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私の愛蘭土(アイルランド)紀行
中東4国の旅とマラソン
南ドイツとスイスの旅
エクアドル・ガラパゴス漫遊の旅

ロタ島に遊ぶ
エジプトから帰って
ペルーの旅とマチュピチュマラソン




平成28年9月9日更新

私の愛蘭土(アイルランド)紀行
(2016年6月24日〜7月4日)

 
ヨーロッパへの機中で私は小泉八雲全集を手に時間を忘れて一心に読み漁った。それには深い因縁を感じたからである。6月初めの鳥取で開催された再生神話の里マラニックと6月末のアイルランドのマラソンが小泉八雲によって赤く太い糸で結ばれていることを感じたからだ。

ユーラシア大陸東端の島国日本から西端の愛蘭土への思い出深い旅の体験だ。6月中旬愛蘭土のマラソン大会事務局からマラソン前日のラフカデイオハン日本庭園開園セレモニーの招待状が舞い込んだ。送り主は日本の三好愛蘭土大使である。ここで私はハンと愛蘭土に興味をより深め、出発前に図書館通いをした。「耳なし芳一」が有名だ。

山陰は小泉八雲が大好きな民話の多い地で、奥さんの小泉さんと出会った地であり、愛蘭土は八雲が18歳まで育った父の故郷である。愛蘭土は北海道程の面積で人口は400万人余だ。
*小泉八雲の本名ラフカデイオ ハンは母の里ギリシャの小島で生れたが、父の西インド諸島への転勤により2歳で愛蘭土へ帰った。

6月初めの旅は古事記に出てくる大国主(おおくにぬしの)命(みこと)に縁の深い神社を巡るマラソンで、スタートの神社は縁の深い女性の祭られた神社で大国主命が女性の介抱で生き返った所、折返し地点は大山(だいせん)の麓の赤猪子神社で大国主命が瀕死の重傷を負った灼熱の岩のあった所である。どちらも古事記にでており八雲も訪れた地である。

6月末の愛蘭土へはやはりマラソンと観光旅行であるが、彼の住んでいた首都ダブリンの大叔母の旧宅が現存していること、公園は避暑地で別荘があった地であることが分かりあとは現地でぜひ確認したいと思った。

愛蘭土へ到着して妙な旗・幟が国旗と共に街中に多数はためいている。現地で尋ねたら「今年2016年は愛蘭土が英国から独立して100年の記念の年である」と言う。愛蘭土は700年ほど英国の圧政下で辛苦の生活を強いられてきた苦い歴史があり、その解放を祝っての幟であることが分かった。

愛蘭土はケルト族の独立国家で島の北部一部は北アイルランドとして英国連邦の一部である。英語以外公用語にケルト族のアイルランド語が定められているが今は英語が普及している。訪問の6月24日は英国がユーロ離脱を決定した日であった。

全世界にアイリッシュは約8000万人、アメリカにその半数いて大統領も2名出している。文学者や音楽関係者も多数出ておりビートルズ4人中3人がアイルランド系で、アイルランド民謡は日本で広く知れわたっている。詩人ではノーベル受賞者も2名輩出、映画のタイタニック号をご存じの方も多いがこの映画はアイリッシュ移民をテーマとした映画で全体に流れたテーマミュージックもアイルランド音楽である。


宗教問題も深く国家形成に絡んでいて旧教カソリック、新教プロテスタント、英国国教会が存在し民族間での争いがときに起こる。愛蘭土は95%がカソリックで北はプロテスタントが多い。

首都ダブリンの街点描

私たちは首都ダブリンからマラソンのあるウオータフォードへ3時間弱特急列車を利用したが、道中まるで北海道を旅をしている感じだ。どこまでも続く平原と牧草地帯、のんびり草をはむ牛や羊が点々と窓外に見られる農業国である。アイリッシュウイスキーやギネスビールで有名だが、夜の街はどこも賑やかで道路を歩く人たちは明るいと感じた。アイリッシュダンスをレストランで見たが地味な感じのタップが多いダンスだ。

マラソンのあったウオータフォードの町はバイキングが開いた港町で愛蘭土島の南端にあり北欧のバイキングの前線基地であったであろう。マラソンも「バイキングマラソン」と名が入っている。帰りは史跡を巡りながら車でダブリンに戻ったが各地に石で構築した城壁が点在している。バイキングが来襲したとき人々が避難するように高く石が積み上げてあり、戦うよりも一時避難する場所のようだ。

