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プログラム P-11 2012年版(平成24年編)

Challenge des Montagnes F4
12.09.11-10.23 Santiagoの道
12.08.07-23 Tour du Mont Blanc
12.06.29-30 Lapland 100K
12.06.03−09 Antibes 6日間走




平成25年1月9日掲載

Cameroon
Challenge des Montagnes F4
12.11.17-25 


Cameroonの西北部丘陵地帯で行われた4日間のステージ レースで、毎日40km走る。Cameroonの公用語は英語と仏語であるが西部では仏語が一般的の様だ。
レース名の意味は山岳F4チャレンジで、何かF1レースを思わせるが、そんな大層な物では無い。山岳はオーバーで、実は丘陵である。丘陵地帯にある4つの村を走路とするレースで、偶々何れの村もFから始まる地名が付いて居るだけなのだ。

フランスに住んでいるCameroon人が、自国の風土や文化を知って欲しいとの願いからこのレースが生まれたようであり、今回が2回目のレースだ。現地での諸手配は在仏Cameroon人が全て行い、レースの運営はフランスで毎年6日間走を開催しているGerard Cainが行っている。僕がこのレースの出たのは、フランスで6日間走を走り、其処から情報を得た事と、西アフリカは未だ行った事が無い所だからである。
11月16日久しぶりにSASでCopenhagen経由でParisに向かう。以前は良く乗って居り、ゴールドカードも持って居たが、最近は高くて余り乗れなくなった。それにMileageのポイントが3年で消える不都合もあり、今は専らUAのカードを使っている。航空券の比較をして居ると、若干高いが2番目に安かったのでSASにした。

行きの便は乗り継ぎも含め順調であった。
その夜はパリの中心部に近いユースホステルに泊まり、翌朝早く又空港に戻る。出発は10時半であるが、3時間前には空港に来るようにと案内が大会当局からあった。出国手続きに時間が掛かる為である。兎に角人が多い。Air Franceのカウンターの前に行くと、皆が集まって居り、搭乗券も既に出来て居た。その後は長蛇の列を作り順番を待つ。出国手続きは1時間半かかった。

大会参加者は21名、僕を除き皆フランス人で殆どが夫婦連れであった。飛行機は地中海、サハラ砂漠上空を略真南に飛び、定刻にDualaに着く。6時間強の飛行時間で、東京からBangkokやハワイ位の距離である。

Dualaの検疫で問題が起こる。入管の前の伝染病などの検査をする窓口だ。    Yellow Cardを出せと言われるが、僕は持って居ない。Cameroonへの入国は事前にVisaが必要で、この取得には黄熱病の予防接種が絶対条件だ。接種をし、このカードをCameroon大使館館に提示して初めてVisaが得られる。僕は   Visa付きのPassportだけで十分だと思っていた。結局促成で新たなカードを作り、10Euroを払い決着した。

Hyundaiのマイクロバスで市内に向かい、1時間ほど走りレストランらしい所に行く。常時開いて居る店では無いらしく、バスは門を開け、細い路地を通り止まる。ベランダにテーブルが用意されており、薄暗い灯りの下で肉と魚、野菜料理等を食べたが美味しいとの印象は残って居ない。
その後また移動して、4階建てのホテルに泊まる。余り上等ではないが先ず先ず。
Dualaは大西洋に面する、港湾都市でCameroon最大の都市である。人口は300万。町にはコンテナークレーンより高い建物は無い。

観光の目玉は無い様で、翌朝レース開催地のDshangに向かう。途中の道は悪く、舗装に大きな穴が幾つも開いて居る。道の両側に平屋の工場、店、民家が続く。車の修理工場が目に付き、何処にでも古い車が見られる。店は果物と、薩摩に似た芋の様な物を並べているが、芋では無いかもしれない。大きなカボチャほどの物も出ている。
家並みが疎らに成ると、両側に緑が広がる。土地は略平らだ。筋状に植えたバナナやパパイヤを植えている所もあるが、大半は自然林の中にバナナ、パパイヤ、マンゴー、ココナツ等が自生していると云った感じだ。集落と集落の間隔は狭く、住宅も密集している。糞尿の処理は如何しているのであろうか? 住宅は日干し煉瓦で作って居り、開口部は少ない。屋根はトタンで日差しのある時間帯は高温に成る筈で、其の時人々はどうしているのであろうか?

多くの集落の手前では速度を緩める為に、道路に凸部を作っている。車の速度が落ちると多くの子供が車に駆け寄り、物を売ろうとする。直ぐ食べられる果物やピーナッツ等である。2時間ほど走った所で、車を停め、之から先の食べ物を調達する。バナナやパパイヤを南京袋(プラスチック製)入りで買い、車の屋根に載せて運ぶ。この辺の車は皆、このスタイルで走って居る。10軒ほどの店が同じ様な物を並べて売って居る。その後ろには果物の苗を育てている畑があった。此処で僕は初めて、ココアの木を見た。レモン似た橙色の実が幾つかなって居り、その中の種がココアの実ではなかろうかと思う。又昔ながらの便所もあった。

その後滝に行く。地元の人が神聖な滝としており、その入り口は後ろ向きで入らなければ成らないそうだ。木で作った門と称する物は頂部が低く、後を向いて背を折って入る。滝の高さは80mほどあるが幅は2条の合計でも10m程の物で、驚く程大きな物ではなかった。

滝から帰り、小屋のある手前で夕立が振り出し、慌てて小屋に飛び込む。遅い人は完全に濡れたが、其れほど気にはしては居ない様だった。皆でトーモロコシを齧る。固くて余り旨い物では無かったが、皆美味そうに食っていた。美食の国、フランスでもトーモロコシはこんなものなのであろうか?先月Spainで食った物と略同じであった。

夜はDshangのホテルに泊まる。大きな寝室とシャワー室のある部屋が4つある独立した建物が30棟ほどある宿泊施設だ。夕食はそこの中央棟で摂ったが、テーブルに付いて1時間ほど待つと漸くスープが出て来た。此処で驚いては行けない。Came―   roonでは此の先、夕食は1−2時間待たないと出てこないことがしばしば起った。中にはテーブルに付いて一眠りしてから、食べていた人もあった。

11月19日はDshangの町の見物をする。大学は農学を主とし、幾つかの学部があり、学生数も2万5000を数えるという。平屋建ての校舎の彼方此方を案内してもらう。目につくのは廊下にある複写機である。彼方此方にあり、これでコピーをとり勉強している様である。学生食堂にも行ってみた。照明の位中で、沢山の学生が昼食をしていた。どんな物が此方の常食なのかを知りたく、カメラを向けると同じテーブルの全員が手を振り拒否のしぐさをしたので、撮る事は控えた。ハッキリ判別できたのはバナナ2本であった。バナナは重要な日常食なのである。
大学の入り口の門は円筒形の建物に尖がり帽子の様な草葺き屋根が乗って居る。之が対に成って立っており、愛嬌がある。

後見る所は市場であるが、木彫り等の手芸品の他変わり映えのする物は何もない。   Dshangは丘の町で、宿に成って居る所は大戦後フランス軍の保養地として建てられたそうで、ドゴールの滞在した家もあるという。大学からも見える丘の中腹にあり、歩いて戻る。

アフリカは2つの大戦とも戦場となった。Cameroonは大戦前50年近くドイツの殖民地で、先の大戦でフランスと英国が勝利したため、両国が分割統治し、その後各々独立した。その後統合し今の国体を取る様になった。終戦直前ドイツ軍が略造成を終えた時期にフランス軍が此処で勝利し、その後今の建物が作られたという。皆70年を経た建物、痛みは酷く、シャワー室は広くともお湯は全く出なかった。

我々の一行には太鼓の一隊が終始付いて回った。大会当局の文化交流の一環なのであろう。男3人、女5人の編成で、プロなのであろうか? 朝晩太鼓の演奏と踊りがくりひろげられた。アフリカの音楽は何と言っても太鼓である。激しいリズムとそれに乗る踊りがアフリカの力なのだ。太鼓も好い加減にたたいて居るのでは無く、確りとした決まりがあり、皆で練習して一糸乱れぬリズムが生まれるのである。この集団の演奏は見事であった。フランス人、特に女性は暇な時、彼らから踊りの手解きを受けて居た。彼らが簡単に熟しているステップでも細やかな足の動きがあり、簡単には習得出来ない様だった。

11月20日、レースの初日である。町の市場前の広場に行く。太鼓隊は先に届いており、太鼓を事前に温めて準備が出来て居た。演奏の前に焚火をし、太鼓の革を温めるのである。良くは分からないが、こうすることで響きが良く成るのであろう。演奏はしばらく続き、町の人たちも引き込み踊り始める。演奏の間やや寒いので、Windbrea―  kerとズボンを履いて居り、行き成りスタートだというので慌てる。オラソンナコトキーテネーゾ!!と言っても遅く、皆走り去ってしまった。余計な服を脱いでバスに収め走り出す。最後尾を走るオートバイが待っており、皆に追いつくまで乗せて行って呉れた。正規のレースではこんなことは在りえない。陽は高く登り、暑く成り出した中、舗装の坂道を上って行く。町の人が見送る中、坂を登り切ると右に入り、幅6−7mの赤土の道に入る。

山岳レースと云って居る様に、登り下りは大きい。道も車が通る為、凸凹が多く、溝も彼方此方にある。今は乾期であるが、年間の降雨量は東京の3倍ある所なので、土の道を平坦に維持することは極めて困難なのだ。深い溝や、抉られた穴に落ちない様特に下りは気を付けて走る。

一番ビリを走っているので道を間違う心配はない。殿のオートバイが付いて来るからである。コース上には8台のバイクと車両1台を配して居り、安全面での対策は十分と言える。10キロ毎に給水所がり、水やバナナなどが置いてある。2度目の給水所の手前で、ビリ脱出である。其の先はペンキの印を探して走る。ペンキは石、電柱、立木、橋の欄干、何処でも塗れる場所に塗ってあり、500m以内にある事に成って居る。

アフリカの丘は大きい。大きく上って、大きく下る.あるいは大きく回り込み次の丘を登る。眺めが良く、幾つかの集落の屋根が光って見えたりするが、人里を通ることは余りない。木陰は殆ど無く太陽が真上の時間は暑い。日向を走って居るから暑いのであり、日陰に入いれば汗をかく温度では無い。此処の気温は緯度の割には低く、朝晩は15度ほどに成り、日中も35度に成る事は滅多にないという。熱帯で走るのは之が2度目で、20年前にこことほぼ同じ緯度のPenangで走った時の暑さを思い出す。あの時の方が遥かに暑かった。暑さを避けるために出走は5時であった。ここの出走は8時過ぎで、このことは日中それ程気温が上がらない事を意味する。

 

500ccのボトルを持ち、エードで水を飲み、補充する程度で走れるのは幸いだ。頭から水を被り、体を冷やす程の暑さで無いことは幸いである。
木陰は少ないが、道の両側に緑は鬱蒼としている。道の真ん中に動物がいる。近づくとヤギで、繋がれていた。普通に見るヤギの半分程の物で、この先も多く見る様に成る。道幅が狭く、草木が肩に触れる道を暫く走る。この様な道の方が、道路の凸凹が少なくて走り易い。
終点の村の広場に着く。村や集落には必ず広場がある。多く左右に広がる観覧席のある建物があり、その前が広場、集落はその裏手にある。広場は村の入り口でもあり、出口でもある。

水を飲み、用意された食べ物を食べる。その後、小さなバケツで水を被り汗を流す。これが此方流のシャワーである。
夕方村の歓迎会がある。酋長を始め村人たちが、例の建物の一方に陣取り、我々はまた一方に座る。酋長の挨拶の後は専属の太鼓隊の演奏がある。焚火を焚き、その灯りの中での踊りが続く。太鼓隊の女性、村人、それにフランス勢の有志の踊りは面白い。アフリカ勢は皆様に成って居るが、余所者はどことなくぎこち無く、滑稽なのだ。
夕食の後、酋長の家に行ってみると、中に入れて呉れる。日本人は初めてで珍しいらしい。家の中には薄暗い裸電球が付いており、小さなテレビの画面には無数の横線が入って居たのが印象に残る。

泊まる所は大きな倉庫の様な建物の土間である。現地のランナー7人、スタッフも加え50人余りが泊る事に成って居る。マットは各々支給される事に成って居るが、暗く成っても届かない。ややあってこの辺りの万能運搬交通手段であるオートバイが山ほどのマットを積んで遣って来る。50人には到底行渡らない。其の内に十分来るからとのことであったが、結果的には僕はQueen Size程のマットに3人で寝る羽目になった。寝袋に入って寝たが、夜中に何回かマットから転げ落ちた。

次の日のスタートは広場からであり、太鼓の演奏の後走り出す。天気は昨日とほぼ同じで、暑くなりそうだ。何か昨日と同じ登り下りに終始し、一日が終わった気がした。道が凸凹な為、足に余分な負担が掛かり、左足底に肉刺も出きた。

広場での歓迎、太鼓の演奏、その後の夕食の後、酋長の家に全員で招待される。顔が丸く眼鏡を掛け、極彩色の帽子を被った酋長は漫画から抜け出してきたようだ。葡萄酒を振る舞って呉れる。Bordeaux産と書いてあるが、在仏のCameroon人は如何もCameroon Bordeauxが産地の様だと耳打ちをしてきた。そういう物もあるらしい。酋長の前で御付の太鼓隊が踊りを披露する。跪いて頭を地に付ける舞であり、酋長への敬意の舞の様だ。

此処でも、特別料理が出る事に成って居たが中々出てこない。例のCameroon人が、“酋長の奥さんが召使にお金を払って居ないらしく、働きを拒否している様なので、金を直接渡してきたので、間も無く出てくるであろう。”と言った。Cameroonには只で人を扱使う風習のある様だ。之が本当ならば、これからはテーブルに付いてから長く待つ覚悟をしなければならない。長く待たせることは、もう一つの意図が考えられる。人は腹が減れば、どんなものでも美味しいと思って食べるのだ。毎日変わり映えのしない、粗食を文句を言わせずに食わせるのは、これが最上の方法なのだ。

3日目が一番起伏がキツイいので、無理して走る必要はないとGerardが言うのでそうすることにする。彼が言わなくても、自発的にしていたであろう。レースを競技と思う意識は年毎に低下しているのだ。

この日走らない人は何人か居たが、これらは歩き組と称する奥さん連中と一緒に行動することに成って居た。実際は、可なりバラバラに行動と成り、彼方此方で出会う程度であった。先ず警官の運転するLand Rover(英国産の4駈)に乗り、歩きの起点迄行く。この車は2−30年昔の物で、Italyが寄贈した旨が扉に書いてある。パトロール兼救急者なのである。警察が救急業務をする等考えても見なかったが、実際ここには在るのだ。4輪の車ではこの辺りでは殆ど無く、色々な役目を果たさなくては成らず、其れを運転する人間もそれなりの役目を負う必要があるのだ。これらの役目の他、このレースの様なエベントのある時はそれに付き切りの任務を負う。

車内は超満員、定員等は無いのあろう。有っても警察が運転しているので、之を逮捕する警官は居そうもない。前の席には4人が窮屈そうに乗って居る。後ろは救急用の設備があり、其処にレース用のの水、エードの椅子等を積んでおり、その上に4人が目指しの様に成って乗ると動き出す。

車の揺れは半端ではない。足と手を突っ張り、何とか安定を保とうと擦るが、恐ろしい程の揺れだ。荷物が一杯で、外の様子は全く分からず、恐ろしい。1−2秒おきに皆からアッ、オッの悲鳴が上がるが、警察氏は委細構わず走り続ける。40分程で車は止まったが、その倍ぐらいの時間に思える程長く感じた。

そこで、パトカーと分かれ歩き始める。走るコースの一部を歩いたり、更に細い道に入り、部落の生贄をする大岩にも行く。部落の人が何人か来て、色々御利益を説明してくれた。フランス語なので、僕には殆ど分からない。言って居る事が分かったとしても、そんなことは信じないので、分からなくとも何も困る事はない。

Dualaからの沿道でも人の多さには驚いたが、こんな山村でも子供は驚くほど多い。今までこれ程多くの子供の姿は殆ど見た事が無く、人口爆発と云う言葉が正にこの現象を表している様におもえた。只問題が無いわけではない。この子たちは皆十分な教育を受け、現代社会の一員として幸せに成れるのだろうかとの懸念は残る。

昼過ぎ成ると下校中の子供達に出会う。我々と同じ方向に帰る様で、フラン人と歌を歌いながら20分程一緒に歩いた。可なり遠くから通って居る子もいる様だ。子供たちは男も女も皆坊主頭で、性別は外見からの判断はズボンかスカートかの差だ。殆どがサンダルをはいている。高学年(中学生?)になると制服姿になる。

ある集落の傍に行くと、子供達が一斉に逃げ出した。フランス人が恐怖心から逃げているので、我々もそこから早く去ろうと走り出したので、後に続く。何故怖がったかを訊くと、色の変わった化け物が来たと言って逃げて行ったのだという。今まで見た事のない,毛色の人間を初めて見ればビックリするのが当たり前だ。それ程離れて居ない部落間でも情報量に大きな差があるのだ。電気も水道ない集落も多く、先ほどの子供たちはテレビも見たことがないのであろう。アフリカ以外の世界が有るのを親も知らないのかもしれない。

歩いて居ると走って居ては見えない物も見えて来る。コーヒーの花を初めてみた。天に向かって白い花を咲かせていた。一斉に咲くのではなく、既に実のなっている木の彼方此方に数輪ずつ咲かせているので、気が付き難いのだ。
今日の終点に行く手前で、スタッフがオートバイに乗れと言うので、乗って見たが、これが又恐ろしい。道が悪く揺れが酷いのだ。10分程で降りる事が出来、一安心。集落の広場に行くと今までで最大の歓迎を受ける。大勢の女たちが、それぞれの統一した衣装を纏い集団のプラカードを持って、男達の太鼓に乗って踊っているのだ。集団の数は約20、一つの集団は小さいのは10人、大きなグループは30人程でその外側にその他の人や子供たちが集まって居り、大変な人出だ。

踊りが一通り終わると、例の観客席に座り、フランス語と流暢な英語での女王の歓迎の言葉を聞く。短い滞在で残念ではあるが、ユックリ安心して滞在し無事帰国出来る様にとの趣旨であった。その後、付け人の大きな日傘の下を歩き、奥の住まいへと消えていった。夕食後、女王の家に行き、同じ様な一寸した酒宴があった。そこでは対話も出来、彼女は英語の先生でもあるとの話が出た。又Cameroonでは男性だけが王位に付くことが出来、自分は17歳の息子の摂政に過ぎないとも言った。息子が成人、21歳に成れば、彼が酋長になるのだと言った。酋長に嫡男が出来ない場合はどうなるのかの問いには、そんなことは起こりえない。何故なら、酋長は何人でも妻を持つことが出来、男の子は必ず生まれるからだといった。

Cameroonでは集落、村落単位の昔からの長制度で日常の政治が成り立っており、長にも階層はあるが、200人あまりの酋長が実権を持って居るそうだ。此処でも日本人は初めてで、珍種として歓迎を受けた。

倉庫の土間で寝る準備をしていると、現地人が何人か無心に来た。僕が身に着けて居る何でも無心の対象になる。ランシャツ、ランパン、靴、カメラ、リュック、日焼け止め、全てである。僕は物の少ない所に行く時は必ず貢の品を持っていく。今回もT−shirt10枚主催者を通して献上している。身の回り品は不必要な物は何一つ無く、全て必要なのだ。靴は一足だけ、ランシャツなども2組だけで、洗いながら使う最低の量だ。彼らの要求を聞けば、丸裸に成ってしまう。心を鬼にし、理由を述べ、全部断る。しかし、無心は繰り返し、最後の日まで続いた。文化の差をコンナニ明確に感じたことは無かった。物の乏しい所は此処だけではない。アンデスの山中、ヒマラヤ高地、僕の訪れたアフリカの他の数か国では、この様な物乞いは無かった。アンデスやヒマラヤの民には気位の高さを感じたが、此処で感じたのは心の貧困である。

初日を除いてはマットの配分は概ね良好で良く眠れた。

23日、走りの最後の日となる。どうせ余り変わり映えのしない景色ばかりであろうと、カメラを持たずに走る。最後の5キロは今までとは違う景色で、やはり持って来るべきだったと思った。その3キロ手前で細い道に入り、草の中を走る。川を渡ると牛の群が前に居る。ユックリ前進しているので、彼等の進む速さで暫く歩く。牛が右手に入り道が開けると、白い石灰岩が彼方此方にある広大な草地にでる。眩いほどの白と緑が坂一面に広がり、遥か下に今日の終点の部落が見える。坂がキツクここはオートバイも入ってこない。用心しながら降りて行く。先を行くランナーも見え、更に降りて行くとバイクを降りて下から登って来たスタッフの姿も見える。Cameroonの走りも間も無く終わりだ。

坂を降り切って暫く走ると、終点の広場だ。4つ目の広場だ。広場には共通な点が幾つかある。先ず外に開いて両側に細長い建物であり、真ん中に尖がり帽子の様な屋根が3つあり、その下は部落に入る通路となっている。この門の傍の建物の中には大木を刳り貫いた物が置いてある。直径1mを超えるものもあり、長さは1.5−2mで長手方向の両端には動物の彫像がある。横に倒した丸太の上方には5−10cm程の溝が開いており、この隙間から中を刳り貫いてある。何かの儀式の時に使う太鼓であろうか?同じ構造でより小さい物は実際何回も太鼓として使われているのを見て来た。昨日も2つのグループがこれをたたいて居た。次に何処でも良く見られる物は建物の壁の絵である。之はライオン、豹などの猛獣や蛇が多い。また、狩猟の様子を描いたものも見られた。

村長の挨拶の後レースの表彰式があり、皆其々に敢走証を貰う。此処でも女性は後に成る。Cameroonはまだまだ男社会なのだ。上位入賞は現地人でトロフィーなどが与えられたが、女性の順位表彰はなく一律に副賞の小さな木彫りの面、とバナナの繊維で作ったバッグが贈られた。面は兎も角も、バッグは如何した物かと今だに思いあぐねあぐねている。日本で唯一のバッグ、アフリカチックなバッグなのだが、どうも使い道となると考えてしまう。単なるお飾りか、暫し思いあぐねた末の焼却処分か?誰かゴミの有効利用に協力して頂けませんか?送料位は当方で負担します。

儀式が終わって暫くするとバスに乗って移動し出した。何処か近所で食事をして、その傍の倉庫ででも寝るのかと思っていたら,何と1時間半を掛けてDshangの町に戻って来たのだ。大きな食堂で食事を済ませ、所定の棟の部屋で寝る事になるが、僕の部屋は無いと言うのだ。事前の連絡の欠如、段取りの悪さは例のない程酷い。
結局この日はQueen Sizeのベッドに連れの無い男と寝る事に成る。これ以上悪い経験もしているので動じることは無かった。

翌日、
24日はDshangの町に皆お土産を買いにゆく。僕もいろいろ見たが買うものはなかった。午後は宿泊地に戻り、皆で写真を撮ったり、連絡先を知らせ合ったりして時間を潰すが、中々出発する気配はない。飛行機が22時半なので余り早く着いてはとの判断であろう。

出発の時間は何時か忘れたが、1時間ほど遅過ぎたことが後で分かる。途中までは順調であった。昼食も摂らずに結構な時間に成って居たので、又今までのCameroonでの食事には全く不満であったフランス人達はチーズが食いてー、ソーセージも食いてーと歌を歌いだす始末であった。外食産業がまだ発達していないCameroonでは沿道で20−30人が食事が出来る所は極少ない。バスは間も無く止まり昼食を摂る。大したもの出て来無い。パンに果物、ブロイラーの鶏、それにイワシの缶詰めだ。通りの向こうに行って串に刺したものを買って来て食べて居る人も居た。羽を広げた昆虫の様な恰好をしている。勧められて食ってみるとグーである。何かと聞くとでんでん虫、エスカルゴである。蝸牛の殻を外し、縦に切って広げると昆虫の形になるのであろう。Franceでは珍味であり、ここでも珍味だ。

此処で僕の見たCameroonの食糧事情を述べて置こう。朝飯はパンにバターを塗る位か、偶には練チョコレートやジャムも付いた。卵も2−3度食べた。飲み物はコーヒーだけの場合が多く、例外的にジュースかココアが出た。レースの時を除いた昼と夜は殆ど同じ様に味付けをした焼きそば擬きか焼き飯擬きが交互に出て来た。具は人参やささぎを刻んだ物に豆粒ほどに切った豚肉などが数粒入っていた。それにバナナ、パイナップル、パパイヤ等でこれらは豊富に出た。バナナも生だけでは無く、調理した物も出た。パイナップルは完熟した物で、芯を摂る必要が無く、又舌先のピリピリ感がなく美味しい。パイナップルは未完熟は歯応え、完熟物は甘さの2種類がある事が分かった。牛乳は乳製品は全く出て来なかった。一口で言うならば、炭水化物は十分取れるが、動物タンパクは十分とは言えない。それに食べる食品の品数が限られている。それにしても、立派な体格の人は多く、何か秘密がある様だ。

夕闇の迫るころ大渋滞に巻き込まれる。1キロ進むのに1時間を要する。2時間ほどこの様な状態が続く。対向線の車の人が此処はCameroonだからねと言って笑っている。イライラした様子は少しもない。又空港行は諦めるんだね、とか、絶対に着きっこね〜、とか言って笑っている。道路も悪く、雨で大きな水たまりが出来ている所もあり、明るい展望は何もない。遂に主催者も決断した様だ。バイクタクシーに分乗して空港に向かうことに成った。2人ずつ乗っても、15台のタクシーが必要に成り、それだけのバイクは一度には見つからない。前から順々に拾えた順に空港に向かう。適当に現地のスタッフも間に入れて、空港に全員が着ける手配を取っている様だ。僕と相乗りするのは奇しくも昨日の同衾氏であった。全財産のリュックを背負っているので僕が後ろに乗って出発する。バイクは路肩の凸凹を気にせず,可なりの速度で走る。石や凹みも、水溜りも気にせず走る。荷物を背負ってヤットしがみ付いて居る僕はハラハラドキドキ、まるで007の脱出劇だ。2−3日前のパトカー兼救急車と云え、Cameroonは別世界だ。港に付くとスタッフがタクシーを用意して待っており、乗換え空港に向かう。此処からは道は空いており、安全で安いからタクシーにしたのだと言う。我々が最後の様だ。空港には出発の1時間前に着いた。通常では間に合わない時間であるが、先に着いたスタッフが団体入場の手続きをして居たので、直ぐに出国審査に進むことが出来一安心。最後まで当初予期しなかった事が起り、十分に楽しめた旅であった。

帰りは25日朝7時にParisに到着十分その日の内に帰国便に乗る事が出来たが、もう1泊して26日にSASでコペンハーゲン経由で帰る予定であったが、SASのその日の成田行きは欠航となり、代替便のAir China便で北京経由で予定より12時間遅れで帰宅した。最後まで色々予想外のことが起った旅であった。

Cameroon概要:国土は日本の1.3倍。人口2000万+、1人辺りGDP:1500USD.

