平成15年4月5日開設
  
P-10 2011年版 (平成23年編)

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プログラム P-10 2011年版(平成23年編)

11.10.16 Istanbul Marathon
11.09・10−24 Andean Trai―angle Running Adventure
11.08.06−22JMT踏破記
11.07.01 Lapland 100K
11.06.05〜11 Antibes 6日間走
11.05.28 Stockholm Marathon
11.02.27 Cowtown Marathon



平成23年12月2日掲載

11.10.16 Istanbul Marathon
11.10.20・大森


ホテルに昨夜御願いをして、当日は何時もより15分早く朝食を取る事が出来た。
我々4人の他にも10名以上のランナーが泊まっていたものと思われ、食堂、ロビーは込んで居た。出発はやや遅れたが、7時前にホテルを出て、バス乗り場であるアヤソフィヤに向かう。小雨の中を10分ほど歩くと、モスクの北側の塀に辿りつく。多くの人が並んでいる。バス乗り場はモット先の方であるが、我々が着いた其の時にバスが来て扉が開く。運が良いと急いで乗りこむ。

バスは市内唯一の路面電車に平行に走る。途中までは出走番号を貰いに行った同じ道を走る。電車の終点からは左に入り坂を登り、更に右に曲がって、Bosporus大橋を渡る。渡り切って300−400メートルの所でバスが止まる。20分ほどで着いてしまい、出走までは1時間半以上ある。皆は降りる。着替えをしていると運転手が下車を促すので、降りざるを得ない。小雨の中、外で着替えをするのはどうも気が進まない。気温は10度近辺と寒い。何とか着替えを済ませ、簡易合羽を着て待つが寒い。待っていると一緒に写真を撮ろうと誘いがあるので応じる。 

Bosporus大橋は交通の要衝で東西を結ぶ大動脈である。これを完全に封鎖し、レースのみに使うらしい。こんな事が出来るトルコはある意味で豊かなのであろう。

それにしても風の吹き曝す橋の上で待つのは寒い。荷物を預けに行くと、バスの傍が風の少ない事が分かり、そこで待つことにする。北側には橋の風防ガラス壁、南側はバスの間の1m程の通路に人が犇いている。其処に立ったり座ったりしながら、一時間以上待つ。会場には喧しい程の繰り返し放送が流れている。11ヶ国語で挨拶をしていると言うが、日本語は無かった。此処では日本は遠い国であり、取るに足らない国なのだ。

荷物を預けに来た日本の女の子に寒くないか訊いてみる。上も下も短く、トテモ寒そうなのだ。マラソンは4度目で海外は初めていう。友達3人で来ているそうで、やがて彼女達も遣って来た。女はいい度胸をしている物だ。其れ程早くは無いが、折り返し地点で見た限りでは完走は出来た様だ。この他の日本人には殆ど会わなかったが、沿道で応援している姿は見えた。旅行社の人の様だ。

出走10分程まえに橋上で小用を済ませる。真下に落ちれば立ち木の中に落ちる筈だが、橋の路面には内側に傾斜しており、直接は落ちる心配はない。雨と一緒に処理される筈だ。

出走地点に並ぶ。ヘリが2機飛んでおり、スタートは間近である。トルコは車は右側走行であり、西に向かって車の走行方向に走り出す。真ん中に分離帯があり、其の反対側は15キロの連中が走っている。思ったより順調に走り出す事が出来た。スタート直後は捨てたボトルや脱いだ衣類等、本来路上に無い物が散乱して危険な状態が大きな大会では良くあるが、このレースはこの点では良かった。マナーの良し悪しより、ランナーの数に対する走行幅の広さの影響かも知れない。

Eurasia Marathonとあるが、出発点の橋の手前の200−300mと橋の中間点までの450mをと足しても、実際にアジア側を走るのは1キロ弱だ。あっと言う間にEuropa側に入る。西に向かって走って居り、北よりの風が右側から吹いている。合羽を来ているお陰で寒くは無い。橋の中央部まではやや登り、其の後下って左手に折れると短い登り、其の後はやや長い下りの後、路面電車の道に出る。海岸沿いの主要道路であるが、此処も上下完全ストップでランナーのみが走行している。左手50〜100メートル程に海が見え、巨大な客船の1部が見える所もある。走路は海抜4〜5メートル程で、酸素濃度も高く走り易い筈である。

雨がやや治まってきたので、合羽を脱いで腰に巻く。走路は平坦で気分良く走れる。雨のせいもあろうが沿道で応援をしている人は殆ど見かけない。距離表示は2.5キロ毎にあり、7.5キロ地点で給水のボットルを受け取る。350cc程の瓶で、呑み切るまで手に持って走る。他のランナーは2〜3口飲んでは捨てて行く。勿体無いの意識や環境に対する配慮はないのであろう。

今まで走って来た所は新市街であり、金角湾の入り口に架かるGarata橋を渡ると旧市街となる。橋を渡り切る手前の角で応援に出ている同行の女性群に手を振って通り過ぎる。走り出す前の段階では道路のどちら側を走るのかも分からず、又交通規制がどの程度の物かも分からなかったので、会える事は余り期待していなかったが、最上の場所で待機していた女性群の知恵は流石と言うべきか?寒いので、走っている方が楽であろうのに、橋上に長時間立ち尽くす彼女達には感謝、感謝である。

橋を過ぎ右手に折れ、旧市街の北側を金角湾に沿って走ると直ぐ10キロの表示がある。略西に向かって走って居り、左手には城壁の名残が彼方此方に見られ、其の内側の一段と高い辺りにモスクが幾つも見える。日本の神社やお寺と同じ様に、大小のこれら宗教施設は沢山あるのだ。只モスクはドーム型の屋根を持ち、其の上、天を目指すミサイルの形状をした高い尖塔を持つので目に付きやすいのだ。湾岸の走路は起伏が少なく走り易い。ランナーの列も段々と長くなり、抜いたり抜かれたりする際に声を掛けて来る人も居る。

次の橋を右手に見て走り過ぎると、折り返して来るランナーの姿が見える。分離帯を挟み、可也の距離はあるが、同道したランナーに出会えないか注意していると、一原さんが元気に走って来る。名前を呼ぶと手を挙げて走り過ぎる。其の後吉田さんとも出会うが、菊池さんとは会うことが無かった。湾沿いに10キロ弱走ると折り返し点である。大きく曲がり込む折り返しで、速度を落とさずに曲がれる。

折り返して6キロ程で右に折れ、城壁内の旧市街を走る。Ataturk大通りを登っていくと立派な水道橋が見える。ファーテフとエミノニュの丘の鞍部を越えて王宮の傍の地下貯水槽に水を導く為に砂岩とレンガで4世紀に作られた物で、その橋脚の間をAtatruk通りが走っている。橋を潜りやや登るとまた下りとなる。

下った先は又海である。右に曲がってマルマラ海沿いに走る。Istanbulの旧市街は北は金角湾、東はBosporus海峡、南はマルマラ海に囲まれた半島なのだ。

海に出ると直ぐに反対側には折り返しランナーが見え、35キロの表示も見える。こちらはヤット20キロを超えたばかりだが、先頭ランナーはもうFinishしている時間になっている。

直ぐに中間地点となるが、此処には計時マットはない。5キロ毎にマットがあったが、後で通過時間を知らせて貰えるのだろうか? 単なる通過の確認の為のマットかも知れない。

反対側を走っているランナーとの距離は可也あり、個人の識別は出来そうにない。片側2車線の道路を走っているが、真ん中にもう2車線あり、この車線は登り又は下りの混雑緩和の為に使う車線の様だ。道路は余裕を持って作っており、更に海よりに可也の幅の緑地が広がる。その沖には可也の数の船舶が停泊している。喫水線の下の赤い部分が多いのが殆どで、黒海沿岸の貨物や油等の荷待ちの船の様だ。更に走って行くと、海岸の城壁に直角に交わる堅固な城壁が見える。陸からの襲来に対する防護壁で、この柵と海岸沿いの城壁に囲まれた部分が旧市街である。

もう半分は終っており、残りのキロ数から折り返し点までの距離を推測する。25キロの先、30キロの手前が折り返しであろう。今度の折り返し点も大きな円と成って居り、無理なく折り返せる。コースは概ね平坦であり、走り易いコースであり、記録の出易いコースと思われる。コース記録は昨年出た2時間10分台だという。

折り返して15分程で30キロの表示がある。この辺りまで来るとランナーの数も疎らになる。2車線の広い道路の10メートルに一人居るか居ないかといった状態だ。反対側からもランナーが遣ってくるが、其方はもっと少ない。

35キロあたりに来ると、彼方此方から大きな唸りが暫し続く。モスクの拡声器からのお祈りであろうが、僕には単なる騒音に過ぎない。特にモスクが密集する所では彼方此方から唸りが交じり合って、不快音となる。其れ程長い時間ではないので、我慢は出来る。

37.5キロで最後の補水をする。3本目である。後は途中で林檎の欠片を二つ食べただけだ。林檎の他角砂糖を置いてあったが、此れには手を出さなかった。他にスポンジを置いてあった所もあり、一つ貰い顔を拭いた。大粒の雨が降り出すが、此処まで来れば何とか成る。Bosporus大橋の東の橋脚が見えて来るとFinishは近い。今朝はあの袂の東から走り出した事を思い出す。

走っている左手の城壁の上はトプカプ宮殿であろう。城壁に沿って左に回りこんで行くと、前方に何人かの誘導要員が見える。愈々Finishが近いことを実感する。海岸道路を離れ、宮殿西側の散策路を走る。最初は登り、又下り、登ると電車道に出る。又登りである。500m、400m、などの数字が見え、交通を完全にストップしている沿道には沢山の人が応援している。沿道の男から“歳は何ぼか?”と聴かれたので、71だと答える、又何か言っていた。このレースで歳を聴かれたのは此れが2度目だ。髭が白いので可也の歳に見えるのであろう。

Finishはブルーモスクの横にあるGerman FountainとEgyptから持って来たオベリスクを結んだ奥の方である。手前で女性群の声援を受け、無事Finish.直ぐに、完走メダルや飲み物を受け取り、記録証を貰い、荷物を受け取って家内達を探しに行くが見当たらない。着替えはせず、合羽を羽織、ホテルに直行する。
天気を除けば先ず先ずのレースであった。
5時間8分3秒。

Istanbul Marathonの特徴その他

大会主催者のレースに対する最大の振れ込みはアジア大陸〜ヨーロッパ大陸を結ぶMarathonである。確かにそうかも知れない。只此れはアジア大陸、とヨーロッパ大陸の存在を認めた場合に限る。

僕は地理や地質学の門外漢であるが、どう見ても1つである大陸をヨーロッパとアジアの二つに分ける事には賛成できない。此れだけではない。世界最大の大陸は此処で言っているヨーロッパ、アジア大陸と陸続きのアフリカも含めたものではなからろうか?これら全てを1つの大陸と見做すのが最も合理的ではなかろうか?南北アメリカも大陸としては1つとすると、地球には4大陸しか無い事になる。オートラリア、南極、南北アメリカ、それにアジア、ヨーロッパ、アフリカを含む大陸である。

地上に幾つの大陸があるか?この答えは大陸の定義によって、変ってくる。純粋に地質学手的見地の他、政治経済文化的な思惑が入り込むと、4つでは無く、7つとする説が出て来る。オリンピックの旗は5大陸としている。これは疑いのない大陸である南極を除き、ヨーロッパとアジアを独立の大陸とせず、Eurasia大陸と考えたからである。南極には国は無く、永住者も居ない事からオリンピックに全く関係が無いとの考えから除外されたので、それなりの理由はある。

仮にアジア及びヨーロッパを夫々独立した大陸と認めたとしても、2大陸を結ぶMarathonの振れ込みは余りにも仰仰しく思える。此処で言うアジア側を走る距離は1キロ足らず、全体の2.5%に過ぎないからだ。
僕はこのレースがAsia−Europaと大陸を結ぶレース以上にモット大きな特徴があると思う。

先ず走路の大半が海岸沿いであることだ。走路から海の見えない所は5キロあるか無いかで、其の上、海抜の低い平らなコースを走れることだ。海岸線に沿ったレースは他にもある。例えば僕が2度走っているBig Sur Marathonだ。これはCaliforniaのPacific Highway No.1を封鎖して行うレースであるが、最初の内は海は全く見えず、Finish辺りでも見えない。其の上、海からは可也離れた所を走り、起伏も大きく、全体に海面から遥か高い所を走る。海岸線の此れだけ低い海抜のコースは余り無いのではないかと思う。

もう一つの特徴は城壁で囲まれた古都の略全周を走り、最後に宮殿の横を通り、市中心部Blue Moskの傍がfinishと成っていることだ。辺り一体は世界遺産だ。

3つ目の特徴は走路を完全に封鎖し、関係車以外の車の走行を認めない事により、ランナーが安心して走れる事であろう。

今回で33回のレース。Marathonと15キロは走路を分けて同時スタート。
5キロの部はやや遅れてのスタート。

レースの前
誰が言い出したのか定かでは無いが、年が明けて間も無くIstanbulを走りたいとの話しが届いた。走りたい所を走るのが一番いいので、段取りを始める。只その後中東の政治情勢の不安定化、東日本大震災等の大きな環境変化があり、一時は如何したものかと思いもした。中東情勢が悪化すれば、近隣の国に難民が押し寄せ、レースどころでは無くなる可能性もあるのだ。

中東情勢と言え震災と言え、我々には何とすることも出来ない事象だ。幸い参加を希望していた仲間にはこれらの影響を受けた者は居なかった。将来のことは予測し難いが、レース参加の可能性を確保すべしとの合意が出来、4月初めに航空便や宿の手配、参加申し込みを済ませた。特に航空便は遅くなる程割高になるからだ。原さんの奥さんもこの時期に誘いのメールを入れていたが、返事が来たのは僕がSweden・Franceに行っていた6月に成ってからであった。家内ともメールで連絡を取り合って、典子さんの切符の手配は出来たが、5万ほどの価格の差が出ていた。

全ての手筈が整って3ヶ月後、愈々Istambulに向かう事になる。遠くから成田に来る人も居たが、予定通り全員無事出発出来た。

Istambul空港に着いてから一寸したhappeningが起こる。総勢8名であることから、タクシー2台に分乗してホテルに向かった。勿論、出発前に2台の運転手には行く先を告げ、先行車に続く様に指示をしておいた。旧市街のホテルまでは20キロ程である。海岸の一本道を順調に走って、旧市街に入るとガードを潜り細い道を複雑に何回か曲がり、大丈夫かなと心配し出した頃、ホテルの表示が見えたので一安心。

フロントでCheckinの手続きをするが、予約条件とは違う。Twinを4室予約し、書類も持っているが、今晩だけは予約の部屋が無いと言うのだ。今晩だけは4人1室、後はTwin二室にしてくれと言うのだ。これ以外の部屋は用意できないと言う。長旅で疲れている事もあり、取敢えず先に着いた我々夫婦、吉田さん、典子さんは4人部屋に納まる事にする。勿論、料金の調整は必要だ。

部屋に納まって暫く経っても、菊池・一原夫妻は到着しない。暫く経って電話が成るが、連絡は出来ない。下に降りて行くと、ヤット到着していたので一安心。

彼等のタクシーは道に迷い、とうとうホテルに到着出来ず、可也遠くで降ろされ、荷物を運びながら、ホテルに到着したと言う。タクシー代も多めに請求されたと言う。飛んだ災難だ。

宿でCheckinをするが、これも又話しが違う。Twin2室はこのホテルでは用意できず、近所のホテルに泊まってくれと言うのだ。夜も遅いので、価格調整と、明日からは予約どおりのTwin4室を用意する事で合意する。合意せざるを得ない状態だ。荷物を持って200メートルほど先のホテルに全員が納まるのを見て戻る。

僕は旅は体力と思っているが、TravelはTroubleだという人も居る。何かとTroubleが起こるのだ。今日もタクシーに加えて、部屋の問題が起こった。どちらも、小さな問題では無いが、何とか対処出来たのが幸いだ。
翌朝朝飯は予約している食堂に全員集まり取る。豪華朝食ではないが、極端に粗末な物でもない。
ホテルからは人気の観光スポットは皆歩ける範囲にある。天気は悪く小雨交じりだ。

Blue Mosk,Istanbul大学正門,Ayasofyaを見て歩く。
歩いていると日本語で声を掛けて来る客引きが至る所に居る事が分かる。人は暇では無く、こうして近付いて来る輩は生活の為に、確りとした目的を持って近付いて来ることを忘れては成らない。何かを売りつけたり、何かを抜き取ったりする為の接近であり、決して好意などと考えるべきではない。
興味があれば話しに乗っても良いが、それ以外は時間の無駄使いで、出来る限り早く接触を切り上げることが必要だ。

今日の男も我々を絨毯屋に連れ込み、店の男が盛んに絨毯の売込みを長々としていた。彼等はプロの絨毯屋で絨毯の全くの素人と我々と比べると商品に関する知識は感心するほど持っている。興味が無ければ、早めに切り上げ他の散策をしたほうが良い。

雨も降っていたこともあり、観光初日目はこの他地下貯水槽を見ただけで終った。出発前に犯罪予防の為に行動は団子状でする様御願いしていたが、飛行の途中で全て蒸発又は気化して仕舞ったようだ。長い縦列も彼方此方で途切れる有様であるが、皆大人余り心配する事は無いのかもしれない。

14日、この日も雨である。出来る限り屋内の観光をする。Grand Bazzarに行く。宝石や装飾品を中心に、衣料、絨毯、陶磁器、お土産品など何でもある広大な市場で、全て屋内にある。15世紀の中頃、完成し、起伏のある土地を建物で蓋った市場で,4000軒の店が迷路の様な60近くの道筋に並んでいる。地図を持ち余程注意して歩かないと、行きたい所に行く事は難しい。中に入ると、達者な日本語で呼び込みがある。日本人は金蔓なのだ。

今回は男女4人ずつのグループであり、女性と男性の物の買い方の違いが分かった様な気がする。市場に入って間も無く、ある店の前で動かなくなってしまう。4000軒も店があるのだから、もう少し彼方此方見てから、特定の店と交渉をする事は出来ないのであろうか?買う方にも市場調査は必要なのだ。物も異なり、物価水準の違う所では何が適正価格かも分からないのだ。所謂、相場を知らないのだ。家内は何度も海外で買い物経験をしているが、未だに何も学習していない。例えば,いきなり絵葉書を買う。其の先に行くと同じ物が更に安く買えることが分かり、後悔する。いや、後悔した素振りをしているのかも知れない。買い急ぎの癖を持っていて、生涯直らないものではなかろうか?

この市場の多くの商品は商札が付いて居ない。値段を聞けば、現地人価格、日本人価格などと分けて提示している様だ。売り手の提示価格又はそれに近い価格で取引が成立すれば、売り手の利益は大きくなる。何件かの仲間の商取引を見ていると、売り手の最初の提示価格の半分の価格で商談が成立すれば、売り手に何がしかの利益が出るように成っているようだ。例えば売主がある物を40で提示をした場合、其の物を買う意思がある場合は、25なら買いたいがという。売主が更にゴチャゴチャ言う場合は、他をあったて見ると言い、店を出る。大抵の場合、売主は買い手を引き止め、何らかの理由を付け、此方の提示金額と引き換えに物を渡して呉れる。売主に取っては、折角来た客から1銭の利益も得ずに返すより、少なくとも何がしかの利益は得た方が良いのだ。個別交渉の場合、売り手と買い手は全く平等の立場にある。買い手側価格で商談が成立した場合でも、買い手側は売り手が当該品を損をして売っていると思う必要は全く無い。損をして物を売る事は店じまいでもない限り、通常あり得ない。まして初顔合わせの客に物にお金を付けて渡す様な事は絶対にあり得ない。商取引はお互いが満足する価格である事が必要である。売り手にはそれ以下では売らない権利があり、買い手にはそれ以上では買わない権利があるのだ。商談が成立した時はどちらも“有難う”の気持ちになれるのが、正常な商取引なのだ。

この後皆はトプカプ宮殿に行く。13世紀の終わりから1922年までの6世紀にわたる広大な帝国主であったオスマン一族が集めた世界屈指の宝石類や宮廷建築は素晴らしいが、以前に見ている。皆さんが宮廷内を見ているありだ、僕は町の名も無い路地や、第一次大戦後、英国が支配した時代の建物の並ぶ、マルマラ海側の町並みを見て歩いた。

皆さんと再会して電車でレースの受付に行く。雨の中を道を聞きながらヤット、Istan―bul Congress Centerに辿り着くが、受付の案内は全く無い。Ex―poと称する広大な出店の一番奥の受付に辿り着くまで手間どった。番号や、T−shirt,荷物を預けるBag等を貰う。Bagは良く考えられており、質も良さそうである。女性人も含めパスタを食べる。パスタは余り美味しいとはいえないが、小さなプラスチックのボールに2杯食べた。バナナ、飲み物も出ていた。色々考えると参加費2300円は安い様に思う。申し込みはInternetで可能である

3日目も雨であるが、何もしないでホテルの小さな部屋でいるのも大変だ。思い切って、ローマ帝国時代に作られて水道橋を見に行く。ホテルから2キロほどの所で、金角湾に沿って西に歩く。湾口から二つ目のAtaturk橋に繋がるAtaturk大通りを召さずが、途中の道は悪い。水溜りを避けながら歩くが、途中で建築中の場所があり、内陸側の道を進むと、行き止まりとなる。

近所で水道橋に行くにはと訊くと、向かいの建物の中を突っ切って行けて言われる。建物の中を通って表に出ると大通りに出て、左手には水道橋が見える。

水道橋の辺りは公園と成っている。写真を撮った後、公園の南を通る道を左に向かい,市の中心街を目指す。暫く進むとトンネルとなり人は通れない。右手の狭い道を登って歩いて行くと、見覚えのある所に出る。Istanbul大学正門、Ayasofya等が見える。皆腹が減ったと言って、露店で胡麻パン等を買う。更に歩いていると、呼び込みに会い、路上のテントのテーブルに座る。最初は何かを食べる為では無かったが、呼び込み氏の巧みな誘いと此方の異国に対する興味から典子さんがケバブの肉だけ、菊池一家はアイスクリーム2個を頼む。肉だけを頼んだが、野菜やポテトフライも出してくれ、此れはサービスだと言う。食べている間に、呼び込み氏が我々と一緒に写真を撮って、Internetに載せると言っていた。予期せぬ旅の一齣であった。

その後はまたGrand Bassarで買い物をし、早めに宿に引き上げた。天気が悪いこともあり、我々の行動範囲は当初僕が考えて居たより、遥かに狭い物と成った。それでも家内は足が痛いなどとグズリ出した。旅は体力。グループの一番弱い体力に合わせる他無い。

ともあれ、最大の目的マラソン全員完走を果たし、怪我や犯罪などに会わず、無事帰国出来た事を喜びたい。

旅の費用:
航空運賃:124000
ホテル代(5泊):13000
レース参加費:  2300
現地滞在費: 10000

大まかに言えば15万程度であった。


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平成23年12月2日掲載

11.09・10−24
Andean Trai―angle Running Adventure



Chili―Bolivia−Peruの砂漠や高地を走ったり歩いたりする旅であるが、大部分はバスや4WDで駆け抜ける旅である。Devyが企画運営しているツアーで、僕は過去2度彼のツアーに参加している。今回僕の最大の興味はBoliviaにある世界最大の塩の平原と、Bolivia−   Peruに跨る高地の巨大湖、Titicacaを訪れる事であった。

 1年前から参加を決めており、年が明け1月末に正式な申し込みを原さんの分も含め行った。その後旅に出て、返って見ると原さんはもうこの世の人で無くなって居て愕然とする。彼の通夜に行った時、代わりに行きたい人を数名の列席者に聞いてみたが、行くと言う人はいなかった。一先ず申し込みを取り消す。その後毎年花見をしている金井さんと会い、この話をすると是非行きたいという。原さんが行きたい所であれば見ておきたいのだ。その後再参加の打診をするが、参加者が定員に達したので引き受けられないとのことであった。Cancel待ちのWaitingを掛けて置いたら、6月に成ってOKとなった。

便の予約はSingapore航空で出来、ほぼ同じ区間を飛ぶ8月のSierra Nevadaの時より5万円も安かった。

9月9日、成田を夕方立ちLos Angelesに向かう。以前2回乗って居るが、Airbus 380の機内は広い。Singaporeの機内サービスは良いが、何か今回は時間が異常に長く掛かった。乗客の数に対して、乗務員の数が足りないのか、クールーの訓練不足か、調理機の不具合か、何かあったに違いない。後は申し分ない。日本酒もあり、飲み物は豊富だ。

同日のLAに到着し、Santa MonicaのYouth Hostelに泊まる。
翌日11時に空港に向かう。Limaへの便は3時過ぎであるが、アメリカは荷物検査に長い時間が掛かるので、早めに空港に着かなければならない。受付カウンターに着くと同じツアーグループのメンバーらしい人を何人か見かける。ここからはLAN Airの同じ便で参加者30名程が乗る筈だ。アメリカ東部からの参加者はMaiamiから飛んでLimaで落ち合うことに成る。

Limaには真夜中日が変わった頃着く。入国手続きの後、国内線のゲートで、椅子に転がって5時間程ウトウトする。空港は24時間開いており、早朝の便でChili国境に近いTa―cna迄飛ぶ。ここで乗り換え、Iquique迄飛び、乗換えてCalamaへ。こんなに飛行機を乗り継いでの長い旅は初めてだ。昨日LAを立って30時間はたっている。CalamaからはバスでSan Pedro  de Atacamaに向かう。飛行場は砂漠の中に成り、バスは更に内部に入って行く。ここは2007年に同じ道を往復している。明るければグアナコを彼方此方で見る筈であるが、暗くて何も見えない。町に着きLa Casa de Don Tomas(トーマス様のお館)に泊まる。何もせずに寝る。

朝起きてホテルの周りを歩く。塀に囲まれたホテルで、何棟かの平屋がある。各棟には10室程の部屋がある様だ。この辺りのホテルは略この様な作りになって居り、2階建ての建物はない。朝食は大きな建物で取る。パンがトウモロコシで出来ている以外は西欧の朝食と余り変わらない。

ホテルの周りを歩くと赤い花の様な物が見える。行ってみると実ったコショウの実であった。後で気が付くが街路樹に同じ木が沢山ある。実を積んでお土産にしようとしたが、帰りアメリカの通関で没収された。種子類は駄目だというのだ。

町の散策をする。砂漠の中のオアシスの町だ。水路には濁っては居るが滔々と流れている。観光の町で小さな教会の傍に広場場ある。2007年の暑い日、初めての砂漠レースを走り,ここへヤットのことで辿り着いたのを思い出す。2度と来ることは無いと思っていたが、また来てしまった。
町の通りはダートで埃が多い。小さなお土産屋が沢山並び、レストランも多い。中心街から少し離れた所が居住区となって居り、建物も比較的新しい。躯体は幅2−30cmの日干し煉瓦で出来ている。屋根はトタン板が多く、タイルを使っている所もある。中心街の建物も皆泥作りの壁で出来ている。
町は小さくホテルは高いアンテナが数本立つ傍にあるので、迷う心配はない。夜でもアンテナの赤色灯が付いて居るので方向は分かる。
富士山に良く似た山が見える。5000メートルは超える様だが山の名前は分からない。仮にアタカマ富士と呼ぶ事にした。

9月13日、マラソンの日である。朝暗い内ホテルを出て出発地点、Valley of Deathに向かう。こちらの季節は北半球の2月初旬に当たり、寒い時期である。緯度は22−23度と低く、熱帯地方に属するが、高度は2500m程なので、朝は可なり寒い。車を降り、直ぐに走り出す。朝の5時はまだ真っ暗だ。月は略満月で明るいが、走っている谷間は狭く、全く月光は届かない。殆ど見えない中を下って行く。途中で石に躓き転び手の平を切り、腰を打つ。血が流れ落ちるが其の内止まると思って走り続ける。手袋を掛けて居れば怪我はしなかったかもしれない。それにしても手が冷たい。Quito   Valleyへと下っていく。

次第に明るくなり、コースは緩やかに登って行く。走り出したのは14人の筈だが、周りには2−3人しか居ない。走り以外の人はWalkerで30人余りが違ったコースを今日は歩くことに成っている。砂漠の中の車の通れる道を走っているが、大小の石が転がり、走りにくい。コースの前半は登りで車の通れる道が大半を占める。トンネルが一か所ありここは車は通れない。200メートルほどのトンネルで中程には巨大が転がっている。この前来た時はここを逆方向から通り抜けた。トンネルを出ると暫く下りとなる。

この辺りの砂漠は岩山が多いが、所によっては細かい砂に成った砂丘もある。又、塩を豊富に含んだ岩石で、彼方此方で白く成った塩の層を見ることが出来る。Valley of Silenceを走る。両側に岩石が壁となっている所や、遥か彼方まで見える所を黙々と走る。陽が高くなると急に暑くなるが、空気は非常に乾いており汗は直ぐに乾くので、酷く熱いわけでは無い。次いでValley of    Moonを通り抜ける。地上ではここが月表面の地形に似ており、月面着陸の機器のテストはここで行われることが多いという。コース上には二か所給水所があるが、2つ目から先は車道を離れ小道に入って行く。暫く砂丘を登ると狭い渓谷に入って行く。Kari Canyonと呼ばれている所だ。大昔水が流れて出来た渓谷であろうが、幅は2−3メートルで両側にはゴツゴツした岩が垂直に立っている。所によっては岩に塩の塊があり、塩その物に成って転がっている所もある。
昔川底であった走路は岩で凸凹の起伏が大きい。滝の名残であろうか、5メートル殆ど垂直に降る所も2か所あった。後ろ向きに成って、手を使って岩にしがみ付きながら降りていく。又洞窟の様な所もあり、天井と足元に注意しながら下って行く。この様に険しい道は5キロほどあったろうか、渓谷を抜けるとホッとした。その後略平らな砂漠を2−3キロ走り道路に出た。真っ直ぐな道でFinishが見えて来てから、長い事掛かりヤット辿り着いた。7時間半以上掛かったが前回見て居ないアタカマ砂漠の以前見て居ない一面を見ることが出来、満足である。
翌14日は2台の小型バスに乗り、Boiviaの国境、Hito Cajonに向かう。1時間ほどで国境に着くが、早く着き過ぎたので、手続きが出来るまで待つ。役人が出勤してくると、一通りの出入国の手続きは極事務的におわる。ここからは4WDに5人ずつ乗り、車八台で登って行く。Eduar―do Avaroa国立保護区に入る。Peru、Chiliに接する高地で、3500m−5000mの高さにある。Licascabur火山(5930m)の麓のLaguna Blanca(白湖)からLaguna Verde(緑湖)に出る。更に砂漠の中を走り、温泉のあるLaguna Saladeに着く。ここには日本のODAで作られたRestaurantがあり、そこで昼食をとる。温泉は塩泉で広い湖の岸の彼方此方から出ている。又岸の周りは析出した塩で白色している。露店の風呂があり、20人ほど入っているが、僕は入る気がしなかった。一つはパンツを着けて入るのと、外気は可なり寒いからである。僕は風呂とは裸で入るものと思っているのだ。パンツをはいて入るのは温水プールで風呂ではないのだ。

この先で所謂地獄を見る。可なり広範な地域に噴気が上がり、大小様々な温泉の噴き出し口がある。澄んだ水は少なく、殆どは色の異なる泥状の噴き出しであった。
Laguna Coloradaを通り過ぎる。湖の色は水に含まれるミネラルによるという。湖面野殆どが赤茶色色をした所もあり、これもミネラルや藻の色だという。多くのフラミンゴが居り、その羽がピンクなのはこの藻の色によるのだという。因みに幼鳥の羽は白である。尚ここの湖の周囲に見える白い部分は塩では無く、ホウ砂 (ホウ酸ナトリウム)だという。

陽が傾く頃高原のまっただ中にホテルが現れる。一方には大きな山があり、その山裾の傾斜の緩い所に半円形に平屋が立っている。深い井戸を掘り、水が得られたので最近実現出来た宿泊施設だという。満室で3−4人の相部屋となる。兎に角何百キロにも渡り人の住んでいる所が無い広い高地の砂漠なのだ。電源は自家発で賄っているが、深夜は電燈も点かないこともあるという。又朝方はトテモ冷え込むと言う。
車で休憩も入れて8時間程移動してOjo de PerdizのHotel del 
Desierto(砂漠ホテル)に泊まる。