 石で構築した城壁 ラフカデイオハン庭園 

ラフカデイオハン庭園は海を見下ろす丘陵にあり事業家の大叔母のものであって、寄宿していたハンが毎年利用していた。その跡地に見事な日本庭園が造られていて樹木も日本にある樹木と石で配置されていた。小川には丸木橋も架けられており見事なものでこのような遠い国で日本庭園を拝見できるとは思わなかった。造園1周年記念のセレモニーが開かれ日本大使からの招待状で大勢の挨拶が続き、大使もわかりやすく挨拶された。

ダブリンのハンの旧家は立派に保存され現実に多くの住民の住むマンションである。看板はB&Bホテルになっているが賃貸の定住者がいて、ハンの写真や遺品などは廊下に飾ってあった。私は飛行機の中で読み漁ったハンの民話小説集を寄贈した。

この後、私たちはフィンランドのヘルシンキ、バルトのエストニアのタリン、ラトビアのリーガ、ロシアのSt.ピータスブルグに観光とマラソンに行ったがそれぞれが深い歴史と(町が世界遺産)非占領の過去の歴史を持っており、次回に機会があったら寄稿させていただくこととしたい。

 
 
 
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平成27年4月19日更新

中東4国の旅とマラソン
(2015年3月26日〜4月8日)





3月26日から4月8日にかけて@キプロスAイスラエルBヨルダンCギリシャの4か国を旅行した。出発前に多くの友達は私にあなたは危険な国へ行くべきではないと警告をしてくれた。それで、私も不安に思ったので外務省に海外危険情報を問い合わせた。その結果「危険でないが注意しなさい」との情報を確認したが、しかし一抹の不安は残った。ヨルダンに対して外務省は「ヨルダンは中東の中では一番安全である」との情報でせっかくのチャンスなので思い切って出かけた。

観光
@  キプロスはトルコ側とギリシャ側と南北分裂したままの共和国だがギリシャ側の第2の都市ラルナカで3泊した。海岸のきれいな保養地で中高層ビルが林立している。6000年の歴史ある地中海東側にある貿易、戦略的に重要な島で長年イギリス、トルコ、ギリシャ間の紛争のおさまらない島だ。世界遺産遺跡が3つあり1つを見学した。1つ目のマラソン完走。

 
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A  キプロスからイスラエルのテルアビブ空港に入りエルサレムへ車で移動。空港も街中も緊張した様子は見られない。エルサレムで2泊して、パレスチナ自治区でユダヤ、キリスト、イスラムの三宗教の聖地見学や旧市内、キリストの生誕教会、嘆きの壁、ベツレヘムなど旧約聖書の世界にいるようで坂の多い街だ。ベツレヘムではキリスト生誕の話を聞きヘブロンの丘、ゴルゴダの丘などどこかで聞いた地名が多い。嘆きの壁ではお祈りをした。“戦いのない世界が来るように“

  
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B  イスラエルからヨルダンのアンマン空港に入国しても警戒すべき状況は全然無く、平和な広場のようだ。町の中心地では市民や子供達、たくさんの人たちが普通の生活を楽しんでいる。ヨルダンではスリやひったくり、殺人事件はないと聞き日本の方がよほど危険だと思った。子供たちがのんびりと凧揚げをしている場面を数回見た。遠足の陽気な中学生の団体にもあった。また、観光地も市街地もゴミが落ちてなくなく清潔な感じであった。アンマンで3泊。

 
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遺跡で凧揚げして遊ぶ子供達 

ヨルダンはシリア、イラク、サウジアラビア、イスラエル、エジプトと国境を接しているが、どの国とも友好条約を結んでいる平和な国で砂漠が60%の国である。ジェラシェ遺跡や競技場は町中にあった私は死海マラソン50qをパスしペトラ遺跡に行った。首都アンマンから南へ300`、往復600`を6時間砂漠の中をハイヤーで移動したが、丸1日の車の旅でも不安は少しも感じない。他のランナーは死海50`に参加し浮遊体験を楽しんだ。途中でポリスが時々立っているがスピードや積載違反と無免許取締。ペトラ遺跡は世界遺産だけあり2.5`の断崖壁に挟まれた歩道は圧巻である。4〜50mの岩石が直立したり、変形して色々な形が見られる。その狭い遊歩道を過ぎると突然現れる遺跡宝物館や墓穴、宮殿跡や教会、競技場など見飽きない4時間だ。


C アンマンからイスタンブール経由でギリシャ第2の都市、テサロニキに入った。ここはアレキサンダ大王の遺跡が多く、42q東の村が大王の出生地で、騎馬像が中心地にあり2泊する。100万都市で活気がある港町だ。今回の旅では私達には口に会う食料が多くレストランで安く美味しい食料にありつけた。

