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プログラム P-13 2014年版(平成26年編)

14.10.19-25  6日間走、Privas, France
14.06.27−28 Lapland 100K
14.05.31 Stockholm Marathon
Galapagos探訪(14.04.30−05.13)
印度雑感



平成26年11月16日掲載

14.10.19-25  6日間走、Privas, France


大会が行われるのはLyonとMarseilleの間にある小さな町Privasである。走りの序に若干の観光をすることが僕の旅の習わしと成って居る。出来る限り、異なる経路を組むことも心がけている。PrivasはLyonに近いので、Lyon−Tokyoの往復でも良いのであるが、帰りは  Marsielle経由の航空券を用意した。之は家内にも出来る限り見聞を広めて欲しいとの思いもあったが、当の家内は体力的に毎月海外に行くのを渋ったので、折角手配した航空券は取り消した。

10月16日夜10時過ぎの トルコ航空で、Istanbulに向かい、翌日早朝5時に着き、3時間の待ち合わせでLyonに向かう。この間Loungeで待つが、此処のLoungeは規模及びその内容に於いて世界一であろう。食の国トルコであり、飲み物、食べ物の種類は多く、注文に応じて調理してくれる。娯楽設備も多く、ポップコーン付の小映画館、テレビ連動のゴルフ練習機や、リモコン自動車の走行場もある。長い待ち合わせ時間がある場合には、完全個室の仮眠所も利用できる。

空港の設備は十分では無く、機への乗り降りは多くの場合バスで駐機場に向かい、其処でタラップを使い行われ、何かと不便ではある。Lyon行きのゲートに行ってみると、矢鱈と回教の人達が多い。之は独特な服装から容易に見てわかる事だ。搭乗券は成田で貰って行ったが、ゲートで別の券を渡される。随分前の席だ。乗って観るとビジネスクラスだ。機種名は覚えて居ないが、200人乗り程の小型の飛行機で、恐らく満員なので、後ろの方から席寄席を行い、上客を前の席に移させ、兎に角空席を無くして飛ぶことが航空会社の利益に連なる。この様にして本来払っていない席への移動をUp−gradeと呼んで、僕も年に1−2度対象になる。今回のこの処置は意外と有り難い物と成った。

Lyonまでの飛行時間は3時間弱であるが飛び立って1時間程経つと病人が出たのでSofiaに緊急着陸するとの案内がある。Sofiaはブルガリアの首都であり、町を歩いたことはあるが、空港に降りたことはない。その時は列車でギリシャから行った。空港は小さく小型のブルガリア航空のジェット機が数機、灰色の軍用機が数機見られるのみで、我が国の地方空港の感がある。

駐機してタラップが前後に掛けられたが、医者が乗り込む事も無く、病人を降ろす事もなく、延々と時が流れる。僕は病人が出て緊急着陸したのは此れが2度目である。数年前、NYに向かって居た時、カナダのWinnipegに着陸した。その時の対応は早く、程なくNYに向けて飛びたった。心臓発作の患者を降ろすと,すぐに飛び立った。手当ての結果一命は取り留めたの報もNYに着く前に案内があり、ホッとしたものだ。今回病人は後方のトイレの間の通路に寝かされた状態以外は何も分からない。回教徒の団体の一人の様で、シートが掛けられ昏睡状態の様である。この為後方2つのトイレは使用できず、前方の唯一つのトイレに長蛇の列が常時続いた。5−6時間後に病人は降ろされ、機は飛びたった。この長い間、狭いエコノミーの席では大変だったと思う。

Lyon着は11時の予定であったが、7時間遅れの夕方に成って居た。半日分の時間が消えてしまった訳で、楽しみにしていた午後の市内散策は出来なくなってしまった。空港からは電車が出ており、20分程で市内の鉄道の駅に着く。市電への乗りえはどこでするのか尋ねると、駅の構内を通り抜け、反対側の出口を出てから又訊く様にとの答えを得る。Lyonの駅は大きく、夕方のラッシュ時で混んでおり、通り抜けるのに5−6分かかる。外に出ると広場があり、ここも行き交う人の雑踏である。漸く市電の停車場に辿り着き、目的地行きのフォームで待つ。傍に有る券売機で、現地の人に訊きながら切符を買う。5つ目の停車場で降り、その先も尋ねながら町の中心部のHostelに着いた時は真っ暗に成って居た。

翌朝薄明るくなると、世界遺産に成って居る旧市街に向かう。先ず気付く事は道路が立派な事だ。歩道も広くゆったりと出来ている。其れに石造の素晴らしい建物が多い。広場も大きく立派だ。Rhone河を渡り、その先更のSaone河を渡り、丘の上に聳える大教会に向かう。可なり急な曲がった道を上って行く。早朝の町は車も少なく、歩いている人も少ない。時折走っている人の姿を見かける。

途中行き止まりと成り、戻って別の道を上り、漸く教会に達する。ローマ様式の古い教会であり、    Basilique Notre Dame de Fourviereと長たらしい名前が付いている。古い様式で作られているが、19世紀後半に再建されたもので、未だ新しい感じがする。此処からの    Lyonの眺めは素晴らしい。丁度朝日が昇る時間と成り、2つの川を挟んで佇むLyonの町が眼下に見える。遥か遠い山塊に漂う低い雲の中から陽が上りだす。教会の真下のSaone川の東側に細長く広がる街並みが旧市街で世界遺産と成って居る。石畳みの狭い道の両側の家は古く趣があるが、子細に見て歩く暇は無かった。町の起こりは此処からで、東はRhone川を超えて広がっている。

現在は50万弱の町であるLyonの歴史は古く、紀元前43年にローマ帝国がこの地を支配し、ガリア属州と呼ばれた現在の国を跨ぐ広範は地域の首都とした。其れは北西に流れるSaone川がRhone川とこの町の南で合流する交通の要衝であったからである。Rhone川は地中海に注いでおり、この川が物資の行き来の動脈であったからだ。以来2050年を超える現在まで栄え続け、現在は物流、金融の中心地としてFrance第二の都市圏と成って居る。19世紀には絹織物産業の中心地で、日本との関わりも深い。昨年世界遺産と成った富岡製糸場もLyon生糸産業技師の指導で建設が進められたものだ。

慌ただしい散策の後、宿に向かい荷物を持って駅に向かう。Lyon駅はかなり大きい。表示版を見て、乗り場フォームに行く。電車は既に入っている。駅員に行く先を確認して車内に入る。程々に混んでいるが、4人掛けの席の3つが空いているので其処に座る。先に乗って居たのは若者で向こうから話しかけて来たので話をする。Lyonの大学で勉強しているが、未だ専攻は決まって居ないという。週末にVa―lence Villeの実家に帰る所だ。この駅は僕も降りる駅だ。日本には興味があり、是非暇を見つけて訪れたいともいう。フランスは文化の国、異文化に興味がある様だ。

列車はRhone川に沿って南下し、1時間程で目的の駅に着く。途中に見える景色は農村で葡萄や果樹が盛んな様だ。川沿いの岡は白色の岩が剥き出しになって居る所が彼方此方に見える。ヨーロッパは隆起大地で殆どが石灰岩で出来ていることが分かる。鉄道は何回かRhone川を横切る。流れは緩やかで彼方此方に沢山の白鳥が見える。

Vallenceの駅に着き、左手に出るとバス乗り場がある。行くと有田さんが既に着いていた。暫く待つと、立派なバスが来る。路線バスであるが観光バスの様な座席と天井まで見える大きな窓が付いている。バスはここが始発では無く乗り込むと顔見知りのランナーが3−4人乗っており、挨拶をする。小さな川沿いを蛇行し、上り下りしながら走る。1時間足らずで、Privasの町に着く。予め、到着時間を知らせてあったので、大会当局の車が2台迎いに出ていた。

Privasの町は丘陵地帯にあり、6日間走の会場は町の中心部からやや離れた川の反対側にある。30分程で着く。主催者Gerardを始めStaff達がテントの設営などに忙しく作業中であった。  Runnerのテントは既に4棟完成しており、先ず寝場所の確保をする。大会本部に近い最初のテントの入り口付近に陣取る。出入りに便利な事が重要なのだ。

薄暗くなる前に持っている、パン、チーズ、リンゴ等を食べ夕食とし、早めに寝る。飛行中は殆ど寝付けず、今朝も早かったので、睡眠不足だ。只,この夜も何故か熟睡出来ず、朝を迎える。時差ボケの性かもしれない。

10月19日、夕方の4時にレースが始まる。其れまでは会場近辺の散策やコースの下見をしたり、寝転んでウトウトしながら時を過ごす。町の総合体育設備が会場となる。走路は小さな観客席が略南側にあり、東西に長い400メートルのグランドとその外側の保守管理道路であり、レース前に距離測定を行い公認されたもので、1周1025mである。グランドは正規の1周400mであろう。走路の内側は青々とした芝生でラグビーグランドと成って居る。走路は砂利で出来ており全天候用(En tout    cas,アンツーカー)では無い様だ。走路の形状はギリシャ文字のオメガーの両端がくっ付いて居るものと思えばいい。グランド第4コーナ−がオメガーの開口部でありそこから髭が左右に伸びグランドを囲み閉じた形を想像すると分かりやすい。グランドの第二コーナーには大きなアーチが立ち、最初の周回は其処からスタートし、直線部を走り第4コーナーから左に曲がり、外側の保守道路に入る。此処はダートで石の複雑な凸凹がある。グランドに沿ってその外周を大きく曲がり、直線部となる。この部分は古いコンクリート舗装が残っており、やや走りにくい。

アーチと横並びの位置に計時マットがあり、此処で時間、周回数の記録を取る。この計時マットから計時マットまでの距離が1025mであり、一周目は略1300mとなり、2周目以降は単純に周回毎に1025mを加算すればいい。計時マットを過ぎ直ぐに左手グランド寄りに飲み物食べ物の補給処がある。此処で略直角に右に曲る。角には周回数を示すスクリーンがあり、医療テントはその反対側にある。又参加者やその家族が食事を出来る大きなテントが何棟もたっている。直ぐに左に曲がり、又グランドに沿ったが円曲部と成る。

ランナーのテントはこの走路の外周部に4棟たっている。軈てグランドに沿った直線部を走り、スタンドの裏を通り第4コーナー部からグランドを略1周した所で左に鋭角に折れ、外周道路を走り計時マットまでが第一周目である。略平らで唯一の起伏はスタンドの裏で1−2mの高低差であろう。尚この部分は小石の道で横方向に傾斜が付いて居り走りにくい。走路を路面的に見ると、800m余りが砂利、各々100m程がコンクリート及びアスファルトと成って居る。走りやすいのは矢張りグラント内である。但し此処も砂利であるので、靴の覆いは必要であろう。コース内にはグランドと補修道路等の境目に3cm程の突起となっているパイプ状の物が横たわって居たり、突起した石、照明塔の基礎の突起部があるがこれらは蛍光塗料が塗られ、ランナーの転倒防止の細心の注意が払われている。ランナーは予め危険個所を認知し、其処を通過する際に特に注意する必要がある。

走路のさらに外側にはサブグランド、サッカー場、テニスコートや体育館の様な建物があり、市民の総合運動場と成っている様だ。

昨日我々がここに着いた時にはグランドの内外に可なりの数のCamping carやテントが立っていたが、昼過ぎには更に多く成って居た。個人用のテントはグランド内のラクビー場を除く、円曲部や保守道路の外側にもたてられている。天気は良く、簡易テーブル等を囲むレース前の家族団欒の姿が見られた。

フランスに向かう2−3日前に有田さんから電話があり、大会が行われるフランス南部は長雨で洪水と成って居る所もあり大会中も雨が続くとの電話があった。出発当日念の為Internetで当地の天気予報を見ると、期間中の雨の可能性は略無いことが分かり、安心する。予報は確実な物ではないが、最近では世界のどの地点の天気でも1週間先位までは可なり信頼できる予報を見ることが出来、便利な世の中に成ったと思う。只天気だけは未だ人が変える訳には行かないので、用意は最悪に備えてする必要がある。この為、滅多には無い事だが靴は2足もって行くことにした。濡れた靴で飛行機に乗るなどは考えたくもない。寝袋衣類も零度までは大丈夫なものを用意した。

定刻の16時ランナー約70、Walker20名余り、100人弱の人が一斉に動き出す。事前の参加者の名簿ではランナーだけでも110名余りであったが、40名ほどが都合で走れなくなった様だ。グランド内のアーチから走り出し、170−180m先で一旦グランドの外にでて、外周を回り、グランドに入りメインスタンドの前を過ぎコーナーに入ると参加者の国旗が南風に戦いでいる。大半はヨーロッパからであるが、メキシコ、ブラジル等16か国の旗がたなびいている。例年参加しているウルグアイからは来ていない。

後は淡々と走るだけだ。気温は15度以上あり、先ず先ずの条件だ。周回距離が短いので頻繁に早いランナーに抜かれるが、気にはならない。飽く迄も自分のペースで走れば良いのだ。ヨーロッパはレース終了日とその次の日の26日を境に冬時間に代わる。今は未だ夏時間なので、朝は遅く、その分夜も遅い。7時頃までは明るい。暗くなる前に照明が灯り、個人で電燈を持たずに走れる様だ。

完全に暗くなったが、今朝回った時に見た突起部の黄色い塗料は蛍光塗料では無い様だ。只危ない場所は確認してあるので、そこは注意するよう心掛ける。

初日の目標は60キロで10時間を予定する。日が変わった2時には眠りに着こうと思う。10時ごろに成ると風が強くなりだす。日が変わり、1時半に目標の60キロを走り、テントに戻るとほぼ同時に突風が吹き出し、雨も降りだす。テントは10人以上が楽に起居出来る大きさがあるが、5−6人しか利用していない。半数の人がテントに戻り、風に煽られるテントの抑えに掛ったが、テントの鉄支柱は簡単に動く。スッタフも駆けつけ、テントを車等と綱で固定する作業をする。雨は止んだが風の勢いは治まる気配は無く、テントのバタバタする音は大きく、出入り口のフラップが風で前後に動き、地面との摩擦音はさながら海岸間近で聞く波の音の様で、トテモ寝付ける状態では無い。フラップの動きを制限する為に内側に椅子や鉄製のテントの収納ケース、B150,W100,H60cm、重さ30Kg程の物を障壁として置くが、これ等は直ぐに大きな音と共に倒されて仕舞う。ウトウトとも出来ず5時前に又走り出す。一睡もしていない状態だ。

10周余りすると7時になり、未だ暗いが朝食の時間となる。此処の朝食はいとも粗末で、15cm程の長さに切ったバゲットにバター、ジャム、蜂蜜を塗った物を個人の好みの量、カフェオレかホットチョコレートそれにオレンジ ジュースである。之はこの先5日間全く同じであった。食事の後は歯を磨きながら歩いて一周する。之も日課と成る。8時近くに成ると漸く陽が上りだす。

風は相変わらず強く止む気配はない。只風の影響は追い風と向かい風の区間が略同じであるので、それ程大きいとは思えない。9時頃になると、熱くなる気配を感じるので長袖を脱いで、テンとの前の走路の柵に掛けて、走りだす。暫くすると曇り出し、又寒くなる。その後も天気は目まぐるしく変わり、着たり脱いだり、サングラスを掛けたり外したり、何回も繰り返す。その都度サングラスはテントの前の運動用具収納箱の上部から取ったり置いたりを繰り返したが、何回か目にはメガネは消えていた。フランスではこの様な事もあるのだ。競技場は町の施設であり、レース関係者以外にも若干の町の人達が出入りしていた。

 日中ランナーの邪魔に成らない様に2−3のStaffが走路上の石の突起をハンマーで叩き、沈め様としていた。少しでもランナーの安全をとの配慮が有り難い。これは主催者のGerardの基本的な考えで、彼はこの為なら身を厭わず自ら何でもする男で、この思いがStaffにも浸み込んで居るのであろう。今回が彼の主催するこの手のレースの9回目であるが、僕には4度目である。今回は一度決めた開催地の自治体の都合で,其処での開催が不可能と成となった。その後新たな開催地を探し、時期を何時もより1っ月余り遅らせての開催と成った。Gerardの熱意と執念で可能と成った大会である。

 風の強い状態は続き、昼ごろにはエードやその近辺の何棟かのテントが倒され、これ等の撤収や、新たなエードの設置に懸命であった。新なエードは柳井競技場と思われる大きな建物の風下に当たる所に移された。モニターのあるテントのすぐ先で、此処なら風の影響は少ないであろう。暫くすると計時をしているテントもアーチも倒され撤収された。暫くの間は一切のモニターは使えなくなったが、周回計測機能は働いており、夕方には全て正常な表示が出るようになった。何重にも対策を取っているのであろう。

この所1−2年の間は時々右膝前部に軽い痛みが出る事がある。これは出る時もあれば、マラソンの距離を走っても全くでない事もある。痛みは段々増す事は無く、其の内に消えてしまう事あり,訳の分からないものだ。今回は長丁場でも有るので、整形医から炎症と痛み緩和剤、それと併用する胃薬を貰って来ている。用心の為、2日目から服用を始める。1日3回であるが、朝夕の2回だけ呑むことにする。この服用の性であろうか、食欲が無くなり、胃に不快感を常時感じる様になった。午後からは全く食欲が無くなり、色々食べるものはあるが口にするものはスープのみと成った。膝の痛みは出たり引っ込んだりしており、悪くならないのは薬の性だと思う。痛み緩和を優先するか、食欲回復を優先するかは難しい選択である。

午後4時までの最初の1日で115キロを走る。その後夕食の7時までに15キロを積み上げ、今日の一日の終わりとすることにする。夕食には暖かい肉料理も出るが、これも大半は残し、ワイン2杯を飲んで終わる。テントに戻り,歯を磨く。風は昨夜と略同じで、相変わらず煩いので、テントの更に内部へ簡易ベッドを移し、横になる。熟睡は出来ず、ウトウトと時間を過ごし、4時前にテントを出て走り出す。芝には夜露がびっしりと付いて居り、又グランドの砂の表面も湿って走りやすい。

真剣に走る人は睡眠時間を切り詰めて、夜中も走路で頑張っている。僕は夜は寝るものと決めているので、朝に成って走り出す。もう少し寝る時間を短縮しないと距離を伸ばす事は不可能だが、その気には成れない。走り出して初めて抜いたり抜かれたりする人にはBon jourと声を掛ける。相手が挨拶を返してくるか如何かは相手側の問題だ。相手が返して来なくても気には成らない。此方は余所者、礼儀を尽くすに越したことはない。びっこを引いて歩いている男に追い付く。向こうは僕の名前を憶えているが、僕は如何しても思い出せない。30時間余りバツの悪い思いをしながら考え続けて来たが、今朝に成って初めて思い出せた。Laurantと言う名前に違いないと確信に近いものを感じたのだ。思い切って“お前の名前はLaurantだよね。”というと,“そうだ。”と返事が帰って来る。改めて人の記憶の仕組みの複雑さに驚く。一度記憶したものは完全に消えることは無く、1年以上取り出す必要が無かったものでも、時として取り出すことが出来るようだ。物忘れとは仕舞いこんだ物を取り出すことが出来ない状態なのではあるまいか。箪笥の中に確実にあるのだが、簡単には探し出せない状態ではないか?