9月15日:今日も移動の日だ。高原砂漠の道なき道を車は北に向かう。平らな砂漠は何処でも道に成ってしまう、不思議な所でもある。雪も彼方此方に見える。砂漠には短い枯れた草がある。この様な僅かな草を食ってビクニャはこの地に生きている。時折 彼等の群れを見るが、車の中から写真を撮るのは極めて難しい。幾つかの湖を通り、たく産のフラミンゴを見た。こちらは早春でモット季節が進めば、更に数が増えるという。長い時間の中で自然が作った造形物を見る。風雨の浸食に打ち勝った固い岩石が奇妙な形で残っている所があった。

地盤の隆起によりできたアンデス山脈の中にも火山性の山はある。隆起の後出来た裂け目をマグマが突き破り火山となる。その様な地形は元々の岩石上に溶岩が固まった岩が重なっている。場所の名前は覚えて居ないが、遠くの山頂に噴煙が見える所であった。

 

 

そこで丁度昼食となり、食事の後歩き回ると不思議な物を見る。緑色をした塊で、最初は植物か鉱物か分からなかったが、よく見ると植物であることが分かった。傷ついた断面を見ると中はサンゴの様に固い石状であるが、表面は緑色でこの水の無い所でも水を吸い上げ傷口を直そうとしているらしい。断面の淵には小さな水滴を噴き出していた。Aberaldoに聞くと、ジェラートと言う植物で、Peruにもあり、燃料になるという。僕に命名権があるならば、これは陸サンゴと呼びたい。

この後真っ白な塩の平原や草が茂り細々と放牧が出来る土地で片側の山にのみサボテンの生える荒れ地を走る。
夕方になると、小さな集落の上にあるホテルに到着する。明朝は塩の高原で日の出を見る為に4時に出発することになっている。Hotel de Piedro,San Pedro de Quemez

 9月16日:予定通り4時に出発する。僕らの乗って居る車は主催者のDevyやガイドのAbe−  raldoも乗った先頭車だ。運転手は若いがこの辺りの地理には誰よりも詳しいのであろう。暗闇の道を迷いなく走り、時々無線で連絡を取っている。呼び掛けは何時もPedroで始まり、これが最後尾の運転手の名前であろう。日の出に間に合いあいそうも無いので近道をすると言う。近道は更に悪路になり、車は大きく揺れる。軈て灌木の生えた細い道に入るが、ここも道は悪い。小さな部落を通り抜け更に走る。空が白に出す頃、箱に入った朝飯が出てくる。揺れている車の中で何とか腹に入れる。北に向かって進んでおり、右の山の影から太陽が出かかる頃、白い塩の平原の南端に着く。滑り込み間に合ったようだ、車を降り、日の出を待つ。外に出ると寒い。まっ平らで白の平原は異様だ。陽が登り、白一色の塩平原にも届く様になると、奇妙な模様が見える。規則的でもあり、また不規則でもある模様が一面に見える。之は熱膨張により表面の塩が膨張しある範囲の中で膨張を吸収する為上に持ち上がる為に起こるのであろう。持ち上がった塩は幅2cm、高さ1cm程の隆起した線となり、これが一面にある規則性を持った模様を作っている様だ。

 

暫く眺めた後、また走り出す。この塩の平原は世界でも最も平坦な所で、南北約100キロ、東西250キロの中での高低差は僅かに50cm、鏡と同じ平滑度と考えていい。面積は秋田県よりやや広い。この広い塩の平原は4万年ほど前、巨大湖が干上がって出来たもので、水中に含まれた塩分が凝縮して今の景観となったという。塩の厚みは6mあるという。この大量の塩は何処から来たのか?これはアンデス山地は海底よりの隆起であり海の塩分を含んで居た為である。之が長年の間に雨水で低地に運ばれ出口の無い湖で蒸発が起れば大量の塩となる。これ程大規模な物はここ以外にないが、似た様な所は沢山ある。アタカマも塩の砂漠であり、これから行くTiticaca湖も塩分を含んだ湖だ。同じ様に海底隆起で出来たアメリカのロッキー山脈の東西にも塩湖や塩の平原がある。

この塩の平原には通常我々の称する道は無いが、こここそ何処でも道になる。車の通った後は膨張隆起した瘡蓋状の塩は皆破壊され、周りに散らばる。残された文様は今朝見た物とは逆に溝状に成って居る。八台の車が平行に北に向かって走り、30分程でIncahushi島に着く。ここは昔湖に浮かぶ島であり、今でも塩の平原から突き出て小高い丘となっている。丘には沢山の柱状のサボテンが生えている。

ここ2日間走りは疎か余り歩いても居ない。ここで思い思いに走る事に成る。丘の周りは3−4キロあり、ここを一周する。塩の平面は概ね白いが、所により島からの土の流入により茶色な所や、やや溶けて水に成っている所もある。平原の標高は3660mあり、富士山の標高に近い。真っ平らではあるが、早くは走れない。酸素が薄いのだ。ここでマラソン大会を開こうかとの話がでる。3660mの高地でマラソンの距離を走り続けられるのか?遣って見なければ分からない。

1周の後丘に登る。火山で出来た丘であり、溶岩流が固まった複雑な岩や洞窟が見られる。これら岩だらけの土地に柱状のサボテンが沢山生えている。黄色の花をつけている物あるが、小さく余り見栄えのするものでは物ではない。僕はこのサボテンの美しさがその棘にあると思う。無数の棘が光に当たり、金色に見え、何とも美しい。生きているサボテンで一番背の高い物は9mを超える。年に僅か1cmしか成長しないと言われ、1000年近く生きて居るサボテンだ。以前には11mを超える物があったと言うが、これは今は倒れ其のままに成っている。1200年生きたサボテンの標本だ。

表の棘や樹皮は剥がれ、幹が出ている。表面に1cm程の穴が規則的に見える。水分の調整に必要な穴では無かろうかと想像する。この辺りではサボテンの幹を建材や家具調度品の材料として使う。1000年で高さ約10m、幹の径約25cmしか育た無い木材で貴重品だ。高原の砂漠地帯で育つ木はこれ以外には無い。僕はこの年に成った初めてサボテンには木もある事を知った。ホテルのドアや腰板に使われていた。写真を沢山取って丘を降りる。

車は次に塩ホテルに止る。平原のほぼ真ん中にあるホテルで、建物を始め全ての家具調度品が塩で出来ている。塩は固まると岩石状になり、建築用にも十分な強度を持つのであろう。建材としての塩の大敵は湿気である。湿気をある程度に制御できれば略永久に形状維持は可能である。元々乾燥地帯であり、雨季はあっても大したものではなく、通年営業のホテルだ。この点SwedenのIce Hotelとは異なる。大型のバスも乗り入れていた。

更に北に進み、塩平原の北端に着く。この辺りでは塩の採掘が盛んに行われている。全て手作業で、表面の塩をスコップで高さ1m程の円錐状に積み上げている。之は水分を抜く為だそうだ。そこにトラックが遣って来て、これも又手作業で荷台に乗せる。着いた小さな町はお土産屋(どこでも見られる物に加ええ塩で作った製品を売っている)を除くと、塩の採掘と積み出して生計を立てている様だ。
ここで今まで3日間お世話に成った4WDの一隊と分かれて、オンボロのバスに乗り換える。シャーシーが高いので余程悪い道や川越が前途に広がる事が予測できる。予想にたがわず悪路を走り続ける。周りには短い枯草が見える様になり、彼方此方でラマの群を見る様になる。稀にはビクーニャも見える。左手には白い平原が広がる。もう一つの塩平原、Salar de Coipasaで、広さはUyuniの3分の1程度である。揺られること1時間、ヤット4日振りに舗装道路にでる。
Oruroの町に到着する。小さな町で鉱業が主産業の様だ。町中の道は細く、ホテルに行きつくまで、何度か角でバックをしなければ曲がりきれなかった。今日の移動距離は220Km。Plaze     Flores Hotel泊
9月17日:Boliviaの首都La Pazに向かう。2時間ほど走るとLa Pazの外郭都市  El Altoに着き、更に1時間程でLa Pazの高台に着く。この街には高い所から入っていく。高台で止まって、La Pazの町を見る。深い谷に沿って広がるLa Pazの町の全貌が見える。南東には雪を抱いたIllimani山(6480m)も見える。
人口100万を超えるこの街は世界で最も高所(3650m)に位置する首都だ。首都圏を構成する  El Alto(市の名前そのものが高さを意味する、標高4100m以上)やViachaを含めると300万を超える大都市圏だ。市内の観光は植民地時代の旧市街、大統領府、大聖堂等を見て回った。此方の人の大好きな商店街にも行った。Andesの人たちはトテモ信仰深く、神に御願いをする時に捧げ物をする。其の捧げ物を売っている店が沢山ある。先ず捧げ物を載せる台で、此れは下から火が焚ける様になっている。ラマの胎児や小さいラマの干物も沢山売っている。我々にはトテモ奇異に思える色々な物を売っている。此方の人は良く神に願い事をするそうで、其の時これらの捧げ物をシャーマンの勧める方法でするそうだ。

世界の高所都市圏を調べてみると、La Paz程大規模の大都市圏は無い。桁外れに大きいのだ。定住地としての高所はPeruのLa Rinoconadaで5100mの高所に3万を超える人が住んでいる。金鉱の町である。Hotel Ritz in La Paz泊

9月18日:El Altoの町をまた通り、Tiwanacu遺跡に向かう。昨日からバスの調子が悪く、車を止めて点検する。その間に歩き回ると、町の彼方此方に
薄汚い首つり案山子が電柱等に掛かっている。何かと聞いて見ると、犯罪者に対する警告だという。所得の低いBoliviaでは警官の月給が1万円程で、生活苦の為警官が窃盗グループとグルになり、犯罪を見逃すことが多いそうだ。そこで市民は警察を頼らず、犯罪者を捕まえ次第処刑するぞと言う意思表示を首つり人形でしているのだ。所謂Lynch刑,私刑による死刑はここでは当たり前となっている。

2時間程で遺跡に着く。軍人が入場者の応対をしている。Incaの遺跡より遥かに古い石造神殿遺跡で世界遺産の一つである。広大な敷地に幾つか神殿があり、そこに祭られていた幾つかの大きな像も良く保存ざれている。Mexico以南のアンデス土着と信仰は太陽崇拝であり、ここもその例外ではない。太陽の門は黒い一枚石で作られている。角や隅は実に正確に加工されている。神殿は冬至に太陽が門の真ん中から差し込む様に作られている。1000年以上も前の石の加工技術は驚くばかりで、遠方から運んで来た火山性の固い石を正確に加工している。Inca以前の文化でIncaにも大きな影響を与えた。

遺跡を離れEl Altoの町を再び通りCopacabanaに向かう。東に向かい約2時間で  Titicaca湖の南で一番狭い水路となっているTiquinaに着く。ここで水路を渡り対岸に着く。人とバスは別々なフェリーで渡り、バスは対岸まで来るのに時間が掛かる。水路は幅500m程であろうが、見えて居ても中々着かない。バスが付くと出発し、湖の見える高い道路を起伏に合わせ登り降りしながらCopacabanaに向かう。道は曲がりくねっていて、次々と景色が変わる。海のように広い青い湖、浮かぶ小島、急な斜面の段々畑が美しい。アンデスの民は厳しい環境に生きる勤勉な谷なのだ。

Copacabanaはリオデジャネーロの浜辺の名として有名であり、又New Yorkや東京にも同名の高級ナイトクラブがある。一般的には大元のCopacabanaを知る人は少ないと思われる。僕も本家は知らなかった。CopacabanaはBolivia原住民の言葉で、“宝石の展望台、湖の眺め”を意味し、ここの地名である。Inca遺跡の島、太陽島や月島への起点の町で、17世紀に建てられた立派な教会がある巡礼地であるのだ。前にも述べたが、大願が叶えられ最終的に御礼に来るのはこの教会で、此方の人は 誰でも一度は来たい憧れの教会なのだ。

今日も車の移動で終日終わった。移動距離は250キロ程であろう。夕方やや時間があったので,教会に行ってみた。堂々としたカトリックの教会であるが、ヨーロッパの作りとは異なる。外壁は多色でこれがアンデスの民の好みなのであろう。立派な門前町があり、多くの店がある。浜にも行ってみる。小さな浜であるが、沢山のボートや遊具などが置いてあるのは,どこの観光地の浜も同じだ。教会を中心とした小さな町で、後ろには急峻な丘が2つあり、その一つにはアンテナが数本立っている。相対的に丘に見えるだけで、その頂上は4000m以上であろう。宿はTiticaca湖が目の前に見える最上のホテルで、正面に太陽島や月島が見える。それらは西にあり、太陽が島影に隠れるまで見とれていた。
Copacabana,Hotel Rosario del Lago泊

9月19日:突堤から貸し切りの船で太陽島に向かう。1時間程で島に着く。南北に細長い島でほぼ真ん中あたりで船を降りる、船着場からキツイ坂を上っていく。30分で宿に着く。部屋は昨夜歩き組が使って居り、まだ掃除は終わって居ないが物は置ける状態だ。走りの用意をして、10時頃から走り始める。

島を時計方向に1周する走りで5−6時間かかるという。思い思いのペースで走り出す。最初は尾根を走るが可なりの起伏がある。眼下にはTiticaca湖と大小の島が見える。登り切った所からコースの前方を見ると遺跡の跡が見える。Chinkana遺跡の中を通り、更に北の島の先端に向かう。又キツイ登りとなる。大きな石がゴロゴロある細い道で、周りには膝程の灌木しか生えて居ない。太陽に炙られて暑い。頂上に登り折り返し、同じ道を30分程戻り、左に曲がり下って行く。緩やかな下りを1時間ほど走って行くと浜にでる。Challapam―paの浜でエードがある筈だとキョロキョロしていると200m程離れた突堤の船で手を振っているDevyの姿を見つけて一安心。砂浜を超えて船の中で水を飲み、チョコレートやビスケットを食う。エードが船であったレース初めてだ。宿までは後2時間程がかかる見通しで、そこで走りは止めようと思いまた走り出す。暫く浜沿いを走るが、浜辺には豚が放し飼いに成っていて、不思議な光景であった。幼稚園も通り過ぎ、子供の遊ぶ姿を写真に撮る。小さな教会も見る。ドンナ小さな集落にも教会は必ずある。宗教がまだ生活の中で大きな位置を占めているのだ。又浜辺では洗濯をしていた。湖の汚染に繋がる恐れは無いのだろうか?

暫くするとユウカリの生える坂を上って行く。小さな集落にで、道が分からなくなる。部落総出で土木工事をしており、道が塞がっていたが、ウロウロしていると指を指して走る方向を教えて呉れた。再び尾根に出て暫く走ると左手に宿があったが、もう少しで通り過ぎて仕舞う所であった。

シャワーを浴びて一休みの後、島の港Yumaniに歩いていく。暫く尾根を歩くと左手に降りていく。途中南米特有な派手な繊維製品を道端に並べて売っている所が沢山ある。又レストランや宿屋も彼方此方にある。ここまで来る観光客は多いのだ。軈て坂がきつく成りジグザグに降りて行く。ロバに荷を背負わせ、自らも荷物を背負った女性が登って来、擦れ違う。ロバは山地の4WDと言われており、車の通れる道のないこの島で重宝されている。運搬はロバか人力かのどちらかしかない。

港に着くと派手なキリストの像が立っている。土着の宗教の影響である。又若返りの泉と言う案内があったが、寄らずに戻り足に着いた。そんな物の効き目は無い事はわぁっている。
尾根まで戻ると多くの男女、鎌や鶴嘴の様な物を持って此方に歩いてくるのに擦れ違った。こちらでは作業の基本は共同作業でその帰りなのであろう、急な斜面が良く耕されておるのはこれらの共同作業の結果なのであろう。

泊まる宿はEcolodgeと言い、良く考えられた作りに成っている。シャワーは大洋熱温水器、又太陽の当たる窓の外は黒い蓄熱用の容器が置いてあり、窓の外には更に透明な囲いがあり、熱を通し逃がさない工夫がしてある。陽が沈んでからこの窓を開けると、暖気を感じる。
Ecolodge泊、La Estancio on the Island of Sun  

 9月20日:暗い内に朝食を済ませ、船着場に向かう。船は6時に出るという。小雨が降っており、気を付けながら坂を降りて行く。FerryでCopacabanaに戻り、一昨日泊まったホテルに着く。島の走りに必要な物を除き、皆此処に置いてあるのだ。ここから車は又変わる。7−8人乗りのバンで荷物も含め5−6台が必要だ。雨の中車両の割り当て、荷物の積み込みに時間が掛かり、ヤット出発。    Kasani経由でYunguyoで出入国の手続きを済ませ、最後の国Peruに入る。Titi―  caca湖の東側を走りPunoに向かう。途中湖の見える所では生簀が沢山見られる。養魚が盛んなのであろうか?其れとも単なる魚の囲いなのであろうか? 琵琶湖の13倍以上、広島県の面積を持つこの湖は魚が豊富に違いない。湖面標高は富士山より高く、3812mある。熱帯の湖で、乾燥地帯で雲の出ることは少なく、十分な日光で餌となる藻は豊富であろう。

Punoに着くと直ぐにFerryに乗り、Uros族が住む葦で作った島を訪れる。この辺りは浅く、島に行く途中に沢山葦が生えていた。Totoraと呼ばれる葦で背丈は3mになるという。20分ほどで島に着く。10家族の住む島で、全員で出迎えて呉れ、葦を束ねて俵の様にした半円形椅子に腰かけ、島の生活振りを聞く。先ず島の作り方の説明がある。

島の土台となる泥付きの葦の生えている浮遊体を集め、その真ん中に杭を打ち込み、その杭を縄でつなぎ合わせ段々大きくしていくと言う。その上に乾燥した葦を直角に交差するように何層にも重ねて行くのだという。話を聞いたぐらいでは浮島は作れそうもない。仮に作れたとしても維持が大変だ。2週間に1日は島民全員で島の維持の為働き、葦を積み増して行くという。葦は水に浸かった下の方から腐って体積が減って浮力を失って行く。隔週毎に葦を積み増して行っても、島は26−7年で使えなくなり、作り変えるという。

島は強風や大波で流されることもあり、この為湖底に打ち込んだ杭に何か所か止めてあるそうだ。家の高さは人の背丈ほどであるが、各々の島には其々に3−4m程の見張り台があり、全体では大きな風圧を上けるのであろう。それでも流されて位置が変わるという。その時は他の島民の力も借りて、島を押したり引いたりして元の位置に戻すという。

島は一新族単位の共同生活で皆の労働で成り立っている。島には長も居り、揉め事ある場合の調停の方法も決まっているという。仮に共同作業で働きが悪い者は勧告を何回か受けた後も改善が無い場合、当人の意見を更に十分に聞いた上、村八分の裁きが出る。その場合は島の当人相当分を切り離し離して、追放するという。最近もこの様な事が、起こったそうだ。追放された当人家族は孤島では生活が成り立たず、他の島で受け入れ先を探す。追放された者を簡単に受け入れる島は無く、殆ど全部の島を当たり尽くし、やっと受け入れ先を見つけたという。

島の生活に欠かせないのでは船である。昔は全て葦で作っていたが、今はプラスチック等の船が多い。只1−2人用の葦の船も見かけ実に良く出来ている。観光用には20−30人も乗れる葦の船があり、これら全ては手漕ぎの船だ。

アンデスの民はズングリムックリだ。余り例外は無い。女性達は派手な衣装で下はスカート状の物を重ね着している。ここの女性は皆長い髪を2本に編んで、帽子を被っている。之までは英国の影響を受け、ボーラーハットが多かったが、最近では草を編んだつばの広い物を被る様に成ったそうだ。既婚、未婚は編んだ髪の先端に付ける雪洞の色で表し、黒以外は未婚の印だという。

島での生活の元は漁業と水鳥の狩猟とその卵だけである。それに葦である。葦は島そのものを作り、家の材料でもある。その他にも根元の方では直径2cm程になる葦の茎は食料やトイレの紙の役も果たす。我々には全く想像も付かない利用法だ。実際にやって見せて呉れた。葦の茎の外皮は簡単に縦方向に剥ける。全周を剥いた後、中身の純白の部分を千切って食べて居た。又紙として使う場合は適当な長さに切り、縦に切れ目を入れ、円周方向に剥ぐと一枚の紙状になる。直径が2cmあれば、幅6cmX長さの物になる。之を濡れた紙と思って使えば良いと言う。興味のある方は試して欲しい。拠所無い場合は有効な方法だ。

鉄砲は手作りのものだ。他の物は全て陸地の住民から買わなければ成らない。婦人達は糸を買い、織物に加工したりしている。トイレはトイレ島迄ボートで行き用を足すことに成る。何から何まで兎に角不便である。365日水に接した生活で、冬は寒く、リュウマチの人が非常に多いという。
彼らは選んでこの生活をしている訳では無い。450年ほど部族間の戦いに負け、陸地に住めなくなったのがこの生活の発端で、今でも60余りの島に1000人程が住んでいるという。子供たちは義務教育で本土の学校へ船で通っている。
家も見せて呉れる。屋根も含め全て葦作りで、1家族毎の家の大きさは7−8畳ほどであろうか?雨風を防ぐ構造では無く、非常に厳しい生活環境と言える。調理は別棟で共同で行うという。調理棟の傍には水鳥が3−4羽無造作に置いてあった。小さな太陽発電パネルが何枚かあったが、これはテレビかラジオ用であろう。
彼らの生活も変わりつつある。観光客を。誘致することにより、お土産品を売ったり、葦船に載せたりして、現金収入が入るようになった。自給自足の文化は消えつつある。
帰りは葦船に乗り途中まで返る人も居たが、島を離れて1−2分で猛烈な夕立会い引返して来た。この様な雨には葦を並べただけの屋根では何の役にも立たない筈だ。
雨は直ぐ止み本土に戻る途中実際に島の移動をしている所を見た。大勢の人がボートで片側を押し、反対側では引いていた。他の島からの応援を得ても中々島は動かない様だ。
船着場から車で宿に向かう。町は鉄道が通り、軍の施設もあるが、その他見るべきものは無かった。
Hotel Sonesta Pasada del Inca泊、Puno

9月21日:Peru東南部の高原Chivayに向かう。湖を離れその東に広がる高原に向けで大型のバスでの移動だ。乾燥し、短い枯草が疎らに生える砂漠の高地を走る。道は大きく蛇行するが、路面は良い。高度が上がって行くと、放牧しているアルパカの群れを見るようになる。4500mを超える高地でも石の家や石垣を作り、アルパカを飼い人が生活しているのだ。時にはビクニャも見ることが出来るが、これは野生であろう。数頭の群れで草を食んでいる。高い所でも鉄道が暫く並行して続いている。鉱石の輸送用であろう。

見晴らしのいい場所には必ず土産屋が並んでいる。降りて下方の湖等を見て又、走り出す。今日の最高地点はLos Andesの見晴らし台で4920mである。火山石の多い所で、石を仏塔の様に積み上げたものが見渡す限り無数に広がる。之も何か宗教的な意味があるのであろう。

310キロを走り、宿には3時ごろに着く。ここから2手に分かれて4キロ程離れた温泉に行く。往復自力で行く人、行はバス帰りは自力で帰る組で、僕は後者を選んだ。宿でタオルを借りて行った。バスを降りると温泉の対岸に遺跡らしいものがあり、僕はまずそちらの方にいく。吊橋を渡って行くとIncaの段々畑でPeruでは彼方此方に見られる物だった。La Carelaは川沿いにある大きな温泉で、料金は幾らか忘れたが余り高い印象は持たなかった。中に入ると何棟かに分かれており、温度毎に選べる様に成っている。一番高いのが39度で日本では温い方だ。こちらの方を選ぶ。片側に川を望み3方はロッカーや更衣室等で囲まれた青天井の小さなプールで、グループの略全員が此処にきている。温泉にしては温く、プールにしては暑すぎるので、そこそこに引き揚げ、宿に戻った。まだ陽がさしているので、小物を洗濯して木に掛けた。空気が乾いており、風もあったので直ぐに乾いた。

ホテルはその地方の石を使って作っており、中々趣があった。ここで初めてInternetで交信出来、日本の現状が把握できた。又夕食はホテルのレストランで、演奏と民族舞踊を見ることが出来た。   Casa Andina Colca,Chivay

9月22日:早朝からの移動である。バスで2時間程かかるCabanacondeの町に8時に着き、町と共同主催の渓谷のレースの為だ。町に着くと走る用意をし、バスに荷物を残したまま、広場に行く。町役場の前がスタート地点の様だ。マイクで何やら言っているが、分からない。地元のランナーが60人程、我々以外の外人が2−3人全部に薄青色ランニングシャツが配られ、これを着て番号を付けて走れと言う。朝は寒いので重ね着をする。
号砲で走り出すが、皆早い。最初は舗装道路を下って行き、1キロ程で左に曲がると酷い悪路となり、その先走路は幅30cm程の山道となる。高い木は生えて居なく、岩石だらけの急斜面を九十九折れに降りていく。進行方向左手谷は深く、川が細く見える。

転倒しない様用心して下って行く。前後の人は殆ど見えない。2時間近く掛かって谷底に着き釣り橋を渡り、反対側の谷を登り出す。ここまでの落差は1300メートルで標高は2500m程であろう。兎に角暑い。コースは事前に知らされて居らず、ピンクのリボンを探しながら進む。先ほどまでは川の下流に向かって降りて来たが、今度は上流に向かっている。

 

暫く登って行くが道が分からなくなり、2−3度同じ所をウロウロする。他の人も迷っており,どうした物かと思案していると、地元の最後尾のスタッフが来て道を教えて呉れる。僕らの後ろにはもう誰も居ないことに成る。橋の手前までは5−6人は後ろに居たのだが、何かおかしい。

更に登り続ける。民家の集落を通り過ぎ、また登る。その後なだらかに降って行き、水平部分を暫く走り、次の集落を通過する。この辺りで又一人に成ってしまう。緩急のある下りを降り、川に掛かる吊り橋を渡る。ここが最後のエードで食べ物もある筈だが全くない。水を飲み容器に1L詰め、登り出す。九十九折れだ。埃と岩石の道で傾斜は厳しい。最後の登りで落差は1500mある。後ろに居た筈の女性が前を歩いている。先ほどの橋以降近道があり、落差の少ない道を来たのであろう。

腹が減り疲れてくる。熱くて気も萎えてくる。只一人僕の前を正規の道を走って来た女性が蹲っている。疲れ切っているのだろう。彼女は結局騾馬に載せられ坂を超えた。後ろから来たDevyに会い、腹が減ったと言うと、用意した食べ物は皆地元の人が食べてしまい、無く成って居たのだといい、ビスケットを2枚呉れた。水を飲み,これを食う。何か少しは前に行こうという気持ちに成る。陽はカンカン、登りはキツク、2−300m毎に休みながら登る。周りは岩石だらけだ。面白い岩石に気が付く。略絶壁状になった岩に可なり大きな穴が幾つかがあり、それらの穴を取り囲み柱状の石が渦を巻く様に並んでいるのだ。根室の車石よりは遥かに大きい。火山の産物で、放射状節理であろう。2−300m程離れた所からは余りハッキリしないが、穴の中は放射状節理の様に見えるが、絶壁に出ている所を見る限り、穴の外周接線方向に板状あるいは柱状の岩石が渦を巻いた様に並んでいる。兎に角自然の造形力は素晴らしい。全く予期しなかった珍しい物をみることが出来、暫し見とれる。写真を撮ると元気になりまた動ける様になる。もう頂上のアンテナも見えて居る。

騾馬に乗った男のランナーも3人通り過ぎて行く。騾馬はもう一頭居り、お前も乗れと頻りに誘惑するが断り、歩き続ける。ここまで来たら何としても自力でFinishだ。英語では騾馬の様に頑固だと言うのは頑固の極みだが、僕はあの時騾馬以上に頑固に誘惑を断ったのだ。
登り切ると町が見えて来る。細い凸凹道を走ると町のダートの道となる。両側に土の家が並び、人々が外に出て見ており、道を教えて呉れる。感謝の意を込めて、手を振って通り過ぎる。直ぐにスタートした広場に入り、Finishする。

Hotelの場所を聞き、部屋に行くと荷物も届いていた。シャワーは冷たかったが汗を流し、広場の表彰式に行く。広場では町の若い男女が踊りの最中であった。農耕族の踊りで民族衣装の男は鍬を、女は壺を持っての踊りが大半であった。単調なメロディが繰り返し流れ、踊りが続いた。
多くの町の人の参加で表彰式があり、優勝タイムは6時間半程であった。女性の部ではロバで坂を超えた人が、1位、2位はバイパスをして僕の前にFinishした女性、3位は同じく後にした女性であった。正確に言えば、女性の完走者は居ないことに成るが、これも僕の参加したレースでは初めてである。

走った渓谷はColcaCanyonでPeruでは屈指の渓谷である。Start/Finish地点の標高は約3800m。ユニークなレースである。距離は25km+、登り降りの合計はそれぞれ2500m+である。Hotel Kuntur Wassi,Cabanaconde

9月23日:ツアーも最後の日となった。途中のCruz del Condor(コンドルの十字架)でコンドルを見る。Colca Canyonの高い崖の上がコンドルの住処で、そこには展望台あり、観光バスが何台も止まっている。手に手にカメラを持った観光客がコンドルの飛翔を待っている。コンドルは陽が登り上昇気流が生じると飛び上がるという。崖の上に巣があるらしく、3羽の姿が見える。親子であろう。1羽が舞上がると続いて2羽も飛翔を開始した。悠然と輪を描いて高く舞い上がる。飛んでいる鳥を写真に収めるのは中々難しい。何とかそれらしい物は撮れた。後はArequipa迄200キロ余りをバスは徐々に高度を下げながら走り、丁度昼ごろ町の外れに到着し、予約しておいたレストラン、Sol de Mayo,に行く。町では一流の所の様で非常に大きい。野外にも沢山のテーブルがあり、略満員の盛況で、ラテンのバンドが演奏している。中に入ると、ここも広い。此処でもバンドの演奏がある。最後の晩餐ではないが、最後に御馳走にありつけると印象に残るものだ。之が皆と一緒に食べる最後の食事だ。

ツアー中の食事は先ず先ずであるが、変化に乏しい物であった。食材が少ないのだ。主菜は多くの場合、牛、鳥、それに虹鱒であり、鳥を食さない僕は毎回同じ様な物を食べて居た様な気がする。Voli−   viaで一度だけラマ肉が出て、これは初めて食べる肉であったが、アルパカの肉と殆ど変らず癖がなく美味しいと思った。Peruではラマの肉は殆ど食せず、アルパカを食べる。Peruに入って一度だけアルパカにもありつけた。ArequipaはPeru第3の都市、大きなレストランでは選択の幅は広い。旅の間一度もメニューに無かったポークも出ていたが、僕は最後にPeruの御馳走モルモットを食べる事にした。他の所では出てこない物だ。特に旨い物では無いが、柔らかく、癖が無いのが良い。

ホテルに着き、ここで2手に分かれる。ホテルに泊まり、更にPeru内の観光する組と、今晩の飛行機でアメリカに向かう組である。今日帰る組は夕方7時まで市内観光し、広場から空港に向かうことに成って居る。
Arequipaは白い町と言われており、旧市街の主な建物は白色の火山岩で作られている。広場の周りの建物は殆どがこの石で作られている。バロックスタイルや植民地時代のSpainの建物が多く残って居り綺麗な街並みが続く。教会、劇場等見るべき建物は多い。16世紀に起源をもつSanta   Catalina僧院も壮大であるが、中に入る時間は無かった。これら歴史地区一帯は世界遺産でもある。この街は標高2300m以上の高地にあり、近くには5500−6000mを超える火山が3つ雪を抱いて聳えている。

薄暗くなる頃、バスで空港に向かう。Limaに向かい飛び、其処で乗り換えて日が変わる頃Los   Angelesに向かって飛ぶ、夜間飛行である。翌朝7時にLAに着く。無理をすれば当日乗り継ぎで返ってこられるが、日本へ便は午後3時であり7―8時間の待ち時間がある。一晩 泊まって翌日帰る手筈をしていた。

Santa MonicaのYouth Hostelに泊まり、翌朝金井さんと浜辺を一時間程走る。同じ速さで移動していても、金井さんは走って居るように見え、僕は歩いて居る様に見えるらしい。其の差はどうやら、腕の振りとピッチであるようだ。腕を高い位置で振り、早いピッチで足を動かせば走りと成る。腕を腰より下げて振り、ピッチが遅ければ歩きになる。色々勉強が出来たツアーであった。9月27日無事帰国。

旅の総費用
ツアー参加費(含むLAからの往復航空運賃)48万円、成田―LA航空運賃10万円、
LA滞在費其の他2万円、合計60万円


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平成23年12月2日掲載

11.08.06−22JMT踏破記


JMTとは?なぜそこを歩いたのか?

