平成17年2月16日開設
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バンクーバーマラソン
元教師のランニングライフ
風に舞う地図




平成23年10月6日

バンクーバーマラソン


9月7日読売新聞朝刊(埼玉版)



新聞記事を送ってくれたのですが・・・

投稿者:修峰 投稿日:2011年 5月20日(金)06時02分45秒
 雲峰さん、おはようございます。あの小さな写真を確認されて、さすがに目敏いですね。
「バンクーバー新報」という現地の日本語新聞の記者さんから、PDFファイルで送られてきたので昨日ここに、添付しようとやってみましたが重すぎてだめでした。
 同時に送られてきた写真のみを添付しますね。




バンクーバーで年代別優勝♪

投稿者:修峰 投稿日:2011年 5月18日(水)12時45分29秒
雲峰さん、
 こちらではご無沙汰しております。お元気にランニングを楽しんでいらっしゃる様子、何よりです。

 5月1日のバンクーバーマラソンで60-64歳の部で10分以上の差をつけて、優勝しましたのでご報告致します。
 生まれて初めての1位、金メダルを手にした時 感激でいっぱいです。

http://www.geocities.jp/sayshoes/running.html



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平成22年7月8日

元教師のランニングライフ


【息長く楽しみたい人生だから胸に掲げる9の会】

韓国・釜山から光州へのイベントがあったのは、2007年5月だったろうか。私はこの時期の一カ月、韓国の薔薇栽培農家でWWOOF体験していた。

たまたま滞在先の近くを通ることもあったので、光州までのラスト30km余辺りから、参加した。そこで初めて「RUNNERS9の会」のユニフォームを身に付けたランナーSさんと知り合った。

【良きことは広めたがり屋この私機会みつけてピースラン】

それ以来、「RUNNERS9の会」のユニフォームを着て参加した大会を調べてみた。南は沖縄NAHAマラソン、北は松島ハーフマラソン。  

海外では、北米大陸。カナダ西海岸のバンクーバーマラソン。東海岸のアメリカ・ボストンマラソンだ。フルが6本、ハーフが3本、10kmが1レース。イベントランは、昨年参加した神奈川反核平和マラソン(7月)と広島長崎反核平和マラソン(8月)だった。距離にして延べ400km強、イベントを加えると500kmを超すかもしれない。

 【紺碧の海を横目にNAHAマラソン平和の思いを地元誌に】

走った後に投稿したものが、沖縄タイムズ(2008.12.11)に載った。「平和希求し NAHA走る」との見出しだった。

 さて2010年4月13日から5月14日までの北米大陸マラソンとWWOOF体験の独り旅だ。今回は、日本を離れて2週置いてのフルマラソン連戦。準備も万全にしたかったので、1〜3月走行距離1000km突破を掲げクリアしての

離陸10日前の4日、吉川なまずマラソン(ハーフ)にも急きょ参加し、14日に成田からバンクーバーへ。ダウンタウン内ホテルに2泊後、トロント経由でボストンへ。

子どもたちの夢をも背負って参加した2000年ボストンマラソンからもう10年。2度目のボストンマラソンは、財布盗難にも見舞われる大事件もあった。

【夢追って二度目のボストン直前にそのまま戻れと言う領事】

バンクーバーからトロント経由で16日朝、着いたボストン空港。

K領事の指示通り、エアカナダカウンターでトンボ帰りのチケットを求める努力を必死でした。しかし、「本日から三日後まで満席です。」   

 更に、ネットで購入した私のチケットは変更不可の格安もの。かなりの手数料がかかる。電源切れ寸前の携帯でそのことをお伝えすると、やむなく運転手付きの若手のB領事が出迎えてくださる。高層ビル14階のボストン領事館で打開策を練り合う。

【機内にて財布盗難無一文ランスマ仲間サポート機敏】

 B領事が、マネーフォームという送金システムを提案。バンクーバー・ランスマのジョーさんが、1000$送金して下さり一件落着。

バンクーバー在住日本人の走る仲間「ランニングスマイル」(略称、ランスマ)の皆さんから様々な的確で具体的なサポートのお陰で出場実現ができたのであった。

10年前のボストン記録3:47の更新が目標だった。が、マラソン前日には中3の時に担任した教え子から、「先生、うかりました〜っ!!」との喜びの声。市議会議員選挙に当選したのだ。そんなこともあってか、これまでの自己ベスト記録を上回る前半のハイペースがたたり、20kmほどから攣り始め、30kmのチェックポイントでは、両足はもとよりアチコチ攣りまくり、歩くことも苦痛になった。