風は相変わらず強く、旗は板で出来た看板の様に見える。只風向きは南寄りに代わっている。天気が変わる転機かも知れない。日が出ると間もなく、走路面の湿り気は無くなり、靴は埃だらけの状態になる。相変わらず食欲は無いが、走る意欲は失せて居ない。人間は空腹でもある程度は体内脂肪を使い走れるのだ。只これにも限界があり、何時か気力が失せ、走れなくなるであろう。其れがいつ来るかだ。其れまでは走り続けよう。

風は午後から治まるが、今日も天気の変化は激しく、気温の変化も大きく、着たり脱いだりが忙しい。丸2日が終わる4時までに200キロは行きたい。食欲は無く、胃がムカつく感じが終始あり、不快であるが何とは膝は悪化することなく前進できる。

走って居ると6日間独特の風景が見られる。昼過ぎに成ると小さな袋を背負って走る姿を散見する様になる。シアスタの時間で寝る前にシャワーを浴びる為に洗面用具、着替え等を持って、シャワーに向かい、またはそこから帰る人達である。シャワーは走路の途中のスタンドの中にあり,テントとシャワー間を単純に往復するのでなく、テント、シャワー、テントと移動することに依り、1キロ余計に積み上げることが出来るからだ。勿論、就寝時間は人により異なり、又気象条件によって違う。夜走り、気温の高い昼は寝ている人もいる。

何とか4時までに予定の200キロに達する。更に夕食までに15キロ走る。最後の周回を終わった後で、モニターをみる。モニターは2台あり1台目には上位40名、2台目にはそれ以下の順位の名前,周回数、距離などがでている。何か1部と2部、AクラスとBクラスの境目がそこにあるように思える。僕の名前は2台目の上の方に出ているが、明日の朝走り出す時にはズーット下の方に成って居るに違いない。夕食は半分程食べ、ワイン2杯飲んで寝ることにする。

風が治まり何とか今日は眠れそうだ。ウトウトしていると、日本語で“何時いらっしゃったんですか”という男の澄んだ声がハッキリと聞こえてくる。テントからそれほど遠い所では無い様だ。相手も居る筈であるが、その返事は聞こえない。こんな時間に、こんな所に有田さんと僕を除く日本人が居る筈がないと思い、テントを出て確かめたい気持ちが起こるが、実際はそのまま寝ていた。翌朝このことを有田さんに話すと、其れが幻聴なのだという。左も在らん。数日の睡眠不足と疲れの影響であろうか? 初めての体験であり、今でもその状況がアリアリと蘇る。

今日も4時には動き出す。気温が下がっており、5度ぐらいであろうか?上下長い物を重ね着して、走路を回る。700m程回った所で、足にチップが付いてない事に気付きラグビーグランドを横切り最短距離でテントに引き返す。芝生は夜露で濡れて居り、靴は忽ち濡れてしまうが、致し方ない。チップを付けて出直す。

朝方の気温低下による結露はテント内でも起こり、衣類や寝袋もかなりの湿気を持つ。略毎日、走路の鉄柵に掛け乾燥させる必要があった。

エードでコーヒーを飲み、焼きリンゴ食べる。他にも色々あるが、喰う気が起こらない。次いで、モニターを確認する。12−13位下がっている。日中何処まで巻き返す事が出来るか?

朝食前に15キロ走る。4時までの8時間で何処まで距離を伸ばせるか?ソロソロ疲れも出てくる。食欲は相変わらず無く、気分はわるい。足が動いているのが幸いだ。疲れているのは僕だけでは無い。有田さんも歩き出している。他のランナーも走る姿勢が変わってきている人が居る。体の前後左右の傾きが段々に大きく成って居るのだ。左前方に傾いている人が多いのは、何か人の体形上そうなっているのであろう。昨年まで元気に走っていた人も、極端に前傾姿勢で走っている。上体を45度以上前傾させ、丸で老人の様な走りをしている。背中が痛いのだそうだ。其れでも諦めることなく前を目指す姿は素晴らしい。どんな格好であれここに居られる人は幸せなのだ。昨年このレースであった人で、その後死んだ人も居ることを知る。Henry Gilautである。100Kmの最多完走世界記録を持つ男で昨年の大会では604回目を目指していたが強風で完走の目途が立たなくなると、棄権し帰って行った。彼には最初Laplandの大会であり、その後南極であっている。歳は僕とそう違わない筈だが、もう会えないと思うと残念である。命とは何とはかない物か?

この大会には何人かの身体に障害を持った人が参加している。例えば120−130キロはありそうな糖尿病の巨漢や、何キロもの装具を膝に付けている人、Laurantの様に装具は付けていないが膝に障害があり正常に歩けない人、等が歩きの部に出ている。又今回は僕より高齢者が4人ランナーとして参加している。最高齢は80歳だ。次いで77歳が一人、75歳は2人だ。障害があっても、高齢であってもこうした競技に参加しようとする意欲は称賛に値する。

 雲がやや多くなることもあるが、雨の心配は無さそうだ。気温も初日、2日目程には上がらず、汗をかかずに走る事が出来る。胃の調子は相変わらず悪く、気分も悪い。一日の走行中摂るのは若干のリンゴ、オレンジ、バナナ等、それにチョコレート、ビスケットであり、それにスープ3−4杯とコーヒ−である。スポーツドリンクは何種類もあるが、どれも口に合わない。今までこれ程、長期に余り食が進まなかった事はない。其れでも足は動いているので3日目のおわりには295キロ弱を踏むことが出来た。

更に夕食までに10キロ余りを積み上げる。初めて1台目のモニターの下の方に名前が出るようになった。夕食は大半を残し、ワイン2杯を飲み、今日の終わりとする。

翌23日朝も4時に起きる。走路に出ると芝生からは霧が上り、薄く地表を漂っている。芝生には夜露がびっしりと付いており、寒い。朝食まで黙々と走る。モニターを見ると2台目の中程迄順位が下がっている。夜寝ていた結果だ。日中何処まで挽回出来るだろうか?

昼過ぎに過去2度程走ったBrazil人のJeffが応援に来てくれた。彼はフランスに住んでいる。勿論僕だけの為ではないであろうが、何百キロも先から態々来てくれるのは有り難い。一周一緒に回ろうと伴奏をしてくれ、帰って行った。来年は又走るので再会を楽しみにしているとも言った。こうした友達が居ることは有り難い。又、Siteからは応援のメールを送ることが出来、それらは各々の郵便箱のなかに入れられている。僕は期待していなかったが、Jean−Claudeと言う男から励ましのメールが這入って居た。が、僕はその男の顔を思い出す事が出来ない。帰国したら感謝のメールを出したいものだ。

東洋からの遥々度々の参加でもあるので、スタッフ、ランナー、その家族からの個人的な応援は可なり多い。彼らも毎年来ており、小さい子供も名前を呼んで応援してくれる。彼らの成長は早く、年々背丈が伸び、確りした体格に変わって行く姿は頼もしい。又時としては地元の何人かの子供達が、スタンドに陣取り“Medames et Messieurs, Ale,Ale!”等と声を合わせての応援がある。おばさんもオッチャンも頑張れと言う意味だ。こうした子供達の自発的な応援も楽しい。

晴れたり曇ったりの天気で、風が吹くと寒いが、走るにはいい条件だ。丸4日経過の時点でモニターを見る。走行距離は余り伸びず、360キロである。1度だけ1台目のモニターに名前が載ったが、その後は僕も有田さんも第二モニターの常連に終始した。夕食までに370キロとし、今日の終わりとする。

 5日目24日も4時に起きる。芝生の露がキラキラと輝いており寒い。手先が冷たいので、薄手の手袋を使う。残る時間は36時間を切っており、ソロソロ最終到達距離が見えてくる。昨年は480キロ余りであったが、今年はどう考えても其処までは行かない。右膝の新たな障害、その悪化防止の為の炎症防止薬と胃薬の摂取による、食欲不振と気分の悪さを考えれば、460キロ辺りが妥当な線ではあるまいか?この様に限界は自らが作る物なのだ。少し、緩めで、到達可能な目標を作ってしまうのだ。この方が高い目標を掲げて、結果的にはそれを大きく下回るよりは、精神的な落ち込みが少ない様な気がする。老体は余り鞭打たず、長続きさせる方が良い様に思う。

410キロを超えた3時頃、右膝の痛みが増してきた。気力も失せはじめ、病人が歩くようにユックリ一回りする。指に肉刺も出来たので救急所に行き見てもらう。毎年この大会に来ている顔馴染みの医者が親身に手当てをして呉れる。症状を説明すると、テーピングをして呉れ、之で走って様子を見ろと言う。走路に戻り動いてみると嘘の様に痛みが出ない。気を取り直し、又走り出す。3時間程経つと又元の様に痛くなる。鎮痛剤で誤魔化すしかないと思い、その旨を医者に話す。鎮痛剤の副作用は無いかとの質問の後、薬を出し、2錠か4錠どちらが良いかと聞くので取り敢えず2錠飲むことにする。この様に誤魔化しながら夕食までに430キロを走る。

25日最終日やや遅く起きる。残す時間は11時間を切っている。ユックリと歩いても460キロには達するとの見通しが立つ。昨日に続き今日も穏やかでいい天気である。最後であるので膝の悪化も左程気に成らず、今朝からは消炎剤服用を止める。此処の最後の晩餐はパエリヤである。之を食べ、美味しくワインを飲んで終わる事が大事で、膝は多少痛くなってもユックリ歩けば良いだけの話で、目標の距離に多少届かなくても諦めはつく。終日歩調の会う人と、話しながら歩く。殆ど毎年来ているLaurantは左足が悪く、終始歩いていた。彼は昨年東洋系の小柄な女性と一緒であったが、彼女はMalaysia人で、来年1月のMalaysia24時間走を走るという。お前も来ないかと誘いを入れてくる。1−2月には既に予定があるので、来年は無理だと答える。昔ペナンマラソンを走った事を話す。左の足に何キロもある装具を付け、膝を殆ど曲げずに歩いているPatrickとも一緒に歩く。毎年出ているので顔見知りであるが、英語は殆ど話さないので、話は出来ないが、それでも暫く一緒に歩く。歩きは結構速い。75歳のChristianとは初めて会い、彼も英語は出来ないが、時々一緒に歩く。彼はこの大会で75歳の新記録を達成している。同じ75歳のJeanは何回もあっている。彼も英語は出来ないが、略同年齢でもありお互いに親近感を持っており、一緒にあるく。この他、Spain,Czeckから歩きの部で毎年参加している連中とも話しながら歩く。

相変わらず気分は良くならず、朝からスープ以外は殆ど摂って居ない。2時ごろスープを要求するともう無いと言うので、その後は何も食べずに歩き続ける。3時に460キロを超える。後は気楽にいけば良い。最後の30分を切ると、番号の入った木札を持って走る。多くの人は最後の力を出し切って、懸命に距離を伸ばそうと頑張っているが、僕にはその気が無い。木札を貰い、自分のテントの前で競技を終え、木札をチップと一緒に路上に置く。終了10分前であった。テントからカメラを持ち出し、逆回りで写真を撮りながら、計測所や本部の方に行く。

大会の終了を告げる号砲が鳴り、本部周辺ではお祝い気分の人達で一杯である。主催者のGerardや連れのMarie等と写真に納まり、テントに戻る。

 

シャワーを浴び、表彰式やそれに続く晩餐会に備えて、身支度をする。日が暮れると寒くなるので、防寒対策も確りとし式に臨む。女性男性上位から順に呼ばれ、入賞者にはトロフィーや副賞が渡される。年齢別や歩きの部の表彰もあり、100人近くの参加者全員に完走証を渡すのに1時間余りかかる。此処の完走メダルは特大である。今年は何時もより径はやや小さいが、ずっしりと重たい。1キロ程ある感じだ。

その後パエリヤパーテーが始まる。パエリアは仕出し職人が直径1m余りの平鍋二つを使い野外で作った物を盛り付けてくれる。自分の分を持って、テントの中へ行くと、奥の方で手招きする男が居るので、行ってみる。横に座るといきなり、日本に行きたいが金が無いので招待しろと言うでは無いか。何と図々しい事か。外国に行くとこの手の人間もいることは知っていたが、ランナーでこの様な図々しいのは初めてだ。気軽に声を掛けたり、近づいてくる人間には用心した方が良い。多くの場合良からぬ魂胆をもった奴らだ。言葉が分からない振りをして無視する。折角のパエリヤも台無しだ。其れでも残すことなく全部食べる事が出来た。多くの人は御代わりしていた。ワインを三杯飲んでテントに引き上げる。

26日、日曜日の朝だ。ユックリ眠り、薄明るくなってから起きた。ヨーロッパは今朝の0時を境に冬時間となり、朝が1時間遅くなり、その分昨日の同じ時間より明るい。9時にPrivasのバス乗り場に車がでるので、それに合わせて荷造りをする。周りを見ると昨夜の内に帰った車もあり、又残っている人達も夜露に濡れたテントを畳み準備に忙しい。

周りに残っている人達に挨拶をして、バス乗り場に向かう。バス停ではやや待ち時間が有るので荷物の番を頼み、重い足を引き摺って坂の町の散策をする。小さな町ではあるが、県庁所在地であるので、其れなりの官庁の建物が立っている。丘の上の広場からは昨日までの会場が小さく見える。小さな丘に囲まれた緑豊かな体育施設だ。来年もここで遣るのだろうか?

バスはValenceのTGVの駅に着く。表示版を見るとMarseille行きは直ぐに来ることが分かるが、之には間に合わない。有田さんとはここで分かれる。次の電車は3時間以上ない。之ではTGVでは無く在来線の往路で着いた駅に出た方が良かったのではないか? 今と成っては手遅れである。切符を買い、何もない駅でウトウトしながら、3時間を潰す。このお蔭で、Marseilleに着いたのは夕方であった。TGVの駅からは更に地下鉄で宿に向かう。ヤットの事で切符を買い、改札を入った所で肝心の行く先を書いた紙を失ったことに気が付く。之ではこの先動きようがない。ホテルの所在地が全く分からないのだ。一旦改札を出て、紛失した紙を券売機の周りで探す。ややあって、少し離れたゴミ箱の上に紙が乗って居るのに気づき、行ってみる。

折り畳んだA4の紙2枚があるではないか?これに全ての旅程、便名等が書いてあるのだ。見つかって良かった。ゴミ為に入れられてしまったら、どうなった事やら。今考えても恐ろしい。改札の駅員に事情を話し、切符の磁気情報を訂正してもらい宿に向かう。

Valenceでの3時間の損失で、今日の町の散策は諦めざるをない。日曜日なので、開いている店は少なく、Kebabの店を見つけ、其処で夕食し、直ぐに就寝する。

Marseilleは昨年も来ており大半は見ているので、他の都市でも良かった。此処を選んだのは家内が来ることを前提としたからであった。宿は町の中心部を選び、世界遺産と成って居る古い港町にも近い。宿から歩いて行ってみる。港には何時もの通り、小さな漁船が入ってきており、岸壁の各々のスタンドで魚を売っている。幅1.5 x 縦1.0、深さ0.1m程のプラスチックの容器に水を張り色々な未だ生きて居る魚を売っている。量は多くないが、魚種は豊富だ。色々な新鮮な魚を賞味出来るのは港町住民の特権だ。街路樹のある大きな通りでは市が開かれており、衣類、ガラクタ、野菜果物等の露店が延々と並んでいる。これ等の店は移民が開いており、フランス人とは変わった顔付の人が多い。小さな湾の町を一回りし、宿に戻り、荷物を持って空港に向かう。

昼ごろに空港に着き、チェックインする。小さな空港で手続きは短時間で済んだ。Loungeを探すと、手荷物検査場の直ぐ傍に有った。戸が閉まっており中は見えない。誰も居ない様だ。入り口の傍に磁気の読み取り機らしいものがあるので、切符を翳して見ると戸が開き、中に入る。中にも誰も居ない。

Loungeは40−50人程しか入らない小さなもので、食べ物飲み物は全て容器に入っており、出来合いの物ばかりである。リンゴ、バナナ等は剥き出しで籠に這入っている。ポテトチップ、ピーナッツ、クラッカー等を食べながら小瓶に入った赤ワインを飲む。コンナに小さく誰も居ないLoungeは初めてだ。小1時間程するともう一人の客が入って来た。その後、掛りと思わる男が現れ、搭乗券の提示を求め、一瞥の後何も言わずに返してよこした。結局此処で僕が会ったのはこの2人のみであった。

