平成18年8月31日開設
  
守 信夫
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プログラム

エベレストマラソン 2011.5/12〜6/8 後編
エベレストマラソン 0011.5/12〜6/8 前編
守さんの健脚な足で取材した津波被害写真
屋久島エコ.ジャ二−ランと宮之浦岳登山
みちのく横断一人旅




平成23年6月21日

エベレストマラソン 0011.5/12〜6/8 後編


5/25
ロッジのある場所が5千米に近いせいか、おそらく酸素量が平地の半分位だろうか、寝返りをうつと暫く呼吸が苦しく、更に布団だけなのでシュラフのインナ−袋に潜り込んで寝ているが、其の中に落ち着くまでも大変で有る。

本日はついに5.150米に在るロッジ、ゴラクシェブへ其処が最後のロッジ泊まりで、其の上は氷河となり、建物を建てる場所が無くなり毎年少しずつ動いている氷河の上にテントを張るそうである。8時45分出発し最初は河原の様な平坦な場所を歩いたが、其れでも息が切れて時々足を止める事に、1時間程歩いた所から急な上りが、一歩毎に呼吸が荒くなり何とか我慢して動くようにしたが。途中からク−ブン氷河を右下に見て進むのだが、氷河の上に土ぼこりか、山からの土砂か被っているので、黒く見えて土砂が重なり合って要る様にしか見えないのだが、一部分下の方が青白く見える所も有った、山の麓に目をやると白い物体が押し出されて要る様に見えるが。

このコ−スを走れるのだろうか、足を踏み外したら氷河に真っ逆さまに、、、、、、其の中を急ぎ足で通り過ぎた若者が居たが、マラソンに参加するそうである。

11時にロッジに到着し昼食後、最大の目標カラ.パタ−ル山頂5.545米へ、アタックをラッパー君の先導で登り始めたが、いきなり急登に息も絶え絶えに、肩で息を吸い一歩一歩上り詰めて、1時間程登った所であれがエベレストだと指を指され、南仙台走友会の人達が、真ん中の日の丸に私の似顔絵を書いてくれて、其の周りに寄せ書きをしてくれた、旗を持ってエベレスト8.848米をバックに写真を撮って貰ったが生憎エベレストの半分に雲が掛かり残念、隣のロ−ツェ8.516米だけがクッキリと。更に上を目指し其のうちに雲が切れてくれる事を期待したが、願いは叶わず。

 
 

頂上には五色の旗が一杯連なり、恐らく下に住む住民達の願いが込められて要るのだろう。登る途中何組かのツァ−に遭遇したが、下りでも大勢が登る人達が居た。エベレスト街道トレッキングの最終目標地に為って要る様である。

5/26
今日はエベレスト.べ−ス.キャンプまでの往復をマラソン練習を兼ねて実施を言われたが、とても早く歩けない状態に為りつつある様だ。山道はヤクが隊列を組んで、降りて来るが6月に為ると雨季に入るので、登山、トレッキングのシ−ズンが終了するので、テントなどを解体して下の集落まで運んで要るそうで、人も荷物を背負い降りて来る。

テント村が下に見える高台で、テレビカメラで遠くの山を撮って居る様だが、なんと日本のカメラマンで日本からエベレスト登山に来ているそうで、其の模様をNHKとWOWOWともう一局の民報3社の共同制作での中継で東日本大震災のチャリテ−番組とかで「Pray.for.JaPan」と銘打って世界に募金を募っているそうだ。カメラはエベレストの山頂に向けられて要るそうで、山頂アタックの模様を放送するそうだ。テント村まで降りますかと言われたが、帰りの事も考えて其の位置から引き返した。

其の夜ラッパ−君がマラソンの主催者と話し合いが有り、私の71歳と言う年齢を考えてハ−フマラソンにしたら如何かと言われたそうで、何人かがハ−フ.スタ−トのデンボチェ4.350米まで戻ったそうだが、せっかく「エベレストBC」5.364米からのスタ−トする為にハルバル日本から来たのに、それは無いでしょうと一蹴したが。

5/27
今日から私の荷物を背負ってくれる、ポ−タ−が付く事に為っているそうだが、幾ら待ってもポ−タ−が現れず、仕方なく今まで通りラッパ−君が荷物を、出発して直ぐに、日本の女性に会い、今朝BCから1時間半ほど掛けてゴクラクシュに、更のそのままカラパタ−ルに登り、降りて来た処で、一昨日エベレスト登頂に女性もアタックし山頂に立ったので、其のお祝いにチョコレ−トを買いに来たついでに、上までいて来たそうで、やっぱり若さかなと感心したが、貼り付ける日の丸や小さなフラックを頂き早速帽子に日の丸を貼り付けた。氷河の突端にテントを張っているので、行ったらコ−ヒをご馳走してくれると言われて、何とか氷河の割れ目を越えてテントへ、其処にテントを張って10日以上に為るそうだが、コ−ヒ−を頂いて居た処に、なんと一昨日山頂に立った、男性が戻って来た、下山はかなり早いのにはビックリ。

マラソングル−プのテントに戻ったら、参加者に走る時に着用するTシャツを渡していた。参加者は海外から60名と地元シェルパなど40名前後の約100名が参加するそうだ。

私以外はナムチェから一緒に登って来た様である、3時にティ−タイムと言ってコ−ヒ−の外にジャガイモ3個にショ−ト.ケ−キまで付くとは、その後氷河の突端にTシャツを着きナンバ−カ−ドを付けて集合するよう言われ、恐らくテレビ放送用にビデオを撮り、なおかつスポンサ−に見せる為の集まりか、「がんばれ東北.宮城」のカ−ドも付けたかったが、スポンサ−名が隠れるので、ラッパ−君に付けてもらった。

日本語で話し掛けて来た青年が居たが、ニュ−ジイランド人で福島県猪苗代のスキ−場で働いていたそうで、原発の事故で今度は岩手県に働きに行くそうで、夕食の時スタ−ト時の諸注意を大会役員が話していたが、それを通訳して貰った。

5/28
5千米地点に来て4日目に、何をやるのもノロノロに一呼吸置いてからで無いと次の行動に掛かれず、トイレも岩の上にテントで囲い、足の長い外国人に合せて、跨る幅も広めに、用を足すのも一苦労である。

朝食に小魚のから揚げ、ニンジン.ダイコンの和え物、イワシか缶詰めだろうが、久ぶりで魚を食べた。食後直ぐに健康診断が血圧と脈拍、目の検査が問題なしとの事か、本当は風邪の事を言いたかったが、そのままに。それでも夜眠りに付く前に、風邪薬を持って来てくれた、おそらくラッパ−君が私の体をきずかって、医師に進言したのだろう。

夕食時にも諸注意が、明朝5時食事7時スタ−トなので其の前に、点呼を取るのでスタ−ト地点氷河の突端まで遅れない様にとの事、処が寝ていて寝返りを打つのも更に辛くなり、何とか小水にはテントを出て直ぐに用を済ませたが、寝袋に入るまでかなりの時間が、更に咳き込んで痰には血が混じり赤いのが出てきた、完全なる高山病だろうか。ただ頭の痛みが無いのだが。

5/29
いよいよスタ−トの日が、走る準備にサポ−ト用タイツを履くのに可なりの時間を費やし、更にシュ−ズの紐を結ぶのも苦労する有様であった。朝食はバイキングでパンやおかゆも出ていたので、無理ムリおかゆをミルクで流し込んでやり、少しでも体を軽くとトイレへ、皆が移動始めたので、付いて行ったが思うように体が動かず、後から来た人達の邪魔に為らない様に、通り過ぎるのお待って、如何にか点呼に間に合った。テレビのカメラマンやゴクラクシュで遇った、女性も応援に来ていた。

 
 
 

7時にスタ−トの合図が女性も10名位参加したで有ろうが、最初の高い所から下に降りて、氷河が融けて川になっている所を飛び越えるのだが、もう其の体力も無くなり、遠回りをしている内に皆の姿は無く、サポ−トしてくれるラッパ−君と最初から私の動きを心配してくれた、女性スタッフの二名が私の後ろに、最初の下りでよろけそうに成ったので、もうラッパ−君が見てられず支えて呉れて、そのまま進む事に。

ゴラクシュまで5キロで普通に歩いても1時間半位だが、2.3分毎に歩を止めて、更に後から来るヤクや牛のチャラバン隊が通り過ぎるを待つ有様で、3時間掛けてやっとロッジが見える所に、何と其処に女性スタッフが馬に乗っているのでは、私の足取りを心配して馬の手配をし、その場所まで迎えに来たそうである。

 

それ程大きな馬でないので、初めての乗馬だが何とか馬上に、ユックリ歩を進めてくれたので、ゴクラクシュに到着。ナムチェまでなら500ドルと言われて、そんなに高いのと思いつつ、タンボチェまで下り、その後は走れるのではと300ドルでタンボチェまでの約束で乗る事に、ところが氷河の脇や川沿いの急坂を降りるので先導役が心配して、コ−スは馬に任せて、私を後から支えて降りていたが、慣れてきたのと確認して、また馬の先導に、上りは体重を前に下りは後にと片手でも乗れるように、またトイレでの姿勢が乗馬での体勢に役立った様だ、4.620米に下ったトゥクラで馬の休憩が水と干草をやり、私も昼食を頂いて再び出発した、練習で走った所で乗馬のコ−スに成ろうとは、マラソンはデンボチェに行くコ−スに替わったそうだ。