旅の費用:航空運賃10万円、レース参加費(Paris−Duala往復運賃、Ca―meroon滞在中の一切の費用込)20万円、予防接種、Viza取得等2.5万円、Paris滞在費1万円、総計:33.5万円



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平成25年1月7日掲載

 Santiagoの道
12.09.11−10.23


僕がキリスト教の巡礼の道、Santiagoの道を何時かは歩いて見たいと思ったのは遥か昔の事で、今となっては定かに何年頃であったと言い切る事も出来ない。何故歩きたいと思ったのか? これも漠然としている。強いて言えば2つある。一つは1000年を遡る歴史の道への興味である。1000年以上に渡り多くの人が歩いた道とはドンナ道なのか?もう一つは全長約800キロ、Santiago de CompostelaとFinisterre−Mu―xiaを往復すると更に200キロが加わる長い連続した道への興味だ。日本にも歴史的にも総延長に於いてもこれに匹敵する遍路道はある。只話に拠ると、その後の開発により、昔の道の原型を留める距離は余り長くないと言う。道は元々海岸線沿いや谷合の狭小な平地を縫うように作られてきた。明治以降の日本の産業振興に伴い大きな道路が同じ場所に作られ、昔からの遍路道はその大部分が消える運命にあったのであろう。一方Santiagoの道はその多くが昔ながらの姿を留めて居ると言う。長い昔ながらの道を歩いて見たい願望が僕にはある。子供の頃の田舎の道は殆どが舗装され、昔ながらの地べた道はもう殆ど無い。昔ながらの道をジックリと先ず歩いて見たいとの思いがSantiagoの道への誘いである。

Santiagoの道とは何ぞや? SantiagoとはSpain語でキリストの弟子の一人Jacob(仏語ではJacques,英語ではJames)のことである。Spainの布教に務めたSantiagoはエレサレムで殉死(斬首)し、その遺骸はスペインに埋葬されたという。伝説では9世紀にその墓が発見され、その地に教会を建てのが今のSantia―go de Compostelaだという。此処への巡礼の記録の始まりは951年に遡り、

キリスト教ではVatican、Jerusalemと並ぶ三大聖地とされている。此処への巡礼の道がSantiagoの道で、11世紀にはヨーロッパ各地から巡礼者が沢山訪れる様になり、最盛期の12世紀には年間50万人を超えたという。今はフランス側から年間10万人がこの道を歩いて居るそうだ。

先ずInternetで案内書を買い、それに従って歩くことにする。この書によると、   FranceのSt.Jean de Pied Portを出発、Pyreneesを超え、Santiago de Compostelaまでが33日、更に大西洋側のFinis− terra−Muxia−Santiago de Copostelaが7日、合計40日必要になる。日本から出入りの日数を前後2日ずつ取ると44−5日が必要となる。之だけの長期の日数は貧乏暇なし人間にはなかなか工面が付かない。何とか所定の日程を確保し、鶴岡の丸1日後にFranceに向かう。遊びは寸暇を惜しんで励む他無い。

今回の旅は最初から躓く。当初の予定ではLufthansaの便はFrankfurt経由でFranceのToulouseに18:30分に着くことに成っていた。空港に着くとこの便は4時間遅れである事を知らされる。之だけ遅れれば、当然Toulouseまでの当日便も無く成る。寸暇を惜しんで遊んでいる身分、正に時は金なりで、1日たりとも疎かには出来ない。Check−in Counterで代替便の交渉をする。1時間を掛け、ヤットFrank―furt便では無くMuchen便でToulouse着21:30着で折り合いを付ける。実にこの間1時間を要している。Check−inでこれだけ長時間掛かったのはこれが初めてである。

Muchen便は略定刻運行であったが、乗り継ぎのToulouse便は約2時間遅れ、到着は深夜となる。この便ではトイレの扉に腕を挟まれ切り傷と内出血が出来る。医学的に全治とは何を指すのか知らないが、瘡蓋が取れたのは其の3周間後であり、今でも傷痕が残っている。欧米では訴訟沙汰に出来る損傷であろう。

災難はこれでは終わらない。預けたストックが届いて居ないのだ。2年前オーストラリアで買い、昨年のSierra Nevadaやこの夏のTour du Mont Blancを共に歩いた相棒とも云うべき杖だ。Carbone Fiber製で軽くて気に入って居たものだ。早速、不着の届け出を出す。折角持って来た物の今回この杖で歩くことは絶望的だ。

タクシーで予約した宿に着いた時は日が変わって居た。入り口は閉まっており、電気も点いて居ない。見ると深夜の泊り客はxxxに電話をする様にと書いてある。携帯を持たない小生は電話をする術はない。偶々棟続きの隣が深夜レストランであったので、事情を話し、電話を借りる。玄関扉の暗証番号で中に入ると、机の上に封筒入りの鍵があるので、それで入れと言う事であった。兎に角寝る。

翌日、九月一二日、7時フロントの開く時間に宿を離れる。路面電車で途中まで行き、地下鉄に乗り換え、駅に向かう。Santiagoの道の歩き口までの列車は日に何本もない。8時の電車を逃すと、先の日程に影響がでる。切符を買いホームに駆け着けたのは発車5分前であった。

高速列車TGVは2時間余り走り、最初の駅に泊まる。Bordeaux St.Jeanである。がそこで15分以上止まり、更に2時間後Bayonneに着く。此処では列車の乗り換えがあり、約2時間の待ち時間がある。この街はかなり大きく、ビスケー湾に近い。西南程無くにSpainの町San Sebastianがある。待ち時間の間、町を歩き散策の傍ら届かなかった相棒の杖の代わりを探す。余り選択の余地は無く、アルミ製の重い物を70Euroで買う。野良犬対策にも無いよりは増しだろう。町は大きな川で南北に分かれており、鉄道は北、南が旧市街で大きな教会の尖塔が川越に見える。L‘Adour川で1キロ近くの長い橋が架かって居る。川を渡り西南の旧市街を歩き、駅に戻る。

乗り換え用の列車は2両で、見るからに巡礼に備えた格好をした人たちで一杯だ。目につくのは韓国人だ。特に女性が多い。女性は男性より、宗教を必要とし、熱心なのだろうか?1時間20分程で登り口の町St.Jean Pied de Portに着くころには霧が出て天気の心配が出てくる。

ToulouseとSt.Jean Pied de Portは地図で見るとそう遠くは無い。随分長い時間がかかったが、これは鉄道がU字を時計方向に135度回転させた路線を走って居る為で、その右上端が始点のToulouseであり、その左下がSt.JeanPied de Portである。U字の始点と終点を直接結べば列車で1時間ほどでは無かろうか?

St.Jean Pied de Portは古くから国境の町であり、大きな砦がある。今はSantiagoの道{この道には幾つかある。今回歩く道はその中でも最も一般的な    Camino Frances(フランス街道)で、この北にはこれに並行した海沿いの道   Camino del Norte(北街道)がある。これらの他Santiago de   Copostelaに向かう道は何本かある}。勿論、あまり大きくないが立派な教会もある。

早速宿を探す。町には沢山の巡礼者用の宿がある。その中でも古びた宿に入る。先ず巡礼者証の提示を求められる。そんなものは無いと言うと、駅の方に戻ると手帳の発行所あるのでそこで買って来いと言うので、行ってみる。何人かの人が手続きをしている。所定の用紙に国籍、氏名、その他必要事項を書き込むと降りたたみ式の手帳を2Euroと引き換えに渡して呉れる。

これを持って宿に戻り、ヤット宿泊できることに成る。これから先もこの手帳(Creden―tial,巡礼者資格証明書)なしでは巡礼者用の宿に泊る事は出来ない。手帳には行く先々のゴム印が押され、最後の巡礼路完歩証の交付を受ける際の証拠となる。

薄暗い照明の中、古びたテーブルを囲み皆で夕食を摂る。2食付20Euroで3コースワイン付きの夕食がでる。量も十分で満足できるものだ。夕食の最中に入歯(Inlay)が取れる。40日以上奥歯に穴の開いたまま歩くことになり、家内にメールで帰国後一番で手当てをする予約依頼を出す。

ギシギシ音のする階段を上り、何十人もが一緒に泊まる巡礼小屋の最初の眠りに付く。もうそろそろ、不都合な出来事は出尽くしたのだろうか、それとも又何か困った事が起るのであろうか? 弱り目に祟り目と言い、禍は引き続き起こるものなのであろうが、もうこの辺りで、打ち止めにして欲しいものだ。

09.13:何とか当初の予定通り、歩きの第一歩が始まる。巡礼者の朝は早い。暗い内に食事を済ませ、多くは七時頃までに宿を出て行く。遅い者でも八時には宿を出なければならない。この辺りでは、七時半になると漸く明るく成る。其れまでは携帯電燈を点けて歩く。両側に宿や土産物屋の並ぶ石畳の道を略真っ直ぐに登って行くと、軈て狭い舗装道路となる。

上方には疎らに民家の灯火が霧で霞んで見える。更に登って行くと、小雨となる。木の下で、荷を降ろしポンチョを被り又歩き出す。前後には何人かの同道の仲間がいる。今日の行程は25.1キロで、1400mに近い登りを入れると、平地換算で32キロ程に成る。Santiagoの道の中で、最も困難な1日とされている。天気が良ければ、素晴らしい景色が見られると言うが、殆ど何も見えない。雨が土砂降りに近く成り、風も強く成る。10キロ手前の休憩所では10人以上が雨宿りしている。屋根は付いて居るが、壁はなく吹き曝しで、椅子もテーブルもびしょ濡れで,皆立って雨を凌いでいる。やや雨が弱まると皆で歩き出す。痩せた野良犬が付いてくる。結局この犬は今日の終点SpainのRoncevalles迄付いてきた。犬には国境は無いのであろう。

高度が1000mを超えると、風は半端でなくなる。着ているポンチョ等は煽られて物の役には立たない。下から上に衣服が濡れて行き、靴の中も水だっらけの状態となる。体が段々寒くなり、恐怖を感じるが、着替えが出来る状態ではない。雨風が強すぎて、体温を保つために出来る事は出来るだけ早く歩き、熱発生を上げる以外にない。

この区間には3本の巡礼路があり、僕が歩いて居るのはモットも標準的とされている、   Route de Napoleonである。他の2つの道は車道に沿っており、標高差も少なく、休憩所の数も多い。13キロ程進んだ所で、舗装道路から左に入り、山道となる。

左手が山になっており、右の谷側から吹き上げる風は強烈だ。腰,脇の下から寒さが浸み込んでくる。17キロの手前でFrance・Spainの国境を超えるが、更に登りは続く。水の補給所があるが、そんなものは今日は必要ない。

更に4キロ余り登って行くと今日の最高点1450mの峠に出る。其処からは4キロは下りとなる。雨は和らいだが、道は雨で滑りやすい。急な傾斜は周りの木に掴まりながら慎重に降りて行く。段々高い樹木が現れ、雑木林のなかを暫く下る。30分程下ると、舗装道路となり、古びた教会が見えて来る。France側からPyreneesを超えて、SpainのRon― cevallesに着いたのだ。

7時50分から歩き、1時15分に遍路宿に着く。Check−Inは2時なので、修道院の大きな建物の中で荷を降ろして、何人かと一緒に待つ。雨はスッカリ止み、天気の回復を期待する。今日ほどの強風豪雨の中を歩いたのは之が初めてだ。この先何十日も歩くが、之が最悪であって欲しい。体はスッカリ乾いた訳では無いが、寒くは無く成った。気温は25度程ある様だ。心配なのはスッカリ濡れた靴を如何して乾かすかだ。

巡礼の宿は運営主体によって何種類かある。一番多いのは私営、次いで自治体営、教会又は僧院営、協会営等である。この他にも遍路路には私営のホテルが彼方此方にある。2つ星クラスが多く、一部屋25Euro程度で2人で泊れば高くはない。何百人もが泊まれる宿は少ないが、宿の数は多く平均的には3キロ毎に宿があると思っていい。其の為Santiagoの道は誰にでも歩ける道と言える。

今夜の宿は僧院系で可なり大きい。靴に新聞紙を沢山居れ、乾くのを待つ。之が一番効率的なのであろう。衣類は手洗いの後、脱水をして貰い室内の物干し綱に掛ける。結果は明日に成らなければ分からない。靴だけは何とか乾いて欲しいものだ。

09.14:靴は反乾きだが厚手の靴下を履けば何とかなる。僧院を出ると直ぐ左手が小川で全体が高い雑木林で覆われた小路に出る。暗いのでHead Lampを点けて歩く。良く整備されており、土の感触が柔らかく伝わって来る。見ると柘植の木も生えている。道幅は1m強、実に心地良く歩ける道だ。

偶にではあるが反対方向から歩いて来る人もいる。Bon Caminoと挨拶をした序に聞いてみると、同じ道を往復しており間も無く旅の終わりだという。之も意味があるのであろう。同じ道でも反対側から見れば違った物が見えるのだ。

此処まではすれ違う時交わす挨拶はBon Caminoである。之はフランス語とスペイン語合成で、本来であればBon CheminかBuen Caminoであろう。

此処から先はBuen Caminoが多く成るが、Bon Caminoも最後まで聞かれた挨拶である。良き道を!=良い旅を!の意味の他、我が国の“道”が含む哲学的な意味も含んで居るような気もする。何れにせよ道を誤らずに、全うな旅をしたいし、同道の士もそうであった欲しい。

日が登り、段々暑く成る。 上り下りを繰り返しながら歩き続ける。今日の標準行程は27.4キロだが、出来るだけ先まで歩くことにする。今日の道も95%が土の道で、舗装道路は僅かに5%と、多少の凸僕はあるが、足には優しい道だ。道標は要所要所に出て居り、或る地点までの距離もでている。分岐点で気を付けて見れば、進むべき方法は直ぐに分かる。

なだらかな丘陵地帯で遠くまで見通しがきく。路傍には薄紫の花が彼方此方に咲いている。葉っぱが全然なく、地面からいきなり5cm程の高さのラッパが開いたような花である。クロッカスの仲間であろうか?川を3つ渡るが、最後の川の手前の下りは岩がゴツゴツしており、歩き難い。平らな道を6キロほど歩くと、小さな集落Lorrasoanaに着く。標準の行程ではここが今夜の宿である。ここまでの距離は27.4キロ。未だ日は高く暑いが、先を急ぐ。10キロの荷物を背負い、どの程度なら無理なく進めるのか試しておく必要がある。

所々にある巡礼者用の噴水で水を補給する。Larrasoanaを出ると道は何回かPamplonaに流れ込むArga川を渡り、また自動車道と並行であったり、横切ったりしながら徐々に下って行く。大きな車道を歩いて空港を迂回する。日差しが強く暑い。

舗装の道には、”Pilgrim,you are in the Vasque      Country(巡礼者よ、汝ヴァスクの国に在るなり)“と黒ペンキで書かれている。今は治まったが、2006年まではVasque人による独立運動が盛んな所である。この先も    Spainに対する怒りの意思表示が何箇所かで見られた。

町までは長い間大きな車道の歩道を歩く。5回目にArgaの橋を渡ると、もうPamplonaの市内である。公園があり左手に曲がり川沿いにやや進むと、市営の宿がある。そこは満杯なので先の宿を案内して呉れる。其方に5分ほど歩を進めて行くと大きな僧院系の宿があり、其処に落ち着く。1階は既に満杯で、やや条件は悪いが2階の大部屋に泊る事に成った。
宿代は素泊り、7Euro. 今日の歩行距離40.2キロ。

09.15:当初からPamplonaでは多少余計な事をしようと思っていた。第1は市内の見物である。第2にはここからバスでAndorra(人口約7万の公国)に行ってみる事である。明るく成る前に宿を出て、町を歩き観光案内所の開くのを待つ。土曜日なので10時に成らないと開かない。町の広場や闘牛場を見て回る。闘牛場に通じる目貫通りには牛追いの実物大の銅像が立ち、迫力がある。殆どの人はSpainの闘牛やその前に行われる牛追いを御存じの筈だ。どう見てもあれは牛追いでは無く、“追われ”たが適訳が無いので牛追いと成って居るに過ぎない。

闘牛場の傍にはHemingway通りがある。“陽はまた登る”や“午後の死”を残した   HemingwayはPamplonaの町や文化の深い理解者であり、その功が通りの名として残っているのだ。
観光案内所が開く時間に又訪れ、Andorra行きの情報を訊くが、便は無いと思うが念の為、バスの発着所で尋ねて見たらという。大きなバス停に行って調べるが、やはりAndo―
rra行きのバスは出て居ない。

諦めて本来のSantiagoの道に戻る。歩き出したのは10時半であった。大きな公園を横切り途中まで一緒に歩いて呉れた町の人が居た。健康増進の散歩をしているのであろう。余り話もせず暫く歩く。Santiagoの道は日頃生活の道としても利用されている。車道とは隔離された安全な道なのだ。前方の尾根には沢山の発電用の風車が何十本も見える。これはSpainでは彼方此方で見られる風物である。農地は向日葵と刈り取られた麦畑が多い。略平らな道を5キロほど歩くと、標準行程では3日目の宿と成る小さな部落、Cizur Menorに着く。Pamplonaからは5.1キロで更に歩き続ける。直ぐに登りと成り、約5キロの間に350m登る。蔭に成る木立は無く、日差しは暑い。坂の頂点には左右に多くの風車が回って居り、近づくと名状しがたい鈍い音が聞こえてくる。之が問題にされている低周波音なのであろう。

峠で振り返ってPamplonaの町を見る。盆地の町が綺麗に見える。前方行く手にはまた開けた大地が広がる。下りは急で足元は悪い。大きな石がゴロゴロしており、足の運びに気を付け、杖を前に突き手の力も制動に使い降りて行く。其の先主要道路を6−7回横切ると小さな集落(人口2000人この辺りでは町と呼ぶべきか?)に入る。 あっと言う間にそこは通り過ぎて橋を渡って居た。気が付いた時は4日目の宿泊地Puente La Reina[女王の橋]を通り過ぎて居た。渡った川は蛇行しながら南西に流れるArga川である。 川沿いに暫く歩き、また登り出す。470mの丘を越え、やや下り又のぼる。次の丘の頂点、Cirauqui(人口500人)の集落に着いた時は5時を回って居た。急いで宿を探さねばと、ウロウロしていると、大勢の人が集まり飲み食いをしている。お祭りで皆良い機嫌で日本人は珍しいので肴にしようとの趣向で、無理やり椅子に付かされる。自分の作ったワインだから飲めとか勧めて呉れるが、此方は宿を探すことが先決でそれどころではない。10分程で彼らも納得した様で、宿のある方を教えて呉れた。

私営の宿で略満員でベッドの選択の余地はなく、上段に寝る羽目に成る。宿は宿泊夕食のみ付きで20Euroであった。ワインは飲み放題だ。朝と昼は自分で調達しなければならない。近くの売店に行き、果物、トマト、ピーマン、ソーセージ、チーズに卵6個をかう。卵は夕食の時、茹でて貰う。

先の集まりの席でも聞いたが、村の祭りは今日が初日で5日間続くそうだ。宿のすぐ前が小さな教会で、更に階段を降りた広場に舞台が作られラテンの生演奏が続く。演奏はメキシコから来た楽団が遣って居り、祭りは夜通し、朝まで続く。人口500人程の村でこれ程盛大な祭りがあるのは驚きだ。独特な民族衣装を来た人々が、酒をのみ、歌を歌い、踊りに興じていた。そのエネルギーや恐るべし。歩行距離:31.9Km

09.16:7時50分に歩き出す。未だ薄暗く空気も冷たい。標高400−500mのなだらかな丘陵地帯を歩く。日が差し出すと、遠くの台形の丘が赤く染まる。Spainは大陸の国で、景色が大きい。全体に平らで、かなり遠くまで見通しがきく。輝いている丘は何処かアメリカかアフリカの丘を思わせる。

刈り取りを終えた麦畑の中の道を進む。彼方此方に大きな立方体に束ねた麦藁を積んだ山が見られる。2階建の大きな家ほどの山だ。雨は初日以来降って居らず、道は白く乾ききっている。日陰のある所は極限られ、日中の暑さが思いやられる。

2時間半程で標準行程5日目の町Estellaを通過する。遠くの稜線にはまた風車群が見えて来る。Spain人はCervantes以前から風車が余程好きだったに違いない。風車の利用目的は全く異なって居り、その外形も異なるが、風車は今でもSpainの景色の一部となっている。

町を過ぎて3キロ程の所に昨夜夕食の時、イタリア人が楽しみにしていたワインの噴水があった。案内書には出て居ないので、余り期待していなかったが、本当にあったのだ。巡礼路の直ぐ脇に立っているワイナリーが1991年に作った誰でも飲めるワインの泉である。 泉と言っても噴き出して居るわけでは無く、蛇口のコックを捻ると幾らでも出てくるようになっている。ワインは左、右には水のコックが付いており、飲みたい人はコップなどの容器に入れて飲むのだ。丁度暑い時期なので、水とワインを交互に飲んでから歩き出した。世界の彼方此方に行っているが、ワインが只で出てくるコックは之が初めてである。

今日の道も足に優しい土の道で、良く整備されている。両側には刈り取りを終えた麦畑が続くが、葡萄畑も彼方此方に見える様に成った。明日は葡萄の産地La Riojaに入る。
標準行程6日目の終点Los Arcosに16時に着き、教会営の宿に泊まる。素泊まり8  Euro. 地名はArchを意味し、城壁の入り口を指して居るのであろう。人口は1300人程の村だが、立派な教会があった。

4日間で135.4q、1日平均34キロ弱は問題なく歩ける事が分かった。余り早く歩き過ぎるのも問題だ。標準行程表通りに歩いても、帰りの便にはまだ余裕が出るが、取敢えず、明日からは案内書通りに歩くことにする。
09.17:早く目が覚めてしまったので、何時もより早く6時40分に出発する。今日の行程は28.1キロで前半にややキツイ起伏があるので、平地換算距離は30キロ弱となる。

集落を出る前に教会がある。今回の旅は教会巡りの旅でもあるので、目に入る教会は写真に収める事にしている。フラッシュを使うが部分的にしか撮れない。教会の他、彼方此方に十字架に架かったキリスト像もあるが、これは僕の趣味に合わないので,余り撮らない。乾燥したこの大地に古びた干物の様な姿と成って居る磔刑のキリストは決して美しいものには見えないからだ。信者にとっては有難い物であっても、僕は嫌悪感すら抱く。日本の古道に立っている地蔵には心の安らぎを感じるのだが。キリスト教の信者が見たら、地蔵に嫌悪感を覚えるのであろうか?

20キロの手前にVianaの集落があり、立派な教会がある。其の先の田舎道を歩いて行くと、段々と葡萄畑が多く成る。土の色も赤味を帯びてくる。葡萄に適した土壌なのであろう。
遠くに町が見えて来ると、道は車道に沿った歩道となる。良く整備されて幅2m程の土の道で、木陰もあり快適に歩ける。更に行くと“ここよりRioja”の表示が出ている。今まで歩いてきたSpain側の道はNavarra(日本の県に相当)であった。

薄雲が掛かっているが、気温は高い。アスパラガスの畑も見かける様になった。又、韓国の女性がストックで落として居たのはアーモンドの実であった。其のまま食べられる物では無いので、どうするのだろうか? 更に行くと小さいな果実の畑が現れる。杏子の様だが未だ食するには早い。

終点はLognano、人口15万に近いこの街はSantiagoの道の中でも5指に入る大都市である。1時半に到着、宿のCheckinまで暫く待つ。8Euro.ここも祭りで、楽隊が通りを練り歩き、彼方此方の広場では舞台の設置が行われていた。夕食は祭りの屋台で芋とソーセージを食べ、ワインを飲んだ。
09.18:7時半に出発、まだ薄暗い。曇りで風に向かって歩いて居るので、やや寒い。
歩き出した初日を除き、略快晴の日が続き、気温も32度の表示を見た日もあったが、そろそろ天気が変わるのだろうか?

町からは暫く舗装道を歩く。1時間ほど行くと葡萄畑となり、登りが始まる。黒い実がたわわに成って居るが、余り取って食べる人は居ない様だ。葡萄酒用の物で生食としては余り美味しくないのかもしれない。
Santiagoの道の標高は高く、400m以下と成る事は少ない。今日もこの先は5−600mの大地を歩くことに成る。車道と平行に成ったり、離れたり、又車道を横切ったりしながら、巡礼の道は続く。
案内書の地図は大雑把であるが、よく見ると重要な地点の表記は確りと抑えてある。Al― berge(France語ではAuberge).Hotel,分岐点、水場、集落、史跡、教会、川、車道、山や丘の頂点等である。外国の地名は覚えにくいが、迷った時はじっくりと地図を見れば、行くべき方向は分かる筈だ。

5時間余り歩き、1時40分Najeraの宿に到着。最初の宿は満杯であったが、2軒目は大きく半分ほどの入りであった。町営の施設であるが、宿代はお気持ちと云う事であった。只でも泊まれるが、箱に10Euroを入れる。入り口の外では、大きなガス台に大きな平鍋(直径1m程)4つが掛けられ、パエリア作りに近所の人が立ち働いていた、之と赤葡萄酒が宿泊客や近所の人に只で配られた。御代わり自由である。今日の夕食は之で十分。遍路道には御持て成しの風習があると聞いて居たが、実際に遭遇したのは之が初めてである。最初の宿が満杯であった事が幸いであった。御蔭で、遠路道の接待を受けることが出来た。
パエリアは入り口の前の広場で食べた。道路に面して居るが、其処には巡礼者たちの洗濯物が、下着も含め堂々とはためいていた。Spainではこの様な光景は普通なのだ。
宿の裏手は赤い崖となって居り、其処を刳り貫いて、物置や古くは人が済んだ穴居の様な物が見られた。
09.19:今日の目的地の地名は長い。Santo Domingo de la     Calzadaである。町名の由来はCalzadaの聖ドミニックである。ドミニックはこの地を通る巡礼者の為に橋を架け,病院、宿泊所を作った人物である。6時50分に出発し11時50分に着く。

暗い中を歩きだし、暫く上る。車道から離れた静かな道を先に行く人の明かりがちらちら見える。曇りでやや寒い。1時間程歩くと小さな集落に辿り着く。其の先は全体的に登りで、750m程の丘の頂点に達する。周りは乾いた赤土の葡萄畑だ。緩やかに下って行くと町が見えて来る。
小さな町であるが、立派な教会がある。ここも祭りで、黒い背広姿のお偉方や、正装した楽隊、絵に描かれているような帽子を被り豊かな色彩の衣装を纏った少年達が彼方此方で屯している。

丸1週間歩いた事に成る。この間あった人々に関して述べたい。日本人には一人だけ会った。感じの良い若者であったが、名を告げる事も無く分かれている。最初の頃から、何度か在って居るのは韓国出身の5人の女性だ。彼女達は朝鮮戦争花嫁の様であり、僕よりは一回り若く、皆アメリカに住んでいると言う。亭主は働き、自分達は遊ぶのだと、結構な御身分である事を吹聴している。5人の足並みは揃わず一人を除き、皆キセルをしながら何とか行程を熟している。荷物を別送したり、バスやタクシーを使い移動しているのだ。アイルランド人2人にもたびたび会った。単独で旅をしている年配の男女で、女性の方はリュックで背中が痛いと言って遅れだした。もう一人は教師をしていた男で、退職したので歩いていると言っていた。朝一番に起きて、出発し最後まで彼方此方であった。時として大鼾をかく男であった。30歳程のロシア人ともよく出会った。山高帽を被り、サンダルを履いて、飄々と歩く男だった。この男とも最後まで略同じ行程であった。ロシア人には合わないのかと訊いたが、会って居ないという。最後に会った時には、ヤット一人と出会ったと云い、女性と一緒だった。

この他略同じ行程で最後まで出会ったのは。CanadaのNew Foundland から来た4−50代の夫妻、AmericaのSan Diegoから来た4人一家である。12歳、16歳の男の子と夫婦であった。母親は肉刺を作り難儀していたようであり、父親、と16歳の子も肉刺が出来ていたが、12歳は何事も無い様に歩いて居た。16歳の子は大学を卒業しており、大学院は何処に行くかを検討中だと言っていた。言葉の端々に利発さを感じる秀才である。16歳で学士号を持つ男には初めて出会った。これらの人々とは機会が在れば、食を分かち合ったりし、結構楽しい旅が出来た。