2時50分発の飛行機は30分程遅れて飛び立つ。Istambulの待ち合わせ時間は6時間あるので、多少の遅れはむしろ都合がいい。19時過ぎに到着し、東京行きの便は翌日零時50分である。先ず、先にも述べた巨大なLoungeに行き、シャワーを浴び、その後若干飲んだり食べたりした後、専用の個室で一眠りする。

12時に起こして貰い、ゲートに向かう。帰りの便は順調であった。

旅の費用(14.10.16−28、10泊12日)
航空運賃18,5万、大会参加費4万、現地交通費0.7万、宿泊及び食事代
1万、合計24,2万円


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平成26年7月7日掲載

14.06.27−28 Lapland 100K


6月25日夕方にThai AirでBankokに向かう。3時間程の待ち合わせで翌朝1時の便で、Stockholmは同7時に着く。国内線のターミナルに移り、4時間程待って最終目的地Skellefteaaに着いたのは11時半であった。Su− sanが迎えに出ており、直ぐにTomasの家に向かう。

40分程で着くと、眠気がするので直ぐに寝てしまう。夕方起きると、Tomasも帰ってきており、海の見えるベランダで孫のJulieと4人で夕食をする。夕食の後は未だ陽は高いが又直ぐ寝る。

翌27日はレースの日である。11時少し前にTomasに町の中央バス停まで送って貰い、11時20分のバスでMalaaの町に向かう。150Km程内陸の町で、バスは主要道ではない田舎道を走る。田舎道とはいえSwedenの道路は良く、制限速度は70−90である。

針葉樹の森の中を延々と走る。湖が彼方此方にあり、綺麗だ。途中何頭かトナカイの群れに出会う。どれも大きい個体で、未だ冬毛から変わり切って居ない白色をしている。途中何キロか工事中の悪路を通り、2−3か所で停まり、終点には定刻の2時半前に着く。此処からは1時間の待ち合わせで、レース会場のAdakへのバスがあるがStock―holmから先に着いているSeanとKristerが程なくレンタカーで迎えに来た。

3時にAdakに着き、Seanのテントで横に成る。5時半にSeanが起こしに来て、日本人がきているという。受付に行ってみると、背の高い日本人風の男がいる。話してみると、Denmarkに暫く住んで居るという若者であった。6時にレースが始まり、その後は話す機会は無かった。

Kristerは同じ6時のスタートで、Seanは10時のスタートだ。スタートで分かれると、どちらともレース後まで会うことは無かった。昨年Kristerはレースには出なかったが一緒に来ており、レースのコースは車で走っている。100キロは初めてなので初めはユックリ走ると言っており、可なり慎重だ。40人程が走り出したが、5キロ程走った所では10人余りが先に行った。毎年、半分程は顔ぶれが変わり、レースのペースは一定ではない。ある年はマラソンまでの距離を目指す人が多く、その時はペースが上がる。今年は全体に遅い気がする。

6キロの手前から砂利道に成る。つい最近砂利を敷いたばかりで極めて走りにくい。道幅は10m以上あり、これに全面的に新しい砂利を敷いての本格補修である。表面の砕石は1−2cm程の物が多いが、その下何センチかはより大きな砕石が敷かれている。

全体的に10cm程厚さに砕石が敷かれ、石が動き走りにくいのだ。木材運搬用の森林道路で、この敷石の上を大型のトラックが行き来している内に砕石が砂利やさらに細かい土状になり、砂利道は舗装道路と遜色ない良好な道路と成る様だが、それに要する時間はどの程度なのか?何れにせよ、何年に一回かはこうした大補修が行われる。幸い今年は砂や小石の対策は万全な為、これ等が靴に這入る心配は無い。ザクザクと言う音を聞きながら無心に走ればいい。

走り出して3キロまでは小雨が降っていた。この為、長袖Tシャツ、長ズボンの上にポンチョを来て走っていたが、10キロ辺りでやや汗もかきだしたので、ポンチョを腰に巻いて走る。気温は11−12度の様だ。予報によると、日の変わる頃は5−6度になる。手袋をしていないので、手は冷たく、指先は痺れ間隔が無く成って居る。

15キロ辺りからは前には誰も見えなくなる。距離が離れすぎたのだ。後ろからの声も聞こえないので、完全な一人旅である。延々と続く針葉樹の中を走る。エードは集落のある所に設置されており、5キロ弱毎にある。寒いので、焚火をしながら、集落の人達がテーブルに付いている。皆寒そうで、気の毒に思う。集落によっては子供も一緒になってランナーの面倒を見ている。

道の悪い所は30キロ辺りまで続く。その先は確り固まった古い砂利道と成る。補修後何年か立っているのであろうか、最初は下にあった大きな石が彼方此方に出ている。今度はこれ等の石の僅かな出っ張りに気を付けて走らなければ成らない。躓けば転倒の恐れがある。こうしたて砂利道の経年変化を捕え、計画的にある区間を全面補修するのであろう。今走って居る所も2−3年の間に砕石の敷き直しをするのかも知れない。

真夜中12時過ぎにマラソンの距離を通り過ぎる。マラソンの距離に6時間強を要したことになる。空には未だ明るい所があるが、今頃が一番暗い時間だ。45キロ過ぎで、男女の2人連れに追い付き追い抜く。この辺りから砂利道の路面が極めて良くなる。非常に平らであるが、舗装道路の様に固くない。何キロでもこの様な道が続けば良いと思う程、走りやすい道だ。

真夜中を過ぎたエードでは焚火をして待っている。風があり寒く、今年は何時になく蚊が少ない。エードでは今年で何回目だと聞く人も居るが、10回以上は来ているとしか答えようが無い。帰ったら調べてみよう。又、娘と一緒に写真を撮らせて欲しいと言う御夫人もいた。12−3歳の少女と一緒に写真に納まる。ここでは僕は珍獣としての希少価値があるのだ。スタッフの人達も彼方此方で僕の写真を撮っていた。何年も来ていても珍しいのであろう。いや、何年も来ているので珍しいのかも知れない。奇人扱いなのかもしれない。

50キロを過ぎた所でも一人追い抜く。50キロは7時間半弱で通過する。このまま行けばFinishは15時間強と成る筈だ。昨年はこの辺りで4時間遅れでスタートした先頭ランナーに抜かれたが、今年は未だである。

57キロ過ぎのエードで2人のランナーを後にする。此処からは舗装道路になり、前方に3人のランナーが見える。先頭ランナーが追い抜いて行く。前のランナーの一人に追い付く。女性のランナーであった。前には未だ2人のランナーが見えるが、焦って追いかける必要は無い。この距離で背中が見えてくれば、此方が今まで通りに走って居れば程なく追い付く筈である。

63キロでSkellefte川の橋を渡る。急流で音を立てて流れている。その先1キロ程に小さなエードがあり、此処で見えていた2人組に追い付き先に行く。遅く走り出したランナーにはぼつぼつ抜かれる様になる。左に曲がり、内陸縦断道45号線のガードを潜ると残りは35キロとなる。風は向かい風となり寒い。5時を過ぎ、陽がもう少し高くなれば、暖かくなることを期待して走り続ける。2時間程走るが、暖かく成らないので、遂に腰のポンデョを着ることにする。10時に走り出したランナーが5キロ毎に1−2人抜いて行く。90キロの手前で同じ時間に走り出したランナー2人を後にする。6時に走り出したランナーはもうこの先には居ないと思われる。

この後後から走り出したランナー一人に抜かれ、そのままFinishする。Fi―  nishの手前でポンチョを脱ぐ。着ていると番号が見えず、計時を間違う可能性があるからだ。
後で完走証を貰うと15.19.38とあり、これはこの4年間余り変わりがない。
直ぐにテントに行くと、中にSeanが寝ている。30キロの手前で気が続かなくなり、リタイヤーしたと言う。昨年は同じような距離で痙攣を越しリタイヤーしている。完走の為には、何か別な練習が必要な様だ。

レース後はシャワーを浴び、マッサ−ジをして貰った後昼食を摂る。地元の人達が、廃校となった小学校の施設を使って色々な料理を作って呉れる。ランナーや地元の人々皆で食べる。今年から値段が上がったが1500円程なったが、好きなだけ食べることが出来、割安感がある。

2年程前から恒例の表彰式は無くなり、夕方迄Adakに居る必要は無くなった。食事の後早く環境の良いTomasの小屋に戻ろうと思い同じ方向に行く車を探す。Seanが程なく男を連れてきて、この男が乗せてくれると言った。35−6と思えるその男は大柄で、腕に一面の入れ墨、唇、鼻等には装飾穴が幾つか見える。普段ならば余り関わりあいたく無い人相であるが、えり好みしている場合ではない。KristerのFini―sh見届けると直ぐにSkellefteaaに向かう。Adakには丸1日に満たない滞在であった。

 車中で話をしてみると、毛嫌いする様な男ではないことが分かる。オスロで育ったノルウェー人で、Swedenから出稼ぎに来ていたこの地出身の女性と結婚し、彼女の望みもあり、Swedenの片田舎で暮らす様になり8年に成るという。初めて長い距離を走ったが35キロの悪路で多くの肉刺を作り敢無くリタイヤー、来年も又挑戦したいと言っていた。

NorwayとSwedenの生活の違いの大きいのは車の使い方だと言う。この辺りでは2−300キロであれば車で厭わず行き来するが、Norwayでは50キロを超える移動は余りしないと言う。これは道路事情と集落の位置関係が大いに違うからであろう。Swedenは平地、Norwayは起伏が多く、地形が複雑なことが、その原因であろう。

別れ際にガソリンスタンドで満タンにし代金は僕が払うと言ったが、そう回り道では無いのでその必要は無いと、受け入れない。その代りにアイスクリームが食べたいと子供みたいな事を云う。現金は余り無いが、最後の100クローネ札(約1700)を渡す。

バス停にはTomasが迎えに出ており、直ぐに彼の家に行く。その後直ぐ、夕食抜きで寝てしまう。
朝起きるとAnnaとLinusが来ており、総勢6人で朝食を摂る。Anna夫妻は昨年10月来日し、忙しい旅ではあったが僕の小屋に泊まり、翌日黄葉の裏磐梯、若松城等を回り温泉にも入って行った。その時以来の再会である。

日曜日であり、天気も良いので入り口に牽引車に載せてあるボートを今年初めて海に降ろし、皆で舟遊びをしようと言う。ボートのカバーを取り、電動ブラッシュで磨いたり、圧力洗浄をした後、ボートを引っ張り、港に向かう。

 

40分程で港に着き、車をバックさせボート牽引車を水に浸かる位置まで進め、ボートを解除して、海に浮かべる。桟橋にボートを付け、乗り込みSkellefte川を遡って行く。Norway国境に源を発する大きな川で、昨日走ったLapland 100キロはこの上流の人造湖の周りで行われた。直ぐ現れた橋の下を潜り、10分程すると又橋が見える。この橋は堰の上に作られており、堰の高さは訳3m、この落差を利用し、水力発電が行われている。3mの落差を超えて上流に進には向かって右側にある水門を利用する。激しい逆流に抗して船は水門に這入って行く。水門は幅4m、長さ12mあり、その中で船を固定し、Tomasは階段を上り、水門の制御室に上がって行く。軈て下流の水門が閉まり、上流の水門が開くと船は徐々に高さを上げていく。上流の水位と同じ高さに成ると船を進めることが出来る。丁度その時下流に向かうボートが待っており、そのまま水門に這入ればいい。この船は上流の水門を閉め、下流の水門を開け、船の位置を下流の水位まで下げ航行を続ける。之が水門の作動原理で、水門の開閉は電動で、橋の上にある制御室で行う。船の運航者はこれら一連の操作を身に付けて居なければならない。

更に上って行く。川の両岸には立派な住宅が建ち、その船着場には大小のボートが見られる。Tomasはこの辺りが自分の遊び場だったと懐かしそうに話す。向かって右側川の左岸に家があったそうだ。この川で手漕ぎのボートを操り、鱒等を取っていたという。

次の橋を潜ると川の中程に噴水が見える。その右手には市庁舎がありその裏の川岸には沢山の人が出ている。この辺り一帯はこの週末夏祭りが行われており、人が多いのだ。

 

次の橋を渡ると、大きな教会が見えてくる。Skellefteaaの中でも特に立派な教会で其の傍には中世よりの教会村がある。この辺りは川幅が広く、幾つかの島があり、流れは緩やかだ。岸辺には水鳥が泳いでおあり、又多くの人がカヌーやボートを楽しんで居る。レストラン船も浮かんでいる。その上流にSweden最古の木橋がある。車が擦れ違い交通できる幅があり、現在も使われている。

此処で折り返し、帰路に着く。遊覧は終わり、全速力で下流に向かう。水門も無事通過し、更に高速で下って行くと、突然ガツンと言う音とショックでエンジンが止まる。浅瀬の岩に接した様だ。船外機を上げ、スクリューを観ると余り損傷は無い。エンジンを掛けると、何とか掛るが、出力が上がらない。船を諦めざるを得ないと判断し、Tomasはボートを櫂で岸に近づけロープで固定する。

土手をよじ登って上陸する。Tomasが電話でSusanと連絡を取り、迎えを要請する。Anna,Julie,それに僕は車の来る道路で待つことにする。TomasとLinusは何とかボートをモット下流まで移動させる為、戻って行った。

我々4人は下流にある娯楽施設で待つことにする。船着き場、レストラン、遊園地、それに夏場はガラクタ市の立つ所で何回か来たことのある所だ。待つこと暫し、ヤットそれらしい影が見えてくる。如何やら曳航されている様だ。引いてきた船は綱を解き、上流に戻って行った。桟橋に船を固定し、Tomasが手短に経緯を話す。エンジンは掛り、最初は3ノット程で進めたが、直ぐに2ノットと遅くなり、遂にエンジン停止に至ったという。傍を通った船に曳航してもらえたのは幸いであった。

朝港に向かう途中、Tomasはこのボートも長い間使い、エンジンも無故障で調子が良いと言っていた矢先の事故である。今日の予定は川遊びの後、船でTomasの家まで行き、庭先の桟橋に係留させることであった。事が完了するまでは何があるかは分からない。この事故もあり、僕にとっては新しい経験が2つ出来た。一つは水位差のある河川での航行の仕方である。今まで沢山の水門は見てきたが、実際に通過したのは今回が初めてである。其れに船が航行不能に陥った際の対処の仕方である。Tomasは外洋ヨットの免許を持っており、子供のこれから川遊びをして来たことに依り、何事も無い様に対処していた。

Tomasは又Norwayに釣りに行こうとよく言っているが、その釣りももう12年近く前の事と成っている。月日の過ぎるのは早い物だ。新しいエンジンで釣りが出来るかどうかは、未だ予定が立たない。余り遅くならない内に実現したいものだ。

遊園地から一旦家に帰り、夕食の後、TomasとSusanは又出ていった。ボートを再び、台車に乗せ家まで運んで来る為である。翌朝早く目が覚め、見るとボートは元の位置に戻って居た。Tomasは勤めの為。80キロ南の自宅に昨夜の内に戻って行ったという。

翌日9時過ぎSusan,Anna,Julieの親子孫、3代の見送りを受け、空港を後にする。今回から地方空港であるSkellefeteaaのSASのカウンターで東京までの搭乗券の発行と荷物の預け入れが可能となり、途中での手続きは一切不要となった。便はStockholm−Frankfurt−Hanedaと飛び、やや遅れたが午後1時過ぎに着いた。
今回は短い旅であったが、天気は良く、予想外に良い旅であった。

旅の費用:航空運賃:12000円(空港使用料のみ)、国内航空運賃:20000円、バス代:3500円、お土産代:25000円、レース参加費:6000、合計66500


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平成26年7月7日掲載

14.05.31 Stockholm Marathon


この時期の北欧便は高いので、Milaegeのポイントを使い、Swedenまでは
Istanbul経由のトルコ航空で行った。Stockholm郊外の空港に着いたのは29日の深夜であった。空港傍のBoe− ing747を改造宿泊施設にしているJambo Hostelに着いた時は日が変わっていた。搭乗口の傍に入ると上下のベッドが2つある。誰も居ないが、深夜に来る客が有るのかもしれない。直ぐに就眠。

朝起きると夜来の雨が続いている。気温は5度程で、雨は冷たい。Jamboの前部は操縦室などを撤去した大きな空間と成っており、此処が食堂と成って居る。空港のHostelで深夜早朝に出入りする人は多く、朝食も4時半から遣っている。宿泊費は素泊まり8000円強、朝食は約1000円である。ジュース等の飲み物の他にハムやチース、パン等が用意されているだけである。

朝食の後又横になり、11時にチェックアウトし空港に向かう。構内のバスが頻繁に来るので便利である。空港から市内行きのバスにのる。老人はややや安く、片道1600円程だ。市内に着き、終点の一つ手前で降り、バスを乗り換えSeanのアパートに向かう。市内のバスも高く、550円程する。バスを降り、3年前の記憶を頼りに15分ほど歩く。バスも通っており、同じ切符で乗れるが、僕は歩く事を選ぶ。Stockholmは水と緑の町であり、歩道が良く整備されており、気持ち良く歩けるのだ。

アパートまでは迷わずに辿りつけ、玄関の鍵も直前に訊いていた番号を入れ中に這入ったが、そこでどの部屋であったか迷う。入り口には殆ど名前が書いてあるが、探す名前が見つからない。何回か上り下りをするが、尚分からなくなる。2−3の家で訊いてみるが誰にも分からい。同じ建物に住んでいてもお互いに知ら居ない人が多いのは、東京と同じだ。