JMTとはアメリカの長距離遊歩道の一つである。北のヨセミテ国立公園から南のMt.Whitneyまでの約340キロの区間で、全長が繋がったのは1938年である。John Muir Trail通称JMTPacific Crest Trailと部分的に重なっている所もあるが、特に美しいと言われる北のYosemiteから南のMt.Whitney(アメリカ本土の最高峰、4421m)の山道に付けられた名前である。名前の由来は19世紀から20世紀の初頭に掛けSierra Nevadaに関する多くの著述をし、また自然保護区の設定を説いたJohn Muirの威徳を偲ぶものである。山道は北からYosemite国立公園、Ansel Adams自然保護区、Devil’s Postpile 国有記念物、John Muir 自然保護区、Kings Canyon国立公園、Sequoia 国立公園と繋がって居り、保護管理されている。

島国の小国日本から見ると、アメリカは途轍も無く大きい。連続する山道で長いのはロッキー山脈を南北に貫くContinental Divide Trail(大陸分水嶺山道)で、此れは5000キロに及ぶ。更にその西側にはSierra NevadaCascade 山脈を通るPacific Crest Trail4250キロ)や東部にはAppalachian National Scenic Trail3510キロ)等がある。これらの山道を春から秋に掛けて一気に踏破しようとする人は多く居るが、中々達成は難しい。

今夏僕が行ったのはJohn Muir Trail(340キロ、Mt.Whitneyからの下りPortalまでを含めると355キロ余り)であり、これはSierra Nevada山脈(640キロ)の約半分に過ぎない。

何故ここに行くことにしたのか? 2009年の暮れパタゴニアの走り歩きの旅をし、彼の地の花崗岩の山、特に橙色をした針状の山、Mt.Fitz Roy,に痛く感動を覚えた。昨年3月初め訪米の際、Patago―   niaに一緒に行ったGlennTanyaDinky 夫婦は、アメリカにはそれらを凌ぐ美しい山が有ると言うのだ。彼等は此れを見る為に、夏休みを利用して、十分な装備、食料も持たず、全行程を8日で踏破したという。PatagoniaAndesAdventure Tourを主催しているDevyは今年2月に会った時、同じ道を5日半で踏破したと話していた。彼等は優れたランナーである。

Patagoniaの山を凌ぐ花崗岩の山は観てみたい。美しい自然に対する強烈な憧れと好奇心である。又、350キロ以上の山行を完全野宿で踏破することは体力的にも試して置きたい。歳が歳だけに来年では遅すぎる。是非2011年の夏に実施しなければならない。この話を原さんにすると、彼も是非行きたいと言っていたが、昨年の暮れ再度確認すると、体調が良くないので、同行は無理との話であった。その後知り合いに声を掛けると、元々は山屋のランナー薄葉さんが行きたいと言って来た。僕が連続10回目の完走を目指していたが90キロで諦めた1999年の鶴岡を完走した男で、その後僕の生前葬のレースにも来ているので、御存知の方も居られよう。心強い仲間が出来、計画を具体化させることにした。

山行準備

入山するには許可証が要る。これは24週間前から受け付けており、8月初旬の3日間の日付を入れ、ファクスで当局に申請したが、許可は得られなかった。許可には事前許可と、入山前日申請許可の2つがあるので、麓の事務所で前日の許可をもらう他無い。

Glennに勧められた本や地図を頼りに計画を練る。Spain語でSierraは山、Nevadaは雪を意味する。その発生は1億年前に遡り、主として花崗岩で出来ている。400万年前に地殻変動で隆起し、その後氷河の侵食により現在の姿になったという。この山系には3つの国立公園があるが、JMTを歩くとそれら全部を観ることが出来るのだ。

旅とは何だろうか? 業務上の旅、観光や物見遊山の旅、宗教上の巡礼の旅、目的のない流離の旅、新婚旅行なども旅であろう。これ等の殆どが、先人の作った出来上がった道に沿っての移動である。多くの場合幾つかの交通機関が利用出来、飲食や宿泊も随意出来る所での移動である。移動手段によって、旅を分けることも可能であろう。鉄道、船、自転車、ローラースケート等などの旅である。

これ等に比べ、山行は長距離、長日程であっても旅の範疇からはみ出しているような気がする。多くの場合、これも先人の用意した道を辿るが、交通機関は利用出来ず、宿泊や食事などを供する所は殆どない所での移動である。人里からは遠く離れ、緊急の場合であっても連絡も取れず、救出援助も儘成らない場所での移動だ。今回も一旦山に入ると、外への交信は一切不可能となる。携帯などは使えないのだ。カメラの電源の充電も殆ど出来ない。充電が出来る所もあるが、何時間か其処に留まる必要があり、又充電装置そのものも馬鹿に成らない重さと嵩があるので、市販の乾電池を必要数持って行くのが得策であろう。

更にもう一つの移動がる。道無き道を行く移動だ。これは冒険と言うべきで、又別な範疇であろう。誰も行った事のない偏狭の地で新たな道を探しながら目的地に向かう移動だ。これら全てに共通している点は行きっぱなしでは無く、必ず平常の生活地に戻ることであろう。何か新しい物を求めて異地に行くが、其処は人間生活に取って快適でない事が多く、長くは人が住めない環境なのだ。

僕は気が向いた所があれば、殆ど何も準備せずにふらりと出かけることが多い。先ず現地に行って、その後その場所の事を調べるのだ。此れは余り良い方法ではない事は分かっているが、如何しても何時もそうなってしまうのだ。事前に色々調べておいた方が、効率よく見て歩け、得る物も多いとは思うが、何時もそうなってしまう。牛に似た所があるのかもしれない。先ず取り敢えず、食ってしまう。その後じっくり噛み返し、租借する。根がセッカチなのだ。

ただ今回は流石に行けば何とか成るとは思えない。人の住まない所には1週間以上居たことは無い。15−20キロの荷物を背負っての旅は精精23日しかしたことが無い。3週間連続の野宿の旅も初めてだ。自然の怖さは十分に分かっている。事前に多くの事を調べ、必要な準備をしなければ成らない。

大きな地震が起こり、身動きが取れなくなった期間中に地図や先人の書いた案内書を読んで調べる。どの道にもその道の先人が居る。JMTを毎年の様に歩いている日本人も居り、これらの先人から情報を頂く。又    Trail上又はその傍にある施設の管理者とも接触し、Trailの状況も確認した。

起伏の多い山中は、高度が上がるに連れ、色々厄介な現象が起こる場所でもある。水は途中で何とか確保出来たとしても、食料、寝具、衣類全てを背負っての移動となる。道とは言っても集落や町の道とは大きく異なり、川には橋の架かっていない所も多い。こんな所に行くには下調べだけでは十分ではない。それらの文献はあくまでも、本の刊行の直前の状態の記述で、鵜呑みにするわけには行かない。山の地形は雪崩や、崖崩れ等により大きく変わる。ある時まであった、橋が流されている場合もあろう。山に入ったら、事前の準備はさて置いて、現実の状況に何とか対応し、先に進まなければ成らない。

人間の体力には限度があり、余り重い物を背負っては遠くまで移動することは出来ない。食べ物が無くなれば、他の動物とは異なり、動きが取れなくなる。我々には食料を現地調達しながら、移動する能力は残念ながら無い。車と同じでエネルギーがなければ、移動は不可能だ。どの位の食料を持っていれば、何処まで行けるか。その地点での補給は可能か?不可能であれば如何するか?

食料に関してはもう一つ考慮する点がある。熊対策である。カリフォルニアの州旗の真ん中は大きな熊であることは、何処かで述べてきた。ある調査によると雑食の黒熊は80年代から2007年には倍増し、25000−30000頭に増え、その多くはSierra Nevadaに生息すると言う。熊は人間を襲うことは滅多に無いらしい。只、人間の食べる物は気に入って居るらしく、食べ物は結構狙われるようだ。

この為に山に入る人は熊缶と呼ばれている、特殊な食料入れを持つことが義務付けられている。強化樹脂で出来た筒型の容器で、蓋は特殊なストッパーが付いており、熊は此れを開けることが出来ず、勿論容器を破壊することも出来ない。検査機関の認定を得た数種類の缶が市販されている。2月訪米の際に見てきたが、内容は10リッター強であり、風袋は1キロ強、値段は80−200ドルである。高い物は風袋が約半分であった。0.5キロの違いが大きな差を生む世界なのだ。

此の中にどれだけの食料を詰め込めるか、此れによって、行き着ける距離は予測できる。行く前には実際10Lの容器にどれだけの食料が入るのかも調べなければ成らない。又、予定の距離をこなせない場合も想定する必要がある。食べ物は消化したが、距離が稼げていない場合だ。

日頃余り考えた事も考えなければ成らない。カロリーの問題である。携行食品は前述の体力と容器の制約から、軽量、小容量、高カロリーでなければ成らない。これ等の条件は生食では満たすことは出来ない。乾燥物であってもその平均発熱量は100g当たり400Cal以下が圧倒的に多い。此れより更に高カロリーの物を探すと、ナッツ類がある。ポテトチップ、カリントウ、ミルクチョコレート等がある。油はカロリーは高いが携行には難がある。やや落ちるがマヨネーズは良いような気がする。これらは例外なく高油脂含有食品であり、通常主食の範疇には入らない。ポテトチップは重量比発熱量は高いが嵩が大きい。もって行くとすれば、粉末状にするしかない。粉末にしたらドンナ味に成るのか? これ等も出発の前に全部当たって置く必要がある。

主食や主菜に成るような携行食品もあるが、上記3つの条件を満たす物は少ない。多くは冷凍乾燥品で嵩が大きい。探検と冒険の国Norwayには良い携行食品が有ると聞いていた。昨年  Spitsbergenに行った時に見たがこれは冷凍乾燥真空パックした物で、嵩の面でも良いような気がするので、山行前に2度北欧に行った際、買って来た。

山行中の1日の必要カロリーは少なくとも2500カロリーは必要だ。この為には、嵩、重量に対して、カロリーの多いものでなくては成らない。摂取カロリーが消費カロリーを下回る場合、予備燃料の体脂肪を使う事になる。2キロ程度の減量は許容の範囲内だ。

10Lの容器にどれ程の食料が入るのであろうか? 乾燥物であるので重量のわりには嵩は大きい。100グラム当たり平均500カロリーの食品を選ぶことが可能であれば、日に500グラムの食料が必要で、密度を0.5とするとその容量は1Lとなり、10Lの熊缶には10日分の食料が入ることになり、中間地点まで行けることになる。其処から先は熊箱と呼ばれる熊が取ること出来ない食料保管箱が彼方此方のキャンプ場に設置されており、缶に入り切れない食べ物はここに入れて置けば安心して寝ることが出来る。幾分大目の食料を補給し、23日はこのような所を捜して泊まる必要もあろう。何しろ、熊に食料を取られれば、その時点で山行は出来なくなり、横道を辿り、人里に出なければならない事態となるのだ。

我が家にある全ての計量機器を総動員し、その他に牛乳パックを使って実験をして見る。ナッツ類、チョコレート、袋入りのインスタント物を除き、踏み潰したり、ミキサーに掛けて減容を図る。ある程度まで細かく砕くと、嵩は減るが、それ以上細かくしても減らず、逆に増え出すことも分かった。又ポテトチップ、カリントウ等はミキサーに掛けると油が分離してしまう。それに食味、食感の問題も考慮し、結局ラーメン、ポテトチップ、カリントウは踏み潰しただけか、更に擂鉢に押し付けて適当な粒状になる様にした。

候補に上げた食料は勿論日常食では無く、カロリー、重量、嵩の条件を満たしても、山行中毎日食ってちゃんと出て行くことを確認しておく必要がある。持って行っても2日目から喰えなく成ったり、糞詰まりや下痢を起したら山行の継続は不可能になる。そこで、野菜、果物、肉、魚類は家内が作った物、主食としては前に挙げたものを1週間ほど喰ってみた。実際の山中食とは程遠い物であるが、実験は有効であったと思う。

ナッツ類は胡桃、アーモンド、ペーカンナッツ、ピーナッツ、ヒマワリ、ゴマの等量混合物(粒の大小を混ぜる事により空隙を少なく出来る)、ポテトチップ、カリン糖、インスタントラーメンは減容の為砕いた物を食べたが、何とか喰えるし、出るほうも支障がないことが確認できた。この他に必要なのは、ビタミン剤、電解質、若干の塩である。熊缶の嵩にゆとりがあれば、動物性蛋白を含むインスタント食品、高カロリースナック、サラミソーセージ、乾し肉、チーズ等も持って行きたい。嗜好品であるコーヒーやお茶は最初から諦める。

ポテトチップ、ラーメン等は米粒程に砕いて重量と嵩を測って見ると、何とか上記の組み合わせでカロリーの確保は出来そうなことが分かった。家内は何も言わなかったが、正気の沙汰ではないと思って居たに違いない。僕は戦前生まれで、食べ物は大抵のものであれば、あれこれ言わずに喰える恵まれた人間の一人である。ある目的の為には日常の快適性はいとも簡単に捨てさる事が出来る。一ヶ月以内であれば、この程度の偏食をしても、健康に実害はないと考えている。減容と現地でゴミを出さない為に、個装した食品の殆どは取り除き、種類ごとにやや大き目の袋に入れ熊缶の中で馴染みが良く空間を少なくするようにした。ラーメンのスープ等も例外とはしなかった。

何かをしようと思えば食は斯くも重大な関心ごとなのだ。僕にはカロリー零の食品の存在理由が全く理解出来ず、罰が当たった話しであると思える。食は生きる為に食うのであり、享楽のための物では無い。人間を除き痩せる為に食ったり呑んだりする動物は居ない様に思う。如何に人間が知に溺れ、狂った存在かを知るべきでは無いか?

山行中、途中で補給が可能な地点が何箇所かあるが、中々丁度しない。行程の五日位までは寄り道をすれば、調達可能な所はある。出発時に持って出た食べ物の減り方を見て、補給することも考える。当然寄り道は短い方が良い。後に行く程、補給可能地点は減り、寄り道の距離も大きくなる。幸いな事に丁度中ほどにMuir Trail Ranchと言う観光施設があり、其処で食料の中継をしてくれることが分かった。郵便局を通してそこ宛てに送ると、麓の局からそこまで運んで来て、依頼主が到着するまで預かって呉れる。当然有料で、11キロまでが60ドル、其れより重い物は割り増し料金となる。背に腹は代えられないので、ここを補給所とすることに決める。物はアメリカ到着後、現地調達食料も含め、登り出す麓の局から送ることにする。僕の体力を考え、途中一切寄り道をせず、兎に角JMTの踏破を第一目標とし、補給はこの中間点の一ヶ所と決める。

大きなグループのユトリのある山行であれば、あちこちでDonnage Packと呼ばれる馬を使った補給が可能だ。此れは75キロまで、馬方1人馬1頭で1日3百jほどだと聞く。

食料に関しては各々の好みがあるので、各自で用意することに決め、其の為薄葉さんは上京してアルファー化米を中心に独自のメニューを用意した。

僕にとっては此れだけ長期の山行は生まれて初めてである。色々な情報を参考に行程表を二つ作った。便や途中の交通手段の制約を加味し17−18日で踏破完了の案とした。どちらも2〜3日のゆとりを持った案である。天候や怪我、雪や川の増水で、遅れがでることも有りうる。非力な僕の体力では何が起こるかわからない。余裕は必要なのだ。

 自分で書いたシナリオを演じ切れる自信は無いのだ。役者の様に本番の前に練習は出来ない。いきなり本番なのだ。でも、何かの指針が無ければ、目的を完遂は出来ない。

薄葉さんも彼なりに研究したが、考えて居てもしょうがなく、兎に角遣ってみようという。一応の行程を目安に後は現場調整と言う事で話が落ち着く。

専門家である彼には装備の検討を御願いした。テント、加熱器等は皆彼の物を使う事にし、又僕のザックも彼の物を使う事にした。全体の軽量化の為、僕はカメラを持たず、写真は全て彼に御願いした。彼のカメラは使い捨ての電池式、で充電式と比べ、全体的に軽くなるのだ。

アメリカへ

8月2日薄葉さんとNaritaのホテルに泊まる。夏場は航空運賃の高い時期であり、安い物を探すと    Asiana航空の仁川廻りであり、成田発は早いので空港泊まりが必要であった。

3日、Asiana航空は初めてであったが、仁川まではBusiness Classに載せて呉れた。  AsianaのLoungeは良いが機内サーヴィスはやや劣る。San Franciscoに昼頃着き、市内のYouth Hostelに荷物を置き、買い物に出かける。熊缶を探したが目当ての品が無かったので、登り口のYosemiteで買うことにし、僅かな時間ではあったが、市の中心部を見て回った。

翌日4日、BARTでRichmondまで行きAMTAKに乗り換える。途中までは順調に行ったが、   Stocktonの先で山火事に会い、長い間列車が止まる。駅で止まったが、線路の脇にはBlack―   berryが沢山成って居り、まだやや早いが、熟れた物もあり、乗客や通りかかった人が摘んでいた。このBerryは至るは所に沢山出来る。遅れに対して、水とスナックが供された。

長い間待った後、列車が動き出す。暫く行くと、線路の両側が黒くなっており、燃え燻ぶって居る所もある。風は追い風で、火は線路に沿い進行方向に燃え広がって行ったのだ。まだ消火活動が続けられている所もある。乾いた農作物や、線路際の枯れ草が焼けており、家屋、車なども焼けていた。何キロも燃え広がっていたが、人家への被害が少なかったのは何よりだ。

目的地のMercedの駅には4.5時間遅れて着いた。乗り継ぎのバスには間に合わないので、ホテルを用意すると言われたが、行程上ゆとりが無いので、自前でタクシーでYosemiteまで行く事にし、タクシーを頼んで貰う。入山前の大きなハップニングだ。

260ドル程余分に掛かったが、この選択は賢明であったと思える。タクシーの運転士は子連れで5歳の男の子が助手席に乗っていた。目的地に着いたのは日も変わる時間である。父子家庭なのであろうか?余計な詮索はしなかった。

Yosemite Villageに着き明かりの点いている店の前で止まると、直ぐに警察の車が来た。この時間Camp地も宿も無い、お前ら如何するのだと言う。こちらの事情の話すと、車に乗れと言う。乗って程なく、車は止まり、彼氏曰く“此処が許可書を出す事務所だ。お前ら並んで待って居る内に寝てしまった事にしろ。”中々話しの分かる年配の警官であった。アメリカでは許可された所以外での野宿は禁止で、逮捕される場合がある。

この処置のお陰で、我々は先頭に並び、翌日4人にしか出ない入山許可書を手にする事が出来たのだ。災い転じて福とはこのことなりや?

事務所入り口横のベランダにマットを敷き寝袋に納まる。直ぐにもう一人男が来た。其の男は椅子に腰掛けて待っていた。明るくなる頃には10人余りの列が出来ていた。

起きて周りを歩いてみる。許可書を出すYosemite Wilderness Officeは木造平屋建てで大きなものではない。廻りは針葉樹や落葉樹の巨木が取り囲んでおり、リスが走り回っている。天気は快晴、朝の空気は旨い。巨木の間からは陽を受けて白色にみえる花崗岩の急峻な岩肌が見える。又遠くには高い所から落ちる白い流れも見える。ヨセミテ滝である。此れだけを見ても来た甲斐があったと思うほどだ。日本にはない大きな景色なのだ。

8時半に森林官が来て、今日の許可証は4人分と発表があった。やれやれである。その後、建物の前で、入山前の注意事項、キャンプ地、焚き火、排泄物の処理法、洗濯の仕方、熊の習性等の説明があった。 628

実際に許可書が出たのは11時ごろであった。其の後、燃料や熊缶、釣りの許可書を買に行く。そこそこの規模の店であったが、使えそうな熊缶は一つしかない。しかも、サンフランシスコで敬遠して買わなかったタイプの物だ。2つ必要だと言うとCurry Villageにある店に行ったらという。バスに乗ってその店に行ったら、あるにはあったがこれも同じ気に入らないタイプの物であった。

気に入らない理由は幾つかある。設計が悪いのだ。利用者の便を考えた設計に成っていない。最大の欠点は出し入れ口の径が小さく、出し入れに手間が掛かる。完全な円筒形ではなく、筒の中ほどが太くなっていて、ザックへの出し入れ及びザック内の収まりが良くない。3つ目の欠陥は樹脂が真っ黒で中が全く見えないことだ。透明樹脂であれば内容物が見え、取り出す際に必要なものが取り出しやすい。更にもう一つの欠陥は容器の外側は滑々しており、内容物が重い場合はザックへの出し入れが難しい。表面に若干の凹凸を付け、取扱いし易くすべきだ。これ程欠陥だらけの商品でも買わざるを得ない場合もあり、人生儘ならない物だ。

傍の郵便局から用意した食料を送った。荷姿や送り方は受け取り側から指示があり、それに従った。25リットル強の蓋付きバケツで送れとある。バケツは金物屋で買えるが、レストランでは只の物がある筈とも言って来ている。サンフランシスコで2−3のレストランを当たって見たが、無いと言われた。此処に来て訊いて見るとあった。無料である。これらのバケツはアメリカでは食材業者とレストランの間で極普通に使われている事も分かった。蓋にはパッキンが付いており、食料が雨滴や外気に曝されない構造と成っており、理に適っている。

送達は特別便とし、後で物の追跡が出来るようにした。料金25ドル。その後は公園内の無料バスで観光をし、明早朝に予定している入山口も確かめる。此処は国立公園の入り口であり、可也の人が訪れている。多くの人を収容出来るロッジやキャンプ場が在るようだ。 

 事務所の前にバネ式の秤があり、ザックの重量が測れる。推奨されている重量は体重の4分の1である。僕の荷物は16キロを超えており、この推奨値を上回るが致し方無い。其の上、最大2キロ水の重さが加わる。この内徐々に減るのは食料と僅かではあるがガス燃料である。全行程を通して略15キロの負荷を覚悟する。

薄葉さんは更に共同装備にテント、バーナー等で5キロ程多い。彼の体力からすると、この程度のハンディでは不足かもしれないが、歩いてみて、負荷の調整をする必要があるかも知れない。どちらがへたっても、踏破は不可能である。お互いに庇い合って目的を達成したいものだ。

 午後早く指定されているCamp地を探す。大きなCamp地で熊箱もある。熊箱はこの先も彼方此方で見た。開閉方法が異なる物もあるが、熊には開けられないもので、全て鉄板製のものであった。大きさは1メートル四方又はやや長方形で、中の高さは其の半分程であった。

規定に従い一人5ドルを入れた封筒を料金箱に入れ、テントに許可の印を付ける。食料は熊箱に、その他の荷物はテント内に置き、村の探索に出る。村内や近くの村を結ぶ無料循環バスがあり、それに乗り1巡してみる。木の間越しにヨセミテ滝や雄大な山が見える。空は抜けるように青い。村内には色々のハイキングコースがあり、それらの入り口までバスを利用する客は多い。明朝の登り口も確かめておく。625

テントに戻るとMinessotaから来たと言う3人のインド人留学生が隣にテントを張っていた。彼等は老人が350キロも先まで歩く事に興味を持ち、色々と話をして来た。焚き火をし、夕食を取る。食べ物はカロリーの割には嵩の大きい物から食べる。早急に熊缶に何とか全部納まるようにしなければ成らない。

野宿は昨夜から始まっているが、テントに泊まる本格的な野宿は今夜始めてする。昨夜は十分寝ておらず、明日も早いので早めに寝る。夜中に用便に起き、大きな針葉樹越しに空を見上げる。隙間から見える星は大きく綺麗だった。

入山

8月6日:救助訓練の為6時には入り口が封鎖になると昨日Rangerが言っていたので、4時半頃出発する。ヘッドランプを頼りに歩くが、遊歩道ではなく、よりハッキリしているバス道路を進む。愈々此れからが正念場だ。Merced川沿いには広大なCamp地があり、此処は車で来る人達専用だ。橋を渡らず、川に平行に登って行く。Trailの始まりは其処から更に登った所で、キャンプからは3キロほどになろうか。

薄暗い中、渓流の音を聞きながら登って行く。前にも歩いている人が居る。暫く行くと熊だと言って立ち止って居る人が居る。100メートルほど下には川が流れており、熊は川から我々の歩いている山道に向かって登って来ていた。30メートル程下をユックリ歩いて来る。熊は人の気配があると、遠ざかると言うが、此処の熊はそうではない。人には慣れているのだろうか、悠然としている。肉食では無いので人を襲うことは無いが、人の食い物は大好物だという。未だ薄暗いが、灰色がかった薄茶色の熊で、大きさは40−50キロ程度であろう。ずーと見ていた人も居たが、我々は足早に通り過ぎる。

更に登って行くと、やや下って川に掛かる橋を渡る。左手に小さな小屋とトイレがある。標識が出ており、行く先と距離が書いてある。此処が登り口らしいが、誰も居ない。近くのせせらぎの音、遠くからは滝の音が聞える。登り口の名前はHappy Isles(幸福島、1230m)である。こんな山の中で島の地名は異に感じるが、どうやら、Merced川の中州で複数あるようだ。

道はダートから古いアスファルトの道に成る。Trail開設の初期に作った物らしく、割れや凸凹が多く歩き難い。自然界に人工物を持ち込む過ちを犯した事を悟り、その後は一切手を加えていないようだ。勾配は其れ程急では無いが九十九折れが続く。乾いた砂や石の道を登っていく。20分ほど登ると、やや下りとなる。木橋をわたると、前方に滝が見える。Vernal滝だ。最後の水道があり、給水する。これから先は谷川の水しか得られない。

陽も上りだし、周りの峰が美しく浮かび上がる。灰色をした花崗岩の山々である。歩いている沢合いの道は大きな米松、ブナや楓類の木の中にあり、此処まで陽が届くのは未だ時間が掛かりそうだ。前後には沢山の人が歩いている。国立公園の入り口で、車や公共の輸送手段もあるので、此処までは誰でも来られる所だ。 

Merced渓谷の南壁のややきつい九十九折れを登っていく。九十九折れの良いところは、進行方向は元より、首を曲げ振り返らずとも、通り過ぎてきた景色を見ることが出来ることだ。白い渓流や滝が見え気分がよくなる。この辺りの山は白に近い灰色の花崗岩で出来ており、釣鐘型(Dome状)をしている。頂部は丸く平らで傾斜が少ないが、下ほど傾斜がきつくなっている。氷河で削られた、幅広い沢の両側にこの様な山が連なる。標高は1500m程であるが、風化の進んだ山を除いて樹木は生えていない。又完全なDome状の山も多いが、風化による岩石流が起こり、一部が垂直になっている山もある。この典型がHalf Domeであろう。釣鐘を真っ二つに割った様な山で、その垂直壁は600mあるという。ここでしか見られない山だ。

九十九折れが終わると、登りは緩くなる。暫く登ると、急な岩壁を開削した登りとなる。ななめ前方には落差の大きい滝が白い帯の様にみえ、ドーム状の山が二つ見える。氷河と風化の産物である。傾斜は山の下部程大きい。山の底部は氷河に削られU字系の傾斜を持つが、頂部は氷河の浸食が少なく曲率の小さい円形となっているのだという。

Nevadaの滝の真上の木橋を渡る。幅5mほどの橋で手の届くほどすぐ下に綺麗な水が急速で流れて行く。流れは1m程先で垂直に落下し、180m程の滝となる。水飛沫と霧を纏った滝は山道の遠くからも見え,瀑音も聞こえる。ここからはMerced川の左岸を登っていく。花崗岩の一枚板の上を歩く。道の印は岩の両側に小さな岩が並んでいる。岩の割れ目にも色々な色をした花が山道沿いに続く。其の先は砂と岩の九十九折れの登り、やや降ると初めて平らな道となる。川岸を暫く歩くと、川から離れ又登りで其の先は又九十九折れ、今日は一日略登りなのだ。ここまでで約600メートル登っており、背の高いJeffery Pineも見られる様になった。長手方向には20cmを超える松ぼっくりが落ちており、リスの齧ったものあった。薄葉さんは植物や景色の写真を撮りながら歩いてくる。それに地図も見なければならず、余程の体力が無ければ出来ない事だ。

 我々はJMTを歩いているが、この山道と交わる他の山道もこの辺りは可なり多い。ほぼ1キロごとにある様に思える。一々確認するのも億劫なほどだ。此怠惰心の性で最初の失敗をし、6キロ余り余計に歩くことに成る。人の多く集まっている所があり、道なり真っ直ぐに進む。本当はほぼ直角に右に行くべきであったのだ。標識が人の陰になって、見えなかった可能性もあるが、我々の不注意であったことは間違いない。

ややキツイ登りとなる。黙々と歩き続けるがやがて、何かおかしい事に気付く。軽装の人が多いのだ。途中で“重装備でここへ来る人も居るのだ”と話しているのを聞いている。我々のことだ。そうこうしている内に、  Half Domeが間近に大きく見えてきた。これは近くで見るとまた見応えがある。然し、何かおかしい。案内書にはHalf Domeの傍を通るとは書いてないことを思い出し、間違いを確信し、引き返す。

先ほどの分岐まで戻り、改めて標識を見る。標識は小さいが確かにあった。改めて正規の道を進む。間違いから何かを学ばなければ成らない。分岐点では次の分岐までの距離確認をする。こうすることで次の分岐までの到達時間が予想でき、標識の確認に傾注出来る筈だ。其れに地図とコンパスをモット活用すること、それに行き合う人に道の確認を頻繁にすることだ。これらの反省として、僅か1時間ほどで2度目の過ちを犯したが、今度は誤りに気付くのが早く、直ぐ引返せた。

2回目の間違いの原因は進行方向を阻む様に2人の女性が水の濾過をしていたからである。右手には小川が流れており、対岸は草が繁っていた。道はどっちだと訊くと、右手だという。確かに道はあり、登っていく。何か様子がおかしいので、戻ってよく見ると、先ほどの水場から直角ないしは鋭角にJMTは続いていた。

陽も高くなり、汗もかく。ほぼ1時間毎に小休止し、水を呑み、おやつを食べたりする。道は全体に登りであるが、時には下りとなる。Meadowと呼ばれる草地があり、その緑は鮮やかで、綺麗な花が咲いていたりする。

幾つかの沢では川を渡った。小石や丸太伝いに渡れるところも多いが、靴を脱いで渡った所もあった。この場合前後で30分ほどの時間が必要で、出来る限り,このような渡河の少ないことを願う

登り道の大半は乾燥しており、土埃が舞上がる。靴にはゲートルをつけているので、砂や小石の入る心配はない。九十九折れのない登りでは、時折振り返って後方を見る。見えている山は2500m前後で、まだ高く見える。樹木は疎らであるが、針葉樹の種類は多く、サトウ松、鬼ヒバや米モミも見られる。更に登って行くと、アメリカ松、コントルタ松もあり針葉樹の種類は多い。これらは葉の付き方、実の形状、樹皮の違い,樹高等で分かる。道の直ぐ傍まで,鹿が出てきたりする。角がなく体も小さいので、子供であろう。人を恐れる様子は無い。ここが彼らの住処であり、よそ者は歯牙にもかけない風である。巨大な木が道を横切って倒れて居る所が彼方此方あるが、これらの木は全て通行の邪魔に成らない様に切ってある。全て人力で遣った様で、人の動かせる大きさの輪切りにして路傍に置いてあった。木の断面に15cm程の黒蜥蜴がじっとしており、陽を浴びて見る角度によって赤や紫の斑点が光るのが印象的であった。

Sunrise川に沿って登っており、Meadowと呼ばれる草地状の所も歩く。渡河も所々にある。傾斜は余りきつくないが、温度は高く汗は十分にかく。

今日の予定は13マイルであったが、これに拘らず、適当なCamp地が見つかり次第、Tentを張ることにした。朝早くから歩きだし、迷った分も入れると25キロは歩いていることになる。高度も1500m程上げて来た。初日なので程々の所で止めておくのが良いのだ。