やはり馬も下りは慎重になるので、歩くより遅くなり4.252米のぺリチェには4時半に、とても明るい内にタンボチェまで行くのは無理と思った処にツア−会社の社長より私の掛けた、旅行保険でヘリのチャタ−しても保険が利くとの事を確認して、ぺリチェまでの来て貰う様う要請したそうで、早速支えられてヘリポ−トへ、間もなくヘリコプタ−が女性スタッフとラッパ−君と三人で乗り込み女性スタッフはナムチェで降りたようだ。

ヘリはドゥトコシの川沿いを飛ぶのだが7日も掛けて上った所を30分程で降りてしまった。途中でツア−会社の社長も乗り込み更に社員も、ルクラの飛行場に到着しルクラの病院へ高台に在る為になんと社員とラッパ−君が私を病院まで背負ってくれた。診察は行わずにベットに寝かされて、鼻からの酸素吸入をして寝かされたが、やはり酸素が不足していたのだろうか、疲れも有ったのか良く眠れた。

5/30
朝食後社長自ら迎えに来たが、また背負われて飛行場まで行くのかと思ったら、裏に回れと言われ、其処にヘリが着陸、庭にハリポ−トが有るとは驚き、一度空港に戻り燃料を補注して、カトマンズに向ったが気流の関係か山をかすめる様に、エンジンを全開にしているのか音が、うるさく聞こえた。やはり気流に逆らって飛んだ様で45分程で空港へ其処に救急車が横付けに、酸素マスクを付けられてベットに縛られてサイレンを鳴らして街中へ、途中からガタガタ道に更に静かな通りに抜けたような気がしたが、高級住宅街の中だろうかと思い浮かべながら、降りて直ぐに車椅子に乗せられて、診察台に先生は欧米系の老婦人で早速血圧と手の指先に計測器が血液の酸素量を測るそうである。

 

後で判ったが、通常は98前後を数値が出るそうだが、其の時の数値は70しか無かったそうで有る。咳も一度出るとなかなか止まらず、痰も赤いのが、聴診器で診察後病室へ一人部屋で、早速鼻からの酸素注入をしながら、点滴をそれが一本2時間程懸るのを6本続けざまに、夜中まで行われた。2時間ごとに血圧、体温、酸素測定と行われた。

5/31
トイレも部屋にあるので、それ程動く必要はなくトイレの時だけ酸素吸入を外すがやはり息苦しくなる。看護婦さんにティ−、コ−ヒ−などと聞かれたが飲みたいとは思わずノ−と。この病院は大使館員や其の家族を対象にした様で、病室も一人部屋ばかりの様だ。

先生も外国人が3名だが非常勤の様で、現地の先生が2名の様で恰幅の良い60歳前後の女性先生が院長のようだ、食事も朝食だけ簡単なパンと果物を出すだけで、昼食と夕食は出前を取り寄せるので、近くに日本食のレストランが有るらしく、メニュ−に日本食が載っていた。早速メニュ−に天麩羅を見つけて、夕食に天麩羅 定食に味噌汁を注文した。てんぷらはパックに詰められて、味噌汁はビ二−ルの袋に、ご飯もパックに、一応お椀を持参してきた。天麩羅の中身だがナス、ササゲ、ピ−マン、えび、白身の魚、イカは無かった。ご飯はタイ米で箸では口の中に運べずスプ−ンで、味噌汁もかなりショッパク、天たれを容れる物は無く、そそままパックに、やはりパック詰めに成って要るので、さくさく感が無くガッカリ。

其の翌日昼食に「そば」なるメニュ−を見つけて早速注文し、日本そばを期待していたら、何と「じょうざ」のから揚げが、そばつゆの中に浮いて要るのではないか、ガックリ。翌日よくよくメニュ−を見たら、そばの前にモモと書いて有り、モモとはネパ−ルの郷土料理であった、それをそばつゆに入れた物なのか。

言葉は判らないが、時々社長が来てくれるので、一応回復情調を説明してくれるので不安は無かった。入院して3日間ほどは咳が止まらず、赤い痰が出続けてもしかして肺炎にでも為ったのかと不安に、歩けるのだが車椅子に乗せられて、レントゲン室へ正面と脇から2枚を撮り、翌日にはエコ−で大事な所から足首まで調べられた。おそらく足のほうに血の塊が有るか調べたのであろう。

日本の保険会社から直接病室に電話が、病状を聞れ不便な事はないか等を聞かれた。更にカアチャンから電話が驚いた、日本事務所から電話番号を聞き、其の通り番号を出た所にジャパンと叫んだら、病室に廻してくれた様だ。少し帰国が遅れることを伝えた。

6/2
社長が高級ホテルを予約しているので、退院の準備をしている様言われていたので何時でもと着替えをして待っていたが、約束の時間に成っても現れず、まだ退院は 無理との事に、本当は今日退院しないと明日13.30分のカトマンズからバンコック行きのタイ航空に乗れないが、社長と院長が話し合ったが、まだ飛行機で1万米上空を飛ぶと肺が持たないとの事で、退院は先延ばしに。

格安チケットなので払い戻しは効かず、紙くずに、更にバンコックのホテル代、乗り合いタクシ−代も無駄にその他5日の夜行バス代3.500円も捨てる事になった。其の後保険会社からバンコックの病院で治療を受けないかと言われたが、飛行機には酸素ボンベを積んで行くので安心と言われたが、社長がその後の航空券の手配などをしている様なので、保険会社の話には乗らなかった。

6/5
いよいよ午後から病院を出る事にホテルで一晩寝て何でもなければ、明日一度病院に来て検査を受けて、以上が無ければ正式に退院が許可される事に、酸素吸入を付けず普通に寝られるか、昨夜から外して寝たが息苦しくは無かった。

出来るだけ歩く様にと言われて病院の外をぶらぶらと出たが、舗装が穴だらけで埃っぽく、マスクがほしいが時々マスクをして要る人を見かけるが、白ではなく皆黒いマスクをして要る。

 

車が迎えに何と5分ほどでホテルに豪華な昔創りの様な、庭園も手入れが行き届いて要るようである。案内された部屋はキングサイズのダブルベットが、早速シャワ−をバスタブを期待してたが、シャワ−のみであった。気を取り直し、家を出て以来の洗髪を更に体も石鹸で、洗いサッパリと5月12日ぶりで有る。寝ていて左胸が痛み出し、如何したものかと心配に体を起すと痛みが無くなり、そのままの姿勢で朝方まで眠った。

6/6
朝食付きなので遠慮なく、バイキングで好きな物を充分に頂いて、約束の時間に社員が歩いて来た、病院にも歩いて向い、早速検査を酸素量も95と通常の状態に戻り、胸の痛みが出た事は黙っていた。聴診器で胸、背中と診察し如何やらOKが、レントゲン写真や検査結果を渡された、これを日本の病院で診てもらう時に持参する様にとの事で、親切だ有る。院長に握手をして別れを。

ホテルに帰り如何してもビ−ルが飲みたいので、歩きの練習を兼ねて街中へ、かんかん照りで埃っぽいが、兎に角ビ−ルを目指して、ショップ探しをところがそれらしい店が見当たらず、市民の買い物は如何しているのだろうか、さらに信号がないので道路を横切るのも、大変である。

有る程度の広い道路を30分程歩いたが、横断歩道が無く歩行者は如何するのだろうか、歩道橋が見えたので、其処から引き返すことに、今度は別の通りへ小さい店が何軒があり、缶ビールが飾ってあったのでっ其の店へ、ビ−ルトいったら冷蔵庫から瓶ビールを持ってきてくれたので、2本頂いてホテルへ急いだ。

処が栓抜きが無く、何か代用を探したが、ドアの取っ手、タオル賭け、電灯のスイッチ、と色々と試したが開かず。何とトイレに紙の束の入れ物を見つけ、其の先に王冠を引っ掛けて見事に開栓した、かなり苦労しての飲む事が出来た。5月20日以来のアルコ−ル分がのどへ、呼吸が心配だがなのも無く安心した。

夕方社長が参加賞と完走証を持参してきた。参加賞は大きくエベレストマラソンのロゴとスポンサ−の名前だろうか上下のジャスと大きなバックを持参してきた。おそらく完走パ−ティの時全員に渡したので有ろう。完走証にも役員5人のサインがしてあった。私も出席出来れば最高だったろうに残念に、今回唯一の心残りが。

6/7
9時半には迎えの車が13.30分のフライトで早いがツア−会社も忙しいだろう。免税店に入りお土産をと探したが、めぼしい物は無くミニのマニ車を購入した。空港内で日本語で話し掛けて来た若者が、これから日本に行くと言っていたが、東京の立川に住んでいて中野で働いているとか、更に飛行機で前の席からも声を掛けられ、これから名古屋に帰ると、言っていたが何年か日本で働いて居るのだろう。

カトマンズで最初に泊まったホテルのボ−イも日本で働きたいと言っていたが、やはりネパ−ルは頃といった産業が無いので、海外に出稼ぎに行くほか無いのであろうか。水平飛行に変わり、早速食事がすかさずビ−ルをオ−ダ−さらにもう一本と飲んだが呼吸に影響なし、ますは安心である。

定刻通りバンコック.スワンナブ−ム空港へ5時間の待ち時間が、夕食を取りながらビ−ルを2本飲み、時間つぶしにお土産を見て歩いたが、直ぐに疲れが。やはり体の芯まで疲れが溜まって居るのだろうか。

6/8
なかなか寝付かれなかったが、雲の中に突入したと思っていたら、成田空港に着陸した。5月13日日本を離れて26日ぶりに日本の土を踏んだ。思いトランクを宅配便に預けて、保険が利くと言われたので、成田エクプレスへ、更に新幹線指定席を、処が乗り換え時間が10分如かなく、通常の体調ならなんでもないが、やはりエスカレ−タ−を早めに上り階段の上りも息が切れた。売店で日本酒を買い何とか、発車1分前に乗車、指定席も満席におどろく。久し振りの日本酒も格別であった。