Santo Domingoでは時間があったので、食料品の買い増しをした。此方の買い物で便利なのは、野菜果物等はばら買い出来、重量で清算が出来る点だ。只出来ない物もある。卵などは6個、12個、24個等の容器に入って居り、ばら買いは出来ない。偶々入った店では24個入りの卵しか売って居ないので、それを買い、茹でて皆で食べた。7個残ったので、冷蔵庫に入れ、明日以降の食糧とすることにした。翌朝見てみると、綺麗に無く成って居た。

買い物では不便な事もある。昼寝の習慣のあるこちらでは店は2時から5時頃まで占めてしまう。又、土曜日は早く締め、日曜日は殆ど店が休業する。好きな時間に何時でも買い物が出来る訳では無い。小さな集落では買える物も少なく、欲しい物が買えない場合がある。この為、2−3日後までの通過する地点を予め知っておく必要がる。食料は通常2−3キロは持って居ないと安心出来ない。多くの人はBarと呼ばれる店に入って、休憩を兼ねて簡単な食事をしていた。僕は出発すると、殆ど休まずに目的地に向かい、到着後持って居る食料を食べ、その後補充の買い物をすることが多かった。

09.20:7時10分に出発し、町外れの教会はフラッシュを焚いて撮る。車道沿いに歩き、3キロほど先で車道と分かれ、朝日が差し出した農耕地帯を歩く。道は緩やか登って行き、軈てまた車道と交差する。教会のある小集落を過ぎると、また車道を横切る。3キロほど車道と離れた道を歩き、其の先は標準行程の今日の終点Beloradoの集落までは車道と平行な道を歩く。道は全体的には登りで、700−800mの標高がある。今日の行程は23.9キロであるが、明日は登りがややきつく成るので、少し多めに歩くことにする。Beloradoを通り抜け、車道に並行して徐々に登って行く。既に新たな行政区、Castilla Y Leon(隣接するCastillaとLeonの集合県、Yは仏語のet英語のandに相当)に入り15キロ歩いて居るが、更にその先のEpinosa del Caminoの集落にある私営の宿、La Campanaに泊る事にする。案内書には定員10と出ている。宿の名前の意味は鐘であり、その看板にはAlbergueの下にLa(Spain語の女性定冠詞)と書いてあり、その下に鐘(Campana)の絵が描いてあった。

集落の手前、巡礼路から5−6m入った所にある古びた宿である。何人かの人が、店の前で休んで居た。通常2時がCheckin時間であるが、戸口に居た小太りの老人に聞くと、行き成り宿泊料を提示してきた。勿論Spain語でだ。2食付で16Euroだと言っている様だ。OKすると直ぐに入れて呉れた。1時20分であった。通された部屋は中二階にあり、6人泊まれる。
其の後男女の一組が宿泊の交渉をしていた様だが、追い払われてしまった。何か気難しい老人の様だ。シャワーを浴び寛いでいると、女性の2人連れが別の部屋に入って行った。その部屋が4人部屋である。定員は10人の小さな宿だが建物は30人程泊まれる大きな物だ。

夕食は先の女性2人、宿の主人、それに僕の4人で摂った。女性はドイツからで、何れも単独で出来て居り、偶々今日あったばかりだという。主人は64歳と言っていたが、80位に見える。Santiagoの道は4度歩き、別のルートでも1回歩いたそうだ。一人で切り盛りしており、夕食も中々のものであった。ワインもタップリ飲むことが出来た。今日の距離は32.3キロ。此処まではどの位が無理なく毎日歩けるかを試す為に、案内書に関係なく勝手に歩いてきた。このまま歩き続けると、早く着き過ぎ、飛行機の飛ぶ日まで日にちを持て余すことに成る。明日からは案内書通りに歩く事にする。
明日の最高点は1150mで、200m以上の上り下りがあるが、距離は16キロ弱と軽い行程となる。

09.21:朝食は7時に非常に簡単な物が出た。食事を終え、歯を磨いて居ると、早く出て行けと,しつこい追い出しにあった。歯磨きの続きは表の冷たい石に座って続けた。本当に変わった人ではあるが、久しぶりに、単独の部屋でユックリ眠れたので良しとしよう。

7時50分に歩き出す。薄暗く霧が掛かって居り、寒い。10度位まで下がっている様だ。草の生えた遺跡の横を通り、暫く歩くと車道に行きあたり、歩道をあるく。川を渡ると小さな集落があり、其の先は自然の中を登って行く。登りがきつく成り、1100mの丘の頂点に着くころには青空と成って居た。丘の上には塔が立っており、ここからは緩やかに起伏する大地のうねりが前方向に見える。この後2度の登り降りを繰り返し、2つの川を渡り、三つ目の丘、1150m、を超え下るとSt.Juan de Ortegaである。11時50分到着。宿の受付が始まるまでの2時間の間、教会の内部を見たり、木陰のテーブルで食事をしながら待つ。

途中で乳母車の子供を乗せ歩いている女性が、木の間に綱をはり洗濯物を乾かしている姿を見た。子連れ巡礼で、そこでテントを張ったらしい。女は逞しく、母は強いのだ。犬を連れての巡礼者もいる。彼らは宿では泊めて貰えないので,テント宿泊をしながら、歩いて居る。
この集落は人口が20人と云うが、巨大な教会がある。教会営の宿に泊まる。5Euro.入り口は狭いが、中に入ると回廊式の建物でかなり広い。回廊の日当たりの良い所は洗濯物で占拠されていたのが印象に残る。

夕食は隣のBarで摂った。小さなBarで席に限りがあり、順番に食事をした。それ以外の方法はない。集落にはここの他、食べ物を得られる所はないのだ。食事中に嘔吐し、意識を失った男が居り、一時騒然となったが一命は取り留めたようである。
09.22;未だ暗い7時前から歩き出す。標高1000mの朝は寒い。略平らであるが、石灰岩が剥き出しになっている凸凹道を歩く。5キロほど歩くとやや下りとなり、川を渡る。20分ほど歩くと、やや坂がきつく成る。更に20分程で頂点に達する。前方には盆地が開けBurgosの町が見える。5キロ程の間に200m下ると、略平らに成る。大都市Burugos(人口17万)に近づくと幾つもの車道があり、最後の5キロは車道と平行した道を歩く。 

 

大聖堂の手前にある市英の宿には11時少し過ぎに着く。歩いた距離は25.6Km.受付の扉の前に荷物を降ろし,傍の木陰で食事をする。荷物は他の何人かも置いてあるので、盗難の心配は無い様だ。
Burgosの町には2−3年前にも来ている。南北に川が流れている町で、其の時は川の東側の宿に泊まった。世界遺産と成って居る大聖堂を含む歴史地区は西側にある。大聖堂の西の丘には要塞がある。

2時に市営の宿の受付を済ます。5Euro.2−3日前に持ってきたスリッパを亡くしたので、サンダルを買おうと探すが、中々見つからない。土曜日なので店は早く閉まってしまう。町の外れまで歩き漸くサンダルを手に入れる。之はこの先必需品である。シャワーとトイレは多くの場合同じ区画にあり、シャワーの水で、トイレの床面が濡れている場合が多いのだ。トイレの度に足が濡れるのは面白くないのだ。
天気は最高で、日も長い。大聖堂、要塞、橋の彫像などを見て回る。

09.23:7時まえから歩き出す。夜雨が降った様で、地面が濡れている。空には高い薄雲が掛かっている。気温は20度程度であろう。
歩いて居て道に迷い易いのは、町を出るか、町に入ってからである。町は縦横に道が走って居り、方向を間違え易いからだ。注意深く、矢印やホタテガイの印を探して歩き、又先を行く人や後から来る人の動きにも気を配り、間違いを避ける。

1キロほど歩くと川を渡り、大きな公園の中を進む。車道を横切り2軒の小さなホテルを通り過ぎると、乾いた土の道となる。略平らで、両側は麦畑で見通しは良い。石灰岩の大地で、刈り取られた麦畑には岩石の砕けたものが一面に広がる。大きなものは人の頭ほどあり、石を取り除くと土が無く成るのではと思われるほどだ。石の多い道路と見分けが出来ない程沢山の石がある。

葡萄畑もそうであったが、耕作地の石は日本では考えられない程多い。今は大型の機械で、燃料さえあれば、委細構わず耕しているが、人力や蓄力の時代の耕作は困難を極めたに違いない。
道の両側に生えている草も、日本では見られないものばかりだ。乾燥に強い植物しか生えて居ないのだ。今の時期青々している草は少なく、枯れたものが多い。彼方此方に耕し終えた畑もあるが、十分な雨が降るまでは麦の作付は出来ない。

1時間半ほど歩くと車道を横切り、先ほど渡った川をまた渡る。遍路道は略西に直進、川は蛇行しているためである。程なく、また車道に突き当たり、2−3の宿を通り過ぎると、緩やかに登り出す。30分程で登り切ると、略平らな高原となる。標高950m、Mesetaと呼ばれる浸食台地である。巡礼路は南北に楕円形をしている東の端を通り、3キロほどある。案内書の地図が正しければ、南北方向には10キロ以上の高原だ。隆起大陸に特有な地形だ。

3キロ程下った所が今日の終点、Hornillos del Caminoである。10時40分到着。人口100人の小さな集落で、あまり見るべきもの無く、遣るべきこともない。叢に寝転んで昼寝をする。20.0Km

09.24:7時に歩き始める。小さな集落から遍路道に入るのは簡単だ。道に入れば後は一本道、分岐点までは安心して歩ける。勿論その前にも、印はある。昨日と同じ様に荒涼とした2つのMesetaを通り過ぎる。Mesetaからは数えきれないほど多くの風車が遥か彼方に見える。行く手方向の西側は地平線まで平らな土地が続く。農地であるが、トーモロコシ等の生育は貧弱で、土地は痩せている様だ。曇り空に向かい風が吹き付け、一層荒野の荒涼さを募らせる。2つ目のMeseta,940m、の右手には古い城塞の跡が見える。更に6−7キロほど行くと、屋根の落ちた巨大な遺跡の傍を通る。15世紀の僧院跡と記されている。其の先には  San Antonの立派なアーチがある。
途中には略5キロ毎に遍路宿がある。15キロ過ぎまでは車道を2度横切っただけであるが、其の先は車道に並行した道であった。

21.1キロ先の目的地、Castrojeriz着いたのは10時50分であった。100人ほどの町で教会が3つある。一息の後、これらを巡り、更に丘の上の城塞跡を訪ねる。巨大なクレーンを立て、修復中であった。丘の上は恐ろしい程の風が吹いているが、見通しは素晴しい。遠く稜線には丘を囲むように無数の風車が見える。西の方を見ると、やや下りまた登る斜面に延々と道が続く。明日歩く道だ。

10日以上歩いて居るので、歩き方の整理をして置きたい。巡礼の朝は早く、遅くても8時には宿を出なければならない。宿の決まりである。僕の場合は起きると、先ず飯である。朝飯は自分で用意した物以外は摂ることが出来ない。宿を出て、Barのある所まで行って、そこで朝食と云う手もあるが、僕はそうしなかった。Barはすぐ隣であるかも知れず、また数キロ先かも知れない。朝飯を確り食い、ユックリと歯を磨いてから行動するのが習慣として定着しているで、何時有りつけるかも分からない朝食は論外なのである。

朝飯を食った後は暫くユックリと歩く。其の後一定速度で歩き、殆ど場合、目的地まで一気に歩いてしまう。其の後、又持って居る物で食事をし、其の後足りないもの買って又食う。午後から夕方までは食って飲んでの生活である。店に入ると10Euroで3コースワイン付きの食事が出る。僕は最初の内はそうしていたが、1リッター1Euro以下でワインが買えるSpainではどんなワインを飲まされているか、疑問を持つようになった。此処での外食は更に不都合な事がある。夕食は7時以降でなければ出てこないのだ。それに出たり入ったりも厄介だ。これらが分かった後は最低の値段のワインの5−6倍のワインを毎日1本買って飲むようにした。殆どの宿は自炊が出来るので、肉や野菜を自分で買って食べる様にした。牛、羊、豚、等の肉を適量切って貰っても2Euroしないのだ。野菜は中々手ごろな物は無いが、玉ねぎ、人参、ピーマン(パプリカ)等は良く食べた。キャベツも分け合って、何度か食べた。魚は鮭の切り身を食べた。それに卵である。又携行食品としてはチーズとソーセージ、ハムなどを良く食べた。これらの加工品は非常に品質の高い物で、味もいい。特にイベリコ豚の生ハムは絶品である。又、表面に白カビの生えたソーセージも美味しい。之は包装してあるものでも、態々穴を開けてカビの繁殖を図っている。この他良く食べたのは果物である。ネクタリンは美味しい。桃も小粒だが味は良い。柿もまあまあである。葡萄は白も赤も、期待したほどでは無かった。粒は大きいが、種があり、酸味が強いのだ。ミカンも小粒で、同様である。一体に果物に種があるのは当たり前なのだが、種なし葡萄やスイカを食べることが当たり前と成って居る日本人はこの事を忘れかけており、種のある果物を奇異に感じる様になりつつある。世界を廻って見ても、日本ほど農産品の品質改良の進んだ国は無い事を改めて感じる。

毎日宿に着き、一息付くと,することがあった。台所に行って、何が備わっているかを見る事であった。どんな調理器具があるのか、油や調味料、食器などの有無を確認しておくのだ。これらは宿によって千差万別で、台所が全くない所もあり、ガス台はあるが、鍋釜が無い所、理想に近い設備の所と幅が広いのである。調理の出来ない食材を買った後、どうして食おうか考えるのでは遅すぎるのだ。

歩いて居て、巡礼者の生活は正にHomelessの生活だなと思った。特に朝など、十分な照明も無い空間で、幾つものプラスチックの中から必要食料を取り出して食い、又残っているワインをラッパ飲みする時、その思いは強く成った。生活に必要な物を全部持ち運びしているのも、Homelessの生活だ。

日本の生活から考えると、1000円でワイン飲み放題の夕食はあり得ないかも知れないが、Spainでは何も巡礼者のみの特別料金では無いのだ。素泊まり500−600円の宿泊費も特別料金と考える必要はない。その証拠は民営の宿が多い事だ。レストランの料金も先に述べたワイン、食材の価格を考えれば、決して特別料金でないことが分かる。Spainは物価全体が低く、これで商売が成り立っているのだ。

09.25:7時10分宿を出る。曇っており、向かい風が強い。町を出ると麦畑の中の道を2−3キロ下る。川を渡りと登りとなる。昨日見た道で、気合を入れて登る。先に出た人を何組が追い抜き、標高900mの頂部に着く。石の多い荒涼とした高原を30分程歩き、その先下ると車道に突き当たる。車道に沿って暫し歩き、川を渡り、右折する。直ぐに教会のある小さな集落に着く。其処からは左折し西に原野の中を進む。道は良いが、逆風は半端でなない。運河を渡りさらに畑の中を進む。見事な街路樹ある真っ直ぐな道を歩き、また運河に沿った平らな道をあるく。2つ目の小さな丘を越えると、2−3の巡礼宿のある集落を通過する。勿論教会もあった。更に1キロほど歩くと、Canal de Castilloを右に見ながら暫く歩く。標高は800m、風は相変わらず強く、前かがみに成って前進する。漸く運河の水門に辿り着く。水門は数段あり、此処で水位の調整を行い、船の航行を可能にしている。写真を撮り、水門を渡って鉄道の線路に行き当たる。鉄道は10日以上見て居ない。之を渡り、更に車道を横切り教会の傍のFromista町営の宿に辿り着く。7Euro.25.5km。12時50分到着、起伏は少ないが、強い逆風の為、思ったより時間が掛かった。宿に着いた後、にわか雨があった。何日か振りの雨であったが、道路の乾きを潤すほどのものでもなく、まだ乾いた状態は続きそうだ。

09.26:7時30分に歩きだし、11時過ぎには目的地、Carrion de Los  Condesに着いてしまった。19.7キロ程の道のりだ。宿をでて30分程で小集落に着き車道を渡り、次いで高速道路も超え、更に川を渡る。終始車道に並行した平らな道を略一直線に歩く。単調な道を黙々と歩く。之が正規の道だ。途中宿のある小集落は3つある。勿論どの集落にも一つ以上の教会がある。単調さを避けるために、川沿いの迂回路も用意されているが、史跡などは無いので、僕は単調な正規の道を歩いた。

朝食をユックリ摂るので、何時も出発は最後となるが、途中休まず歩くので、目的地には誰よりも速く着き、寝床の選択は何時も思いのままに出来た。平地では時速5キロは急がずに歩けるのだ。
今夜泊まる集落(人口2400)にはSanta ClaraとSanta.Mariaの2つの立派な教会がある。宿はSanta Mariaの経営であった。此処では尼さんによる洗濯のサービスがあったが、僕は甘えることなく、何時もの様に手洗いをした。5Euro.

09.27:7時15分に歩きだし、町を出ると直ぐに川を渡る。Carrion川である。8時半ごろから霧が掛かって、視界が悪いが、1時間半ほどで霧は上がり、秋の青空が広がる。此処だけではなく、遍路道は幅5−6mが一般的だ。僕は遍路道は幅1m足らずだと思い込んでいたので、立派な道が続くことは全く期待していなかった。土地に余裕がある証拠だ。周りは相変わらず刈り取りの終わった殺風景な麦畑である。何か毎日同じ所を歩いて居るような気に成る。それ程この辺りは起伏の少ない台地で標高は800m+で昨日と変わりない。車道や小川を渡るのが唯一の変化で、宿のある集落も15キロ以上先である。其の先6キロの集落を過ぎ車道に沿った道をさらに3キロほど歩くと、今日の終点Terradillos de Temp―  larios(人口100)である。12時少し過ぎに到着。26.8km。民営の宿に泊まる。8Euro.
09.28:今日の行程は26.9kmであるが、高低差は殆どなく、850−900mの平野をあるく。7時45分に出発、5時間弱で着いてしまった。出がけにはやや雨が降っていたが、直ぐに止んだので幸いであった。晴れ上がる事はなく、終始曇りの日であった。

集落を出て程なく、小川次いで車道を渡る。程なく小さな教会のある集落を過ぎ、二キロほど歩くと、宿がある。車道に並行した道を更に1時間ほど歩くと大きな町Sahagun(人口170000)に着く。町の中の道は幾つある立派な教会や市庁舎等を巡って続く。

町の外れに近い辺りの右側に大きなアーチが見え、その手前には大きな岩にSahagun,Centro del Caminoの銘板がある。之は巡礼路の東の起点、Ronceva―llesからSantiago de Compostelaまでの中間点を示している。歩き出して16日、道の半分は歩いた事に成る。今でも巡礼路の中心に成って居るこの街には、   Madridを起点とする巡礼路が南から入って来ており、また僕の歩いて居る道とは異なる Real Camino Francesと呼ばれる、南寄りの道がある。此方の方が何か正当な巡礼路の響きがあるが、案内書の正規の道はVia Romanaと呼ばれる北寄りの道である。町をでると直ぐに大きな川を渡り、其の先30分ほど歩き、車道を横切ると、直ぐに左と右に道は分かれる。右に進み、高速道路を横切ると、道幅20m程の道が荒野の中に続く。ローマの騎馬軍団が2−3列程並んで通れる幅がある。畑には刈り取り前のトーモロコシが見える。鉄道を横切り、更に進むと、Fuente del Peregrinoがある。巡礼者の泉を意味する。同じ様な水飲み場は、これまでにも彼方此方にあり、飲み水に不足することは先ずなかった。これらの場所は案内書にも書いてあるので、余計な水を持ち運ぶ必要も無く、非常に有難い施設である。多くの場合、木陰や、椅子やテーブルの備えもある。休憩の必要な人に有難い場所であろう。

泉を通り越し、20分も歩くと、今日の終点、Calzadolla de Los     Hermanillos(人口200人)である。市営の宿に泊まる。5Euro.
農業の集落で、町には彼方此方にトラクターが見られ、ある所では自分とトラクターを映して行けと、ポーズを取る農夫も居た。夕方宿の管理者がローマの遺跡を案内をして呉れる。ローマ人の作った、道や道標、水道の跡である。又、この集落は殆どの建物が石ではなく、土壁と煉瓦で出来て居り、これもローマ人の知恵が反映されているという。土に石を混ぜ、繋ぎには麦藁を使い、壁を厚くすることにより、暑さや寒さ対策としているのだそうだ。ローマ人達は行く先々で、土地の材料を使い、高い技術の建築物を残したのである。

09.29:出発と到着の記録は無いが、通常の7時頃には歩き出したであろう。集落を出ると直ぐに運河を渡る。次いで道路を横切ると、変わり映えのしない、農地の中を延々と歩く。其の先20キロ地点まで集落は無く、4度ほど小川を渡る。集落を過ぎ、やや降ると車道と平行な道に成る。其の先運河を渡り、左折して更に車道と平行に進み、目的地Mansilla de las Mulasの集落(人口1800人)に付く。今日も公営の宿に泊まる。5Euro.宿は出来る限り、目的地の終点の宿に泊まる事にしている。これは案内書の明日の起点はここをゼロとして距離表示が成される為である。今日も略平らな起点900m終点800mの24.5kmを歩いた。

後半の15キロは前後に人の影を見ることもなく、中間地点を過ぎた当たりで、列車が一本通り過ぎたのが人間社会の存在を認知出来た唯一の出来事であった。
終点の町が見え下りだす頃、雨が数滴落ちてきたが、それで終ってしまった。只遠くには黒い雲がありその下は雨である事がハッキリと見て取れた。雲の真下に居なくて幸いであった。
写真を見ると昼前後に着いているようである。宿の入り口には僕のリュックのみが転がっている事が其の証拠だ。こんな時は外部記憶装置としてカメラの存在価値が分かる。

町の名前Mulas(壁)が暗示する様に、この町は城壁の町なのだ。建築用の石が少ないので、城壁の主要材料はレンガである。城壁に沿って一回りし、町の入り口のアーチはこの城壁の一部である事が分かった。教会も幾つかあるが、特に変っているのは本体の上に乗っている尖塔部が傾いでいる教会である。何か、尖った帽子を斜に被ったヤンチャ坊主の様だ。帽子の下部の本体部にはコウノトリの巣が複数あるのも何か滑稽に見える。
久し振りに日本の年配の方と同宿であったので、上等の肉とワインを買い、ステーキディナーを楽しんだ。名前は聞いたが全く覚えて居ない。僕には十分な友達が居り、これ以上新たな友を作る意思は全く無いのだ。

09.30:7時30分に歩き出す。此処2−3日急に寒くなり、昨日当たりから吐く息が白く見えるようになった。手袋は薄手のものしか持ってきておらず、窮余の策として、右手に左手の手袋を重ねて履き、左手は靴下一足分を履いて間に合わせる事にした。家に帰れば南極対応の物まで何十足もの手袋があり、これ以上死後のゴミを作る事は何としても避けたいとの思いからである。

行く先は大都市Leon(人口130000)で、18.6km先である。略平らな高原を北東に向かい進む。最初の10キロは略平らで其の後4キロの間に約100mの登り、後は下っていけばLeon(820m)である。大都市に近く略車道に沿って平行に進む。遍路道は時としては車道から大きく離れ、また近付き、交差し、縄をなう様な感じでLeonに向かう。途中川は細い物も含め3本、運河を一本渡る。最後のTorio川を渡り、高速を越えるとLeonの町である。その後略真っ直ぐに進むが、町に入り一時道に迷う。日曜日なので店は閉まって居り、中々人にも会わない。会った人2−3人に訊いて、ヤット正規の道に戻る。町はローマ人が作った城壁で囲まれており、そのMoneda門を潜り、旧市街に入っていく。この町も祭りの様で、着飾った人の姿を見かける。11時10分にMadras Benedictinas,修道院営の宿に付く。辺りは全部修道院の建物だ。強大な財力があるのであろう。やや待って、受付を済ませる。洗濯を済ませて、散策に出かける。

 

宿を出ると二つの大きな教会がある。更に其の向こうには大聖堂の尖塔が見える。其方に向かって進む。道は人が一杯で、途中の飲食店は何処も大勢の人で賑わっている。巨大は大聖堂の東側の広場を見ると大きな旗を掲げた人々が行進しており、何か重大なデモが行われて居ると思ったが、直ぐに祭りの行進であることが分かった。昼食は祭りの屋台で、現地の人たちが食べているソーセージとパンを食べ赤ワインを呑んだ。
町にはこの他にも大きな教会が二つある。広場も彼方此方にあり、人々の顔を見る限り、この国が経済問題を抱えている陰は微塵も無い。生活環境の整った豊かな国のように思える。

城壁内を一回りし、明日の町からの出方を確認して、宿に戻る。宿の前にも小さな広場があり、広場一杯に馬車や牛車が集まっている。先ほどは殆ど人も居なかった広場で、その代わり様に驚く。短時間の間にこれ程多くの牛馬の車が整然と広場一杯を埋め尽くしていたのは驚きだ。牛や馬は独特の飾りを付けて、華やいだ雰囲気が一杯だ。

一旦宿に帰り、夕食に町に出た時は、先ほどの牛馬の車両は姿を消しており、黒い丸石の石畳が残っていただけである。
空は快晴に近く、町で見た温度計は12−17度であった。この祭りの後は秋が一層深まる気配を感じた。この辺りの緯度は日本の室蘭辺りに相当する。

10.01:今日の未明を境に冬時間となる。1時間遅らせた時計で、7時40分、昨日までの時間では6時40分に歩き始める。1時間遅らせても、朝の明るさはそれ程変わった感じがしない。之には2つの原因がある。一つは毎日日が短く成って居る事、もう一つは西に向かって進んで居る為、少しずつ日の出の時間が遅く成って居る事だ。

昨日を基準とした時間でもやや早く出発したことに成るが、満月の残光が残って居り、余り早く出た暗さは感じなかった。石畳に響く杖の音を聞きながら、大聖堂やSan Ishido―roを通り過ぎ、左に折れ市の南側を通る川を渡る。吐く息が白く見え、手は冷たい。零度近くまで下がっている様だ。

大きな公園の中の立派な道を歩き、車道と鉄道を横切る。小さな礼拝堂や遺跡を通り過ぎる。道は登りと成って居る。Leonは北東南西の方向に長く広がる町で、宿を出て9キロ先までその市内の様である。
坂を登り切り車道を横切ると、巡礼路は3つにわかれる。標準とされている一番南寄りの道を歩く。標高は900m、その後やや降って川を渡る。また登り、900m台の所々に木の生えた枯草の高原を歩く。遠くの方には無数の太陽光発電版が見える。Spainは日射量が多く、これも有力なエネルギー元として大々的な投資をしているのである。
23.1km先のVillar de Mazarife(人口400)に昼前に着く。民営の宿に泊まる。5Euro.