 
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D  債務超過国で騒がれているギリシャ市内は、その気配全く無く、大衆はのんびりと生活を楽しんでいて、古い歴史と文化 の国であることを再認識した。土日のレストランは寛ぐ市民、家族連れで満員。パルテノン神殿や博物館に行ったが、何処も観光客や地元の近隣の人々で賑わっていた。勿論レストランも客は入っていて寛いで食事し、歓談する姿に債務国?と目を疑った。

 
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マラソン
観光の途中でキプロスのリマソル、ヨルダンの死海とギリシャのテッサロニキの3つのフルマラソンを12日間の中で走るツアーにフル百仲間5人とラン友5人の10人で参加した。キプロス市長を市庁舎に訪問し友好を深め、また、ゼッケン受付では私の着たTシャツにイングランド100 MARATHON CLUBの人達が気づき声をかけられ歓談をした。彼らは350回位の完走を自慢したが我々の回数に驚いていた。私のTシャツの背には
100 Marathon Club JAPANと印刷し海外では着用している。このクラブ名は世界に広がっていて私達のクラブでも統計を取り公表している。1000回以上や650回以上が4人もいて驚いていた。

 

@ リマソルマラソンは美しい海岸スタート・ゴールの走りやすいコースで市民の応援が多く市民から「ブラボー」がひっきりなしに聞こえる。好天気で20℃くらいかな。

A 死海マラソンはフルが中止になり50kmに変更され100名以下の参加者、私はマラソンをパスしてペトラ遺跡観光に変更

B アレキサンダ大王マラソンはペ?ラをスタートしテッサロニキゴールのワンウェイで、農村地帯の平野を走るが殆ど国道で走りやすい北海道の平原のようだ。冷たい霧雨で一日手袋が必要。ゆるいアップダウンが続く道。バイク、スタッフ車が最後尾を走る私につく。鞭で叩かれるようなゴールは6時間少し超えぐらい。

エピソード;某氏がホテルに財布を忘れたが気がつかず清掃の女性から連絡があった。15,000円あり後日届けるとの事。正直さ、几帳面さに驚くと同時に国民性を感じた。新聞やテレビのマスコミ情報は危険だという戦地情報多く発信している。宗教戦争や国の内戦などの区別なく危険性を煽っていると感じた。私の旅では全く危険を感じなく、楽しく旅が終わったことを神に感謝したい。     完


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平成26年8月23日更新

南ドイツとスイスの旅(2014年7月16日〜28日)


暑い!梅雨開けて瞬時に猛暑がやってきた。と思ったら台風の来襲、異常気象の地球は一体どうなるのだろう?この夏暑い名古屋を逃げるようにしてヨーロッパの旅に出た。好きだったマラソンも国内では参加するレースも少なくなり、ゆっくりでも走らせてくれる大会を探しての旅だ。

名古屋を7月16日に出発し28日に帰国した。行きはエールフランスでパリ経由ミュンヘンへのフライトでパリまで12時間45分、ミュンヘンまで1時間30分のフライトである。ドゴール空港へは早朝の到着だった。待合ロビーから見た雲間から出る朝日もきれいだったが、建物のデザインの素晴らしさに驚いた。

ミュンヘンから鉄道でPRIENへ3時間乗り、ヨーロッパ鉄道の旅の始まりだ。湖の中に浮かぶ小島、ヘレムキームゼ城@の見学をした。PRIENの町からフェリーで渡った緑濃い森に囲まれた素敵な城だ。
今回の旅の目的の2つ目、城巡りの始まりである。ホテル1泊

2日目は鉄道でFUSSENへ移動し、ゲストハウスサンクトウルリッヒに宿をとった。ここは元修道僧の宿舎で、改修し簡易ホテルにしている静かで清潔な宿だ。近くに大きな聖シュピタール教会がある。FUSSSENはロマンティック街道350qの終着の町でもあるが、有名なホーエンシュヴァンガウ城A、ノイシュバンシュタイン城Bが近くにありゆっくり見学ができた。FUSSENで3泊し、日曜日にはマラソン大会に参加、城から見下ろしたFUSSENの町、田園地帯、湖、森の小道を走った。第14回ロマンチックマラソンです。14. Konigsschiosser Romantik Marathon 2014←正式な大会名

 
 