仙台駅には走友2名が迎えに来ていた。早速何かご馳走すると言うので、日本そばを頂いたが、やはり味が違う、日本のものはおいしさ格別である。家には5月12日の午前9時に出て以来のご帰還である。当分は大人しくして、カアチャンの機嫌をとる事に専念しなければ、、、、、、、、。

6/10
カトマンズの病院から渡された、レントゲン写真や検査デ−タ−を持参して仙台日赤病院に、受付でかなり時間が掛かったが、ほぼカトマンズと同じような検査を行い、ほぼ完治していると言われて安心、当分無理せず休養に勤めてくださいと言われたが、肺水腫の一歩手前で、後一日下山が遅かったら命が危なかったそうである。今回の反省として、高山に慣れるため、大会拘束日より2日前に入り余裕の日程で在ったが、逆に高地に長く居たために体力を消耗した様な感がする。

高地トレッキングをする場合は、目的地に着いたら直ちに下山する事が、高山病に為らない為の常識だそうである、やはり71歳の高齢では5日間も5千米以上の所に留まるのは無理が有ったのか。BCに着いた日に、大会が有ったら何とか走れたかと思うが、それも負け惜しみか。只走れなかったお陰で色々な経験をさせて頂き、感謝の気持ちで一杯です。


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平成23年6月18日

エベレストマラソン 0011.5/12〜6/8 前編


エベレスト.マラソンと呼ばれる存在を知ったのは、香川県の宮野勝義さんがカラパタ−ル5.545米の山頂に登りエベレストをバックに、宮野さんの誇らしげな写真を送って頂き、大会の模様を詳しく書いた手紙を頂き、其の存在を知ったわけだが、当時は何の興味も湧かなかったが、其の翌年に年賀状を出したのに返事が無く、しばらくして、姉さんより訃報の葉書きが、そう言えば手紙にガンの検査を受けたら体中にガンが転移し、抗がん剤治療を受けると書いてあったが、11時間余で完走引き換えにエベレストから帰って、半年の命だった様です。

昨年70歳で10年後との自分としての記念イベントに、「大峯山奥駈け」7日間の修練を受ける積りで居たが、前もって一泊二日の研修を経験しないと、本修行を認められないとの事で、あっさりと諦めに変わり、一年延ばしで頭のどこかに残っていたエベレストへとシフトし、ただし英語が必須と為っていたが、日本事務局から私の 専属に日本語が出来るガイドがサポ−トを引き受けてくれる事に、まずは一安心、年賀状にも目標と宣言したわけで、後にはひけない事に。

道具やら山中で食べる食料、更にネパ−ル国内の移動は参加料3.148ドルに含まれており、カトマンズまでの往復交通費だけだが、パソコンで色々とホ−ム.ぺ−ジ等で 検索し、バンコック経由カトマンズ往復、諸経費込みで111.000円でゲット更に帰りの飛行機はバンコックで一夜を過ごすため、ホテルとホテルまでの乗り合いタクシ−券も購入し、半日のバンコック観光にと観光案内書まで買い、準備完了の処に3月11日の正しく想定外の大震災が、身近な仙台市でも甚大なる被害が、このまま自分の好きな事を、多くの人達が苦しんで居るのにと、悩みましたが、日本の事務局の人からも被害の模様を海外の人達に知らせるのも、日本の為に成るのではと提言されて、そう言う考えも有ると割り切り、参加を決意した訳である。

5/12日
仙台東口より格安バス11時に出発、途中地震の影響か、居眠りが目が覚めるほどの衝撃が、完全に補修は出来てない様だ。午後5時15分東京丸の内口へ電車を    乗り継ぎ羽田国際タ−ミナルに6時に到着、さてフライトの0.20まで時間つぶしをにと、テレビで何度も見ている店をぶらついたが、やはり原発の影響か外国人の姿は見当たらず。

2時間程前よりタイ航空カウンタ−の受付開始、インタ−ネットよりプリントした Gチケット為る物で、受付が出来るのか直前まで不安が、パスポ−トとGチケットを提出し荷物引き受けと、カトマンズまでの航空券を頂きまずは一安心した次第であった。

5/13日
定刻通り0.20分離陸、しばらくして水平飛行に為ったら、飲み物と食事が、夕食だろうか最初は大人しくコ−ヒ−を頂いていたが、ビ−ルを飲んでいる姿を目撃し、のんべ−根性を丸出しに、早速食事が終えたのに、ビ−ルをオ−ダ更にもう一本と、朝4.30バンコック到着に為っているのに、少し寝た様な気がしたが、目を覚ましたら何とまた食事が、実際は時差の関係で帰りは8時間掛かることに、実際の飛行時間は6時間程度だろうか、バンコック空港内で5時間ほど時間が有り、軽い食事をビ−ルを、カトマンズ行きのゲ−トで中部空港から来たと言っていた60歳位の女性と話を、カトマンズからチベットの空港まで飛んで、チベット側のエベレスト周辺を個人でトレッキングするそうで、昨年はナムチェバザ−ルまで登ったとかそれも一人で、驚く程の行動力である。

バンコックを10.15に飛び立ちカトマンズに12.25分到着と2時間のフライトだが帰りは5時間と実際は4時間程乗るのだろう、早速食事がすかさずビ−ルをオ−ダ−更にもう一本と。時間通り到着も入国審査で大勢の外国人が待っているのに、窓口が二箇所しかなく一時間以上を待つ事に、審査を終えた人からお金を払っていたが、40ドルの支払いを求められた。何の金か判らず払わない事には入国許可は出ない様である。

荷物はすでに出ていたが、取ろうとした瞬間に、勝手にトランクを押して外にへ、チップ目当ての人達であった。車で迎えに来ていたので早速乗り込み、町の中へ、驚いた事に道路に信号が一つも無く、事故が起きないのだろうか、暗黙の交通ル−ルが有るのだろうか。今回の世話をしてくれるヒマラヤン.シェルパ.アドベチャ−「H.S.A」本部へ日本からのトレッキング、登山などの受け入れをしてガイド.ポ−タ−等の世話をする会社で社長は日本語を話すので、日本からのトレッカ−は安心して任せられる様である。

早速今回の会費3.148ドルを支払い、あとはアルコ−ル類を飲まなければ一銭も掛からないと思っていたら、飲料水は自分持ちで、上に行くに従い1.5リットルのペットボトルが下で200円が上では約600円になるとは、トホホ、、、、、、、、、

早速今夜の宿へ一泊朝食付き、37ドルの3流ホテルだろう、やはりゴシャゴシャした道を通り抜けて、道路の真ん中で牛が寝そべっていたり、犬がごみアサリを、其の中をオ−トバイ2人乗りが当たり前で3人4人乗りも普通に、ドライバ−だけは ヘルメットをかぶり、かなりのスピ−ドで通り抜け行くが事故が起きないものだろうか、狭い道に入った所で4階建ての建物であった。

『早速シャワ−をと裸に何とお湯は出ず、水だけがいくら外が暑いと言っても、水を浴びる気に為らず、その結果シャワ−を浴びて頭を洗い体も洗ったのは、6月5日に一度、病院の近くの豪華ホテルで一泊して翌日まで何の変化が無ければ、退院の許可が出るので、其のホテルへ、早速お湯の出るシャワ−で5月12日に家を出て以来25日ぶりの洗髪、体洗いに腕や脛を擦ると垢がはがれて来るのか、サラサラと白い物が落ちてくる有様に。』

5/14
朝食にヨ−グルトに雑穀の様な「ひえ.粟」とも付かない、判らないままに口へ、予定表通り、市内観光へ乗り物は、ホテルまで乗せてくれた、ワゴン車が迎えに、日本語が出来る青年で、働きながら時々日本語学校に通い、勉強をしているドル−ゼ−君27歳だそうで、私一人のお客である、色々建物や文化などネパ−ルの歴史を勉強している様だ。

最初に高台にある寺院で「スワンヤブナ−ト」呼ばれてる仏教寺院で急な階段を登り、途中で金を払っていたが、外国人だけが入場料を支払うそうで、地元の人は信仰を目的に御参りするので、フリ−パスで有る、その他2ヵ所を廻ったが、やはり外国人だけが、拝観料を払うようだ。『どの寺院も土着の神様、チベット仏教、ヒンズ−教が入り混じり、ダライラマ師の写真が飾って有ったり、恐らく高僧であろう、其の写真が、上の集落毎にも寺院が有り、高僧の写真が飾ってある。

ヒンズ−教も一緒に祭って有るので、インド人も多く参拝している様で、額に赤い印をインド人は付けているが、その印を仏像に付けるために、周りが真っ赤に。何処を廻っても物乞いとみやげ物売りがしつこく付いて回るのが、兎に角無視を決め込んだ。一番驚いたのは1978年に世界遺産に指定された、王宮広場の建物や塔の中へ入り込んで商売をしていたり、上まで入り込んで、寝そべって居たりと、兎に角日本では考えられない。其の周りの道路はバザ−ルで通路の半分は物売りだ占拠し、其の中をオ−トバイがけたたましくクラクションを鳴らし、リキシャ−と呼ばれる輪タクが更に三輪の乗り合いタクシ−と、更の驚いたのは耕運機が荷台を引っ張って走って居るのには、呆れるばかりでバイタリテイを大いに感じられました。

 
 