10.02:宿でゆっくりと日の出を眺めてから、8時40分に歩き出す。目的地は32.1km先のAstroga(人口12000)である。この間標高800−900mの間の上り下りが3度ある。
高い薄雲が見られるが、天気は良好。朝は寒いのでWindbreakerを着て歩き始めるが、10時位には脱ぐことに成る。手袋も同じだ。

東から西に500km近く移動してきたが、この間に徐々に違った作物を見て来た。之は地形、土壌、降雨量等により、その土地に適した作物を育てる人々の知的選択の結果であろう。降雨量が少ない事、及び国土が広大な事で、略何処でも単作、一毛作である。勿論、麦畑が圧倒的に多い中、向日葵、トーモロコシ、その他野菜など作って居る所も多く見られる。只、主力作物は地方により限定されている。東から順に、麦、葡萄、それにこの先圧倒的に多く成るトーモロコシであろう。今歩いて居るこの辺りがトーモロコシ多作地帯への境目となる。土地は痩せており、余り良い作物は育たない様だ。又、過去の森林事業の過ちを正す、植林事業がこの先見られるようになる。

集落を出ると、直ぐに枯草の原野となる。1時間ほど歩き、道路を横切る。道は略平らか、緩やかな下りである。運河を2度横切り、鉄道を超え、又運河を渡った先で車道に並行に暫く歩く。長大な石橋がかかる川にでる。石の芸術とも云うべき見事な橋だ。渡った先には宿の幾つかある集落である。此処までで15キロ強、略半分の行程を歩いたことに成る。渡って来た運河は交通の他、灌漑用にも使って居る様だ。

登りが始まり50分程で丘の頂点の小さな集落に着き、また下る。直ぐに又登って行くと頂点は大きな十字架のある見晴らし台に成って居る。Astrogaの町が前方に見える。ロール状にした干し草や、松を植林した原野も広がる。山を坊主にして利用したが、弊害が出たのであろうか、この様な植林はこの先可なりの面積に及ぶ。人間の開発と称して居る物は,所詮略奪であり自然破壊なのだ。
乾いた大地を下って行くと、途中に私設の休憩所があり、水や食料を売っている。休んで居る人も多いが、僕は先を急ぐ。日中日差しは強く、まだまだ暑い。

Astrogaの町は小高い丘にあり、道路を横切る螺旋状の階段を使い町に近づく。町を暫く上って行く。立派な石造り建物の多い町だ。入り口の前に等身大の旅人の像の立つ協会営の宿が今夜の塒だ。5Euro.
荷物を見ると、Head Lampが無いことに気付く。今朝出る時に忘れた様だ。之は無いと朝の出発準備は不可能なので、買うことにする。彼方此方探し、ヤット探し当て、45Eu−roの物を買う。安いの高いのと言っている場合では無い。
この街には南からもう一つの巡礼路が入って来て、合流する。巡礼の道はSpain国内だけでも10以上あるのだ。

 

西に少し振れた南北に長い町で、城壁で囲まれている。歴史は古く14世紀に始まり、浴場跡などのローマの遺跡が幾つか残っている。教会は宿の直ぐ傍のSan Franciscoの他,Bartholome,Fatima,その先にはSt.Maria大聖堂がある。博物館も多く、皆立派な建物だ。彼方此方にある広場(Plaza)もそれぞれ立派である。

10.03:7時50分出発、11時30分、終点Rabanal del Caminoに到着。距離21.4km。900mから出発し、終点は1155mの全体に登りの歩きだが、キツイ登り下りは無い。車道に並行している道で、迷う心配も無い。民家、宿もほぼ5キロ毎にあり、安心して歩ける所だ。耕作地は殆ど無く、原野のままである。前方には稜線も見え、風車も見え出す。
集落は丘の中腹にあり人口50人と小さいが、巡礼の宿が4軒、ホテルが2軒ある。協会営の宿に泊まる。5Euro.

10.04:7時15分歩き出す。月の残光は可なり明るく、思ったより寒くない。晴れて居り風もない。今日はSantiago道の最高地点を超える日だ。起点の標高は1155で、宿を出ると登りが始まる。前方が朝日で紫色になり、後ろを振り返り、日の出の写真をとる。石の多い原野の道をあるく。巡礼の道は車道と略並行して西に向かう。1時間ほど歩くと宿が3軒ある集落に着く。道の最高地点は更にその先で、高い鉄塔の先に付いた十字架が見え隠れする。案内書には1505mと出ているが、之が歩いて居る道の最高点なのか、鉄塔の立っている地点なのかは定かでない。鉄塔は道より更に高い所に立っている。鉄塔まで行かずに下り出す。20分程歩くと又宿がある。やや降って又登ると、急な下りとなる。大小、石も多く、勾配は険しいので慎重に降りる。足でも挫いたら旅の終わりだ。

30分程で集落に着く。此処にも3軒の宿がある。集落の舗装の道も坂はキツイ。更に下って行くとまた、集落の黒い屋根が見えて来る。40分程で着くと、この集落にも宿が一軒あった。次の集落が今日の終点Molinaseca(人口800)だ。町の手前には川があり、此処にも立派な石橋が掛かっている。泊まる予定の宿は町の外れにあり、町を通り越して行きつくと満杯だという。12時40分。300m程引き返して、民営の宿、Santa Marinaに泊まる。7Euro.

距離は26.5km、起点1155m、最高点1505m、終点610m、この間に2度の起伏がある。
宿の主人は四国霊場を歩いた事を誇りにしていた男であった。宿から少し町に戻った路傍には噴水の中に立つ巡礼の石造と2009年に建てられたJapan−Spain Camino友好記念碑が立っていた。
 
10.05:今日の距離は30.7kmとやや長いので、早めの6時50分に出発する。起伏は500−600mの間の緩やかな上り下りで、問題には成らない。標高が下がり、人の生活により都合が良く成ると、集落は大きく成り、その間隔も詰まって来る。車道も何本も通る様に成る。これらは案内書の地図から読み取れる今までとは違った点である。当然農業の形態も異なって居る事が予想される。

宿を出ると徐々に下り、1時間も経たずに、橋と鉄道を渡り、大きな町Ponferrada(人口62000)に着く。見事な塔のあるお城のある町で、大きな教会も幾つかあるが、ここは通過するだけの町である。街灯が未だ点いている町の中の輻輳する道を案内の印を探しながら正規の道を辿る。道は大きな3つの教会の前を通り、郊外へと続く。其の先には又次の集落がある。集落は略切れ目なく続いている。

農作物も野菜等を含め、多様な物を作っている。葡萄畑もまた見られる様になった。集落を結ぶ道は舗装道路であるが、車は殆ど通らない。何処か日本の田舎を思い出させる道でもある。25キロ先のやや大きな集落の外れで川を渡ると登りとなる。途中に最終目的地までは200キロを切った表示が出て居た。何時の間にやら600キロ歩いた事に成る。

此処から先の斜面は全部葡萄畑である。Santiagoの道の両側には白や赤の実った葡萄が沢山成って居る。収穫の時期であり、10人程の人が取り入れ作業を彼方此方の斜面でしている。彼らは全部色が黒く、外国からの労働者の様だ。地理的に近いアフリカか、言語の同じな南米からの季節労働ではなかろうか? 時折収穫したブドウを満載したトラックやトラクター牽引車両が埃を上げて走り去る。
目的の集落は見えてから中々近く成らない。丘の裾野を廻り込んだ道を歩いているからだ。終点Villafranca del Bierzo(人口4000)に13時50分に到着、公営の宿に泊まる。6Euro.

風も無く、略快晴の秋晴れ、快適な一日であった。朝方もそれ程寒くは感じなかった。10時頃通った集落の温度計は11度と出て居た。この位の気温が歩くには適している様だ。

10.06:6時30分暗いうちから歩き出す。今日の行程は30.1Kmであるが、登りの合計が600mで下りは0の為、平地換算では36.1キロに相当するからだ。之は案内書に書いてある。100mの垂直移動は500mの水平移動に相当すると考えるとこうなるのだ。只僕はこの距離の換算方に疑問を持つ。登りは考慮しているが、下りは考慮外である。同じ1キロでもなだらかな下りであれば、間違いなく早く歩けるが、これは換算距離に入れてないのである。

宿を出て緩やかに登る原野の道をHeadlampの明かりを頼りに歩く。1時間半近く歩き、車道を横切る。更に15分ほど歩き宿のある集落を通過する。其の先は車道に並行する道と成り、2時間程の間に、6−7軒の巡礼宿やホテルを通過する。空には雲がかかっているが、降りそうでは無い。
25キロの手前から登りが急に成り車道から離れた道を歩く。次の宿のある集落で又車道に突き当たるが、直ぐに離れた道と成る。歩いて居ると、遠くに高い橋脚を通る車道が時々見える。

2キロほど先には又宿がある。其処から先は車道を歩く。目的地は見えて居るが、回り込んでいるので中々着かない。車は偶にしか通らないので気には成らない。寧ろ、車の行方を追うことにより、道が何処を通って居るのが分かり車の往来は歓迎だ。標高は1200mを超えて居り、霧が出て、やや暗く成るが、降られることも無く、無事標高1330mのO’Cebreiro(人口50)に到着。14時丁度であった。

この集落は今までで一番変わって居る。どの家も石造りで、屋根は殆ど藁葺なのだ。黒い板状節理の石葺きの家もあるが、藁葺家が圧倒的に多いのだ。それに屋根の形が変わって居り、殆どが円形である。之は建物が円形に出来て居る事にもよるが、他では余り見たことが無い。

何日も歩いたCastila Y Leonはこの手前2キロ程の所で終わり、ここは最後の行政区Galiciaと成って居る。Galicia県営宿に泊まる。5Euro.

10.07:7時50分宿をでる。昨夜少し雨が降ったが、今朝は霧が掛かった状態で
軈てこれも解消し、良い天気となる。舗装の車道をなだらかに下って行くと1時間の内に2軒の宿を通過する。其の先も20−30分毎に宿のある集落を通る。道は車道からは離れて土の道に成って居る。周りを見ると、赤茶けた蕨が一面に生えている。人が取ることも無く、放牧の牛も食わないので、繁茂しているのであろう。これ程多くの蕨は他では余り見る事はない。

15キロを過ぎると、下りとなる。Galiciaに入ると酪農農家が多く成り、集落に入ると牛糞が路面を覆っている所が多く成る。牧草地と牛舎の間を多くの牛が、毎日往復する為である。
今日の目的地までの距離は20.7キロ。Triacastela(人口900)の一番手前にある県営の宿に昼前に着く。5Euro.立派な宿泊棟が3棟あり、その真ん中の出入り口に荷物を降ろしCheckinの時間を待つ。標高は600mまで降りてきているので、暖かである。あるものを齧り、受付の時間を待つ。顔見知りの仲間も続々集まる。宿は道からやや降った所にあり、道との間は原っぱに成って居る。寝転んで待って居る者も居る。

この街には宿は4棟あり、100人余りが宿泊できるが、教会の他、見るべき建築物は殆どない。県営の宿の台所は貧弱で、鍋釜は無い所が多い。コップやグラスも無い所が多い。この為、折角のワインもラッパ飲みするしかない。僕は之をGalician Styleのワインの飲み方だと名付けた。あるもの全てをワインのツマミとした。ナッツ類、バナナ、葡萄、バナナ、ネクタリン、イワシ、マグロ、ムール貝の缶詰、チーズ、生ハム、ソーセージ、兎に角店で手に入る全てが、ツマミと成った。

買い物をしていると、日本の食料品の品質の良さ、必要以上の高さに改めて気づく。此方では粒揃いとか大きさは全く考慮の対象に成って居ない。大小様々雑多な形状のものが同じ箱に並べられており、これらを買い主が必要なだけ目方に掛けて売って居る。鮮度も基準の対象外の様だ。箱で入荷したものを売り切れるまで並べて置く。この為、往々にして、中まで干からびている玉ねぎ、種が黒く成って、表面は皺が入る程干からびたピーマン等を買わざるを得なくなる。卵も然り。表面に鶏糞を塗したものは珍しくない。良く見ないとケースの中で割れて居る物も売って居る。正に所変われば、品変わるである。

10.08:7時10分25.0km先のSarria(人口13000)を目指して出発。車道に沿って5キロ先のSan Cristoboまで歩く。小路に入り川を渡り、農家の母屋と物置小屋の間を登って行く。細い道を延々と上って行く。暫く経っても次の標識が無い。おかしいと思い、川まで戻り、改めて地図を見る。間違いは直ぐに分かり、正規の道に戻る。この間90分程余計に時間を使う。改めてOribio川に沿い、細い道を30分程歩く。車道と平行な道に成り、10分ほど歩くとホテルと巡礼宿3軒ある集落を過ぎる。尚も車道に沿って15分歩いた所で、細い道に入る。先ほどの川を左に見て、木立の中の道を緩やかに下って行く。1時間ほどで道は車道と並行になる。その先直ぐに宿がある。其処から30分程でSarriaの町と成り、民営の宿がある。更に下ってSarria川を渡った先に県営の宿がある。14時に到着、直ぐにCheckin出来た。5Euro.

丁度中間地点辺りで小雨に会うが、濡れる程では無かった。その後は曇りとなったが、夕方には晴れとなった。大陸の北西特有の天候であろうか、天気の変わり方が早い様だ。
川沿いの集落では黒い鉄平石の様な石で屋根を葺いている家があった。この辺りの屋根の殆どは板状節理の石で造られている。

町にはホテルや巡礼宿は10以上あり、多くの人が訪れる町であることが分かる。巡礼路に沿って大きな教会がり、明日の町からの出方を確かめる為もあって、西の外れまで行ってみる。もう一つの川があり、明日の始まりはこの川を左手に見て歩くことに成る。

10.09:7時10分出発、22.9Km先のPortomarin(人口2000)を目指す。17キロ辺りまでは登りで、この間に高度は250m強上がる。其の先5キロで300m下った所が目的地だ。
町を出て10分程川沿いに歩き、其の後川から離れ鉄道を渡り、暫く登っていく。間も無く車道に突き当たり、車道に沿って歩く。20分程で宿が3軒ある集落を通る。其の後直ぐに車道から離れた道になる。

出発の時は小雨が降って居たが、10時には止み、晴れて来た。道は土の道で、両側に石の柵が出来ている所もある。畑には人の背丈ほどもあるキャベツの葉っぱの様な植物が植えられている。之は何日も前から彼方此方で見ているが、葉っぱをかいて食べる様だ。
石がゴロゴロして、歩き難い道で乳母車に子供を乗せて歩いて居る家族を追い抜く。3−4歳位の女の子は乳母車を押し、前に進もうとしていた。
15キロ手前からは車道を平行に登って行く。17−8キロ辺りまで登り、其の後5キロの間に300m下り、長い橋を渡り、其の後やや登った丘がPortomarinの集落だ。地図にはMino川が此処では湖の様に書かれているが、これは雨季で水量の多い時を示したものであろう。通った時は川には僅かの水が流れて居るだけであった。

途中Santiago迄100キロの石柱があり、其処には一足の靴と若干の衣類、十字架等が置いてあった。更に歩き、乳母車の家族と会った辺りの石垣には沢山の靴下、松ぼっくり(ローマ時代からの繁栄の象徴)、衣類、大きな十字架等が見られた。余り綺麗な風景では無いが、目的地に近づいた巡礼者の感謝を表したものなのであろう。
川を渡り、急な階段を上り、左に折れると2軒の民営の宿がある。11時50分に着き、其の内の一軒に荷物を預けて、町の散策に出かける。日曜日で市が開かれている。果物、野菜、パンその他色々な物を売って居る。屋台でラムを焼いてもらう。7Euroと云うが骨付きで可なりの量があった。ワインを飲んで10Euro.ここではタコも焼いて売って居た。この様な店は他にも4軒出て居た。

この後先ほどの宿に行き、荷物を引き取り、更に上の県営の宿にCheckinする。5   Euro.その後、又市に行き、パンをかう。何時もは毎日50cm程のバゲットを買っていた。0.5Euroで1日持つ。此処でのパンは丸く大きい。細長いのもあるが、どれも2Euroだという。直径が25センチ暑さは7−8センチあるパンをかう。ずっしりと重く、何日も持ちそうだ。
宿には2本のクルミの木があり、落ちていた実を拾う。此方のクルミは殻が薄く、2つのクルミを両手の平で押し付けると簡単に割れ、そのまま食うことが出来る。10個ほどのクルミを食べる。もう満腹である。

10.10:6時半出発、26.1km先のPalas de Rei(人口4500)を目指す。起点から15キロまでに400mの登りと、その後2−3の登り下りがある。
集落を出て川を渡る手前でやや迷うが、直ぐに正規の道に戻る。木立の中の細い道を1時間以上歩く。小雨が間欠的に降っている。其の後暫く幅の広い車道を歩く。車は余り通らない。2人の韓国人と前後しながら進む。お互いに道標の確認が出来るので安心だ。彼らは分厚い韓国語の案内書を持って歩いて居る。日本には未だその様な物はない。集落の名前を確認しながら前進する。道標の数字も段々と小さく成っていく。Galiciaは雨が多いので、沿道にはキノコも出ている。

天気が悪く、視界も悪いので早く目的地に着きたいとの思いで終始先を急ぐ。11時半に到着し、民営のBuen Caminoと云う宿に泊まる。10Euro. 県営の宿も傍にあったが、此方の宿の方が、濡れた物を屋内で乾かせる場所もあり、又台所の設備は格段に良かった。
雨脚は午後更に強まる。
Santiagoの道も残り70kmを切る様になった。後3日の行程だ。そろそろ最後を如何締め括るかを考える必要がある。取敢えず明日は標準行程の3キロ先のArzua迄行こう。29.4kmだ。12日は標準行程のArca do Pinoから15.5キロ先のMonte del Gozoまで行こう。距離は34.7kmである。13日は最後仕上げの日で、4.6キロ歩き、Santiago de Compostela入りをしようとの計画を立て、天窓雨音を聞きながら眠りに着く。

10.11:7時5分雨の中を歩き出す。目指すは29.4キロ先のArzua(人口7000)である。
宿を出て暫くは石畳の道をあるく。直ぐに土の道に変る。1時間ほど歩き川を渡る頃には明るく成り、雨は降ったり止んだりの状態になる。宿やホテルのある集落を2キロ毎ぐらいに通り過ぎる。2時間半ほど歩き、川を渡るとやや大きな集落があり、立派な教会が立っている。

先を歩いて居る巡礼者は皆ポンチョを着たり、リュックにカバーを掛けたりして、雨対策を確りとしている。この様な姿が本当の巡礼の姿ではなかろうか? 信仰心から雨風を厭わず、長い道を歩き、信仰の地を目指す。之が巡礼であろう。
更に3つの集落を通り越し、Arzuaに13時10分に着く。県営の宿に泊まる。
雨が降って居たのは歩いて居る時間の3分の1位だと思うが、到着後雨脚は強まった。運がいいのだ。

10.12:6時50分出発、34.7先のMonte de Gozoを目指す。濃い霧が掛かっており、Headlampの光で其の粒子の流れが見える。吹いている風と、歩く事による起こる気流の合成流の中の粒子の流れは驚く程早い。瞳孔の直ぐ前を瞬時に流れ去るからであろう。
幅2−3のm道は集落の中は石畳と成り、両側に石塀や民家がある中を通る。起伏は20キロで200m、キロ当たり10mとなだらかで、その上全体的には下りだ。前方の雲が赤味を帯びてくる。霧は上がって居らず、霧の中に層になって高い木が見え、起伏がある地形である事が分かる。木の層の間は霧で満たされており、墨絵の様だ。高い木はここ2−3日に見える様になったユーカリプタスの木でSpainが海洋国であった時代にオーストラリアからお持ち込み、移植したのであろう。

終点に近く成り、路傍には道標や彫像も多く成った。それに、途中難儀をして標準の行程を取らなかった人達も、最後に元気を取り戻したのか、歩いて居る人の数もこの2−3日
多くなった。又、石垣の所々には巡礼者が残していく感謝の気持ち(ゴミ?)も多く成った。靴、サンダル、帽子、T-Shirt,靴下、ズボンの他、途中で積んだ花等である。ある所では大きなアジサイの花も幾つか見られた。アジサイは日本原産の花で、西洋でも色とりどりの大輪の物が見られる。

周りには余り農地はなく、木立の中を歩く事が多く成った。霧が上がり、木立が途切れ、草や灌木の間を歩いて居ると、陽が指して来た。左手を見ると沢山の蜘蛛の巣に朝日が当たって輝いている。蜘蛛の巣は霧の滴で銀色に輝いて、実に綺麗に見える。何枚かの写真を撮る。

車道は何回か渡ったが、並行して歩く事は無かった。3時間余りは緩やかに上り下りし、その後1時間ほど下ると、標準行程の終点Arca do Pinoに達する。宿泊所が3つある集落であるが、通過する。木立の中の平らな道を40分ほど歩き車道を横切る。更に40分程進むと飛行場を回り込んで進む。其の先教会、宿泊施設を幾つか通り越し、車道と平行な道に成る。30分ほど歩くと、左手に巨大なモニュメントが見えて来て、今日の終点の近いことが分かる。モニュメントの傍には小さな礼拝堂がある。道に戻って更に500m程下ると入り口の門が見える。中に入ると、大きな広場があり、周りは大きな建物が取り囲んでいる。建物の一つは食堂だ。中に入って宿の受付は何処だか尋ねる。一番上の建物だと教えて呉れた。広場の中央は階段状の大きな道になって居り、その両側に20棟ほどの建物が並ぶ。上まで登り受付を済ませる。5Euro.到着は14時10分であった。
買い物に出かける。何のことは無い、泊まった建物から上に歩き、ちょっとした草原を歩くと先ほどのモニュメントがある。距離は150m程だ。

途中奇妙な建造物を見つける。今までには見た事が無い物だ。石の堅固な基礎の上にその上に1m程の高さの石の円柱を立て、その上に茸の傘の様な石を乗せ、その上に小さな建物が乗って居るのだ。建物は3−4m X 1mの長方形で高さは2−2.5mであろう。屋根は長手方向の切妻でその一方の頂部には十字架、もう一方にも何か飾りが付いて居る。壁の部分は透けて見える隙間がある。この様な物が隣接して2棟あった。何の為の建物なのであろうか?

巡礼路を今朝来た方に戻り、小さな店てワイン等を買う。1番高い12Euroの物を買って戻る。後はGalacian Styleのラッパ飲みである。後残りは5キロ足らず、王手を掛け絡め捕ったも同然の状態だ。

10.13:8時15分にSantiago de Compostelaを目指して歩行開始。目的地は約5キロ先、100m下方にあるが見える訳ではない。空がピンクに染まり、高い梢に日が当たり出すのが見える。舗装が石畳に変る頃、漸く高い建物の屋根に陽が当たり出す。土曜日の朝で、余り人通りは無いが、両手に袋を持った買い物帰りらしい女性にであう。“Buen Camino!”と云うので“Gracias”と云って,擦れ違う。霧は殆ど消え、青空が広がった清々しい朝に成って居る。

立派な建物が多く成る頃、陽は屋根から壁に降りてくる。建物の谷間では朝日は登るのではなく降りるのである。夕日はその逆に成る。山でも同じ様な事が起る。
過ぎ去った地点は2度と来ることは無いので、又先を急ぐ必要もないので、ゆっくりと写真を撮りながら歩く。肝心の大聖堂に着く前にも立派な建築物は沢山ある。巡礼の道は大聖堂には裏側から接近する様に出来ているので、横を通り抜けて、聖堂広場に出て初めて気が付く。之が大聖堂なのかと。北西が正面に成って居る大聖堂は今写真を撮らない方が良い。回り込んで直ぐ傍にある、巡礼事務所に行く。入り口に16か国後で表示が出ているが、皆ヨーロッパの言語で、東洋系は一つもない。9時10分に到着。待つことも無く、各地のスタンプの着いた巡礼手帳を出すと、完歩証を出して呉れた。

町のその他の所を見て回り、鉄道の駅に行き、21日のMadrid行きの切符を買う。午後4時過ぎの物しか無いと云うので、それを買う。

大聖堂に正面から日の当たる午後に又行き、写真を撮る。前の広場は十分広く、全景が取れる。広場に居た男が、写真を撮ってやろう云うので摂って貰う。普通は断るが、世界遺産でもあるので応じたのである。只後で分かったがここでの一連の写真はレンズの汚れの為、一部がボケた様に写っていた。

宿泊は中心部から離れた丘の上にある教会営のSeminario Menor La Ascncionとした。12Euro. Menorは英語のMinor(小)に相当するが、大きく、立派な施設であった。
之で800キロ弱の一本の道を歩く事は完成した。之までに触れて居ないか、十分ではない事柄について述べておきたい。

標準の所要日数は33日であるが、之より2日短い31日で完歩した。之より早く歩く事は勿論可能であるが、前もって買ってある航空便の都合もあり、それに合わせて適当に歩く事が必要であった。海外での活動は余りギリギリの日程を組まない方が良いと僕は思っている。遊びの旅の日程にも遊びは必要なのである。旅先では何が起こっても可笑しくないのだ。突然の体調不良、異常気象、交通機関の不通や遅れ等々で計画通りに事が進まない事を考慮しておくべきだ。

会った日本人がある時まで2人であった事は述べたが、其の後新たに5人に会って居る。最後の方に会ったのは30代と思われる夫婦で自転車で略同じ道を辿って居た。彼等が、僕の会った唯一の夫婦連れで、サイクリストであった。その他若者1一人、壮年及び中年各1名、何れも男であった。若者は時間の余裕を持ち、ユックリ行程を熟しており、数日僕がFinisterra(地の果て)から戻る時に擦れ違った。

この他印象に残っているのはベニスからの夫婦である。略中間程の所で初めて出会った時の挨拶が何と”さようなら“だったのだ。年配の大男であった。意味の良くわからない外国語を使う度胸に恐れ入る。間違いは2−3日で気が付いた様だ。朝早く出立する夫婦で、途中で何時も”さようなら“と言って追い抜いた。其れで意味が分かった様である。英語も多少出来るので、ある程度の意思疎通は出来、何日も同じ様な日程で歩いた。フランス人の夫婦も2組、しばしば出会った。片方の亭主はベトナム人との混血で、英語も出来き、Mont Saint-Michelから通しで歩いてきたという。もう一組は全く英語は話せないが、Spain語を話し、何かと知恵を与えて呉れた。彼らも朝早く出発し、順調に行程を熟していた。韓国花嫁5人組も何とか目的地に着いた。その中の一人は完歩である。トテモ勢力的な人で、食材を買い時には鍋釜まで買って調理し、仲間の4人の面倒を見て居た。恐るべき女性の底力を見た様な気がした。

信者に取り教会は神聖な場所である。巡礼の旅は取も直さずこの神聖な教会巡りの旅であろう。僕も同じ道を歩き、同じ教会を見て回って来た。信者では無いが、教会は絵になり写真の対象になる。通り過ぎた何百もの集落には必ずと言っていい程教会がある。集落は教会を中心として成り立って来たのであろう。これら何百も教会を、遠景も含めて写真に収めて来た。

僕は教会建築の知識を持たないので、教会の頂部にある鐘の違いから幾つかの教会を紹介して置きたい。鐘もとより神の存在を人々に知らしめる為であり、教会への参集、祈祷の時間等を知らせる為の物であったのであろう。神の存在を知らしめる為には大きな音の出る大きな鐘の方が良い。大きな鐘を付けるには大きな教会が必要だ。この様な事から各地に巨大な鐘を沢山付けて大きな教会が作られて来たのであろう。パリのNotre Dame教会の鐘は修復中だが大きな物は13トンもあると言う。この様な巨大な鐘が搭屋に10個も付いて居たと言うのは驚きだ。
鐘の数は教会の格式をモットも良く表すものであろうが、実際の所4つ以上付いて居る教会の確認は外からは困難である。その理由はそれらは大教会で、地上から高い搭屋に付けられて居る為である。3つ以下の場合は、小さな教会で設置位置が低く、鐘は平面的について居るので確認は容易となる。
無鐘教会:見て来た中には無鐘の教会もある。小さな教会で元々は鐘が付いて居たのであるが、いつの日か信者が維持管理出来なく成り、鐘が無く成っている教会である。鐘のあった空洞が寂しげである。元々一つ付いて居たものが、ゼロに成って居る教会は5例、中には元々3つあった物が全く無く成って居る教会もあった。

一鐘教会:鐘一つの教会は多く、37あった。この内,一件は元々3つあった教会だ。
二鐘教会:十七あった。、其の内の一つは元々3つ付いていたものである。
四鐘及び五鐘教会:確認できたのは各々一件であった。
一件だけ小さいが11の鐘の付いて居る例があった。その他一寸した大きな教会は4−10の鐘が付いて居るものと思われる。

10.14:二−三日前から、Santiagoの完歩後何をするかを考えだした。帰りの便は二二日の昼過ぎMadrid発である。二一日にMadridに着けば良いのである。丸八日ある。大西洋に面するFinisterraまでは87.7km、標準三日の行程、其処から   Muxia周りで帰って来ると更に114キロ、4日の行程、計算上では1日の余裕がある。昨夜寝る前にこの計画を実行することに決めていた。

8時5分宿を出る。目的地Negreira(人口7000)までは22.4km、起伏の大きい地形で、之を勘案した距離は25.6kmである。宿から大聖堂までは1.5キロ程あり、大聖堂が歩きの起点となるので、之を含めると27キロとなる。起点から20分程は下りで川を渡ると緩やかに登って行く。其の先5キロは緩やかな下りで、小川を渡る。舗装された道は濡れている。朝霧が出て居たが、軈て曇りとなる。

暫く歩くと道は今までより狭く、整備状態も悪い。歩く人も少ないので余り、手を入れないのであろう。民家の前には昨日見た細無いが小さな建物が幾つも見える。昨日の物より、規模が大きく立派だ。栗のイガが道路一面に落ちている。実も落ちているので拾う。野生の栗であろうか、イガは大きくないが、中の実は大きい。これは棘が短く、イガが小さく見える為である。
農地は彼方此方にトーモロコシを作って居るだけで、道は木立や原野の中を通る。集落も2キロ間隔位で通り過ぎる。天気は変わり易く、青空が時として黒い雲に変わり、又晴れる。雲の動きは早い。目的地まで1時間ほどの所で小雨に会うが、大事に至らず、13時40分に県営の宿に着く。5Euro.