  

 それでもとにかく前にへ前に・・・。左手に携えたデジカメで周囲の景色を撮ったり、沿道の方々にお願いして撮られたりした写真は、20枚をこえたほど。苦しみからもずいぶん気を紛らすことにもなった。

19日のボストンから2週後にバンクーバーマラソン参加。

完走後のパーティーは、バンクーバー在住の日本人ランニングクラブ「ランニングスマイル」主催で日本食レストラン「ベアフット」を借り切っての大盛り上がりだった。

(日刊ランニングマガジン「クリール」ウエブサイトより)


(プロカメラマン・伊藤氏撮影)

 この交流会場で、ランニングマガジン「Courir」編集長の樋口さんとお話しする機会があり、後日JogNoteのサイトを通じて取材の申し入れを受け、6月22日発売(8月号)シリーズ企画《風に舞う地図》26掲載につながっていく。

 この記事でインパクトのあった不登校の子たちとのナイトランについて書き加えます。

【走ろうよ心も体も喜ぶよ一度だけの人生じゃん】

 こんな励ましの気持ちで声をかけ続けたのがそもそもの始まりだった。

精悍な顔つきをしたイケメン生徒の彼、担任していた1年生の時陸上部に入っていたことを思い出したからでもあった。

ナイトランをよりドラマチックなものにしたのは、彼の心優しい中一の同級生仲間へのお誘いでもあった。

私が声かけたその日に、ぜんそく気味の友達の一人を誘い、さらに自宅にずっと篭りっきりだった家(2km位離れている)に遠回りして立ち寄り、連れて来ていた。

 多分来ないかも知れない、との思いもなくはなかったが約束していた時刻の5分前に着くと その3人の男子生徒が待っていたのだ。

【グローバル見聞思考不可欠も地域に根っこ日々行動】

ランニングの楽しさを伝えたかったので、最低でも2週間続けたいと思い、LSD並みのゆっくりペースで語りかけながらのジョギング。さらに給水ポイントを考えた。

13年勤めた前任校での教え子が駅前で酒屋をしていたのを思い出した。事前に飲み物を購入しておき、子どもたちと喉を潤す。幸せなひと時だ。スポーツ好きの酒屋店主は、私が走る人間だとは思ってもいない。当時、スポーツとは縁の無い運動音痴だったからだ。

そんな50歳をこえる元担任の生き方をみて、心に触れるものがあったようだ。彼は、バナナとかミカンとかさりげなく子どもたちに差し入れる。子どもたちから見れば地域のおじさんからの優しさにも恵まれ、二つ目の給水ポイントが必要になった。

学区内の端に卒業生の中華料理店を思い浮かべる。ここも遅くまで開いていたからだ。

 子どもたち3人とのナイトランを目の当たりにした店主が言う。「先生、うちの娘も入れてください!」スタート地点まで車で送ると言うし、断る理由もない。中3の3人は心なしか嬉しい様子だ。

 ここの店主は、近くのお寿司屋さんと大の仲良し。その話をしたらしい。後日、私が寿司を食べに行った時「先生、うちの息子も入れてよ!」こうして当時高1と小5の女の子、そして小4の男の子も加わり、約一カ月半のナイトランが続いたのだった。

【走りゆく見慣れぬ集団夜間でも笑顔で激励父母生徒かな】

自宅に引きこもってた子は、どんどん元気になり、高校にもすんなり進学。最初に声をかけた子が、その卒業生文集でナイトランへの私からの声かけに触れていた。1999年11月のつくばマラソンに出場した私は、40代最後の年。40〜49歳男子の出場資格が、3:25以内完走。前年度の同大会で3:47の自分には、無謀とも思えたその基準を3分残しクリアするオマケまでついたのだった。