其の観光に昼食付きと為っていたので、レストランに入りネパ−ルの代表的な定食ダル.バ−トを頂く事に、ダルとは豆でバ−トはご飯の事、そのほかにカレ−風味の 鶏スープ、豆スープ、ナンをから揚げしたようなせんべいが。

二日間の夕食は屋台で買った、モモと呼ばれる、ジョウザを油で揚げた物でネパ−ルの大衆的な食べ物に、さらにジャガイモを少し辛目に揚げたものを、5粒の積もりで注文したら、なんの葉っぱか判らないが、15センチ丸の皿に5個と思った様で、大量に油なべに入れる所で、あわててノウ、、、、、と言って3皿ずつにして貰ったが大変な量に、それを二晩の夕食代わりに胃袋を満たす事に。

5/15
モ−二ングコ−ルで5時前に起されて、5時半には迎えの車が、広い歩道のある   道路では走っている人を見かけたが、トレパン姿で日本の30年以上も前を見ている様であった。一番の飛行機に乗れるようで、今回のガイド役でシェルパをやって居る、ラッパ−君が一緒に乗り込んだ、17人乗りのプロペラ機で離陸する前に、打棉と飴玉をもらったが、エンジン音がうるさいので、耳栓にと渡したのだろう。

両耳の綿を詰め込んだが、騒音は変わらず、眼下には山頂まで段々畑がジグソウ−パズルの様に、見えていたが次第に高度を上げている内に左後方に「白く輝く山脈が」アンナプルナ山群とエベレスト山群が大きく見えて来た。40分程で山肌をかすめる様に、低空にスキ−のジャンプ台宜しく、滑走路は低地に降りて、自然とスピ−ドが落ちる様に停止位置が、かなり高い所に。2.804米のルクラ空港に着陸した。正面に大きな山がデンと地元の信仰対象のクスム.カングル6.367米で、登山禁止の山だそうである。

 

飛行機から荷物が降ろされると、それを目当てに荷物運びの人達が群がってくる。ロッジ内でホテルからの朝食弁当を食べて、重いリックはガイドのラッパ−君が背負い、水と軽食の入ったザックを、両手にストックを持って、エベレスト街道の18日間徒歩旅行への出発である。

集落の外れで、おそらく外国人は全員がチェックを受けるのだろ入山許可書等が揃っているかとか、更に上に行くに従い、軍隊のチェクを2回程受けたが、全部ガイドが済ませてくれるので、何のことやら判らずに通り過ぎた。ドゥ−ド.コシの川沿いを、ドゥ−ドとはミルクの意味で水の色がミルク色しておりコシは川の意味で、まさしくミルクの川である。一度2.492米まで下りが続き、下りの途中で日本人のグル−プにすれ違ったが、カラパタ−ルまで登り、帰る処と言っていたが、日本人に会ったのは、その後エベレストBCまで一人も会わなかった。

11時に早い昼食を、其の店でラッパ−君に勧めていた酒「チャン」言う「どぶろく」だそうで、各家庭で作って居るそうで、タイ米で造り、濁り酒に米粒は取り除いて  有る度数はおそらく5%位のアルコ−ル分か2杯程ご馳走に為った。

今夜の宿はチェモア2.950米のロッジにラッパ−君の自宅そばであった。
夕食後まだ外が明るいので、大震災の写真集を、主人夫婦とラッパ−君に見せたがかなり驚いて見ていた。夜中は電気が点かず持参の電灯が役立ったが、ほぼロッジでは持参の電灯が無ければトイレには行けなかった。

5/16
外が明るくなる頃から、山道ではガランコロンと鈴の音が、牛が荷物を背中に隊列を組んで登って行く処で、更に人も額に紐を掛けて、腰の周辺に三角形のかごを下に、普通は6.70キロの荷物を、多く背負う人は90キロから100キロを、ルクラからナムチェまで、2.3日掛りで上り下りを繰り返して運ぶそうだが、一回2.400ルピ−が相場だそうだが、命を削っての仕事に見えて、かなりの歳に見えるが恐らく50歳前後だろう。途中集落や道幅の広い所に大きな石が、其の石全体に経文だろうか浮き彫りにした文字に、白く塗って有りマニ石と呼び、其の場所は必ず左側を通るのが、定めだそうである、またチョルテンと呼ばれる仏塔、ゴンバと呼ばれる僧院、必ずマニ車が大きな物は一人では廻せない程のものから、建物全体を囲む様に置いてあり、それを左手で廻して、一回廻すと100回以上の経文を唱えた事に成るそうである。

 
 

途中の見晴らしの良い所に、何とエベレストが見えた、其の場所で少年がポットを持って、誰かの来るのを待って居るかと見ていたら、恐らく60歳から70歳台の老夫婦の10名程のツァ−か、夫人の方はメタボ気味だが、何日掛けてここまで来たのか、ナムチェまで行ったら引き返すか、ヘリで降りるかだろう。

早速少年がカップにコ−ヒ−を、更にお菓子まで出して配って居たが、それもトレッカ−が来てくれるので仕事になり、荷物運びも生活が成り立って居るのだろう。ドゥ−ド.コシに架かる、長いつり橋を渡り、扇状に開けた山腹にへばり付く様に山上まで建物が、荷物をホテルに置いて、身軽で山の上へ、行き止まりの所に軍隊が、やはりエベレストの向こう側はチベットとの国境なので、警戒を常に警戒を怠らないのだろうか、ナムチェの上でも軍のチェックを受けた。

5/17
ナムチェ.バザ−ルは標高3.440米に有り、エベレスト登山の外ク−ブン山域に含まれる山にトライする登山家は必ず通る中心地で、カラパタ−ル5.545米、ゴ−キョ.ピ−ク5.360米を目指すトレッカ−も、必ず泊まり、食料品はもとよりおみやげ、登山用品、用品のレンタル、ガイドの斡旋も、ホテル、ロッジ等宿泊施設もピンからキリまで、「エベレスト街道」の中心地である、私が泊まったホテルは、昔からの伝統ある   ホテルらしいが、隣の話し声が筒抜けに、更に廊下を歩く音もストレ−トに入ってくるが、山歩きの皆さんはわきまえて居るのか、時間になると音一つ無く、良く眠れた。

一応昨年のマラソンコ−スを歩いて見ようと、高地順応を兼ねて、富士山より高い所へ兎にかく、海外登山は初めてなので「剣が峰3.776米」より高い所は初経験に、まずは3.800米付近に有る飛行場、シャンボチェを通過し、更に上のホテル.エベレスト.ビュ−へ3.885米にあるホテルで日本人の77歳前後か宮原巍さん言う方で奥さんはネパ−ル人とかで開業し40年以上に成るそうである。

見晴らしの良いロビ−でコ−ヒ−を、残念ながらエベレスト周辺に雲が掛かり、見えなかったが、其の外の白い峰峰がクッキリと、多くのトレッカ−が立ち寄る様だ。其処からしばらく下り、盆地にムクジュン、クンデ、と呼ばれる集落が、其の中にエベレスト初登頂した、ヒラリ−が設立した学校と病院が有り、学校の校庭内にヒラリ−の銅像が立っていた。翌日も学校を見せて貰ったが、教室内には電灯は無く天窓からの明かりで授業をしている様で、4歳から入学し、6歳から普通の勉強に

通り集落からの児童は寮での集団生活で、4年生以上に為ると金曜日に家に帰り米など食料品を持参してくるそうで、ラッパ−君もナムチェよりも下の集落に戻り日曜日の午後には重い荷物を背負い、4時間以上も歩いて学校に戻ったそうである。

5/18
昨日歩いたコ−スをたどり、今夜の宿泊地ムクジュンへ、急な階段を登り2時間ほどで、昨日通り過ぎたムクジュンへ、小雨が降っていたが、暑くなるのが嫌で、雨具を着ずに歩いたら少し寒気を感じたが、ロッジに着いて、早い昼食をとは思ったが、外のトイレを借りて入ったら、床に穴が一つ其の脇上に落ち葉が、恐らく用が済んだら、落ち葉を穴に落としてやるのだろうか、其の方式は拭いた紙も一緒にだろう、普通のロッジのトイレは拭いた紙を、備え付けの入れ物に、大きな樽等に水が貯めてあり其の水を小さな手桶で流してやる方式で恐らく穴を掘って、地面に浸透させてやるのだろう、和式トイレの金隠しが無いのに用をするのだが、洋式に慣れた体勢では、部屋が大きく何も体勢を維持する手掛りが無くかなり苦労しての用足しと為った。其のお陰で、下山の乗馬では4時間以上も跨った体勢を維持出来たので有ろうか。

こんなに近くに泊まらずに、もう少し上のロッジでもと思ったら、泊まる場所はガイドの裁量に任されている様で、予算内なら何処でも良い事になって要るらしく、15日に泊まったロッジの親が経営をしているとか、ロッジ兼食堂である。夕食に暖めたチャンを3杯飲んだが、風邪薬の替わりに為ればと飲んだが一晩中鼻水が止まらず参った。夜中にかなり強い雨音がしていたが、明るくなる頃には雨が上がり、その様な天候が続くのは、次第に雨季が近い事なのだそうだ。

5/19
今日のコ−スも一度3.250米下りタンボチェ3.865米まで登り返すのだが、途中の
下り坂で大きなベニヤ板が動いてたが、見たら何と2m×2.4m厚さ21ミリの板を少年が背負っていたが、まだ12歳だそうで恐らく、シャンボチェ空港まで軽飛行機で運ばれた、建築資材をタンボチェまで運ぶのであろう、また何人かの大人が3.4枚を運んでいたのに遭遇したが、少年が途中の急な階段を上がれるのだろうか心配に。