直ぐに買い物に出る。店が2時半から一時閉まるからである。栗を茹で、ワインを飲む。中々甘く美味しい。虫も付いて居ない上等な栗だ。明日からはモット栗を拾って夕食とすることに決める。
5時ごろからに激しい雨が降った。

10.15:7時半に歩き出す。雨は上がっているが、星は見えない。暫くの間舗装道を歩くと、土の道となる。木立の中を登って行く。軈て樹種の判別が付く明るさとなる。ユーマリプタスを含む広葉樹だ。
牧草やトーモロコシの畑が多く成り、酪農が盛んな地域である事が分かる。農家の庭先には巨大なトラクターも見える。又例の不思議な建物も随所で見ることが出来る。

厚い雲も消え、青空も見える様になる。右手前方に始めて湖らしきものが見える。700キロ以上歩いて来て初めての湖だ。Spainは日本と比べると遥かに乾いた大地なのだ。
木立を抜けると、一面のトーモロコシ畑が広がる。その中の道を歩いて居ると、農家から5−60頭の牛を連れた農夫二人に出会う。牛を放牧地に誘導していくようだ。牛には何も付いておらず、一人が前、もう一人は後で声を掛けながら通り過ぎていった。
長閑な農村地帯を暫く歩く。薄日が差すかと思えば、直ぐに雲が厚く成る。本当にここの天気は当てに成らない。雨が降らないのが幸いだ。

続いて放牧と牧草地帯を歩き、Oliveiroa(人口200)に着く。14時20分であった。距離は33.1km、標高差換算距離:35.5km
買い物をするが、小さな店で選択の余地は殆ど無い。ワインは4Euroと6Euroの2種類のみで、高い方をかう。栗は沢山拾ったので茹でて食う。残った物は仲間が食った。
夕方からは激しい雨が降り出し、夜通し降り続き、朝に成っても止まない。

10.16:激しい雨が降り続いているので、出発を見合わせる。今日は此処に留まると言うノルウェー人が居たので、僕もそうする事に決める。一か月に1日の休養日も悪くは無かろう。
休養するほど疲れて居る訳でも無く、遣ることも無い。結局、台所の隅に設えた専用の大きなフードの下で薪を焚き、暖を取りながら日長ワインを飲むことに成る。薪は近所の農家まで買いに行く。南京袋一杯3Euroが相場だと言うので、行って自分で詰めて居ると夫婦と思しき2人が出て来て、5Euroだという。ノルウェー人が昨日は3Euroだったと言うと、詰めた袋から2本取り出し、3Euroで決着。此処ではお持て成しの精神は感じなかった。一抱えの薪が、安いワインなら3−4本の値打ちがあるとは日本では考えられない。買った薪は水分多く、着火に苦労した。
宿は自然岩が壁の一部に成って居るが、その岩からも水が浸み出すほど終日大雨である。 

10.17:8時半31.2キロ先のFinisterraを目指して出発。雨は止み曇りとなっているが、1時間半ほど歩くと雨が降り出し、1時間半ほど続いた。道の低い所は大きな水たまりが出来、迂回しないと前進出来ない所も出てくる。

その間に原野の中の石の多い道を歩く。傾斜が付いて居る道は水が流れ、彼方此方に大小の溝が出来、大小の石が転がっており、歩き難い。海が見えて来る13キロ辺りから急な下りとなる。4−5キロの間に300m余り下る。溝や大小の石がゴロゴロして居り歩き難い。滑りにも注意が必要だ。通常でも要注意の印が案内書にも出ている下りである。雨は上がっているが、彼方此方滑る所があり、注意して降りていく。

小さな湾に面するCorcubionの集落を通り過ぎて、海岸線に沿って歩き続ける。道が突堤のある砂浜の近くを通る所に来ると、前を歩いていた4−5人のグループは突堤まで行き、手を挙げて喜んでいる。僕は先を急ぐ。其の後間も無く叩きつける様なにわか雨となる。折よく直ぐ傍にBarがあるので、そこに飛び込む。運が付いて居るのだ。コーヒーを頼むと小さなケーキを付けて呉れる。ケーキは無料だという。之もお持て成しの一つに違いないと有難く頂く。30分程で雨はやむ。この辺りから道は石畳となる。松の防風林の中を1時間ほど歩くとFi−nisterraの県営の宿に着く。14時30分到着。5Euro.

10.18:8時半に出発する。雨は止み曇りとなっている。昨日来た道を30分ほど戻り左手の道に入って行く。暫く農地の間を歩くが、軈て森林となる。昨夜宿で会った韓国人はMuxia周りでFisterraに来ており、水溜りが多く、難儀したと言っていた。昨夜も大分降ったので、覚悟しながら歩く。森を登り切る下りとなり、舗装の道となる。製材所があり、其処に居た犬が暫く付いてくる。シェパードで二匹の内の一匹である。松林の中の道で、左手から波の音がゴーゴーと聞こえてくる。海な可なり遠いが、波音が聞こえる。

其の後は長い間農村地帯を歩く。11時頃雨が降り出し、30分程でやむ。直ぐに青空となる。民家の前には例の得体知れない建物が見られる。一軒で複数ある所もあり、幅はどれも1−1.5mであるが、長さは15メートル程のものもある。舗装の道に出て曲がりくねった道を歩く。海が見えてからも湾曲して居り、Muxiaには見えて居ても中々着かない。町の少し手前でやや激しい雨にあう。14時丁度に県営の宿に着く。途中での水溜りは予想したより少なく特に困った事は無かった。
新しく広々とした宿で、屋内で衣類を乾かすことが出来た。台所も整っており、又栗を茹でて食べた。

10.19:8時丁度にOlveiroaに向かう。距離は32キロ。宿を出て浜辺に沿って3キロほど歩き、右に入り、細い道を登って行く。人が擦れ違えない程細い道で登りもきつい。登り切ると農村地帯となる。天気も良く気分良く歩くが、道を2度間違え、正規の道に戻るまで2時間程を要した。
今日も色々な道を歩いた。両側に石垣があり、真っ直ぐに続く砂を固めた歩きやすい道。水の流れる石だらけの道。芝生で覆われた道。大小の石が転がる道。溝が不規則に出来た道。懸念された通れないほどの水溜りの道が無かったのは幸いであった。

今日の収穫は二つある。一つは不思議に思っていた小屋の用途が分かった事である。歩いて居ると偶々扉の開いている小屋があり、其処に玉ねぎが幾つか吊るされて居たのである。小屋の下の基礎の部分にはかぼちゃが並んでいた。小屋は乾燥小屋だったのである。
僕は頂部の一方に十字架、もう一方にも飾りが付いて居るので、何か宗教的な用具の保管庫では無いかと思っていたが、飛んでも無い思い違いであった。

もう一つは簡単な飼料作りの方法である。家畜用の餌、Ensilageを作るには通常素材をサイロに詰め発酵させる。小さいころ遣ったことがあるがこれは大変な作業なのである。トーモロコシ等をカッターで刻み、吹上げ、上からサイロの中に落下させる。サイロの中には何人かが入って居り、足で踏んで原料中の空気を減らす作業が不可欠なのである。之は埃の中の重労働なのだ。

此処でのやり方は畑で専用の機械で切り刻み、並行して進むトラックに積み込む。之を畜舎の傍に運び放出する。その上を大型のトラクターでふみ固め、プラスチックシートで被いその上に古タイヤを乗せて終わり。いとも簡単で理に適ったやり方だ。この作業を彼方此方で見た。
Olibeiraに着く一時間程前から雨が降り出す。舗装の道を急いで歩く。五時に到着。道に迷った付けは大きく、一番長い32kmであった。

到着した時には雨は完全に上がって居り、近くの農家では親子が例の小屋にトーモロコシを入れて居る所であった。高い所に作り、側面に隙間を作り、奥行きを1m程度としていたのは、故無きことでは無く、乾燥に必要な条件を考えれば、必然的にあのような恰好に成るのだ。頂部の飾りや下部の茸は単なる飾りに過ぎないと僕は思うが、彼らは十字架の御利益で物が乾くと信じているのかもしれない。

10.20:8時半に出発、Negreiraを目指す。この区間は僅か6日前に通った全く同じ道を逆に辿るのであるが、何回か道に迷う。矢印を逆に辿るのは容易ではないのだ。矢印はある方向からは見えやすい所に付いて居る、裏を返せば、逆の方向からは見え難い様に付いて居るのだ。同じ方向を目指すドイツとスペインの若者の連れも略同じ様な間違いをしていた。天気が良いのは幸いであったが、間違いの為今日も宿に着いたのは5時であった。

10.21:7時半、霧の中を歩き出す。7日前と同じ道を引き返す。彼方此方で道を間違えるが、直ぐに気付き修正する。昨日の様な大きな間違えは出来ない。4時にはSantiagoに戻らなければ、電車に遅れ、日本への飛行機にも乗れなくなる。

昨日ドイツ・スペインの若者も前後して歩いている。途中で反対方向から歩いて来る彼らに出会う。何かおかしい。どちらかが間違っている。3人で矢印と道標を確認して歩くと同じ地点に戻っている。ループに成って居るのだ。車道に出て取敢えずSantiagoの方向に一緒に歩く。次に道標が見つかり、正規の道に戻る。
空は晴れあがって、日差しは強く成る。最後の8キロは辺りで又迷い、大きな車道にでてしまう。どうしようかと迷っている時に、自転車の男に会い、訊くとこのまま車道に沿って行けという。車は多く、日陰の無い道であるが、更に迷ってウロウロするよりは良いと判断し、車道を歩く。幾つかのロータリーを通り過ぎ、念の為バス停等に居る人に方向を確かめる。

町の新市街に入る。高層の集合住宅や巨大な病院が立ち並び、旧市街とは全く異なる街並みだ。信号を幾つか渡ると、漸く旧市街の見覚えのある所に出る。駅に着いたのは13時半であった。之で今回のSpainでの歩きは全て終わった。1000キロ以上歩いたことに成る。列車の時間までは3時間ほどあるが、遅れるよりは増しだ。残っている物を食べながら、列車を待つ。

この駅から歩きを終えた姿で乗り込む人は多く、略満員だ。全部指定席の高速列車である。車両は250キロの性能があり、実際ある区間では高速で走る。只、線路がそれに対応できてない所が多く、それらの区間では100キロ以下の走行となる。

乗ってから今晩どうしたら良いのか考えて見る。昨日まではMadridで一泊を考えて居たが、この計画は見直した方が良いと思えてきた。列車はMadridの北のChamartinに23時に着く。乗り換えてAtochaに行き、宿を探し、就眠するのは22日の早朝になる。同じ日の9時半に空港に着くには、8時には宿を出なければ成らない。寝ている時間は僅かしかない。如何も空港に直行し他方が良い様に思えてくる。車掌が来た時に空港は終日開いて居るかと訊くと、“Si,si!”と云う返事が返ってくる。“Yes,yes!”であり、空港直行を決める。空港でHomelessをすればいいのだ。寝袋もあるし、何も不都合は無い。

微睡の中に色々な情景が浮かんでくる。道中色々な人のお世話に成った事が次々に出てくる。道に迷いウロウロしていると、遠くから声を掛け指で方向を指し示して呉れた人は何人居た事か?又殆ど人が手を挙げると車を停めて道を教えて呉れたが、日本では車は止まらないのではないか?どんなに多くの人が“Buen Camino!”と声を掛けて呉れた事か?人々の親切が次々に思い出される。人に感謝する旅であった。

困った事は一つだけあった。ダニである。大抵は寝付かない前、首、腕等露出部を遣られる。半端な痒みでは無く、1−2時間は眠れない。アメリカでも同じ様な経験を2度している。今回は4−5日目から2−3日置きに食われ、之が3週間ほど続いた。他にも同じ被害にあった人があおり、大きなスプレーを買いベッドに吹き付けていた。ダニは2種類居る様だ。痒みは同様だが、其之後の腫れ方に違いが出る。一つは小さく腫れ水泡が出来、その後小さな瘡蓋が残る。もう一つは1−1.5cm程の円形の大きな腫れが出来、軈て消失する。どちらも1週間ほどで痕跡は消える。僕は用心の為皮膚科で薬を貰って行って対処したが、3週間の間は刺し傷が絶えなかった。食われる人と食われない人が居る様で、ダニも食い物には好みがあるのだ。その後は食われることが無くなったので、ダニが好まない体質に成って居たのかもしれない。応急処置用の準備は他にも用意していったが、1度の使うことは無く、さいわいであった。

蚊は居なかったが、歩行中小さなハエに着き纏われる事があった。特に酪農が盛んなGali―ciaに入るとハエは多く成った。アブは何故か居らす、幸いであった。
帰りの便は順調であった。途中でストックの行方を尋ねたが日本の窓口で訊けとそっけない返事であった。帰国後Lufthansaに尋ねると、所在分からず捜査中との事であった。杖は旅の伴侶是非とも探すよう要望する。紛失3か月後の12月初め、Lufthansaより電話があり、見つからず捜査を終了し,対価を払うとの申し出があったが、影も形も無く成る物では無いので、尚調査継続を要請し、決着を見て居ない。

旅の費用:航空運賃はMilageのポイントを使って行ったので、空港使用料として1万円弱。切符を買えば、1か月を超えるものはこの時期30万程に成る。滞在費(宿泊、食事、交通、雑費)、2万円(フランス)+9万円(スペイン)。総計12万円。滞在日数を考えると、最も安上がりな旅であった。


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平成24年10月20日掲載

12.08.07−23 Tour du Mont Blanc


8月5日奥武蔵を走り、翌日完走記を書き菊池さんに送付、その翌日は欧州一の山   Mont Blanc(4810m、緯度は稚内よりやや北)の周りを一周すべく、    Bangkokに向かった。山に行くには時期が一番肝心だ。天気が安定した時期は8月の中ごろまでであろうから、その時期に行くのが最善だ。

御存じの方も多いと思うが、このコースの大半は毎年8月末、Ultra Trail du Mont Blan(UTMB)のレースが行われているTrailである。全長約170キ、高低差+−10000m、を46時間で走るレースである。ヨロッパで一番高いMont Blantとその山塊は主だった七つの谷に囲まれ、十指に余る大氷河、百を超える急峻な峰を持つ。この山塊を一回りするのがTour du Mont   Blancで古くから多くの人に親しまれて来た山道である。

レースは一般登山者の為を考え大半夜間を走る事に成る。僕がレースより単独歩行を選んだ理由は2つある。一つは脚力の衰え、もう一つは景勝の地を夜中に走って何も見ずに、ただ通り過ぎるのは僕の趣味に合わない事である。

Bangkokで乗り継ぎ、日が変わってからZurich向けの便は飛び立ち、朝の7時半ごろに着く。早速空港駅に行き、Chamonix−Monr Blanc行きの切符を買い、電車、登山電車、バスを乗り継ぎ、Chamoniに着いたのは8月8日14時であった。

天気は快晴、暑いが先ず歩き始める事にする。背負っている荷物は約10キロ、これは食料、水などの量で2−3キロ上下する。荷物は衣類が大半で、零度以下になっても対応できる物を用意し、又雨具も十分な準備をしている。寝袋は夏用の軽いものとした。小屋泊りなのでそれ程寒くは成らないとの判断からである。

TrailはChamonixの北西遥か高い所を通っている。そこまではCable Carで登る事にし、切符を買う。23Euroであった。後で分かった事であったが、この切符は降りたPlanprazで乗り換え、更に高いLe Brevent迄のものであった。PlanprazでTrailを探し、南を目指し登り出す。日差しが強く周りの石が輝いて眩しく見える。全体には灰色の片状構造の石でガラス質を多く含んで居る様だ。左手に大きく見えるMont Blancは可なり低い所から雪があり、略全山白い山で、眩しく輝いている。これがMont Blancなのかと改めて感激する。登って行くと、Alpen Hornを担いだ男が降りてくるので、写真を撮らせてもらう。人に会ったらここでの挨拶は BonJour である。すれ違う時、追抜く時、必ずこの言葉を交わす。汗をかきながらLeBrevent(2535m)に達し、一層の高見からMont Blancを見るが、やはり5000mに近い山は高く、真っ白なその山塊は巨大で威厳がある。頂部の雪の下からは犬の舌の様に、溶けかかった氷河が幾筋か谷合に沿って垂れ下がって居る。この氷河も年々後退しているのであろう。

そこからは灌木が左右に生える、岩だらけの道を下り最終日に泊まるべく予約していた Refuge de Bellachatの横を通り、更に下って行く。この先はLes Houchesまで宿はない。7−8キロはあるが、何とかなるだろうと思って歩き続ける。下り出してから気付いたが、膝と大腿に違和感がでて、力が入らない。筋肉の疲れではなく関節に異常な脱力感がある。過去には無かった現象だ。途中狭い所があり、山側に  這いつく様に慎重に降って行く。険しい所は岩に鉄片を取り付けた足場が用意されている。薄暗く成る頃、Les Houchesの町に辿り着く。水の飲める小さな公園で一休み。その後宿探しをする。宿は大半予約していたが、一部予約が出来ない所があった。食事無で116Euroとやや高いが、2軒目のホテルに泊まる。

8月9日:Internetで購入した案内書によると、標準の歩き方は此処から11日を掛け、ここに戻る事になっている。昨日歩いた所は最終日の2/3の部分である。朝8時に出発するが山道に入るのに梃摺り、ウロウロした。同じ様に道に迷っている人も何人かいた。民家などに立ち寄り、何度か尋ねながら舗装道路を1時間ほど歩き、ヤット登り口に辿り着く。漸く歩くと道幅の狭い山道となる。やや雲はあるが、良い天気だ。木立の中を登って行く。Voza峠まで600m余りの登りだ。途中には放牧農家が何軒かあり、放し飼いの牛が長閑なベルの音を響かせながら食事中である。何故かスイスの旗が閃いていた。

広葉樹と針葉樹の混じった木立の道を登って行くと、巨木が根に土を付けたまま倒れて居る。最近大雨があったのだろうか?山道の標識は略良好で注意していれば道に迷うことは無い。Mont Blancを一周するTour du Mont Blancの他にそこから枝分かれする他のルートも目的地、到達時間を記した矢印が出ている。この他僕が歩く道には彼方此方にTBMや白と赤の横線の印が見られ、これに従って歩けば、迷うことは無い。

Voza峠(1653m)は開けた所で見晴らしが良い。大きなスキー施設がある。登山電車がここまで来ており、多くの人が訪れている。アルプスは電車の他,ケーブルカー、リフト等が可なり山奥まで入り込んでおり、天記さえ良ければ誰でも楽しめる様になっている。写真を撮り、Bionnassyに向かって下り出す。道は車の通れる広さがあり、たまに車にであう。周りの土地は牧畜に使えわれている。傾斜地であるが、干し草つくりのトラクターが何台か動いていた。下って行くと左手に氷河が見える。Bionnasーsy氷河だ。其の先、氷河からの水が流れる川をわたる。氷河が削ったミネラルを含む水は白くまた薄い灰色の奔流となっている。

道は砂利道や舗装道路と頻繁に変わる。幾つかの集落を過ぎ、下って行く。途中自転車で登ってくる人にも時々出会う。川沿いの木立の中を歩き、登って行くと、突然Les  Contaminesの町の広場に出る(16:30)。今日の目的地で、宿の手配の出来て居ない町だ。早速旅行案内所で宿の状況を聞く。安い所は既に満杯で、次を当たってもらう。二食付110Euroのホテルに泊る事にする。Checkinの時、明日の山小屋に電話をしてもらい、予約をして貰う。日本から出来なかった小屋であるが、OKであった。

Contaminesの町は川沿いの細長い町で、花と観光客一杯の町だ。朝は薄雲があったが今は快晴となって、何もかにもが綺麗に見える。ホテルのすぐ裏手はスキー場になって居り、冬も賑わうのであろう。
明日からの昼食用にチーズ、サラミソーセージに似た表面に白カビの出ているソーセージ、果物等をかう。夕食は何が出て来たかは忘れたが、普通の山行ではありつけない上等なものであった事は間違いない。

今日は8時間半ほど歩いたが、案内書では5−6時間と出ている。道に迷わず、健脚なら可能であろう。
08.10:宿の朝飯は7時からである。出来るだけ早く出たいので、荷物はその前に準備し、食事後歯を磨き、8時少し前に歩き出す。申し分のない天気だ。ホテルを出て、暫く舗装の道を下って行く。右に曲がって川べりの道を歩く。木立が続き、大きなキャンプ場があり、テントやキャンピングカーが沢山見られる。未だ早いので、人の気配はない。

道はダートとなっているが、幅は広い。朝の空気は美味しい。MonteJoieの谷合を緩やかに登って行くと、左手に小さな教会が見えてくる。教会は川の向こう側にあり、橋が架かっているが、渡って行くことはしなかった。橋にはGorgeの文字も見え、谷が狭く成って居る事を示している。そこからは登りがきつく成り、路面の状態も良くない。ローマ人が作った道と言われ、古くから利用されている谷合の道だ。路面は大きな一枚石で出来ている所も多い。更に登って行くと、渓谷は更に狭く成り、浸食された岩盤の深い所を水が流れているのが微かに見える。Cascade de Combe Noire(黒深狭滝とでも訳せようか?)である。長年の間に固い岩盤をあれ程までの深さまで浸食した水の力を改めて思い知った。流路幅は2−3mで複雑に蛇行し、長年の間同じ流路を流れる水はこの川幅のまま深さが何十メートルもの渓谷を作る。英語ではslot canyonと呼ばれアメリカのAntelope Canyonはその見事な例だ。長年に渡る自然の造形力は正に驚異だ。

 

更に登って行くと森林限界と成り、草、岩、苔、それに高山植物のお花畑の世界となる。道は石だらけある。隆起した石灰岩の変成岩が横からの圧力で略垂直に起き上がり縦縞となっている。水平に隆起していれば、平滑な面であろうが、凹凸の複雑な面となっている。

見えて居る山の頂部の岩肌は長年の風化により屹立し、人を寄せ付けない厳しい形状となって居る。頂部にはもちろん雪が見られ、深い沢には低い所でも雪が残っている。7億年前に遡る水成岩盤の生成、3億年前其れを押し破って隆起するMont Blanc山塊の花崗岩岩盤、更に1億年前にプレートの押し合いにより造山活動が始まったと言われている。山は地表に現れると同時に風化が始まり、その姿を変えて行く。今僕の見ている山の表情はこの様に長期の山の形成から風化の過程であり、地球の歴史から見れば瞬時を切り取った物を見て居る事に成る。噴火でもなければ、山の姿が見て分かる程変わる事は無いが、億年とは言わず万年、千年でも地表の姿は変わって行くであろう。1万年後の人が、ここで見るのは今僕が見ている物とは違った物であろう。

キャンプ場を通り過ぎ登って行くと、Balme小屋に辿り着く。多くの人たちが食べたり飲んだりして、山行を楽しんでいる。此処にもCamp場がある。更に登り続ける。峠に近くなると雪渓も見えて来る。300m程の雪渓を登り、更に登って行くと峠となる。Col de Bonhomme(好男峠、2392m)では沢山の仲間たちが荷を降ろし、寛いでいた。其の少し先にもう一つの峠があり(2479m)、其処から900m余り下った所が、今日の宿Refuge de la Nova(1554m)である。

 

下りは可なり急で、大きな岩石がゴロゴロしている。慎重に降りていく。周りの景色は美しく、遥か下に真っ青な湖も見える。アルプスの山は何処も人間の経済活動に利用されており、どんな高い所でも草の生えている所は牧畜に利用されている。只草を根絶やしにしない様、厳重な管理が行われている様だ。高山では一度禿地にしてしまえば、植生の再生は容易では無く、長期間を要するからだ。歩いて居ると、何処からとも来なく、長閑なベルの響きが聞こえてくる。

谷合にある小屋、Auberge de la Nova(Les Chapieux),に着いたのは3時半前であったが、既に本館の方は埋まって居り、新たに建てた小屋に泊る事に成った。初めてのアルプスでの小屋泊まりであるが、10人程の男女共用の部屋であった。枕は新たなカバーが用意されているが、マットには之とてシーツはない。各自持参のシュラフやシュラフカバーに包まり、この上に寝る。全体的には衛生上問題なく、清潔性は保たれている様だ。幸い、満杯に成らず、イワシの缶詰状態ではなく、不都合は無かった。

宿に着き先ずすることは洗たくである。汗をかくので、洗濯は必要だ。簡単に手洗いをして用意されている綱に干しておけば、夕方までには乾く。夕食は3コースで、良質共に先ず先ずと言える。朝はパン、バター、ジャム、ミルク、ジュース、ココア、コーヒー等でバランスが良いとは言えないが、量だけは十分に摂れる。宿泊2食付で38Ruro、安いと思う。

Tour du Mont Blancの概要を述べて置く。Mont Blancの山塊を一周する約170Kmの山道である。大雑把に云えばMont Blancを取り巻く北東南西に傾く軸を持つ楕円形の山道で、今日泊まるChapieuxが西南の外れで、今までは概ね南西に進んできたが、明日からは北東に向かって歩くことに成る。

08.11;7時半に出発し舗装道を登って行く。天気は今日も上々である。両側に尾根が続く狭い谷合の道で、太陽が山の頂上から谷間を照らすまで、山の表情が徐々に変わる。同じ宿から何十人かが思い思いに歩いて居る。大きなグループもあれば、一人で歩いて居る人も居る。舗装道路は4キロ余りで、小さな集落を過ぎた所で、橋を渡り山道に入り小さな九十九折れを登って行く。川を挟んで左手には大きな氷河が見える。30分程登ると小屋に着く。昔乳製品の加工場だった建物だそうだ。此処で休む人もおり、ここに泊る人も居るが、僕は先を急ぐ。


急な九十九折れは続く。樹界は遥か下なので、日陰が無く暑い。幾つかの小川を超え、石だらけの道を登って行く。下から見て来た氷河の先端の高さと同じ所まで登って来ている。未だ草は生えているので、何百もの羊を連れたおじさんが犬を従え、ここまで登って来ている。標高は2500mに近い。傾斜がややなだらかに成ると峠が見えて来る。