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6月23日

雲峰様        お元気にお過ごしでしょうか?アチコチ出歩き大変ご無沙汰してて申し訳ありません。この度、バンクーバーマラソン後の完走パーティーでちょっとした出会いがありランニング雑誌「クリール」から取材を受け、昨日発売の8月号【風に舞う地図】に載りました。もしお手元にないようでしたら、クリックすれば読めるようにまとめてあります。修峰の部屋には、写真を入れ別途送りたいと思っています。
  お送りしてもよろしいでしょうか?
  携帯から修峰でした

風に舞う地図


自分はどこに向かって歩いているのか。
風に舞う地図のように不確かで、乾いた生活に、
走ることが潤いと確かさをもたらしてくれた。
駆けだすことによって、自分の地図を手に入れた人たちを紹介する。

取材・文/水城昭彦 イラスト/小池アミイゴ

橋本静修さん
元・教師のランニングライフ

毎日が楽しくてしかたない――橋本さんは、平和な世の中に生まれ、世界中のたくさんのランニング仲間に囲まれて、ランニングライフを送っている。生きること、走ることの楽しさをかみしめながら、今もかつての教え子たちがいる町を走る。

教え子たちのいる町で 走りたいときに走る
橋本静修さんは、埼玉県春日部市の中学校で長年英語を教えてきた。大学を卒業して教職に就いてから、勤務したのはずっと春日部市の中学校だったという。
3年前に定年まで3年を残して退職。現在は自由を謳歌しながら、走りたい時間に町を走っている。
「今日もこのあと少しジョギングをして、それから居酒屋に行くつもりですけど、そうするとたぶん教え子たちが何人かいるでしょうね。『セイシュー、元気か?』なんて声をかけてくれますよ」
 教師になってからは、ずっと子どもたちの味方であり続けた。その点に関して、橋本さんは自信を持ってい<る。おまけに気さくな性格だ。だから、教え子たちは卒業したあとも、橋本さんを親しみを込めて「セイシュー」と呼び、自分たちの仲間のように付き合っているのだ。
「今年、10年ぶりにボストンマラソンに出場したんですが、レースの前日に、教え子の1人から電話があって、春日部市議会議員選挙で当選したというんですよ。俺が英語を教えてたのは、25年以上も前ですよ。今、40歳くらいの女性だから。そのメール、うれしかったなあ」
 橋本さんは毎日が楽しくてしかたがない、生きていることが楽しくてしかたがない、と感じている。そして、そんな日々は、どうやら走ることで始まったらしい。


健康になるために ランニングを始めた
橋本さんがランニングを始めたのは、40代に入って2〜3年たった頃だった。体調が悪くて病院で検査を受けたところ、胃潰瘍になりかけていると言われた。原因がストレスだということは、自分でもよくわかっていた
。 教育現場で起きた問題を、人任せにできずにみんな自分で抱え込む。それがストレスを生み出し、少しずつ体をむしばみ始めていたらしい。
「父親が60代に胃がんで亡くなっていたので、このままではまずいと思いましたね。何かスポーツでもと思ったけれど、俺は子どもの頃から運動は苦手で、走ることくらいしかできない。それなら走ろうと、走り始めたわけです」
 初日は200mか300m走っただけで息が切れた。ゼイゼイと息をしながら、こんなに苦しいものかとびっくりしたほどだ。しかし、次の日も、次の日も走り続けた。「決めたことを続けるのは得意なんです。そういう根性はあるんですよ。大学時代、奨学金をもらうために、4年間新聞配達を続けたんですが、決めたことをやり通す力は身についたと思いますね」 
根性でランニングを続けるのではかえってストレスになりそうだが走る楽しさを知るまでに、たいして時間はかからなかった。いつしか、学校でも「マラソンランナーのセイシュー」として認知されるようになった。
 運動会ともなれば、男子の持久走を生徒と一緒に走り、女子の持久走でも一緒に走った。