ク−ブン氷河からの流れがイムジャ.コ−ラとなり、其の流れに沿って登って行くのだが、まだ大きな木が茂り、花のの盛りが終わったようだが、ネパ−ル国の花シャクナゲが大木になり、日本の藪ツバキの様な真っ赤な花を咲かせていた、シ−ズンには群生地は真っ赤に染まるそうである。

大きな仏塔が現れて、タンボチェの僧院が、この周辺の中心地か若い僧の姿も、僧院内部を見せて貰ったが、何箇所かの僧院を見学したが同じような造りと為っており、内部で何人もの人がお祈りが出来る様な作りと為っており、毎日の祈りが生活の一部に信仰心深さを感じられた。

この辺は風当たりが強いので、少し下った所に在るロッジへ、時間的に余裕があるので一人で上に向ったが、途中に標識が英語とハングル語で表示されていたが、韓国からのトレッカ−が多いので有ろうか。一応本道を外れて急坂を上がって見たら集落が、高度計を見たら4.025米を差していた、ついに4千米に達したのだ、高山病の兆候は出ないようだ。

布団や毛布が無いので、ラッパ−君の友人から借りたシュラフで寝る事に、大会要綱の説明ではテント泊まりの時だけ、寝袋があれば良いと為っていたので、二晩分のレンタル料を払えばと勘違いを、借りた場所からの往復分も払う事に一日8ドルで16日分で128ドルと言われ、渋ったら10日分だけで良いとの事で借りる事に。7千米級の山でも寒さが凌げるとの事だが、早々に役に立つとは。

其の宿におそらくドイツ人のグル−プか、女性数名を含む10名以上が賑やかに食事をしていたが、自分たちが持参したので有ろうか、色んな食材が並んでいたがコックも付いて居るのだろう、ロッジの厨房を借りて作ったのであろうか、鍋にも料理が、翌朝何頭かのヤクの背中に荷物を積んでいたが、カラパタ−ルまで行き、さらに峠を越えてゴ−チェ.ピ−クまで足を伸ばして下山する途中とか、団体ならそれもまた楽しい旅であろう。ラッパ−君に時間的にまだ余裕が在るのでゴ−チェ.ピ−クまで行っても、スタ−トには間に合うと言われその気になったが追加料金300ドルが必要と言われて諦めたが、昨年菅原パパが20日間前後でカラ.パタ−ルとゴ−チェ.ピ−クを回ったそうである。

5/20
パンボチェ3.985米地点に早めの到着でまた一人で、途中まで上がり引き返し、まだ高山病の兆候は現れず、予防薬のダイナモックスは4千米を越えたら我慢、高地となり照り返しが強いので、サングラスをしないと眩しく目眩が感じられ、安いのでも良いから、買って来るのだったと後悔しても後の祭りである。
宿で地元のビ−ル銘柄がエベレストでラベルにエベレストの写真が330ミリ缶で350ルピ−日本円で700円とかなり高い値段だが、下から担ぎ上げたので有ろう、それが妥当な値段か、更にチャン2杯を一杯400円相当に、その後6月6日までアルコ−ル分は口にしなかった。

5/21.22
ついに4.350米のデンボチェへ、付いて直ぐに練習を兼ねて一人で裏山へ森林限界を過ぎたので、大木は一本も無く上は強風が、4.700米登り引き返したが、頭が痛くならず、夜もよく眠れたが朝方に痛みを感じたので、風邪が悪化したのかと思ったが、念のため今日から高山病の予防薬に為る、利尿剤として使われている、ダイナモックスを一錠を食後に、効果が直ぐ出た様で頭の痛みが消えた。

二日間留まるので、二日目にラッパ−君ともう一度裏山へ昨日途中で引き返した場所から更に上に、ついに5千米を超えた。山頂には五色の小旗が風にたなびいて居り、何処の集落に行っても、小高い丘や仏塔には必ず、五色の旗がたなびいている。

ただ5.035米まで登るのに、風邪の影響か鼻がつまり、口呼吸になり一歩登る毎に肩で息をして、両手のストックに体を預けて5分毎に休憩を取る有様であった。宿の窓からも「アマダブラム」6.779メ−トルの正しく巨岩が迫って見えた。イムジャ.コ−ラと呼ばれる川沿いを登ったが、川沿いの畑ではジャガイモを作って居るそうで、収穫される芋はかなり小粒の様だ。

5/23
ついに4.500米を超えた4.620米地点のトゥクラに今夜は泊まる事に、薬を飲んでいるせいか、頭は痛くならず、足取りも大丈夫なようで、かなり前に出発したグル−プを追い抜いて、午前中にはロッジに昼食後、マラソンコ−スに成っている、ク−ブン.コ−ラ下りぺリチェ4.252米まで下る約5キロ位か1時間ほど掛けて下ったが、帰りは上りに苦労した。その道を馬で下ろうとは夢にも思わなかった。マラソンコ−スも今年はデンボチェまで行くコ−スに変更された様で、馬に乗る為の下見になるとは、更に診療所が有り、飛行場も有ったが其の飛行場からヘリに乗ろうとは、これまたビックリで有る。

5/24
8時45分出発し2時間程で今夜の宿「ロブチェ」4.930米につくので、ゴクラクシュ5.150米まで行き往復を予定してたが、いきなり急登に息も絶え絶えに、何とか1時間程で平坦な場所に、墓石の様な物が小高い丘の回りにいっぱい建って居り、   この場所はエベレスト登山で犠牲に為ったシェルパの人達の弔う場所だそうで、ラッパ−君の友人もここに眠って居るそうだ。日本人を弔った塔もありました。

更に風邪が悪化したのか、鼻水が止まらず口呼吸で酸素を補給が間に合わないのか、体力の消耗が感じられて10時40分に到着も、もう一歩も動く気力は無かった。夕食にカレ−風味の野菜煮込みで久振りに野菜をいっぱい食べたので、少しは体力が戻った様な気が、タイ米のご飯にはボロボロで幾ら噛んでも、飲み込めず参った。

鼻水が止まらず、海外の人達に災害の模様を伝える新聞を見せようと、持参した新聞が鼻紙に、皆に見せる前に無くなってしまった。更にテッシュも無くなり、しり拭き用の紙が無くなり、どうせ用足し後に流す水で手を洗うので、手でしりを拭いてそのまま手を洗う事に。さすがにテント泊まりの時は紙で拭いた。


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平成23年6月9日

エベレストマラソン

 投稿者:  投稿日:2011年 6月 9日(木)17時13分46秒
昨日27日間ブリに日本に帰ってきました。
風邪をこじらせた為に、血液中の酸素濃度が極端に不足し、言葉の判らない病院で8日間の入院生活と、色々とお世話になりました。

体調不良のお陰で、いろんな体験を、まずは5.364米のスタ−トラインに立ちましたが、走る前から、立っているのが辛い思いをした大会は、過去に経験が無く、スタ−ト後約100名の選手の姿が50メ-トルも、前進しない内に姿が見えなくなるとは。

私とガイド役の青年と、最初から足取りを心配していた、女性スタッフの2名が必死に支えてくれて、途中で歩行困難と見て乗馬を進められて、更には一刻も早い下山をとヘリを要請し2.800米のルクラに、更に翌日は別のヘリでカトマンズへ、飛行場より救急車が横付け、即入院生活に、アクシデントのお陰で、乗馬、ヘリ移動、救急車乗車、ことばの判らない入院生活、更に高級ホテル2泊と、それでも最初の目標、カラパタ−ル山頂5.564米よりのエベレスト眺望とエベレストBCのスタ−トラインに立つ事、半分は目標達成出来ました。

山中に入り4日目に風邪をひいたのが、原因で5千米を越す処に5日間留まったのが体力の消耗に、走るのを待たずに限界に達したようです。

お陰で色々な経験をさせて頂きました。4日間帰国が延びた分、格安航空券が無駄に、新たなる航空チケットも海外旅行保険でカバ−が、後はまだ呼吸が本当では無く、しばらくは体力回復にゆっくり休養をと考えていますが病院退院後、即ビ−ルを口に20日ぶりのアルコ−ルでした。

ネパ−ルは何も無い国の様で、原子力の心配も無くほとんどの家では暗くなったからの点灯が、最初に泊まったホテルでは、夜中も真っ暗に、山中の集落では独自に水力発電を、または太陽光発電が主力に。驚いたのは高い所に行っても携帯が通じ、通信衛星のお陰だそうで、3年前から使用可能に為ったとか。


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平成23年4月3日

守さんが健脚な足で取材した津波被害写真

 投稿者:雲峰  投稿日:2011年 4月 3日(日)18時34分55秒
昨年「みちのくラン」で走った菖蒲田海岸の現場、
一部ですが津波の凄まじさを実感して下さいとのことです。

 

 

 

 

参考 昨年の「第7回みちのくラン」雲峰のマラソンの歌


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平成20年12月10日

屋久島エコ.ジャ二−ランと宮之浦岳登山 11/18〜11/28


そもそもこの行程を思いついたのは、私が所属している「宮城UMC]「南仙台走友会」「仙台SMC」の内SMCは、主に健康マラソンを主眼としたクラブで年配者が多く、登山を目的とした体力作りの為に、入会される方々も数名居られるので、その人達の為に数年前から登山企画をし、宿の予約やサポ−ト役を買って出て、今年は白山と新潟県.八海山登山へ1200キロ以上の運転移動にバテ気味でした。

昨年は北海道「礼文.利尻山」の旅を企画決行し、私の車と会員のもう一台で、平均年齢66歳の12名で仙台港より苫小牧港へフェリ−で渡り、稚内へ移動し礼文島を見てから、利尻山登山に何と登山レベルで中級にランクされて居るのを全員が山頂へ、企画した私がビックリしたが下山中、チョットした不注意で足を滑らし、其れが原因で半年以上も走れ無い状態に為るとは。