幸い水場に近く、火の焚けるCamp地がすぐ見つかった。流れの音の聞こえる大きな針葉樹の中に、薄葉さんが素早くテントを張る。僕の出来ることは水汲みと、火を焚くぐらいだ。 

Sunrise Lake分岐点手前、高度約2700m、累積距離:約19km。

未だ明るく、夕食をしている間も何人もの人が行き来していた。Tentに入っても人が歩いているのがわかる。いつの間にか眠っていた。用便のため夜半にテントを出ると、星が大きく綺麗であった。可なり冷え込んできている。

8月7日、7時過ぎに歩き出す。今日はどの様な景色が展開するのが楽しみだ。朝は可なり冷え込だ。これから高度を上げていけば、更に寒くなるに違いない。歩き出しても中々暖かくならず、ストックを握る手は冷たい。木立の中を緩やかに登る。幾つか小川を渡り、平らな草地に出る。  Long Meadowである。殆ど平らな所もある。両側には綺麗な花が切れ目なく続く。大小のMeadowを通り過ぎる。景色は良いが、Meadowは蚊が多く、これには閉口する。Meadowと言う言葉はこれから何回か出てくる。山間地の平地で、多くの場合小川が流れ湿地の為、草が青々と茂った所を指す。放牧地として利用される。

一応素肌が出ている所には蚊よけの軟膏を塗ってあるが、そのほかの所は無防備である。シャツの上からも指される。草地を20分程で通り過ぎ、また登り出す。一時間程でCathedral峠に達し、その先はやや下りなる。左右に見えてくる山は3000mを超えている。遠くからではあるが、中でも見応えがあるのは右前方のCathedral Peak(3326m)である。どれも険しい山容だ。山頂から深く抉れている山も見える。氷河の爪痕、圏谷である。左下の2つの湖はCathedral Lakesである。英語では複数に成っている所に注意されたい。この様な表記は今後も度々見ることに成る。湖は無数にあり、全部名前を付けるのは大変だ。隣接する2つの湖に同じ名前を付け複数形で二つあることを表しているのであろう。この湖の辺りは人気の    Camp地であるが、熊も多いそうだ。

湖の横を過ぎると、又登りとなる。程ない所に群境で分水嶺がある筈だが、全く気が付かない内に通り過ぎて仕舞った。登りが何処で終わり下りが何処で始まったかの確認は出来なかった。(この水系のJMTの距離は28.3Km,登りおよび下りの合計は+2088m、−392m)。気が付くと、緩やかに降り出している。軈て車の音が聞こえてくる。更に進み川を渡り、東に進路を取る辺りで、遠くに車の走っているのが見える。   Sierra Nevadaを東西に横切る数少ない道路だ。その北側にはToulomne Meadowの広大な観光地が広がる。食事や食料の補給も可能だ。JMTは略道路に並行して東に向かう。道路と山道の間には大きなCamp場があり、車で来た人たちが沢山居るようだ。山道では軽装の人を良く見かけた。道路に並行に一時間ほど歩き、大きな川に突き当たる。Lyell川である。

川に沿ってなだらかな登りを歩く。殆ど平らと言える。今朝は寒かったので、高度の低い所でCampをする事にする。Lyell川の流れの緩やかな岸で、何人かが裸で川に入っている。我我も小休止をし、彼らが立ち去った後、川に入り体を洗い、靴下なども洗う。雪解け水は冷たいので、上半身はそそくさと洗う。これで2日間たっぷりかいた汗を流すことが出来、爽快な気分になる。陽はまだ高く、風も無いのが幸いであった。時間的には未だ早いが、洗濯をしたこともあり、ここで泊る事にする。川から50m程の所にCamp地があり、誰もいない。洗濯物はCamp地の石に載せておくと夕方までには完全に乾いた。洗剤の使用は制限されているが、洗剤なしで洗うことはよいのであろう。Toulomne High Sierra Camp分岐手前、標高約2620m、累積距離約37.5Km 

今日は道にも迷わず、比較的平らな道を歩き、楽であった。距離も短く19キロ弱であった。4時にはCamp地についた。この後登る人、下る人が可なりおり、暗くなってからも口笛を吹きながら歩いている人も居た。皆自分の予定に従って歩いているのだ。

テントは僅かな砂地に張ったが、周りは平らな白い花崗岩が剥き出しなっていた。氷河が削って行った跡であろう。大きな木が疎らに生えており、夜空は綺麗な筈だ。寝付かない内に犬の様な鳴き声が2度上流の方から聞こえた。熊でも出て追い払っているのかもしれない。夜起きて見ると、満天の星の中を人工衛星が点滅しながらゆっくりと移動していた。それにしても星が大きく、数も多い。蚊が多く、テントの出入りの際、中に入ってくる。Head Lampを点け、帽子で全部たたき潰す。中には血を一杯に吸っている奴もおり、テントに血の跡が付く。蚊は夜中気温が5度に下がると飛ばなく成る様だ。この習性を利用して、明朝は寒いうちに用便を済ませようと思う。丸出しの所を遣られたのでは、オチオチ用も足して居られない。

8月8日:朝テントには薄氷が張っていた。テントは結露で重くなっており、出発は水分を飛ばし、9時か10時にした方が良いのかもしれない。こちらの人が、夕方遅くまで歩いているのはこの為かも知れない。

我々は何時もの通り早く起きており、テントの乾きを待たずに7時には出発する。体が中々温まらなく、手は手袋を着けていても冷たい。歩いている草地は霜で真っ白だ。真夏でも霜の降りる高度なのだ。左右の峰々に陽に映え上がっているが、山道はまだ日陰である。空には雲一つない。今日も暑くなりそうだ。

しばらく花の多い緑の草地を歩く。川の両岸斜面は急峻で、岸の斜面に雪崩の跡であろうか木が倒れている所がみえる。流れ込む支流を彼方此方で渡る。石伝いに、ある所は不安定な丸太を渡る。面倒ではあるが靴を脱いで渡らなければならない所もある。急流ではザックと体との固定部を全て外し、川に落ちた場合ザックは諦め、身一つを守る為である。渡河は慎重の上にも慎重でなければならない。靴を脱いでの渡河も膝より深い所は無かったが、流れは急なところもあり、細いストックでも水流でブルブル震える。両岸での靴の脱ぎ替えも大変だ。アッという間に蚊の餌食になり、背中も頭も凸凹になる。幸いな事に痒さは長くは続かず、跡も残らなかった。

水は生で飲むものは濾過装置で濾過していたが、これも中々時間がかかり、その間にめちゃくちゃに蚊に刺される。標高も2500mを超えており、澄んだ雪解け水なので、3日目以降は濾過せずに河川の水を飲んだ。よく考えてみれば、濾過器は御呪いで、殆ど衛生的には意味を持たない。濾過器は水中の浮遊微粒子を取り除く為のものであり、細菌除去の機能は全くないのだ。細菌の除去には薬剤を使うか、沸騰させるしかない。薬剤は持って行ったが、使うことはなかった。

Lyell川沿いの緩やかな登りは15キロ程続く。川の両側は緑のMeadowが広がり、色々な花が咲いている。  

午後になると岩石の多い登りの道になる。遠くには雪を抱いた山が見える。2度目の分水嶺の峠はどれなのであろうか? 段々と山が近くなってくる。

見えている山のどの鞍部がDonohue峠なのであろうか?麓の情報では3000mを超えると雪があり、特にクレバス上の雪は致命傷になるので注意せよとのことであったが、どの程度の雪があるのであろうか? 

黙々と登って行く。灌木しか生えて居ない剥き出しの岩肌の続く九十九折れは長く感じる。木橋を渡ったり、靴を脱いでの渡河も何度もある。前方に大きな雪面の山が見えて来る。JMTから見えるSierra    Nevada最大の氷河を有するLyell山(3997m)だ。

氷河を右手に見てJMTは左に曲がって行く。更に長い間登ると雪渓の突端に着く。先人の足跡が付いている。可なり溶けて、両側は腰より高くなっており、ストックは邪魔になる。山道は全く確認出来ないが兎に角足跡を辿って300メートルほど進む。雪が切れた所で本来の山道を探す。大きな岩があり、歩くのは大変だ。道が見つかると一安心だ。所によっては雪解け水が流れており、歩き難い。その先にはまた雪がある。何回か雪の中を進み、漸くDonohue[3377m]に着く。今日までの最高地点で分水嶺である。(この水系の移動距離29Km,登り降り+930m、−472m)。峠で一休みし、後を振り返る。通り過ぎた美しい景色が見え、感慨無量である。これから進み行く南東の方向の眺めは広大な広がりがあり素晴らしい。氷河の作った圏谷に水が溜まった沼が数え切れない程見える。

 ここから先役8キロのみと、Mt.Whitneyからの下りが我々の歩くSierra山脈の東麓である。全長350キロあまりの大半は西麓を歩くことになる。新たな水系に入り、雪渓の真下から流れている水をのみ、瓶に入れる。ここから先は覚悟を決め、濾過木を使わず、自然の流水を飲むことにする。水は豊かでどこにでもありそうだ。山道は大きな沢合に沿っているからだ。遥か下には大小の湖が幾つも見える。

 下りに入り、幾つかの川を渡る。流れの速い所もあり、用心して渡る。後で写真みると、ヘッピリ腰で渡って居る。雪は彼方此方に残っていたが、軈てなくなり、沢山の花の咲く植生豊かな湿地帯を暫く歩く。彼方此方に氷河が運びきれなくおいて行った、巨石岩塊が見られる。昨日よりは一段と高い所を歩いているが、Meadowと呼ばれる緑地の平地があるのだ。

昨日は標高の低い割には寒かったので、出来るだけ低い所でCamp地を探さなければならない。樹林帯に入り更に下っていく。轟音を上げ流れるRush Creekを渡ると直ぐに恰好のCamp地があったのでそこで泊まることにする。水場も近く火も焚けるので、最高だ。Marie Lakesの分岐地点(2950m)。丸3日で40マイル強、64キロ以上歩いたことになる。ここまでは順調と言える。先は長いので無理はしない方が良い。

 明るい内にテント内で横になる。日が陰ると急に寒くなるのだ。

8月9日:朝5時に起きる。思った程寒くは無い。気温は高さだけでなく、地形や気流にも影響されるからであろう。4日目ともなれば、行動は定型化してくる。起きて飯を食い、次の目的地に着くまで歩き、食って寝る。それ以外は何も考える必要はなく、遣ることも無いのだ。人間社会の雑音は何一つ無く、兎に角自力で自然の中を歩くだけだ。毎朝7時前後に出発し、5時前後にはCamp地に着く。陽は6時には登り、8時ごろ沈むので、モット歩こうと思えば、歩けるが無理はしない。

 昨日までの経験から日に20キロはそう無理せずに歩ける事も分かって来た。食料もやや減って来ており、また水も当初のように2リットルではなく500ccで十分であるので、その分体に架かる負荷も少なくなっている。何となく、全行程の踏破は可能な様な気がしてくる。只山中では何が起こるか分からない。一寸した不注意で捻挫を起こしたり、転倒し怪我をする可能性は皆無ではない。渡河の際の事故も無視出来ない。突然の天候の悪化もありうる。兎に角、用心し出来ることをするしかない。万一僕に何かがあった場合は薄葉さん一人で踏破敢行をして欲しいと伝える。そんな事は出来ないと言うが、本当にそうして欲しい。僕だって何としても無事踏破して帰国したい。この後には9月の南米、10月のIstanbul遠征を控えて、仲間の分も含め200万円以上既に払い込んで居るからだ。最悪の事態が起ればこれらは全て無に成り、お金は返せても、大きな迷惑をかける事に成る。安全第一、無事踏破が最大の目的だ。

 7時頃に歩き出し、下って行く。九十九折れを少し降ると登りが始まる。水の豊富な所で彼方此方で大小の川を渡る。途中から花崗岩の色が黒みを帯びてきた。この先に火山でできた地層があり、その境目で岩石の成分が変わった為だという。道には火山性の岩石がゴロゴロしており歩き難い。岩だらけの痩せた土地にも疎らに樹木が生えており、花も咲いている。1,5キロ程で標高3124のIsland 峠に着く。山の中に島峠とは、これいかに? どうやら、直ぐ先にあるThousand Island Lakeと関係がありそうだ。ここで水系が変わり、水はSan Fransisco湾に流れる。(先の水系はJMTの中で一番距離が短く、水は塩湖に流れ込み、そこで蒸発してしまう。移動距離7.8Km,登り及び下りの合計、+183m、−442m)ここから先山道はまたSierra 山脈の西麓を通る。

 今日まで3日間は毎日今までに見たことのないような、雄大で美しい山、綺麗な渓谷の清流や滝、沿道に咲く色とりどりの高山植物を毎日驚嘆しながら見てきた。今日の楽しみはこれに、湖が加わる。ここまでも幾つかの湖を見てきたが、ここから先20キロの間に大小様々な湖が無数にあるのだ。

 峠を降りだすと直ぐに左右に湖が見えてくる。1キロほど先には可なり大きな湖が山道の右下方に見えてくる。Thousand Island 湖である。長手方向は2キロ程の湖で、その中に花崗岩の島が沢山ある湖だ。山道の見晴らし台から略全景が見える。島には針葉樹を冠したものも多く、絶景である。日本ならこのような景観を手付かずで残すことは不可能であろう。観光船が何隻も行き交う一大観光地となっているであろう。所がここはどうだろうか? 湖の名前を書いた看板も全くない無いのだ。湖は地図の上と、そこを訪れた人の心の中にのみ存在しているようだ。792

 この他次々に湖が現れる。Emerald 湖、Ruby湖、Garnet湖等宝石の名前を持つもの、LauraCharlieなど人の名前を持つもの等様々である。行き合った人に聞いてみた。これ程の湖は全部名前が付いているのかと。付いて居ないものもあるかも知れないとの答えが返っていた。そんなことは無いと思うが、ひょっとしたらあるのかも知れない。それ程沢山の湖があるのだ。後で調べて分かったが名無し湖は可なり多く、又多くの湖は名前の後にLakesと複数表記となっている。これは隣接した2−3の湖に一括りにして与えた物と考えられる。それ程湖は多いのだ。

 

 湖面の標高は3000mに近いものあり、周りの山は当然それ以上だ。雪を抱いた山々に囲まれたこれら湖の姿は永く印象に残るものだ。沿道の花々も美しい。時々現れるMeadowの緑も格別だ。只ここは淀んだ水のある所で,蚊の繁殖所である。夥しい数の蚊が居る。人が歩いていると、煙幕の様に蚊の集団の幕が人の形で出来る程だ。蚊柱とはこういう状態を指すのであろう。Swedenの北部も時期によって蚊が多いが、こちらの蚊の大群はその比ではない。

蚊よけの塗布剤を塗っては居るが、全身に塗るわけには行かない。塗ってある部分は蚊に食われることはない。只休憩の為ザックを降ろした途端、背中が凸凹に成るほど刺される。Tシャツ等を着ていても蚊に対しては何の効果もない。折角の美しい景色もゆっくり見ることが出来ないのは残念である。828,829,830 851

歩いていると時として、人に出会う。同じように南を目指している人で早い人には追い抜かれたりする。反対側から来る人からは、その先の山道の状況、特に川越え、雪、迷い易い所等に関して訊く。殆どの人が親切に答えて呉れるが、人によっては的確な返事は貰えない。大体軽装の人は近くの入り口から2−3日の予定で来ている人たちで、こちらの歩こうとしているルートに関して詳しくないからだ。勿論、JMTを最初から北に向かって歩いている人、Mexico国境からPCTを歩いている人にもたまには出会う。こういう人たちの情報は的確で役に立つ。又偶にはForest Rangerにも出会う。彼らの情報は詳細で的確である。今日は子牛程の犬を連れたRangerと出会い、この先危険な場所等に関し訊いた。日本から良く来たと言い、親切に教えて呉れた。山で会った人は皆親切であった。810                   

 沢山の湖を見て、上り下りを繰り返しながら、徐々に下って行く。斜面全体がシャクナゲの九十九折れもあり、花の時期はさぞ見事であろうと想像したりする。水は見えているが、火山性軽石の砕けた砂地の道は乾いており、細かな土埃が舞上がる。夏は乾期で殆ど雨は降らないからだ。8月の平均降雨量は2ミリと聞く。

高度を下げるにつれ、蚊の数が増えて,鬱陶しい。Jonston Meadowの湿地帯の辺りは特に酷かった。Camp地もあり、何組かのTentがあったが、その先で泊る事にしたが、ここも今までになく蚊は多かった。

 雲一つ無い晴天の中、沢山の色の異なる湖を見たことで蚊の害は忘れることにしよう。綺麗なもの見て、蚊に刺されるか? 何も見ないで、蚊に刺されないか?僕は前者を選んだので、文句を言える立場ではない。それにしても何と蚊の多いことか? これも自然なのだ。

 今日は身体的な変化が出てきた。昨日あたりまで余り食欲が無く、予定した量を消化出来なかったが、今日からは平常の食欲が出てきた。元々、全て通常食べて居ない完全乾燥食品なので、多少の食欲減退は避けられないことは前もって想定していた。朝晩はお湯で柔らかくした物を食べていたが、昼間の移動食は、ナッツ類、チョコレート、粉砕カリントウやポテトチップで決して食べやすい物では無い。特にナッツ類は咀嚼しやすい物では無く、短い時間では必要量を食べることは出来ない。この為、前日まではCamp地に着いてから、夕食の前に昼の残りを食べる様にしていたが、中々予定量は摂取でき無かった。食欲が平常に戻ったこと、疲れもそれ程出ていないので、益々踏破の可能性が大きくなったと思える様になった。

 今朝から僕は生まれて全くしていない事を遣ってきたのだ。今まで最長の山行は2泊3日であり、この意味では全く新たな経験なのだ。

 Campは木立の中の黒い火山性の砂地であった。早速火を焚いて、蚊よけをする。蚊取線香もあったが、大自然の広い空間では余り効果が期待出来ない。焚火の煙が一番だ。

Beck Lake Junction,2463m,入山からの累積距離:90.6キロCamp 

8月10日:歩き出すと直ぐにDevils Postpileへの分岐に着く。右に入って行くと国の記念物となっている同名の柱状石理群に行く。柱状石理は溶岩がゆっくりと固まる時に出来る断面が6角形の柱状の岩石で、日本にもある。僕は世界遺産に成っている物をIrelandで見ている事もあり、また何よりも今回の最大の目的は踏破であるので、そちらに行かず、真っ直ぐに南を目指す。間もなく500メートルほど下方にそれらしい物が見えてくる。垂直に立ち上がった岩石群で傍で見れば更に素晴らしいに違いない。

今日はどんな景色が見られるのかを楽しみでルンルン気分で下って行く。道は軽石の砕けた細かい砂で、以前にも増して歩くと埃がでる。Rainbow滝の分岐を確認して更に下って行く。この辺りは道幅も広く、沢山の人がいる。中には街中と殆ど変らない恰好の人も居る。前方には焼け残った黒い立ち木が残って居る広大な山の斜面が見える。前を歩いていた男女の2人組が熊が居るという。焼け跡で殆ど植生の残っていない見通しの良い所で熊が道を横切り悠々と歩いている。大きくは無いが人間は丸で眼中に無いようだ。

更に左右の焼け跡を見ながら谷合を緩やかに下って行く。1992年落雷により広範囲に渡る山火事の後で焼け跡は何キロにも渡って続く。カリフォルニアは山火事と地震で有名な所で、山火事はこの辺りだけでも年間400−500件起るそうだ。多くの場合、人命や人家に影響がない場合は消火せず、自然に任せるのだという。これから先も殆ど全行程に渡って火事の痕跡を見ることになる。それは炭化した立ち木や倒れた木に見られ、また辛うじて生き延びた木の幹に残る焼け跡にも見られる。こうして生き残った巨木を見ると、自然の生命力の偉大さに驚愕と感動を覚える。 

相当下った後キツイ登りに差し掛かり間も無く、工事をしている男女に出会う。山の中の重労働に女性も従事しているのである。この先も何組かの作業グループに出会った。彼らは一切機械は使わず、昔ながらの道具で山道の整備をしているのである。お礼を述べ通り過ぎる。892

大分降りて来たので雪は無いが景色は素晴らしく、花も綺麗だ。途中右手に大きな川が流れて居り、川の傍の高台に大きなテントが幾つか見える。釣り人達の物と思い通り過ぎる。更にドンドン下って行く。こんなに降る訳がない。随分長い間分岐の表示を見て居ない。何かおかしい。薄葉さんと荷物を残して、最後の工事現場まで戻り、確認する事にする。自分たちの現在位置が地図上でも確認出来ない程、歩き過ぎたのだ。工事現場には4人ほど居たが、JMTからは大きく逸れており、11キロ余り戻る必要があるという。時間は3時を過ぎており、そこまで戻るのは無理なので途中で泊る必要があるともいう。僕の持っている地図の範囲外に来ており、現在地のわかる別の地図を呉れた。Camp地はどこが良いだろうと尋ねると、兎に角荷物を持ってここまで戻って来いという。急いでまた下り、荷物を持って戻ると、一人だけが待っていた。他の連中は皆作業を終えて帰ってしまったのだ。残っていた男は、Camp地は3キロほど戻った道の左手の叢の中で分かり難いので、目印の石を置いて行くからと言って先に行ってしまった。言われた通り進んで行くと、其れらしい石が見つかり、叢を入って行くと上等のCamp場があった。

初日に2度の失敗をして反省をし、分岐地点の確認は不可欠としていたが、その後3日間問題をおこしてないので、この基本を忘れて居たのだ。モット手前で工事の人や、行き会った人に尋ねるべきであった。往復22キロ余り、丸一日分を失ったことになるが、起こって仕舞ったことは取り返しが出来ない。回り道をし、御負の観光をしたと思えばいい。今後何日か掛けて、日程合わせるしかない。

Campに着くと程なく,4頭の騾馬を連れた馬方が馬に乗って通り過ぎた。馬糞はよく見たが実際に馬と騾馬を見たのはこれが初めてだ。これらの馬はこの道を歩く人の為の食糧などを運んでいるのだ。今日のCamp地は不明、達成距離は0。 

8月11日:昨日来た道を戻り出す。3キロ程戻ると昨日見たテント村がある。釣り人のテントでは無く、工事の作業者用の物であった。10人余りの作業者が揃いの作業着を着て、準備体操をしていた。100メートル程離れて居り、向こうで気が付いたかどうかは分からないが、大声で感謝を述べ、手を振ってその場を離れ、先を急ぐ。

今回の山行計画では同じ道を2度通る所はMt.Whitney真下から2キロ強、往復4.5キロのみであった。不注意で道に迷い、これ程長く同じ所を歩くことは全くの想定外である。愚痴っていてもしょうがないので、同じ景色でも反対方向から見ると、変わって見える等と思い、登って行く。思い掛けず中くらいの鹿に出会う。耳が非常に大きく角は無い。じっとこちらを見ていた。

広大な山火事の広がり見えると、本来のJMTはそう遠くない。程なく、昨日の馬方と騾馬の群れに出会う。馬の来た方に暫く進むとJMTの分岐が確認出来だ。

昨日この先に分岐で良く注意していれば、ここは間違う筈のない場所であった。地図を見れば南東に進みしかも登りとなる所である。昨日我々はこの前の分岐で直進略真南に下って行ってしまったのだ。

起こって仕舞ったことはしょうが無い。ここからが今日の始まりだ。遅れは何日か掛けて取り戻せば良い。埃の多い道を登って行く。小川を4つほど渡ると坂がきつくなる。赤茶色で円錐形をした頂部が丸い山が2つ見えてくる。Red Conesと呼ばれている山で明らかに火山であり、噴火の跡と思われるクレーターが側面に見える。

暫し針葉樹の中を歩く。樹木の無い日の当たる所は緑が美しく、綺麗な花が咲いている。周りに見える山は殆どが火山で22万年から300万万年前に出来た山で、Sierra Nevadaの大部分を占める花崗岩の山と比べると遥かに新しい。辺りの地名も、Crater Meadow等火山に由来する名前が付いて居る。

正規の」JMTに戻ってから2時間半程で分水嶺(2810m)に出る。ここはMadera−Fresnoの郡境でもある。山はまた隆起した花崗岩出できている。(この水系の移動距離、36Km,登り下りの合計、+1219m、−1524m)

新しい水系に入り1時間程歩き野営することにする。モット歩けるが、この先登りとなり、Camp地が少ないからだ。Deer Creekの分岐点。標高は2774m、累積距離:103.5キロ。 944

2日掛かって13キロしか前進出来なかった事になる。道に迷った失った距離は1.5日分に相当する。計画での余裕は3日あるので、それ程焦らずに少しずつ遅れを取り戻すしかない。最悪全く取り戻せなくとも、何とかこのまま行けば日程内で踏破は出来る。

8月12日:テントを張った所は平らな岩の上に砂の溜まった所であり周りにはあまり木の無い所であった。ここで初めてガスバーナーを使い御湯を沸かし、朝食を取る。陽が登りだし、山頂が映え上がる。

歩き出すと直ぐに川を渡り、九十九折れを登って行く。針葉樹が疎らに生えており、日の当たる地面には色々な花が白い岩の間に咲いている。岩石の色が変わり出す。火山性岩石から又花崗岩帯に入ってきたのだ。山道は乾いており、歩くと埃が舞上がる。幾つかの川を渡り、ほぼ3時間登って行く。高度は3000mを超えている。其の先上り下りを繰り返し、徐々に高度を上げて行く。疎らに針葉樹の生えた山道は美しく、森林浴をしている気分になる。湖、渓流、滝も彼方此方に現れ、飽きることが無い。毎日が美しい自然の造形を堪能出来る旅だ。急峻な絶壁の下には大量の岩錐が見られるが、それらは氷堆石では無く、岩石氷河だという。この深部にある氷は今までの氷より更に古い可能性があるそうだ。

 前方に雪の山が見えてくる。あの山の何処かの鞍部が今日超えるSilver峠であろう。可なりの幅の川を渡る。流れは緩やかで、大きな石伝いに渡られた。川を超えると直ぐ雪がある。愈々峠を目指して雪渓を歩く。 Silver峠(3277m)を超えると、別の水系になる。(この水系の移動距離、27.7Km,登り下りの合計、+1326m、−853m)歩き難い九十九折れの急斜面を用心しながら下る。同名の湖に出る前に緩やかな下りとなる。今日は随分歩いた、出来るだけ低い所まで行きたい。大きな花崗岩の大地を歩き、美しい滝に見とれる。

其の先は厳しい九十九折れと、激流の渡河がある。2つ目の川を渡った後、野営することにする。幾つかのテントが張られており、空いている所を見つける。条件は似たりよったりだ。今日初めて周りに人のいる所で寝ることになる。薄暗く成りかけていたが、薄葉さんは釣りに出かける。許可証は入山後10日間となっているので、ウズウズしていたのであろう。今までも魚が見える川や湖を見てきているので、良く我慢したものだ。歩くことが先決で釣りの余裕が無かったのであろう。僅かな間に3匹ほど釣ってきた。木の枝に刺し、焼いて食べた。釣りたての虹鱒は微妙な香りがあって美味しい。

歩き出してから丸1週間今までに無い疲れを感じた。川からバケツに水を汲んでテントまで運ぶ石だらけの不整地を歩いていると、ヨロヨロし、脚元が定かでないのだ。バケツの水は精々8キロ足らずだ。疲れて証拠と考えて、それなりの注意をしなければならない。薄葉さんも腰の不調を訴えて居り、お互いに身を労わって、最後まで動き続けられる様にしなければ成らない。

Mott Lake分岐点、標高2737m、累積距離135.7キロ

8月13日:歩き出すと直ぐに綺麗な花が途の両側に咲いている。黄色いユリは他でな見たことが無い。今日も新しい景色を見ることが出来るのだ。ジグザグの道を下って行くと、雪崩の跡があり、小さな木しか生えて居ない。度々雪崩が起こる所の様だ。渡河も何回かある。歩いていると絶えず水の流れる音が聞こえる。それは直ぐ傍の花崗岩の一枚板を流れる水音であったり、見えない遠くからの滝の音である。出発一時間ほどで、4人組の若者が追い抜いて行く。彼らとは何回か前後しており顔見知りだ。この先でEdison湖をFreeyで渡り、食料補給の為急いでいるだという。 

出発から3キロ程は下りで、その後は長い登りとなる。5キロで高度が600m高くなるのぼりだ。こちらの九十九折れは非常に大きく、長い所では500mほど同じ方向に登りて行き、そこで向きを変えまた登ってていく。傾斜は馬が歩ける用に作ってあり、四つん這いで登る様な傾斜は無い。1041

ジグザグと急な斜面を登って行くと珍しい花が咲いている。動物の糞も時折見かける。熊の糞はそれと分かるが、毛の混じった物はCoyoteの様な肉食動物の物であろうか?リスも彼方此方で見かける。木に登らず地べたで生きているようだ。略登り切る辺りにBear Ridge Junction(熊尾根分岐点)がある。其の後は5キロほど下り、また登り出す。右手下方に流れる川はBear Creekの名が付いて居る。この他地図を見るとBear Twin Lakesの表記があり、この辺りは熊の多い所の様だ。Bear    Creekの分岐点からはまた登りとなる。同名の川に沿って登って行く。Upper Bear Creek Meadowには綺麗なお花畑であった。 

幾つもの小さい川を渡り徐々に登って行く。Meadowも2つ通り過ぎる。ここの花も綺麗だ。Mea―  dowとは比較的平地で水が豊かで草の生え茂った場所をいう。草地なので放牧に良く使われる。元々JMTが整備された原因を探れば、移動式放牧に行きつく。JIMの中には今でも放牧が認められている所もあるが、それらは良く管理されており、再生の為の休養地等の看板を目にする。この先も次の分水嶺までは登りであり、あまり高度の高くならない内にCamp地を探す。Rose Lakeの分岐点にCamp地があり、火も焚けるので、ここに決める。他の人たちのテントもあり、万一熊が出ても心強い。

今日もまた虹鱒にありつけて有難い。之がここでの唯一の生鮮食品だ。鮮度は飛び切りに良い。僅かな時間ではあるが、釣っる間に滅茶苦茶に蚊に指されると言う。 

明日は愈々距離的に中間点を超え後半部に入る。送って置いた食料も受け取れる。残っている食料は少なくなっているが、明日はまた熊缶に入らない程の食糧が補給できる。勿体無いが、余分な食料は焼却する以外にない。熊や他の野生動物に人間の食べ物を与えることは厳に避けるべきなのだ。粉砕カリントウは全部焼却処分した。

初めて3000mを超えた地点での野営で寒さ対策のため、何時もより多く重ね着をして寝袋に入る。持ってきた寝袋は軽さを優先したので零度までには対応出来ないのだ。時々は下着も水洗いし、体も拭いたりしているが、日本ではこの程度では、寝袋に入った時ベトツキ感が間違いなく出るが、ここではそれは無い。昼間は可なり汗をかいているので、もっと不快感が出ても良いのだが、それが無く、有難い。空気が非常に乾燥しているからなのであろう。

Rose Lakeの分岐。標高3059m、累積距離:158.2キロ1096,1099,1101

8月14日: 少し登って行くとRose湖が右手前方に見えて来る。更に行くと、左手にMarie湖が見える。。昨日超えたSilver峠より若干高いSelden峠は近い。Marie湖の西岸を暫く歩くと傾斜は一層きつくなる。気にする程の雪はなく峠越えが出来た。最初の峠からは100キロ以上南に来ているからかもしれない。Selden峠3319m、この水系での移動距離32.5Km,上り下りの合計、+1311m、−1280m。

やや急な坂を降りて行くとHeartの形をした湖が見える。其の東岸を歩き更に下って行く。程なく    Salie Keyes Lakesと名付けられた双子の様な湖があり、その真ん中を通り、更に南下する。大きく蛇行しながらの登りで、Sengar川の川越もある。更に下って行くと急な山の斜面を大きくジグザグしながら下っていく。

傾斜がなだらかに成ると、右下に大きな川が見える。San Joaquin川である。Meadow状の所も多く、花も奇麗だ。荷物も今日が一番軽くなっており、快調に歩を進める。間も無く食料の補給が出来る   Muir Trail Ranchに着く。ここは僅かな寄り道で補給の出来る場所で、ほぼ中間点にあるので好都合だ。1137,1138、