5日目はバスで移動し小さな町オーバアマガウに2泊した。この町は10年に一度「キリスト受難劇」を上演することで有名である。ホテルは老夫婦の経営する家庭的なホテルで、冬はスキー客で賑わう山間の宿場町で、感じの良い土産物店も多い。ここにも素敵な教会があったが、オーバアマガウへ移動する途中に世界遺産の欧州で1番美しいと言われるロココ教会のヴィース教会を訪ねた。教会は寒村にあり外観は地味だが内部は豊かな色彩と華麗な装飾で圧倒された。昼はレストランで暖かいドイツ料理を頂く。

6日目、リンダホフ城と修道院をバスの往復で見学僻地にも立派な建造物があるのは驚きだ。

 

7日目は鉄道で4回乗換えてスイスへ移動、ダヴォスに宿をとった。ダヴォスではアパートメントを借り4泊した。ドイツの不味いパン(日本は美味すぎるのかな?)、ハム、チーズ、ジャガイモに辟易していた。スイスではCOOPで野菜、肉、米など買い物し、持参した缶詰やレトルトを調理し腹一杯食べた。ダヴォスは国際会議が毎年開かれている有名な町だが、周囲をアルプスの山々に囲まれ高い峰にはケーブルやロープウエイが発達している。

    

土曜日はスイスアルパインマラソンです。生憎の曇り空で途中から冷たい雨が降り、ロマンティックマラソンと違い山岳マラソンでした。大会組織はしっかりとしており市あげての2日間のお祭りです。
子供たちの年齢別の大会からウルトラマラソンまで幅広い大会で、エイドも案内標識も多数あった。完走者には老若とも公平に同じメダルが与えられていた。

しかし、登山道のような細い道やアップダウンの続く道は未舗装で、私にはきついレースです。降り始めた雨で水溜りも多く悪路となり33kmに種目変更し(42qに登録したが33kmの正規レースもあり)たが、メダルも完走シャツもいただけた。山岳鉄道と幾度も交差したルートはループ橋の下や鉄橋をわたる難路である。

11日目ダヴォスを後にチューリッヒへ移動し、オランダKLMによりアムステルダム経由で帰った。

2日間往復の機内泊で11日の旅でした。
この旅は同行者の親友K君の海外マラソン100回達成記念旅行であり、彼は見事ロマンティックマラソンで100回目を完走し長年の夢を果たした。当初同行予定だったYさんは直前の急用のためご一緒できず、一人で我々高齢者2人のツアコンを務めるハメになったIさん、またそのヘルパーとして前半参加してくれた彼女の息子さんには大変お世話になった。親子して素敵なランナーでロマンチックマラソンを完走し歓声をあげていた。彼女には慣れない個人旅行を助けられ随分と頼りにした。

もう1つの目的である南ドイツ城巡りは以下の通りです。

 
 

@ リンダーホーフ城 仏の太陽王ルイ14世を尊崇したルートヴィヒ2世の居宅的な城で、ヴィーナスの洞窟は一見の要あり。オペラ「タンホイザー」の1場面が再現されている

A ヘレンキームゼー城 外観がヴェルサイユ宮殿そっくりで内部も豪華絢爛、未完成の城

B ホーエンシュヴァンガウ城 ルートヴィヒ2世が子供時代に過ごした城、父マクシミリアン2世が修復した城でワグナーが演奏したピアノが置いてある

C ノイシュヴァンシュタイン城 未完成の城だが外観が素晴らしい夢の城で観光の目玉
ルートヴィヒ2世(1864〜1886)バイエルン王国の王が関連した城で人気の城ばかりである。
当時はプロシア、フランス、ハプスブルグ帝国に囲まれた複雑な政治情勢の中、戦争や政治に失望し、趣味・芸術の世界に入り込んだ。上記城の築城を計画し、科学技術を促進させ、ワグナー等を擁護した。

これらの4城は財政悪化で築城途中だが観光収入で稼いでいる。


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平成26年5月28日更新

エクアドル・ガラパゴス漫遊の旅(14.4.30〜5.13)


ゾウガメが長き首だしいもの茎音立てて喰うガラパゴスの昼

物騒な町グアヤギルシャツ一枚教会に入り暑さをしのぐ

赤道直下さほど暑さを感じない海流そばをながれるエクアドル

ブッシュこぎ山道上る火山島ガラパゴスの島けものなき島

イグアナは人を恐れず群れをなし遊ぶ姿我じっと見る

エクアドル福島ににて海・山・丘三つに分かれる興味ある国

アンデスの山中に見た植林は不毛の高地緑のしまじま

海見つめ朝寝昼寝とアシカの群れ海から食料豊富にありしか

ジャングルを抜け長き道下りてゴール我を喚起で迎える走(と)友(も)ら

高地ランランナー見えず息苦し高齢我は一人山見る



 