 

Seigne(2516m)峠に漸く到達。峠から見晴らしは素晴らしい。峠のこちら側がFrance、あちら側はItaly,国を分ける峠だ。国境の印の石が立っており、各々の国を向いた面にFとIの文字が刻まれている。広々とした峠で、沢山の人が、彼方此方に荷を降ろし、寛いでいる。自転車で登って来た人たちが何人も居り、峠でも自転車を乗り回している。イタリア側には真鍮で出来た円卓があり、各々の方向にある都市などの距離が刻んであった。天気は快晴、風も無く快適である。こんな日にここに居られるのは幸せ者だろう。

暫し休んだ後、Italy側に降りだす。国が変われば、当然挨拶も変わる。此処からはBon Journoである。傾斜は緩やかであるが、暫く降りると急になり川を渡る。こちら側の斜面にも沢山の高山植物の花が咲いている。用心しながら降りて行く。傾斜がなだらかに成ると、車も通れる道に成る。暫く歩いていくと、左前方高台に小屋が見えて来る。今日泊まる予約をしている小屋、Refugio Elithabetta、である。小屋の近くでは道路は遥か下を通っているので、左に折れて登って行く。丁度正午に到着。沢山の人が外のテーブルで昼食を楽しんでいる様だ。小屋に来れば、食べ物は十分あるのだ。大半の人は食事の後、何処かに行くのであろう。僕はここが今日の終点なのでChechinする。未だ誰も居なく、案内された部屋は最上階の屋根裏部屋で、通路を挟んで片側に15人のマットが用意されている。どうも奥の方から部屋を満席にして行くようだ。僕は一番奥の窓の傍のマットを選ぶ。荷物の置き場を考えるとここが一番いいのだ。マットの幅は90cm程で、殆ど目刺しの魚状に成って寝る。端の方が片側に人が居ないのでやや増しであろう。

洗濯をして物干しに干す。日差しもあり風も強いので2時間ほどで乾く筈だ。小屋を改めて外から見る。石作り2階建、屋根裏を含めると3層構造である。構造部である壁は元より屋根も全て石作りである。壁には砂岩を使い屋根は黒い片岩を使っている。どちらもこの辺りに余る程ある材料で、TBMにそった集落や町の建築は全てこの様な石材を使って作られている。

其の後周りの写真を撮る。小屋は2240mに立っており、氷河の先端が間近に見え、其処からは白い帯が長く続いており、流れの音も聞こえる。氷河が近年後退し、剥き出しに成った岩肌は岩石その物で灰色をしており、所々は赤い色をしている。引っ掻き傷を負い、血に染まって居る様にも見える。昔から地肌が出て居た所は苔や草が生え、最近剥き出しに成った所とは様相が異なる。

夕食は7時に皆一緒に食べる。食べ物は菜食主義者とそれ以外の2種類である。その日は、マッシュド ポテト、ポークソテー、それにイタリア風パエリアであったと思う。このパエリア風の米料理は記憶に鮮明である。サフラン風味の味は申し分ないのだが、米が半生と云うか本生と云うか、兎に角中途半端な生では無いのだ。イタリア人の云うアルデンテとは之なのかと其の時初めて気が付いた。イタリアのパスタやスパゲッテーには原さんも閉口していた。其れでも皆旨そうに食っているので、此方も負けては居られない。ガリガリ噛み砕いて胃に落し入れた。米を水に浸した物を食ったも同然だ。美味しい物は所により異なるのだ。我々が美味しいと思って海外の人に勧めるものでも、全く不味い物である可能性もあるので心せねばならない。
夕食が済めば寝る他ない。大部屋での就寝であるが、意外と不都合なことは無かった。

08.12:7時20分に歩き始める。日の出の方向に向かって緩やかに下って行く。朝日を受け水面が輝き出す。ダートの道であるが車も通れる幅がある。雲はややあるが、先ず先ずの天気だ。陽が指して来ると綺麗な花が彼方此方で見られる。マーモット(大型のジリス)の姿も見られる。朝の食事の時間なのだろうか? 道の両側に小さな池があり、周りの山を綺麗に映している。左前方に見えて居るのはMont Blancの南側の筈だ。雪が少なく、剥き出しの岩肌は険しい。暫く行くと舗装の道にでる。川に沿って下リ続ける。如何やら道を間違えた様だ。正規の道は一旦登ってから又下る事に成って居るが、下りっぱなしである。

 

更に下って行くと、登ってくる人に続々と出会う様に成る。このまま下ればCour―mayeurに着くかと訊いてみると、着くという。安心して下り続ける。暫くすると、道路に沢山の車が止めてある。車はそこから上には行けないのだ。さっきの人たちは此処に車を停めて、山に入って来たのだ。

其の先に観光客の施設があり、イタリアの青年が2人声を掛けて来た。一緒に写真を撮りたいという。彼らの写真に納まった序に、此方のカメラでも撮って貰う。僕は滅多に自分の写真は撮らない。見合いの写真に使える訳でも無し、自分の写真を見てニタニタしている年頃でもなく、自分の写真の必要性を感じないからだ。一人で旅をしていると,良く景勝の地を背景に写真を撮ってやると善意の申し出をして呉れる人は多いが、写真向きの顔ではないことを理由に鄭重に断っている。

彼らは山行を終えて居り、ここからバスで帰るという。更に舗装の道を緩やかに下って行く。両側に大木の生えた林間の道路で、広いキャンプ場もある。Parc Pique Nique(英語のPicnic Parkから来たものであろう)の看板も見える。木陰があるので、清々しい気分で歩け、汗はかかない。2時間ほど下ると開けた所に出る。この間車には殆ど出会って居ない。山の立ち上がり斜面で大工事が行われて居るようだ。中腹にも鉄塔やらクレーンが立っている。恐らくMont Blanc Tunnel(1965年完成、Chamonic Mont BlancとItaliyのCourma− yeurを結ぶ全長11.6Km)の大改修工事であろう。道が大きく曲がって居る所で、右側を見ると、道路の柵にMTBの文字と矢印があった。此処で又正規のコースに戻り、木立の中の狭い道を下って行く。又舗装の道に出る。川が流れており、白濁した水が流れている。Courmayeur(1224m)の町に入って居り、先ほどの工事現場はその遥か上になっている。更に下って教会を過ぎ、右に曲がると広場があり、旅行案内所がある。地図を貰い宿の情報も聞く。直ぐ傍に安い所があると親切に教えて呉れる。身なりに相応しい物を紹介して頂けるのは有難い。

Veneziaと言うHostelでBarもある。日本からもメールを送ったが、返答してこなかった所だ。行って見ると60絡みの余り商売気が無さそうな親父が朝飯付で37Euroだがと言うので、OKと返答。正午前であったが、Checkin出来た。

夕食は出さないのかと訊くと、その辺に沢山あるので勝手にしな、と素っ気無い。狭い階段を三階まで上った屋根裏部屋に案内してくれた。洗面台、机、ベッドが付いた細長い部屋で変形3畳間というところか? トイレとシャワーは2階で共用。老夫婦で遣っており、呑み客用に簡単な物は出すが、手の込んだ料理は面倒臭いのであろう。町は大きく、食べる所は沢山ある。但し、夕食は7時以降で無ければ出して呉れない。沢山客の入っているTunnelという店に行くと、2-3日前に会ったロシアの若夫婦も来ていた。大きなピザを食べ、ワインを一杯飲んで16Euro。

Courmayeurの町も美しい。殆どの屋根は地元産の片岩で出来ている。登山客や観光客で賑わっていた。谷間の町で、山の斜面には何本ものリフトやケーブルカーが見られ、夏でも動いているものもある。夏冬季節を通して観光客が来る町の様だ。

08.13:朝飯は7時半だというので、7時に出来ないかと前日交渉したが応じて呉れなかった。朝はお上さんがちゃんとしたテブルセッテングをして、コーヒー、パン、バター、ジャム等を出して呉れた。山小屋の雰囲気とは違い、優雅な感じがする。

8時10分に宿を出、教会の横から舗装の道を登りだす。暫くは舗装の道を歩き、出会う人に正規の道を確認しながら進む。道の両側には綺麗な家が立ち並び、観光地の雰囲気が漂う。
軈て細い山道に入って行く。渓流にそって暫く登り、左に折れ橋をわたる。広葉樹の中を登って行く。木の間越しに、深い谷の集落が見える事もある。同じ川をもう一度渡る頃には森林限界となり、見晴らしが良く成る。深い峡谷を白流が落ちて行く。岸辺は花がいっぱい咲いている。大きな石伝いに慎重に川を渡る。渡った所には牧畜用の錆びたトタン屋根の小屋があり、その周りも花でいっぱいだ。

見晴らしの良い所を暫く歩く。左手が谷となって居り、その向こうにMont     Blancの南斜面が見える。雲がやや多く、動きも早い。特に山頂付近では早いらしく、同じ写真は2度と撮れない。写真の妙は瞬間を切り取って固定する所のある様におもう。この為、雲の動きで刻々と姿を変える山の姿を沢山撮り、100枚以上撮ってしまう。

山道は狭いが、之と平行な細い道が何本も通っている所がある。道は人の為ばかりでは無く、牛の群が歩く道でもある。彼らの歩く道が、細い幾筋かの並行した道と成っている。雪崩防止の柵のある所もある。傾斜がきついので雪崩が起こりやすいのであろう。

Sapin峠(2435m)を超えると、直ぐに今日の最高点2584mに達する。此処からはGrandes Jorassesも見えると言う。雲がかかって居り、山頂の見える山は少ないので、今日は見ることは出来ない。
一旦下り川を渡り、再び登ると今日3つ目の峠(2542m)にでる。峠の名前は    Pas entre deux Sauts(二飛びの間の一歩)と恐ろしく長い。因みに最高地点の名前はTete de la Tronche(Troncheの頭)である。この様に長い地名はFranceやSpainでは多い。

一時間程降って行くと今日の宿、Rifgio Bonatti(2022m)に着く。沢山の人が海水浴場で見られる様な恰好で飲んだり、食べたり、日光浴をしていた。平らに成って居るヘリポートの辺りは海水浴場さながらである。山小屋は泊まるだけでなく、大自然の中で解放感を味わう所でもあるのだろう。

 

二時二十分にCheckinする。早いチェックインなので、ベッドは好きな所が選べる。今日は一つだけあった単独のベッドで寝る事にする。正面にMont Blancの氷河が窓から見え、この小屋では最上の部屋であろう。二食付43.5Euro.

08.14;7時10分に歩き出す。山では午前中に目鼻の着く位置まで行きついておく必要がある。午後からは雷の発生の確率が一般的には高く成る。天気が崩れた場合、無理をせずに対応が出来る。この為、僕は早い出発を心がけて居る。

雲が多く、高さも2500メートル辺りまで下がって来ており、山頂は雲の中だ。小屋を出ると草と岩の間の道をジグザグに登って行く。やや降って低い樹木の生えている所で小さな橋を渡る。其処からはまた登りで1時間ほどでElena小屋(2062m)に着く。ここからの山と氷河の眺めも素晴らしい。

此処から先も長い登りが続き、九十九折れに登って行く。天気も良く成り、日が指すようになる。雲も徐々に高くなっていく。小屋から出発したのか水着姿でストックを突いて歩いて居る女性もいる。TBMは色々なスタイルで歩くことが出来るのだ。小さな子供を何人か連れた家族、幼児を背中に背負って登って来るお父さん、町の中で見られる姿が此処でも見られるのだ。軽快な服装は恐らく、縦走を目指している人たちでは無く、近くの入り口から入り、余り距離の離れて居ない小屋を拠点に山を楽しむ人達であろう。

Grand Col Ferret(樽大峠、2532m)までは登りが続き、可なりきつい登りもある。美しい花、珍しい岩の形状、反対側の尾根の高い所で草を食んでいる牛の群、雲の動きで変わる山の姿などを見ながら登って行く。可なり急な坂を自転車で降りてくる集団に出会う。

漸く峠に着く。此処はItalyとSwissの国境の峠で、France・Ita―lyの国境と全く同じ様な石が立っている。此処からのItaly側の眺めが素晴らしい。山と遠くまで続く深い谷、Val Ferret(樽谷)だ。案内板があり、今日の目的地La Foulyまでは2時間45分とある。一休みして、降り出す。国が変わったので、ここからの挨拶は又Bon Jourとなる。スイスの南部はフランス語圏なのである。北部はドイツ語圏で、Zurichで買った列車の切符はドイツ語表記であった。

下りは余り急ではなく、遠くまで見通しがきく。暫く降りて行くと自転車の集団に出会う。何と皆日本人なのだ。女の人も何人か居り、サポートの車を含め13人だという。この様な遊びの出来る人は日本には未だ多く居ない。もっと増えて欲しいものだ。

暫く行くと傾斜がきつく成る。下の方には人家も見える。用心しながら降りて行く。土砂崩れの跡が可なりある。降りて行くと畜産農家があり、其処では飲食物を出しており、多くの人が休んでいた。僕がそこへ着く前にそこから集団で降りていく人たちが見えた。其処を通り過ぎ、更に下って行くと舗装道路となる。土手には青いトリカブトに似た花が一面に咲いている。牛が沢山居るとこなので、トリカブトではないと思う。綺麗な花には棘あり、毒ありというが、花は綺麗だ。

暫く降りて行くと上から見た集団に追いつく。20人程の男女の集団でどうも日本人の様だ。話が聞こえると、間違いなく日本人だ。此方から声を掛けて、どの様な集団なのかを訊く。ツアー会社のパックツアーで主としてバスで移動して、若干は歩き、山の良い所を見て歩いているという。年配の方と女性の多い集団であった。僕は先を急ぎ、其の先河原で一休みしてLa Foulyに向かった。人家が見える頃又集団に追いついた。其処には2台のマイクロバスが待っており、日本人及び現地ガイドと共に去って行った。今日は日本人に会う特異日なのであろう。

その場所から少し下った所に今日泊まる宿の案内が出て居り、左に入り小道を歩き、橋を渡る。少し高い所に小屋が見え、登って行く。小屋に着いたのは2時少し過ぎであった。此処でも多くの人が飲み食いに興じていた。

此処も予約の出来なかった所で、宿泊は出来るかというと、OKだという。2食付60スイスフラン(CHF)だという。Euro換算では50以上となる。Italyの小屋と比べるとかなり高い。元々Swissは物価の高い所で、此方も高いからと言って断る立場にはない。

Checkinし部屋に案内してもらう。15人程泊まれる部屋でベッドは目指し状に2段に成って居る。下の端に陣取る。もう2部屋あり、全体では40人程収容出来る様だ。結局この日泊まったのは5人だけで、夕食はこの5人が同じテーブルで摂った。僕は赤ワインを1杯頼んだが、これは3Euroであった。

08.15:出発の前に玄関で写真を撮りたいと女将の要望があり、応じる。背が高くスラリとした美人だ。序にこちらのカメラでも撮ってもらう。もう一人働いている女性が居り、この3人でお互いの写真をとった。日本人が此処に泊まるのは珍しいらしい。

8時10分小屋から出発し、川沿いに下って行く。車の通る舗装道を暫く歩く。La  Foulyの集落を通る。観光拠点で4つ星ホテルを始め宿泊施設が何軒かある。車に荷を積んでいる団体もあり、又何頭かの馬で荷を運ぶグループも見かける。TMBの歩き方にはこの様に色色な歩き方があるのだ。軽装で歩いて居る人を見るのはこれらの補助手段があるからだ。バスで移動し、要所要所を見て回るのも一つの方法なのだ。

集落から暫く舗装道路を下って行くとTBMは左に折れ、橋を渡って川の左岸を下って行く。車道は左岸をほぼ平行に通っている。1時間ほどで又集落が見え、細いながら舗装の道に出る。この道を追って行くと、間もなくLa Foulyから来ている車道にでる。之を更に下って行くと、Issert集落となる。古くからの集落の様で、朽ちかかった建物も多い。この先でTMBは左手に登って行く。山道は狭い所も広い所もあり、一時間以上登って行く。途中からはSentier des Champignons(茸の小路)となり、道の彼方此方に大きな木彫りの茸が飾ってある。又彼方此方に茸の種類や、毒キノコの説明の看板が立っている。道の両側に何種類かの茸が生えて居たが、余り食指は動かなかった。牧畜農家が現れ、其処を過ぎて暫く歩くと又大きな舗装道路にでる。どちらに行こうか暫し迷うが、道なりに進む事にする。登っていくと大きなバスの停留所があり、そこで予約している小屋の位置を訊いてみる。この道を更に進み湖を過ぎてから、又尋ねたら良いという。

天気はスッカリ良く成って居り、日差しが暑い。進んでいくと、なる程道の左側に湖がある。右側には立派なレストランや宿泊 施設が並んでいる。カフェーでは沢山の人が寛いでおり、其の横には12-3人の楽隊も休んでいた。此れだけ人が居れば、誰かより確実に場所を知っている人が居ると思い訊いてみる。英語を話せる御婦人が居て、先ず何か呑まないかと勧めて呉れるが、断る。道を聞いた上に、御馳走に成ったのではとの思いからだ。楽隊の連中も未だ早いからと休んで行けと引き止め、一緒に写真を撮ろうという。これは断らず、写真に納まる。気の良い連中は何処にでも居る物だ。結局此処で分かったことは、先ほどと同じで、湖を過ぎてから又訊けて言う事であった。

湖の外れは町の外れで、尋ねる人が見付からない。更に下って行くと、木陰で休んでいる年配の夫婦が居たので、尋ねる。此方の言う事は分かったようで、通りかかった2人の人に尋ねた上、モット先で訊けてということであった。更に下がっていくとTMBは左の狭い道に入って行く。其方に向かって暫く進むと、予約したBon Abri(良き避難所)への案内矢印が出ていた。やれやれである。

小屋に着いたのは1時一寸過ぎだった。今日も一番乗りで、好きなベッドを選ぶ事が出来る。料金は69CHF。洗濯をしてから、周りの散策に出かける。宿泊施設が何軒かある谷合の集落で、ひっそりとしている。大きな建物の前には警察の車が3台、警官が5−6人、警察犬もいる。何がったのだろうか? その後は木立の中を歩く。ブルーベリーの実が彼方此方に成って居る。取りつくした後か、よく探さないと見つからない。目についたものは食べた。陽のあたる土手には野生のイチゴも成って居る。豆粒程の大きさだが、甘く濃厚な味がする。宿に戻り、何か事件があったのかと訊くと、5日程前から女の子が行方不明になっているという。

この日此処に泊まったのはイスラエルから来たと言う若者4人、それに国連の非常時対策要員として西アフリカで仕事をしているオーストラリアの女性だけであった。

夕食はイスラエル人のテーブル、僕とオーストラリア女性のテーブル、白ワインも出た。食事もバランスの良い物で、山歩きでこれ以上の贅沢は無い。昨年のシイラ ネヴァダの時とは雲泥の差以上だ。
4人のイスラエル青年の顔を見て居ると、どう見ても2人はユダヤ系、他の2人はアラブ系の顔をしている。混血が進み、純粋のユダヤ人も純粋のアラブ人も地域によって極少なく成って居るのであろう。其れにも関わらず、ユダヤとアラブの対立は続いている。原因は何か。最大の原因は宗教であろう。片やユダヤ教,片や回教である。宗教が人を結ぶものであるか、対立させるものか、生かすものか、殺すものか、改めて科学的な検証が為されるべきであろう。

彼らは軍役を終えたばかりの若者である。皆が彼方此方の痛みを訴えていたが、翌朝は雨の中一番で出かけていった。次のTrientまでは迂回路があり、其方の方が高い峠を通り、時間も長く掛かるが、其方を歩くという。

08.16:夜雨が降ったが朝は止んでいた。朝飯を済ませ、出発する頃になると又降り出し、雨脚も強いので出発の用意は出来たが、出かけるのを思い留まる。

7時40分、やや小降りになってから出かける。舗装の狭い道を暫く下り、其の先で左の山道に入り登って行く。最初は歩きやすい道であるが、橋を渡ると大きな石が多く成り、傾斜もきつく成る。雨は上がった様であるが、木の葉に溜まった滴が落ちてくる。軈て樹界の上に出る。左が谷側となって居り、Rhoneの谷が見える筈であるが霧が掛かって居り、見えない。又Alpsの眺めが良いと案内書にあるが、高い所は雲がかかって居り、之も見えない。雲が2層になって居り、その間の景色しか見えない。歩き出して9日目にして初めて雨に会い、視界が悪く成った。山でこの位の天気は文句が言えない。

Bovine峠に向かって更に登って行く。牛峠と云う意味で、放牧が為されているのであろう。綺麗な赤い実を見つける。ユリ科の植物のようであるが、田植えグミそっくりで、大きさがその2倍位の実が先端に滴を貯めてぶら下がっている。2−3粒取って食べてみる。グミそっくりの仄かな甘みがあったが、それ以上は食べなかった。

針葉樹の生えた急な傾斜を登って行くと、広範囲に渡り、木がなぎ倒されている所があった。近年の雪崩の爪痕だ。雪崩の後は此処だけでは無く、彼方此方で見て来ている。
傾斜が緩く成る。頂部は近いのであろう。平屋の大きな建物が見えて来る。道には牛の糞が多く成る。水溜りや糞を避けながら歩き、小屋に達する。誰も居ない様であるが、表には沢山の椅子やテーブルが並んでいる。天気が良い日は此処で休んで行く人も多いのであろう。

更に登って行くと今日の最高点1987mである。其の先放牧地が多く、木や電気の柵が至る所にある。山道も柵の扉やワイヤーを開閉しながら通過する必要がある。樹界に入る頃傾斜がきつく成り、道も悪く成る。下から登って来る人にであう。続いて何人か自転車を押したり、担いだりして登って来る人に出会う。自転車は下りは良いが、登りは大変だ。1時間ほど下りその先の短い坂を上ると舗装道路にでる。Forclaz峠(1526m)である。

100m程この道を歩き、TBMは左の山道に入って行く。森の中をジグザグに下り、舗装道路を横切り、更に下っていく。途中Black Berryが成って居るので、道草をくう。下り切ってやや登ると、又大きな舗装道路にで、Trientの表示が出ている。目的の集落に着いたのだ。町の外れの様で、最初の民家で小屋の位置を尋ねると、道を100m程下った左側にあるという。直ぐに看板が見つかり、ホッとする。3時間半程の歩きであった。

正午少し過ぎにCheckinする。65CHF。案内された部屋は6人が泊まれる部屋であったが、その後は誰も来なかった。幾つかの部屋があり、他にも6−7人の客が居たが、彼らは別の部屋に泊まった。
Trientは町と云うには余りにも小さすぎる。起伏のキツイ土地に何十軒の家が立ち並ぶ。天気は徐々に回復しつつあるようで、青空も見えて来る。周りの写真を撮り一周りし、明日進む方向を確かめておく。町を歩いて居る山行姿の人は結構遅くまでいるが、僕はもう何もすることが無い。夕食まで一眠りする。

08.17:七時半に歩き出す。教会の横を通り川沿いの細い舗装道路を歩く。二〇分程歩き小さな集落を通り過ぎ、右に折れ山道に入って行く。登りがキツク成り九十九折れに暫く登る。一時間程登ると森林限界となり、視界が開けてくる。遥か前方の稜線に建物らしい物が微かに見えて来るが、建物との確証は持てない。更に二〇分程登ると、建物であることがハッキリしてくる。Balme峠(2191m)にある大きな小屋で、峠の向こうはFranceとなる。

咲き乱れる色々な花を見ながら、徐々に登って行く。天気は上々で、日差しは暑い。山小屋の雨戸の赤い色がハッキリと見えて来、又峠に居る人の姿も確認出来る様になる。裸で日光浴をしている人も居る。

峠は殆ど平らで大きく広がって居り、国境を示す同じ様な石もある。此処からはMont
BlancやChamonixの谷が綺麗に見える。行く先表示も何か所かにあるが、肝心の僕が目指す方法の表示が見つからない。此処からは四方八方へ道が伸びている。この分岐点で方向を間違えば、有らぬ所に行ってしまう。時間が掛かっても正しい方向を探さなければならない。

ケーブルカーも何本か運行されている。日本人の老夫婦に出会う。写真を撮りにケ−ブルカーでアルプスを廻って居るという。さて肝心の行くべき方向であるが、表示を見ても分からない。大きな地図を持って居る人に尋ねると如何やら右手斜めに下って行く道がそうであるらしい。其方に降りだし、登って来る人に、何処から登って来たのかを確かめる。自分が行く方向から登って来た人であることを確かめ、安心して下りだす。
天気が良く、草の緑、灰色の岩石、色々の花、それらの組み合わせが実に綺麗だ。大きな谷、その向こうに聳える巨大なMont Blancの山塊、これらは写真にしたらその雄大さが無くなってしまう。立ち止まって、今の景色を楽しむ。

 

下りはキツクは無く、景色を楽しみながら歩いて行ける。片岩の多く散らばる所も通る。目的地のTre le Champの矢印を彼方此方で確認する。後1時間の表示が出る頃には、樹林帯となって居り、ヤット厳しい日差しから解放される。傾斜が緩く成り、道幅も広く成ると、建物が見えて来る。小川に沿って少し進むと、目の前に今日泊まる   Auberge la Beorne建物が見えて来る。何かあっけない気がする。何棟かの建物が取り囲む広場では、ここでも、飲み食いをして休んで居る人でいっぱいだ。

1時少し過ぎにCheckinする。38Euro。序に明日泊まる予約をしているRefuge de Bellachatの予約を取り消してもらう。今日の部屋は入り口の奥の小さな部屋で、通路を挟んで2つのベッドがある部屋だ。大部屋よりは静かでよい。相棒は夕方着いた自転車でガイドをしている男で、人の面倒を見ているのだろうか、部屋には殆ど居なかった。トテモ静かな夜であった。

この小屋は変わっている。今までの小屋の殆どが石作りであったが、ここでは殆どが木で出来ている。随分古い建物で、製材機械が無かったころに作られたのであろう。丸太を上手に使っている。又扉にする板も手引きであった。扉にするほどの大木は無かったらしく、板を横木を介して並べ扉としているが、板と横木の接合には何と木の細い杭を打ち込んでいる。徹底して木の利用に拘っており、洗面所の流しも木で出来ている。この様なものを見たのは生まれて初めてだ。屋根は勿論木端葺きで、雨樋も木製、屋根の雪止めには直径15cm程の丸太を屋根に固定してあった。本館の屋根は職人が補修中であった。補修も大変であろう。小屋の内外には木製の道具や農機具などが飾ってあった。物の収納用の箱は蝶番の様に開閉する様に成って居るが、金物は一切使わず、全て木で作ってあるので感心した。

夕方に成ると、荷物を積んだ車が遣って来て、配送をしていった。荷物は持たずに山行はできるのだ。
山小屋泊まりも今日で最後に成るが、色々な所に泊まって良かったと思う。

08.18:今日が山歩きの最後の日となる。7時40分出発。天気は快晴、暑さが懸念される。標準の行程ではLeFlegereまでの7Kmと短いが、最後の日の行程の略3分の1が残っているので、通常の1日分と考えて良い。それに今までに無かった梯子登りもある。

小屋から一旦やや降ってから、登りとなる。最初はなだらかな登りも30分も行くと急になり、大きな石がゴロゴロする歩き難い道に成る。樹界の上に出る。左側の谷の斜面は急峻で注意を払って進む。ここまで来て怪我をしては居られない。更に登って行くと天を突き刺すような岩が立っている。巨大な岩で圧巻である。其処を過ぎると、愈々梯子である。