ここで食料が届いていないことが分かり、愕然とする。食料はバケツに入った物が大量にここに運び込まれている。全部探したが自分達の物は無い。管理をしている御婆さんがコンピューターで所在を調べて呉れたが,モノが何処にあるかすら分からない。悪いことは重なるもので、日曜日なので郵便局とも連絡が付かないのだ。御婆さんは心配する事無い、ちゃんと山を越えらる様にしてやるからと云い、一つのバケツを指さす。日本人の依頼品だが期日までに現れず、既定の料金も払って居ないので処分しても良いと言う。勝手に開けて気に入った物を持って行けという。開けてビックリ、僕の山歩きには全く不向きなものが沢山入っていた。其れでも薄葉さんにはアルファー化米等が入っていたので其れなりに役には立った。

僕に向いた物は無いと言うと,他のバケツを探せと傍のテントを指さす。10個程バケツがあり、それなりに仕分けして食料が入っていた。取りに来なかった人も多く居る様だ。好みの物は無いが、代替品で間に合わせるしか無い。選択の基準はあくまでもカロリー:重量・嵩の比の少ない物だ。熊缶の空間に空隙が出来ない粒状の物だ。粉末ココア、味付きの米や豆類の入った物、ナッツ類、粒状に成ったおやつ、それにサラミソーセージであった。何とかこれらを缶に余る程選んだ。

更に問題がもう一つあった。送ったバケツの中には後半に必要な常備薬が入っているのだ。之が無いと腰にヘルペスが出た場合大変な事になる。この旨を御婆さんに話すと、自分は元看護婦であったので事情は良くわかる、郵便局に連絡を取り、山を下りてすぐ利用できるように、物をLone Pineの郵便局に送る様に連絡をして置くと言った。

補給が終われば直ぐに出発である。しかし、焦っていたのでここでも道を間違え、1つ手前の小道を右に入って行き、1時間ほど大汗をかきながらあらぬ所を歩き回った。冷静に成って考えれば間違いに直ぐに気付く筈だったが、四つん這いになって、大きな石を登ったりしたのだ。JMTは馬が通れる様に出来ているのをモット早く思い出すべきであった。間違いに気づき引き返し、本来の道に戻った。緩やかな登りが始まる。1時間程歩き、川を超えた所でCampする。他の人のテントもあり、安心できる。

夕食時に困った事が起こる。持ってきた食料は簡単には食える様に成らないのだ。山の携行食は短時間で食える状態になることも重要な要素だ。御湯を注ぎ、2−3分、精々長くとも15分位で食える様に成らなければ話しには成らない。所が、代替品として貰って来た物はドレも通常の調理時間が必要な物ばかりであったことを知り、愕然とする。最初は知らないのでお湯を注いで、待った後口にしたが、コメなどは全く生のままで食えたものでは無かった。時間の節約の為、夕方明朝のものも一緒に作ることした。最低30分調理にかかる。熊缶に入り切れない食べ物は木に吊るす事にした。Puite Creek分岐点、2456m、累積距離:177km

8月15日:今日は終始登りで、次の峠を目指す。陽が差し出し、正面の山は白く眩いばかりだ。30分程すると、巨大な岩山が山道から立ち上がっている。この山道の名前でもあるJohn Muirの名を関する岩塊の山だ。右側にSan Joaquinの急流が見えて来る。花崗岩の一枚板の上をWater Sliderの様に流れている様は圧巻である。小さなMeadowを通り、更に登って行く。黒色の岩石も見られ火山の影響を受けた地域はまだ終わって居ない様だ。

急な斜面で雪崩は頻繁に起こる様で途中には大規模な跡が見られた。また氷河の産物、懸谷もよく見かける。

この様な岩だらけの土地にも大きな松が生えている。成長するに従い周りの岩を押しのけ様としても、叶わず、幹が大きく岩に食い込んでいるものある。又この辺りも火事があったらしく、幹の大半が炭化した状態で生き続けている木もある。生まれた所で何とか生き続けようとする、生物の生命力は計り知れない。驚異である。

ややあって水量が多く、白流となっているSanJoaquin川の鉄の橋を渡りのその右岸に出る。この川がJohn Muir自然保護区とKings Canyon国立公園の境である。

歩き出して初めて牧柵を見る。道を遮る柵が出て来たので最初は驚いた。しかしMeadowはここが観光地として管理される以前から、放牧地として使われていたのだ。高地で草の成長も遅いので、極期間を限って今も利用しているのであろう。簡単に開閉でき、通った後は元通りにしておいた。

川を2つ渡ると、九十九折れの登りである。岩石の土地に疎らに生えた針葉樹の中を登って行く。Ranger Stationを表示を見たが何処にあるか分からずに通り過ぎた。偶々後ろを振り返ると木立の中に小さな木造の小屋があった。出来るだけ自然への負荷を減らす為、必要最小限の建物としているのであろう。 Rangerの仕事は自然保護と山行者の安全であろうが、積極的に山行者と接触する意図は無いようだ。Stationの傍の山道にそこを通過する人や馬の数を確認する為に記帳する様に紙が用意されていた。

又大きな岩が物の見事に真っ二つ割れているのもある。風化の過程である時突然割れるのだろうか?雪崩とか土石流の現象は我々も知っているが、岩石流という現象がある事はこの年にになって初めて知った。お恥ずかしい話だ。実はモット注意していれば、何年か前に知り得たのだ。NorwayのFjordは隆起した岩盤を氷河が削った後跡である。数年前Swedenの友達とNorway北部に釣りに行った時、岩山の大崩落跡を見ている。大音響と共に瞬時に崩れ落ちたという。その時は現象のみを見て何故それが起こったかには考えが及ばなく、そのままになっていた。

岩石流は雪崩や土石流と同じ様に、岩盤内のある面が重力に抗し切れす滑り出す現象だという。予測は非常に難しく、ある時突然崩落が起こるという。最少にみてきたHalf Domeなどもこれにより、釣鐘を真っ二つに割った姿に成ったのではなかろうか?

San Joaquin川に沿って登っており、それに注ぎ込む支流の数も多く,その都度、川越がある。橋がある場合もあるが、丸太や石伝いを渡ったり、靴を脱いで渡ったりする。周り道をして渡り易い所を渡る。大事な事は安全第一だ。

2時間程登り川から離れ、ジグザグに登り、Evolution Valley(進化谷)に入り進化川沿いに緩やかに登る。この谷も水の豊かな所で、Evolution川に注ぎ込む支流の川越がある。Meadowも沢山あり緑や豊かだ。色々な草花に混じり、薄紫の花の咲く韮類もある。背丈が高く葉の幅も1cm程ある。摘まんで食べると可なり辛い。又時期が遅い為が、中々固い。生の野菜は10日以上食べて居ないので、時々食べた。川沿いに3時間余り歩くと、また急な九十九折れに成る。この手前でDarwinの名を関した峰が右手に見える。

雪渓を登るとEvolution湖で、湖面の高さは3256mある。長さ約1キロの湖の北岸から東岸に沿って歩き、その南端の流水口で渡河する。そこから更に登った所の緩やかな流れの傍に設営地を探す。花崗岩盤の土地で砂地は少ないが、何とかテントの張れる砂地を探すことが出来た。流れの緩やかな川の傍にの僅かな砂地の上であった。寒くなっているが、流れで体を洗い、洗濯をし、石の上に干す。今日も魚が釣れたが火は焚けないので、水煮をした。新鮮であれば調理法はどうでも良いのだ。

今日の景色も素晴らしいかった。峠を越えて下がった所で宿泊したかったが、荷物も重くなっており、予定の距離を歩いた所にテントを張はった。Evolution Lake入り口、3308m、累積距離;197,1km 

8月16日;標高が高いので朝は寒い。動いていない水は凍っている。谷合を徐々に登って行く。両側の山には雪が見える。氷河の作った大小の湖沼が無数にある所だ。昨日から今歩いている辺りも壮大な氷河活動の跡だという。気が付かなかったが進化谷そのものが懸谷で、氷河の本流であったGoddard渓谷やMcCee湖への入り口はより深く抉り取られて段差が出来ているという。

流れに沿って登って行くと、Sapphire湖、名無し湖[地図には名前が載っていない]、Wanda湖、第二名無湖の岸を通りる。この辺りの山の名前には進化論に貢献した学者の名前が幾つか付けられている。又この辺りから岩石の色が黒くなりだす。黒色のピラミッド状の山はMt.Goddard。

Mcdermand湖を左に見て、 更に登って行くとモルモットが石の上で日向ぼっこをしていた。その先で傾斜がややきつくなる。ゴロゴロ大きな岩塊のある道で歩きにくい。雪渓も見えているが中々辿り着かない。

暫くすると案内書に出ている石室らしきものが見えてくるが,確信は持てない。1キロ程先の様だ。傾斜はそれ程きつくないが、歩き難い道と雪渓の為進みは遅々として、中々小屋らしい物に近づかない。荷物と低酸素の為歩みは鈍くなっているのだ。其れでも前進を続け、小屋に近づいて行く。 

やっと小屋に辿り着き、中に入ってみる。八角形の建物で屋根も含め全てこの辺にある石を使って作られている。緊急避難小屋で風雪に長く耐えてきた建物で、一面には暖炉があり火が焚ける様になっているが、この辺に燃料となる木は無い。真ん中は空間となっており周りは腰掛になっている。この腰掛や真ん中の空間を利用すれば、20人程度は寝ることが出来よう。更に少し登った所がMuir峠、3652m、である。今までで一番高い峠の分水嶺である。峠に辿り着けば一安心と思う人は多く、何人かの人と頂上で会い言葉を交わす。Mexico国境からPCTに沿って遣ってきた男も居り、雪の降る前にCanada国境まで行きつけそうも無いと言っていた。皆思い思いの歩きをしているのだ。Muir峠3652m、この水系での移動距離42.4Km,上り下りの合計、+1494m、−1158m。

峠からの眺めは素晴らしい。特に進行方向は視界が開けて居り、幾つもの湖が見える。下りに入るとややキツイ九十九折れとなる。雪が多く残って居り、注意しながら進む。傾斜がなだらかに成るとHelen湖でその南西岸を通り、緩やかに降りて行く。ヘレン湖(これと峠の反対にあるWanda湖はMuirの娘の名)の先2キロほどの間にも幾つかの無名湖がある。

雪解け水が出て歩き難い所も多く、また渡河も何か所もある。周りに雪が無くなると樹林帯となる。歩いているのはLe Conte Canyonで彼方此方にMeadowがある。疎らな樹林帯とMeadowを交互に歩くような感じで、ドンドン降りていく。左手に流れている川はKings川の上流である。峠から2時間半下るとBig Pete MeadowLittle Pete Medowがあるが、この間1キロは気の荒い熊が多いと案内書にあったが、熊をみることは無かった。1200m以上下まで一旦下り又登り出すことになる。これから暫くは毎日この繰り返しになる。雄大な山、豪快な激流、 綺麗な草花を見るにはこれ以外方法は無い。

予定のCamp地のヤヤ手前で激流下りを楽しむ人たちにあう。ここを訪れる人は山を歩く人達だけでなく、釣り人に加え、彼らの様に激流下りを楽しむ人もいるのだ。またCamp地すぐ手前で2頭の鹿に出会い、彼らもこちらをシカと見ていた。Camp地の名前はDeer Meadowであり、根拠のある名前なのだ。Camp地は焚火が出来る所で、今日も釣りの分け前を頂くことが出来た。想定外の御馳走だ。

Deer Meadow Creek分岐点、2691m。累積距離:228Km. 1日半の遅れを出したが、その後5日かけて、徐々に遅れを取り戻しつつあり、今までの平均移動距離は辛うじて20キロを超えるようになった。このまま順調に推移すれば、後5日程で、完全に当初の行程に戻れる筈だ。

8月17日:11キロ先のMather峠を目指して木立の中を登って行く。直ぐに鹿にであう。じっとこちらを見ている。鹿の習性だ。彼らに安全な空間があれば、こちらの動きを観察しているのだ。小一時間花の咲く木立の中を緩やかに登って行く。その後、岩石だらけの悪路になり傾斜もきつく成る。左側は急峻な崖で、その岩盤をそぎ取って道にしたようで、不規則に蛇行して行く。傾斜が緩くなると、Palisade湖が見えてくる。この辺りで谷の幅が狭くなっており、両側の崖は急峻だ。Palisade湖は双子の湖で、同じ様な形をした細長い湖だ。幅は2−300m、長さは1キロ程であろう。その間は5−600m程の川で結ばれている。この湖の北東岸を歩く。流れ込む沢の川を度々渡る。暫く登って行くと、樹林帯の外れとなり、雪も見えてくる。複雑にジグザグを繰り返しながら、大きな岩石の道を登って行く。途中で振り返って見ると景色は素晴らしい。前方の山は険しい表情だ。峠に近づくにつれ、傾斜はきつく成り、雪と大きな岩の悪路の中を登る。ここがJMTでも最も遅く開通した遊歩道で,開削は難行した様だ、今まで一番標高の高い峠で、その分雪は多く、雪渓も長く続く所がある。峠に着くと、万歳である。峠には標識も何もない。Mather峠、3688m。この水系での移動距離34.7Km、登り下りの合計、+1341m、−1312m。

これから向かう彼方の山の表情も険しい。4200mを超える山が6座望める。ガレ場の道を用心しながら下って行く。暫く下るまでは周りに雪もある。水系が変わっており、最初の雪解け水の流れている所で、水の補給をする。この水取りの行事はもうお決まりになっている。JMTには13の水系があるが、その都度最初の雪水で乾きを癒し、ビンに詰める

この水系の谷幅は広く、その中に数多くの湖沼がある。渡河も多い。辺りの山は大分風化が進んでいる。岩石が細かい岩塊となっているのだ。岩石は固まった後地表に現れた瞬間から風化が始まる。隆起した岩石は最初は平らであっても、雨風の浸食で削られてゆき、溝は谷となり、更に浸食が進む。巨大な岩石の山も次第に風化崩落し、大きな岩塊から砂や更に細かな粒子となり、河川により低地へ運ばれ、最終的には海に運ばれる筈だ。そこで気の遠くなるような時間をかけ、再び砂岩や泥岩に成るのであろう。遠くの山には橙色の岩石が見えて来た。遠い昔、何らかの地殻変動があったのであろう。

峠から5キロほど下がりKings川を渡った所がこの水系でのJMTの最低点(3060m)であり、そこでCampとする。ここには他の人も来ており、火を焚いて居ると親子連れが話しかけて来た。彼らもJMTの踏破を目指しているという。少年は13歳だ。この年で、時間を掛けてもこれだけ長い山歩きが出来るのは羨ましい。日本では中学の1年生であろうが、山のことは詳しいようだ。JMTの最短踏破記録は3日だとも言っていた。マシュマロを持ってきて、僕らにも呉れた。枝に刺し、火かざして焼いて食べた。こんな所でこんな物が食えるとは思っていなかった。Main South Fork Kings Crossing,3310m。累積距離:247,7Km

8月18日:木立の中を登ってゆく。この間から見える山は陽に照らされ、輝いて見える。Kings川に沿って2キロ余り登り、川を渡る。道も悪くないので快調に歩く。澄んだ水の川で、流れは余り早くない。7キロ強の間に600mあまり登ることになる。更に2度の渡河の後、九十九折れの登りとなる。方向が変わると違った景色が見え飽きずに登ることが出来る。崩壊が進んだ山が多く、岩石の色が橙色をしている山もある。斜めや縦に筋が見える所もある。隆起の圧力の巨大さは計り知れない。目指すはPinchot峠(3697m)で、昨日の峠より若干高い。傾斜が緩くなると、右左に湖沼が見えてくる。10程はあるが、名前の付いて居るのはMarjorei湖だけである。1時間ほど歩くと、峠の登りに差し掛かる。予想より雪は少なく、峠に立つことが出来、一休み。天気は今日も晴天で見晴らしはいい。Pinchot峠、3686m、この水系での移動距離、15.7Km,登り下りの合計、+655m、−640m。

峠からの最初の下りは何処も厳しい。歩き出してから11キロ余り、4時間が経過している。この後、どこまで下れるか?出来るだけ距離を伸ばし、低い位置でCampしたいものだ。降りていくとMeadowと湖沼群の中を歩く。右手には険しい尾根が続く。この岩場にはLonghorn sheepの生息地と聞くが、姿は見ることは出来なかった。野生の羊は足の生えた岩とも呼ばれ、岩場にジットしているので見つけにくいそうだ。19世紀には沢山いたが、放牧の家畜からの病気で激減したが、徐々に増えつつあるそうだ。

赤味を帯びた変成岩の山もある。毎日山を見ているが、決して飽きることは無い。どれ一つとして同じ山は無いからだ。歩く道も石や大きな岩がゴロゴロある歩きにくい所、延々と続く埃の立つ砂の道、それに渡河が頻繁にあり飽きることが無い。それに路傍に続く小さな花、これを見れば不思議と疲れを忘れるのだ。この区間は渡河が特に多いが、もぅ苦に成らなくなった。

2−3日前と比べらると、蚊の数もめっきり減ってきた。彼らはある時期大量に発生し、ある時急に居なくなるという。8月も半ばを過ぎ、季節の移ろいを敏感に感じるのであろう。JMTを歩く定番衣装は半そで半ズボンの様だ。それに偶には蚊よけの帽子を被っている人に出会う。暑いのでその様な恰好をしているのであろうが、蚊よけや日焼け止めを塗りたくるのは如何なものか? 僕は全行程ダブダブなズボンを履いて居たので下半身は殆ど刺されることは無かった。タイツの様に肌に密着するものは蚊に対しては何の防護にはならない。

Woods Creek川を右手に見ながら降りてきたが、この川に掛かるJMT唯一の吊り橋(1988年完成)を渡ると登りとなる。橋は一人ずつ渡る様注意が出ている。10m程下は激流が流れており見るのも恐ろしい。ここがこの水系でのJMTの最低地点、2588m、であるが、更に距離を伸ばす為に歩き続ける。これから先は余りCamp地は少ないが、まだ陽は十分高いので何とな成るだろうと登り続ける。30分程すると、下がって来るRangerに出会う。Camp場はと聞くと10分ほど歩くと渡河があり、その先すぐ左の叢の中を探せという。登り続けつる。程なく馬に乗った3人連れに出会う。初めて馬方以外の人が馬に乗って居るのに出会った。一人は馬方、後の男女は観光客であろう。こういう歩き方のあるのだ。

教えられたCamp地は容易に分かった。余り使われていないが、2−3のテントなら何とか張れる場所であった。焚火は禁止区域であるが、焚いた跡があり、薪も豊富なので火を焚いて夕食とする。丸太に腰を下ろして5分も座っていると腰に鈍痛を覚える。この程度で最後までもてば良いと願望すると、同時に良くここまでこの程度の障害しか出なかった事に感謝する。ザックの負荷による背中や肩の障害、足の肉刺等が出る物と予想して居が、これらが出ていないのが幸いだ。

Camp地は川から可なり離れているが、それでも流れの音が聞こえてくる。ここまで殆どのCamp地は川から50メートル程の所にあり、これら近くからの流れの音と、遠くからの滝の音が聞こえていた。ここも熊の多い所であるが、これらを聞きながら眠りに陥る。Wood Creek Crossing,,2588m,累積距離:266.6Km(実際のCamp地はこれより若干標高が高く、累積距離も多いが、確かな数値は分からないので、この数値とする)

8月19日:今日も快晴だ。前方に輝く山を目指して登り始める。次の峠までは12キロ強、その間に高度は1000m以上上がる。Woods川の支流を左手に見ながら2時間程歩く。見えている山は典型的な花崗岩の山で、ドーム状の物もある。樹木の背丈が低くなると、湖沼地帯である。先ず最初は左手にDollar湖である。何故こんな所にお金に因む湖があるのかは分からない。金など有ってもここでは使う場所は無い。

2−3の無名湖をを過ぎるとDollar湖よりやや大きな湖が右手にある。Arrowhead()湖(3137m)である。之は形状からの命名で、南の方が尖っている。更に小さな無名湖を過ぎ、1キロほど歩くと、南北に1キロ以上あり、途中の括れ部は水路で繋がっているRae Lakes(3212m)がある。ここからの眺めは絶景だ。西側に見えるドーム状の山、湖の色,どれも素晴らしい。更にその上に大きな湖があるが、地図には名前が載って居なく、湖面標高[3213m]のみが載って居る。これらの湖は何れも川で繋がっている。この辺りにもオオツノヒツジが居ると言うが見ることはできなかった。

最後の湖を左手に見る頃登りがきつく成る。左手には黒、橙、白と多色の色をした山も見える。Paint―ed Lady(3694m)の名が付いて居る。道の左の方には更に高い湖沼地帯がありSixty Lakesと呼ばれている。渡河を2−3回し、九十九折れを30分ほど登ると、やや傾斜が緩くなる。小さな名無し湖が右左に見える所を暫く歩く。湖に部分的に氷が張っており、その上に雪が見える。氷や雪の状態を見れば、今ある氷は年中溶ける事のない氷であろう。白い雪、薄青の氷、深い青色の水、其れに映る雪を纏う岩石の山は正に自然の芸術だ。これらの湖群を過ぎると登りは一層険しくなる。ジグザグ瓦礫や雪の道を黙々と長いこと登って行く。やっと峠の頂上に着き、一休み。Glen峠、3639m。この水系の移動距離25.4q、登り下りの合計、+1127m、−1189m。

昼食の時間でもあり、やや長く休憩する。その間に他の人たちも登ってくる。僕らとは逆に南から北に向かって居る老夫婦も到着する。御夫人の方は荒い息をしており、軽い高山病の症状だという。ここより遥かに高い  Mt.WhitneyやForester峠ではこの様な事は無かったいう。多分この峠では最後の部分で急激に高度を上げた為では無いかと言い、暫く休んでいた。JMTを歩いている人の年齢幅は広い。2−3日前にあった13歳の少年も居れば、70代の人も居るのだ。歩きのスタイルも色々で、男女の連れ、家族や友人のグループもいる。単独行は男が圧倒的に多いが、女性も可なり居る。ある時それらの一人に聞いてみた。寂しくは無いかと。結構人にも会うし、そんな事はないという。余程山が好きなのであろう。熊の多い山中でも物とはしない様だ。地図によっては熊の多い所はその表記がある。昨日渡った吊り橋からこちらは多いと出ていた。

行く先下方を見れば、雪や緑に囲まれた湖が見える。雪と緑、夏と冬が混在する不思議な光景だ。降りていくジグザグ道は歩き難い。谷川の斜面は急峻で谷川に転べば、命は期待できない。30分ほどは特に注意して居りていく。山の歩きは緩急があり、それに従って神経を使い身体を動かして行かなければならない。

傾斜が緩やかになり、30分ほど歩くと右手に湖が見えてくる。Charlotte湖である。更に1時間ほど下って行くと、傾斜が大きくなり、ジグザグを繰り返しながら降りていく。ガレ場が多く歩き難い。途中何回も川越をするが、難なく渡れた。Bubbs川を渡る地点がこの水系でのJMTの最低地点であり、そこからは又登りとなる。Vidette Meadowに入り、草と木立の中を快調に登って行く。JMTはBubbs川に沿い、その西側を登って行く。雪崩の跡が彼方此方見られ、なぎ倒された木がそのままになっている。   Bubbs川は可なり大きな流れで、激流や滝も見られる。流れ込む支流の川越を繰り返し、Center   Basin Creekの分岐地点でCampとする。標高:3213m、累積距離:303.5Km。

疲れ以外は何処も異常なく、ほぼ順調に遅歩き遅れは完全に回復した。明日の午前中には最後の峠を超え、登頂の日にちは22日頃と予定が立つ様になった。

8月20日:最後の峠に向けて登り出す。この峠を越えれば踏破に大手を掛けた状態になる。愈々念願成就の可能性が現実化してきた。峠までは7キロ余り、その間に標高は700m以上高くなる。富士山を遥かに超える高さで、JMTの中ではここが一番高い分水嶺である。Meadow部を緩やかに登って行く。右手はBubbs川でこの辺りの沢は典型的な氷河が残した産物で、立派はU字型をしている、ほぼ真南に2キロ程登り東に向かう頃から傾斜が大きくなり、木立の中を大きく周り再び南に向かって登って行くと、幾つかの湖がある。地図にはどれも名前は付いて居ないが、水面の高度が記載されている物はある。樹林帯も終わりに成る頃、大きな鹿が前方を横切る。大きな角を持った雄の鹿だ。体長15cm程のChipmunk(シマリス)が倒木の上を走り、道を横切ったりする。リスでは無く、ウサギの仲間で、冬は夏に用意した干し草を食い、岩の中で冬眠せずに生きているという。ほぼ同じ大きさのPikaも良く見るようになる。耳は丸いが、これもウサギの仲間で、ナキウサギと日本語では呼んでいるようだ。ここまでに渡河が数回ある。

標高3500m過ぎると矮小した松も見られなくなり、岩石と雪の世界に成る。湖面標高3734mの湖が見えると、登りは益々きつく成り、最後は細かいジグザグを繰り返しながら、大きな岩石の道を登って行く。雪がある所は跡を辿って登るが、雪の消える所で本来の道を探すのは中々大変で、雪の境目の大きな岩石地帯は特に注意をしながら前進する。雪を踏み崩し、大きな岩の間に落ちたら大怪我は必至だ。ここまで来ても、岩の間に花が咲いている。やっと峠の頂上に辿り着いた時の喜びは特に大きい。JMTの最後の分水嶺で、Kings  CanyonとSequoia国立公園の境でもある。後は下って、また登り、最終の最高点Mt.Whitneyの登頂のみとなる。Forester峠、3883m。この水系での移動距離18.9Km,登り下りの合計+1128m、−792m。

行く方を見ると、大きな自然が広がっている。視界の外れまでも自分の足で歩いて行くのだ。峠からの下りは険しい。岩盤を削り、人の歩ける道にした先人達に感謝しながら、急な斜面をジグザグしながら居りていく。それにしても斜面の傾斜はきつい。絶壁である。そこを開削して九十九折れの道を作ったのだ。1時間ほど気を抜かずに安全第一で下りて行く。Tyndall川を渡り,上から見えて居た湖の横に出る頃には傾斜は可なり緩やかになっていた。この辺りで最初にMt.Whitneyが見えてくると言うが、前方のどの峰が其れなのかは確認出来ないまま歩を進めた。樹林帯に入り暫く降りて行くと、又登りとなる。直ぐに広大な景色が広がる。Bighorn Plateauである。高度3500m近くにある高原で、兎に角広い。湿地や池もあり水鳥もおおく見られた。その中の砂地を歩き、又下り出す。何回か渡河をし、最後にWright川を渡った所で野営することにした。Mt.Whitneyの山頂までは20キロの位置である。ここで登頂は22日と最終的に決める。明日は出来るだけ、山頂に近い所でCampし、明後日登頂する。登頂したら必ず、Campできる所まで下がる必要があるからだ。Wright Creek渡河地点、3261m、累積距離:314Km

8月21日:山頂に一番近いCamp地はGuitar湖だ。其れより上は水が無いからだ。そこまでは12キロ程度で、半日の行程に過ぎない。早く着いて、昼寝でもすればいい。

今までよりは全体に高い所を歩いているが、この間の景色は今までと比べると単調である。上り下りはあるが、起伏は小さい。全体的には登って行くが、標高差は300m程度だ。ピインク色の岩石や緑の混じった物を見るようになる。カリウム長石を多く含むからだという。又緑は緑簾石だという。途中のCrabtree     Meadowでは表示版の傍に箱がある。これよりWhitneyを目指す人はここから糞袋を持っていく。ここから先は排出物を地中に埋めることは許されないのだ。標高の高い上流で汚染が起こればその影響が大きいからだ。Campについて中身を調べてみると、以前Mt.Rainierに上った時に使った物と余り変わらない物であった。大きなプラスチックの袋を広げて用をすれば、まず間違い無くその中に落ちる大きさがある。中には消臭剤が凝固剤が入っている。これの入り口を閉じ、更にジップロックの袋に入れて麓まで持っていき、そこで処分するのである。この一式の中には殺菌用のナプキンと紙も付いており、十分な配慮がなされている。

渡河も2−3回あったが皆濡れずに渡ることが出来た。Timberline湖を右手に登って行くと30分ほどでCamp地のGuitar湖に着く。ここまでくれば樹木は無い。花崗岩の大きなが岩がある所で、石の上か、砂地を探して、テントを張ることが出来る。幸い我々は最初に到着したの気に入った所を選ぶことが出来た。やや風の強い所で、ガスバーナーを使う時に風よけになる大きな石があるので大分助かった。テントも飛ばされそうなったので、石で固定した。後は小川で洗濯をし、石の上に広げておいた。寝袋も同じ様に石の上で乾かした。どちらも小石を乗せ,飛ばされない様にしておいた。陽が指しておりテントの中は暑い。裸でマットに横に成り、ウトウト。

釣り師の薄葉さんはGuitar湖の全周を周り釣りをしたが、釣果はゼロであった。引きは有るのだが、逃げられてしまうという。間に合わせの竿でしなりが十分ではないのだいう。

テントの周りにはナキウサギが良く来る。食べ物を狙っているのだ。段々に仲間が増え、20人程がここに泊まる様だ。明日は何時に出るのかと聞くと、多くの人が4時から4時半には出るという。山頂までは8キロ弱であるが、標高差は900mで、高地の酸素の薄さを考慮すると、5−6時間は見ておく必要がある。遅くとも3時には起きなければならない。

夕食を済ませ暗くなる前に寝る事にする。寒さを考慮してあるもの全部重ね着して寝袋に入る。寝袋の足の部分は空に成っているザックの中に入れる。之でも可なりの保温効果があるのだ。枕は今まで寝袋の袋に余った着物と燃料のガスボンベ2つを入れて居たが、今日は枕の材料はガスボンベのみの状態だ。

Guitar湖、ギターの形をしている。確かな標高は分からないが、3500m弱か。累積距離も定かではないが、325Kmとした。正確な数値からはそう大きくは違わない筈だ。

8月22日:朝早く起き夜空を仰ぐ。非常に寒いが満天の星に暫し見入る。他の人たちも起きだし、準備をしている。暖かい物を食べた後,着ていたものを脱ぎ、登頂の出で立ちを整える。歩き出せば暖かく成る筈だが、富士山より更に高い所に行くことを考え、下は長タイツと長ズボン、上は長袖2枚の重ね着、更にその上にウィンドブレーカーを着こむ。それ程汗をかく事は無いと思い、水は1リットルを携行することにする。

予定通り4時半に歩き出す。前方には先を行く人のランプが幾つか見える。最初の内は緩やかな登りであるが、一時間もすると、大きな九十九折れとなり傾斜は厳しくなる。ガレ場で彼方此方に雪解け水が流れて居り、歩き難い。薄氷が張っているが、動いている水は凍らず山道を流れている。九十九折れで方向を変える毎に見えるものが変わる。

 

Hitchcock湖やその奥の同名の山、Muir山[4271m]などだ。どの山も風化が進み、急峻で険しい表情だ。2時間ほどかけMt.Whitney Trailの分岐に辿り着く。標高は4099mであるが、石の間に小さな花が咲いている。この分岐はここに近い入山口Mt.Whitney PortalとJMTの分岐である。

ここにザックを置き、登頂に必要な物だけを持て登ることする。既に10余りのザックが置いてある。ここから山頂までの往復は人が多い。まだ時間が早いのでそれ程でも無いが,麓の入山口からは日に最大150人が山頂を目指すという。

身が軽くなって山頂を目指すが、一向に歩く速度は上がらない。高地のなので、平地の様に早くは動けないのだ。大きな石の転がる中、一歩一歩登って行く。山頂までは3キロ余り、標高差は300m余りだ。

 

崩れ落ちた岩だらけの山肌を登っていく。途中には痩せ尾根が2−3か所あり、両側の谷が見える。絶景だが、足の竦む所だ。急峻な岩を開削して道とした所もあり、先人の労が忍ばれる。雪渓も渡り山頂に近づくと、意外と平らになる。転がっている岩石は平らなものが多く、砂で削られた様な凹みや固い所が長方形で残り浮き上がった物が多い。元は均質な砂岩では無く、その前に出来た礫を抱き込んで出来たのであろ。小屋が見えてから暫く歩き、山頂に到達した。2−30人の人がおり、写真等を取っていた。標高4421m、ここがアメリカ本土の最高点である。Happy Islesから335km、ここがJMTの南の起点である。之でJMTを完全踏破したことに成る。山頂には幾つかの測定基準点が岩石の中に埋め込まれていた。