ドアを間違えたと思い、一旦建物の外に出て別のドアでコードを押すとこのドアも開く。此処でも階段を上り下りして探す。折よく別の階段を降りてきたNinaが僕に気付き声を掛けてくれた。彼女は明日のレースのゼッケンを取りに出かける所だったのだ。僕の書類を渡し、貰ってきて貰うことにする。

漸くSeanに会い、1時間程話をし、又寝ることにする。外は相変わらず冷たい雨が振っている。
夕食はパスタである。カーボローデングにはこれが良いのだと言い、毎年の定番となっている。今年50歳になるNinaは4時間切を目指し、明日は朝食の後、出かける前にPorige(麦粥)を食べて出るという。デザートには6歳になるAlistairが初めて作ったというケーキが出てくる。星形と言うか海星型と言うか20cm程の黄褐色のケーキである。中々の出来栄えだ。Ninaが色々手助けはしたと言うが、此方の子供は男でも、小さい頃から、こうして生活の術を身に付けていくのであろう。蜂蜜やチョコレートを入れたと言い、味も中々の物であった。

翌5月31日、朝も雨は続いていた。予報では良くなることになっている。出走は12時なので、予報通りになることを期待する。10時半に同じ建物すむもう一人のランナーとバスの停車場に向かう。3つ目が終点で、電車の駅である。電車に乗り換え、更に中央駅で又乗り換え会場の駅Stadionに着く。大勢の人が降り,構内から外にでるのに時間がかかる。地下鉄は深い所を走っており、長いエスカレーターに乗り、更に歩いて、漸く外に出る。雨は止んで居り、人波に従い会場に向かう。Finishとなる競技場は1912年のオリンピック用に建てた建物で数々の世界記録の生まれた所である。日本の様に30−40年、あるいはオリンピック毎に建て替えると言う無駄をしないことで、国力充実させている国柄が羨ましい。式年遷宮的な発想はそろそろお引き取りを願いたいものだ。

競技場の裏側にはサブ競技場などの広大な緑地が広がる。ここで、着替をし、荷物を預ける。貴重品は別扱いとなるが、これも手際よく預かってくれる。2万を超える参加者を渋滞なく扱える施設とスタッフの配置は素晴らしい。準備が終った所で又雨が降りだす。建物の軒先に入り待つ。雨具の用意はして居なく、此方で買うと思って探したが無かった。雨で一番困るのは体温低下である。この為のせめてもの対策として、長袖Tシャツにウインドブレーカー、それに長タイツで走ることにしていた。軈て、出走地点への移動が始まる。定位置に着いた頃に雨は上がり、時折日差しが出る。急に暑くなる。嫌な予感がする。雨上がりの晴れ間の蒸し暑さだ。予報では12−13度であるが、日向は20度を超える予感がする・

Wave startで12時と12時10分である。最終のグループHの後ろの方に並んでいたので、Startの計時マットを踏んだのは12時15分を過ぎていた。競技場の横の道路を南に走り直ぐに左折東に向かう。大きな街路樹の木陰の道を走る。人は多いが十分な道幅があり、走りやすい。先ず。流れに乗って走ることを心がけるが、無理はしない。4キロ辺りで5時間半のペースメーカーと一緒に走る小グループに追い付き、追い抜く。2万人のレースとしてはこのグループは非常に小さい。10人弱だ。此方の人は思い思いの走りを重んじるのであろう。王宮を右手に見る辺りが5キロ地点だ。此処には暑さ対策として、水スプレーがある。下を通って体を濡らす人、避けて通る人、色々だ。水スプレーはこの先2−3キロ毎にある。

水位調整の堰、Slussenを過ぎると浜辺通りとなり、右手にStockholmの象徴とも言うべき、市庁舎が湖を隔てて見える。略平らで真っ直くな道で、宿泊施設やレストランとして使われている船が多く見られる所だ。左手に消防署があり、此処が7キロ地点だ。この辺りで、5時間15分のグループに追い付く。之も小さい。5−6人という所か。早すぎるとは思うが、付いていける所まで行こうと思い、前後しながら走る。

その先8キロ地点で上りが始まり右折し、西橋に差し掛かる。コース中最大の起伏のある所で、約500mの間に30m上ることになる。橋は1キロ余りあり、この間に30m上り、30m下ることになる。橋を渡り切ると、又右折し市庁舎の方向に走り出す。市庁舎が見えだすのは11キロを超えた辺りからだ。市庁舎を過ぎ、橋を渡ると中央駅のある大陸側となる。走路は大陸と湖にある五つの島を横切る。駅の辺りが12キロ地点で、その先我々が駅伝遠征した時に泊まったことのあるアドロンホテルや郵便局の前を走る。首都のレースなので。何処でも大勢の応援者がいるがこの辺りは特に多い。中には”こんにちは“とか”Japan“とかの声も聞かれる。13キロの先で右折するとなだらか上りとなる。車椅子を押した若者のグループが追い抜居ていく。自力ではレースには参加出来ない人にも雰囲気を味わって貰いたいとの思いで、交代で車を押し、走っているのだ。この連中とも若干の話をする。

幸いにもレース後若干の降雨はあったが、あまり暑くもなく、爽快に走っているがそろそろ疲れがでてくる。特に上りになると極端に遅くなる。1キロ程上りその後500m程緩やかに下る。細かい上り下りを繰り返し16キロに差し掛かると後ろから先頭走者が車に先導されて迫ってきていることが分かる。正規の時間からの計時では2時間10分と成っており、2周目の41キロ地点だ。先頭走者はもうFinishなのだ。

2周目でFinishに向かうランナーは1周目のランナーとは別に分離された走路を走っており、直ぐに左に折れ競技場に向かう。16.5キロ過ぎで走り出した走路に戻り2周目が始まる。2周目はやや大きく回り、25キロ程ある。17キロ地点は1周目の1キロ地点と同じだ。右手に国営テレビ、次いでラジオ局を見て、19キロの手前で2周目は左に曲がり大きい膨らみの部分を走ることになる。この辺りは木立や原っぱが多く気持ちよく走れる所だ。国営テレビの塔が見えるのもこの辺りだ。大使館街と呼ばれるのはこの辺り、日本大使館もこの一角にあるが木立の多い所で建物は殆ど見えない。若干の起伏は有るが、正に大自然の中の走りで爽快である。

中間地点にはSean,Alistair,それにKristerが出て応援をしていた。AlistairとHigh touchを交わし、走り続ける。この後彼らは競技場に向かう筈だ。24キロを過ぎ動物島に入って行く。昔王族が世界の動物を飼って居た所からその名が残っている周囲10キロ程の島で、今は緑豊かな市民の憩いの場となっている。大木が多く、何処も緑である。27キロ辺りの右左には遊園地、野外演芸場、博物館がある。28キロ地点で1周目の3キロ地点に出る。ここからは残り14キロ、同じコースを辿ることになる。

彼方此方のエードでは音楽や踊りの披露があり、これも都市マラソンの楽しみの一つだ。エードの数は十分にあり、補給は全く問題ない。水の他。バナナや固形のブドウ糖等を口にした。例年市庁舎のエードでは干しブドウが出されていたが今年は無かった。コーヒーが出ていたので飲んだが、砂糖は入って居なく、貰って入れる。コーラーを飲む人が多く、走路はベタベタと靴に抵抗があるのは例年の事である。

1990年初めてここを走ってから6度目となるが、3年前の5度目以降コースが若干変わった。態々駅前の繁華街を通す様にした点だ。都市の交通インフラにゆとりがあるのだ。駅前を過ぎると残りは5キロ、その先1.5キロで上りとなるが、この辺りのエードでは例年生人参が出ていたが、今年は無かった。最後の頑張りに鞭では無く、人参とは考えた物だと思って居たので、残念である。坂を上って居ると5時間15分組が追い抜いていく。元々6時間の完走さえ自信が無かったので、これで十分だと後は追わない。残り3キロ極端に遅く成らなければ、何とか5時間半は切れる筈である。

回り込んで競技場に入ると直ぐにマットがある。42キロ地点とFinishするランナーの確認用であった様だが。僕は自分の名前が放送されるとそれでレースは終わりと思い歩き出した。周りを見ると他のランナーは走っている。よく見るとコーナーを回って反対側にFinishのArchが立っており又走り出す。コーナーでは先程の3人が居り、手を振って合図をする。

直線部を全力で走りマットを踏む。5.26.10のFinishであった。これで   Swedenでのマラソンは10度目の完走で思い残すことはない。

直ぐに観客席伝いにSean達の所に行くが、彼らの姿は見当たらなかった。その後荷物を受け取り、ホットドッグを食べて駅に向かう。走った後、パン、バナナ、ホットドッグ、水、ビール等は豊富にでる。レースの参加者はレース当日電車は無料である。中央駅で乗り換え、空港に向かう電車に乗っていると偶然Bertilと出会う。1994年以来の友人で、殆ど毎年どこかであっている。Upssalaで小学校の先生をしていた彼は僕より6歳若い。既に退職している。Upssalaで変電所の事故があり、長い間其処を起点とした電車は運休しているという。空港で代替のバスに乗り換え帰宅するという。

若いころから走っており、以前は早かったが、今では月に500キロの練習をしているが、年々遅くなるばかりだと嘆く。何年か前まではSwedenでの100キロレースは全部走ったと言っていたが、最近ややレースの数が増え、走れないレースもあるという。   Laplandも毎年走っており、又会おうと言って別れる。

空港で食事をし、Jambo Hostelに向かう。明朝のMalta行きの便には5時半に空港に着かなければならず、空港傍の宿泊が良いのだ。Hostelから    Seanに電話を掛けようとするが、公衆電は無い。空港からは連絡が付くが、往復する気に成れず、又翌朝も早いので暫くはSeanには連絡出来ないが、これも止むを得ない。

泊まった部屋は最初の部屋と同じで、今日も僕一人だ。疲れては居るが、レース後は何故か寝つきが悪い。殆ど寝ずにウツラウツラしていると、1時頃に人が這入ってきて,上段で寝てしまう。尚もウトウトしていると夜が白みだす。こうなるともう寝ることは諦めざるを得ない。ウッカリ寝付いてしまい、便に乗り遅れたら大事だ。4時に起きJam―bo機の機体の横や翼の上に用意された歩廊を歩き、朝もやの中赤みを帯びた空の写真を撮ったり、足回りやエンジンを取り払ったカバーの部分を見る。ここの空間も大きく、其処までの階段が用意されており、扉が付いている。一人用の居室か物置には十分な容積がある。

6月1日、5時5分の一番バスで空港に向かう。SAS便でバルト海を渡り、ヨーロッパ大陸の略中央を南下し、アルプス、地中海を超え、アフリカ大陸北岸に近いMaltaに着いたのは10時半ごろであった。地中海の小国Maltaは人口が42−3万の国で、空港は小さい。飛行機の乗り降りは地べたからのタラップで行い、建物までは200m程歩く。気温は25−6度と暑いぐらいだ。案内所で地図を貰い、行く先のへバスを訊く。

後で分かるが島の主要交通機関は政府運行のバスである。同じ島内であれば何処へ行っても1日1.5Euro(200円?)と安い。走り出す前に運転手にホテルの場所を示し、そこで降ろしてもらうよう依頼する。バスは中国製の物で今時これ程乗り心地の悪いバスは、彼方此方で経験出来る事は無い。ガタガタと1時間余り走った後、運転手に来てみると、未だだという。海が見えて、下り出すと、此処で降りて、上に引き返す様にという。降りて暫く歩くが,どうも様子がおかしい。ホテルはTourist通りにあると書いてあるが、その通りを知っている人が居ないのだ。何人かの人に訊いてみるが、確とした返事は得られない。バスの進んで行った方向に広場が有るので其処で訊いてはという人が居るので元来た方向に引き返す。途中で何度か通りの名前を訊いてみるが矢張り知っている人は居なかった。

暑い中30分程歩き広場に着く。薬局で訊いて,初めて通りの存在を確証することが出来た。Bella Vistaと言う立派な名前のホテルはその通り上にあることのみが書いてあり、特定場所を示す番地の記載がない。先に行くと警察が有るので其処で訊けと言うので行ってみる。通りは左右に飲食店などが並び立派だ。大きなカジノもある。警察には人が居ないので、又路上の人に訊いてみる。もう少し行くとホテルがあるが、其れかも知れないという。バスターミナル過ぎ200メートル程行くとホテルがあり、其処で訊いてみるとここがそうだという。

初めての地で特定の場所を探すのは中々難しい。今回の抑々の間違いはバスの運転手が全くその地の地理に疎い事であった。知らなければ知らないと言えば、他に方法がある筈である。バスの終点はTourist通りにあり、ホテルも同じ通り上にあるのだ。この路線の運転は初めてであったにせよ、何を見て運転しているか、空恐ろしくなった。

ホテルは長期滞在型の様であり、寝室が2つある。ベッドは3つと2つも部屋があり、真ん中に台所が付いている。大きな部屋の傍に湯船の対いたシャワー室があった。之で朝食付き40Euro(約6000円)、StockholmのJambo Hostelと比べれば格安であろう。

台所には流しが対いているがガスや電気の調理器はない。滞在者はこれ等を持ち込むのであろうか?付いているのは冷蔵庫と電子レンジだけであり、僕が使ったのは冷蔵庫だけであった。可なり大きなホテルでプール等も備えていた。
ホテル探しに時間が掛った事と、昨夜は殆ど寝て居ないこともあり、早めに夕食をとり寝てしまう。

翌日からはMaltaの観光である。朝食の後バスターミナルに行き、首都の Val―letta(人口6000))に向かう。生活路線バスであり、彼方此方を回り1時間程を掛けて首都に着く。途中にはMalta最大の都市Birkirkara(人口訳25000)を通り抜ける。この町には地下鉄が通っている。

バスの終点の直ぐ傍に旧市街への正門がある。16世紀中葉オスマントルコの襲撃を躱したその翌年1566年より建設が始まった城塞都市は世界遺産と成って居る。北東に突き出た小さな半島の海に面する所は高い石垣を築き、海側から見ると堅固な要塞に見える。半島の付け根の部分は両側とも重要な港と成っている。城壁の中は中央に大通りがあり、縦横に五番目の通りが走る完全な計画都市と成って居る。町は長手方向は約1キロ、幅は700m程度でそれほど大きくは無い。宗教騎士団が作った町であり、町の中には大聖堂が2つ、教会が8つある。この他騎士団の集会場、宿舎等がある。どの建物も石灰岩で作られており、立派なものが多い。先の大戦中ナチスの空爆を受け完全に消滅した建築物も多く、再建の作業が今も続いている。石灰岩で出来た更に見事な街並みを期待したい。

案内所で貰った小さな観光地図に従いバスで南の海岸に向かう。洞窟と神殿(Temple)があるらしい。乗客の半分程は観光客の様だ。洞窟の傍で大半の客がおりるが、僕は降りない。石灰岩の浸食で海岸に出来る洞窟は地中海沿岸のカルスト地帯では彼方此方にあり、そう珍しい物では無いからだ。

次の停車場には神殿の印が付いており、其処で降りる。矢印に従い歩いて行くと、入り口の建物がある。Maltaの史跡の管理は全てHeritage Maltaが行っており、これは国家機関である。10Euroの入場料を払い中に這入る。古寺の説明がパネル展示されている。紀元前3000年以上前に作られた、巨石建造物である。どんな宗教か、その建物でどんなことが行われて居たかは定かではない。兎に角人が作った物には間違いない。

建物を出て石灰岩の荒れ地を歩いて行くと、大きなテントが見える。100−200m左手は海で絶壁と成っている様だ。1キロ程先には周囲が切り立った石灰岩の小島が見える。風は強く、剥き出しの岩が転がる海辺の岡は荒涼としている。そんな中にも僅かに根を降ろせる隙間には可憐な花が咲いている。近づいてみるとテントは巨大である。確りとした鉄骨の躯体の上に巨大な白布を固定している。これにより少なくとも雨による史跡の浸食は防げるが、風の影響は避けがたく、恒久対策には成って居ない。史跡を維持する為には多額の資金を要するのだ。

 

最初の史跡はHagar Qimであり、その先500m程にあるのはMina―  draと呼ばれている。どちらも粗同じ頃建てられた様で、同じようなテントで保護されている。

更に岡の高い所には岩をくり抜いた貯水槽があり、2つの神殿の水瓶とされていたとある。2つの神殿は共に石灰岩の巨石で作られており、全体に曲線で出来ている。使われている石の大きな物は長手方向が6mを超え、重量は20トン近くと推定されている。又垂直方向に使われている石は5mを超えている。石は殆どが自然石で、御互いに支えあっている構造である。屋根があったのかどうかは定かではない。

島全体が石灰岩で出来ており、石は十分にあるが、加工せずに建築に適する石は何処にでもあるわけでは無く、石の加工の道具や技が無かった時代は、適当な石を探し、建設場所まで運ぶ必要があった。20トンにも及ぶ石をどうして運んだか?今と同じようにこの島には5000−6000年前も余り木は無かった。コロとして使える木は無かったのである。如何したか?丸みを帯びた石を何個も地面と運びたい石の下に入れ、これ等の転がりを利用して運んだと考えられている。史跡の周りにはこれらの石が大量に見つかったと言われる。其れにしても大変な作業である。GizaのPyramidが出来る前に、これ等の巨石建造物を作った人々はどんな生活をし、どんな思いを持ってこれ等の建造に取り組んだのであろうか?何が人々の心を動かし、これ程大きな石を動かしたのが?