同年に日本百名山、北の「利尻山」に南の「宮之浦岳」は登ろうと、エコ.ジャニ−クラブ主催の「屋久島80キロマラニック」に申し込み、マラソンついでにと登山計画をしたのだが、大会当時は歩く事も間々ならず、主催者の鈴木さんに参加料を今年に回して頂き、何としても今年の11月末までには走れる様にと、5ヶ所も治療院を替えたのが良かったのか。

6月の「しまなみ街道」100キロを11時間台で走れたので、安心して屋久島行きの旅行計画をたてました。如何にしたら低料金での渡航費がと、バス会社やフェリ−会社などのホ−ムページを検索し、日数が懸かり相当の体力が必要に為るが、金力が無いので体力で勝負する事にしました。

飛行機を乗り継ぐと7時間余で屋久島に到着出来るが、正規の航空運賃で71500円にも為り時間をお金で買う様なものです。私には時間が充分に有り、行く先々の観光を楽しみにと格安バスを乗り継ぐことにして、仙台.新宿間の最安は燃料費高騰で3.000円、更に新宿.大阪間が4.500円で、大阪.鹿児島間のバスが有るが、季節運行で11月は運休に為りフェリーに頼る事にしました。

鹿児島へのフェリーは太平洋側の「志布志港」に着く為に、鹿児島市に出るのには何度かバスを乗り継ぐ事になります。大阪.宮崎間はフェリーも有り、宮崎市.鹿児島市間はJRや高速バスが2700円で行けるし、「宮崎港」へは2等船室で13600円に、更に60才以上はシルバー割引で10%が安くなり、船内にはレストランやお風呂もあり自由に歩く事も出来きる便利さに往復フェリーにすることに決定しました。

更に鹿児島.屋久島間は高速船だと2時間弱で着くのだが、料金が7.300円と高額なので、貨物船「はいびすかす」の2等船室とし、料金は片道3000円、往復割引で5400円は、高速船の半分以下です。しかし、往路が種子島港で夜9.40に着いて翌朝5.10まで留まり、宮之浦港には朝7.00着に三泊四日でやっと屋久島に辿り着く日程に、ウルトラマラソン並みに時間を掛け途中の出会いを楽しみながらの体力勝負に徹する事になりました。

割引などを計算し、乗り継ぎを入れても26.000円前後で屋久島へは、飛行機の半分以下に為り、問題は登山の為の重い荷物を乗り換える度に持ち歩くのも大変なので、宅配で宿に送り届けた。

11月18日仙台駅東口17.00の新宿行きのバスに乗り、新宿西口に22.15到着し、23.50の大阪行きに乗り換えたがウイークデイなのに、満席で窮屈で有ったが我慢し、途中2度のトイレ休憩をし、何と無く睡眠不足の感じで朝6時50分に京都到着。「大阪港」出港が19.30なので、その間京都見物をとバスを降りて、駅コンビニで朝食にとサンドイッチとドリンクを腹に詰め込み、出来るだけ自分の足で名所を廻ろうと、フリ−バス券を買わなかったが、後で後悔する羽目に。
駅から近い東本願寺、西本願寺、京都御所と拝観料が徴収されない所を見て回ったが、如何しても銀閣寺だけは見たいと、バスの厄介に500円の拝観料を払いお目当ての銀閣に向ったら、シ−トに覆われて、屋根の葺き替えをやっていた。更に白い盛り砂も改修中で有ったが、庭園は紅葉真っ盛りで見事さに正しく「日本の美」を感じた一瞬であった。
更にバスで移動し知恩院、八坂神社、平安神宮と見て周り、JRにて大阪へ。更に3度乗り換えて大阪南港「かごめフェリーターミナル」に午後5時半無事到着、乗船手続きをして一安心。

2等船室はワンフロア−だが女性専用スペ−スも有り、一人のスペ−スは70センチ巾のマットに毛布、枕が置いてある、乗船者が少ないので二人分のマット.毛布を使い場所を確保し、風呂で二日分の汗を流し、1300円で夕食バイキングを何度もお替りしながら、持ち込んだ発泡酒、焼酎を飲み時間まで粘り、寝床にエンジン音と少しの揺れが気に為ったが充分に眠れた。

翌朝8.20に「宮崎港」へ更にバスにて宮崎駅へ、駅で降りず中心部まで行き、早朝の繁華街をソゾロ歩きで駅に戻り、バスタ−ミナルより鹿児島行きの高速バスに市街地を出て直ぐに自動車道へ、地図を見たら宮崎県の自動車道は鹿児島県までのこの区間しか無く、東国原知事が宮崎県の道路整備は不十分と言っていたが、まさに実感した。
しかし、自動車道上やSAに停留所が有り住民の足に為っている様だ。

鹿児島市も駅で降りずに、天文館まで行き昼間の飲み屋街を見て周り駅へ。JRで貨物船が出港する谷山港に向ったが、ホ−ムページで調べて来た筈だが、港の3つも前の駅で降りてしまい、路線バスの厄介になり、運転手に頼み込み、一番近い停留所で降ろしてもらいました。そこから20分程歩いて港に到着でした。
船内に食堂は無いとの事で、近くに「鹿児島物産館」が有り、発泡酒、焼酎、山中で呑むポケット.ウイスキ−と夕食、朝食分を買い込んで、午後5時出港1時間前に乗り込んだ。

船中は、やはり貨物船なので船室はカ−ペット敷きで毛布と枕が数個置いて有るだけで、運行中は室内灯が点灯のままで、アイマスクがないと眠れそうもない。10名程乗って18.00に出港し種子島に21.40到着。2時間ほど貨物の積み下ろしで、可なり大きな音がして居たがやがて静かに為りました。

乗客も3名に、停泊中は静かに為ると思っていたら、エンジンは始動のままで、室内も明るいまま寝不足のまま宮之浦港に21日午前7.00に着岸しました。地図を見ながら宿へ、途中で「エコジャニ−」の鈴木さんにバッタリ会えて宿まで案内して貰いました。
荷物を解いて山行きの姿になり、民宿の女将にバス停まで送って貰いましたが、女将は千葉県出身だそうです。山中で出会った若い女性も他県から移り住んで居るそうで、旅行に来て屋久島の魅力に取り付れたからで有ろうか。

バス停前の弁当屋で昼食分だけ買ってバスに、一気に高度を上げて、海が見渡せる所まで上り30分程で登山口と決めた白谷雲水峡入り口に到着。森林環境整備費なる協力金300円を払い、登山者カ−ドを記入したが、係りの人から山頂は雪凍結で滑り止めがないと、登山不可能だと脅かされたが、行け所までと腹をくくり出発した。が、コース内トレッキングのグル−プは何組も居たが、やはり登山者は居らず少し不安になりました。

ともあれ、コ−スガイドに書かれて有る通りの見事な景色が広がり、急ぎ足で登るのは勿体ないが明るい内に山小屋にと、つい早足に1時間程上り「もののけ姫」のモデルに為ったコケ、シダで覆われた幻想的な空間に、見事な自然の造形に感動しつつ更に上を目差し標高979米の辻峠に。其処からは荒川登山口からの合流点となる「樋川分れ」へ727米まで下り道となる。

もののけ姫の森 ウイルソン株の祠

頭上をヘリコプタ−がうるさくホバ−リングをして居るので、遭難者でも探して居るのかと思っていたら、標識で本日より「土埋木」の搬出作業注意との事で、トロッコ軌道に出たら搬出用のデイゼル牽引車も有り、現役の路線なのだと確認した次第です。その軌道上で若者二人に追い付き追い越す早足でも、行けども行けども単調な上りが続き、飽きて来た頃にやっと普通の山道となりました。更に木の階段など30分程登り「ウイルソン株」に到着、内部に祠が祭ってあり10畳以上の広さだそうだ。

12時が過ぎていたので、祠の前で弁当を食べて居ると、多くの人達が降りてきました。縄文杉ツア−のようですが、この時間に下りないと最終バスに乗れなく為る様だ。更に上を目差します。続々と団体客が降りてきます。一人しか通れない急な階段が何箇所も有るので、その度に足止めになりました。登り優先だがバス時刻が迫って居るだろうからと、気長に道を譲る事にしました。
やはり世界自然遺産に指定されてから、多くの観光客が訪れて居るのだろう。

1時間程で縄文杉に到着、私が最後で誰にも邪魔されずユックリと。樹齢2600年から7200年とも言われ正確な樹齢は不明だそうであるが、実際は4000年前後ではと言われている。
其れを前に生命の神秘と存在感に圧倒される、カメラに収め様としたが収まり切れなかった。

周辺から雪の白さが目立ち始め、更に上へ一人歩きに為り山の静けさが戻り、時々シカの姿が見られる様になり、雪解けで所々に水溜りができています。1501米に有る新高塚小屋に午後2時30分到着しました。何と40名程収容出来るスペ−スが満杯状態で、東京からの中高年登山隊だそうで、もう夕食の準備に取り掛かって居た。
何とか場所を確保し、私も夕食には早いが暗くなる前にと、持参したコンロとコッヘルでお湯を沸かし、アルファ米は高額なので、電子レンジでチンの赤飯をお湯で温め、そのお湯で「カップラ−メン」を、更にウイスキ−のお湯わりで身体を暖めて、同じフロア−に新潟から訪れた言う、三人組のお嬢さん方と寝袋を並べたが、其の内の一人が余程の疲れか、イビキが気になり、4時には寝袋に入ったせいも有り夜が長かった事。トイレが外で雪の上をヘットランプ頼りに歩くのが嫌で忍耐の一字に。