山頂からの眺めは素晴らしい。麓の町Lone Pineも見える。360度の山や渓谷の全部が見えるのだ。間も無く、軽飛行機が上空を2周して去って行った。観光遊覧飛行であろうか?風も無く、空は青く、爽快である。

昼時に近くなっており、ナッツを齧っていると年配の男が手を差し伸べ話しかけて来た。Yosemiteを略同じ日に出発し、何回か出会ったという。こちらは全く記憶に無い。歩いているのは殆ど西洋人、それに昼間はサングラス等をしている彼らの顔を覚えることは略不可能だ。あちらに取っては日本から2人組で其の内一人は髭面であれば意図せずして記憶に残っているのだ。話しをしているうちにこちらも会った事を思い出した。名前の他に日本の何処からかと訊かれたことを奇異に感じたからだ。一見の人であれば名前と国籍だけで十分では無いかと思ったのだ。こちらは名前も当然覚えて居ないので改めて尋ねる。Johnと言い、同道女性は家内のChristieだと言った。60前後の夫婦の様だ。

頂上で又会えたのは嬉しい。Lone Pineまで自分の車で行かないという。僕らは山を下りて何処かでCampし、2−3日あとにLone Pineに行くことを考えて居たので、相棒と相談する。良いんじゃないのと言うので、お願いすることにする。

彼らはオレゴン州から車で遣って来て、Mt.Whitney Portalの駐車場に車を置き、その後レンタカーでヨセミテに行き、そこから山歩きを開始したのだ。入山や下山口からの移動の方法はこう言うやり方もあるのだ。

元々Mt.Whiteny PortalからLone Pineへの移動はヒッチハイクを考えて居たので、渡りに船ともいえる。最悪の場合は町までの21キロは下りの舗装道路を歩くことも考えてた。但し日中ここを歩くのは可なり厳しい。気温が40度にもなるからだ。

話しが纏まり、めいめい勝手に降りだす。早く着いた方が、PortalのCafeで待つ事に成っている。1781,1783,19843,1787,1789,1790,17951798.1821,1839

残して行ったザックを背負いPortalに向かう。3キロ半ほどガレ場を歩き、Trail Crestに着く。山頂からPortalまでの16.6kmは御負けである。Trail Crest、4161m、この水系での移動距離、37.1Km,登り下りの合計、+1783m、−1615m。

ここも分水嶺で、山道は新たな水系を降りていく。ここからは下る一方だ。最初の下りは険しい。旅の最後であり、ここ迄来て怪我をしては居られない。細心の注意をしながらガレ場の九十九折れを居りていく。1時間も降りると、危険な所はなくなる。氷河が残した氷堆石がうず高く成っているのが左右に見られる。更に下ると雪渓がある。そこを渡って行くと、雪解け水の流れが現れる。最後のお水取りをする。

湖も川も毎日見てきたが、後数時間でこれらも見られなくなるのるのだ。早く里に下りたい気持ちと、もう少し山に居たいという気持ちが交錯する。2時間ほど降りていくと最初のCamp地のテントが見えて来る。登ってくる人にも出会うようになる。いよいよ今日は人里にかえる。其れも2−3時間の間に。入山前の事務所の入り口での野宿も含め18泊17日の山暮らしも終わりだ。この間にCamp地に熊の現れた形跡はなく、熊缶は何時も前夜置いたままに成って居た。実際に熊がCamp地に現れるのはそう多くないのかもしれない。

Camp地を過ぎ、更にLone Pine川に沿って下る。樹木がだんだんと高くなる頃、沢の幅が狭くなってくる。Camp地を過ぎ1時間ほど下ると、舗装道路が光って見えて来る。Portalは近いのだ。更に降りて行くと赤いスグリが沢山成っている斜面があった。何日か前にこんなのが有ったら良かったのにと思いながら、少し食う。甘くて美味しいが、今は道草を食っている時間は無いので、又歩き出す。木立の中をジグザグ下りPortalに着く。3時ごろであった。

Whitney Portal,2539m、この水系での移動距離13.1Km,登り下りの合計、+12m、−1631m。

 Yosemite VillageのCamp地から入山口迄の距離や3回の迷道の距離を加えると、優に380Kmは超えるであろう。これを17日で歩いたことに成る。

瓶入りのオレンジジュースを買い、2人で飲む。8月5日以来、久振りの人里の味である。こんなに長く金を一銭も使わず居たのは成人に成ってから初めてだ。汚物を用意されている専用のゴミ箱に入れ、直ぐに車に乗り町に降りる。Johnの車は我々の様な薄汚い輩が乗るのは適さない、立派なものだ。大きな九十九折れ道を降りていく。周りは大きな岩石だらけの不毛の土地であろう。乾燥地帯で木は生えて居ない。緑が無いので外は可なり暑そうだ。

直ぐに町に着き、同じホテルに泊まる。夜はこちらで招待し、一緒に食べる事にし、6時にロビーで会うことにする。古く安いホテルで、部屋にはトイレシャワーはない。取敢えずシャワーを浴び、2週間以上の垢を落とす。こんなに長く風呂もシャワーも使わなかったのも新記録だ。

娑婆の人間に帰り、John達と100m程北にあるMexicoレストランに行く。チャンとした料理を食うのも久振りだ。思い思いの品を頼み、好きな飲み物を飲む。山頂で一緒に成った若い日本人も同席して、先ず乾杯。山の話が暫し続く。皆も疲れて居るので、早めに引き上げ寝る。久し振りに普通の寝方が出来有難い。我々が普通に出来ていることは全て有難い事なのだ。

帰国の途

Los Angelesへはバスと電車を乗り継いで行かねば成らず、バスは週三便しかなく、明日は無い日だ。

翌日は終日Lone Pineの町で過ごす。小さな町で何も遣ることは無い。郵便局に行き、荷物が如何なって居るのかを尋ねる。直ぐに所在は分かり、一つ北の町Bishopの郵便局にあるという。終わってしまった事でごちゃごちゃ言っても取り返しはつかないので、明日の朝9時にここの郵便局で受け取れる様要求する。町には小さな群立図書館があり、誰でも使えるPC2台ある。此処から家内宛のメールを出し、無事山を降りたことを伝え、薄葉さんの家に電話し、その旨伝える様依頼する。又、予定より早くSanta Monicaに着くので、其の為の予約を入れるが満室との返事が返ってきた。原発や国内政治の混乱等改善せずに推移していることも確認出来た。ホテルのテレビには日本のニュースは先ず乗らない。Internetを見ればある程度の事は把握できる。

里の生活はヤッパリ良い。僅かな金があれば、普通の物が食えるのだ。長い事食って居ない果物を買って食べる。陽をふんだんに浴びて熟れたここの果物は何でも旨い。久しぶりに葡萄酒も沢山飲んだ。

24日小型のバスでロスに向かう。バスは略満員で皆 山から下りてきた連中だ。予約は前もってして居るので問題は無かった、利用出来なかった食料はバケツに入れたまま持っている。捨てる気持ちになれないのだ。ヘルペスの薬は早速飲む。症状は此れで治まる。バスは南に向かって走り、モハベ砂漠を通る。使用済みの飛行機を解体している所もあった。広大な土地のない所では出来ない仕事だ。

Lancasterの町で近郊電車にのり、Los Angeles Union Stationに4時前に着きホテルを探すが適当な所は無いので、Santa Monicaに向かう。此処の土地勘の無い所なので、先ず空港に出る。バス代は7ドル。其処からSanta Monicaに向かった。後で分かった事だが、    Union Station-Santa Monicaは直通もバスがあり、安くて早いのだ。Santa   Monicaでホテルを探すが、皆高い。一晩400−500ドルする。海岸のリゾート地で8月終わりでも未だシーズン中で高いのだ。海岸から空港よりに戻り探したが、其処でも200ドル程であった。2日程此処で休養する。予定より早く山を出たので余計な出費が発生するが致し方無い。町の中では野宿は許されていない。只食い物は余って居るので何とか減らしたい。燃料も有るので、ホテルの部屋でお湯を沸かしインスタント物を鋭意消化に努めた。

今回の計画は色々欠陥があった。モット緻密に計画を進めて居たら,更に良い山行が出来た筈だ。

大きな失敗は、航空運賃が高い時期なので、先ずこれを抑える事を先行させたことであった。出発帰国日をそれそれを8月3日と29日と先に決めてしまったのである。その後詳細を詰めて行くと、帰りのバスは週に3便しか無く、麓の町には25日中には着いて居なければ成らない事に成る。計画をする場合、旅の総期間だけでなく、始めと終わりの曜日は考慮すべき重要条件なのである。今回幸いな事に入山はギリギリで予定通り出来たが、週末であったので、何か躓けば2−3日遅れる可能性があった。現地で手続きが必要な旅は週の中にはそこに着いて居ることが必要で、帰りの空港までの交通の便も事前に確認しておく必要がある。

週末にあたる27−28日は予約しいたYouth Hostelに泊まる。海に近く何かと便利なHos―telだ。Hostelについて先ずやったことは、持って行った衣類全てを洗うことであった。大きな洗濯機があり、2人分が楽に入る。乾燥器もあり2時間ほどで乾燥まで出来る。その間バスタオルを巻いて部屋で待っていた。何しろ全部洗濯機に入れてしまったからだ。

観光地Santa Monicaの広大な砂浜を丸2日ユックリ歩き、疲れも多少取れたような気に成る。土曜の夜はDevyと夕食を共にし、最後の晩餐はお世話に成った薄葉さんを招待して、町の真ん中の     Shopping Mallにある居酒屋に行った。名前は忘れたが日本語の書いた提灯等が沢山表に飾ってあり、表で飲んだ。中に入ると、中も非常に広く、日本の銘柄酒は驚く程取り揃えてあった。値段もしっかりしたもので、4合瓶で7000円程した。この他赤ワインを一本開けてHostelに返った。この程度では未だ足りないない程のお世話に成ったのだ。僕は幸せ者だ。多くの優れた友達を持ち、必要な手助けは必ず得られるのだ。今回も最も適した同行者が簡単に見つかった。彼に何故簡単に同行を決めたのかを聞くと、退職後日本一周の走り旅を終え、当面次の大きな計画が無かったので、乗る事にしたのだいう。之も一つの運であろう。

僕は旅は体力だと思っているが、TravelはTroubleだと言う人もいる。今回も確かにTroubleはあった。最初に山火事があり列車が遅れ計画が最初からおかしく成るとこであったが、これは金で何とか解決できた。2つ目は丸1日以上道に迷った事である。これは其の後時間を掛けて、遅れを取り戻せた。3つ目は折角用意して送った食料品が中継点で得られなかった事だ。之は代替品で何とか山行が続けられた。計画通りにスンナリ行く旅は僕の場合余りない。何か計画を狂わす外乱が入るのだ。外乱を取り除き、如何に帳尻を合わせて行くかも旅の楽しみかも知れないと思っている。

色々あったが無事帰国出来たので本計画は辛うじて可であろう。

上記は踏破後3か月余り立ってから、計画書、地図、案内書、薄葉さんの取った1200枚余りを見ながら記憶を甦らせて綴ったものである。毎日見る物は新鮮で皆綺麗に見見えた。倒木した木の根、火事等で樹皮を失い丸裸で岩肌に立つ木々、全て自然にあるものは美しい芸術品だ。花や動物等の関してもモット書きたいことは沢山あるが、主として隆起花崗岩帯の氷河の形成した山、川、湖に関して記した。

 

旅の総費用は,航空運賃、145000円、現地ホテル代、交通費、食事代合わせても20万円には成らない。十分自然を堪能出来たので、高い物とは思えない。最高の観光は自分の脚ですべきだ。今回我々が歩いた所は3つの国立公園、2つの自然保護区の中の一本の線に過ぎない。これらの地域は南北に300Km,東西50Km以上に渡る広範な地域であり、JMTから逸れた景勝の地は沢山ある。出来る事ならこれらの山や湖にも行きたいものだ。その際大事なことは食料の補給をどうするかだ。


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平成23年7月31日掲載

11.07.01 Lapland 100K
1107.14・大森


 Stockholmには629日夕方に着き、Seanの家に厄介になっていた。翌日の午後北東部郊外に住んでいるLarsとVivianを訪れる。Vivianは75になり元気ではあるが、2~3年前に訪れた時と比べれば庭が荒れていた。花の数も少ない。Larsは腰の具合が悪く、運動療法を続けており、走ることは出来ない。暫くしたら走れる様になると楽観している。

レース当日71日のSkellefteaaへの一番機は0815発であり、公共機関で空港に行くには少し厳しい。この為先日も会った走り仲間のChristianが車で送ってくれた。道は空いており、空港には早く着きすぎた。やや遅れて、搭乗が完了したがドア故障があり、修繕の時間が必要との案内がある。待っている間に朝食のサンドィッチが出る。飛ぶ前に食事が出たのは初めてである。食べ終わっても改修が出来ず、結局代替機に乗り換えることになり、出発は2時間半遅れる。

 Sellefteaaの空港でも異常があった。通常は降機後空港ビルで荷物を受け取るが、今回は建物には入らず、その横を通り過ぎ、空港の外の広場で荷物を受け取った。直ぐにレンタカーのカウンターに行き手続きをする。Fordの5人乗りの車が3日間で約11000円なので此れを借りる。支払いは僕がカードで払った。

 途中2頭のトナカイを見ただけで、Malaaの町に着く。1時を過ぎており、ここで食事をしないと、この先何もない。町にはハンバーグ系とピザ系2つの選択肢しかなく、ことは簡単である。大きなハンバーグを食べる。

 其処から40キロ先のAdakの集落に付いたのは3時近くであった。Seanはテントを張り、僕は蚊を恐れて車の中で仮眠をする。空は雲って居り、気温は17~8度なので、車の中は快適だ。イベントの放送があっても車の中は静かで良い。暫しの間眠り、出走15分前に車から出て行く。天気予報では降らないことになっていたのだが、小粒の雨が降っており、怪しげな天気となっている。最初に会ったのはHellenであったが、髪を短くしており、彼女だと認識するのにやや時間が掛かった。Kennyはと訊くと、スタート地点にいるという。300メートル程下ったスタート地点には人が集まっている。Kennyに今日は走らないのかと訊くと、今日は応援だけだと言う。

 間も無く大きなアナログの時計の針が18時指すとスタートとなる。20人程が動き出す。最初はやや登りで、僕の前には5人程が走っていく。この内3人は5キロも行かない内に見えなくなってしまう。残りの2人は女性で、一人は犬を連れて走って居り、又自転車に乗った同伴男性を従えての走りだ。もう一人は此れが自分の初めてのウルトラで、完走には不安があると言う。制限時間が極めて緩いのでユックリ走れば誰でも完成出来る筈だと話す。又自分はフィリッピン人だとも行った。フィリッピンのランナーに出会ったのは初めてである。エードでSweden語を話して居たので、Sweden在住なのであろう。2人とも30キロ辺りまで前後して走って居たが、その後は全く見かけなくなった。

 KennyとHellen夫妻は10キロ辺りまで車で応援してくれ、写真を撮って帰って行った。帰り際にRuneが此方に向かって居るので、会うことが出来るとも行った。彼には2-3日前にメールを出して居り、其の返事にはその様なことは書いて無かったので、急遽その後決めて車で此方に向かっているのであろう。彼の家からは1000キロは優に超える距離である。先週の木曜日にポルトガルから自宅のTrollhaetanまで(4300キロ弱)走って帰って来たばかりで、全く呆れるほど体力のある男だ。

 小雨は止むことなく降り続いているが、ずぶ濡れに成る事もなく、走りの妨げとなる程ものではない。6キロ先からはダートの道となり、此れが50キロ続く。何時も靴に砂利や小石が入り、此れを取り出すのに時間が掛かり、この間に蚊の大群の襲撃にあうので、今年は砂漠で使った砂避けのゲートルを使用したが、完璧にその目的は達せられなかった。3度ほど途中で靴を脱ぎ砂を出したが、此れは去年に比べれば、半分であり、使用しないよりはましではあった。使用前に良くチェックし、不具合は取り除いて置くべきであった。

 例年に比べ、走路上で行き逢う人の極めて少ないレースでもあった。30キロから60キロ過ぎまでランナーに会うことは全く無かった。マラソンの距離の1キロ手前辺りから雨が激しく振り出し急激に寒くなる。懸命にエードに駆け込むが雨を凌ぐ空間は極少ない。立って待つしかない。Staffに車に預けてある袋を要求すると、電話をしてくれ10分程で車が来て事なきを得た。簡易合羽を着、紐でフードを固定して走り出す。マラソンの距離にあるこのエードで先に走って来た1人がレースを打ち切ったので、前に走っているのは2人しか居ない事になる。

 出走後6時間に当たる日が変わった頃エードを離れ、単独走となる。一時は寒さの為、レースを断念せざるを得ないと思ったほどであったが、走り出すと熱バランスが取れて来て、体が動くようになった。此処のレースで最初から夜中にかけても雨に降られたのは始めてである。もう一つ心配なのはこの雨空で走路が見えない程暗く成るのでは無いかということであった。心配は無用であった。1時ごろが一番暗かったと思うが、レース関係の車が時折通る車の轍の跡がダートの路面の水分で白く光って2条の筋になって遠くまで見えるのだ。

 それにしても静かだ。合羽のガサゴソという音の他は何もない。郭公の鳴き声が何回か聞えた。明るく成り出した2時過ぎであった。

 エードや5キロ毎の距離表示に向かって淡々と走る。体は寒くないが、手、特に指先が非常に冷たくなる。あるエードで寒くないか訊かれたので、寒くは無いが手が冷たいと言うと、焚き火を指して当たって行けという。エードの人達は冬の衣類を着ており、何処のエードでも暖を取る為と、蚊避けの為に焚き火をしている。手は冷たくても走れるので、暖かい心使いに感謝し、先を急ぐ。野外の焚き火で暖を取る。遠い昔の田舎の生活を思い出す。

 雨は道に泥濘を作る程降った所もあり、又それほどでもない所もある。程度の差はあれ、走路の全域で降っているようだ。この為今まで見た事の無い現象に出会う。多くの蛙が路上に這い出して来ており、其の内何割かは轍の犠牲になって彼方此方に遺骸を曝している。走路は水辺に沿って居り、水辺には当然蛙が居る事は想定出来るが、今まで見た事は無かった。雨が降らなければ、彼等は水辺の草むらから出てくることは無いのであろう。5−7cm程の蛙であり、雨に喜び別な世界を見ようと草むらを出て来た蛙の無念さは計り知れない。

 雨は終始強弱を交えながら降り続く。全くの孤走で色々な事が頭に浮かぶ。こんなに一人に成れるレースは此処を除いては無い。走路沿いには全く見ている人は居ないレースだ。此れがこの地を踏む最後と成るかもしれない。歳の事もあり、10回の完走を機に此処はもう走らないかもしれない。来年はこのレースが100キロのSweden選手権大会となると言うが、僕には余り意味を持たない。ダートの道も間も無く終りとなり、車の通る舗装道路に出ると残りは43キロを切る。何時もは舗装道路に出ると間も無く、4時間遅れで走り出した先頭のランナーに追い抜かれるが、今年は中々追いついて来ない。60キロを超えた辺りで一人のランナーが追い抜いて言った。其の後は2人のランナーが65キロ辺りで追い抜いていった。その後も追い抜いて行くランナー数は例年より遥かに少なく、Finishまでに追い抜いて行ったランナーは7-8人と少なかった。

 南北を結ぶ内陸道45号をSlagnaesの町で離れAdakに向かう道路に出ると、残りは36キロと成る。左手に時折湖を見ながら緩やかに上り下りする道路を走る。何年か前まで正規の22:00時に走り出した頃は、この辺りが疲れと暑さの為一番試練の場であった事を思い出す。晴れていれば前方から日に当たり、可也暑くなることがあった。今日は未だ雨が降り続いており、時間を気にしないので、楽に走れる。

 此処で8回走っているうちに、色々な事が少しずつ変わって来ている。コースは基本的に変っていないが、スタートの位置は変った。ダートの走路は最初の頃より広くなった所もあり、略全長に渡り幅10メートル程ある。木材等を積んだ超大型トラックが楽に交差出来る幅だ。エードの位置も変わった所がある。其れよりモット変ったのはStaffであろう。老人が多いが、彼等も最初から比べると8年分古くなって居るのである。既に顔見知りとなって居り、色々な物を飲めや食えと勧めて呉れることは変わって居ない。もう会えないかも知れないので、丁寧に感謝し走り去る。

 天気は快復しつつある様である。前方に僅かな青空の隙間が見え出す。只雨は止むかと思うと又振り出し、着ている簡易合羽の何時間にも渡るガサゴソという耳障りな音が気に成るが、脱ぐわけには行かず、フィニシュまでお付き合いをする事になる。

 Loenaesの集落(この小さな集落のRunning Clubがレースの主体である)、を通り過ぎると残り10キロと成る。95キロ辺りで抜いていったランナーが居たが、其の先は誰にも追いつかれる事は無かった。Adakの集落に入ると、残りは2キロ強となる。朝9時前であるが、日曜日のこの時間町を歩いている人は一人も居ない。最後の角を曲がると残りは1キロを切っている。小雨の中Finishするが誰も見ている人は居ない。時間は15時間11分を超えていた。

 今まで300回近く走っているが、今回ほど静かなレースは無かった。此処でも例年はフィニシュ地点で拍手や声援で迎えて呉れたが、今回は誰も居らず、メダルを掛けて貰うこともなく、又民族衣装の女性との写真撮影も無かった。僕はこの様な静かなレースが好きだ。そもそも走ることは人に見せる為でも、応援してもらう為でもない。メダルを貰う為でもない。規定の距離を自力で移動出来たという満足感だけで十分なのだ。

 Finish後車から必要な物を取り出し、Showerを浴びMassageをしてもらう。ここのMassageは非常に丁寧で一時間程よく揉んで呉れる。Massage台に居る時、Runeが入って来て、12時間台で走れたと満足気であった。彼は出走時間に間に合わず、遅れてスタートしたが、これは後なって他人から聞いた話である。Mailには来るとは書いて無かったが如何したのだと聞くと、何年か振りにお前にも会いたかったし、此処は今まで走ったことがなく、Marryは実母が死亡した後始末でアメリカに行っているので、急に来る事に決めたのだと言う。今日は此処に泊まれるかと訊くと、2-3時間寝てから帰ると言って、シャワー室に消えて言った。その後此処で彼と会うことは無かった。

 その後一昨年に廃校となり、今は一部を保育所兼幼稚園となっている旧小学校で寝ることにする。トイレに入ると面白い物に気が付く。便器や洗面台が小児用の物が用意されているのだ。聞いたことはあるが、見るのは初めてだ。又ドアに手を挟まない様に、特別な工夫もしてある。物理的に手が危険な場所には入らないようにしてあった。医療、介護、福祉等の先進国Swedenでは経済的には成り立たない製品であっても、安全性や利便性の為必要と考えられる製品は得られるように成っているのだ。

一眠り後、夕食を食べ、18時の表彰式に出る。会場は例年の如く集落の外れの昔の映画館である。各自に記録証が手渡され、副賞が出る。地元の民芸品やスポンサーからの提供品である。

 後は寝るだけ。

 翌朝8時に朝食を取り、釣りでもしようとしたが、許可証や用具の入手に手間が掛かり、釣りは諦める。Sean3時までには空港に戻らなければ成らない。急遽Seanが行った事のないVindel川を下る事にし、Slagnaesから内陸道45号をSorseleに向かい、其処から川沿いにBjorkseleに向かう。途中20キロ程手前のVindel GranseleのMarrianの家による。着いた時Marrianは正装して玄関に出ていた。会った事は無いが、娘さんらしい人(Sixtenの姉)と其の連れと思しき人とが外に居た。どうやら何処かに出かける矢先だったらしい。

 突然の訪問ではあったが、先ず上がってお茶でも飲んで行けと仕度に掛かる。実はAdakを出る前にSixtenに電話をし、彼の所に行く前にMarrianの所にも寄る旨を伝える積りだったが、何故か連絡が付かすどちらも突然の訪問となってしまったのだ。

 テーブルに座りお湯の沸くのを待っていると、奥の間で人が倒れた音がする。行ってみるとMarrianが倒れている。驚いて娘さんを呼ぶと、心配は無いとう。過去にも起こった事があり、糖尿病の治療薬により低血糖の状態となったらしい。お茶などを飲んでいる場合では無く、直ちに退散する。去り際、娘さんが(とは言ってもSixtenの姉で65には成っているかもしれない)このことはSixtenには言わない様にと口止めされた。

 15分程でSixtenの家に着くと、SixtenもAnnaも外に出てCamping carに色々積み込んで居る最中であった。口外禁止された理由が此れで分かり、彼等にはMarrianのことは一切話さなかった。Sixten夫妻は夏休みでSweden南部に今日出かける予定であったのだ。

 暫しの間であったがお茶を御馳走になり、Sixtenが最近手に入れたと言う1950年製イギリスの名車Trianphを見せて呉れた。真っ赤な塗装のTwo−Seaterで幌は黒色の皮製である。Sixtenが母親のMarrianや妻のAnnaを乗せ得意げに疾走している姿が目に浮かぶ。養子のJimもこの車を乗り回したがるに違いない。彼等には実子は居なく、長男のJimNepalから長女のLisaと次女のStinaIndoから赤子の時から引き取り、育て上げ、Lisaは彼等が南部の旅から帰った一週間後に結婚式を挙げることになっているという。お祝いの気持ちを伝えて、空港に向かう。

 Vindel河畔にはSeanに見せたい所は彼方此方あるが、時間の関係で今回は空港に直行する事にする。僕はSkellefteaaの市内のバス停で降ろして貰い、Tomasの迎えを待つ。事は時間的に全て順調に運び、各々其の日の日程を完了出来た。

 Tomasの家には丸4日滞在し、其の間、自転車や徒歩で付近の自然を探索した。本宅は90キロ程南にあるが、教師であるSussanne Annaの長い夏休み中は海辺の別宅で過し、Tomasは其処から会社に往復している。海辺の家の近所にはTomasの親戚の家もあり、子供たちは食事の時間を除き、外で一日中目一杯遊びまわる。6歳に成ったばかりのJulieはゴムボート漕ぎを練習しており、腕前も中々に成っている。小さい頃から自然の中でのサバイバル術を見につけているのだ。

 
 

最後の日、77日午前中は自転車でKennyの家に行き、昼飯は海老サンドィッチで有名な店へ車で行く。Tomasの家の方に半分ほど戻ったSkellefteaa川の対岸のレストランであった。天気は良く、表のテーブルで小エビのたっぷりと乗ったOpen Sandwichを賞味した。コーヒー付で1200円程度で割安であり、カードで3人分の支払いをする。その後彼等の家に戻る。娘のLailaがお前に会うために150キロはなれたUmeaaから来て居る筈なので是非会って行けというのである。何年か前Kenny100キロ、彼女はマラソンをラップランドで走ってからの再会であった。

 午後2時にはTomasと一緒に100キロ南の森へ梟を見に行く事に成って居り、自転車で戻ったのでは間に合わないので、Kennyの車に自転車を積んでTomasの家まで送って貰う。

 車の中でTomasが梟の森に付いて話す。AnnaBoy Friendの家族の持っている土地に梟の番が居るという。Annaと娘のJulieは別の車で前を走って居り、後ろの子供用の安全ベルト付きの椅子から此方に手を振ったり、時々電話を掛けてくる。Julie6歳になったばかりであるが、此れがSwedenでは当たり前の家族生活なのであろう。

 土地の持ち主の家に付く。夏休みで家族が集まって居るのであろうか、子供も含め可也の人が集まっていた。天気は上々で、野外の幌の下で茶菓を頂く。庭は広大で、東洋風の庭や滝、演芸用の舞台も作ってある。土地があり豊かな証拠だ。又1935年以前に製材所の動力源として使われて焼玉式エンジンが頑丈な鉄の架台に設置されており、今でも動くという。焼玉エンジンは聞いた事はあるが実際に見たのは初めてだというと、動かして見せると言い準備を始める。先ずやや高い所に設置しているタンクに燃料を入れる。自然落下の燃料供給方式だ。燃料はジーゼル油など低質油で良いと言う。エンジンは水冷式で,この為ドラム缶大の桶が傍に用意されている。この中の水をエンジンに循環して加熱を防ぐのだ。焼玉エンジンは直ぐには起動出来ない。先ず燃油を加圧気化燃焼させるトーチでエンジン頂部にある焼玉を加熱する必要がある。其の間に各部への潤滑油給油を行う。トーチの先が赤色になってから暫く経つと、起動の準備が整う。起動はお前が遣ってみろと要領を教えて呉れる。大きな弾み車を回すには可也の力が要る。何回か遣って見て、ヤット弾み車が一回転するとエンジンはそれで動き出す。割と簡単な起動であった。

 

昔この型のエンジンを積んだ船はそのエンジン音からポンポン船と呼ばれたと言うが、回転数が低く低速であるが、トルクは大きい。図体の大きい割りには出力は低く、此れだけ大きなエンジンでも25馬力だという。音は大きく、地面全体が揺れているのを感じると、モット巨大な出力がでるものと錯覚するほど、力強さを感じる。何れにせよこうした古い産業遺産が民間の愛好家の手によって,稼動できる状態で保存されている事は素晴らしい。

 何時まで待っても暗くはならないので、梟を見に行く事にする。大きな望遠カメラを三脚に付けた、トーマスとAnnaBoy friend,その父親、其れに僕の4人が森の中に入ってゆく。蚊が沢山居るので其の前に蚊避けのスプレーを付けて置いたが、矢張り蚊に何箇所か刺された。15分程森の中を歩いたが、僕には梟らしい鳥は目に入らなかった。只、何か鳥が飛んでいる気配は何回か感じた。この日4人の中で梟を目撃し、写真に収めたのはTomasだけであった。番であるので、何処かに巣があるに違いなく、この巣を見つければもっと簡単に梟を見る事が出来る筈だ。其れまでには長い間の森の中での観察が必要であろう。

 その後100キロ余り北に走り、海辺の家に帰り着いたのは21時を過ぎていた。何年か前に同じ様にトーマスとビーバーを見に行った時の事を思い出す。野生の動物を見る為に往復200-300キロ車を走らせる人は日本では気印の部類に入ると思われるが、Swedenでは極普通の人の様だ。生活と時間のユトリが違うような気がする。



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平成23年7月11日掲載

11.06.05〜11 Antibes 6日間走


 Cote dAzurNiceに着いたのは5月31日深夜であった。空港からは市内に向かう最終バスがあったが、バスを降りて宿を探すのも大変と思ったので、タクシーを利用する事にする。運転手に市の中心部まで幾らかと聞くとメーター料金なので安心しろという。ユースホステルに着いた時、メーターは50ユーロ弱と成っていたので、チップも含め50ユーロ払った。後で受け付けで聞くと、深夜でも精々30だと言われ、タクシーには用心するようにとも言われた。観光地なので悪いのも居るのだ。

 レースの前の丸3日のCote dAzurの観光に付いて簡単に触れて置きたい。地名の意味は青海岸で、地中海北岸イタリアよりの東西数十キロの広がりを持つ地域を指す。ヨーロッパで名の知れた、観光地である。関東で言えば湘南に相当する地名であろう。この中には時々我我も耳にする町がある。西からCannes,Nice,Monaco などである。Monacoの先にMentonがあるが、其処から10キロ足らずでItalyとなり、Rivieraと呼ばれる。此れも人気の高いリゾート地である。音楽祭で有名なSanremoは国境を越えたItaly側にあるが、今回は時間の関係で行く事が出来なかった。

 6月1日Niceの町を歩いてみる。Youth Hostelは町の中心部にあり、何かと便利だ。バスや電車の乗り場も近い。町の中心部は碁盤目の道路が通っているが、少し離れると地形に沿った道となることは、何処の町でも同じだ。見るべき物は南北3キロ強、東西は2キロ程度なので迷っても高が知れている。町の北部の高台にある修道院、考古学博物館を目指す。やや東の側の道を丘に向かって歩く。途中から川が現れる。よく見ると、今まで歩いて居た道路の右手の大きな建物は全て川の上に立っていたことが分かる。市内1キロ以上に渡り人間が其の上に巨大な構造物を作っていたのだ。川幅は川原も含めると2−300mであり、建築面積としては可也なものと成る。川を暗渠とするには、余程蓄積した雨量のデータ等があったに違いない。川の上には博物館や展示場など公共の建物が多い。