 「昨年秋、大森氏からガラパゴスのマラソンに行かないか?」と誘われ、話には聞いていたが未知の地、憧れの地だ。マラソンは自信ないが観光ならと、つい口が滑ってしまった。
膝を痛めて半年以上走ってはいなかったが、少しは走れたらと足の練習を始める。
 予備知識は殆どなく世界遺産の地でゾウガメなど希少動物がいる程度の知識であった。それからnetで色々と未知の領域に入り込んでいった。

@ 本土から1000qの絶海の孤島。A ガラパゴス諸島は123の島に名があるが無名の多数の島?の総称。有人の島は水が少ないからか4島。B ダーウイン進化論の発端の島、1835年ビーグル号で行き35日の短期間の滞在での観察。

 今年に入って主催者のデヴィーから英文メールがどんどん入ってくる。それを理解するため辞書との格闘が始まる。ペルーのインカ道トレイルもデヴィーの催行で5年前マチュピチまで50qトレッキングしたので多少は安心だ。英語達者な大森氏と一緒ならまかせっきり、といつものように大船に乗った気持の参加。大森氏とは南アフリカのコムラズ(2004)ボストン、ビッグサー(2005)マチュピチインカトレイル(2009)をご一緒している気心知れた走りの大先輩だ。

5月2日現地集合の10日現地解散でその間9日間はぎっちり行動が決まっている。毎日のように散歩、トレッキング、ラン、観光が組まれている。グアヤギルのヒルトンに宿泊。

1日目 5/2日全員集合、アメリカを主にカナダ、ニュージランド、英国、豪州、日本

  

2日目 グアヤギルから諸島のサンクリストバル島に飛ぶ。100jの国立公園入場料を納付、その後各島へ入るたびに10jを納付。荷物の検閲も同時にするがちっこい仮事務所だ。すぐバスで山の中腹へ移動、唯一の水源である火口湖を一周するが霧で見えず、下りのランを9.6km走る。

3日目 朝ラン2時間、展望台など起伏のある公園内を走る。その後、船でキッカーロックなど岩石の島々を回リ、シュノーケリングを楽しむ(私は船上)。

4日目 サンクリストバル島からイサベラ島に飛ぶ。この島は諸島最大の島で上の方は赤道が通っているが5つの火山が爆発、隆起して一つになった島。亀繁殖センターを見学。孵化した幼亀を猫やネズミから保護育成し、大きくなってから解放する。100歳近い亀から卵まで飼育し観察している。夜、明日のマラソンコースの説明があるがグーグルのコピーをもとに説明し、距離はGPSで計測している。湿地公園を3.2qウヲーク。

5日目 マラソン当日、国立公園入口まで車で移動。ここがスタート地点で背の低いブッシュの中を1490mのシェラネグラ火山の外輪山へ上り、外輪山の一部を走り火山流原へ下る。
世界第2のカルデラで密林が広がり、溶岩平の途中で折返し登山道を下る、昨夜の雨でぬかるみも多く登山者ともすれ違う。国立公園と言えど牧場が多数あり牛馬、果樹などが植えられ、その金網の外側を2か所約10q、ブッシュをかき分け、ピンクのリボンを探して歩く。溶岩平原の折り返しではトップ以降すれ違うがその後はず〜と単独行だ。
ゴールは農場の中の接待所のような場所でゴールがテープで造られ、みんなの歓迎コ〜ル『ケイゾ、ケイゾ』の中をゴール。最終ランナーで9時間かかったが、完走できたことに大満足だ。ブッシュこぎのような悪路でよく完走できたと自分を褒めたい。シャワーを浴び、食事を少し口に入れる。ず〜と案内してくれた捨て犬に鶏肉をやる。

  

6日目 ティントレラス島とシュノーケリングのお休みモードの一日。この島は小さな島で高さもないが風や海流の影響で多様な気象、海イグアナが沢山生息、鳥やカニなど見られる。溶岩流はそのまま残っていてイグアナが沢山群れを作って生活している。歩行道路以外はイグアナの産卵保護のため入れない。また岩が白く地衣類が覆い、海流と湿度の加減だ。
シュノーケリングを楽しむ(私は監視に努める)。

