車の定員規定いな無いのだろうか?途中展望台で一休み。周りの山が低く見える所まで来ている。その後やや降った所で左に入り、ある宿泊施設に止まる。皆には部屋が与えられ、此処で泊るらしい。僕は泊まる用意などしておらず、着ている物は半そで半ズボンだけだ。皆は滝を見に行ったが、寒くて滝どころでは無い。運転手に町にはいつ戻るのかと訊いてみると、今日は戻らず明日の朝だという。覚悟を決め泊まる所は有るか訊くと何とかするという。之は思わぬHappningである。車に乗ったのが間違いだったのだ。皆は最初から予約をしてここに来ているのだ。兎に角寒いので、食堂に入り、ストーブを焚いて貰い、皆の帰りを待つ。

食事をした後漸く、空いた小屋で泊る手配が出来る。カナダ人のダウンジャケットを借りるが、兎に角高度2000mの吹き曝しは寒い。小屋に着いたが、暫く寒くて寝付くことは出来なかった。

翌3月1日朝食の後Uriqueに戻る。昨夜は支払い済のホテルに泊まらず、40ドル程余計な出費と成ったが、渓谷のドライブは素晴しく、決して無駄な物とは思えない。只帰ると部屋を変えて欲しいとの要請を受ける。二階にやや狭く、シングルベッドの部屋が有るのでそこに移って欲しいと言うのだ。Double Bedの必要な人が来たのであろう。快く了承する。移った部屋は家族の子供部屋であった。子供は2人居り、其の内の一人の部屋だ。子供たちは2−3日は同じ部屋で寝るのであろう。


午後レースの受付会場に行く。多くのRaramuriが居り、係の人が口頭で何やら訊き、申込用紙に書き込んでいる。如何やらRaramuriの識字率は低いのであろう。既にInternetで申込み済である旨を告げ、番号を貰う。その後日本人のランナーにも出会い、写真を撮ったりする。皆東京で働いているグループだという。40歳代を筆頭に20代までの若い人たちで、中には英語の堪能な人も2−3人居た。こう云う人たちがモット沢山育って欲しいものだ。

会場の傍で顔に見覚えのある大男に出会う。取敢えず、何処かで会ったような気がするが、其方にも覚えがないか聞いてみる。向こうでも会った様な気がするという。其の内にスパルタで会った事を思い出す。次いで名前も分かって来た。最後に会ったのはT〇年以上の前であろうが、記憶というものは不思議なものだ。或るきっかけが有れば、かなり前の事も思い起こすことが出来るのだ。男の名はDonといい、Texas男である。日本人でもアメリカ横断やスパルタを走った人は会った事がある男だ。越田さんなども会って居るに違いない。大分年配になって居り、ここ半年ほどは具合が良くなかったそうだ。此処は走る為では無く、応援に来たのだという。日本のランナーに宜しくとも言っていた。

 

夕方6時からはやや川下の橋を渡った河原でバーベキューが有ると言うので、行ってみる。やや早い時間に行き、準備の段階から見ておきたいと思ったからだ。如何もバーベキューにしては可笑しい。鉄板や網などが無いのだ。大きな釡が三つ、既に火が入って煮え滾って居り大きな塊の肉が無造作に入って居る。肉は牛一頭分で在るらしく、無造作にコンクリートの台の上に蹄の付いた足が四本乗って居た。見て居ると肋骨の付いた半身の肉を台の上で捌いて居た。肉はやや乾かしてある様で、血は全く出ない。大腿の骨は大きな鉞で切って鍋に入れて居た。出汁を取る為であろう。近くの川の中では女の人が内蔵の仕分けをしており、犬も水に入り隙あればお零れに預かろうとしていた。

軈てRaramuri達が集まりだし、発泡スチロールの深手の皿状の容器に盛ってもらってトーテヤと一緒に食べ出した。体は小さいが、彼らの食べる主食のトーテヤの量は半端では無い。これがMexicoでBarbequeと呼ばれているものかもしれない。

我々も盛ってもらって食べる。塩味だけであるが、味は悪くない。中にはジャガイモやササゲ豆が入って居た。人が続々と集まり出す頃、会場を後にする。

2月2日、Kids Raceを見る。男女別の子供たちのレースだ。終了後は全員に袋が渡され、中には子供たちの好みの物が入っているのであろう。

午前中はコースの第一ループの往復をする。全長14キロである。コース図を頼りに歩いて行くと先ほどのレースから返る子供2人と父親らしい3人連れに追いつく。男の子と父親は野球ボール程の木で出来ているボールを蹴りながら歩いて居る。之が此方の遊びだ。良く見ると蹴ると言うよりは、爪先に球を一旦載せ跳ね上げると言うのが的確であろう。余り重くは無い木の玉であるが、例のサンダル状の履物で、爪先でこれを蹴れば指先や爪は如何にRaramuriが慣れて居ても無傷では済まない筈だ。サンダルは良く見ると、底部の先端は略爪先と同じで、時としては其れより後退していて、決して爪先を保護する作りには成って居ない。それにボールを蹴る環境には成って居ないのだ。ボールが落ちて止まる所は岩や石の多い所で、ボールを蹴るには岩石も同時に蹴らなけばならず、怪我は必至である。跳ね上げたボールの傍まで駆け寄り、足の爪先にボールを一旦乗せた上で、空中前方に跳ね上げるのである。之を複数の人で行い、ボールに一早く辿り着いた人が、又蹴上げる。只この繰り返しを延々と、時には何日も続けるのがRaramuriの走る文化であるらしい。

 