 道を聞きながら坂を登り、目的地に達する。ローマ時代の遺跡があり、博物館は無料だ。Henry Matisseの美術舘もあり、絵画、彫刻、デッサン等が何百点もあり、無料で開放していた。帰りは違った道を通り、途中Chagallの美術舘もあったが、此処は素通りした。

 Hostel東側の緑地を介して旧市街がある。地図をみるとこの緑地の下も川であったことが分かる。旧市街の道は狭く、不規則である。小さな路地に沿って、レストランや土産屋が並ぶのは何処の観光地も同じだ。大きな広場があり、路面電車も通っている。海の方に出ようと緑地の先に行くと、Italyの食品市があった。可也の店が出ており、チーズ、ハム、その他が売られていた。其の後港に出、更にその東の丘に見える要塞に向かう。海面から100m程の丘の要塞で上の方は平らになっており、今は公園と成っている。要塞の上から町を見ると、港のある良好な入江が町の東端にあり、町の西側大半は大きな湾に面している事が分かる。西の外れの空に飛行機が見える。飛行場であろう。

次の日Niceから8時過ぎにバスでMonacoに向かうが、降り損ねたので其のまま終点のMentonまで行き。同じバスで折り返す。Niceからは一時間半走った所であるが、料金は均一で1Euro,120円、と極めて安い。

 Monacoの賭博場の傍で降り、町の散策を始める。先ず、海に面する西の高台にある王宮を目指す。Monacoは海岸から急に崖が立ち上がった険しい地形である。この険しい地形がモナコが今日公国として存在出来た大きな理由であろう。面積は皇居の2倍と言われ、東西に長く南北の狭い所は地図上では1キロも無いように見える。海岸線もやや複雑で、良好な港が2箇所あり、豪華な船が多く停泊している。略中央に賭博場があり、モンテカルロと呼ばれているのはこの辺りである。世界の3大自動車レースの一つと言われるMonaco Grand Prixは1週間ほど前に開かれており、そのコースの片付がまだ終っていない状態であり、レースの一端を見る事も出来た。

 

市内の一般道路を走り、観客の保護の為の防護柵、仮説の大きな観客席、広告などが残っている道路に沿って、コースを一周して見た。全長は3キロ強であろう。地下道もある一般道路を其の日に限りレースに使い、Hairpin Curveあり、坂ありのコースで其れなりに難しいレースなのであろう。緩衝用の古タイヤを組み合わせたものが大量に彼方此方で見られた。

 王宮は町の二つの港の迫り出した絶壁の上に立っている。登って行ってみる。正面の入り口近くに潜水艇の展示があった。少し前、モナコが黒マグロの捕獲禁止を世界に呼び掛けた事があった。其の時無知な僕は何でモナコがとの印象を持ったが、此処へ来てその答えが分かった。王族の一人が海洋探検に凝り、潜水艇まで作って長年研究をしており、自然保護の重要性を知った上での提案であったのだ。王宮の下部からは海に乗り出せる様になっているという。海洋博物館もあったが中には入らなかった。王宮のまわりの散策路は綺麗に整備されていた。

 6月3日、西にあるCannesに向かう。バスで2時間近く掛かるが、料金は120円である。

途中空港の傍を通り、Biotの町を通る時に巨大な船の形をした建築物が何棟か見える。フランスならではの建築造形である。其の先がAntibesである。

朝方は天気が悪かったが、バスを降りる頃にはカンカン照りとなっていた。バスの着いた所は町の西よりの広場で、傍には大きなホテルやカジノがあり、海も近かった。先ずカジノを通り過ぎ、浜辺に出て、公園の中を歩く。機関車の形をした観光乗物が待っていたが、此れには乗らない。ルートは細長い町に沿って東側と西側の二つあり、それらに沿って全部歩いても精々5〜6キロにしか成らない。

先ず東側半分を見ることにする。整備された海岸の道を歩く。左手は道路を挟んで、豪壮なホテル群が途切れなく続く。Cannesも穏やかな湾に面しており、東西にヨットハーバーがあり、此れは可也人工的に作った形跡がある。豪華な船が係留されている姿はMonacoに匹敵する。東よりの少し沖には島が見える。砂浜の長さは精々2キロ、幅は広い所でも30m位だ。この程度の砂浜は何処にでもある。大きなホテルの前はそれ専用の浜に成って居り、椅子やパラソルが用意されている。所謂Private Beachで関係車以外は立ち入りが出来ない。其の他は公開の浜である。未だ夏の始まりであり、余り多くは無いが海に入っている人も居たが、大抵は日光浴の人達であった。御夫人方の中には上半身裸の人も時々見かけたが、此れはこの辺りの主流ではない。どちらかと言えば、余り商品価値のある裸では無い様に思えた。東の外れは小さな半島に成って居り、ここにもカジノがある。ここを回って行くともう一つの浜にでるが、ここはひっそりとして居ていた。折り返して建物の間の道を町の方に戻った。

 

今度は西側にある要塞に向かう。道は不規則であるが、大よその方向に向かって登っていく。要塞の中には博物館がある。又傍には教会もあったが、余り興味を引く物でもなかった。

 

有田さんの誘いが無ければ決してこのレースは走ることは無かったであろう。僕が連続して一気に走った最長の時間は29時間で、此れとて遠い昔の話である。まあドンナレースなのか走って見て置くのも悪くなかろう程度の気持ちで、時間内に何キロ走ろう等の目標も全く持たずに参加する事にした。

そもそも今回の旅の大目的はSwedenでマラソンを2回走ることであり、この間に多少の日にちがあるので、此れを利用してAntibesのあるCote d’Azurの観光もし、序に走ろうとの気楽な気持ちであった。

実を言うといきなり6日間走に挑戦するよりは2日又は3日間走にしたいと思って居たが、其の選択は不可能であった。短いレースは後半に走り出す事になっており、其の頃には僕はSwedenに戻ることになっていたからである。

レースは今年で6回目を迎え、運営も確りしており、楽しいレースなので来年も行きたいと思っている。Gerard Cainが主催しており、英語は余り上手くは無いが、Mailなどには的確に返答してくる。実際に会って話をしたり、滞在中の彼の仕事ぶりを見ると、運営に対し並々ならぬ気を使っていることが分かり、好感が持てた。

5日の午後4時6日間のレースが始まった。レースの前のBriefingでも競技規定らしいことは触れておらず、所謂何でもありの楽しいレースなのだ。レースは走りの部と歩きの部とに分かれており、歩きの部には審判が居る事が告げられている。唯一の競技規定は歩きの部の参加者は走っては成らないことのようだ。後は参加者の自由で、日に何時間寝て居ようと一切お咎めなしなのである。

大会の名前もFrench Ultra Festival d’Antibesとあり、またL’ultra pour tousともある。フランス ウルトラ祭り 於アンティブ,“皆の為のウルトラ”という意味で、ウルトラが大変過酷なレース等との認識を否定し、誰にでも楽しめるお祭りのような物にする意図があるようだ。実際僕の様に途中でレースを打ち切った人は極少なく、皆最後までレースを楽しんでいたようである。

6日間走の部の参加者は100名弱、歩きの部は30人程度であった。参加者はフランス人が圧倒的に多く、東洋からは日本のみであったが、他に20ヶ国近くから参加がある国際大会でもある。

レースの前4〜5日は毎日必ず雨が降り、雷は日に何回もゴロゴロと不気味な音を立て、時としては激しい降りとなる。日本では雷3日と言われているが此処では何日と言っているのであろうか?此れがこの時期での普通の天気なのであろうか。此処より北のフランスほぼ全土は異常乾燥が続き農作物に被害がでているのだ。レース期間中も雪と雹を除き、色々な天気であった。先ずレース前日の夜大雨があり、上からは漏らないが、テントの下から周りの水が入り込み、一部のマットを動かす必要があった。雷雨も時々あり、夜中もよく降った。この様な中真面目に距離を追い続けた仲間は大いに賞賛すべきだ。3日目の午後に起こった雷雨で走路は忽ちにして一変した。特に砂利道や土道には大きな水溜りが幾つも出来、此れを避け蛇行して走らなければ成らなかった。

 

レース前日NiceからAntibesに移動し、10時に会場に着く。レースの前にAntibesの観光をして置きたい。荷物一式は厄介なので、会場で預かってくれる事を期待して会場入りをしたのだ。先ず主催者のGerardに会う。僕の気持ちを察したかの様に、先ず荷物を置いて、町でも見てきな、夕方にはテントの用意も出来ているから、と言う。傍に居たStaffの一人が、自分の車で保管してやると言って車の所まで連れて行ってくれる。Laulentと名乗り、車の予備の鍵も貸してくれ自由に荷物の出し入れを出来るようにしてくれた。車はVanで表に色々走りの案内を施したもので、彼も可也入れ込んで居る様だ。彼もレースを走り、合間を見てはStaffに早代わりしていた。Vanの屋根にはレース中日本の小旗を掲げて呉れていた。

身軽になって町に出る。Antibesは半島の町で、観光の立地としてはCannes等よりは良い様に思うが,Cannesの様に豪華なホテル群が立ち並ぶ事もなく、落ち着いた感じのする町だ。海岸沿いには長い城壁が張り巡らされて、その昔鬩ぎ合いの地であったことが分かる。面する海は地中海で波が静かなので、海を介して襲来は多かったのであろう。レースの会場の直ぐ東側にも小さな浜があって、海水浴が出来る。南側の小高い丘には昔の要塞Fort Carre(四稜閣)があり、登ってみる。中々立派な要塞で直ぐ傍には港もあり、レースの会場も真下に見える。

4時頃有田さんが会場に着き、テント内の場所を確保する。テントは共用の物が4張り用意されている。出入りの便利さを優先し、入り口傍に陣取る。テントは普通の家の様に吹き抜けの屋根が高く、12〜3人は泊まれる。空気マットも上々の物であった。思わず過日の震災による避難所の生活が頭に浮かぶ。どちらも大差の無い、似たような生活空間であろうが、居住者の心的状態は大いに異なる。我々の場合は走る目的の為にこの不便な生活を選んで遠くから態々来ている。避難者の生活は自ら選んだ物ではない。突然の住環境の破壊消滅により、否応無しの生活の場であり、我々の場合は自ら選択した生活空間なのだ。不便な生活も6日間に限られるが、避難者の場合は先が見えていない場合が多く、その心的苦痛は如何ばかりか比較の仕様も無い。関係機関による早急な事態改善が望まれる。

仮の生活空間の鉄の支柱に彼の持参した紐を結びつける。洗濯物やその他の物をかける様に彼が持って来たものだ。その紐に持参した原さんのL版の写真を洗濯挟みで取り付ける。彼は又原さんの顔だけの写真をお守りに入れ其れを持って走り、追悼のレースだともいう。その後彼は買出しに出かける。明5日は日曜日なので殆ど店は休業で、必要な物は今日中に買っておく必要があるという。大量の水、コーラ、食料などを買って来た。走行距離目標や自己記録更新を狙うには補給も独自の物が必要なのであろう。僕は成り行きで走るので、主催者の出す物を食べるだけで十分と思っている。靴等も何足も持って来ている。準備にも意気込みが感じられる。

夕方7時になるのを待って海岸のレストランで食事をする。其の前には夕食は出さないのだ。彼はパスタを僕は半生のビーフハンバーグを食べる。可也大きな物で、表面は色が付いているが中は略生で冷たい。日本で食中毒問題が起こったタルタルステーキを思い出す。食の国フランスではそんな心配もあるまいと、安心して食べる。

食べながら彼と僕の走りの違いについて僕の思っている事を話す。彼の走りは職人、僕の走りはサラリーマンの走りではなかろうかと思えるのだ。彼は職人なので道具に拘る。靴にしろ、衣装にしろ、然りだ。靴等も色々自分の走りに合ったものを研究して買っているという。今度見つけた靴はグリップの良く効いたもので、確実に地面を捉え滑りが少なく前進効率よく、足が負ける心配もあるという。素人は道具の良し悪しは元より、道具を使いこなす自分の力量等はあまり考えない。職人は時間が来ても仕事を止めない。職人が仕事を止める時は、仕事が納得いく完成を見た時が一区切りした時かであろう。僕はサラリーマンなので時間が来れば仕事は止める。走った距離に関係なく時間が来れば其の日の走りは終わりなのである。周回数と距離に関しても彼は自分のカウンター(車掌等が員数確認の為に使う、手押し式の物)を持って走り、自分で確認し、定期的にテントに戻り記録すると言う、念の入れ方だ。僕などは自動計測を頼り切っており、自分で余計な物を持ったり、書き付けたりする事は全く考えなかった。記録への執念の差であろう。

実際レースに入るとこの様な事が起こった。彼は距離を追いかけ、夜も寝ないで走っている。2日目の終わりには色々な幻聴が現れる状態に成ったと言う。疲労が相当溜まってきているのだ。僕は自分の作った計画に従って、初日こそ10時まで走ったが、2日目以降は7時の夕食前にシャワーを浴び、飯が済めば寝てしまう。これはシャワーの温水が温く、夜は寒いことにも拠る。夜は寝るべし、食った後は寝るべしなのだ。シャワーはテントから100メートル以上離れた、走路の逆方向にある。往復200メートル強移動する事になる。1周の2割強に当たる。この為、テントから必要な物を袋に入れ、走路に沿って1キロ弱歩いてシャワー室に行く。学生の頃に通った銭湯を思い出す。銭湯から戻ると1周が加算される。

 

夜中に目を覚ますとテント内の大方の人は走っている。寝ているのは隣のマットのMichealと僕だけだ。彼は大男で歩きの部に参加している。朝目が覚めても直ぐには起きず、もう一度寝ようとし、寝つけなければ仕方なく起きて走り出す具合だ。それでも略4時半には走り出しており、最後の日は意を決して2時半から走り出した。

それでも初日の就寝前に57キロを走り、次の日の16時までの24時間で117キロを踏んだ。2日目は200キロを目標に走り出す。目標は極めて甘い物で、達成は先ず可能な様に設定する。届かない目標で落胆するより、精神的にこの方が良いのである。1%上乗せして、202キロで48時間の終わりである。更に寝るまでに54キロ走り、256キロでこの日の走りを終る。右側を下に横に成って寝ると、大腿骨の一番出っ張った所に違和感がある。痛みでは無いが、何か異常が起こっているのだ。3-4年前エジプト観光中同じ所が痛く、右足で体重を支える事が出来ず、一時歩行不能になったことを思い出す。10年も前に股関節症と診断されており、其の予兆であろうか?鼠けい部に出ると、自力では脚を上げることが出来なくなる、厄介な物だ。悪化させ無いように動く必要がある。 

72時間300キロを僅かに超える。Antibes 滞在最終日、12時に空港に向かう前までに350キロを目指して2時半から走り出す。懸念されていた足の故障が出ていないのが幸いだ。それに疲れも思ったほどでもない。一方2日目の終りごろから有田さんの調子が落ちてきている。全体に悪く、もう走れないと言って歩いている。時速2〜3キロしか出ないとも言い、ユックリ歩いている。初日は4位に付けていたのだが。僕は走っている間は真ん中より上の40番前半、寝ている間に10〜15番ほど下がり、此れを繰り返していた。

走路は下記の様であった。正規のグランドの北東コーナーの外れに大きなアーチがあり、其処から半時計周りに走り出し、グランドの直線部を走り、次のコーナーを回りきる少し手前で、競技場の外に出る。コースの中で最も走る条件の良いグランドの走行距離は150mほどであろう。共通のテントはこのコーナー部に位置する。出口はやや登りに成っており、左に曲がって直線の砂利道を走る。右手はグランドを見落とせる石造の雛壇となっており、大きな兵士の像が建っている。第一次世界大戦後に作られた物であろうか、1918の大文字が見える。その上には木立を介して要塞の石造建築が見える。石は同じ物を使っている様だ。雛壇の直ぐ下は幅7~8メートルの傾斜の緩い草の土手となっており、この土手に参加者個人のテント群が張られている。車に泊まっている人もおり、家族やサポーターも此処で寝起きしている。彼方此方には色々な国旗が閃いている。道の左側のグランドとの間の土手にも幾つかのテントが張られている。

グランドの直線部と平行な砂利道はグランド一面とサッカー場の長さを走った所(約300m)で直角に曲がる。右側は海で、海面から7〜8メートルの高さの道で舗装ではあるが路面は極めて悪い。真下は魚釣りをしている人がおり、前方右手の小さな浜では海水浴が出来る。走行中に暑くなって海に飛び込んだり、アイシングの代わりに海に入る人も居た。冷水のシャワー設備もある。全体に下って約150m行った所で、左折すると路面は良くなる。グランドに平行に250mほど走り、ここでUターンすると路面は石の無い土と砂となり、200m程すると周回チェックポイントとなる。此処を通過する時ピーと言う音がする。Uターン部は当然対面走行と成る。間に金網フェンスがあり、距離約10mほどに反対側のランナーが見える。周回の距離は1キロを若干越える。右側には食事用の大テントがあり、其れを囲む小さなコーナーを回ってアーチとなる。アーチを潜った左に周回及び走行距離表示用のスクリーンがあり、そこで略オンタイムに自己の結果を知る事が出来る。右側には給水や食べ物のテーブルがある。其の先のテントではトレッドミルを使った実験ランが行われており、二人のランナーが休み無く走り続けており、彼等とも周回ごとに手で挨拶を取り交わすようになった。皆走る仲間なのだ。

 

僅か1キロ余りの中に、正規のグランド、小石のある悪路、凸凹の舗装、比較的良い舗装、土と砂の軟らかい路面等、想定できる全ての路面が用意されている。日陰はスタートから3番目の角を回った舗装面の良い道路の左側に大きな街路樹があり、ここが一番気持ち良く走れた。後は朝方僅かな時間要塞の影が出来る最初の直線部の極一部のみであった。カンカン照りで気温の高い日が無かったことは幸いであった。海に近く何時も風が吹いて居たのも走りには良かった。路面は悪い所もあり、特に夜間は用心して走る必要がある。照明はグランドや周りの街灯、真夜中までのFort Carreの照明で略十分であるが、時折何分間か一部の電灯が消える場合がある。真っ暗では無いが、十分な照明ではない。実際3日目に入ると腕を釣って走っている人が出て来た。又、僕が居なくなってから走り出した黒田さんは骨折の為110キロ余りで棄権をしている。飛んだ災害だ。疲れて夜中に悪路を走る際は注意の上にも注意する必要がある。

この様なコースをWalkersを含め120〜30人が何時間か走っていると、自然に色々な交流が生まれる。一昨年のTransEuropaで出会ったと言う人が2人居た。僕にとってはヨーロッパ人の多い彼のレースで彼等を個として認識していなかったが、向こうでは覚えていた。髭の効用かもしれない。Swedenからも4名参加しており、この中の2人が声を掛けて来た。其の一人は日本から女性が参加すると言うので期待していると、レースの前日に話しかけて来た。向こうでは過去に僕にあった事は全く忘れて居た様であった。僕も後で考えて何処かで会った顔であること気が付いたのである。2000年か2002年のStockholm Marathonで会った事思い出したのである。走り出して出会った時に、前に会ったことがあると思うがNygrenでは無いか問うと、Nystroemだと答え、彼の方でも前にあった事を思い出した。彼が何年か前から24時間を主催している事は知っていた。来年あたり此れを走るかもしれない。もう一人は女性で、“前にHultsfredの100キロで会っている”とハッキリと言って来た。そう言われても全く彼女の事は思い出せない。Hultsfred 100キロは2度走っているが、記憶には無いのである。今は言語療養士として働いている当時6歳の娘に電話をして僕のことを話したら、娘も覚えていたと話してくれた。小さなレースであったが、東洋人は僕一人だったので印象に残って居る様だ。参加者は前後に名前と番号を表示してあり、彼女の名はJboelと書いてあった。このような名前はSwedenでも聞いたことも無く、日本語では殆ど発音不能と思うが名前はどう呼ぶのか聞くと、表記が間違っているのだと言う。Jは余計で、ボーエル。此れなら発音出来る。名前は前後の番号にFirst Nameが表記されているが、僕のものは前は印刷してあり、後ろは何故か手書きであった。何回も出会って居る内に、お互いに追い抜いたり擦れ違ったりする際に名前を呼んで励ましあったりするようになるから不思議だ。

走路上には色々な人を見かける。2mを超える大男も4〜5人おり、相撲取り顔負けの大男も2〜3人居た。足の形が異常な人も居り、また体を傾けて走っている人も居る。概して言えば左前に傾いて居る人が多い。Walkersの中で僕より明らかに歳を取っている人が2人居た。其の一人は大男で、背中は曲がり、左に体を前傾して前進している。追い着いた時何歳か訊いてみた。驚いた事に56歳だと言う。僕は80を越えていると思って居たのだ。概してWalkersは長い間走路に居るようである。僕が走路に居る時には何時でも居たのは13番であった。名前はSantiagoと書いてある。ある時この男が声を掛けて来た。自分は日本に行った事もあり、日本語も出来ると言うのであった。確かに簡単なことは日本語でも分かるが、少し内容のある話しになると、英語を介さざるを得なかった。Spain人であり、仲間と来て居るのだと言っていた。

 

6日間のレースの場合、距離を伸ばす為の一つの要素はどれだけ長く走路に居るかであろう。早く移動出来る能力は第一の条件であろうが、粘り強く長時間移動し続ける能力も大事である。休養の取り方や食事の仕方も大事であり、それらのバランスを取りながら、6日間で最大の距離を出すには何回かの試行錯誤が必要なようだ。初めて遣って見て、色々工夫する余地のある面白い競技であることが分かった。

何時からそうなったかは特定できないが、スラリとした女性が対交流の走路では柵越しに必ず手を振って合図をするようになった。サングラスを架け、時折電話をしたり音楽を聞きながら、スタスタ追い抜いて行く時もある。滅多に追い抜かれることは無いので、彼女は間歇的に走路に出ており、其の時は驚く程の速さで歩いているのだと思って居た。2日目になって此れが誤りである事が分かった。歩きの部に出て居て、終始歩き続けており、しかも僕の走る早さより若干早いので、時々追い越していったのである。女子歩きの部の首位を行き、この後は昨年この部の優勝者ドイツの女性、続いてフランス人の順で、Top争いは熾烈であることも分かった。彼女はイタリア人であり、国威も懸かっているのであろう。このクラスになれば、サポーター陣も確り付いており、独自のサポートテーブルを用意している陣営もあった。

男子のTop争いも熾烈である。初日の一位はJose Luisと言うSpain人で、体は小さく、猫背で走っている。可也の年配の様だ。2番手はTransEuropaであったStephanである。2日目の初めは20キロほど差が付いていたが、Jose Luisの速度が落ちて来て、若くスピードのあるStephanが午前中にTopになるのでは無いかと思い、その旨Stephanに告げる。何しろ、レースはまだ始まったばかりなので、勝負の行方は分からない。

周回レースの面白さはTop争いをしているRunnersを追い抜く事があることだ。彼等は睡眠も取らず夜中も走っているので、日の中疲れて早く走れないこともある。僕など間歇走行組みは余裕があり、走路に居る限り、可也の速さは維持出来る。追い抜く際はどちらにも励ましの言葉を掛ける。StephanTopに成ったのは夕方であったが、次の日の朝にはまたひっくり返っていた。

時間走の面白さは比較的短い周回コースの中で長時間に渡り、同じランナーと何回も接触し、同じ空間と時間を共有する事により生まれる、人間同士の絆であろう。各々の最終走行距離は異なっていても、同じ条件の中で最善を尽くしあった仲間への敬意は何時までも心に残り、又何時の日か違った場所で会っても信頼できる友として接する事が出来るのである。今回は最後までレースを続けられなかったが、レース後の表彰式やパーテーに出席出来ず、連絡先等の確認は皆無であったが、この事がここで言葉を交わした何人かのRunnersWalkersとの絆の消滅を意味する物ではない。絆とはその様に脆弱な物ではないのだ。

 

1日目の終わりに右土踏まずの甲に近い所が赤く変色している。何か具合悪い事が起こっているのである。調べて見ると、Heel cupの構造材が剥き出しになって其れが当たって居るのだ。この硬い部材を覆う必要がある。テープを張って見ては如何かと思い、医療テントに相談に行く。テープは無いかと言うと、靴を見せろと言う。自分で直そうと思って居たが、医者が当該部にガーゼを当て其の上からテープを張ってくれた。序に右足の指2本に肉刺の兆候が出ていたので、これも合わせて診て貰い、予防のテープを張って貰った。お陰で後はこの問題は起こらなかった。

2日目、田村さん(鶴岡には今年も行く)と1周ほど一緒に走った。彼女も僕より真面目に長時間走っているが思ったようには距離が出ていない。彼女曰く“大森さんはペンギンみたいな格好でも結構早いね。”此れには驚いたが、自分の走っている写真を良く見ると、腕を下げて振って居り、ペンギンの移動方法に酷似している。人は良く見ているものだ。 

飲料としては水、スポーツドリンク、紅茶、コーラ、要求するとスープはコーヒーも出た。固形物はフランスパン、ポテトチップス、チョコレート、飴玉、ビスケット、パスタ、米料理(酢味)、チース、ゆで卵、ソーセージ,サラミ、バナナ、林檎、オレンジ等がテーブルに置いてあった。この他朝と夜は時間を決めて其れらしいものが出ていた。夕食時にはワインも出る事があった。イタリア人などは自国のワインの自慢もあるのであろうが、飲めるような代物では無いといっていたが、それ程酷い物では無かった。又ある参加者の誕生祝として大量のケーキが出た日もあった。全体に野菜が足りない感じがしたが、短期間であれば特に問題とはならないであろう。 

4日目の朝食のころは310キロを越え、有田さんとの差も20キロほどに縮まって着た。午後からから走り出す黒田さんが写真を撮りながら一緒に走ってくれ、元気ですねと言うのが印象に残っている。未だ確かに走れている。10時半頃終に有田さんの走行距離を上回り、11時40分に走行を終った時には2〜3キロの差が出来て居た。只最後2周の初めの頃から懸念していた半月版の痛みが出てきたが走れない程ではない。半月版や股関節の痛みが本格的にでると、歩く事は不可能になる。増して10キロを越える荷物を背負って自力で旅は続けられなくなる。用心しながら今日の最終目標350キロにおまけの1キロを付けて、競技を終了する。最後の周はカメラを持ち、テントの前でいつも声援を送ってくれた家族や、知り合いのランナーの写真を撮った。101番のWalker, Nicolettaにカメラを向けると一緒に歩いていた仲間と立ち止まってポーズをとってくれた。

主催者のGerardには前日、今日帰ることを伝えてあり、帰る前に声を掛けるようにと言っていたので、挨拶に行く。大きなメダルを差し出されたので、完走ではなく途中棄権なので受け取れないと言うと、遠慮せずに持って行けというので、受け入れる。世話に成った医者にも挨拶をし、テントに向かう。

素早く用意をし、バス停に行く。飛行場までは一時間程かかるが、其の間何回居眠りをした事が、矢張り疲れは溜まっているのだ。運転手に飛行場で降ろして呉れる様に頼み、事なきを得た。

飛行場では十分すぎるほどの時間があった。眠ろうとするが、眠れない。人間は機械では無いのだ。スウィッチの切り替えでオン・オフ出来る存在では無い。機内ではパリまでの便でワインを飲んだが、矢張り眠れな無かった。ワインの国フランスでは国内線でもワインは無料だ。Stockholmまでの国際線でも2本飲んだが、眠気を誘う物では無かった。 飛行機をおり市内へのバスに乗ったのは、日が変わる少し前であった。終点まで行くのであれば、何の心配も要らないが、終点の手前で降りる必要があったので、そこで降ろしてくれる様運転手に頼んで席に着く。一人旅は兎角神経を使うが、無事予約してあるYouth Hostelに到着。初めて泊まる所であるが、Kungsholmenの略真ん中にあり、出入りには便利だ。部屋は地下にあり、13〜4人の大部屋だが、満員ではない。地下室なので、電灯を消せば完全に真っ暗になるので、この時期の宿としては良い。地上の窓のある部屋では夏は暗闇を確保するのは難しい。十分な睡眠を取ったのは言うまでも無い。

 

Salaのマラソンが取り消しに成ったので、Stockholmで丸3日ノンビリする事が出来た。天気が良く、何処に行くのも快適であり、彼方此方歩き回り、博物館も幾つか入ってみた。町には70近くの博物館があり、無料の所や曜日や時間によって無料とする所もある。

Stockholmの町は其れ程大きくなく、道路も規則的に出来ており、表示も正確なので、自由に歩く事が出来る。歩いていると思わぬ事に出会う。旧市街Gamla Stanから国会議事堂を通って通じているDrottoninggatanは両側に土産物屋はレストランの多い賑やかな通りである。この西側の外れを歩いていると、路上に並べられたテーブルに座っていた男女が写真を撮っていた。僕が通りかかると女性が僕を招き一緒に写真を撮りたいと言い、先ず僕の了承を取り付け、其の後連れの男性に写すように言った。こんな事はSwedenでは初めてであるので、僕も自分のカメラを渡し、その男性に彼女との写真を撮ってもらった。エジプトやトルコでは一緒に写真を撮ることは珍しい事ではないが、Swedenでは初めてであった。彼等がSweden人か如何かを確かめなかったのは残念である。


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平成23年6月27日掲載

11.05.28 Stockholm Marathon
11.06.22・大森

 1〜2年ほど前からSwedenでも100キロ及びマラソンを各々10回走って見たいと思うようになった。僕は最初からある数値を目標として行動を起こす事は先ず無い。遣っている内に何と無く、ある数値が出てくるのである。Comradesの10回完走も、アメリカでのマラソン10回もその様な流れの中で自然に出来たことなのである。

Swedenでのマラソン10回には後2回あり、100キロは1回である。どちらもこの夏に達成して置きたいのでその様な予定を組んだ。5月の28日はStockholmを走り、其の後有田さんの誘いもありフランス南部Cote d’AzurAntibesで6日間走を走り、6月11日に再度Swedenに戻りSalaでマラソンを走る予定の足の手配を完了していた。Salaのマラソンは中止となり、この夏にはマラソン10回の達成はなくなった。100キロは7月の1日にLaplandを走れば取り敢えずの目標は完了する事になる。此れに向けては、この28日に再び彼の地に向かう。

1987年のヴィンデル河畔駅伝のマラソン区間を最初に走ったのを皮切りに、此処では合わせて4回走っている。それにStockholmが同じく4回、今度が5度目である。

レースの前々夜、LaplandであったSeanの家に着き、翌日一緒に受付会場に行き、番号を貰う。12221と覚えやすい番号だ。Seanの妻のNinaもこのレースを走る。彼女は40そこそこで在ろうか、4時間を目指すという。

前日までのレース当日の天気予報は雨となっていたが、当日朝の予報では雨は降らないと成っており、幾らか改善されたたようだ。この時期雨が降れば可也寒くなる筈だ。降らない事になったので一安心である。

28日10時Ninaと共に公共機関を乗り継いで、出走地点の競技場に向かう。Seanは後ほど末っ子を連れ、途中とFinish地点の競技場で応援をするという。

この日一日Runnersは市内の全ての公共交通を無料で利用する事が出来る。荷物を預けている間にNinaと逸れてしまう。16000人を越える参加者は2回に分けて走り出す。僕は当然10分遅れの後発組みだ。出走地点に15分前に並んで、スタートを待つ。上空にはヘリコプターが2機轟音を撒き散らして旋回している。空はどんより、雨が落ちだしても不思議ではない雰囲気である。予報気温は15〜6度となっており、余り早くないランナーに取っては良い条件であろう。長袖のシャツと短パン姿で走る事にしている。

レースのスタートは11時半、2派に分けて広い道路を走るので、混雑はなくスンナリと走り出す事が出来た。 競技場の東の道路を南に向かい走り出し、直ぐに東に向かう。日本の大使館もあるOestermalmの東の端を通り時計方向に回りながら市の中心街に向かう。曇天ではあるが、多くの市民の応援は何時もと変わりない。切れ目の無い人垣が続く首都のレースである。王宮を過ぎ、水門を意味するSlussenの手前で5キロである。真水と海水の水位を調整し、船の交通を容易にする施設が今でも使われている。此処を過ぎると、Soedermalmという別の島の北岸を走る。左手には黄金色の3王冠を塔頂に抱くStockholm市庁舎が1キロほどの水面を隔てて見える。Stockholmは何時でも何処かで工事が行われている。其れは古い建物の改修であったり、新しい道路やトンネルなど将来に向けてのInfraの整備であったりする。此処で行われている工事はどうやら鉄道用のトンネルの掘削工事のようだ。岩盤にトンネルを掘り、列車を通そうとしているのだ。走路の左手の岸壁には沢山の船が係留されている。航海用の船の他に、レストランやホテルとして使かわれている船舶も多い。どれ二つも同じ物は無く、見ていて楽しくなる。