7日目 グアヤギルへ飛行のためボート・高速艇・ボートと乗換へて、バルトラ島へ移動。
軍用基地だったが本土と結ぶ重要な民間飛行場になっている。3時間待機。

8日目 車でアンデス高地に移動、民家はあるが3200mは越えている。ここをスタートしアップダウンを繰り返し12qのラン。きれいな大きな教会のある集落を通過、そこに温泉がありゴール2621m、ゆっくり湯に浸かる。
午後古き町、国第3の都市クエンカ観光。世界遺産と言うが全部を回りきれない。パナマ帽子とキニーネで財を成した街で古い建築が多い。町を歩く人の多いのには驚きだ。

9日目 前日の豪雨で予定変更(河川は台風一過のような濁流)、行きは飛行機だったが帰りはバス、4000mの高低差と屈曲の多い山岳道路、クエンカとグアヤギルを結ぶ唯一の道路だろう。山から下りた時、運転手の技量に思わずみんな拍手した。エクアドル最大のマングローブ林へ直行、途中の密林や田んぼ道を10kmほどのラン。明日帰るのに靴の汚れが酷くなり私は3qほどでリタイア。もう、走ることはないと納得。蟹を沢山収穫した住民にあう。皆、最後の最後までランを楽しむ集団だ。

  

夕方グアヤギルのヒルトンホテルに入り、最後の晩餐パーティを賑やかに開催された。夫々が写真を撮りあって歓談が続いた。私はこの旅行中腹の具合が悪く殆ど満足に食べてない。正直、食べるものがない。薬は正露丸を持参したが一時的に下痢は治まるが食べるとすぐ下る。大森氏はず〜と食欲旺盛、海外旅行に強いのには驚いた。私は日本に帰ったら直ぐに回復した。もっぱらペットボトルのピュア水とユンケル粒状で過ごした。

10日目 皆さん夫々が帰国、ホテルは静かになったが私たちは夜のフライト、一日グアヤギルの町に再度出かけシーサイドと陸イグアナを見に出かける。遅い朝食をとるが不便なヒルトン(近くに何もない)の広い食堂に満員の客、途切れることない客には驚きだ。朝も昼もバイキングだが安くないと思う。子供連れ、家族連れが多く歓談しながらの食事だ。

11日目 マイアミ経由ダラス乗換え成田に13日1時間遅れで17時、無事帰国。名古屋に夜の11時過ぎであった。


同行者大森敏生氏のレポート


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平成26年2月23日更新

ロタ島に遊ぶ

 投稿者:虎峰  投稿日:2014年 2月23日(日)08時35分21秒
ロタは初めての地、サイパンとグアムの中間にある小さな島(人口3000人)だが海のきれいな自然の多く残る島。殊の外、私の興味を引いたのはロタが戦前まで35年ほど日本統治下で平和な地、サトウキビを生産し本土に移出し、日本人の血が残る島民が多くいて、親日的な島だ。 勿論、マラソン(50`)をし、海に遊び、南海の美味しい魚類を腹いっぱい食べ思い出を多く残した。雪の名古屋を出て紫外線を浴び皮膚焼けして帰国した初春の旅だ。ココナッツ椰子の果汁で喉を潤し、椰子の果肉は白身のトロ、ヤシガニを飽きるほど腹におさめ体重増加を気にし、空港ではTシャツからダウンジャケットに着替えた。



レポートはPDFにてご覧ください。 2-15-kohoh-rotatoh.pdf へのリンク

呼びかけ人萩田博氏のレポート


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平成23年2月6日更新

エジプトから帰って

一番大きなモスク  若い娘は人懐こい、暴動の前日 

皆さんにご心配おかけしましたが、1月31日17時無事成田に帰国しました。
マスコミ取材ラッシュの中を通るのは初めてで、同行の河合さん、木村敬さん夫婦他多数取材されていました。国内では大騒ぎだったことが分かります。

エジプト国内がこれほど疲弊し、99%の国民、特に若者の鬱憤が蓄積してるとは思いませんでした。この騒乱の指導者がいないのが今回の特徴で、独裁政治がいかに長かったかが分かります。

23名のツアー(地球を走ろう・クラブツーリズム)で成田出国・帰国でした。
25日に出発して、26日ギザのピラミッド、スフインクス観光、27日王家の谷、28日のルクソールマラソンまでは世界遺産の観光を含め順調に行程をこなしました。

しかし、24日頃からデモがカイロ、アレキサンドリア、スエズでは起きていたようです。
ホテルのアルジャジーラTVで若者の政治デモ、警官との衝突騒動の様子を見ました。
ギザの観光を終え、空路カイロから600km南へ離れたルクソールは平穏無事でした。
28日金曜のルクソールマラソンを終へた午後にはルクソールの中心街も騒然としてきたようで火炎瓶の煙も出ていたようです。
私達はナイル川の中の島にあるホテルのプールでアイシングしながらその日は過ごしました。