神殿の平面は何所も似ている。瓢箪を長手方向に半分に切った様に、真ん中に括れがある平面であるが、瓢箪の様にスマートでは無く、ズングリムックリの格好で、カボチャを半分に切り上下に並べた格好に近い。平面の形状はクローバーの葉に例える表記も見られる。何れにせよ、直線的ではないのだ。完全に縦横が対象と成って居るわけでは無い。これは使う素材からそうなる訳では無く、人為的に変えて居たと思われる。例えば左側には副祭壇ないし飾り棚を用意し、右側は飾りなしの間とすることで対称性は崩れる。神殿は通例同じ様な規模のものが左右に隣接して作られている。どちらかが主殿である。Minajdraの場合は向かって左側が其れであり、入り口から一番奥の主祭壇を結ぶ線は春分と秋分の日に朝日が差し込む線と完全に一致すると言う。太古の人達は我々以上に天体の動きを知っていたのだ。

更にもう一つの史跡を観る為にバスに乗る。北西南東に長いMalta等の略中央にあるMdinaは南岸からは略3キロ北の高台にある。Maltaはどの島も石灰岩で出来ており、何処でも岩が剥き出しのうねる様な地形をしている。この国の一番高い所は256mと言われるMdinaはその見晴らしの為、その丘に建てられている。定住の痕跡は紀元前4000年に遡る。城塞都市としての建設は紀元前8世紀にフェニキア人によって始められたという。その後ローマ帝国の支配を受け、その知事の邸宅もここに設けられたという。海からの侵攻が目撃できる軍事上の要衝であることから、かってはMaltaの首都であった。現在目にする堅固な城壁は9世紀にシチリアから這入ってきたアラビア人が作ったとされる。その後11世紀の末期にはノーマン人(Viking)の支配を受ける。17世紀末の大地震により多くの建物は倒壊したが、その後復興し今ではノーマン様式やバロック様式の立派な建物が見られる落ち着いた町と成って居る。堅固な城壁に守られた町の中の道は狭く、車は極端に制限されている。“静寂の町”の異名をもつ、落ち着いた雰囲気の町である。

 

Mdinaの南には道路と緑地帯を挟んでRabatの町がある。ここも落ち着いた町である。住民は宗教には事には代々熱心な様で、殆どの家の入り口には小さな宗教的な彫像が見られた。

バスに乗り宿に向かう。宿は島の北西部にあるSt.Paul‘s BayとQaw―ra湾に突き出ている半島のQawra側にある。直ぐ傍にBugibbaのバスの発着場があり、何処に行くのにも便利だ。途中バスの車窓からMdinaの城塞都市が見える。城塞内では見られない全体像が見られるのだ。機会があればバスの中からでも全体像を取りたいと思い、次にここを通るバスの席は何所が良いかを考える。

6月2日、Maltaの本格的な観光も3日目となる。Gozo島に行くことにする。Maltaは主な島が3つある。最南東にMalta,北西にGozo,その中間の北寄りにCominoがある。3島合わせても奄美大島の半分にも満たない国土だ(正方形にすると一辺が19キロ弱)。MaltaとGozo間は約5キロで、2−300人乗りのフェリーが通っている。

バスでフェリーの出るCerkwwaに出る。風の強い日で、外でフェリーを待つのは少し厳しい。皆殺風景な待合室らしい建物の中で暫し待つ。フェリーが入港、人や車が出てくる。同時に乗船が始まる。
白波が立っているが、余り揺れない。間もなくComino島の切り立った崖の上に要塞らしきものが見えてくる。又崖の下部に幾つかの浸食による洞窟も見える。

Gozo島に近づくと港から立ち上がる崖に縋り付くように立っている建物が見えてくる。
案内書で地図を貰いGgantija神殿の位置を確かめる。バスでVictoriaに向かい、そこで乗り換え神殿の傍まで行く。バスを降りると、直ぐ傍に古い洞窟の案内がある。5000年前は人が住んでいたようであるが、今は入り口は狭く、覗くだけの穴倉だ。

Ggantija(Giants’Tower)は紀元前3600年頃に作られた、トルコのGoebeli Tepeに次ぐ世界で2番目に古い宗教的建造物として1980年に世界遺産に登録された。その後1992年に更に5つの類似の巨石建造物が付け加えられた。先日訪れたHagar Qim、Minajdra、それに明日見ることになる  Ta’Hagrat等である。先に見た2つの神殿同様、ここの遺跡も建物物は2つあり、形状はほぼ同じであるが、正面左手の方がやや大きい。何かの意味があったのであろう。

遺跡は高台に建っており、剥き出しのままで風化が進んでいる。壁面の倒壊を防ぐ為に彼方此方に鉄パイプ等で支えているが、本格的な建物の保護保全が緊急に必要に思える。世界には人殺しや破壊には多額な資金があるが、この様な所に回ってくる金は少ないのだ。何か何処かが狂っている様な気がする。

元々石としては柔らかい石灰岩は風化に弱く、今では沢山の穴が開いた状態に成って居る。何千年かの間地中に埋まっていた遺跡が発掘され出したのは19世紀になってからである。地表に出た後の風化が早まる懸念があり、早急な保全対策が必要に思える。

 

次いで西海岸に行ってみる。石灰岩の風化による特殊な景観のある所だ。先ず波の浸食による巨大な貫通抗だ。縦50m、横100m程であろうか。兎に角大きな口が岩の中に開いている。穴はこの穴だけでは無く、内陸側にも抜けており、其処に海水が流れ込に小さな内海が出来ている。この内海から小舟で外海出る事が出来、観光客等が出入りしていた。暗いトンネルの中を通り抜けるとまた明るい地中海の海に出るのだ。この様な地形はアテネの東にもあるが、貫通口が小さいので船の出入りは出来ない。

南にはキノコ岩と呼ばれる60m程の高さの小島がある。名前の由来はキノコの似ているこの島独特の植物であり、薬効があるとの事でその昔は献上品とされたという。本島の要塞に上り海岸を眺めると、石灰岩の特異な地形が一望できる。天気が良く、見事な眺望が楽しめた。

6月4日、Malta観光の最後の日となる。Vallettaの南東に見える城郭の町に行く。入り組んだ海岸線に沿って俗に三市呼ばれる独立した町があり、小舟の修理などが盛んな様だ。外海に近い町がKaikaraである。此処も同じような石の城塞都市である。天気は良く、空気は乾いている。周りの石からの輻射熱で熱い。世界一の大砲があると言うRinellaの要塞が海岸にあるが、其処に行かず、バスで南に向かう。程なく、大きな湾に突き当たる。Pretty Bayと呼ばれ、海は見事に青く綺麗な湾である。良港らしく多くのコンテナ船が見られた。南ヨーロッパ特有の昼寝の時間で、店は開いていない。通りで、史跡への道を訊くと親切に教えてくれる。Maltaはマルタ語の他に、一時英国の支配を受けたことで英語は公用語なっているので便利である。

 
 

最初に行った所は車道から300m程細道を入った丘の上にある。道路から下り谷の底部を通る。細長い僅かな平地には刈り取り前の麦が見られる。Maltaは石だらけの国に耕作適地は極めて少ない。崩れかかった城壁の狭い入口を通り過ぎる。この門に張り付いている薔薇は何とも美しい。中に這入ると左手には同じように崩れた石壁があり、その壁面にTa’ Bord Is−Sinjuraの表記と矢印が付いている。上って行くとある物は小石を集めた塚に建つ等身大の白亜の聖母像と木の十字架のみである。キリスト教の聖地で歴史的には先に見てきた史跡よりは4000年程新しい。只一人の男が祈りを捧げて居ただけで、訪れる人は殆ど無い様だ。

車道に戻り坂を500m程上って行く。Ghar Dalm(Malta語で、闇の洞窟の意)洞窟がある。先程の史跡の同じ谷の反対側の中腹にある袋状の洞窟で、144mで行き止まりとなるが、人が這入れるのは凡そその分の1である。道路に面し建物があり、割引で3.5Euroの入場料を払い、中に入る。無数に近い動物の骨が展示されている。多いのは河馬、小型象(現在のアジア象に近い)、鹿、熊である。これ等の動物は氷河期にMaltaにヨーロッパから渡り、この島に取り残されその後絶滅した。河馬は180、000年前、鹿の絶滅は18000年前とされている。

他には赤狐、オオカミ、人骨、石器,陶器、飾り物等である。洞窟及びその周辺はマルタでも最も早く人の定住した所で、7400年前とされる。

建物を出て洞窟に向かう。途中から見る、海の眺めは絶景だ。此処も訪れる人は少なく、洞窟には一人で入る。入り口は高く広いが段々と狭くなる。全体が石灰岩で出来ている為、水が落ちて居る所には石筍が出来ている。高さは2−30cmと低い。此処まで成長するまで何万年もかかっているのだ。洞窟の下部には奥の方から入り口の方向に過去に於いて大量の水が流れた痕跡がある。角の取れた大量の丸石である。

洞窟の層は6層あると言う。最上層は訳76cmで人間の存在の痕跡、石器、壺、装飾品、牛、馬、山羊、羊等の家畜の骨の層である。

その下は先ずか訳6mmの石灰層となる。第3層は鹿層と呼ばれ、訳175cmの厚い層で、此処には多くの鹿の骨があったという。肉食動物の熊、狐、狼の骨もこの層から出ている。他には大型白鳥、大型亀、野鼠の骨が見つかっている。

その下は約35cmの礫層で大小の丸石のみ出来ている層である。石の大きさから流れは速かった様だ。
第五層は河馬層であり、120cm程あり、河馬の骨が多く、次いで象、ヤマネの骨も見つかっている。
最下層は約120cmで、この層からは骨は見つからず、植物の痕跡が見られるだけである。その下は石灰岩の岩石層で2500万年前の地層である。何十万年もの堆積層から見つかるのは骨であり、化石では無い。化石に成るには更に長い年月を要する。

最後にもう一つの史跡を観て置きたい。バスに乗り今いる島の南東の外れから、西北の外れに向かう。途中一度バスを乗り換えMgarrに着く。夕方に成っており、急いで史跡への道を尋ねる。観光客は殆ど居なく、訪れたTa Hagratの神殿は誰も居なく門は閉まっていた。谷の中腹にある史跡で周りは100m程の塀で囲まれているが、鉄柵の間から見たり写真を撮ったりは出来る。此処も世界遺産であるが、風化が進んでおり、オレンジ色の花を今を盛りと咲かせているアロエとは対照的な消え行くものの哀れが感じられる。谷を隔てた反対側には夕日を浴びた石灰岩の平らな岡が広がって居た。傍には同じような世界遺産Skorbaがあるが、訪れる時間は無かった。最初に世界遺産となったGgantijaを始め、その後付随的に指定を受けた3つ史跡を観たので良しとしよう。

 

翌日は9時のバスで空港に向かう。Mdinaの遠景写真を撮ろうと思い、左の窓側に座る。バスは車体が微妙に違う。窓の開くもの,開かないもの、ガラスの汚れているものもあり、写真を車中から取るのは運一つだ。幸いに先ず先ずの写真が撮れ、満足して   Maltaを去ることが出来た。

旅の費用:航空運賃:訳12000円(空港諸費用のみ、その他はMilageのポイントを使用)、宿泊費:35000円、食費:10000円、現地交通費:6000円、史跡入場料:6000円、レース参加費:18000円、お土産代:5000、合計9万2000円 

                

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平成26年5月27日掲載

Galapagos探訪(14.04.30−05.13)


先ず何故Galapagosなのか? 僕には行ったことの無い所ならどこでも行ってみたいと言う悪い好奇心がある。自分の足で踏みしめられる所であれば何処へでも行ってみたいのだ。増して他では見られない地形、珍しい動物が居る所と聞けば尚更である。1975年に世界遺産第一号に登録された島々と其れを取り巻く海洋1400万ヘクタールは一部だけでも自分の足で歩き、泳いでみたい。

Devyが3年程前から初めたGalapagos走り旅には是非行ってみたいと2年程前から思っており、今年初めに漸く予約ができた。

同道の千田さん(確か鶴岡も一度、また小生の生前葬ランにも参加しているので思い出されるかたも居るであろう)とは成田のAmerican Airlinesのカウンター手前で9時半に会うことにしていた。やや遅れて行ってみると、前日から空港ホテルに泊まっていた彼が会うなり、“便が大幅に遅れているが如何する?”という。便が遅れることは良くあることで、此方ではどうすることも出来ない。便に遅れるのはこちらの責任で、この方が大事である。兎に角長い列に並んで、代替便の交渉をするしか無い。

Galapagosに行くには首都のQuitoか太平洋に接する河口の町Guaya-quilを経由するほかない。色々調べてみたが、Americanが直接の路線を持っており、値段はやや高いが乗り継ぎ利便性を考慮し、これで行くことにした。Americanは経営破綻により、今や更に小さいUS Airwaysの傘下となった。このグループが世界最大の航空会社だ。しかし、僕は何十年も飛行機に乗っているがAmericanにはかって乗ったことが無かった。初めて乗る会社なので、何か違った良いサービスを期待していたが、大幅遅れではどうしようもない。

長いこと待って、漸くカウンターに辿り着く。JALの職員が対応しており、代替便の手配をして呉れる。彼方此方に連絡をし、一時間余り後、ANAでNYに飛び、そこからLAN便で  Guayaquilの便が手配できるという。目的地の到着時間は当初の当日22:30より遅れ、翌朝04:00となるがこれが一番早く着く便だという。長旅であり、とにかく早く着きたいこともあり、これに決める。Americanの便名の入った変更Eticketと大幅遅れの代償として1500円の食事券を受け取る。遅れた理由を聞くと、登場要員が揃わない為だと分かる。完全にAmericanの運行責任内の原因だ。

当初の便はNarita−Dallus−Maiami−Guayaquilの2回乗り継ぎであったが、変更便は1回である。只ANAの便も出発が16:40で、大分待たなければならない。丁度昼の時間に成って居たので、食事券で昼食をし、ANAのターミナルに移動する。登場手続きを済ませ、ANAのラウンジにいく。ANA系の航空会社であれば世界中の空港のラウンジが使えて便利である。便の遅れをGalapagos Tourを主催しているDevyにメールを出し、予約しているHiltonにも遅れとShuttle便の手配変更を依頼する。時間は余るほどあるので、シャワーも浴びる。この様に、思わぬ遅れが出た場合、ラウンジは安全な待合の場所として、又通信手段が使える場所として、非常に重宝な場所である。勿論食べ物も飲み物もそこそこの物はある。

16:40発のANA便は順調に飛び12時間余り後、NY/JFKには現地時間で飛び立った東京の時刻より早く着く。東京―NY間の時差14時間のマジックである。

此処での待ち時間は6時間近くある。入国手続きは1時間程掛かり、その後LANのターミナルへ移動する。時間が早すぎて、搭乗手続きは出来ない。この階には椅子は一つもない。椅子のある所を彼方此方探し、2階下の荷物受取階に若干の椅子が有るので、そこで暫く待つことにする。ラウンジの使えない空港での長期の待ち合わせ時間は、正に空港Homelesとも言うべきで、安住の空間を探すのに苦労する。2時間ほど待って又受付カウンターに行く。長く待たされた後、受付をするが登場の保障は出来ないので後で来るようにとの事である。Ameri― canのEtiecktを持っているのに、そんな筈はないと主張するが、この便はLANの運行で今日は満席が予定しており登場の可否は間際に成らなければ分からないとの一点張りである。相対するAmericanのカウンターに行き、Eticketに基づく搭乗の要求をする。係りがLANのカウンターに付いてきて、折衝するがLAN側の対応は変わらない。兎に角責任はAmericanにあるので、何故発行した切符が有効に機能しないかを調べ、責任を取る様に求める。埒は明かないので、時間を与え、又2階下の椅子に戻る。ややあってアメリカンの係りが降りてきて、ダラスの係りに一切の責任が有るなどと、此方の納得の行かない説明等をする。  JFKの係りは出来る限りのことはするので、時々カウンターに来るようにと言った。その後何度となく、階の上下、双方のカウンター間の往復を繰り返し、漸く登場の確約を得たのは搭乗の1時間前であった。正規の切符を所持しているにも拘わらず、これ程搭乗に手間取るとは思っても居なかった。正に旅では何が起こるか分からいのである。幸い予定の便に乗れたが、乗れない場合を想定すると恐ろしくなる。

LANは南米最大、20か国に路線を持つ航空会社で、過去に何回か乗っている。便は夜10時過ぎ、やや遅れてNYを後に一路南下する。日本を出てから長い事になり、NYでの一騒動で疲れてもいる。食事、ワインを2杯飲み、更に寝酒にウイスキーを飲み、一眠りする。6時間程で暗いGuayaquilに着く。予定よりは1時間遅れたが、ホテルのShuttleの運転士は名札を翳して待っていた。日付は変わっており、5月1日朝7時、明るくなっている。ホテルまでは約10分、直ぐに部屋に入り、兎に角一眠り。

昼過ぎに起き、一先ず町の様子を見に行こうと下に降りる。旅の主催者Devyと出会い、短い会話を交わす。彼の旅はこれで4度目となり、その他Los Angelesにたちよる際にも何回か会っている。優れたRunnerであり面倒見のいい男である。タクシーの運転士に行く先を告げ送り出して呉れた。

Hotel Hilton Colon(Hilton Colombusの意)は何か月か前犯罪に会った夫婦が泊まって居た所で、彼らは町で白タクを拾い犯罪に会ったようだ。ホテルでは、流しのタクシーは拾わないとか、カメラや貴重品は身に着けない様にとか、外出の際の注意事項を書いたものを用意している。治安はやはり悪い様で、用心に越したことはない。