不登校の生徒との ナイトラン
歴史あるボストンマラソンを走りたいと思ったのは、1998年のことだ。しかし、当時は40代だったこともあり、ボストンマラソンの出場資格タイムは3時間25分以内だった。
その年、橋本さんがつくばマラソンで出したタイムは3時間47分。走力から考えると、夢はとうてい叶いそうもなかった。 
翌99年の2学期に、ちょっとした出来事があった。1年の時に担任した男子生徒が、2年の時は不登校で学校に来なかったのだが、3年の2学期になって登校し始めていたのだ。橋本さんは、その子がかつて陸上部にいたことを思い出し、「一緒に走らないか」と声をかけた。「今夜、校門に9時半集合だ」。
 来るかどうかはわからなかった。来なければ1人で走ればいい。そう<思って校門まで行ってみると、彼は2人の友達を連れてきていた。1人は家に閉じこもってまったく登校していない子で、もう1人はぜんそく気味のおとなしい子。どちらも橋本さんが1年生のときに担任したクラスの生徒だった。
その日から、不思議なメンバーによるナイトランが始まった。最初は知り合いの酒屋を給水ポイントにし、そこで折り返す3qほどのコース。そのうち距離を延ばし、町はずれのラーメン屋を第2給水ポイントとするコースになった。その頃から、ラーメン屋の子どもが加わり、さらにすし屋の子どもも加わった。
「毎日、楽しいナイトランでしたね。不登校だった子も、閉じこもりだっ<た子も、どんどん元気になっていきました。結局、閉じこもっていた子も、翌年、高校に進学したんですよ」
このナイトランは、子どもたちに大きな変化をもたらしたが、成果はそれだけではなかった。その年の11月、つくばマラソンに出場した橋本さんは、3時間22分の好記録を出し、ボストンマラソンの出場資格タイムをクリアしたのだ。
「1年前に比べて25分もいいタイム。奇跡です。でも、ナイトランを走った子どもたちが、走らせてくれたんだと思いますよ」
翌年の4月、橋本さんは夢だったボストンマラソンを走った。タイムは3時間47分。橋本さんは、今でもあのつくばマラソンのタイムを、子どもたちからのプレゼントだと信じている。


10年ぶりのボストンと ランニング仲間たち
今年、10年ぶりにボストンマラソンを走った。60歳になり、参加資格タイムは4時間になっていた。
現在の橋本さんには、たくさんのランニング仲間がいる。国内はもちろん、インターネットと英語を使いこなすことで、カナダ、ニュージーランド、韓国など、仲間の輪は海外<にも広がっている。
ボストンマラソンに向かったとき<も、バンクーバーに立ち寄って「ランニング・スマイル」という現地の日本人ランナーのグループと交流。
そこからトロント経由で単身ボストンに向かうことになった。事件が起きたのはその時。機内で財布を盗まれ、ボストンに到着したときには、現金もクレジットカードもない一文無しの状態だったのだ。
持っていたのは日にちを変更できない航空券。それで数日後にはバンクーバーに戻ることができるが、ボストンの空港で身動きできない状況に陥っていた。
そんなピンチを救ってくれたのは、「ランニング・スマイル」の仲間たちだった。マネーグラムというインターネット上の送金システムを使い、お金を貸してくれたのだ。そのアシストがあって、橋本さんは2回目のボストンマラソンを走ることができた。
 ボストンからの帰りに橋本さんはバンクーバーに戻り、ボストンから2週間後にバンクーバーマラソンを走った。ボストンは前半のオーバーペースがたたって後半に大失速してしまったが、バンクーバーでは3時間40分で走った。
「10年前のボストンマラソンの記録を破ることを目標にしていました。ボストンでは失敗したけど、なんとか目標達成ですね」今回の北米ツアーで好結果を出せたのは、仲間たちのおかげだった。


平和だからこそ ランニングを楽しめる
橋本さんはランニングを通じて、自分の考えを社会にアピールしたいと考えている。
きっかけは、20年ほど前にある大会で見た高齢ランナーの主張だった。レースを終え、着替えたその老人の背中には、「核兵器をこの地球からなくせ」と手書きしたゼッケンがつけられていた。「こうして走れるのも平和があるからですよ。平和を大切にしたいという気持ちは強いですね」
昭和24年生まれの橋本さんは、まさに戦後のベビーブーム世代だ。戦争が終わり、平和になって生まれた世代。戦後を知っているだけに、平和に対する思い入れは強い。
「憲法9条を守ろうという『ランナーズ9の会』というグループにも所属しています。これからも、平和を訴えて走っていきたいですね」 
今、目標にしているのは、3桁の年齢まで走ることだという。まだ40年も先のことだ。その頃には、「セイシュー、元気か?」と声をかけてくる教え子たちも、すっかり年をとっているのだろう。 



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