まだ真っ暗な朝4時に皆さん方が起き出し、食事の準備に取り掛かり、寝袋をたたみ早い人は5時に出発して行った。山頂付近の凍結が少し心配だが、ガスと雪でプチ.ホワイトアウト状態で登山口が見つからず暫らく右往左往しが、暗い山中へライトを頼りに6時に出発し30分程で明るくなりガスも晴れて、快晴の天気に山頂前にして「ご来光」を拝めて神々しい気分に為った。

やはり放射冷却でかなり冷え込んだ様で、雪が凍結し、今回は軽登山靴で来たので充分に気を付けて、予定していた「永田岳」は尾根伝いに行くので、スリップが怖いので回避して、真っ直ぐに「宮之浦岳」に向った。9時に1935米の山頂に到着、日本百名山、「北の利尻山」、「南の宮之浦岳」を制覇である。『バンザ−イ』暫らく余韻にしたり下りが心配であったが、幸い斜面は朝日が正面に当り雪が解けていたので、助かった。

 

下山中予定になかった、黒味岳に登ったが、登山道が整備されて無いので、ワイルドな感じで本当の山登りをした充実感を味わった。予定より早めに下山したがバスが無く「紀元杉」の前で1時間半以上も待つのも嫌で、若しかして「屋久杉ランド」まで行けばバス本数が多いのではと、2キロ程下った所で、明日は走るのだと思い直し引き返した。

今回の登山の為に、8月の「雲取山マラニック」や走友会合宿で「蔵王坊平高原」より熊野岳への縦走に10キロの荷物を背負い練習が効いたのか、リックが身体の一部に為った様で負担に感じられなかった。
バスを乗り継ぎ開会式会場に17.00に到着しました。明日のマラニックのルール説明が終えた処で有ったが、前夜祭には間にあい、私が最初の自己紹介に指名され、全員の抱負等を聞く事が出来た。
宿に帰り早速洗濯し、明日の準備に同室は兵庫県から参加の西村さんで、おそらく何処かの大会で何度も一緒に走った事が有る方だった。フカフカの布団に寝るのは5日振りで有る。

 

5時の朝食後宿の車でスタ−ト地点「総合開発センタ−」に到着。6時でまだ薄暗く曇っている為か余計に暗さを感じた。43名のエントリ−が有ったそうだが、35名前後でユックリとスタ―ト。兎に角4日間まともに眠ってないのに、10キロ前後の荷物を背負い二日間山歩きをしたのだから疲れが出るのは当たり前で身体がだるく、足が重いのは正常の証だろう。10キロで1時間10分20キロで2時間半と歩く様な走りで、其れでも新潟から参加の女性「石川さん」に追い付き、暫らく話しながら併走し、連続するアップ.ダウンも気にならず、次第に身体が軽く感じられて25キロ付近で調子が良くなり、少しずつ前半飛ばしていた人達に負い付ける様になりました。

5キロごとに大きなバケツに水が汲んで有り、更に15キロ前後かお握りや果物も食べられるのは地元の皆さんの協力が有ってこそで有る。宮之浦や安房地区以外は余り大きな集落がなく応援は無く、練習会の様である。永田集落から道路巾が狭くなり、大型車不可道路に頭上は照葉樹林に覆われて、日光が当らない様で路面が一部コケに覆われていた、更にサルやシカが交通量が少ないので、集団で路上に出て毛繕いや、何と交尾までしており、邪魔しない様う遠周りして通り過ぎた。この間26.5キロだそうで、正しく屋久島を実感した場所で有った。

 

この区間は西部林道として自然遺産に指定されて居るので、開発される事はないだろう。

「大川の滝」手前から道路巾が広くなり斜面には金網が、屋久島には似合わない。滝で記念写真を撮り、少し離れた所に名水百選の「大川湧水」でノドを潤し美味しかった事。島全体で名水が湧き出ているので、登山でも余り飲料水を心配せずに登れる。

50キロを6時間で通過。一応10時間のゴ−ルを想定していたので、残り30キロ4時間では行けるだろうと、思ったら何と無く戦意喪失気味に、酒屋を見つけたので発泡酒で気合を入れ直し、60キロ以降は集落が続くがアップ.ダウンも続き、前半頑張った人達は苦しめられたのでは。
残り10キロに為り1時間を切るぺ−スアップに、「安房町体育館広場」に9時間39分09秒、10番目でゴ−ルでした。豚汁と発泡酒で乾杯、その後ゴ−ルした人達は雨の洗礼を受けて戻って来た。
同室の西村さんも時間内完走されたそうで、ずぶ濡れに為りながら宿に戻ってこられた。

翌日は10名が縄文杉ツア−に参加で、西村さんも元気に5時前に宿を出て行った。お疲れ様です。
私も8.20発の「谷山港」行き乗船の為、又宿の女将に車で港まで送って頂き、屋久島を後にしました。鈴木さん、菅原さん、地元のボランテアの皆さん「屋久島の自然」お世話様でした。

 

その後指宿温泉で「山の仲間」74歳、71歳、68歳の熟女3名と落ち合い「砂蒸し風呂」経験し百名山の「開聞岳」、霧島温泉に移動し霧島連山の「高千穂の峰」登山し、往路と同じコ−スで戻り、奈良見物をして、京都に入ったら雨に為っていた。登山、マラソン、観光と10日間で雨の洗礼を受ける事はなかったが。

バス2泊 フェリー3泊 山小屋1泊 民宿2泊 ホテル1泊 旅館1泊 「10泊11日間」旅行総額 117.700円の旅でした。

参考までに仙台より登山専門会社「宮之浦.永田岳.縄文杉.白谷雲水峡」縦走ツア−で159.000円 「開聞岳と霧島連山縦走」ツア−で98.000円


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平成18年8月30日

みちのく横断一人旅


何時の頃から思いつたのだろうか、太平洋の水を日本海に走って運ぶなどと、ばかげた事を思い始めたのだろうかと、20年以上も前の走行記録などを調べ、確か山形県の当時の詳しい地図を買ったはずと、本箱を探してみたら、何と昭和52年購入で現在の112号線の月山道路も昭和54年開通予定と記載されており。宮城県と山形県堺の国道286号線の笹谷トンネルは開通前で計画路線にも為っていなかった。当時は細い笹谷峠を1時間以上も掛けて越えたのを、今では10分程で抜けてしまい。隔世の感がある。
 その頃思いついたのであろうが、現在の様に寝ないで走る事など思いも及ばず、暗く為ったら休むものと、寝袋持参で「橋」の下にでもと考えて居たのだろう。

 最初のコ−スとして、笹谷峠を越えて山形市を抜けて寒河江市へ、当時寒河江ダムは無く、月山道路も開通前で、もちろん今でも自動車専用道路の為、自転車、歩行者は通行禁止だから、今でも歩行者は厳しい登り坂を越えなければならず、その覚悟で六十里越街道を走り抜け庄内平野へ約190キロ走行の計画をした様だが、一度仕事の車で通過し、かなりアップダウンとカ−ブの連続で走るのには、厳しいなと記憶が蘇えり、もっと楽なコ−スをと。結局「鳴子温泉」や「瀬見温泉」を通り新庄市へ更に、川下りで有名な最上川沿いを走り酒田市をゴールにする国道47号線をコ−スに設定した。

 最初にチャレンジしたのは、おそらく1980年台だろうと思うが、確かリックの1リットルボトルの水にビニ−ル.キュ−ブを差込、口元まで伸ばし何時でも飲めるように工夫し、当時田舎道は自販機類の類いは見当たらず、商店を頼りに走っていた様に記憶しているが、5時間位で道路沿いの神社境内で休憩し、前夜、女房が握ってくれたお握りを食べ、出発前に二日ぐらい帰って来ないからと言ったのだが、次第に威勢の良い言葉は何処へやら、バス停や空き地を見つけては腰を下ろす回数が多くなり、約80キロ地点の鳴子温泉に10時間以上は掛かったと思われるが、完全に気力が喪失し、ゆっくりと温泉に浸かり、電車での帰宅となり、スタ−ト前夜の元気は何だったのだろうか。

 その繰り返しが、何年続いたやら、其れでも一番遠くまで行ったのは、125キロの新庄市まで、その後10年以上、太平洋の水はドリンクビンに入ったまま床の間の棚に置いたままで、見る度に無言の圧力となり、そのうち何時かわと心の片隅に引っかかったままに、過ぎてしまい。2005スパルタ.スロンに2度目の参加申し込みをしたので、5年前は暑さに完全に打ちのめされて、100キロ過ぎた所で遭えなくリタイヤし、その反省を踏まえて、夏のむし暑さは半端でない山形県を走れば、大いなる自信に為るのではと、再度25年前の思いを晴らすべく、更にサンガス山の登りも想定し峠越えをコースに、今回は日本海側から走る事に、鶴岡市「湯の浜」海岸へ。

7月30日仙台駅前発7時40分の鶴岡行きのバスに、走って行くはずが文明の力にて3時間で到着、さらに乗り換えて「湯の浜温泉」海岸へ。当日は梅雨前線が通過し、日本海沿岸はフェ−ン現象気味になり、かなり厳しいむし暑さに見舞われて、海は大勢の海水浴客で賑やかな波打ち際に、持参したペットボトルの太平洋の水を注ぐ。その前に口に含んで見たが、25年以上過ぎてもやはり「ショッパ」かった。