スタート  コース

マラソンは国際マラソンとうたっていますが距離も短く、完走証もタイム、名前を自記、エイドは水とバナナ、走路要員も後半はなく、道は固く10Kの4周はお勧めではできません。
スタートもアバウト、チップはなしです。
完走パーティだけは立派ですが偉い来賓の方が大勢いて、挨拶がありました。

29日カイロへ出発のため空港に行くと、カイロでの非常事態がはっきしてきて飛行機も遅れて飛びました。ルクソール空港ではサッカーの日本勝利・優勝をみて歓声があがっていました。
カイロ空港内の食料もカラとの情報で食料を買い込み、騒然としたカイロについたが外出禁止令で予定のホテルには行けません。
戒厳令下で職員も出勤出来ず、飛行機があっても飛べないとの事、みんな床に横になって仮眠し一夜を過ごしました。

食料は2度、差し入れがエジプト航空と近ツリからあり、また、手持ちのもの(みそ汁やお茶等)飲み、食べたりしていました。持参の湯沸かし器やポットが重宝されたのです。
その間、色々情報が流れ飛び何度も荷物をもって右往左往しました。
約1000人いた乗客は夜が明けたらヨーロッパ系は居なくなり、日本人と東洋系ばかりになってました。ヨーロッパ諸国はいち早くチャーター便を使い脱出したようです。
空港には約500人の日本人観光客がいたようです。

30日我々のグループは添乗員の言うまま動き、突然出国出来ることになり、手続きを済ませて
夕方予定の飛行機エジプト航空964便に乗りこみました。
外務省の動きが30日にあったようで、大使館員が何度も添乗員を集めていたが、全員脱出は不可能で、飛行機は330人乗り優先順位があるようです。
4時間待たされ満席で飛びたちました。半分の席は政府がチャータしたとのうわさでした。

待たされた機中では乗務員が不足とか言ってたが、最後は無理やり日本人観光客を無検査で乗せたようです。窓から見たカイロ空港の灯が心なしか薄く見えました。飛び立った時はホットし、成田に到着した時は無事帰国の機内に感動と感謝の拍手が一斉におきました。

貴重な体験でしたがチュニジアやアルジェリアからスタートした中東の一般国民による政治反乱はまだまだ広がるようです。

エジプトは1%の富裕層と残りは貧困な国民で、30年にわたる独裁政治に対し特に若者に鬱積があったようです。エジプトの外貨収入はスエズの通行料、観光が2大柱で観光収入がこの騒乱で数年落ち込みが続くと添乗員は嘆いていました。

騒乱は携帯メールでのNET呼びかけが発端となり、パソコンや携帯の利用がすぐ止められ日本への受発信ができませんでした。現地添乗員からもエジプト事情を色々聞きましたが、帰国したら日本の方がより詳しくご存じのようでした。
                                                    千田記

  

  

  


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平成21年10月6日更新

ペルーの旅とマチュピチュマラソン
2009.08 千田虎峰
  





日本人で一番人気のトレッキング場所はエベレストとマチュピチュだという。私は8月4日から21日までペルー観光とマチュピチュマラソン(27.5mile, 44.26km)に大森さん(今回リーダ、コムラッヅ9連続出場)、原さん(ヨーロッパ縦断4889k)、石原さん(世界3大砂漠連勝)の4人で参加した。高山病予防と高度順応のため日数を多くとり、ゆっくり観光をかねて身体を慣らしての贅沢なグルメの旅だ。一番の不安は高山病だったが無事だった。
ペルーの首都リマ、インカ帝国の古都、マチュピチュへの巡礼道の基地であるクスコ(世界文化遺産)とマラソンスタートのベースキャンプ地までの遺跡、観光地を沢山見学し、帰りにナスカの地上絵(世界文化遺産)や無数の海鳥、ペンギン、アシカ、アザラシの住むパジェスタ島にもボートで立ち寄った。フンボルト海流があって餌が豊富なのだ。

  

古都クスコは標高3360m、スタート地点が2650m、コースの最高地点4200mと富士山の3776m以上を未経験の私にとっては途方もない高地のマラソンで高山病が心配な旅だ。

古都クスコはインカ帝国の首都で15世紀に多くの歴史的建造物が建てられ、繊細な石細工と石の組合せは有名でユネスコにより人類文化遺産として登録されている。

クスコから120kmはなれた所、ウルバンバ川沿いの山中に地球上最も美しい遺跡、天上の都市、失われた都市と呼ばれるマチュピチュ(文化自然遺産)がゴールだ。

  