又女子にはこれとは別の走りがある。その道具は蔓か皮で作った直径15cm程の輪を木の枝で前方に放り投げ、之を皆で追いかけ、前へ前へと移動していく遊びである。之はHotel del Osoで地元の子が披露して呉れた。Raramuri の走りの原点は遊びではなかろうか? 楽しみの為に走る。玉とか輪の様に容易に手に入る用具を使い、皆でそれらを追いかけ回し、時を忘れて走り回る。之が彼らの文化で在る様に思えて仕方が無い。走りの原点は楽しみなのである。

3時からは余興が有ると言うので、舞台の前の席に座る。周りには地元の人が多く、特に子供が多い。余り之といった行事が無く、彼等にとっては珍しい経験なのであろう。開演はMexican Timeで2時間以上遅れる。その上プログラムには入って居ない追悼式擬きがあり、余計胸糞を悪くする。余興が始まると、音楽踊り其々素晴らしいが、1時間程で引き上げる。明日は愈々レースだ。

僕の見たRaramuriは次の通りである。体は小柄で身長は150cm程であろうか?上着は襞の沢山入った青、緑、赤,黄など単色でゆったりした物を着ている。丈は腰辺りまでである。中々洒落た感じがする。下は大小の白い三角布を腰に巻いている様で、後ろは脹脛の辺りまで前は膝より高い位置に3角形の白地の布辺が見える。之で隠すべき物は隠れる。それ以外の下穿きは通常履いて居ないので無いかと思われ、腰を下ろす時は必ず後ろの先端の布を股間に引き寄せ座って居る。

履物は日本の草鞋風の物で古くは全体に皮を用いたであろうが、今では底部は車のタイヤを利用し、それに皮ひもを付け足首に巻き付け固定している。固定の方法は今まで僕の見て来た履物とは異なり、独特な物だ。我々の知っているサンダルは爪先だけで固定されており、下駄や草履は足の甲の前端部と親指と人差し指(親指は良しとしても人差し指には抵抗がある。足のこの指で人を指すことは先ず無いからだ。第一指と第2指と云う方が良い。只これでも未だしっくりしない感じを僕は持つ。元々は同じ様な機能を果たしていたのであろうが、足と手の端末部は今では全く異なる機能を担っており、これらをを同じ”指“で一括りにするのはどうか? ゲルマン系の英語やドイツ語ではこの2つは其々Finger・Finger及びToe・Zeheと全く別の言葉で表している。又親指はFingerと言う言葉を使わずThumb/ Daumeで表している。一方ラテン系のフランス語では英語と同じ様に足と手の指は其々独自の単語を持つが、同じ語族のスペイン語イタリア語では日本語と同じ様に”指“に当たる単語は一つしか無く、各々Dedo・Ditoであり、足のそれを指す場足日本語と同じ様に”足の“を意味するdel pie.del piedeを付け加えて表している。)の間に所謂鼻緒を通し、足の甲の前部を両側から履物と固定してうる。一方Raramuniのそれは足の第1指と第2指の間の鼻緒に外側からのみ紐で固定、後は踝部をやや複雑に革紐で固定したものだ。之でどんな山の悪路でも支障はないのであろう。下手な説明よりは写真を見れば一目両全である。指足は明らかに下駄足で丈夫に見える。女性も履物は同じである。

 

女性は色鮮やかな上着に、襞の沢山入った長いスカートを履いて居る。どちらも模様が入っており、派手な感じがする。走るには不向きで、走る時はズボンを履いて居た。

彼等は質素な山の民で其々毛布一枚を筒状に丸め込み、それを紐で括って肩に担いで持ち歩いて居た。雨は極めて少ないので、低地であればこれだけで、何処でも寝泊り出来るのであろう。トーモロコシを主食とする生活で、急な山肌の石だらけの土地に原始的な方法でトーモロコシを育てている。今は枯れた茎だけが僅かに残っているが、雑草にも負けず、乾燥にも強いトーモロコシだけが生活の手段なのであろう。

帰りはUriqueからChihuahuaの同じホテルに泊まり、丸2日掛けてEl Passoに戻った。
途中停まった町には沢山のBaggy Carがあり、略全てが日本のメーカー3社のものであった。辺りの砂漠の観光様に使うのであろう。車に関しては日本車よりはアメリカ製の方が多い感じがする。今まで気が付かなかった、Mexicoでは所謂Number Plate(アメリカではLicense Plateが一般的)の無い車が20%以上走って居る事に築く。前後して走って居る警察の車も之を咎める気配は感じられなかった。

米国入国に際し、我々外国人は入管の手続きで2時間以上足止めを食らった。空路での入管手続きは簡単だが、陸路の場合手続きが異なり、6ドルの費用が掛かる。之には皆不満を持った様だ。

El Passoからその日の内に帰った人も居たが、多くは同じホテルに泊まり、最後の夕食を共にし、翌日早朝から其々帰国の途に就いた。

旅の費用。航空運賃:14万円、アメリカ・メキシコ宿泊費:(アメリカ3泊、メキシコ9泊、平均45ドル):4万円、陸路交通費:2.3万円、食費:1.5万円、レース参加費:3.5万円、総合計:25万3000円。 

(掲載した写真はカメラの故障で右下が黒く成ってしまい申し訳ありません。又、レース当日の写真はありませんが、コースの状況は前日までに撮った写真でお分かり頂けると思います。またRaramuriのサンダルや、ボールや輪等を使った走りの文化に付いても写真をつなぎ合わせて御想像頂けると思います。)


このページのトップに戻る


「雲峰のマラソンの歌」トップページに戻る 感動の手記トップぺージに戻る 更新履歴
inserted by FC2 system