 空に為ったボトルに、新たに日本海の水を汲み、リックに着替えと雨具を入れ、ウエストポーチに携帯ラジオと携帯電話ペットボトルを入れて、家から持参した昼食をとり、太平洋に向けてスタ−トとしました。

 11時半に190キロ彼方の太平洋へ向けて、一番暑い時間帯のスタ−と。

 しばらく海辺で遊ぶ人達や、磯釣りで何が釣れるかなと眺めながら。4.5キロ地点で「クラゲ」展示で有名な加茂水族館手前を左折し、日本海とお別れである。何年か前まで急な坂を登り、細くて暗いトンネルを抜けなければ為らなかったが。広くて明るいトンネルになり、楽に市街地に抜けられたが、1時間程で熱中症気味となり、自販機の前で暫しの休憩タイムに。

 市街地を抜けて国道112号線へ、このまま走れば山形市に車ならば2時間で着くのだが、途中自動車専用道路が待ち構えているので、かなりの遠回りを覚悟しているが、この暑さに、走り始めたばかりで「ウンザリ」、ラジオを聴いて気をまぎらわせ、右手奥にJAのカントリ−のエレベ−タ−が見え、あの近くを鶴岡100キロの時何度も走ったのを思い出し、1992年に初チャレンジした鶴岡100キロではぺ−スも分らず、前年度完走された何人かに付いて走ったが、4時間を残し70キロでリタイヤ、ほろ苦い初挑戦に、2001年に再度チャレンジ、当日は台風のフェ−ン現象で35度位まで上昇し、完走者は5名ぐらいだったと思うが、私は50キロで早々にリタイヤ、その後は両足が痙攣を起こし、暫らく身の置き何処が無い程、痛みに耐える苦しみを味わう羽目に。

 やはり、二度も挑戦して跳ね返されたのには、何時かわと言う気持ちが常に有り、毎年申し込み時になると、各大会の日程をにらんで、躊躇するばかりで踏ん切り付かず、何時かわの「思い」だけが募るばかりである。

 櫛引町に入り、道路沿いの農産物の直売店へ。早速トマト、きゅうりの漬物、赤飯、冷たいお茶を飲みながら、全部平らげて再出発。しばし我慢の走りと歩きを交互に。ビ−ルを飲みたくなったが、もう少し行くと駅の道「月山」が有り、冷たいワインが何杯も飲める、「月山ワイン」試飲コ−ナ−がある事を分っていたので暫しの我慢。

やっと飲めると早速試飲コ−ナ−へ。他に客が居ない為、遠慮気味に何種類かを飲み、更に売店を一回りして再び試飲コ−ナ−へ。

 この場所はバンジ−.ジャンプが出来る所で、つり橋から川底へ向って飛び降りる。もっと早い時間なら、観られたのだが。(8/15日死亡事故の為06年も営業休止中)

 予定より1時間30分遅れで田麦俣集落へ。多層民家を横目に見ながら、幹線道路から一気に下って来て、今度は谷底から山の上に登る様な感じで、六十里越街道と呼ばれ、昔は湯殿山信仰の道として開けていたが、暫くは忘れ去られて居たが、最近歩き旅が見直され、草に埋もれた道が整備されて、トレッキング.ツア−も企画される様になった。今回は旧国道112号線として使用されている道路で、通称六十里越えと呼ばれている道を走る事に。

 太陽も山に沈みかけ、次第に明るさが無くなり、一人で山中を抜けるのかと気が重くなったが、その覚悟で来た筈と奮い立たせて山道へ、其れでも道路は整備されて、走り良くなっていたので、蚊やアブに追い翔けられながらも、手で追い払いながら、走る事が出来、次第に高度が上がり月山道路のトンネルの上を走る様になり、時々明かりも見えて、下から車の音が聞えて何と無く安心して走れて、薄明かりの中ブナの大木が多くなり、ライトを照らして観察し、見事なブナ林である。

 そろそろ湯殿山ホテルではと時計を見ながら、何と無く人家の気配を感じた。

 8時頃、湯殿神社に向う有料道路の入り口にある、ホテルに到着、冷たい湧水を利用し、ニジマスや岩魚の釣堀があり、売店で冷たく冷やしたスイカを売っていたので、塩をたっぷり振りかけて食べ、更にボトルに水を詰めて、真っ暗な山道へ。

 遠くで雷鳴が轟いていたが、如何か近くに来ないでと、祈りながらヘット.ランプを頼りに緩やかな坂を上り、途中木々の中を頼り無い「明かり」が尾を引いて飛んでいるので、ホタルが高い山中居るのだろうかと、少し薄気味が悪くなり、雷鳴も次第に大きくなり、大粒の雨に、慌てて雨具を着込んだが、汗で中もびしょ濡れ、我慢の走りに。

 2時間程で夏スキ−で有名な月山スキ−場の基地に為っている、志津温泉の灯りが見えて、一安心。宿の前を通過の一瞬、飛び込みで泊めて貰ったら楽に為るだろうと心が揺れたが、我慢の為所と一気に坂を駆け下り、幹線道路に合流した場所のドライブインで、暫らく軒下で雨宿り。一向に雨脚が弱まらず、意を決っして1キロ先の『月山湖』道の駅へ。夜中で誰も居らずトイレ前のベンチで『仮眠』を、時々トイレに立ち寄る気配に、余り眠れず。

 31日午前3時霧雨の中、ライトを頼りに狭いトンネル歩道を通り抜け、寒河江ダムサイトを越えて、時々対向車のライトを浴びながら下り続け、明るくなる頃には雨が止み太陽が、又暑さに晒されて、コンビニで立ち寄り朝食にと、冷やしソバを食べながら、発泡酒を。この時点で宮城県への山越えは無理と弱気になる。

 更に寒河江市に入り、二十数年前に「サクランボ」マラソンでこのコースを走ったっけと思い出しながらも、次第に歩きが多くなる。

 しばらく日陰の無い田んぼ道を、太陽は容赦なく照り付けて、更に気力を奪い去り、このまま112号線を山形市に抜けるより、幾らかでも県境に近い「山寺」へ電車にも乗れるに傾き、「将棋駒」生産で有名な天童温泉を通り抜け、有名な蕎麦屋が何軒も有るが、暑さの為か食欲も湧かず、出来るだけ日陰を追い求めトボトボと、情けない姿で歩いていたことだろう。

 両脇に収穫の終ったサクランボの木や、収穫中の桃の木を眺め、左前方上に見えた櫓の様な物が「山寺」だ。26時間も苦しんで約120キロしか走れず、情けない走りをしたが、終わりだと思ったら、元気が出て来たが、此のまま二口峠を越えて宮城県へとは、さすがに意欲が湧かず、私の気力が足らない処で、『其れが二度目のスパルタ.スロンも、まだ時間に余裕が有るのに125キロで潔くリタイヤしてしまった。』

 仙石線で仙台駅へ、残りは後日の持ち越しに。

 8月17日家から10キロ程走り、北仙台駅で一番の電車に乗り山寺へ、横断後半分をと。さすがに山寺、立石寺の階段を登ってお参りをして等と殊勝な気持ちになれず、ドリンク等購入し、直ぐに上り坂へ。二口峠は何度も家から山寺へ走っているが、反対側から走るのは初めてである。

 仙山線の下をくぐり、山寺芭蕉記念館脇を通り、次第に民家が無くなり、更に勾配も強くなり、山中へと向う。十数年前にゴ−ルデン.ウィ−クの時横断したが、県境を越えたら何と山形県側の道路は雪に埋もれて、何度も転倒しながら、やっと辿り着いた事もあり、途中まで6月一杯冬季閉鎖になる様だが、残念ながら宮城県側は数年前の大雨で土砂崩れが有り、其のまま放棄し、車は通行止めに為った間々である。

 山形県側は舗装してあり、走りやすく為ってはいるが車の通り抜けが出来ない為か、余り整備されなく為った様である。1時間程登った所の路上にサルの群れが居り、子ザル達やメスザルは直ぐ茂みの中に見えなく為ったが、ボス猿が、ジロリと睨みを利かし、通り過ぎるのを待って居る様で、何と二群れに遭遇、余り気持ちの良いものでは無い。

 

 2時間程で上りが終わりバリケ−ドの脇を通り抜け宮城県へ。宮城県は道路整備に金を掛けないのか、道路巾も狭く砂利道となり、更に下り坂に加えて浮石や大きな石が転がって居るので、足元に気を配り、下を向いての走りと為る。次第に高度を下げて、左手前方に城壁の様な岩が見え、盤司岩が見え更に下り、湧き水がパイプから勢い良く出ており、車で山奥まで水汲みに大勢の人が押しかけて来る様である。

 途中から舗装に変り、二口温泉である、ビジタ−センタ−も有り、大東岳の登山口でもある。更に下り秋保大滝不動尊の清めの冷水で身体を冷やし、秋保温泉へ。途中名取川上流で子供達が水浴びの中、一緒に足を冷やしながら昼食を。

 二口峠は、江戸時代仙台から山形に抜ける最短距離で番所も有り、明治の初めまで栄えた峠道である。何時かは「みちのくラン」でと、暖めているコ−スです。

 仙台の奥座敷とも呼ばれている、秋保温泉に到着、汗を流したかったが、「我慢」して更に南下、南仙台走友会の練習コ−スにも為っている、名取川堤防を下り、途中仙台市中心部を流れる広瀬川が合流し、名取市と仙台市の境に名取川として太平洋に流れ出る川口の、閖上海岸にやっと辿り着く。

 24時間の予定が足掛け3日も掛かり、また懲りずに日本海の水を流した空ビンに又太平洋の水を、年々厳しく為るのは、分っているがノンストップ24時間以内で走破したいものだ。


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