ホテルは空港の傍にあり、町の中心までは6キロ程ある。途中には大きなサッカー場や共同墓地がある。大聖堂の前でおり、聖堂内部を見た後、通りを隔てた公園に行く。小さな公園で大きな木が疎らに生えており、長椅子が彼方此方にある。中央には何やら銅像が立っていた。Se―inario公園とあるが、どこにでも有るような公園である。僕はここをイグアナ公園と呼ぶことにした。その方が記憶に残り易いからだ。他の公園でイグアナは見た事が無かったが、ここには百匹程の大小のイグアナが自由に動き回っているのである。イグアナは公園の外に出て車の下敷きになる可能性もあろうが、そんなことは余り起こらないのであろうか?爬虫類トカゲ亜目に属する動物で、小さいものは20−30cm程、綺麗な黄緑色そしている。大きなものは1m以上もあり、中には尻尾の切れたのもいる。人の歩く石畳の上でジッとしていたり、他の個体の上を乗り越え歩き回ったり、落ち葉を食べたりしている。動きは遅い。見ていて飽きない。地元の人は尻尾を持ったり、子供に触れさせたりしている。余り見てくれの良い動物では無く、子供たちは気味悪がっている様だ。成長したものは全身が鱗で覆われ、頭から背中に掛け鶏冠状の突起があり、顔は厳つい感じであるので、かわいい動物の範疇ではない。其れに大きなものは彼方此方から脱皮した皮が垂れ下がっており、何やら汚らしい。尻尾には円周方向に太い黒い縞模様が付いている。表皮の色も脱皮から経過時間により段々とくすんだ色となり、決して綺麗とは言えない。見てくれ上は決して得な動物では無いが、草食で根は穏やかなのであろう。木登りも上手ですべすべな直立した幹の高いに上って居るのも見かけたが、餌のとなる葉の生えた所まではまだ何メートルもの位置であった。垣根の様に低い木には何匹かの個体が上り、葉や花を食べていた。花は特に好物の様である。

イグアナの他には3種類の亀と、鯉らしき魚がこの公園には飼われていた。これ等は外には出られない様な囲いの中で居るもので、飼われて居ることがはっきりしている。イグアナは全く自由で何故この公園に定着しているのかは未だに謎である。

この後Guaya川の西岸に面し、Devyも勧めていた市民憩いの場Melecon 2000に行く。20−30年前には最も犯罪の多い危険な船着き場を再開発し、安全な市民の遊歩道とした所だ。川に沿って全長2.5キロ、幅広いボードウォークがあり、全長に渡り、娯楽、飲食、商店、遊園、公園、著名人の銅像、博物館などを整えた所だ。立派な多層の建築物であり低層階は駐車場に成って居る。飲食店の数も多い。Food Court風な所で昼食をする。Equadorの公式通過は米ドルである。独立国では極めて稀なケースである。料理の内容は大したものでは無いが、それで5−6ドルする。東京でもこの程度度払えば、もっと増しな物が食える。一人当たりのGDPが日本の4−5分の1のEquador市民に取り外食は安く無いと思える。国一の大都市Guayaquil(人口約300万)と地方では又違うであろうし、一概には比較できないが、生活の仕難さが犯罪の要因となっているのは確かなようだ。只ここに居る人たちを見る限りに於いては、食事を楽しみ、アイスクリームを食べ、ボトル入りの飲み物を飲み、楽しんで居るように見えた。

此処の北の外れにはサンタ アナの丘がある。100m程の岡であり頂上には其れらしい像が立っている。Devyがそこからの眺めは良いと言っていたが、千田さんが“治安が悪そうなので、行きたくない”と言うので、タクシーを拾って帰ることにした。待っていると、黄色いタクシーの他色々な車が止まる。日本で云う白タクだ。正規のタクシーを拾いホテルに戻る。タクシーは4−6キロで5ドルほど、バスは25セント(30円)交通費は可なり安い。

5月2日:ユックリと眠った後、8時頃起きる。部屋は五階で窓からは幹線通りが見え車体にSelectivoと書いたバスが引っ切り無しに通る。この町の交通の主役は何所でも乗り降り出来るこのバスである。

後で通りの名を見てみると、Av.Francisco de Orellemaであった。如何やら人名であるが、長ったらしく覚えにくいので、この通りは排ガス大通りと呼ぶことにした。乗り降り自由であるので、頻繁な発停があり、其の度に彼方此方で黒煙が舞い上がる。排ガス規制など無いのであろう。道路の先は晴天でも霞んでいる。

朝飯を食う所を探して歩き回るが中々無い。食料を売っている店も無い。この辺りの住民はドンナ暮らしをしているのだろうか?想像はつかない。兎に角それらしい所が無いのである。彼方此方の横町を覗き、行ったり来たり暫く探すと、ホテルから左程遠くない所で10人程が食事をしている所があり、其処に入る。絵を見たり、回りの人の食べている物を見て注文する。この辺ではここしか無いのであろうか、車で来ている様だ。食事の後、何か食料を調達しようと探し回り、やっと小さな店を探し当てる。碌な物は売って居ない。Long lifeの牛乳、パン、マグロの缶詰、それに皮が斑な日本では店には出せない様なオレンジを買う。序に言ってしまうが、このオレンジは今までに喰ったことの無いような酸味が酷い物であった。赤道直下のオレンジは甘い物との期待は見事に外れた。

昼からは又町の中心部に行く。タクシーを降りたのは、イグアナ公園から西に1キロ程の   Centinario公園であった。百年公園の意味で、何かの100周年を記念して出来た公園であろう。広さはイグアナ公園の4倍ほどであるが、何の変哲もない公園で人も疎らであった。観るべきものは無いので、又川辺に向かう。途中イグアナ公園に立ち寄り、暫し彼らの動きに見入った。

川辺に出ると、先ず右手に折れMalecom 2000の南端まで最上層の野外を歩く。其処から北に向かって折り返し、中層の店舗部分を見ながら歩く。冷房しており、快適である。物は色々あるが触手の動くものは見当たらない。真ん中から半分は既に歩いている。

Guaya川はアンデスに源を持ち、ここまで400キロ近く流れてきている。その間に流域の全ての物を運んできており、流れの色は茶色に近く、澄んだ綺麗な水ではない。河口近くは当然広大な洲が形成され流れは緩やかである。多くの浮草が浮かんでおり、潮の干満の影響でそれらが或る時には上流へ暫く立つと下流へと動きを変える。浮草と一緒にプラスチックのボトル等も大量に行き来している。もう少し何とかならないものかと考えてしまう。濁ったこれらの浮草の間を20人程乗った遊覧船が上下しており、その乗り場もこの施設の一部である。

傍には立派な市庁舎もあるが、日曜日なので中を見ることは出来なかった。美術大学の構内では民間の店が開かれて居た。海洋博物館は無料であったが、見るべきものは無かった。

ホテルに戻り、Samsongの大型画面でサッカー見ながらホテルのバーで一杯やって早めに寝る。画質は粗く、鮮明では無い。兎に角安いのであろうか、空港の全てのスクリーンも   Samsong製であった。
明日からGalapagosへの移動が始まり、朝食を済ませ7時にLobby集合と成って居る。

5月3日、9時頃に空港に着き11時過ぎに洋上約1000キロ離れたSan Cris― tobal島へ向かい、昼過ぎに着く。空港の建物は鉄骨の仮建築の様だ。ここで植物の検査を受け、又国立公園の入園料100ドル,その他にも10ドルを2回何かの名目で払う。島の上陸料とゾウガメ園の入場料かであろう。

ホテルに着き昼食の後、最初に行ったのがGalapaguera de Cerro   Colorado(赤岡ゾウガメ養殖場)であった。ここでゾウガメとの初対面である。甲羅から出ている手足を見ると象の皮膚とそっくりだ。之が和名ゾウガメとなった理由であろう。食事時の彼らの食いぶりは極めて良い。南洋の植物サトイモに繋がるタロイモの茎や葉を音を立ててバリバリ喰っていた。小食と思って居たが食う時にはシッカリと喰っているのだ。大きなカメは養殖場の中の野外の自然の中で飼われており、子亀は箱の中で其々の孵化した仲間と共に育てられていた。

更に車でGalapagos唯一の真水の湖、El Junco Lakeに行く。San Cristobal島はGalapagos諸島の最も東に位置し、火山により次々に出来た島の中では最も古い。湖は噴火口に水が溜まったカルデラ湖である。この時期赤道直下のGalapagosは湿度が高く、靄や霧がかかることが多く、湖面は霧の下にあり、見ることは出来なかった。靄の掛る湖の周りを歩き、そのままホテルまで約10キロ、辺りを見ながら歩いた。陸地になってから4−500万年になるこの島は今でもその表面は溶岩で覆われており、その割れ目や窪んだ所に流れ着くか、鳥により運ばれた植物の種子が根を降ろし、緑で覆われているが、草木の種類は少なく、熱帯ではあるが巨木は無い。湿度が高い為、木には沢山の髭の様な藻が沢山垂れ下がっている。新しい物は薄黄色みを帯びた灰色であるが、多くは黒く、薄汚い襤褸か髭が纏わりついているように見える。直ぐ傍の枝には小さな鳥(Dawin Finchであろうか?)が飛び交っており、手の届く距離でも逃げることはない。
夜は外のレストランに食事に出かける。途中浜を通ると沢山のアシカがいる。Cali―forniaアシカの仲間であるが、やや小さい亜種である。

5月4日:朝早くコヒーを飲んで、20人程で走りに出かける。5分もすると町外れとなり、遊歩道を上りだす。よく整備されており、階段や木道もある。上り切った所はTiherrtasの岡で、展望台と成って居る。青い海、白浜、黒い溶岩、緑に覆われた島が美しい。折り返し、又走り出す。やや下った所に又展望台がある。Dawinの像が立っており、その下の湾にBeagle号が到着したのは1835年であった。湾に降りていくと、アシカや亀が泳いでいるのが見える。何種類かの海鳥が空を舞い、黒い溶岩には赤っぽい色をした甲羅が5−6cmのベニイワカニが沢山いる。美味しいカニであるが、捕獲は禁止されているという。Dawinは5週間に渡りここを拠点にGalapagosの彼方此方を尋ね、その観察の結果を20年余りかけて纏め挙げ1859年に“種の起源”(On the Origin of Spieces)として出版した。昨年12月火山の島ハワイ島を訪れた際、足任せにあるき、期せずして辿り着いた偉大な航海者Capt.Cook最後の地、静かな入り江を思い出す。

白砂の浜辺を通る。アシカが居るが人を怖がる様子はなく、手の届く辺りまで近づくことが出来る。部分的には行きとは異なる道を通り、ホテルに戻る。シャワーの後朝食。

10人程の小舟に乗り、Kicker Rock(Spian名、Leon Dormido,寝獅子を意味する)に向かう。ボートは2隻用意され、前後して岩に向かう。ここのボートのエンジンは殆どがSuzukiかYamahaである。1時間程で岩に近づく。
英名はサッカーやラグビーのKickerの靴に似ていることに由来し、Spain名はその甲から妻先に掛けては寝ているライオンにも見えることからの命名である。

岩は2つの部分から成り立っている。甲の部分と踵の部分は独立した岩で、その間は100m程の海で隔てられている。踵部の岩は切り立っており、高さは90mをこす。ここで皆船を降り、足ひれ、メガネを点けSnorkelをする。先ず幅100m、長さ300m程の岩を隔てる海峡部を通り抜ける。赤道直下で泳ぐのは初めてだ。水温は泳ぐに丁度良いぐらいだ。流れは速いので、ガイドと一塊になって泳ぐ。岩と岩との海は深く暗い。余り魚は居ないが、時々アシカが下方で泳いでいる。又Galapagos shark(体長約2m、害はない)も時折見かける。モット沢山の色鮮やかな魚が見られると思って居たが、期待外れであった。赤道直下とは言え、南極からの冷たいフンボルト海流の影響で水温は他の等緯度の所と比べると可なり低いためであろうか?この後皆は岩の浸食で出来た、土踏まずの位置にある洞窟に入って行ったが、僕は船に戻った。暗くて何もみえないと思ったからだ。

船から海鳥を眺めていると飽きない。顎から胸に掛け真っ赤な袋が付いている軍艦鳥が他の鳥の獲物を奪い取る。彼らは海に潜ることが出来ないので、これが略唯一の生活手段だと聞く。ツバメの様に尾が2つに分かれた大型のカモメの飛翔は優雅だ。獲物を見つけると羽を畳み、弾丸状になって海面に急降下し、捕獲後舞い上がる。
船上でサンドイッチの昼食を摂り、港にもどる。天気が良くて何よりであった。

5月5日:諸島中最大の島、Isabera島に移る。Cristobalから8人乗りのプロペラ機での移動で、4班に分かれての移動となる。ランナー20人余りは飛行機で、      Walkersは船での移動となる。飛行機は一機しか無く、これが往復を三度繰り返し、移動完了なる。

僕らは一番機で飛ぶので、早起き、朝飯を済ませて、7時の出発に備える。200キロ程の移動で片道約40分だ。機は高度を徐々に上げ、僕の高度計では2500m程で水平飛行に入る。雲が多くあまり良く見えないが、それでも島や岩が右左に見える。Isabela島に近づくと溶岩が流れ固まった色々な模様が見える。似ているがどれ一つとして同じ物はない。固まる時の条件が微妙に皆違うからなのであろう。

着いた空港はトテモ小さい。ジェット機の離発着は出来ない規模だ。直ぐにホテルに向かう。案内された部屋は2階の海の見える部屋で、水辺までは約100m、その間は白浜である。左手には小さなマングローブの森がある。右手には先端に建物の見える長い突堤が見える。大きなベランダが付いており、これらを一望できる。7−800m程先には白波が立っている。環礁と外海と境であろう。この島の成りたちは先に滞在したSan Christobalより350万年程新しく、長期に渡る5つの火山活動の結果連続した島となり、諸島中最大の島で南北約200Km,東西約100Km程あり赤道を跨いでいる島である。黒い火山流岩の陸地が先ずできる。その海辺にサンゴが成長する。このサンゴの成長崩壊の跡が白砂の浜となる。之が目の前の情景である。

皆が揃うまでは自由時間であり、マングローブの森から海に近づく。海面から出た黒い溶岩の上に初めて海イグアナを見る。世界でもここにしか居ない動物だ。ここで独自に進化した動物で、海藻しか食べない珍しい動物だ。大人しい動物で、元々保護色であったのであろうが、此処では体表は黒で黒い溶岩に溶け込んでいる。大きさは5−60cm。暫し眺めた後、突堤に向かい水際を歩く。突堤に3−4人の子供が居り、カニを掴まえている。現地人には許されているのであろう。釣りの餌にする様だ。別の子は釣りをしており、獲物は10cmに満たない胴体円周方向に黒い縞の入った小魚であった。突堤の垂直な壁には15−20cm程のイグアナの子供が彼方此方に見られる。突堤に上がると、此処にも同じようなイグアナが沢山いる。成体は見られない。子供は子供で集まる習性があるのだろうか? 上から海を眺めるペンギンが一羽優雅な泳ぎをしていた。大きさは4−50cmと小柄である。

時間があるので更にその先の浜を歩く。引き潮で海中にあった溶岩が現れており、其処には沢山のベニイワガニいる。普段はジッとしているが、動きは早く、横だけでは無く、前にも歩く。又ちょっとした岩なら飛び越えたりもし、俊敏なカニだ。

皆が揃うと車でゾウガメの繁殖場に行く。此処ではGarapagosの別々な島で独自に進化した何種類かの亀を孵化繁殖し、野生に戻した時人間が持ち込んだ猫や鼠等の肉食獣から身を守れるよう10年程育成する。甲羅が30cm程になると其々の島へ返すという。

抑々何でこんな事が必要なのか?生態系の頂点にある人間がその原因である。Galapa―gosが最初に西洋人に知られたのは1535年と言われている。その当時は各島の独自の環境下で進化した13種類の亜種が何万も居たという。西洋人はこれらの島々を、海賊の根城、捕鯨船の補給所として利用し、食料として恰好な亀を大量に捕獲したのである。亀は他の動物と比べ、食料なしに長期に生きることが出来、新鮮かつ美味なタンパク源として捕獲利用され、この為数が激減し、3亜種は完全に絶滅した。実に強欲で、愚かなのは人間なのだ。

Galapagosを代表する動物はゾウガメである。Galapagosはスペイン語で鞍を意味するGalapagoに由来する。ゾウガメは現在10種の亜種がいるが、その内甲羅が鞍型をしているのが6種、全体が丸く甲羅の高さが高いドーム型が2種、後はこの中間型である。

Galapagosは世界に通じる地名として定着した。しかし正式なSpain語名では Archipeilago de Colon(Colon諸島、コロンブスの群島を意味する)である。大陸とは歴史的に一度も接することの無かった、これら海洋島は火山が治まり、植物が生えだした頃、南アメリカ大陸より、流木等に乗り偶然漂着したゾウガメ、イグアナ等が辛うじて生き延びる環境となった。ここで、イグアナは陸と海の2つの亜種が出来、又ゾウガメは島の環境により甲羅の形状、その他の点で変わった亜種が派生した。例えば草原の亀は余り甲羅の形状で生存に大きな影響は出ないであろうが、低木の生えている土地での生活には甲羅の高さが高いと移動に支障を来たす。又底面に草が無く、木の葉など高い所のものを食べるには首の伸長に邪魔に成らない甲羅の形状が必要となる。Dawinは生活環境と甲羅の形状との相関性に着目したのであろう。

 

ゾウガメの繁殖保護センターでは場内で産卵される卵は勿論、自然界からも出来るだけ卵を集め人口孵化繁殖させている。生まれた卵の向きは非常に大事で、天地を間違いない様に即座に卵の殻に印を付けて孵卵器にいれ温度管理をするという。孵卵温度の高低により孵化する雄雌の比率が大きく変わるという。卵の大きさは略鶏卵の2倍で、3か月ほどで孵化すし、その後10年程保護育成し自然界に返す。甲羅の大きさは30cm程に成って居る。

生まれたばかりは手の平に乗るほどの大きさで、これ等は甲羅に印を付け、猫や鼠の入らない箱の中で育てられる。甲羅の大きさが10cm程になる場内の野外で飼育する。餌は草や木の葉である。

繁殖所からは歩いて湿地帯を通って宿に向かう。道路の砕石とする為に溶岩を掘り出した低地は水が溜まり可なり大きな沼と成って居る。フラミンゴやその他の水鳥が見られて、長閑な所だ。