最初の梯子が一番長く、殆ど垂直である。ストックを両手に持って居るので、余り勝手は良くないが、用心して登る。その上には幾つかの梯子があり、その上は階段が幾つもある。UTMBや自転車の人は他の道を通る事が出来る。昼間でも危険を感じる所なので、夜間などの通過は避けたほうがいい。漸く梯子や段部を通過するが、未だ足場の悪い急登が続く。軈てケルンのある高みに達する。Tete aux Vents(風頭、2130m)に着く。

 

荷物を降ろし、景色を眺める。素晴らしい眺めだ。Mont Blancの白の輝きが眩い。氷河が後退した跡もハッキリと見える。La Flegereまで1時間5分の表示が出ている。全体に下りとなって居り、この先はGrand Balcon Sud(南大バルコニー)と呼ばれている所である。Mont Blancの北面が良く見える所なのであろう。天気の良い日にここを通れるのは嬉しい。

それにしても暑い。水の補給を忘れ、水は無い。高い滝があり、そこの真下の水なら大丈夫と思い、寄り道をする。イタリア人たちが滝壺で泳いでいた。出来るだけ上流で水を汲み、飲む。異常が出たら其の時対処するしかない。

更に下がって行く。足場の悪い所もある。軈てLa Flegereの小屋の横を通ると声を掛ける男が居る。振り向くと最初の何処かであったアメリカ人で、夫婦で来ていた。一回り終わったので、反対周りをしているのだと至って元気だ。2−3言葉を交わし、僕は先を急ぐ。

其処から先の道は比較的なだらかに下って行く。最初に降りたケーブルカーが見える所まで来ると、空に沢山のパラグライダーが舞っている。中にはMont Blancの方に飛んで行くのもある。高度も3000−4000mある様だ。気持ち良さそうだ。ケーブルカーの駅の辺りに飛び立つ場所がある様だ。

日陰は全く無く、歩いている人も殆ど居ない瓦礫の道を何十ものパラグライダーの飛ぶ方向を目指して歩く。ケーブルカーの駅の近くに来ると、中年の女性が専用の道具を使ってブルーベリーを取っていた。取ってはタッパーに入れを繰り返していた。この為に態々ここまで来たのであろう。

最初歩き出した所に辿り着き、降りて行くとパラグライダーの飛び立つ場所に着いた。一方が崖に成っている方に向かって走るとパラグライダーは風を孕み,いとも簡単に舞上がって行った。これで今回の山行は全て終わった。1時を少し過ぎた所であった。案内書では標準の一周期間は11日と成って居たが、10.5日で回った事になる。勿論、今回は天気が良かったのでモット短日数で回る事も可能であった。

Chamonix Mont Blancに降り、旅行案内所に行くと、安い宿泊所を紹介してくれる。ケーブルカーの駅の直ぐ傍だというので、また登って行く。Ski   Station云う可なり大きな宿で素泊まり17Euro。Chamonixは人気の観光地であるがこの様に安い宿もあるのだ。部屋は8人用だったと思うが、十分な空間があり、その日泊まった客はその半分程度であった。この宿はSki Stationの名の通り、冬場に混むのかもしれない。直ぐ傍がケーブルカーの乗り口で、スキー客には格好の宿であろう。管理人は老女一人のようであった。

町の観光と明日Zurichにでる切符を買う為に出かける。谷底の町で、真ん中に川が流れている横長の町だ。中心部には大勢の人が、レストランやカフェなどの路上のテーブルで飲み食いをしている。
切符を買い、CasinoというSuperで食料品を買って戻る。之はChain店で、他の町にも同名の店がある。宿には台所があり、勝手に調理が出来る。

08.19;日曜日、朝のChamonixの町は静かで、昨日の人の賑わいは嘘の様である。改めて人の居ないChamonixの町を歩く。花いっぱいの町である。商業施設は元より、個人の住宅も沢山の花で飾ってある。Mont Blancの初登頂に成功した人の銅像なども立っている。町の中を流れる川は急流で白濁していた。

 

Zurich行くには先ずバスにのる。余り本数は無く、僕のバスは昼過ぎ出発であった。略満員の大型バスの運転手は女性であった。次いで登山電車でMartignyまで降り、そこで又電車に乗り換えZurichに向う。ホームは沢山の人で、ごった返している。暑いので裸の人も何人かいる。電車が入ってくるが、これまた混んでいる。辛うじて席は確保出来た。後から乗った人は通路一杯に立っている。これ程込んだ電車はヨーロッパでは見たことが無い。裸の男たちも立っていた。日本では見かけないが、スイスでは裸乗車ありなのだ。

行く時はLausanneを廻って行ったが、今度はそこは通らない。傾斜の多い葡萄の産地を走る。石垣を築き細い段々畑で葡萄の栽培をしている。アンデスの山地の段々畑に良く似ている。人は利用できる土地は目いっぱい利用し、長年の労を厭わずに続ける動物なのだ。

Zurichには3時前に着く。Lichtensteinに行けるかどうか、切符売り場で確認し、行くことにする。30分程待って、電車にのり、1時間後にはSar−
gansに着く。其処からはバスの乗り継ぎが直ぐにある。北に向かって走り、約30分後、5時少し過ぎ首都のVaduzに着く。

Lichtensteinには思いつきで行くのではない。今回の主目的はTMBの完歩であったが、時間が許せば是非寄りたいと当初から思っていた。ハンガー、ブルガリア
以西のヨーロッパの国で訪れて居ない国は小国も含め片手で数える程になった。もう少しなので、全部回って置きたいと思っていたのだ。
Lichtensteinは人口約35000の国で、その首都Vaduz(ドイツ語圏でファドゥツに近い発音)は6000人の町である。小さな国であるが、生活の豊かさは世界で1−2位である。人々は町の広場のテーブルで飲食をし、日曜日の午後を楽しんでいる。4つ星のホテルがあるので、料金を訊いてみる。250CHF、21000円強と高い。モット安い所無いかと訊くと、2軒ほど紹介してくれる。来た方向に戻り、町の外れの花いっぱいの宿に決める。久し振りに風呂に入り、白いシーツの間で寝ることが出来た。朝食付きで112CHFであった。

08.20:午前中町の散策をする。町が小さいので30分も歩くと、町の端から端まで歩ける。豊かさを象徴する様な、見事な彫像が沢山見慣れる。巨大なものは無いが博物館、美術館、国政に関わる建物はどれも立派だ。小さいがLichtenstein銀行を始め、銀行の建物も多い。中国の団体客が来ていた。

町は谷合いあり、南北に長い。北に向かって左手、西側は急な崖となって居り、その上にVaduz城があり、今でも君主が住んでいる。城までは遊歩道あり、九十九折れに登って行く。途中には国の歴史や得意産業などの表示板がある。城に着くと、其処までは車の通れる道が通っていることが分かる。それ程大きな城ではないが、高台にあり攻撃にも防御にも有利な事が、この国が独立国として存続出来た大きな理由であろう。
時間があれば美術館等も見ておきたかったが、町の外観を一通り見た後、Zurichに向かう。 

Zurichの駅には観光案内所がある。そこでYouth Hostelの予約をして貰う。地図を貰い、其方に向かって歩き出す。Zurichは北から流れて来た川が駅の手前で西東2つに分かれ、東側の流れは細長いZurich湖に注ぎ込む。水に恵まれた町である。地図を見ながら南に進み、湖岸にでる。浜辺では泳ぎや甲羅干しの人たちで賑わっており、ヨットやボートを楽しんでいる人も居る。浜辺や芝生は水着姿の人たちが隙間も無い程占拠しており、強烈な日差しのなか鮮やかな色彩の祭典の様だ。左手に湖を見ながら、出来るだけ木陰を歩く。湾岸の道路は広く、交通量も多い。道を尋ねながら1時間以上歩くと、漸くHostelへの案内表示が出て来た。もうそう遠くは無い。更に何回か道を尋ね、ヤットHostelに着く。規模は大きく、新しい施設の様だ。

 

一泊朝食込みで44.5CHF、約3800円、2泊分払う。施設は供用の部分も広く、清潔である。Chechin後、夕方浜に行ってみる。木の椅子に腰を下ろし、水鳥の動きを追って右手を見て、驚いた。ビキニの上だけを着けた、オバサンが此方を向いて立っているのだ。傍に居るメタボおじさんと何やら話している。見るとおじさん達は何も着けて居ない。こんなに人の多い所でこんなことが許されるのだろうか? 多分許されているのであろう。先ほどの裸で列車への乗車と合わせて考えると、裸に対する受け止めかたが我々とは異なるのだ。

08.21: 終日Zurichの観光をする。Zurichの空港には何回か立ち寄ったが、町を歩くのは之が2度目である。最初は仕事の打ち合わせで、20年以上前の話だ。相手先が宿の手配や会場までの送り向かい一切を遣って呉れた御蔭で、静かで落ち着いた町以外の印象は残って居なかった。

宿から町の西側を流れる川沿いに電車の駅に向かう。多くの日本人は駅と云えば線路が双方向に繋がっているイメージを待つ。所がヨーロッパではそうでは無い駅が沢山ある。青森駅の様な駅は日本では例外であるが、あちらではそれ程珍しいものでは無い。Zurich駅も線路は一方にしか伸びて居らず、電車はそこで止まり、折り返して行く。東から来た電車が其のまま西に向かうことは無く、東に折り返して行く。その駅を出て西行きの電車は大きく迂回して向きを変えるのでる。この為進行方向に向かって居た席が、気が付いて見ると逆に成って居る事もシバシバ起こる事に成る。

町の旧市街はこの駅から川を隔てた東側の小高い所である。幾つかの教会があり、石畳の曲がった道沿いの古い建物は今観光客相手の店と成って居る。長年永世中立国であったSwissは文化財の保護は比較的に容易であったと思われる。

新市街は川の西側にあり、駅の周りには世界的な保険会社、食品会社等重厚な建物が並ぶ。Bahnhof Strasse(駅舎通り)は路面電車が何本か通っており、銀行などの立派は建物が並ぶ。巨大な超高層ビルはなく、威圧感の少ない街並みである。もう少し時間にユトリがあれば、博物館、美術館なども見ておきたい所だ。

08.22:Zurichを昼過ぎに立ち、Bangkok経由で翌日夕方帰国。之と言った突発事項も無く、順調な旅と言える。

旅の費用:航空運賃14.5万円、宿泊費8万円、食費1万円(宿泊費には殆どが2食分が含まれている)、現地交通費3万円、合計27万と云うところか?


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平成24年7月15日掲載

12.06.29−30 Lapland 100K


6月26日夕方の便でBangkokに向かう。3時間ほどの待ち合わせ時間があり、真夜中日が変わってから、Stockholmに向かう。この間、Loungeでタイ風のつまみでポートワインを飲み、Internetで交信が出来るので、長い時間とは思えない。Bangkokからは10時間余りの飛行で、Stockholmに着いたのは朝の6時過ぎであった。

 国際ターミナルから国内ターミナルに移り、Skellefteaaまでの登場手続きをする。予約した一本前の便に乗る事も出来たが、到着地にはAnnaが迎えに来ることに成って居たので、予約通りの便で飛ぶことにする。国内線の建物は人も少なく、待合の椅子に横に成ってウトウトした。

 空港にはAnnaと娘のJulieが迎えに出て居り、直ぐ彼らの浜辺の家に向かう。Tomasの孫に当たるJulieは今年7歳になり、この秋は小学校に入る。年の割には体も大きく、サッカーを遣りだしたという。Swedenは恵まれた生活・教育環境があり、子供たちの選択枝は広い。可なり活発な子で表を走り回ったり、水に入ったりしていることが多い。室内に居る時には絵を書いており、日に何枚も描く。多くは花や人物であるが、写生では無く、自分の頭にあるイメージを描くのである。色鉛筆画が多いが、気が向くと水彩画を描く。
家内へのお土産にと花の絵を呉れた。

 家までは直線距離では10キロ程であろうが、入り組んだ海岸線の道路しかないので、40分程かかる。昼ごろに着き、何時もの10m2程の小屋に荷物を置く。JulieがToshio Hus(敏生の家)と名付けた小さな小屋である。Summer Houseと呼ばれる別荘地にはこの様な小さな家が幾つも見られ、その多くは普通の人が自分で作るものである。Tomasの敷地内にも昔はこの様な建物が5−6棟あったが、何年か前に本格建築の母屋を建てた時に幾つか取潰し、今は3棟ほどが残っている。

 着いて直ぐに歩きに出かける。時差の解消の為には現地の時間で生活するのが一番で、其の為には多少眠たくとも夕方までは起きて居た方が良いのだ。Swedenでは歩く場所には事欠かない。何処にでも森があり、水辺があり、道が八方に広がっているのだ。

 夕食は早めに済ませ、眠りに付く。翌朝二〇キロほど離れた所に住む、Kennyに電話する。引っ越しの最中であるが、来ないかというので、自転車で出かける。天気は昨日同様雲が多く時折雨がぱらついている。気温も何時もの年と比べ低い。

 着いてみると、正に引っ越しの最中であった。荷物は殆ど片付いており、床や壁紙なども張り替えられていた。Swedenでは殆どの人が、床や壁紙の張り替えは自分でするのが当たり前だ。従って引っ越しは一日二日で終わるのではなく、数週間も掛けてする様だ。内装や外装を一新して、今住んでいる集合住宅の持ち分を売却するのだという。新たに住む所は今もKennyの実父が住んでいる更に北のArjeprogの生家だという。僕も一度だけ、其の街を通ったことがあり、Norway国境に近い。冬の寒さが厳しい所で、この為、ヨーロッパは元より日本の自動車メーカーもここで寒冷地テストを行うという。この為町の住人800人に対し、冬場はその何倍もの人が押し寄せるそうだ。荒涼たる荒れ地が広がり、湖も多く、住民一人当たり3つの湖があるという。信じ難い程の自然の広がりがあるのだ。

 帰って見るとTomasとSusanneがオランダから返って居た。彼らは彼方此方観光をした後、オランダで船を買うとメールして来ていた。Tomasは良い船が買えたと御満悦である。引き渡しは7月末で、如何して船を近くの港まで運ぶかは未だ決めて居ないが、大仕事だと言っていた。以前10メートルを超えるヨットを持って居たが、何年か前に売却し、新たな物を探していた。ヨーロッパの経済不況でヨットの市場価格が急降下した今が買い時だと言っていた。

 翌日11時にSusanne,AnnaとJulieにバス停まで送ってもらいAdakに向かう。2時間半程でMalaaの町に付き、乗換のバスを待つ。本数は少ないがバスは略定刻運転である。Adak行きの乗客は僕一人で、40分程で着く。運転手は停留所から600−700m離れたレースの会場まで態々送って呉れた。之がSweden的ユトリなのであろう。

 18時の出走時間までは2時間以上あるので、元小学校の建物の中にマットを敷き、寝袋に入りウトウトする。他の人たちも同じ様な事をしている。

 定刻に30人程がユックリ走り出す。応援の見送りを受け、緩やかな坂を上って行く。3キロ程走った所で、小粒の雨がポツポツ降り出す。寒さに備えて、上下とも長い物を重ねて来ているので、多少の雨は大丈夫だ。突然Leopoldが現れたので、驚く。遠くの町から態々応援に来たのだ。2−3キロ車で並走したり、降りて一緒に走ったり、写真を撮ったりしている。軈て明日Finishする頃又来ると言って帰って行った。

 この後20キロ辺りまでは男女各一人の参加者と略一緒に走ったが、軈て彼らは脱落していった。砂利を敷いたばかりの、ダートの道は例年より、走り難いが、今年は砂、小石対策を確りとしたので、途中で靴を脱ぐ様な必要は無かった。道路の幅を可なり広げた所もあった。走って居る道路は森林道路で普段は木材の運搬に使われているものだ。
 30キロ辺りから雨脚が強まり、40キロ辺りでは全身ずぶ濡れの状態になった。当局の車に必要な荷物を預けてあり、エードで車を呼ぶよう依頼したが、中々来ない。体が段々冷えて来て、一時はレース中断も考えた。2度目のエードで再度車を呼ぶように頼んだ。程なく車が来、濡れた上から簡易合羽を着た。之で新たに水に晒されず、又風も遮るので寒さの心配は薄らいだ。但し一部を除き、着ている衣類はFinishの時点でも濡れたままであった。

 マラソンの距離は日が変わって30分、6時間半で通過する。今頃が一番暗い時間で、軈て少しずつ明るく成る事を期待する。完全に一人旅になって、黙々と前進を続ける。Laplandの大地は細い針葉樹帯が延々と続く。時折聞こえる鳥の声を除き、静寂が支配する世界だ。レース中に見かけた動物は野兎2匹であった。可なり大きく、足の長いウサギで前方の道路を軽快に走り森の中に消えて行った。

 50キロの手前で、先に行く背の高い男が見える。サポートカーも前後しながら、進んで行く。軈てこの男を追い抜く。其の後4時間遅れて走り出した先頭の走者3人が勢いよく追い抜いて行った。50キロを3時間半を切ったペースで、十分7時間台の記録が期待できる。今年のこのレースはSweden 100K Chanpionship Raceであり、有力なランナーが参加しているのだ。何時もの年だと先頭ランナーに抜かれるのは60Km辺りであり、今年の上位ランナーな何時になく早いのだ。その後も女性を含む何人かのランナーが追い抜て行った。

 60キロの手前でダートの道は終わりで、舗装道路とある。不思議な事に先ほど追い抜いた男が400−500メートル先を歩いて居る。この10キロの間に何か不正があったに違いない。再び追い抜くが、その後の事は分からない。ひょっとすると僕より早くFinish しているかもしれない。

 Slagnaesの町から東に向かって走る。向かい風となる。残りは35キロ弱である。Finishの少し手前まで、この強い向かい風で雨がふる。80キロまでは時々抜いて行くランナーを見送る。80キロを超えると後から走り出したランナーも疲れで早く走られなくなり、追い抜かれることが無く成った。逆に抜いていたランナーに追いつき追い抜く様になり、Finishまでに3人追い抜いた。僕は最初から時速6−7キロで前進しており、この速さは維持出来ている。追い抜いて行ったランナーは歩き出すとこれより遅く成るのであろう。大会を主催しているLoenaesの集落を過ぎると残りは10キロ足らずとなる。何時もの年は沢山の応援があるが、雨の為エード以外には人を見かけない。

 昨年はスタート時から雨が降り出し、終始雨の中を走ったが、気温は今年より高かったので、途中寒さで走行を断念しようとは思わなかった。今年は真夜中頃一時途中棄権を考え、迷いながら前進したこともあり、時間は悪い。然し、Leopoldには10時前にはFinishしたい旨伝えてあるので、何とかその時間までにはFinishしたいと思い、時計と相談しながら走る。後5キロの表示版を過ぎるとAdakの集落である。1キロ毎の表示と時計を比べ、最悪の記録ではあるが16時間以内で完走が出来る目途がたつ。後2キロまでの地点でLeopoldが後ろから車で来て、声を掛けてくる。暫く並走した後、Finishに行って写真を撮ると言って走り去る。

 雨の中のFinishでLeopold以外には2−3人の人の拍手の中、レースを終える。後で貰った記録証には15.52.23とあった。

 この後直ぐにシャワーを浴び、サウナで温まり、マッサージをして貰う。食堂で一緒に食事をした後、Leopoldは帰って行った。彼は今は余り走って居ないが、Nordic Skiは、結婚し其々の過程を持つ2人息子と共に、励んでおり、毎年90キロのVasaloppetに出ている。Laplandのレースに息子達と一緒に走りたいという。

 実の所、僕は今年でこのレースを最後にしようと思っていた。彼らが走るなら、又来るからと伝える。最後にしようと思った理由はいくつかある。人の命に限りがある様に、好きな事も何時かは出来なく成り、終わらざるを得ない時が来る。その時期は近く、自分で決めなければ成らないと思ったのだ。特に、フランスの6日間走から帰国後は体調が悪く、食欲もあまりなく、意欲も低下し、落ち込んだ状態であった。走る直前までこの状態が続いた。

 走り出してみると、それ程落ち込んで居ないことに気付き、悲観的になる必要はないと思い始めた。完走の後は気持ち的には出国前より意欲的に成り、体調も良く成った。落ち込んだ時、何かを遣って見る事は良い様に思う。100キロの過去の記録を調べてみても、年毎に極端に低下している訳では無いので、何とか75までは走れるのでは無いかと思い始めている。

 今年のレースは例年に無く外国勢が少ない事であった。ドイツを始め数か国からの参加が例年あるが、今年は僕やオランダからの2−3人であった。Sweden選手権レースなので遠慮したのであろうか?

 例年は6時から表彰式があるが、今年は無かった。夕食はバーベキューであり、串に刺した豚や鶏肉を屋根の掛かった駐車場に用意されて炭火で各自が焼いて食べた。サポーターや地域のスタッフ達も加わり、賑やかな夕食であった。

 夕食が終われば寝るしか無い。明日、日曜日の午後にSixtenが迎えに来ることに成って居る。其れまでは之とて遣る事は無い。彼らはSweden南部を旅行中で日曜日に帰って来ることに成って居る。

 翌朝外を見ると、駐車している車は1台のみで,他の連中は皆昨夜の内に帰ってしまったのだ。学校には僕を含め10人程が未だ居た。傍に居たJohanに聞くと、車は彼らの借りたレンタカーで今日は近くの湖で釣りをして、其の後Stockholmに向かうという。釣りには良いのかも知れないが、小雨のなか連れ立って学校を後にする。

 後に残った数人も昼過ぎ帰って行った。多分迎えの車を待っていたのであろう。皆が去って急に静かになる。古いソファーに暫く横に成り、ウトウトする。車の音が聞こえるので窓から見ると、窓のすぐ下の車の中でSixtenが電話をしているのが見える。僕の居場所の確認をしているのであろう。窓を開けて声を掛けようとしたが、窓は容易には開かない。急いで荷物を持って、下に降りて行き、お互いにホットする。

 乗って居るのはVWのオンボロ車だ。彼の専門は自動車屋だ。退職した今の趣味は古い車を集め、改修し乗り回す事だ。元々ガソリン車であった30年ほど前のVWのエンジンをジーセル変え、燃費はトテモ良いと言っていた。家までは50−60キロある。

 彼の家に着くと5−6台の古い車があった。順次修理して走る様にするのだと言う。この他にも、母親や知人に預けている車が4−5台ある。今回の旅は2人乗りの英国制Triumph(58年製)で2500キロを走って来たという。Swedenではこの様にClassic Car Maniaは多く、同好会があり、日を決めて彼方此方の町で200−300台のParadeがあるという。

帰宅後夕食の支度をして待っていたAnnaの出迎えを受け、早速夕食。暫く話した後、Sixtenの母親の住む20キロ余り上流の集落に行く。今度の車はTriumphで座席の位置が低く、前面に見える景色が異様に見える。エンジンは強力で200キロは出るという。古い車なので、乗り心地は余り良くない。音も大きく、隙間風も入ってくる。Sixten曰くAnnaは余りこの車が好きでない。耳栓をしたり、冬には防寒帽を被ったり何かと今の車とは異なる身支度が必要なのだ。豪雨の時は傘が必要なこともあるであろう。映画の世界で想像するだけで楽しく成る。人は何か他の人とは異なったことを好み、其之為には日頃の快適性を意図も簡単に棚上げし、騒音、振動、雨風の流入、操作性や燃費の悪さ等全てを犠牲にするのだ。

 母親Marianの家に着くとSixtenは直ぐに芝刈りを始める。この時期週に2回は必要な作業だそうだ。小一時間の後、又明日来ると言って家に戻る。8時からはSpain対Italyのサッカーの放映があるが,それまでには時間があるので、僕は一先ず夕寝をする。

 起きた時は試合が始まって間の無い時間で0−0であったが、その後直ぐに素早いパス回しからのシュートでSpainが立て続けに2点を挙げた。Sixten達はケーキを食べコーヒーを飲んでの観戦である。僕にも勧めるが、間食習慣が無いことを理由に断る。ヨーロッパの頂点の試合でどちらの動きも素晴らしいが、試合はSpainの一方的な勝利となった。勝ったSpainの観客の狂気の様な喜び、負けたItalyの消沈振りが印象的であった。

 翌朝またMarianの家に行く。Sixtenが芝刈りをしている間、Marianが写真等を出して、彼女の家族の話をして呉れる。彼女は今年90になるが、一人で確り生活しており,物の整理も良く、次々と写真を出し、家族の説明をしてくれる。勿論彼女はSweden語しか話せないが、何と無く云って居ることが分かる。Sixtenは彼女のただ一人の男児で、娘は5人その中の2人は双子で、双子の娘の一人は又双子を生んだとかの説明だ。其々の娘が何処に住んで居るとか、又その子供、彼女に取っては孫、の写真は之だとか色々説明してくれた。幸せで充実した人生を送れたことの満足感が伝わってくる。

 仕事を終えて家に戻る途中数頭のトナカイにあう。低い車の目線からはトテモ大きくみえた。Bjorkseleに帰ってからは辺りを歩き廻る。Vindelaelvenの水量は何時のも年より多く、滔々と流れている。2回走ったレースの跡や、9年前にNordic Skiの練習をした森の中を歩くと、当時の記憶が蘇ってくる。

 彼らの家には2−3年来て居ないが、その間にSixtenが退職し、家の全面改装をほぼ完成させつあった。大きな家の床は全部張り替え、壁も一新した。これらの作業は職人を頼まず、全部自分でするのがこの国では当たり前なので。2階部は一階の半分程度の面積しかないが、10畳ほどの寝室が3つ,20畳程の共有空間、6畳程の小部屋、それに風呂とサウナが付いて居る。共有空間には小さな台所を新たに設ける作業が進行中であった。寝室には何処もKing SizeのDouble Bedが入って居り、黒の間、青の間、白の間と云った様に壁の色、Bed Spreadの色の調和を図って居た。これはAnnaの発案であろう。僕は白の間に2晩泊まった。

 6月3日朝早く、家の前からバスにのり、Lykseleに向かう。彼らもその直後、赤いTriumpでLykseleに向かう予定だ。熱心なクリスチャンである彼らは毎週水曜日に其の街で、恵まれない人々に炊き出しのサービスをしているのだという。

 BjorkseleからSkellefteaaまで真っ直ぐ行くバスは無い。回り道をしていく他無いのだ。最初東に20キロ程走り、20キロ程の交差点で右折し南に向かい、50キロ程でLykseleの町に着く。40分程待ってSkellefteaa行きに乗る。バスは先ほど来た道を引き替えし、交差点を通り過ぎ、更に北東に向かう。Norsjoの町を通り過ぎ、東に向かい11時半定刻にSkellefteaaのバス停に着く。Thomasが待っており、彼の家に向かう。

 最後の晩餐にはワインを飲んで、Swedenの伝統料理を食べる。酢漬けニシン、茹でたジャガイモ、スチュー風の牛肉などである。肉にはジャムをかけて食べる習慣があり、最初はやや抵抗を感じたが、今は肉とジャムの甘さは合うなーと思っている。ジャムには野生のベリーが多く、好まれるのはRingon Berryである。7月末から8月の初めに掛けて、赤い実を沢山付る。自家製のジャムを作る家庭も多い。

 翌日、6月4日、朝8時過ぎにTomasが空港まで送って呉れる。
僕がこの地域と関わりを最初に持ったのは1986年であり、Tomasはそれ以来の友人だ。娘のAnnaは1歳であった。今はAnnaの娘Julieが7歳となっている。その後縁あって何十回も訪れる事になり、友達も増えて行った。其の御蔭で、何とかこの地域で行きたい所には行ける様に成った。友達の助けを得たり、公共の交通機関を利用することにより可なり辺鄙な所にも行くことが出来るのだ。事情が許せば、Kungsleden(440キロのトレール)を歩こうと思う。