マラソンはクスコから87km地点のキャンプ地、ラクタパタ(2650m)からトレイル(2〜3人通れる小道)で始まり、アップダウンのくり返す道、当然遅い私は1人旅の覚悟である。

ランナーは40人、スタッフとポータ90人、日本は4人でオーストラリア2、英国2、他はアメリカだ。スタッフは現地のインデイオで日本人にそっくりさんが多い。

スタートはアーリ4時30分、正規6時で2/3が暗い中ヘッドランプを付けて出発、1時間半程のトレイルゲートで開門6時を待つ。石原さん以外はアーリスタートで3時の朝食だ。

途中で夜が開け雪をかぶったアンデス山系の霊峰ベロニカ山(5850m)が朝日に照らされて印象的だ。底抜けの青空には半月が浮かんでいた。

  

インカトレイルの最後の民家ワイラバンバ(3000m)を過ぎると道は淋しく高山を右左に見て歩き走りする。山は深く遠くにアンデス山系を見る、時々すれ違う現地人のポータの他は6時スタートの選手に追い越される。4000m前後の山道にも池があり、小さな高山植物や花をつけた雑木が見られ癒やされる。原さんは盛んに花や植物を撮影しての走りだ。

とにかく石道は狭いがよく整備され標識も要所にはあり一人旅でも迷うことはない。まあ山が高いので脇道がないのだ。

  

最後の山を越え太陽の門からゴールのマチュピチュを眼下に眺めた時は感動した。夕陽に照らされ周囲の山に囲まれているマチュピチュは神秘的だ。いくつかの遺跡・要塞を通過したが規模の大きさにはマチュピチュに入ってあらためて感じた。写真には撮ったが写ったかな?

トレイルは世界遺産保護のため入場数が制限され人を見かけることは少なかったが、、マチュピチュ遺跡に入ると5時過ぎても観光客で賑わっていた。トップはオーストラリア人のペアで6:15位、私は11:58長い長いインカトレイルだ。夕陽が後ろの山に沈む前にゴールしたが寒さも朝の一ツ時だけで暖かい好天気に恵まれた一日だった。

マチュピチュの街に2泊し有名な高原列車に乗りバスを乗り継ぎクスコに戻った。この列車は車中でファッションショーや仮装の民族踊りありと軽食つきで窓外の景色とともに我々を飽きさせない。

高原列車  セスナ6人乗り 大丈夫かな?

ナスカの地上絵

帰りにナスカの地上絵を見た。長距離バスで移動、ナスカで一泊し翌日セスナで30分弱、幾何学模様や直線で描かれた動物や植物の絵はなぞの多い不思議な思いをさせてくれた。

誰が何のために描いたか?いつ頃描いたか?長い年月どうして消えないのか?

ペルーのこと

面積は日本の約3倍、人口は約1/4以下だが雨量が年間3_以下と少なくハイウエイを何時間走っても砂漠だ。しかし、背後にはアンデスの6000m級の山々が聳え、その裏にはアマゾンの源流の熱帯雨林があり動植物の種類は世界一と言う。この旅行ではペルーの僅か一部しか見てないが物価は安く住みやすいようで興味ある国だ。何と言っても祖先は同じ民族なのだ。                           

  

藤森前大統領のこと

現地ガイド数人に聞いたが現地のインカ人には評判がいい。@彼は頻発したテロを徹底的に排除して治安がよくし、財政再建に力を入れ外国企業の進出が盛んとなり雇用が増えた。A学校制度を改革し小中学校を義務教育化、国民全員が平等に教育を受けられるようになった。B道路を整備し国内の交通と物資の流通事情が良くなった。

しかし、三選禁止の憲法を改正して2期政権を3期に延長したため政敵の攻撃厳しく、取り巻き連中の悪事が続出しいまや本人は禁固刑である。2011年大統領選挙があり次女のKEIKO上院議員が出馬する予定でハイウエイ際に広告が多く散見された。日本と同じで長期政権は周囲が腐敗していきよくないという。

高山病と飲料水のこと

高山病対策として薬ダイアモックスを持参2日前から1錠のんだ。現地では飴と砂糖入りのコカ茶をとった。飲料水はペットボトルを利用したがシャワーやうがい、口漱ぎにも絶対に水道水はつかえない。しかし、ラン中のエイドで飲んだスポーツドリンクに私は下痢にあたった。

現地スタッフは粉末を谷川の清水を使っていたのだ。くれぐれも水には要注意だ。


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