湿地に行くと、ここには4種類のマングローブの木があると、ガイドが葉や幹の特徴を説明してくれる。湿地は海から可なりの距離があるが、此処にも海イグアナがいる。又海のカニとは違い、甲羅の大きさが2−3cm程のカニが沢山いる。右左の鋏の大きさが極端に違いFiddler crab(バイオリン引き)と呼んでいる。五位やマネシツグミもいる。Finchの類が直ぐ傍で飛び交っている。水のある所は幅広い木道が用意され、よく整備されている。周りには所謂熱帯の大木や樹高の高い木もない。又、樹種も少なく、大きな葉の木もない。これは鳥の運び込んだ種が小さく、種類も限られたからであろう。ドングリやクルミ等の種子を鳥は持ち込めない。サボテンはウチワサボテンとハシラサボテンの2種が彼方此方で見られるが、これらの種子は鳥が持ち込んだという。

3キロ程歩き宿に戻る。部屋には野外の階段から上がる。階段の上がり口に茶色の亀の置物がある。地上からの高さは40cm程であろうか?この上には何時もヨウガントカゲが居る。黒と灰色の縦縞をしており25cm程のものと其れよりやや小さい2匹の内どちらかがいる。これ等は雄で、雌は全体に橙色をしており体長はその半分であるが、成長の過程かも知れない。
夜は雨が降る。

5月6日:宿からやや離れた港へ車で行き、其処から船に乗る。港にも沢山アシカが居る。天気は良くなっている。日中雨が降らずに助かる。船が出ると、周りに泊まっている船の間を巡る。停泊中の船は鳥やアシカの格好の御休み所だ。カモメは元より良く止まっているのがペリカンだ。それに青脚カツオ鳥、赤脚カツオドリも止まっている。足の色が灰色掛った青色をしている。水掻きが付いていて、何処となく漫画に出てきそう鳥だ。

 

又殆ど船にはアシカが1−2匹、船のオーナー然として居を構えている。人間のHome― lessより可なり格式高い生活をしている様に思え、可笑しくなる。船も家も持つ必要は無く、使いたい時に使えればいいのだ。当然そこで排泄もする筈であり、船によっては金網を張り、彼らの侵入を阻止しているが、大半の船は無防備だ.先住者として彼らを許容しているんであろう。

略平らな島に近づくと、ペンギンが何羽か岩の上に見え、又泳いでいるのも見える。船を降り上陸する。黒い溶岩の表面が一面に白く見える。鳥の糞であろうと思って居たが、どうも違う。白い藻である。ガイドに訊くと霧状の雨が頻繁に一方向から吹き、風上から見ると黒い溶岩の表面は白一色に見えるのだと言う。このことは山でも起こり、風下の斜面と風上の斜面では降雨量が極端に異なり、全く異なる植生が見られると言う。幅40−60cm程の遊歩道があり、その外には出ない様にと注意がある。イグアナの卵を踏み潰す恐れがあるのだ。島は腰ほどの低木が生えている所もあるが、大分は溶岩とその風化したもので覆われている。イグアナの群集地があり、可なりの数のイグアナが重なりあって居る所もあった。時折鼻から水を吹き出し、体内塩分を排出している姿も見られた。又通路上にジッとしているのも居り、人が直ぐ傍を通っても全く動かないのも何匹かいた。動物同士がお互いこれほど気にしない所はここ以外に無い様な気がする。ここは全ての動物の楽園であろう。

しかし、近年種の絶滅の危機がこれらの動物にも押し寄せて居るのだ。実際ここでも白骨化や、干物状になったイグアナの死骸を幾つもみた。

ガイドによると人間の経済活動によりエルニニョ現象の周期が極端に短く成ってきているという。我が国の気候にも大きな影響のあるこの現象は、低緯度の東太平洋の海水温が高くなる現象である。逆にこの海域の温度が下がる現象がラニニャである。海水温上昇は盛んな蒸発を越し、その結果大雨を引き起こす。陸地では高温でもあるので、植物が繁茂し動物たちの餌は豊富になる。海洋動物がどうか? 高温により、海藻が死滅し、餌が極端に少なくなる。海イグアナなどは大量に餓死する。ラニニャの場合はこの反対で、陸地は乾燥し植物が育たず、陸地の動物が餓死する。この現象が頻繁に起これば、海陸どちらの動物にとっても個体数を回復する期間が無く、暫時絶滅の運命を辿ることになる。人間は今や他の動物の生存を左右する存在に成って居ることをモット自覚すべきなのだ。

溶岩はここでも複雑な地形を作って居る。深い水路の様な所があり、此処はサメの寝床だとガイドは言った。波の影響を受けず、眠っていても流されない場所なのだ。小さな島、Tin―  toreras,の探索の後、船に乗り又移動する。

小さな湾で船は泊まり、そこで皆でShnorkelをする。水は綺麗であるが、海底は灰色で余り綺麗ではない。日本の海の方が、海藻も多く、色彩も豊かだ。サンゴも見られえるが、疎らで種類も少なく、余り綺麗ではない。魚も思ったほどは居なく、期待したほど綺麗なものも居ない。只ハワイやバハマの海ではモット沢山の綺麗な魚が居たことを思い出す。甲羅が50−60程の亀が優雅に泳いでいるのは印象に残っただけだ。ゆっくりと鰭を動かし、優雅に滑空している様であった。

港に戻り、其処から宿まで浜辺伝いに歩いて戻る。天気が悪く成り出し、雨となる。夕食後、明日のマラソンのコース説明がある。Sierra Negra Volcana Mara―thon(黒山火山マラソン)である。最近では2005年に噴火があった山(1124m)を途中から上り、規模では世界第2のカルデラの一部を回り、折り返し下るコースである。
雨は可なりシッカリと降っており、朝まで続く。

5月7日:マラソンの日だ。雨が上がったのは幸いであるが、走路の状態が気に成る。6時半に車で出発点にむかう。車の通れる砂利道の終わりが、山道の入り口になる。トイレがあり用を済ませて、20人余りが走り出す。最初は上りであるが、勾配は緩い。島全体がShield  Volcano(楯火山)出来ている為だ。これはこの島だけでは無く、Galapagos諸島のどの島も楯を横に置いた様に略平らな地形をしている。火山のタイプとしてはハワイと同じであるが、此処の溶岩はハワイと比べても遥かに粘性が低く、流動性の高い為にハワイの様に高い山は出来なかったのである。

カルデラ(7.2X9.3Km)を左手に見ながら短い草の生えた小道を走る。カルデラは霧で満たされており底は見えない。雲の先に広がるのは黒い溶岩の広がりだ。霧は徐々に上がりだす。4−5人が一緒に走っていたが、時々写真を撮ったりする。僕は今回カメラを忘れてしまったので、言われるまま写真に納まる。

今回僕より年配の人が2人参加しており、この2人がやや遅れる。折り返して会った時にその一人は膝から血を出していた。折り返しで、見ていると又倒れ、助け起こす。肩を打った様だが大丈夫だという。この辺りは鋭い溶岩のガレバなので転べば出血は免れず、注意して走らなければならない所だ。折り返して暫くはこの様な所を走り、カルデラの淵に出る。左に曲がり、カルデラと並行する別の小道を降りる。草が伸びて、路面が見えない所があり、此処も慎重に走らなければならない。路面は泥と水溜りが多く、滑りやすい。其れに反対方向から多くのハイカーが列を成して上って来るので、これらの人とすれ違うのに時間がかかる。

漸く上り口の道路に出る。砂利道を5キロ程走ると中間点で給水と補食をする。雨具や給水ボトル2つをバッグに背負って走っていたが、その必要は無いと判断して車に積み込む。

水の心配はあまり必要がないと昨夜聞いていた。喉が渇けば、彼方此方にあるGuavaの果実を喰えば良いのだ。500ccのボトルに水を入れて走り出す。次の給水点は9キロ先だ。この辺りからは単独走となる。彼方此方にある道標のピンクリボンや黄色の矢印を探しながら走って行く。砂利道の状態は良いが、小石が靴に入るのが難点だ。時々靴を脱ぎ、石をだすのが厄介だ。この為に持って着たスパッツを付けずに来たことを後悔する。道の両側に日影になる木が茂って居り、Guavaの果実も見える。中ぐらいのミカン程の大きさで、黄色く丸い。落ちて割れているものを見ると、果肉はややピンクを帯びている。レース中これのお世話になることは無かった。走行中人にも車にも会うことが無い。大自然の中の単独走は爽快である。

道中彼方此方に民家があり、バナナや柑橘類の栽培、放牧などをしている。人影は見えない。路傍には風船の様に膨れ上がり悪臭を放っている馬の死骸があった。他のレースでは見たことの無い風景だ。砂利道を離れ再び小道に入って行く。木立の中の道で薄暗い。Garapagosは97%が国立公園で人の居住区は3%しかない。しかし、国立公園の一部を農業用に利用を認めているのであろう。右左に鉄条網を張った土地の境界を暫く走る。軈て木立が切れ明るくなる。人家もある。暫く下って行くが目印がない。走った足跡を探すが、これも見つからない。試案の末、戻りだす。又思い直す。引き返してもう少し先まで行ってみることだ。先ほど引き返した点の100m程に目印が見えたので、やれやれと思う。

その先又藪の中に入って行く。下りがややきつく、背丈を超す藪の中で足元が見えない。V字型に溝の掘れた滑りやすい道が暫く続く。転ばない様に慎重に歩を進める。長いこと走り車の通る道に出る。細い道は5キロ程であろうが、この区間が最も長く感じられた。漸く出た道は複雑に曲り、印は付いているが間違い易い所だと昨夜の説明にあった所だ。慎重に方向を選び走って行くと折り返しのランナー2−3人にであう。この先溶岩チューブがあり、そこで折り返してきたのだ。先ず給水所で補給をする。洞窟に入る為にヘルメットと電燈を貰う。

溶岩チューブとはそもそも何か?前にも書いたことがあるが、火山の作る一つの地形とでも言えようか?溶岩は最初は流体である。地表に出た時は高温で、流れる過程で経時的に温度が下がり固まり固体となる。固化は温度の低い外側から始まる。外側が固まりパイプ状になった中を流体状の溶岩が流れる。この時溶岩の供給が止まるとどうなるか。パイプ内の溶岩は流れ続け、パイプ内は空洞となる。この様にして溶岩チューブは形成される火山の一産物で、彼方此方で見ることが出来る。昨年暮れに火山の旅をしたハワイ島のKonaの近くには立派な溶岩菅が見られた。
洞窟の中は暗く水が出て居る所もあり、涼しい。天井が低く背を屈めて進む所もあるが、可なり大きな径と長さがある。洞窟の出口が折り返し点で、其処から戻り走り出す。給水所で借りた物を返し、水を飲んで走り出す。

残りは12キロ、砂利道を走り続ける。小雨が降りだすが、気にするほどの事ではない。気温は25度程度なので、少し降った方が良いくらいだ。緩やか下りで楽に走れる。車に会うことも無く、空気も美味しい。1時間半程で道は舗装となる。と間もなく今朝ここがFinish地点だと通り掛けに説明にあったCampo Duroの表示が見えてきた。

終わりは呆気なかった。大きな農場で、その中に接客用の施設がある。その芝生を矢印に従って200m程先に小さいながらFinishのアーチが見えた。靴はぐちゃぐちゃ泥だらけだが、怪我をせずに完走出来たので良かった。75歳のアメリカ人と、66歳の英国人はレース中の転倒で翌日からはどちらも腕を釣っていた。走りの前に海岸の岩場で足を切り、又出発の前に腰を痛め走ることが出来ない人も居た。無事乾燥できたことを多としたい。

先に着いた連中は飲んだり食べたりして寛いでいる。シャワーを浴びに行く。広大な敷地でゾウガメも何匹かいる。繁殖の時期で,一番は交尾の最中であった。話には聞いていたが見るのは初めてだ。ゾウガメは大きい。大きなものは300Kgにもなるという。巨体が巨体の上に乗り、ユックリと上下と言うか前後と言うかの運動を繰り返す。15−20秒の間隔で、野太い声が聞こえる。如何やら声を出しているのは雄の様だ。子孫繁栄の為に大仕事をしている様に聞こえた。

靴も洗い、サンダルに履き替え、着替えの後腹ごしらえをする。遅れていたランナーも到着し、表彰式が始まる。1位はNew Zealand人で4時間20分、2位はその連れで26分程遅れであった。僕は7時間17分、最後の人は9時間を超えていた。

明日は移動の日なので、何とか靴を乾かしたいが、古新聞等の紙類はない。此処はラジオもテレビも新聞も無い所なのだ。全島で人口が3万足らず、本土からは1000キロも離れている島ではこれらのサービスは成り立たないのかも知れない。靴は時間を掛け、ドライヤーで乾かすしかない。

5月8日:Guayaquilの戻る為、2隻高速船に分乗し、もう一つの空港に向かう。  Baltra島までは2時間半掛る。其処までいくのに何回もの乗り換えがあるという。先ず、小舟に乗り、高速船まで行き、そこで乗り換え、Baltraの手前の水路を渡るのに又フェリーに乗り換える。Baltra上陸後バスで空港に向かう。

この島は殆ど平らなで,乾燥した島で植物も殆ど生えて居ない。空港は先の大戦時にアメリカが作ったものである。長い間、Galapagos唯一の空港であった。

今日は1日移動の日だ。ここからGuayaquilに飛び、そこで乗り換えアンデスに近いCuencaに行く。乗り換えの待ち合わせ時間も多く、宿に着いたのは夜遅くなってからであった。

5月9日:泊まったホテルは植民地時代の大農園の一部であり、敷地は広大で建物にも風格がある。Hacienda Uzhupudと発音しにくい名前がついていた。朝食の後、車で3000mの高地に行き、其処から更に上りの走りとなる。傾斜もキツク思う様には走れない。1時間半を掛け漸く上り切り、下りだす。下りも足に応え,なかなか厳しい。日差しはキツク熱い。漸く立派な教会の集落に着くと、目指す温泉が近いことが分かる。高地の高低差のある道を10キロ余り走り、Peidro de Agura(水石の意味)温泉に着く。腕にテープを付けてもらい、中に入る。脱衣場、ロッカー、シャワーが整っており、赤い岩盤に掘られた温泉がある。温泉は澄んでいるのもあり、茶色、灰色など色の付いたものなど幾つかある。冷泉、蒸し風呂、プール等もあり立派な施設だ。洞窟を降りて行った中にも風呂が沸いている。旅も終わりに近づき、こうしてユックリ温泉に浸かれるのは有り難い。食事の後、チリの赤ワイン買って、  Cuencaの市内の見物に出かける。Equadorの中南部に位置しアンデスの谷に位置するこの町は、正式名はSanta Ana de los quatro rios de  Cuencaと長たらしい名を持つ。名前にもある様に4つの川が町の中を流れている。建物、街並みがSpainのCuecaの面影が有ることから、Cuencaと呼ばれるようになり、これが今の通称である。Equador第三の町で、人口は約45万、旧市街は1999年に世界遺産に指定され、立派な教会や建物が見られる。市場にも行ってみる。色々な果物、野菜、肉などが売られていた。2階は主に花やハーブ、薬草類の店が並ぶ。Equadorの民間療法では他の南米諸国と同様、シャーマン(祈祷師)が今でも権威を持っており、色々のハーブや薬草を対象者の周りに振りかざし、呪文を唱えて治療に当たっていた。周りにはハーブ等の良い香りが漂っていた。仲間の2−3人がこの加療(?)を受け幾らか払っていたが、余り効果は期待していないようだ。

最後にパナマ帽の店に行く。前にも聞いたが、パナマ帽は実はパナマで作られたものでは無く、Equadorが原産地なのだ。椰子に似た木の繊維で織られたこの帽子は、パナマ運河の建設当時、通気性の良い労働用の帽子として愛用され、其処から世界に広まったのだという。Cuencaの商人はこの帽子とマラリアの特効薬キニネの流通を押さえることで財をなし、町の経済と政治を抑える様に成ったという。これ等の豪商は今では道が開通しているが(1950年開通)しているが、Guayaquil−Cuenca間約250キロの山道を港から町まで車を人力で運び込んだと言われる。そう迄して権力を誇示し、町で車を乗りましたかったのであろう。店では殆ど人が帽子を買っていた。物は良いのであろうが、5000円以上するものだ。僕は今の帽子を大事にしたい。

5月10日:バスでGuayaquilに戻る日だ。早く出発し、谷合を上って行く。Cu―encaの町は2500m程であるが富士山の高さを超える辺りにCajas国立公園があり、其処で休憩、展望台から幾つかの氷河湖を眺める。赤道直下ではあるが此処にも氷河の爪痕は残っている。国立公園内の散策路も四方に見える。ここに来る手前には一寸した休憩所があり、其処では羊の姿も見られた。又この高さの山肌には可なり広範囲にわたり、松の植林が見られる。

時折野生のラマの姿を見掛ける。バスは更に上って行き、高度計が4000mを超えてから漸く下りだす。ここからは一気に0m迄下るに違いない。谷合の道を曲がった道をバスは降りていく。道路の山側は切り立っており、岩石が彼方此方に落ちている。雨が降り地盤が緩むと頻繁に落石が起こるのであろう。時には一人では動かせないほど大きな石が道路中央に転がっている。対策はしている様ではあるが、万全ではないのだ。

海に近いアンデスの気象は複雑な様だ。下って行くと雲の中に這入って行き、暫くするとそこから抜け出す。次第に大きな木が多くなる。2時間程下って行くと平地に出、道も広く真っ直ぐになる。サトウキビを作っているが、田圃も見られる。一昨日機上からGuayaquilに近づくと広大な水田状の広がりを目にしたが、矢張り水田だったのだ。海に近い低地で、水の集まる所だ。低い所は至る所水である。家は皆高床式で小さい。通年湿気が高く、生活しにくい土地の様だ。