旅の費用:Air Ticket(Thai + SAS)140000円、お土産代:10000円、現地滞在費(交通費+レース参加料)10000円。合計16万円。


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皆さんの家「豊心庵」
平成24年7月12日掲載

12.06.03−09 Antibes 6日間走


6月2日昼過ぎに会場に着く。大会のスタッフ達が設営に励んでいる。5時に宿泊テントの用意が整う。Passportを預け、簡易ベッドを借りる。有田さんも来ている時間だが、姿は見えない。軈て列車が2時間遅れたと言って現れる。直ぐに買い出しに行く。土曜日なので店は早く閉まってしまう。ギリギリの所で、閉まりかけていたスーパーで買い物が出来た。その後海岸沿いのレストランで夕食を取る。会場から近い事もあって、客の殆どは走り仲間だ。

この時期この辺りは日が長く、日没は9時頃である。陽が暮れれば電燈のないテント生活では寝る以外に無い。入り口から近い所が僕の寝床、其の奥に有田氏、その更に奥まった所を沖山裕子さん用に確保して眠りに付く。次に目が覚めると入り口側に昨年も来ていたフランスのオバサンが眠っている。僕のベッドとの隙間は2−3cmしか無い。少し狭すぎる様には思うが、こちらから逃げ出す理由は無い。テントは大きく15−6人は入り、8人しか居ないので、空いている所はあるのだが、結局このままの状態で丸6日起居を共にすることに成る。

翌日は何をする訳でも無く、大方テントの中でゴロゴロして過ごす。昼ごろ本部へ行ってみる。主催者のGerard Cainが忙しそう立ち働いている。目が合ったので“寝て居る時間は有るのか”と聞いてみる。“今年で6回目なので、何とか日に4時間の睡眠が確保できそうだ。最初の時は8日間で6時間しか寝なかったが、今は皆の協力もあり、随分楽になった”とニコニコしている。ランナーの為なら何でもする男なのだ。走者にとっては6日間のお祭りであるが、主催者はその準備と撤収に更に前後1日ずつが加わる大行事なのである。2時にレースの説明会があるが、フランス語なので何のことやらサッパリ分からない。事前に配られてレース要領書の英語版には制約や禁止事項めいたことは殆ど書いて無く、ごく当たり前にレースに参加していれば、最後までコース上に居ることが出来る。

4時、グランドの北西側のコーナーから120人余りが走り出す。約3分の1周して、宿泊テントのある次のコーナーでグランドの外に出る。やや登って、左折すると小石や突起の多いダートの道を走る。グランドを左手に、右手にはランナーのテントやCamping Carを見ながら走り、突き当たりは海となる。左手に曲がり、荒れた舗装道を下って行く。浜辺には泳いでいる人も見え、トップレスも何人か見える。略下り切った所で左折すると、大きなプラタナス並木がある道となる。200m程先でU-ターンすると又ダートの道となる。

 

100m程で周回計測所があり、背中に付けたチップが反応し、ピーと言う確認音が聞こえ、モニターに名前と時間が表示される。其の先右に大きく180度曲がった所のモニターには参加者全員の周回数と走行距離が表示されている.その直ぐ先がスタートのア−チが掛かっている。1周は1km強である。

空には薄雲が掛かっているが、雲間からの日差しは強い。気温は27−8度程であろうか、風もあり、空気も乾いているので、気持ち良く走れる。兎に角6日間存分楽しむことだ。

元より、この間に何キロ走ろう等との目標は持たず、走れただけの距離で満足する事にしている。この大会に参加するモット大きな理由はコース上で間近に一流ランナーの走りを見る事だ。彼らが6日間如何に自己を制御し、最後まで走り続けるかを見る事だ。この短い周回コースを何百回も廻って居れば、それだけの触れ合いもあり、これが又楽しいのだ。 僕は元より時間走は老若男女、全ての人の競技と思っている。多くの場合短い周回コースで行われるので競技能力が大幅に異なる、多くの人が空間と時間の共有が出来る競技なのだ。ある地点間を結ぶ距離競技と異なり、景色の変化の妙は無いが、人との交流の面白さは其れを上回る。昨年一緒に走った何人かの仲間にも出会い、更に新しい仲間も出来る。ランナーは番号と共に名前の出ている表示を身に付けているので、其のうちに名前と顔が一致してくる。

日差しの方向がユックリと変わるのを感じながら、淡々と走る。位置的には札幌より北にあるAntibesはこの時期日が長い、10時頃まで明るい。真っ暗にならない内に早々とテントに引き上げ寝る事にする。6時間走り、マラソンの距離に至って居ないが、気にせず眠りにつく。

翌朝4時半ごろから走り始める。テントを出て直ぐ小石の多いダートの道となる。グランドの照明で大方危険なく走れるが、一部テントや車の陰に成って居る所は全く足元が見えないので、ゆっくり用心しながら通過する。見え難い所は此処だけで、後は略問題なく走ることが出来る。

一時間ほどすると東の空が白みだす。グランドの照明と天然の光との鬩ぎあいが何分かあり、其の後自然光が完全に辺りを支配するようになる。雲の間から大きな太陽が覗きだし、その神々しさに見とれて居ると後か来たRuthが太陽が綺麗だねと言って通り過ぎる。美しい物は誰が見ても美しいのだ。

7時から朝食だ。大きなテントで皆で食べる。フランスの朝食は至って簡単な様だ。フランスパンにバターやジャムを塗った物、ジュース、牛乳、コーヒー、蜂蜜、それにホットチョコレートだ。これらが定番の様で、レースの前に何軒か泊まったユースホステルでも略同じだった。ホットチョコレートはフランス人の好みで、アメリカでは余り出てこない。これの代わりにアメリカで必ず出てくるのはピーナッツバタ−だ。

食べた後は更にユックリと2周廻る。その後も10分で一周、略時速6キロで進む。10時間で60キロのペースだ。走り出して丸24時間後の16時には何とか100キロに達したいものだ。

昼過ぎ頃風が強まり、北東の空に黒く厚い雲が出てくる。波も荒く成り、砂を巻き上げた真っ黒な波が浜に打ちあがっている。遠くの方では雨が降って居る様である。風はこちらに向かって吹いており、其のうちこの辺も雨に成る筈だ。土地は乾いており、土埃が立っているので、適当な湿りは大歓迎だ。

暫くすると大粒の雨がポツポツ降り出す。早めにテントに退避する。殆ど仲間もテントに戻って居り、揺れるテントを懸命に抑えている。大きなテントが風に煽られ吹き飛ぶ懸念は大きい。強風によるテントの事故は少なくないのだ。13時半ごろ大粒の雹の混じった豪雨がテントに大きな音を立てて打ち付け出した。風はやや収まったが、雨は暫く続く。テントの屋根の弛んだ部分には大量の水が溜まったので、之を用心しながら外側に落下させる。更に降り続ければ、テントの床面が浸水する。幸いに、そこまで降らずに雨は弱まって来た。テントの外を見ると、この雨の中走っている人も可なり居る。彼らは勝負師だ。自己記録またはレースで上位入賞を狙って寸暇を惜しんで走っているに違いない。

我々のテントはグランドの一角にあり、ダートの道は一段と高く成って居る。この為に昨年もそうであった様に、テントの直ぐ横には大きな水溜りが立ちどころに出来る。走路は5−6mに渡り10cm程の水溜りと成って居る。早速臨時の渡り板が用意され、手作業による排水作業が始まっている。溜まっている水をより低い所に掻き出し,走路を本来の姿に戻す為、Laurentが懸命に奮闘している。彼は昨年スタッフ兼ランナーとして参加していたが、今年はスタッフ業に専念している。必要な作業をこなし、暇が出来ると愛嬌たっぷりに応援に回ると言った、芸人の素養もある面白い男だ。

再び走り出す。テントを出ると直ぐに例の水溜に掛かるアルミ板を渡り、ダートの道にでる。見るとここも半分ほどは水面下にある。乾いて居る時は余り気にしないが、この道は複雑な凸凹があり、辛うじて高い所は水面上にある。靴が濡れない様に左右に蛇行しながら通り過ぎる。途中では左右にテントを張っているサポーターの有志何人かが水溜りの排水作業をしている。ランナーの為に多くの人が手助けをしてくれており、感謝に絶えない。

雨が降って走り難く成るのはこの区間だけである。更に降ることがなければ、丸一日でスッカリ元の乾燥状態に戻り、土埃が立つに違いない。

雨の後は気温もやや下がり、爽快に走れる。7時過ぎの夕食時まで黙々と走る。夕食はパンの他に肉や魚も出る。野菜は缶詰を温めた物の様だ。人参やインゲンなどを細かく切った物で毎日殆ど変化は無かった。それに粒の小さい豆を煮た物も何回か出て来た。デザートも容器に入った異なった物が毎晩出て来た。それに2日間に渡り、参加者の中に誕生日を迎える人が居て、何種類かのケーキを食べることが出来た。特筆すべきは、毎日ワインが出た事だ。ワインの国フランスならではと思える。この為僕は毎日ワインを2杯飲んで、夕食後早々と寝る事にした。食事の後、肉刺が出来たらしいので、医療テントに立ち寄る。可なり大きなものが右の中指で出来ている。これ程早くロードレースで肉刺が出来たことはかって無かったので驚く。
何とか丸24時間で100キロは超えたので、9時過ぎに寝てしまう。

2回目の朝を迎える。4時半ごろから走り出す。肉刺が痛いので、出来るだけ痛くない様に前進する。テントからでて直ぐの凸凹道では時折痛みが増すので閉口する。2周ほどすると、痛みがやや治まる。痛みに対する慣れであろうか? 痛みが最少となる速さで、休まずに動き続ける事だ。給餌などの為、5分も動きを止めると、次に動き出すのが大変なので、歩きながら食べる事にする。小さな容器に入った、パスタやポテトチップ、やパン等を食べ、容器は次のゴミ入れ捨にてる。

エードにある食べ物は時間帯によって若干の違いはあるが、中々種類は多い。2−3種類のパン、パスタやスパゲッテー、ハム、フランクフルトソーセージ、サラミソーセージ、ゆで卵、茹で芋、ポテトサラダ、マッシュドポテト、フレンチフライドポテト、ポテトチップ、ピーナッツ、チョコレート、リンゴ、オレンジ、バナナ、フルーツサラダ、ヨーグルト、スープ等などである。飲み物はオレンジジュース、コーラ、炭酸飲料、水(ガス入り、ガスなし)、コーヒー、紅茶等々。スポーツドリンクと称するものは無かった。之は各自が用意するものらしい。この他、アイスクリームやクロワッサン等は有料となっている。僕は丸6日大会当局の提供するものだけを食べ、帰国後10日ほどで検診を受けたが特に異常は見つからなかった。

天気が良く日差しが強いので、露出部に日焼け止めを塗って走る。特に首筋は焼けやすいの、走る方向が変わるごとに帽子の向きを変えて日焼けを最小限にする様務める。

昼過ぎ左足の指が痛み出すので、医療テントで見てもらう。右と同じ指に肉刺ができている。昨年と同じ足、同じ靴で同じコースを走って居るので、何故肉刺が出来るのか分からない。右足が最初に悪く成り、その痛みを軽減する為に、左足が何時もと違う動きをしているのであろうか?

処置をしてもらいコースに戻るが、動き出すのが大変だ。凸凹僕道に出ると数歩ごとに突出した痛みが出る。安定した一定の痛みであれば、何とか我慢できるが、時として起こる大きな痛みは走行意欲を大きく削ぐ。前に踏み出すのが、その前から苦痛に成るのだ。只僕は6日間走に来ているので、前進する事だけを考えねばならない。兎に角この6日間は他のことは全て忘れ、前に行くことを考えればいいのだ。食べる事や寝る事の心配は一切ない。いつでも食べ、何時でも寝ることが出来る。こんな走り三昧の環境は滅多にない。参加費は290Euro,1日3食付、宿泊、御遊び代込みで5000円程だ。それにしても痛いものは痛いのだ。
夕食に時間まで走り、ワンイ2杯を飲んで寝る。床に入ってからも指先がジンジンと痛い。寝ていても痛いのなら、又起きて歩こうかと思うほどだ。其のうち寝込んでしまう。

6月6日、3日目の朝を迎える。痛みは引かない。靴を履くのも大変だ。4時半、何とか外に出て、歩き出す。一周20分掛かる。時速3キロだ。普通の人が歩くより、遥かに遅いのだ。朝食を取る前には時速5キロまで上げることが出来た。10時間で50キロ行ける早さだ。それにしても去年と比べ、何と出来の悪い事か? 朝食の後は止まらずに歩き続ける他ない。

夕方には痛みが更に大きく成った。見てもらうと、両足とも外から2番目の指を遣られている。肉刺は伝染する様に思える。何処かが悪くなると、他の箇所がそれを補正する動きをし、それが伝染現象の原因ではなかろうか?

今日もワインを2杯飲んで寝てしまう。昨年はこの時点で300キロを超えていたが、ヤット200キロである。
4日目の朝となる。起きるのが憂鬱になる。意を決して走路に出、ゆっくりと歩き出す。朝は寒いので長袖一枚余分に着て、3周する。陽が登るころヤット体が温まる。朝食の後は昨日と同じ様にトボトボと歩き続ける。多くの人が好意の声を掛け、追い抜いて行く。16時には3日間走の連中が走り出し、走路に人がやや多く成る。明日のこの時間は2日間走の連中も加わる。走路の人の多さは時間帯によって大きく異なる。シアスタの習慣のある南欧の人たちは正午から3時ごろまでは食事と休養をするのであろう。この時間帯は走路の人はメッキリ少なく成る。海で泳いでいるランナーおり、木陰で寝て居たり、テントの前でビールを飲んでいたりする。日差しが強く、気温も高いので、この習慣は理に適っている。何も暑い最中に走る必要は無く、条件の良い時に走れば良いのだ。僕は夜早く寝たいので、ビールを進められても、断り、トボトボと歩き続ける。

ワインを2杯飲んで寝る。足はズキズキ痛む。何と人間とは弱きものかな? 生体と外界を分ける皮膚の本の一部が破損されただけで、人の動きには制動が掛かってしまう。車で言えば、表面の塗装の一部が損傷しただけだ。駆動部は何らの損傷も無いので、本来の走りは十分出来る。ペンキが剥げただけで走れ無い車はあり得ない。只車には剥げたペンキを自分で修復する力は無い。人を含む生体には損傷個所を修復する力が備わっている。しかしこの修復能力は無限ではない。痛みは損傷が修復能力を超えない様に、身体が出す信号と僕は解釈している。信号無視は身の破滅に至るのだ。痛みと上手に付き会い何とか局面を乗り越える他ない。痛みは生きて居る証拠でもあり、ある程度の我慢も必要だ。痛みが最少に成る様に、着地に気を付けて前進を続ける。

5日目の朝となる。丸5日にして、昨年3.5日で達成した360キロは何とか超えたいものだと思い、走路に出る。出来る限り真面に歩きたいと思うが、傍でみれば足に障害のある人の動きに見えるに違いない。肉刺の他に両踵外側の皮膚の角質化した部分が昨日来痛く成ってきた。特に左側の方の痛みが大きい。昼ごろ診て貰うと、角質化した部分の傍に大きな肉刺が出来ている。柔軟に動く普通の皮膚と、角質化し動きにくく成った部分の動きのズレによって肉刺が出来た様だ。角質化した部分が痛んだことは過去にもあったが、隣接部に肉刺が出来たのはこれが初めてだ。

 

更に6時ごろになると、ダートの悪路の途中で左足先に異常な痛みを感じる。如何も爪が剥がれた様だ。足を引き摺りながら医療テントに辿り着く。案の定左の外側から2番目の爪が完全に抜け掛かっている。この指は全周肉刺となって居り、完膚無き状態だ。今まで出来た肉刺は右足の指2本、左足の3本、左足の踵,計6か所と毎日増え続けている。

肉刺の御蔭で走行距離は上がらず、筋肉や全体の疲労感は少ないので、痛くなければ結構走れる体力は残っている。何とも歯がゆいが如何にもならない。
ワインを2杯飲んで寝てしまう。明日は最後の日なので、何時もより早く起きて歩き出すことにする。

最終日は2時に起き、歩き出す。昨日で何とか昨年の距離は超えた。2.5日余分に居た分の積み上げは如何ほどと成るのであろうか? 50キロは何とか超えたい。1日20キロにしか相当しないが、現状ではこれでも過大な目標に思える。残りの時間は13時間余り、食事や休憩を考えれば正味は12時間ほどだ。時速4.5キロで何とか可能な目標だ。

最後まで確りとした走りをしている人も居れば、故障を押して体を大きく傾げながら歩いている人も居る。何時みても木陰で、休んでいる人も居る。ブラジルから来て、フランスで働いているJeffもその一人で、周回ごと一緒に歩こうと誘うが、もう一周してきたらといって木陰から終ぞ出てくることは無かった。表彰式で分かったが、この男は僕より早いのだ。僕の走って居ない時間に目いっぱい走り、昼間は休んでいたのかもしれない。6日間走は思い思いの走りがあっていいのだ。大会名もFrenchUltraFestivalとあり、楽しんで走る事に意義ありとしている様である。大会中地元の子供、ランナーやサポーターの子供達がランナーと一緒に走る時間帯も設けられている。正にお祭りで、実に楽しいレースである。

大会中に雨が降ったのは一度だけで、靴はダート部分の土埃で覆われ元の色が分からない程になっている。足も靴下も同様に汚い。6日間こんな汚い恰好で良く歩いたものだ。何とか16時には最後に設定した目標に達し、満足する。終了一分前の号砲がなる。終了に備える様にとの合図である。次の号砲で終了である。参加者はこの時点で、達した位置に自分の番号に小石を乗せて、競技終了である。最終計測は主催者が行う。

六時からは表彰式があるので、その前に浜に行く。浜は小石が多く、肉刺の出来た素足で歩くのは大変だが、少し泳いでシャワーを浴びるとスッキリとした。其の後医療テントに行き、診て貰う。右の踵にも肉刺が出来ており、都合七つ出来たことに成る。 

表彰式は賑やかである。ラテン系の人達が多く、大声が湧き上がる。その後、パエリアを食べ、ワイン等を飲む。参加者、サポーター等を含めた大パーテーで、バンドも入っている。我々はAntibesで家庭を持って居る青木夫妻を招待しての宴であった。昨年もそうであったが、満春さんは毎晩違った味のお握りを持って、応援に来てくれた。中々できる事では無いと感謝している。
満腹と成り、酔いも回ってくると、ダンスが始まる。何人かのランナーと再会を約し、連絡方も確認し、テントにむかう。 

 

レース終了翌日、Marseilleに向かう。Hostelに着いて、夕食に出かける。中心街からやや離れて居り、日曜日なので開いている店は殆ど無い。一時間以上歩き回り、ピザ屋を見付け食にありつく。選択の余地は全くないが、之で良いのだ。之が本来人間の生き方で、フランスには未だ残っているのだ。アメリカや日本の様に年中無休、昼夜営業の店等無い方が良いのだ。

レース参加の序に今回は昨年行っていない、地中海西部の観光地を回る事に、レースの10日前にMarseilleに入った。Marseilleに2泊し、市内の観光を済ませる。港町で、旧港には沢山の小型船が浮かび、新港には大型の観光船が何隻も泊っていた。旧港の周りは工事中で柵がめぐらされていたが、水辺にはレストランが並び、何処も盛況であった。又湾の奥、町に近い辺りには沢山の魚の露店が並び、新鮮な魚がキロ単位で売られていた。魚種は豊富でサバなどはキロ200円程で売られていた。変った物としてはサザエに似た巻貝の蓋が売られていた。綺麗なオレンジ色をしており、装飾品として買う人が居るのであろう。湾の両端には古い要塞の遺構がる。又港からは丘の上にNotre Dame大聖堂が見え、坂を上って見に行った。丘の上からの眺めは素晴らしい。町の全貌は元より、地中海の島々、ヨットや観光船も見える。

その後Spain国境に近いPerpignanに電車で移動、一泊。此処は以前Sweden,Demark,Germany,Belgium,Luxenburg,Franceを経由しSpainに行った時に通ったことがある町だ。巨大な煉瓦つくりの要塞の在る町で、何故かその周りには浅黒い肌の移民の姿が多かった。Hostelの傍には警察ホテルがあり、その裏には警察犬の犬舎もあった。退役警察犬の余生を送る所だそうだ。警察ホテルは可なり大きく立派なもので、他の町にも同様なものがあった。日本にも同じ様な施設があるのだろうか? 町は国境に近く、道路標識はフランス・スペインの2カ国表記と成って居た。

公共の建物には三色旗が何時もはためいており、フランス革命の理念、“自由、平等、博愛”を常に訴えている様だ。多くの建物の正面に、Liberty, Egality,Fratanityの文字が刻まれている。フランス動かすこの理念は国内のみならず、海外の事件に関しても働いている。平和や人権侵害に関する関心が高いのだ。Marseilleのホステルの傍に一寸した公園が在り、石柱がたっていた。寄ってみると1915年に起きたトルコによるアルメニア人150万人の殺傷が記されてあった。諸外国で平和や革命に尽くした武人、文人の銅像なども彼方此方で見かける。わが国にも類似のものは余り見かけない。

続いてMontpellier,Nimes,Arelsに各一泊、Arvignonには2泊した。Montpellierも過去2度通過した町である。列車はPerpignan-Montpellier間地中海に沿い、海抜すれすれの湿地帯を走る。車窓の両側に水辺が続くことがある。丸で海の中に敷設された鉄道の様で、鉄道の幅だけが陸地なのだ。車道は遥か内陸を通っているのであろう。線路沿いには野生の赤いひなげしが彼方此方に咲いており、又耕作されて居ない畑は一面の赤で覆われていた。ケシは生命力が強いのであろう。その他良く見られる花は灌木に咲いている黄色の花で、これも彼方此方で見られた。

Montpellierは大学のある大きな町で、人口増加がフランス一の町だそうだ。電車を降りると、駅前から路面電車の通る立派な大通りが続く。両側の建物は殆ど石造で立派なものが多い。途中のホテルに立ち寄り、地図を貰い自分の向かう安宿の位置を尋ねる。丁寧に教えて呉れる。フランス人はフランス語に対する気位の高さから、英語は知って居ても話さないと聞いて居たが、僕の体験では全くその様な気配は感じられなかった。本当に自国語しか話せない人を除き、親切にこちらの云うことを聞いてくれた。

Nimesはやや小さいがローマ人が作った円形闘技場がある町だ。これら古い遺産は其の維持が大変な様で、足場を組んで保守作業を行っていた。この他にもローマ人作った遺跡があり、噴水のある広大な公園の丘の上には物見の塔がのこっている。町の北東100キロ程の所に世界遺産となっている水道橋、Pont de Gardがあるが、時間が無く行くことは出来なかった。

Arelsは更に小さな町であるが、色々歴史的な興味がある町だ。組曲“アルルの女”舞台となった町だ。恋の端緒となる闘牛場は今も残っているローマ時代の円形闘技場であろう。
天気が良く、修復新たな闘技場は眩いばかりの白さであった。連接してローマの野外円形劇場がある。

 

町の北西にはスイスを源とし、地中海に注ぐ大河ローヌ川が流れて居る。これに連なる運河や、地中海と連なっている運河が幾つかある。その一つにVan Goghの橋が架かっている。運河には水面高さを調節し、船の航行を可能とする水門が必要である。跳ね橋は、海面下の土地が多く、水利の技術の長けたオランダの技師の作で、1830年ごろ完成した様である。Goghはこの街に一年以上暮らし、幾つかの傑作を残している。その一つに跳ね橋を渡る馬車の絵がある。木製の橋は1930年にコンクリート製に変えられた。この橋は1944年ドイツ軍によりが破壊されたが、その後当初の木製の橋に架け替えられ、歴史の面影を留めている。町の外れにあり、時折大型バスで観光客が訪れるだけで、長閑な田園風景の一部となっている。町にはGogh広場や絵画館がある。Gogh広場は天気の良いこともあり、咲いている花の色の鮮やかさは南仏ならではものであった。

 Arvignonには童謡で有名な橋がある。町の北側を流れるRhone側に架かる石の橋で、12世紀に架けられ中州を跨ぎ二股になっている川に掛かる橋で、当時は約900m、橋脚は22あったという。何回もの洪水により、橋脚の流失があり、17世紀後半は修復を諦め、今はArvignon側の4つの橋脚が残っているのみである。この橋は神のお告げを受けた牧童が川を渡る人々の苦難を救う為に作り出したという。勿論一人で造ったわけでは無く、次第に多くの人の協力を得ての完成である。“信念岩をも通す”の例であろう。
 町は卵形をしており、全周が高い城壁で囲まれている。町には橋、城壁の他に劇場など立派な石造建築が見られる。

 この街には出発前に予約した日より、一日早く着くように予定を変更し、その時点でその旨メールで宿泊変更の依頼を出して居たが返事は来なかった。着いてみると、今日は満員で宿泊は不可能とのことで、他を当たって呉れた。少し離れた所のYMCAなら泊まれるとのことで、そこに泊る事にした。YMCAに着くとそこも略満員の状態であった。夏休みの前で子供たちの遠足姿が非常に多い時期でもあり、子供達がバスで乗り付けていた。元よりFranceはVacanceの国である。大人も長期のVacanceの前に週末は泊まり掛けの旅をする様で、週末は列車も混む。Euro圏は大きな経済問題を抱えているが、週労働35時間のFranceでは人々の生活にまだまだ余裕あるように見える。

 次の日は少し北のOrangeの町に行く。小さな町であるがローマ時代の凱旋門や9000人収容の巨大な円形劇場があり、今でも使われている。ローマ人ほど行く先々に歴史に残る建造をした民族は居ない。その範囲も数も驚くほどだ。Arvignonに戻る列車までは時間があるので、郊外の尼寺に向かった、案内書の距離表示に間違いがある様で、中々着かない。諦めて引き返す。途中行く時も見たが、多くの人が農作業をしているので,傍まで行って見る。大型のトラクターを使い、葡萄の苗を運び、50人程の作業員が腰を曲げ植えて居た。機械や苗の手配をしているのは農場主の家族の様で、話しかけると身振り手振りで答えて呉れた。作業員は外国からの労働者の様だ。兎に角広大な農地に苗を一本ずつ植える作業で、炎天下の重労働だ。苗も見せて呉れたが、挿木の様だ。20cm程の木に若芽が出て居り、根も確りと付いていた。之を前もって敷設してある、規則的に穴の開いたビニールのマルチシートの穴に突っ込む単純作業だ。

 

 Arvignonに戻り、当初予約していたHostelに行く。Rhone川の中州にあり、対岸のArvignonの城壁、何十台ものバスが駐車しているArignon橋、教会の尖塔などが一望出来る。周りは宿泊施設や広大なCamp場あり、寛げる場所であった。民営であるが、立派な施設で料金も16Euro程と安い。
 明日は6日間走のあるAntibesに移動の日となる。

今回移動の手段は全部鉄道であった。100キロ以上の長距離は出発前にInternetで切符の手配を済ませて置いた。この際不思議なことが分かった。フランス国営鉄道、SNCFのWebsiteから買う方がSNCFを名乗っている日本語のWebsiteで買うと同じ距離、同じ時間帯の切符で価格が倍半分程の違いがあることが分かった。

 今回の旅行費用は航空運賃13万円、フランス国内滞在費約65000円(宿泊費20Euro I 9、交通費170Euro,食費100Euro,レース参加費290Euro)、合計200、000円であった。Luft Hansaの便を使い、Marseilleの出入りであったが、これを行きMarseille帰りはNiceにすれば、モット時間に余裕が出来、また若干費用も減らせる可能性があると分かったのは旅の中ごろであった。馬鹿の知恵は後で出るとはこうゆうことなのであろう。


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