 略真っ直ぐな道を3キロほど走ると、橋に掛かる登りとなる。長くは無いが、コース上でここが一番傾斜がキツイ。鋭角に曲がって橋に乗れば傾斜は緩やかに成る。全長1キロ余りの
VaesterbronStockholm一番の大橋である。橋の中央には太鼓等を叩いている応援が出ている。橋から市の壮大な眺めが素晴らしい。橋を緩やかに降りて行くと市庁舎のある島Kungsholmenである。鋭角に曲がる所には略半裸の若い子たちのサンバの踊りがある。楽団も付いている。彼方此方にこうした生演奏の応援があるは結構楽しめる。暫し、島の南岸の緑地の中を走る。緑地に入るあたりが10キロである。暫く走ると緑地を離れ、右手は立派な建物が並び、左手は観光船などの港となっている大通りを市庁舎目指して走る。市庁舎の傍は左直ぐに右とクランク上の道路となっており、過去のレースではこの辺りで、カリフォルニアレーズンを配っていたが、今年は此処はCoca Colaのエードとなっており、道路に零れたコーラの糖分で靴がベタベタ張り付く状態が気に成った。市庁舎を過ぎると過去には直ぐに左におれ、島の北岸を西に進んでいたが、今夏は直進し本土に渡り、中央駅の前を通る新しいコースとなっていた。

市内の目抜き通りVasagatanを走るのである。応援の人の数も当然多い。Odengatanを通り、右折する手前が15キロである。この辺りで大を催す。場所を探すが中々見付からない。空いている店を探して飛び込もうとも思ったが、其れらしいものが無い。漸くして走路上に用意された当局の簡易トイレを探し飛び込む。

スッキリし2周目に入る。極大雑把に言えば、コースは変則2周コースで、1周目は16キロ、2周目は21キロである。全く2周とも同じ距離のコースを用意することも可能であろうが、こうすると、早い人がFinishする頃遅い人は1周目の終わり辺りでノロノロ走っている可能性があり、早い人にとっては邪魔になるかもしれないので、1周目は短く2周目を長くする事は理にかなっていよう。

2周目は1周目と同じ走路を2キロほど走った所で左折し、広大な草地の中を走る。テレヴィ塔の直ぐ傍も走り、昔王侯貴族がライオン等も離して居たと言う島、Djurgaardenを走り、再びOestermalmの海岸通りに合流する。この膨らみの部分が約5キロである。草原の緑、島には大木もあり全周緑の中を気持ち良く走れる。

王宮のある旧市街Gamal Stanを過ぎると残りは12キロと成る。大橋を渡り、サンバの踊りの応援を受けと、残りは7キロ。気象条件が良かった事もあり、5時間未満で走れると思うようになる。駅前での大歓声をあとに只管Finishに向かう。前回までは40キロ辺りで生のニンジンを出して居たが、今回はこれもなくなっていた。馬にニンジンに文かって、人にもニンジン最後の踏ん張りをとの意図をもったと思われる、ここのニンジンが無くなったのは寂しい。マラソンでニンジンが出るのはここだけでもあった。レースはコースは元より、色々な面で徐々に変わって行くのであろう。********************************

最後の2キロは緩やかな登りであるが、余力をもって競技場に入る。赤茶色のアンツーカーをほぼ1周してFinishである。時間は暫くぶりで5時間を大幅にきる4.35位であろうか? メダルを貰い、競技場の外にでる。

流れに乗って進むと飲物や食べ物を出してくれる。ビールもでている。ホットドッグなども豊富にでている。空腹を満たし、衣類を受け取り、Seanの家に向かう。

その日の夕食はSeanの友人夫妻を招待して、夕食を友にした。料理はSeanが時間を掛けて作った特性のハンバーグであった。中々器用な男なのだ。

Leopoldとはレースの途中の何処かで会える事になっていたが、当日は会えなかった。後で電話があり、翌日11時に空港行きのバス乗り場で会うことにした。余り時間は無かったが、息子のHendrikとも会うことが出来た。

 

その帰りに王宮に立ち寄ると、思わぬ光景を見にする事が出来た。過去何十回もStockholmを訪れたが、一度も見た事の無い光景であった。20−30頭の馬に跨る騎馬儀礼兵の楽隊が整然と行進していたのである。馬の足並みを揃え、音楽を合わせるには余程の訓練が必要に違いない。

 Seanの家には前後何日か泊まった。中央駅から南に5〜6キロのAarstaの近くにある集合住宅で可也広い。子供は3,8,10歳と三人皆男の子であり、この内上の2人は前妻との子供で、僕が着いた日は其方に泊まりに行っていた。子供たちは夫々可也大きな個室を持っており、僕は次男のThomasの部屋を占有するようになった。兄弟は帰ってくると、兄のMartinの部屋で起居していた。

 

兄弟はトテモ仲がよく、末っ子のAlistairを可愛がっていた。この子の目下の気に入った遊びは海賊ごっこで、暇さえあれば兄弟や僕を巻き込んで海賊の真似をしていた。オームの泊まっている海賊帽子を被り、彼は海賊の船長であり、遊びの相手はカリブ風のバンダナを被った手下役を務めるのである。目下の所はAlistairが子の家では全てを取り仕切って居る様だ。

 Seanとは知り合ってから5-6年位であるが、彼を通してまたSwedenの新しい一面を見る事が出来た。離婚した前妻も傍に住んでおり、上の兄弟達は日を決めて其処に泊まりに行く。ある日の夕方、1キロほど離れた緑地に行き、バーベキューをしたが、其処には前妻も着ており、同じシートに座り肉を分け合って食べていた。Annaと自己紹介したその女性を、上の子達はママと呼び、現在の主たる育ての母親はNinaと読んでいた。この点西洋の言葉は便利である。

自分の親を敬称無しの名前で呼ぶ事は其れ程異常ではないのだ。Seanは元々Scotland の出身で17年前にSweden定住したという。Sean場合は離婚を乗り越え、家族生活は円満であるが、僕の知っているもう一人のScotland人は目下子供の養育権に関して泥沼の法廷闘争を2-3年続けている。離婚や家族生活に対する考えや法律は国や地域により大いに異なる様だ。


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皆さんの家「豊心庵」
平成23年3月7日掲載

11.02.27 Cowtown Marathon


 今年になってから慌てて決めたレースである。昨年は同じ頃Sequoiaの50KTrail Raceを走ったので、同じ様なTrail Raceが無いか当たって見たが見つからなかった。偶々、Fort Worthで50Kのレースがあるので、之に飛びついた訳である。

冬は航空運賃が安いので貧乏人の旅の季節であり、今年に入ってから4度目の旅行で、6万マイル近く乗っている。安い上に機内が空いており色々は特典が利用できる。昨年11月と、今年2月で三回渡米しているが、何れも国際線はBusinessクラス、国内線は一等全て込みで10万程なのだ。8月にも渡米を計画しているが、これは西海岸への国際線のみで、国内の移動は全く無くても、18−9万もするのだ。

Fort WorthDallasの西約100キロにあり、アメリカ最大の軍事基地の町だ。最近では基地の精神科の医師が乱射事件を起した町として覚えている人も居ると思うが、町を歩く限りでは軍隊の存在は目に付かない。広大な町なので基地は町から余程離れた所にあるのだろう。

町の歴史は150年ほど遡るに過ぎないが、今や全米17位、人口70万を超える都市であり20年後には120万を超える予測が出ている。元々は家畜の集散地であり、これがCowtown Marathonの元である。今回で36回を向かえる大会であり、土曜と日曜日に跨るレースへの参加者は14000人を越える。

土曜日に大会の受付に行った時には5キロと10キロのレースの最中であった。子供の部もあり老若男女入り乱れてFinishを目指していた。受付は町の真北にある文化地区のWill Rogers(無声映画から有声時代の俳優)Memorial Centerで行われ、明日のレースのStartFinishは此処となる。周りには大きな豚舎、羊舎、禽舎が各1棟、牛舎は3棟ある。其の大きさは半端では無い。  競などの時、今でも使われているものだ。これらは伝統産業の姿を示す文化と見ているのであろう。牛舎の一つでは蚤の市が開かれていたが、半分以上の空間は空いていた。別の一棟は何処でもあるMarathon Expoが開かれて居り、ここは略会場が一杯になっていた。大きな道路を隔てた反対側には巨大な科学歴史博物館もある。美術舘も傍にあるという。何人かの迷彩服を着た軍人の姿を見かけるたが、彼らも何らかの形でこのレースに拘わるのであろう。

受付の後、町の中心部に歩いて行く。巨大な高層ビルが建っているが、これらを美しいとは思えない。僕が美しいと思うのは、個性のある建築物であり、実用以外にゆとりを感じさせる建物である。これらは往々にして、宗教的建物、税金を注ぎ込んだ公共の建築物、大金持ちの住居などである。


 

 

町の中でその様なものを探して歩く。巨大ビルの中に挟まれてひっそりと佇んで居るそれらの建物こそ歴史的な存在なのだ。その様な建物も歩いている内に次々と見えて来て、写真に収める。Fort Worthの町は中心部こそ高層建築があるが、後は四方に果てし無く広がっている町だ。街中でも郊外でも建築面積と道路面積の比は何処の都市と比べても後者の比率が高い様に思える。

夕方前にホテルに電話を掛け、Shuttle Serviceを依頼しホテルに戻る。各自が車を持っている社会では公共交通機関は極めて限られている。アメリカでは高速道路でも一番外側は歩行が許されて居るようであるが、余り気持ちの良いものでは無い。出来る限り、車道は車で通った方が良いのだ。

翌27日Startは7時なので6時にTaxiを予約して置く。この時間にはShuttle Service は無いのだ。20分程で会場に着く。Tipも含め22ドル払う。

朝方ある程度の寒さを想定したが、T-shirtと短パンで寒さを感じ無い。緯度的には宮崎市よりやや北に位置するが大陸性の気候で寒暖の差は大きい。昨日は23−4度まで上がり、快晴であったが、今日は曇りで其れより3−4度低め予想だという。風も5−6メートルの予想で、走る条件は先ず先ずであろう。周りの人達の出で立ちも参考にし、このままで走る事に決め、持って来た衣類全てを預ける。場所は豚舎である。

7時15分前に出走地点に並ぶ。7時の出走であるが。一向に其の気配がない。音楽やら周りざわめきで400メートル程前では何が起こっているのかサッパリ分からない。基地の町であるのでスタートは大砲でも使うのかと思っていたがそうでは無いらしい。如何やらグループ毎の時差スタートのようだ。僕の属する最後のグループがスタートの計時マットを跨いだのは7時半ごろであった。最初はユックリ大勢のランナーが対向車線も含め4車線一杯になって走り出す。如何やらHalf,Full,50K入り乱れてのスタートのようで、ゼッケンの色の異なる人が多い。それに女性が多く、3分の1程はランナーとは思えない体型の人たちで、最初から歩いている人もいる。アメリカにはコンナ大会もあるのだ。後で知ったが、主催者側による足切りは全くなくHalfに5時間掛けてもいいのだ。

スタート後1マイルの先まで4車線の道を走り、その後やや狭くなるが、川沿いの公園の中の道を半マイル程走る。新芽の吹き出している木立の中を走るのは気持ちの良いものだ。其の先は疎らに建物のある市街の道路となる。極短い間隔で右に左に折れながらのコースであり、舗装の良くない所もある。この辺りの地形は若干の起伏はあるが概して平坦な土地で気にするほどの高低差は無い。一番傾斜のある所でも、1キロ当たり30メートル以下で、他の場所ではキロ当たり数メートルの起伏と思えば良い。 

 給水所は2−3マイル毎になり。水、スポーツドリンク、中程よりはバナナ、オレンジ、チュウブ入り炭水化物などがあり、贅沢を言わなければ脱水やガス欠になる心配はない。3−4マイルにかけては左側に墓地、川を渡ると公園があり、何れも広大なものだ。コースは大きな道路と交差するが、其処には何人かの警官が交通整理をしており、ランナー優先で車は警官の指示に従い1−2台ずつ通過が認められている。長い列が出来ているが、苛立った雰囲気は無く、車の中から手を振る人も多い。この辺りでT-shirtを脱ぎ上半身裸に成って走る。

 気温はそれほどでも無く、風もあるが蒸し暑いのだ。帽子も脱いで腰に挟む。先ほどから何人かが裸で走って居り、此方ではそれ程奇異な格好では無いらしく、女性警官などもウィンクを送ってくる始末だ。主催者も勿論何も言わない。ゼッケンは全く見えない状態に成っているが、チップで全てが管理出来ており、運営上問題となることが無いからであろう。此処で言うチップは厚手の紙テープに磁気印刷したものであろうか、これを靴紐に通し、両端を合わせると接着する様になっており、軽くて便利だ。

6−7マイルの間に19世紀の後半に作られ、今は観光の目玉となっている広大な家畜の集散地及び市場がある。此処がコースの北の外れとなり、後は南に向かって走る事になる。フルマラソンは大まかには、日本の本州の様な形をしたコースを、新潟から走り出し、日本海側沿いに北上し、青森から南下、下関を回って新潟まで戻ると考えると良い。この間重複する所は26マイル直前の数百メートルのみで、略完全なループと言えよう。50キロはこのコースの26マイル手前から北に向かう尻尾を付けた物と思えばよい。

7マイルの先からこのコースで最も長い直線コースがある。North Main Streetで略2キロ先まで見える。9マイル地点には橋がありやや上りと成っているが、正面に立派な建物が見えて来る。明日は是非此処に来ようと思って通り過ぎる。其の先約1マイルは町の目抜き通りを走り、10マイルの先でHalfは右に曲がって行き、急に人が少なくなる。彼等は後5キロで完走だ。Fullと50Kは左に曲がり更に約15マイル同じコースを走ることになる。

 この先も複雑に彼方此方で曲がりながら走り続ける。この広いTexasと言えどもこの先の直線コースは精々1キロ程度だ。色々の条件を考慮してコースを設定しているのであろう。住宅街に入っており、人々は庭の前に椅子やテーブルを出して寛ぎながら応援している。施設のエードを出している人も居る。これらの人にも、4000人と言われるボランテイィアや、交通整理の警官、全ての人に感謝だ。レースはランナーだけのものでは無いのだ。主催者、スタッフ、地域の方々に意義あるもので無ければ存続できるものではない。

16マイル辺りの右左は広々とした大学の敷地だ。この辺りでヤット50キロの中間地点であろうか。更に何回も方向を変えて走り続ける。これほど曲がりの多いレースは走ったことが無い。脇の下が汗で擦れてヒリヒリ仕出す。次のエードでワセリンを貰い塗りつける。19マイルを過ぎると右左が緑地帯のコースとなる。住宅も疎らと成り、道の曲がり方も直角や鋭角ではなく成る。地形に沿って、緩やかに曲がっている道の方が走り易い。22マイルから23マイルの先までは左側にゴルフ場が連なる。プレイしている人は少ない。其の先の橋を渡り、右手にTrinityTexasの東北部を源流としFort Worth/Dallas経てTexas州内を南東に流れMexico湾に注ぐ全長1140キロ)川を見ながら走る。日本にはこれほど長い川は無いが、川幅や水量を見るとそれほどの大河とは思われず、ゆったりと流れている。24マイルを過ぎると左側は公園となり、50キロの場合これが3キロ先まで続く。フルのランナーは途中で左折し、Finishに向かう。50キロは直進し川沿いに走り続ける。ランナーの数は極端に少なくなり(50Kの参加者は280名)あちこちに疎らに見えるだけである。見通しの良い川原なので、折り返して来るランナーも可也先から見える。すれ違いにWell done とかGood jobと声を掛け合う。

節目節目の通過点には計時マットがあり、何れ詳細が分かると思い時計は気にせず気楽に走って居るので爽快である。28マイルの先に折り返し点がある。後は5キロ程なので、気も楽になる。遠くに見える先を行くランナーを目標に走り続ける。可也離れて居ても追い付き、追い越せることがあるから不思議だ。痛みや疲れが出ているランナーはそう早くは走れないのだ。

尻尾の付け根まで戻って来ると、残りは後2キロ、公園を離れ一般道路に入るとやや上りと成る。Finishの歓声などが聞こえる様に成ると、不思議に元気になるものだ。アーチも見えて出し、大勢の人も見ているので全力でFinishを目指す。時計も見えてきた。6時間29分台だ。ゼッケンは付けて居ないが身なりから判断したか、大きな声で僕の名前とJapanと言う放送があった。直ぐに完走メダルを架けて呉れる。後は給水や食べる物の在る所に案内してもらう。バナナ、ヨーグルト、アイスクリームなどを袋に入れて渡して呉れたので、巨大な牛舎の中に積まれて居た食べ物の空き箱上に腰掛け、アイスクリームを食べる。外は風が吹いており、砂が飛んでいるので牛舎でも室内が良いのだ。その後完走T-shirtを貰う。参加賞は白の半袖のTShirtであったが、今度のは灰色の長袖であった。どちらも化繊で汗の吸収が少ないものである。因みに参加費は110ドル程であった。ホテルのShuttleを呼んで貰い、戻り、ゆっくりと風呂に浸かる。

横になり、テレビを見ながらうとうとしていると電話が鳴る。前もって連絡していたGregからで、1時間程でホテルに付くという。彼とは一昨年暮れのPatagoniaAdventure Runで20日近く同じ道を辿っている。Dallasの北の郊外に住んでいるので、ホテルまでは100キロ余りある筈だ。

彼が来るまでInternetで今日の結果をみる。

僕に関しては次の様な表記がある。

Gun Time:6.29.29

Chip Time6.12.15

10K :1.08.33

.Half:2.29.12    

30K:3.33.56

Full:5.08.32

11.59/Mile

Gun Timeとは日本では単に記録と呼んでいるもので、号砲がなった時点からの経過時間で、Chip Timeはネットタイムを意味する。それ以下の4つの数字は各々の地点の通過時点であり、最後はマイル辺りの所要時間で、辛うじて12分を切って走った事になる。

記録は総合、男女別、5歳ごとの年齢別の表示もある。更に面白いのは男女夫々にBig Personsと言う括りもある。Big Personsの定義は明確ではないが、恐らく背の高い人を指すのではなく、横幅のことでは無いかと推定している。

彼が来たので、夕飯は何にするか決めて呉れるように頼む。この辺の事情は彼の方が良く知って居るからだ。Mexico料理は如何かと言うので、良いねというと、車で暫く走る。兎に角街自体が広大なのだ。

テーブルに座り、メニューを見る。僕はChefのお勧め牛肉料理を選ぶ。本場Texas Beefかどうかは別として、アメリカではBeefが安いのだ。

 彼は何かカレー風の物を頼んだ。運転をするので酒類は取らない。飲み物はコーラと牛乳、至って健康的なものだ。只アメリカには本物の牛乳は無い。主菜の前にMexicoのカリカリトーモロコシ煎餅が山の様に出てくる。

 

 主菜が出てくると、これが又大きい。僕のものは大きな皿のほぼ真ん中に大きな牛肉料理、両脇にサラダとMexico風焼き飯、見ただけも食い切れる量ではない事が分かる。牛肉料理は薄いパン生地の上に牛肉に大量のチーズを絡めたもので、柔らかく美味であった。

食べながら、1年余りの間にお互いが何をしたか、又近い将来何をしたいかなどの話をする。Mexicoに面白いレースがあるので、何れ情報を流すとも言っていた。

 Gregは大柄なTexanであるが、流石に全部は食べきれず、3分の1程残した。僕は半分程も食べて居ないのでポリ箱に入れて持ち帰る事した。ホテルには冷蔵庫、電子レンジなどが備わって居り、外に行かなくても食事が出来るは有難い。

 彼が遠くから来てくれたので、夕食は僕が持つ。飲んで居ないので、チップ込みで30ドルと割安であった。

レースの前後

1週間程の間に全てを決めたレースである。只走るだけであれば、3-4日で十分であろうが、便の都合で2月22日発3月2日帰着と言う事になった。それ以外だと高くなるのだ。22日朝Los Angelesに付く。空港にはDevyが迎えに来ていた。彼はPeru,Chili,Argentina等のAdventure Tourを主催している男で、優れたRunnerでもある。Santa MonicaYouth Hostelまで送って呉れた後、夕食に迎えに来ると言って極傍にある自分の事務所兼塒に戻っていった。

 天気は頗る良く、暖かい。此処には以前も来た事がある。町は海面より30メートルほど高い平地に出来ている。略5盤面目の広い道路が通っており、迷い難い町だ。

Bluffを呼ばれる絶壁の下に広大な砂浜が延々と繋がる。 Bluffの直ぐ下にはPacific Cost Highwayが通っており、その先は白い浜となっている。砂浜の幅は3-400メートルもあり之が何キロも続く。Bluffの上は幅150メートル程の緑地帯になっており、其の内陸側にOcean通りがある。町は更にこの内側に広がる。海と平行する通りは海側から2番、3番通りと番号が付けられ、これに直行する通りはSanta Monica, Broadway,Colorado等の名前が付いている。Hostelは2番通りのSanta MonicaBroadwayの間にあり、海、食事、買い物など何かと便利な位置にある。綺麗で、共用空間も広い。これで一泊30ドル程度だ。

先ずBluffの上の緑地帯を北に向かって歩く。椰子やユウカリの大木が疎らに生えており、其の根元は芝で覆われている。海難救助の監視小屋が所々に配された砂浜の向こうに海が見える。砂浜の陸よりには舗装されたサイクリング道路が用意されて居り、自転車の人、走る人、ローラースケートの人、乳母車を押して走る人、セグウエーに乗った人などが小さく見える。

高台の崖から砂浜に降りる為の階段や高速道路を跨ぐ橋が何箇所かにあるが、気が付いた時には橋が無い所まで歩いており、仕方が無いので、一旦内陸よりの車道を歩き迂回して、浜に出ることを考え、歩き続ける。予想の通り、道路はPacific Cost Highwayに行き当たる。横断する方法は無いのか探っていると、地下道の表示に気が付く。狭く薄暗い地下道を入っていくと底部は水と成っている。潮位によっては水が入って来るらしい。取り敢えず靴を脱いでわたり、砂浜に出る。

足の乾くのを待って、砂を落とし、靴を履き直して、歩き続ける。砂浜の陸よりは幅100メートル程は舗装をしてあり、駐車場としている。長手方向にはこれが1キロほど続く。夏にはここは車で満杯になるのであろう。砂の土手には黄色やピンクの花が一面に咲いている。Californiaはもう春なのだ。

段々砂浜が狭くなり、サイクリング道路も行止まりとなる。其の先はレストランの大きな建物が立っている。前面の直ぐそばの海岸からはSanta Monicaの山並みが連なっている。

引き返して、サイクリング道路を歩く。遠くに突堤が見える。宿から僅か先のSanta Monicaの突堤で、一時間半ほどで着く。突堤の上面は全て木で作られている。突出ている長さは400-500メートル程であろうが、幅も途中まで其の位ある。大きな駐車上があり、遊園地も突堤の上にあるのだ。レストランや土産物屋も何軒も並んでいる。今は閑散期であろうが、何人かの大道芸人もいる。釣りをしている人も多い。其の為の洗い場や、餌の処理場も完備している。市民憩いの場なのだ。案内板を見ると、Colorado通りの外れにあるここがルート66の起点であり終点とある。こことChicagoを結ぶ3700キロあまりがRoute 66であったことは知らなかった。旧東海道と同じく、この道も今となっては部分的にしか当時の姿を残して居ない。

更に砂浜の中の道を南に向かって歩く。直ぐにMuscle Beachと言う看板が目に付く。筋肉海岸である。説明を読むと、ここが器具を使って筋肉の鍛錬を最初に始めた所だという。辺りには幾つかの其れらしい設備がある。

更に南に歩く。前方には左から右に飛行機が飛んでいる。Los Angeles空港から飛び立ったものだ。空港から見ればLos Angelesは南、Santa Monicaは北になるのだ。未だ行ったことは無いが、Beverly Hills HollywoodSanta Monicaの東にある。


 

 

暫く歩くとVenice Beachに出る。海岸沿いに沢山店がある。露店や大道芸人も多い。此処にもMuscle Beachの表示が出ており、色々な器具を置いたGymで鍛錬している人の姿も見られた。又海辺近くには本格的なスケートボード場が用意されており、沢山の人が楽しんでいた。僕が見たら極めて危ないスポーツだが、余り怪我はしないらしく、ヘルメットを被っている人は極めて少ない。女性も何人かは見かけたが、圧倒的に男が多い。こうやって、新しいスポーツにチャレンジし、新しい喜びを見つけ出して行くことは良いことだ。Californiaにはそれを助長する土壌があるようだ。

突堤ではここでも釣りをしている人が居り、偶々通り掛った時、可也大きな鰈を吊り上げた男が居た。家族で立派な夕食が出来る筈だ。

Devyが迎えに来て、食事の前に事務所を見て行かないか言うので、行ってみる。こじんまりした事務所で其の奥に生活空間が有ると言う。昼間は女性の事務員が居るが、夜は自分一人なのでこれで十分なのだと言う。ボードにはツアー参加者の名前が書いてある。原さんと一緒に9月にPeru,Chili,Boliviaのツアーに行くことにしていたが、申し込み10日後原さんが他界したので、彼の名前は消されていた。

宿の傍のMexican Restaurantに行き、薄い大きなTortillaに各々好みの具を載せて貰い食べる。此処はMexicoにも近く、Mexico系の人も多く住んでいるので本場のMexico料理を思っていいのであろうか?辛味やハーブの按配は中々のものであった。

明日のSanta Monica Mountainに走りに行こうといい、8時に向かいに来ると言う。彼はTrail Runが大好きで、何時も町の北側にあるWill Rogers State Parkに車で行き、山の中を走り回るのだと言う。

23日朝山に向かう。山と言っても精々4-500メートルの丘と思えば良い。よく整備された駐車場に車を止め、走り出す。カメラを片手に持ってユックリと自分のペースで走る。道は一本道なので迷う事は無いと言うので、安心してユックリ行ける。分からなくなれば戻れば良いのだ。山は低いが結構上り下りは険しい。Trailは50マイルに渡り続くそうだ。空気は綺麗で、トレーニングには絶好の場所だ。走っているも人も少なく、90分の間に会った人は2人のみであった。眺望の開けた所で写真を撮るが、昨日と異なり靄がかかり思わしく無い。Santa Monicaの町、其の遥か彼方にLos Angelesの高層ビルも微かに見えるが写真にはならない。下って行くと、道の真ん中に野兎の子が草を食べている。驚いて逃げる風も無い。

Devyが折り返して来るが見えるので、こちらも引き返す。町まで送ってもらい、夕食の約束をして分かれる。其の後は直ぐ傍の通りで開かれて居る百姓市に行く。アメリカの町では定期的に、町の道路や広場等を開放して、生産者と消費者が直接取引する機会と作っている所は多い。凡そ農産品は殆どそこで買える。野菜、果物、茸、蜂蜜、卵、肉,チーズ、ジャム、ソースやドレッシング類、パンや花などが売られて居り、賞味をし、納得すると買っていく。柑橘類などは種類が多く、酸味や甘味の気に入った物を買うことが出来る。何より、生産者の顔が見えるのが良いようだ。本来これが当たり前だ。並んでいる商品の形は不揃いであるが、買う側は余り気にして居ない様だ。多くの店ではOrganicの表示を出している。

其の後暫し昼寝をし、4時ごろから又海岸を歩き、其の後市庁舎やコンサートホールを見た後、3番通りにある300メートル程の歩行者天国を見て歩く。日本の赤提灯を沢山吊るしている店もある。店の外壁にはIzakaya Loungeと書かれている。又表に吊るしてある提灯には日本語で、寿司、ラーメン、酒,やきとりなどと書いてある。此れを読み、意味を解するアメリカ人は多くは無いであろうが、何と無く雰囲気は読み取れるのであろう。アメリカ、特にカリフォルニアは新しいものを受け入れる姿勢が強いように思う。

Devyの案内で菜食の店に行く。色々な野菜を自分で好きな様に取って食べる。

スープや肉料理もあり、バランスの良い食事の出来るところだ。理由は知らないが、55にして未だに独身の彼はそれなりに食事には気を付けているのだ。今日は僕が払うことになっており、請求書をみると20ドルと安い。アルコールを飲まなければこの程度で済むのだ。

明日はFort Worthに向かう日で、彼が空港まで送って呉れる事になり、正午に宿に来ることに成った。

Fort Worthに着いた時は薄暗くなっていた。此方の方が時差の関係で一時間早く日が暮れるからだ。勝手が分からない町なので、タクシーに乗り宿に向かう。35ドル払う。Shuttle Vanであればこの半分で住むかも知れない。

Dallas/Fort Worth 空港はDallasFort Worthの中間にあり、宿はFort Worthの中心街から更に西に位置している事が分かった。

何と無く疲れた感じがするので、其の日は直ぐに寝て、次の日もホテルの周辺を歩いただけであった。後はテレビを見ながら横に成っていた。テレビの話題は中東情勢、連邦議会での予算の攻防、公務員の雇用や社会保障に関する要求と州知事側と対立よるWisconsin州議事堂の立て篭もり等であった。連邦政府にしろ、Wisconsin州にしろ、予算が不足すると行政やサービスが完全に停止する厳しい現状にあるようだ。

26-27日に関してレースの項で既に述べて居る。

対米最後の28日は昨日通過した家畜取引所に行く。広いExchange Streetの両側に巨大な建物が並ぶ。高さは3階建てほどであるが、底面が途轍もなく大きな建物なのだ。19世紀の中ごろから約100年に渡り、家畜を保管したり、競をした建物群で、勿論2階や3階建てではなく、天井の高い建物なのである。今は歴史的遺産として保存し、又は他の目的に使ったりしている。此れだけの施設を維持保管するのは大変であろう。彼方此方にある説明書を読むと、ここで扱われた家畜の総数は牛及び羊が各々5千万頭、豚三千万等、平均すると年間百万頭以上の取引が成されたことになる。この他家禽の取引も成されたという。

当時のLive Stock Exchangeは今は事務所や博物館として使われている。この建物裏手に回ると、家畜の追い込み仕分け場として使われた木製の柵が残っている。上部から家畜を見るためであろうか、階段を登っていくと回廊がある。取引は此処で行われたらしい。柵の一部に牛がいる。20頭ほどだ。近付いて見て驚いた。角が異常に長いのだ。緩やかに螺旋を描いて横に真っ直ぐに伸びている。牛としては体は大きくないので、体長と両方の角の長さが略同じ位に見える。

後で調べてみると、Texas Longhornと呼ばれる種類で、Mexico北部の野生牛とヨーロッパ種の昆血の結果出来た亜種とある。角は片方だけでも1メートルにもなる。混血種であるので外見は雑多で色々な色の斑が見られる。今では余り多く飼われなくなったが、大きな角の割には性質は大人しく、乾燥地の粗食に耐えるので好んで飼われたのであろう。今では飼料や水の確保に様々な手段が講じられ、又肉質も今一なので市場用としては飼われなくなっている。一部の愛好家が飼ったり、保護地区に送ったりされている。此処にいる牛たちも観光用のものであり、日に2回Cowboys及びCowgirlsの指揮に従い、Exchange Streetを行進する役目を負うっている。このショウは往時或いは今でも牛をどの様に牧童たちが誘導したかを見せる為のものであり、先導する者、脇や後ろに付く者など、確立された誘導方を示す為のものでもある。偶々午前のShowを見ることが出来た。


 

 

 

勿論此処にはRodeo場がある。室内の立派なもので、今でも週の決まった日に行われている。其の他、牧童や取引関係者の為の飲食店、Saloon,ダンス場など色々な歓楽の設備が残っている。

観光案内所の前にはこの都市が姉妹提携している都市の名前が幾つか見られ、其の中の一つは長岡市であった。

此れで9日間の旅は明日の帰路のみとなった。費用は航空運賃10万、宿泊費3万5千円、食費一万円、タクシー代一万円、レース参加費、1万円、合計17万5千円ほどであった。飛んだ経路はNarita-Los Angeles-Dallas/Fort Worth-Denver-Seattle-Narita


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