海と陸との境目、Equador最大のマングローブ保護区、Manglares Chu―ruteに着き、車を降りる。マングローブの中を10キロ余り走ることになる。蚊が多いとの情報で、一応虫除けを塗って出かけたが、走行中,蚊には遭遇しなかった。初めてのコースで主催者も走ったことは無いが、ほぼ平らとの事であった。一応早く出たガイドが走路の目印を付けるので、それに従って走れば良いとの事であった。ダートの道を走り出すが、至る所に水溜りがあり、靴が濡れない様に、又転ばない様に、注意を払い走る。30分も走ると、この努力が無駄であったことが分かる。数メートルに渡り川が道を横切っており、其処を超えなければ先に進めない。靴は一つしかなく、明日は帰国の途に就くので濡らしたくは無いが、仕方なく川を横切る。其処から500m程進むと右に入る印があり、入って行くと暗い熱帯林で登りとなる。可なりキツイ上りが続く。全体に平らな筈だが、まあ−、良いか。変化のあるコースを用意してくれたのだと思って上って行く。暫く上り、又下り道路に出て暫く走ると、保護区の別の入り口にでる。ここが走りの終点であった。辺りには、トラックやオートバイが数台停まっており、其々に可なりの量の生きたカニが積まれている。カニの甲羅は10cm弱で、足を紐で結わい整然と箱状に荷造りされている。午後2時頃であったが、この日の漁の終わりであろうか、其々に2−30キロ程のマングローブ林の恵みが有った様だ。

最初に泊まったHiltonに戻り、先ず靴を乾かす算段をする。受付に行き、古新聞を貰い靴に入れる。これが一番いい、乾燥方の様だ。2−3度取り替えると、殆ど乾くのだ。シャワーを浴びた後、解散パーテーに出る。Hotelの一室を借り切り、ビュッフェスタイルの食事と、酒類は各々の持ち込みでの宴であった。5−6人が其々の円卓を囲んで、旅の思い出などを話し合う。隣には走りで2度転び、左手を釣っているRobertが座っていたので、肉を切ってやろうかと言うと、素直に受けてくれる。遠慮の無い所が良い。彼は60で走りを始め、75になった今もBostonを走っているという。老夫婦で暮らしているので、是非来いともいう。又、日本には一度来たことがあるが、又行きたいとも言っていた。旅の仲間の連絡先は全部分かっているので、メールで簡単に交信することは出来る。どちらかで再会出来るかはお互いの気持ち次第だ。

5月11日:ホテルのチェックアウトは正午である。便は夜の11時過ぎなので、最終的にホテルを出るのは9時でいい。その時間での空港へのShuttleを予約し、荷物を預け、当てもなく町に出る。治安が悪く、是とて観るべきもの無い町なので、結局今まで歩いた所を再度歩く事になる。只同じ所を歩いても違った光景がる。厳密に言えば同じ所等無いと言える。宇宙に漂うこの星は瞬時として同じ所に留まることは出来ず、時々刻々違った所なのである。

我々が目にする自然の地表も時々刻々変化している。只それを我々が認識出来ないだけだ。新しく固化した溶岩も最初の雨の一滴で崩壊が始まる。特殊な場合を除き、地表の変化は1000年では余り目立ったものにはならない。変化が分かるのは100万年の単位を要する。Isa―bela島の大半の溶岩は50万年程前に出来とされるが、未だに出来たままの流れの模様がそのまま残っている様に見える。

一方人の進む町の様子は時々刻々の変化が実感できる。その時その時違った光景を見ることが出来る。只これらの変化は余りにも早すぎ、余りにも日常的であるので印象は薄く記憶に残らない。

略3度同じ所を歩き、最後に初めて気付き印象に残った物が一つだけある。浮草の花である。根なし草とも言われているが、ちゃんとした根は有るのであろう。流れながら水中から養分をとっているのであろう。布袋草の様に葉は丸い。一抱えか、それより大きな塊で流れている。その中心から出た芯の周りに3−4cm程の薄紫の花を沢山付けている。褐色の流れの中に、又人間の捨てた汚物の中に、清楚な花には感動を覚える。何故にこれに最後まで気が付かなかったのか。最後の町歩きは無駄ではなかった。

暗くなる前にホテルに戻り、ロビーで本を読み時間を過ごす。未だ何人かの仲間が残っており、最後の挨拶を交わし、お互いの無事の帰郷を希求する。

往路の遅れにより、今回が初めてとなるAmericanの便は順調であった。Maiamiで長い待ち合わせがあったが、これは予定通りである。Dallusでは出発が1時間程遅れたが、これは異常気象の為止むを得ない。結局1時間程遅れで成田についた。

 Galapagosは1400万ヘクタールを超える広大な海洋公園である。人の住んでいる島は僅かに4島(名前の付いている島は120余り)である。5泊7日の滞在では本の1部しか見られなかったが、その特殊な火山形成地形、海洋島の特殊な環境による特異な生態系の記憶は生涯残る物となろう。

旅の費用: ツアー参加費、40万(Guayaquil Hilton 2泊、Guayaquil−Galapagos−Guayaquil−Cuenca−Guayaquil,Galapagos島内観光、マラソン、一切を含む)、航空運賃、26万(Narita−Guayaquil),ホテル代、25000円、国立公園入園料その他、11500、チップ(ガイド、ホテル等)25000、タクシー・食事、4000、合計73万弱

(掲載写真は千田氏その他走り仲間撮影)  同行者千田虎峰氏のレポート


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平成26年3月27日掲載

印度雑感


2月中旬家内と共にインド北西部Delhi、JaipurとかAgraに行ってきました。名所旧跡を除きビックリする様な物がありました。

1. 卵の黄身は略真っ白:最初朝食でScrambled Eggを食べて、黄身抜きの物であろうと勝手に思いました。翌日ゆで卵を食べ、黄身が白いのが分かりました。翌日オムレッツを作って貰いましたが、これも黄色く無いのです。インドでは黄色の卵は好まれないでしょうか?

食の好みは世界万別です。インド料理の代表は何と言ってもカレーです。朝食からカレー風味物が出てきます。カレーの色は黄色です。この色を際立たせるために、卵を白のしたのでしょうか?態々黄身の白い卵を作って居るのでしょうか? 餌に黄になる成分を入れなければこれは可能と思えます。訪れた地域は緑豊かな広大な平地で、黄身を黄色くさせたければ、これ等の草や葉物を与えれば簡単に出来る事です。インド料理の詳しい方で本当の理由が分かる人に教えて欲し良いと思います。

僕は黄身の色の濃い物が美味しく思えます。どちらかというと、橙色に近く目玉焼きにすると黄身が盛り上がっているのが旨いと思えるのです。

2. 生物多様性:このあたりの町は生物多様性を地で行っています。路上には牛、豚、山羊、犬、猿、栗鼠、鼠等が野生の放し飼いの状態で生きて居ます。その他、食用及び乳を搾る為の水牛は路上に面する軒先に繋がれています。荷役の為の、ロバ、馬、ラクダ、象などが車の走る狭い道を悠然と歩いています。之ほど沢山の動物が100万を超える都市の中で見られるのは印度以外では無いと僕は思います。もしあれば教えて欲しいものです。猫と鶏は居ません。不思議に思い町の人に訊いてみました。犬が食料にしてしますので、居ないことが分かりました。

元々牛はヒンズー教では聖なる動物として殺すことも、食することも出来ません。Nepalのカトマンズにも路上に牛は居ます。彼らは路上の主で、車は彼らの動きに合わせ、避けて進みます。
どの動物の命も大事で、人間の生活だけが尊重されなければ成らないと言う考えは無い様に思えます。動物の動きを待つ寛容さとユトリが感じられます。

牛や路上の動物の餌は何でしょうか?市内には街路樹を除き緑はありません。草などはどこにも見当たりません。彼らの餌はゴミです。ゴミは街角に捨てて居ます。其処に牛、豚、山羊、犬等が集まり、あまり争う事もなく餌を探して喰っています。動物がゴミ処理(減容)に役立っております。餌になる量は十分で無い様で、余り太った動物はいません。不思議と町には糞害は余り有りません。牛の糞は乾燥させ燃料とする為に貴重品で、路傍には直径25−30cm、厚さ5cm程のケーキ上の物を作り、乾燥させている光景が処々に見られます。象の糞などは大量で水分も少ないので良い燃料になると思われます。

町角へのゴミ投棄、人の放尿、脱糞もあり、衛生状態は良いとは言えません。 偶々見ていたドイツの国際放送ではDelhi Bellyを話題として居ました。韻踏んだ語呂合わせでデリー腹、下痢を意味します。屋台の調理も近年では衛生状態に留意しているが、其れでも下痢は起こるので、注意する様にとの内容でした。

3. 素晴らしい運転技術:Delhiの南西にJaipur、南東にAgraあります。各々間の距離は略250キロで、幹線が通っています。Delhi-Jaipur、Jaipur-Agra間は片側2車線の道路です、高速道路ではありません。Delhi市内の見物を終わり、Jaipurに向かうと驚きが始まります。乗った車は日本の小型車で運転手、ガイド、我々夫妻の4人で郊外に抜け南西を目指しました。インドは左側交通であり、中央分離帯を境に左側を走る。土地は広く、ほぼ平坦で道も粗真っ直ぐである。交通量は驚くほど多い。特に大型のトッラクが大半で路上面積に対して、車の占める率は何所にもないほど大きいと思う。トラックの長さも日本では見られないほど長くその粗全数がインドのTATA社製である。今までこれ程多くのトラックが走っている道路は見たことがない。インドはトラック王国だ。

これらの大型車を尻目に我々乗っている小型ポンコツ車は右に左に追い抜いて行く。一般道路ではあるが80−100キロを超える速度だ。ビックリするのは追い抜き方だ。方向指示器(Winker,blinker,indicator)等は唯の一度も使わずに追い抜いて行くのである。車線を分ける点線が真ん中に走り、左の端には連続した白線が走る。その左側は恐らく緊急または補修用車両の道路(と思える)となっている。これ等の車線は全く無視である。車線を跨いで平気で走る。ヘルメットも被らず3−4人が乗った小型のオートバイが高速車線(と思える)を平気で走っている。要は走れる所、開いている路面は何所でも走るのがインド流運転なのである。速度の制限の表示は殆ど見当たらない。ガイドに訊くと、交通法規は一応あるという。唯法規を守っていたのでは実生活が成り立たないので、御互いが交通違反をしながら運転をしている。違反をしているのを自覚しているので、御互い注意する。これで、事故は防げるのだという。不思議な論方だが,まんざら嘘では無いらしい。合計1000キロほど走ったが、この間事故らしい現場を見たのは一回のみであった。仮に事故があっても重大な人身事故以外は警察の立ち会いも無く、当事者間で解決し、保険の絡むケースも殆ど無いという。

幹線を走っていると、日本では先ず起こりえないことをしばしば目にする。最もビックリしたのは分離帯よりの高速車線を此方に向かって水牛三頭が横隊で突進して来たことだ。優に一車線の幅の或る巨体である。運転手は咄嗟に左に舵を切り、何事も無かった様に走り続ける。オートバイや車が進行方向から此方に向かって入って来るのにも何回か出会った。この様な時正規の運転をしている車が警笛を鳴らす事は無かった。相手の間違いには理解の範疇を超えるほど寛容なのだ。

AgraからDelhiまでは立派な高速道路がごく最近完成した。中央分離帯の植木がDelhi近づくと段々と大きくなる。何年か掛けてDelhi側から工事を進めて来たのであろう。片側3車線、最左寄りの側線を入れると4車線と言うところか?立派な高速道路だ。道路は極めて空いており、車は疎らである。料金は約200キロで7−800円である。高速料金が高い理由で、物流用の大型車は殆ど走って居ない。速度制限の表示は無いが、乗った車は80キロ近辺で一番左寄りの低速車線をのんびりと走る。昨日までの無謀とも思われる追い越は嘘のようだ。最も乗った車は古く、最高でも110キロ位で、安定して走るのは80が調度良いのであろう。之もインド流の運転方の様だ。

路上で見られるもう一つ変わったことがある。何十か国か回った中で、これがみられるのは印度だけであった。殆どの大型トラックの後部目の高さにBlow Please、とかBlow Hornと大書してあるのだ。警笛成らせの意味である。

信号が殆ど無い市街の交差点雑踏の中ではお互いに短い警笛を鳴らしあって、意外とスルスルと思いの方向に向かう姿が見られる。道路には車の他、人、人力車、ラクダ、ロバ、水牛、馬に引かれた荷車、象やラクダに乗った人、低速から高速の速度の異なる移動体が犇めき合った状態だ。車と車、その他の移動体との前後左右の間隔は人一人通れない込み合いの中である。ガイドによれば警笛は車同士の会話だという。車が恰も感覚を持った生き物の様にお互いの接触を避け、思う方向にすり抜けて行く様にも思える。町の中には大型車の侵入は禁止されているので、警笛成らせの表示を見たのは郊外に出てからであった。

4. 聖なる河:インドで宗教と言えばヒンズー教である。国民の約80%がこれの信者である。
因みにこの地発祥の仏教は回教により滅亡、途絶える。20世紀に入ると、Untouch−ableと呼ばれインドで最下層とされる人々を信者とし、再興されたがその数数十万、12億あまりのインドの人口では%の単位ではゼロと言える存在である。何と現在印度仏教を率いるのは日本人であるという。発祥の地インドより大陸を経て最以遠の地日本に着いたのは千年余りを要した6世紀の後半である。それから約千五百年、この最以遠の地の日本が、インド仏教再生の為に関わっているのは何と言う縁であろうか?

ヒンズー教徒にとって聖なる河はGangesである。その最大の支流はYamuna河であり、Taj Mahalの立つ丘の北側100m程の所を流れている。水は茶色に濁っており、色々の浮遊物の中で洗濯をしている人の姿も見える。岸辺に降りて行けば汚臭が漂いそうな気がする。ガイドに依るとガンジスに次ぐ聖なる川である。元より、ここまで数百キロ流れてくる間に、生活排水、農業排水等で相当に汚染が進んでいる上に、人々は川に汚物やゴミを当たり前の様に投棄するという。ガンジスの汚れも想像に辛くない。

この様に汚れきった川が信者にとっては聖なる流れであり、この水に身を浸けることが無上の至福だと言うのだ。これは僕の創造を絶する。聖なるものとは何なのが分か無くなるである。日本にも聖地と崇められ所は数々ある。これらの所に共通した事柄が幾つかある。先ず第一は人による汚れ穢れの無い清浄さである。汚物やゴミは勿論、塵一つさえ落ちていない所である。神社、仏閣の人造物は元より、水源、大木、巨石等も人為的な注連縄を張り巡らせる前に、先ず人による穢れの払拭に神経を使っている様に思われる。キリスト教でも回教でも寺院やその周辺は清浄である。ヒンズーの世界は異なる様だ。清濁併せ呑み、全てを良しとし、全てを聖とするのであろうか? 分からなくなる。70を過ぎて尚迷うのである。まだまだ世界は広いのである。

5.二重価格性とチップ:旅の初めにガイドが、インドのチップの目安を話してくれた。トイレの使用は10ルピー(略20円)、ホテルは50ルピー、ポーター等には20程度とのことであった。ポーターやホテルでのチップは、当たり前の事ながら強制では無いとも付け加えた。同じサービスに身を置くガイドが最初にこのことに言及したのは正しいと思える。お互いに同業者の利益を擁護、促進させるのは当たり前であろう。チップが働く当事者に取って収入源の大事な一部となっている社会制度の下では、受けたサービスに対して、これを払うのは当然であろうと僕は考えている。

  観光地は資源維持の為入場料を取るのも当たり前である。インドではこの価格が二重に成っており、外国人は高い。具体的な数字は忘れたが、高いのである。唯入場後の扱いも若干異なる。Taj Mahalの場合、通路が異なって居たり、本殿内に入る前に現地人は靴を脱いで入るが、外国人には使い捨ての靴カバーを渡してくれる。一般的に入場料を取る施設内のトイレは無料であるが、Taj Mahalでガイドがトイレはここも10ルピーだと言った。入り口傍のトイレ(ここしか無いらしい)を使い10ルピー払う。場内を2時間程掛けユックリ周り、又立ち寄ると可笑しな事に気付く。トイレの前には小さな机があり男女が料金の徴収をしている。その横にやや斜めに向けた縦50、横70−80cmの看板が立っている。地べたに置いただけの物で任意に角度を変えられるものだ。看板には外国人は無料、現地人は2ルピーと大書してあるではないか? これを写真に摂り、トイレに向かったが徴収係は手を出さなかった。勿論この事をガイドは知っていた筈であるが、御互い利益擁護の為、ここも普通の10ルピーだと言っていたのだ。

  又、寺院や城を一人で観光していると、施設の清掃をしているらしい人が手招きをするので付いて行くのと、身振りでここは写真スポットなので写真を撮ってやると言っている様だ。元々自分の写真には興味は無いので断ると、手を出した。案内料を要求している様だ。頼んだ訳ではないので、支払いは拒否した。この分では道などを尋ねる場合はチップの覚悟が必要であろう。

  これ等すべての根源は印度の貧しさにある。彼方此方にいる物乞い、10歳未満と思える子供が物売りや、ラクダの御者として働いているのを良く目にした。インドは民主主義国家を自認するが寝ず良いカースト制が残っており、法の基に万民が公平であるべしとする理念からは程遠い感じがした。

人口12億を要し、間もなく世界一人の多い国となるインドは不思議な国なのである。ガイドも運転手も短い期間ではあったが実に良く遣ってくれ、感謝したい。インドは国土も広く、本の一部を訪れただけであり,まだまだ面白い所があるに違いない。機会を作って又行ってみたい所だ。


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